椿荘日記

椿荘日記

病院の廊下にて思うこと



今日は実家の父(パーキンソン病です)を、七沢温泉の神奈川リハビリテーション病院に定期検診の為、連れて行きました。

昨年の暮れ近くに、どうやら脳梗塞の発作を起したらしい父は、その後は再び足元が覚束なく、呂律が廻らなくなるなど喋りにくそうですが、概ね元気で、ほっとしています。
うつ病を心配した母も、取り合えず処方してもらった抗うつ剤を服用していて「(効果があったか)わからないわ」と言っていますが、表情は幾分明るいので気にしつつも、余り心配しているそぶりは見せないようにと思いました。

待合室で待っていると、様々な年齢の、様々な容態の患者さん達が目の前を通りすぎて行きます。
お年寄り、お若い方、小さいお子さんなど、車椅子に乗って、家族に付き添われて行く姿を、やはり父も目で追っていて、ふと何を思っているのかしらと考えてしまいました。
三十分ほど待って父の名が呼ばれ、マリはそのまま待合室で待ち、診察が終わって出て来た母の言うには、精密検査がこの後あるので先に帰って頂戴とのこと。
「大丈夫。タクシーで帰るから」の母の言葉に後ろ髪を引かれつつ(この後、アトリエに行かなくてはなりませんでしたので)車上の人となりました。

今は行くのを止めてしまった、近所の老人ホームのデイケア(どうしても嫌だというので)の、ある入所者の方のお誕生会で「カロ・ミオ・ベン」を歌ったという父の真情を思い、涙が出ました。
動作は覚束なくても、心は変らないのです。ただ、表面に現れないだけなのです。
マリの前を通りすぎた人々もきっとそうなのだと、父も思っていたのに違いありません。

身体の自由と表現を失った人達の気持ちと、言葉に出来ない思いには計り知れない悲しみと無念の思いがあるのでしょう。
それと同時に付きそう家族の方々にも同様の思いがあることも。

父の膝に抱かれ、イタリア歌謡を聞いた幼い日を思い出さずにはいられませんでした。

*2003年1月25日(金)記





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