椿荘日記

椿荘日記

魔の山~完結




お膝元のシャモニー(フランス領)に到着、トレッキング姿のハイカーに混じり、殆ど平服(私はヒールの靴を、父は夏外套である)の我々は異彩を放っているが、お構いなしにケーブルカーに乗りこむ。
頂上を目指し、黙々と上っていく観光客を満載した車両は、途中、晴天、曇天、小雪、猛吹雪を何度も繰り返し通過して、着々と高度を上げていくのだが、真夏に到着し、数日の夏らしい気候を楽しんだ直後、豪雪に見まわれた平地の人物、「ハンス・カストルプ」の驚きはこのようなものだったろうか。

当時健康(?)だったはずの私の心臓が怪しいそぶりを見せ始めた。胃弱のわりには乗り物に強いので、「酔い」とは考えられず、取り合えず終点まで我慢することにした。
頂上までの道程は延々と長い。引き摺り上げられているのか、下ろされているのか一瞬の倒錯感に襲われ、吐き気がした。息子と夫は無邪気に刻々と変り行く風景に、他の観客と共に歓声を上げている。日頃は無口で冷静な父も、奇観に目を見張って、二言三言話しかけてくる。

既にエゾ松、這い松などの低木はなくなって、殆どが雪の白と岩の灰青色の世界、カウベルが鳴り響き人間が存在し得る「緑の荒野」(マーラー歌曲集「少年の不思議な角笛」より)を過ぎて、氷に閉ざされ、生あるものは誰一人として存在しないあの世、ダンテがヴェルギリウスに導かれ訪れる地獄の、凍り漬けとなった悪魔を足下に踏む「神曲」のリンボの世界だ。マンが「魔の山」を描いた時代と、今のこの姿とそうは変らないだろう。
あの特異な魔世界はこの風土あってのものだと確信したが、愈愈、気分は悪くなる一方で、仕方無しにドアに寄りかかり、夫に助けを求める。

夫に支えられながら幾分朦朧としてきた意識の中で、あの悪魔的な第九番の3楽章「ロンド・ブルレスケ」が鳴り響く。諧謔味に溢れ、冷笑的でさえある、諦観と反逆が半ば分裂的に絡み合い、跳ね飛ぶあの凄絶な楽章である。
手足は冷たく、しかし芯に熱があるようで、心臓は早鐘のように打ち、「肉体の眼ざましい運転」という作中の一節が浮かび、思わず噴出しそうになってしまった。心は有頂天でも、体は死(?)の恐怖に晒されているというのに。
この魔の地で二人の芸術家が何を観、何を感じたのか朧げに判ったような気がした。

終点のカフェ。気分は最悪である。冷や汗で背中が冷たい。
窓の外を見やれば猛吹雪だ。ほんの十分前は晴天だったのだが。
通常なら勧められるまでもなく頂くビールを断り、ハーブテイーを口にするが、呼吸は楽にならず、胸を絞られる様だった。
元気の良い夫と息子は、もっと上に行くといってエレベーターに向かった。
相変わらずの胸苦しさに胸を片手で押さえ、肩で呼吸をしていると、様子を察した父が黙ってニトロを差し出す。暗黙のうちに了解した私は、舌の下で溶かしじっとすること数分、劇的な変化が表れる。九死に一生を得た思いで父の顔を見ると、安心したかのように頷いていた。
何時の間にか吹雪も止み、再び青空が広がっていた。この世のものとは思われぬ、希薄な空気を示す濃い青を背景に、真っ白に凍りついた魔の山々が見えた。

*マーラーは、ベートーベンとブルックナーのジンクスを恐れ、本来なら第九番といえる作品を「大地の歌」としその名を避け、この1909年にかの地で作られたこの作品を、「死神を出しぬいた」として第九番と呼んだが、奇しくも翌年に着手した第十の1楽章にあたる「アダージョ」と断片を残して、心膜炎と感染症の為ウイ―ンで亡くなっている。
一方トーマス・マンもほぼ10年の長きに渡り書き続けた大長編「魔の山」の後、台頭するファシズムに抵抗しつつも、ナチスが政権を掌握後に亡命、その後も旺盛な活動を続けるが、1955年脚部大動脈の石灰沈着によりスイスで生涯を閉じた。

*文中の引用文は岩波文庫「魔の山」(関泰祐・望月市恵共訳)によるものです。




© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: