椿荘日記

椿荘日記

その6


構内の教員用駐車場には既に書生の岳下学が運転するクラウンが俺を待っていた。今夜も俺は疲れている。まあ、何時ものことだが。どうやら俺は、疲弊すると人嫌いになるらしい。女だけではない。何処かで一人になりたい。だが家に帰り家族と夕食を認め、その後に喫煙室で寛ぎ、書斎に篭るなどとの猶予は今夜は無い。蓑浦に会いたい。
俺は蓑浦の待つ「バー・アルゴノーツ」に行かなければならないと、思いを募らせた。

再び学の運転で、ホテル・オークラに向かわせた。此処は年間契約でレジデンシャルエリアに部屋を持っている。所謂「悪所」通いの中継点だ。俺はこれから会合があるので、帰りも遅くなる、タクシーで帰るからと資料やノートパソコンが入った鞄を学に託し、上品な制服を着たレジデンシャルエリアのコンシェルジュに丁寧に迎えられ、専用エレベーターでジュニアスイートの部屋に上がった。この部屋は、三嶽の男でも祖父と父、そして俺しか知らない。祖父は高齢で、父も今は、母、藤子の悋気に嫌気が差し、病院経営に奔走している事もあってすっかり用が無くなっている。勿論他人を引き入れる訳も無く、悪所、つまり俺にとっては「男達」に会う際、此処で別人になる場所という訳だ。別に変装する訳ではない。大学で印象を変える為の素通しの眼鏡を外し、この部屋で少し髪型を変えるだけだ。ドレッシングルームで、猪木寛治がアントニオ猪木になる事と一緒かもしれない。日頃は上品で美男子の准教授で通っている俺も一皮剥けば只の男で、欲望を満たす為に向かう先は新宿二丁目ではなく、隣の新宿御苑だ。バー・アルゴノーツは所謂ホモバーではあるが、と言っても下品な売り専バーとは違い一種の会員制クラブだ。マスターは箕浦という男で、この男の存在自体が、実は三嶽の本家の秘密、闇の象徴ともいえる。
街のイルミネーションを目に眩しく映しながら、暫く放心しているとタクシーがとあるビルの前で停車した。外見は在り来たりの八階建ての商業ビルで、一階はテナントが入っている。二階から上は蓑浦興産のオフィスで、業務内容は主に外食産業と派遣業だ。受付の女とは当然顔見知りで「いつもお世話になっております。社長でございますね。」と俺を社長室に案内し「お待ち下さい」と珈琲を置いて姿を消した。俺はカップに少しだけ口を着け、電子キーを取り出し、倉庫らしい扉に差し込むと、そこにはエレベーターが現れ最上階に向かう。エレベーターの扉が開くとエントランスホールがあり、正面に見える凝った彫刻を施した樫材の大きな両開きの扉に、「Bar・Argonauts」と書かれた細い真鍮の看板が見える。真鍮のグリフィン像が扉のレバーになっていて、傾けながら重い扉の片側をゆっくり押し開くと、そこは十席程のスツールが並ぶ広いバーカウンター、クイーンアン様式のアームチェアとソファのボックス席が三つほどある、小体なホテルのバーラウンジといった風だ。落とした暖色系の照明の中に客の姿はまだない。カウンターでグラスを磨いているウイングカラーに蝶ネクタイ、黒のジレに身を包んだ、髪にうっすらと白いものの混じった男が顔を上げ、グラスをカウンターに戻すと俺に向き直り「お帰りなさいませ。光彦さん。」と少し親しみを滲ませて慇懃に頭を下げた。この店のマスター、いや表向きは蓑浦興産の代表取締役だが、蓑浦道雄は俺の影の執事、俺を何よりも知る人物である。
蓑浦道雄は、三嶽の本家に代々仕えるやはり分家の出だが、岳下の家との違いは、蓑浦の家は代々の長男にのみ仕える。つまり跡取りだけに許された特権という訳だ。
蓑浦の家の男は子供の頃から本家に対する忠誠心を叩き込まれ、守秘義務は当然の事、主人の命令には何でも従うという、鉄壁の執事の家系なのだ。過去には、都合の悪い人物を闇に葬ることもあったと聞いたことがあるが、いったん主人と定めれば、親にさえその秘密を決して漏らすことはなく、勿論その逆も有り得ない。

俺が蓑浦道雄に会ったのはごく小さい頃で、その時蓑浦はまだ二十代、その父親と共に山王の屋敷において父雅彦に仕える、まだ見習いといったところだ。当然執事であるから屋敷での仕事が主で、若くして万能、有能で当然父の信任も厚く、俺もよく面倒を見て貰っていた。蓑浦が何故こんなところで、影の存在となってしまったかというと、俺が世間や他人に知られてはいけない嗜好を持つ、同性愛者であるということだ。蓑浦が俺に仕えるようになったのは、俺が大学院を卒業し、研修医として東大病院に勤め始めた頃で、父は、お前も社会に出ることになり、そろそろ必要だろうと、蓑浦道雄を俺の執事として与えてくれたのだ。その夜俺は初めて蓑浦に、自分が性的倒錯者、つまり同性愛者だと告げると、蓑浦は「よくお話し下さいました。それはこの蓑浦への信頼の証でございます。歴代の旦那様方にも幾足りかその様なお方がいらっしゃったそうでございます。この蓑浦にお任せ下さい。」と俺の手を力強く握って約束してくれた。その時蓑浦は四十を幾らか過ぎた頃だ。

この店、会員制クラブ「アルゴノーツ」の入会に際しては保証金五百万円と身分証明書の提示が当然義務であるが、最大の資格、会員つまり客は皆、社会的地位、または知名度と名誉を持つ同性愛者であるが「失ってはならぬもの」を持つ不自由で同じ様な立場の人物、ということだ。勿論それ故互いに名乗りあうことは無いが、皆何処かしらで互いの顔を見た記憶があり、それ故密告ということに自ずと抑止力が働く、暗黙の了解の世界なのだ。勿論、自ら楽園を手放すなどの暴挙は到底考えられる筈も無い。同伴者については自由だが、その責務は会員が負うという、かなり厳しいものであるが、当然だ。
元来日本に措いて男色、つまり同性愛は江戸時代までは武士の嗜み、庶民の楽しみ、目くじらを立てて非難するどころか、恥ずべき隠すべき習俗では無かった。しかし維新後、教義上本格的に同性愛を忌み嫌い非難するキリスト教が緩やかに広まり、脱亜入欧ということでキリスト教を国教とする欧米に習い、男色を忌むべき慣習として貶め封じ込めてしまったのだ。俺は思う。維新までの日本こそ、俺の憧憬の世界、古代ギリシャでは無かったか、と。慎ましく家を支える武家公家の妻女、粋を仕込まれ芸達者で床上手な遊女、大らかな市井の女達。風流を愛し歌舞音曲に心を躍らせ、美術工芸を尊び、詩歌や文学に才能を発揮した日本の男達は、陰間茶屋で紅顔の美少年を愛で、吉原の傾城の美女にも思いを寄せる。
キリスト教の影響下にある欧米の同性愛の男達は、自身が罪に手を汚しているとの後ろめたい思いからこそ、その秘密保持には並々ならないものがある。殆ど秘密結社と呼ぶべきもので、英のオクスフォード大学に留学中、俺の所属した研究室の担当教授は、クリストファー・G・リード教授といって分子生物学の権威だが、俺と同類つまり同好の士であって、彼が主催する社交クラブ「グリフィンクラブ」はホモ・セクシュアルの為の会員制クラブだった。メンバーはオクスフォードにカントリーハウスを持つ貴族、郷士などの紳士階級、高名な学者、裕福な名家の子弟、大学の限られた卒業生などで、郊外の豪壮なマナーハウスにクラブを構え、厳しい入会審査と、会員以外は決して入ることの許されない「棟」があって、フリーメイソンの秘儀が行われているのではないかと噂が立ったことがあるが、寧ろ好都合で、我々のような者には楽園だった。
元々英国の社交クラブは、女性の入会、出入りを厳然と拒否していたが、昔からその仕来りを隠れ蓑にして、その様なクラブは長きに渡って存続してきた。現在の社交クラブは時の趨勢に押され、かなりの名門クラブが忌むべき女達に門戸を開いたが、今も幾つかが入会を頑なに断っており、その中の一つがリード教授の名門「グリフィンクラブ」なのだ。
リード教授は金髪碧眼にすらりとした長身、当時年齢は四十代半ばのかなりの美男子で、マルボロ公爵家出身の母と代々著名な学者を輩出する名家の父を持つ、大学でも知らない者はいない存在だった。俺は外国人で、当然入会資格は無かったが、主催者であるリード教授の特別な計らいにより認められたのだ。俺は日本人だが美男子で聡明なので、リード教授のお気に入りで、彼の恋人だった。勿論、彼には妻子がいたが、メンバーの殆どが妻帯者なのは、英に措いて別に珍しいことではない。俺に惚れ込んだ教授は当然メンバーに紹介したがり、上品で若く美しい俺は直ぐに気難しいクラブのメンバーの人気者になったのだ。バー・アルゴノーツの扉の真鍮のレバーは、若き俺を愛してくれたリード教授とメンバーへのオマージュと「クラブ」の象徴、そしてこの「アルゴノーツ」は俺の為に、蓑浦が作り上げた「クラブ」なのだ。

カウンターに座り、マティーニを頼むと、見事な手付きでシェイカーを振り、素早くグラスの縁ぴったりに美しい液体を注ぎ、すらりとした指で目の前に滑らす。三嶽の家の者は殆どが容姿端麗だが、岳下や蓑浦など分家出身者も、親族内での婚姻が多い所為か皆容姿に優れた者が多く、蓑浦自身も一般人に紛れると明らかに美男子といってもいい。
今ではすっかり中年の域だが相変わらず容姿は衰えず、誘われたりしないのかと悪戯で水を向けると困惑したように「恥ずかしながら、間々ございます。」と控えめに答える。この店では俺は一般客の扱いだが、それは蓑浦の配慮で、万が一のアクシデントがあった場合、自分自身がオーナーとして一切の汚名と責任を負うためだと蓑浦にいわれた時程、俺は胸が熱くなったことはない。カウンターの背面を覆う、大型のキャビネット脇の小さい潜り戸が開き、二十代の若い男が顔を出し、俺に気が付いて可愛らしく微笑むと頭を下げた。初対面の筈だがその顔の面影に俺は内心はっとした。蓑浦道雄の次男だ。依然会った時は確か中学生だったと覚えるが、そうかあの子供も長じて「執事」として生きることを選んだのだ。蓑浦の家では、必ず一名以上の男子を執事として本家に差し向けるのが仕来りで、既に長男が執事として、新宿のマンションで父に仕えている。蓑浦のことだ、俺と共に英米に渡航する際、長い間家を空ける事になったのにも関わらず、男子への教育に怠りは無かったのだ。三嶽の家では分家の女達の働きも大事だが、陰日向無く全てを支えるのはやはり分家の男達だ。父親に促され、恭しい態度で俺に向かい「お久し振りです。蓑浦道雄の次男、真人です。今は父に習い修行中です。光彦さん、ご指導よろしくお願いいたします」と、深々と頭を下げる。真剣な様子が初々しい。俺は満足と同意を表す為、無言で蓑浦に頷くと、蓑浦は息子に合図し、真人は扉の脇の定位置に付いた。地下駐車場の専用エレベーターの防犯カメラに人影が映ったのだ。蓑浦は俺に如何致しましょうと、映像を見せる。俺がいる時は、必ず確認させ都合が悪ければ入店出来ないようになっている。俺はその映像を見て驚いた。助手の一人である諸戸ではないか。真面目な男で、無論優秀ではあるが、不要な事は一切言わず、黙々と実験やデータ解析に打ち込む、俺のお気に入りの桜園とは違うタイプではあるがやはり美青年で、大人しい印象の所為か、余り女にも男にも人気があるという感じではなかった。俺は少し考え、直ぐに許可を出した。蓑浦が手元の操作で暗証番号を入力するキーボードのカバーを外すと、数分して諸戸が店の入り口に姿を現した。少し緊張している様子で、薄暗い照明の中に俺がいるとまだ気が付いていない。真人にカウンターへと案内され、落ち着かない様子でスツールに腰掛けギネスを頼んだ。今日は眼鏡を掛けていない所為か印象が違う。髪も七三分けでなく、ふわりと軽く撫で付け、ジャケットも趣味の良いツイードだ。俺は既にある事を考えていた。
供されたギネスのグラスに口を着け、何気なく先客である俺の方を見て、あっと驚き、暫く呆然としていた。「やあ諸戸くん、奇遇だね。どうしたの、そんなに以外かい?」諸戸は顔を紅潮させ「いえ、そんな・・。ええと、僕は高校時代の友人に連れてこられて、いい雰囲気のお店なので今度は一人で来て見ようと・・。あ、あの先生はこちらの会員なんですか?」としどろもどろに答えた。「ああ、そうだよ。マスターと古い知り合いでね。此処は会員制で、各界の名士しか利用出来ないから、落ち着くんだ。折角だから一緒に飲もう。」と促すと諸戸は恐縮しながらも俺の隣に移ってきた。俺は、諸戸の考えていることが手に取るように分かる。きっと混乱しているだろう。尊敬する気品に満ちた美男子の准教授がまさか・・、いや、只飲みに来ているだけかもしれない。いわば直属の上司で、いやそうじゃなくて、先生は同性愛者なのか、などと。緊張した面持ちでギネスを飲む諸戸に、俺は煙草を咥えつつ「ここは静かでいいんだ。女性がいないし、落ち着く。僕は女性が嫌いではないがあの嬌声にはうんざりするんだ。特に仕事で疲れたあとなどはね」と火を点けながら優しく話し掛けた。俺の言葉に弾かれるように諸戸が答えた。「僕も・・、駄目なんです。声もですが、女性と話すのが苦手で・・。ずっと男子校でしたし、どうも付き合い方が分からなくて・・。一人か二人、食事だけですがデートしたことがあるんですが、話が合わないというか・・。大体がおいしいレストランとか洋服とか、タレントの話とか、そんなことばかりで、一緒にいて面白くありませんでした。」明らかに少しばかりほっとしたようだ。人間というものは、信じられないと思いながらも信じたい方向を指し示されると喜んで食いつくものだ。と、また、カウンターの内部に来客の知らせが届いた。俺を窺う蓑浦に諸戸には分からないように合図を送る。扉を押し開け入って来たのは政権与党の有名代議士MとアイドルタレントのNだ。目を丸くする諸戸の肘を軽く触り、目を背けさせることに成功した俺はすかさずダルモアのオールドボトルのロックを頼み、諸戸にも勧めた。諸戸は、自分が此処にいることと、此処に来ている客との因果関係を懸念し、明らかに動揺していた。隅のボックスに陣取った代議士MとアイドルタレントNは、小声であるが明らかにいちゃついていて、その雰囲気が諸戸を益々狼狽させているようだ。俺は声を潜ませ言った「ここは、様々な目的で使用される一般の店とは変わることはないよ。只それが限定された会員制で、女性の入店を阻んでいるということで、それぞれの使用理由があるというだけだ。だから、君分かるよね。此処で見聞きしたことを決して口外しないということを。・・ふふ、何よりも僕が困るんだ。誰にも煩わされず、ひっそりと過ごせる、此処が唯一の場なのだから。」諸戸が慌てるように続けた。「そうですよね。先生は大変というか、いつも人に囲まれて大変だと思っています。勿論先生にはその理由というか、素晴らしいですし、皆の憧れというか、でもたまには放っておいて欲しい時もありますよね。・・僕わかります。」そして続けた。「僕は、なんていうか、ずっと先生に憧れていて、先生の下で勉強が出来ればと思って、大学に入ったんです。でも、いつも先生は先輩やいろんな人に囲まれていて、中々話しかけることが出来なくて・・あ、それが不満とか言うのじゃなくて、だから嬉しいです。夢みたいです。先生の隣でこうやってお話できるなんて。僕は、此処に来て良かった。ほんとは門前払いだろうなと思ってだめもとできたんです。高校時代のともだちで開業医のむすこがいて、ひさしぶりに飲んでたら、いいところがあるからいこうって、それできたんですが、なんかしりあいらしい、ひとがきて、・・ぼくのこと、おいていなくなっちゃたんですよ。で、かんじょうとかどうしおうかとおもったら、ますたーがだいじょうぶですよっていってくれて・・。でもやっぱりいけないかなとおもって、でもそのともだちが、きみひとりじゃはいれないよって・・。」大分酔ってきたようだ。俺は蓑浦に水を頼んで諸戸に飲ませた。少しして正気に戻ったらしく「先生すみません。大丈夫です。ぼくあんまりお酒つよくないみたいで・・」としおらしく頭を下げるのを俺は宥めて「いいんだよ。大丈夫、気にするな。そう、此処が気に入ったなら、これからも来るといい。僕も君と親しく話せるし。そう、何よりも今此処にいるということは、君はマスターのお気に入りということだから大丈夫だよ、ね、マスター?」と蓑浦に意味深長な笑顔を向けると、蓑浦は困ったように仕方なく微笑み(俺は蓑浦の、この困った表情が何よりも好きなのだ)、諸戸は酔った頭であるが故にいわれた言葉の意味が飲み込めないながらも「マスター、これからもよろしくお願いします。」とぺこりとまた頭を下げた。

俺は蓑浦に連絡し、今夜は店を閉め一人で待っていてくれと頼んだ。遅い時間なので地下駐車場から上がる。俺がグリフィンのレバーを握り押し開けると、蓑浦が一人、カウンターの中で待っていた。「お帰りなさいませ。光彦さん。」俺は、その言葉を聞くなり、力が抜けたように、スツールに腰掛けた。蓑浦が俺の愛飲のエヴァン・ウイリアムスを黙って差し出す。俺はグラスを握り一口飲んだ。そして蓑浦に「ねえ、蓑浦。俺はお前といる時が、一番楽なんだ。」と独り言のように話しかけると「光彦さんは、全て一人で背負い込もうとなされる傾向がおありです。勿論それが出来る方ですから、ご自身も周りの方々もついそのつもりで、いつの間にか容赦なくなってしまうのでしょう。」と、氷を削りながら視線を落としたまま答えた。俺はあの蓑浦の表情が見たくていった「蓑浦、俺はお前が一番好きだよ。」と。蓑浦は、例の困った表情で微笑んだ。

© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: