「誰が最も速い馬の所有者かを証明する」試みは、実際に有史時代(の始まり)と同じくらい古いものであった。 ドバイの皇太子で、自慢のゴドルフィン(Godolphin)帝国の支配者、モハメド・ビン・ラシド・アル・マクトゥーム殿下(Sheikh Mohammed bin Rashid al Maktoum)は、この企てを世界で最も高額な賞金が交付されるスピードとスタミナを競う競走として実現するために、400万ドル(約4億4,000万円)を投じてドバイ・ワールドカップを創設し、同競走はたちまち名声を獲得した。
シガー号は歯を食いしばって、一歩一歩、しっかりとした走りぶりで、ドバイのナドアルシバ競馬場(Nad al Shiba Racecourse)の長い砂走路の最後の直線を、他馬の先着を許さずに駆け抜け、ポールソン氏とモハメド殿下に十分に報いた。 ピラミッド型のトラックを周回する2,000m(1-1/4マイル)の競走で2分3秒84というタイムで優勝したパレスミュージック(Palace Music)号のこの牡駒は、当時の最高賞金である240万ドル(2億6,400万円)の賞金を獲得した。 そして、この馬は競馬の景観を変え、ドバイの将来を形成するのに貢献した。
すぐさま、シガー号の勝利はドバイ・ワールドカップとBCクラシックとの結びつきを強めることになった。 ドバイ・ワールドカップは現在、総賞金600万ドル(約6億6,000万円)、優勝賞金360万ドル(約3億9,600万円)で、世界一の高額賞金競走であり、BCクラシックは総賞金400万ドル(約4億4,000万円)で世界第2位の高額賞金ダート競走となっている。 1995年のBCクラシック勝馬となったシガー号はドバイでその気性を発揮したばかりでなく、BCクラシックの時のように、ドバイでもソウルオブザマター(Soul of the Matter)号やエルカリエール(L’Carriere)号というアメリカ馬たちを後に従えてゴールインした。 長年施行されているダート競走の中で最も国際的な2,000m競走において、アメリカ馬の成績がヨーロッパ、日本、オーストラリアを本拠地とする競走馬に負けることはあり得なかった。
バファート調教師はキャプテンスティーヴ(Captain Steve)号で2001年のドバイ・ワールドカップにも優勝した。 キャプテンスティーヴ号はチャーチルダウンズ競馬場で施行された2000年のBCクラシックに出走し、ティズナウ(Tiznow)号、ジャイアンツコーズウェイ(Giant’s Causeway)号に続いて3着となり、アルバートザグレート(Albert the Great)号、レモンドロップキッド(Lemon Drop Kid)号、フサイチぺガサス(Fusaichi Pegasus)号に先着してその能力を示した。