第九十九段
【本文】
むかし、右近の馬場のひをりの日、向かひに立てたりける車に、女の顔の下簾よりほのかに見えければ、中将なりける男の、詠みてやりける
みずもあらず 見もせぬ人の 恋しくは あやなくけふや ながめくらさむ
返し、
知る知らぬ 何かあやなく わきて言はむ 思ひのみこそ しるべなりけり
後は誰と知りにけり。
【注】
〇右近の馬場=右近衛府の管理する馬場。京都の北野天満宮の南、一条大宮にあったという。種々の行事が催された。
〇ひをり=引折。陰暦五月五日に左近衛府の舎人、同六日に右近衛府の舎人が騎馬で試射すること。
〇向かひ=馬場をはさんで反対側。『徒然草』第四十一段「むかひなる楝の木」。
〇車=牛車。牛に引かせる乗り物。平安時代に特に盛んに使用され、ふつうは四人乗りで、向き合って座る。前方右側が最上席。乗るときは榻を踏み台にして後ろから乗り、降りるときには牛を外して前から降りる。乗る人の資格や用途によって唐庇・雨眉・檳榔毛・檳榔庇・糸毛・半蔀・網代・八葉・金作などいろいろの種類があった。
〇下簾=内側が見えないように牛車の簾の内側に掛けて、下に垂らす細長い布。
〇中将なりける男=近衛府の次官。四位相当。官位が三位で中将の職にある者を特に三位の中将という。在原業平は右近衛の権中将だった。
〇あやなし=区別をする。
〇しるべ=導き。手引き。
【訳】
むかし、右近の馬場の引折の日、馬場を挟んで向かい側にとめてあった車に、女の顔が下簾からぼんやりと見えたので、中将だった男が、詠んで送った歌、
見たことがないわけでもないような、だからといってはっきり見たことがあるというわけでもない人が恋しいので不条理にも今日は物思いに沈んで一日を過ごすことになるのだろか。
その歌に対する返事の歌、
私を知っているとか知らないとか、なぜそんな無意味な区別をつけて言うのかしら。愛情だけが人に逢わせる導きなのになあ。
男は、あとで、この車の女性が誰だかわかったとさ。