椿荘日記

椿荘日記

お仕事とマリ


マリに絵の才能があると信じた両親は、亡くなった洋画の先生の存在もあり、格別仕事をしなくてもよいから、教養を身につけ、絵の修行(詳細は日記「もう一人の先生」参照)に励みなさいと、家事以外は(そうです。本当の家事手伝いなのでした)免除してくれました。
つまり両親は「絵を続けさせてくれる、理解ある立派な男性と縁付いて欲しい」と思っていたのでした。その時マリより先に社会人となっていた姉は、コンピューターのソフト会社で着々とキャリアを積んでいました。

~両親の方針~

マリと姉は性格も、得意分野もちょうど左右に分かれた格好でまるで違い、それは幼いころから顕著だったそうです。
二人とも音楽(ピアノと声楽の初歩)と絵を習っていまして、マリは耳で覚えた旋律をピアノで再現するのが得意でしたが、姉は初見で弾くのが得意と言う風に、同じ分野でも表れ方が全く違うのでした。
性格も、マリは気ままで、思いつくまま行動し、姉は几帳面で計画性あり、といったようにはっきりと分かれ、それゆえ母は「育てるのが楽しみ」だったそうですが、いわゆる何でも卒無くこなす優等生型の姉と、好悪がはっきりし、物事に当たって万事ムラのあるマリの処遇はもうすでに出来上がっていたのでした。
そしてそれは、マリのトラブルの多かった学生時代を経て、家族の確信となったのです。
両親、特に父は、社会人としてはおよそ心もとない末娘は、何か職業を身につけさせるより、お稽古事をさせ(要するに花嫁修行ですね~苦笑)信頼できる男性に後を任せたかった(?)らしいのです。
余程心配だったのでしょう(過保護の一言なのですが)。
しかし本人はそんなことより、「家事」といっても好きなお料理を作り(姉のダイエット弁当まで作っていました)好きな勉強をし(お茶と乗馬とコーラスをしていました)、絵を描いて暮せる幸せで頭が一杯でした。アルバイトは、差し迫った理由からではなく、内容に興味を引かれたり、旅行など流石に両親に頼りきれない資金調達の必要がある時に行いました。といっても、本就職に全く縁が無かったわけではありません。

特に、20代の初期の方で縁があったアンテイ―ク店(表参道にありました)は大好きなアール・ヌーボウの本物の作品(ガレ、ドーム、ルソー、ワルター、ラリックなど枚挙の暇が無い程です)に毎日触れるなど、多いに薫陶を受け、得るものも多く、オーナーを始めお客様も素晴らしい方ばかりで、まだまだ子供だったマリには、目の眩むような世界でした。そろそろ正社員に(始めのころにそういったお話しもありましたが、まだ自信がなかったので)と思いはじめた頃、生憎事業縮小となり、縁が無くなってしまいました(アルバイトですから仕方ありませんね。でもそのお店は現在も健在です。嬉しいです)。1年と7ヶ月の結構長期にわたるご奉公でした。

その他はインドなどアジアの民芸雑貨(ここもオーナーが直接買い付けに行っていました。素晴らしい工芸品もあり、「社員販売で」お給料が半分になってしまったことも~苦笑)を扱うお店や、銀座にあるウィンドウディスプレイで知られた老舗の洋品店(?!)など、物品販売ばかりでした(そう、両親の方針の為~笑~事務は全く駄目でしたので)。

冒頭で触れましたように、マリには一度だけ例外があるのです。それは、「楽天」の女性の利用者でしたら誰でもご存知の、イタリアのデザイナーズブランドのお店でした。お給料もよく、福利厚生も充実し、イタリア研修旅行もあるとあって人気も高かったらしく、知らずに入社した後、先輩方から凄い競争率だったと聞いて、その時仲良しだった同期のお友達と顔を見合わせたことがあります。
。いくらそこのブランドが好きでも、販売の経験だけで服飾の知識の殆どないマリを採用するとは(同時に採用された新人の女性はマリを含めて5人で、一人だけ某服飾学院出身、残りは所謂お嬢様学校の出身でした)今でも不思議です。

好条件と環境の良さに引かれての就職でしたが、いざ始めてみるとまるで違いました。
強面で恐れられていたやり手の店長(女性です)は、副店長(男性です)の事前の脅かしに反して優しい人で(仕事には厳しいですが)、新人の私達に何くれと気を使ってくれました。が、くだんの親切にも「忠告」してくれた副店長の方が、マリにとって問題となったのでした。
一言で言うと「価値観」の違いでしょうか。
お手洗いのお掃除一つとってもことごとくぶつかるに至っては、最後はもうお仕事どころではなく、同じく悩まされていた同期の女性達が、一人また一人とやめていく姿を、呆然と見送っていたマリも、やがて神経科に通うことを余儀なくされ、店長の嘆きには心を揺さぶられましたが、精神の健康には敵わず、目前に迫ったボーナスも、イタリアも、魅惑の社員販売もかなぐり捨てて退却しました。
三ヶ月のご奉公でした

さて、アルバイトの話しが長くなりましたが、肝心の「お相手」についてですね(笑)。
やはりどこの親御さんもそうでしょうが、娘を「良い男性」に嫁がせる、としたら第一に、紹介者を立てて「お見合い」と言うことになりますね。マリはそれだけは拒否しました(姉は、お見合いでした。忙しくて探す暇がないなどと、殿方のような理由ですね~笑)。
その代わり、これと思った男性は必ず連れてくるように言われ、承諾したマリは、以降知り合ったボーイフレンドは漏れなく(皆一緒、ではないです)家の夕食に招くことに。両親の前で緊張しきった彼等の表情を思い出すたび、申し訳無かったかしらと今も思います。
結局その中の一人の青年を、父が気に入り(当時、某国立大学の法学部に在籍していました)、最終的にはその方と婚約しましたが、その青年とは今の夫ではありません(ことの詳細は機会がありましたらいずれ~苦笑)。


~親不孝と独立~

生まれて以来(?)、自分に対する両親(及び姉)の一連の行動に全く疑問を抱かなかったわけではないマリは、煩悶しつつも、ある時思うことあって「婚約破棄」という、最大の裏切り行為(?!)に出て、家族を大いに嘆かせ、思惑から外れ始めたことにより、過干渉気味の掻い込もうとする腕から、少しずつ離れ始めました(匙を投げられ始めたのです)。

やはり自立の道は経済からだと本気で就職を考えた時、キャリアも技能もないマリに、残された道は販売か、資格のいらないサービス業しかありません。絵で生計をたてることもとうに諦めていましたし。
勿論一人暮しなど出来ませんが(これだけは許可してもらえませんでした)、兎に角、自分の事を少しづつ考え始めたのです。
何故親任せだったのか、何を恐れていたのか、何がしたいのかそして何が自分に出来るのか。「自立」、「独立」とはどういうことなのか。

技能も、経験らしいものもない、その絶望的な自分の状況で、残されていたのは「接客」で収入を得ることだけでした。販売に従事していた時分、誉められたものに「態度と言葉遣い」がありました。
そのことが収入につながるのなら、と思い、ある事務所の扉を叩き、めでたく「コンパニオン」として採用されたのでした。当然両親は難色を示しましたが、マリは押し切りました。

それからのマリは、コンパニオンとして、ホテルのラウンジに、パーティに、イベント会場に派遣されることになりました。
ある意味ではお客様と一対一ですから、迅速でしかも的確な判断が要求され、庇ってくれる家族も、優しいオーナーも、理解ある店長もいず、自分のことは自分で守り、行動するという当たり前のことで悩み考え、少しずつ変化(成長?)していったようです。
悩みながらも、充実した日々が続き、良き友人も得(彼女はそう行った意味では同じような境遇でした)お仕事の毎日は続きました。
そして、ずっと自分に投げ掛けていた問いかけに答えを出す前、ある事情で(ご想像にお任せするとして)突如、結婚することになりました。それが今の夫です。
同時に、コンパニオンのお仕事もお終いになりました。
丸二年のご奉公でした。

~「イギリス生活」~

身内だけの簡素なお式の後、夫の両親の計らいで、当面は実家の二階に住まわせてもらうこととなり、マリの半年前に嫁いだ姉(長女、長男の結婚らしく、お式は盛大でした)の使っていた部屋など占拠して、やはり何処かまだ過保護気味の結婚生活が始まり、子供も生まれました。
夫もマリも我侭で(夫とは年が結構離れているにも関わらず)、四六時中喧嘩をして、階下の両親をはらはらさせていましたが、兎も角、生まれて間もない息子と、結婚して間もない夫の世話を、見よう見真似で行う日々でした。

そんな生活の続くある日、夫に「行くのなら、アメリカ、イギリス、どっちがいい?」と聞かれ、アメリカに偏見の強いマリは即座に「イギリス」と答え、それがそのまま事実になってしまいました。「イギリス赴任」の実現の瞬間でした(本当です)。

話しが合った日から半年後、乳飲み子を抱え、先にイギリス入りをしていた夫に迎えられ、時差と最後の荷物の発送でふらふらになっていたマリを待っていたのはがらんどうの家でした(「イギリス滞在記」に詳細が描いてあります)。
夫はある研究機関に、勤めていた企業から赴任ということなのですが、腰を落ち着けて生活したいのと、何年になるか分からないということから家を購入しました。

それからのマリの生活は、ゼロ歳の息子の世話、なれない職場(夫ともう一人を除けば他は現地人です)の人間関係でイライラする夫、空っぽの家、草ぼうぼうの庭、何を言っているか分からない近隣の人々、何処で何を買っていいか判らない買い物、いくら探しても見当たらないクリーニング店など、皆初めてでしかも誰にも相談できない問題を一気に抱えることとなりました。

~サバイバル主婦修行~

嘆いていても始まりません。兎に角、一つ一つ難問をつぶしていく為、「傾向と対策ノート」を作り、問題点や解決策をそこで練るのが、毎日の就寝儀式となりました。
夫との苛烈極まる喧嘩や相克の合間には、絶望してスーツケースに荷物を詰めこみ、半分詰めた辺りで思いなおしては片付けるということも繰り返しました。
まだ赤ん坊の息子を抱いて、高い空を行く国際便を見上げては、どれほど帰りたいと思ったかもしれません。甘ったれで過保護の子供のようだったマリの、一番の試練の時代だったと思います。

一二年と苦しい時は続きましたが、次第に努力の結果が現れるようになりました。這っていた赤ん坊だった息子は歩き始め、幼児英語と片言の日本語を話し、ナーサリイ(保育園と幼稚園の中間)に笑顔で通うようになり、夫との関係も好転しました(夫の仕事上の相談相手も出来るようになっていました)。
プライベートレッスンの成果か、英語も上達し、近隣の人々との関係も上々で、外出が怖くなくなりましたし、現地調達で日本食を整え、内外のお客様を持て成すことも、イギリス(ヨーロッパ)スタイルのパーテイを催すことも覚えました。糠漬けも、紫蘇の栽培も、小出刃(義父のお餞別でした)で鯛を捌くのもお手のものです。
アンテイ―ク店にいたせいか、陶器やガラス器の目利きはある程度出来ましたので、什器を選ぶのにも迷いなく、家の中の調度(カーテンはマリの手製です)も庭もすっかり整備され、誰がいらしても臆することはありません。
何時の間にかマリは、本当の(プロの)主婦になっていました。

~帰国して(これからのお仕事)~

帰国までの三年間(マリと家族は5年間の滞在でした)は、今までの苦労と努力のご褒美のように楽しいものでした。年に何度か、他のヨーロッパ諸国(フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ギリシャなど)を旅し、日本の姉夫婦、実家の両親、義母が毎夏のように訪ねてくれば、一緒に、オペラ座の観劇、南仏に別荘を借りて滞在したりと、楽しい生活は帰る日まで続きました。義母の「○○さん(マリの本名です)じゃなければ出来なかったわね」の言葉に涙するマリは、確かに昔の心もとないマリではありません。

帰国してからは現在までは、引き続き子育てと、夫の生活面と仕事面のサポートに相変わらず従事しています。諦めていた絵は、三年前お知り合いになった日本画の先生に教えを乞うことから始まって、今は助手としての局面に、新たな可能性を見出す日々です。
昔自分に問い掛けた答えは、もう出ています。今は漠然とした恐れはありません。夫の、社会的にも意義のある仕事が成功する様にサポートし(その喜びは自分のものでもあります)。息子をきちんとした人間に育て、彼が大人になって巣立って行くのを楽しみにしています。
生活を意欲的に楽しみ、義務を果たし、親としての喜びと、家族と共にある幸せを思いつつ、こうして皆さんに日記もお見せして、でもやはり何処かまだ甘ったれなところの残る、けれど幸せな自分の毎日を感謝しつつ暮しています。マリは「主婦」である自分を誇りに思うのです。


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