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昨晩、実家から戻りました。年末に義理の叔父が亡くなった事を書きました。告別式は、ちょうど初七日にあたる1月4日でした。いろいろな事情が重なって叔母夫婦は別々に生活していたので(夫婦仲は円満でした。念のため)早朝に脳溢血で亡くなってから、連絡が取れなくなり発見するまでに1日半かかりました。それと年末年始も重なったので密葬→火葬→間をあけて告別式 という順番になったのです。ちょっとした悲劇とも言えますが何年も癌闘病した父を8月に亡くした僕から見て10月の四十九日の際もお元気だった叔父の亡くなり方が悲劇かどうか判断が難しいところです。僕も父の死ぬ瞬間は家で待機していて立ち会えなかったわけですし。消えそうに 咲きそうな 蕾が今年も僕を待ってる今もまだ掴めない あなたと描いた夢立ち止まる僕のそばで優しく開く笑顔のような 蕾を探してる 空に 蕾(つぼみ)/コブクロ (2007)実家に帰った際に、何枚か携帯で写真を撮りました。その中の1枚まだ小さく固い梅のつぼみ。しばらく写真シリーズをやります。今日とは違う、バカバカしいのもあります。
2008/01/07
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今から帰省します。だけど。義理の叔父(父の妹の旦那)が亡くなったとの連絡がありました。何ちゅう年末じゃ。そういう年齢になったんでしょうね。御本人も、それを受け止める僕も。
2007/12/31
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新年のご挨拶をご遠慮申し上げます父が八月に永眠いたしました。本年中に賜りましたご厚情を深謝申し上げます。明年も変わらぬご厚誼のほどお願い申し上げます。平成十九年十二月 宮 寿陵
2007/12/29
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All things must passAll things must pass awayAll things must passNone of life's strings can lastSo, I must be on my wayAnd face another dayNow the darkness only stays the night-timeIn the morning it will fade awayDaylight is good at arriving at the right timeIt's not always going to be this greyAll things must passAll things must pass awayAll things must passAll things must pass away All Things Must Pass / George Harrison (1970) words & music by George Harrison--------------------四十九日の法要と納骨を終え、東京に戻りました。父を亡くしてから、ずっと悲しみに浸っていたわけではなくケラケラ笑い、肉をモリモリ食べ、当たり前のように日々を送っていました。非業の死ならともかく、老いた父親が病死したって人生が劇的に変わったりはしない。 人はかならず死に 残された者の人生はかならず続くせめてブログだけでも追悼の期間にしようと思ってやっていましたがそれも終わり。アホ馬鹿ブログに戻します。リンクしていただいている皆さん。ご無沙汰いたしましたがぼちぼち訪問させていただきます。...でもこの2ヶ月ぐらい更新がストップしている方も何人かいらっしゃるんですよね。ブログの縁は かりそめの縁と分かってはいるのですが、さびしいです。さびしいですが、このブログは続けます。 人はかならず死に 残された者の人生はかならず続き その者もかならず死ぬ。いつの日か。 その後も地球はかならず回る。人類が記憶を失くすまでは。
2007/10/08
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↑「The Bourne Identity」(2002, Universal Pictures)------------------------------僕の家はかつては 庄屋→地主 だったけど戦後の農地解放で大半を取られてしまった...と先週書きました。近ごろ農水省は農業の国際競争力を高めるための経営規模拡大を目的として戦後農政の大原則だった「自作農主義」から農地所有者⇔「利用農(イメージの悪い「小作農」の言い換え)」の組み合わせを推進する方向に政策転換しようとしています。...だったら二束三文の補償金で没収した我が家の農地(正当な私有財産だよ)を返してくれないかなぁ。まあ、僕にとっては生まれるはるか前の出来事だし「お宝」的な物も何ひとつない無頓着な一族ですけど唯一、往時を想わせるのは<我が家だけのための墓地>です。農村には「入会地(いりあいち)」という共有地があるのですがその一画に我が家と新家(しんや)と呼んでいる分家だけが墓地を構えてそれぞれ何基か墓碑が並んでいました...過去形にしたのは、ここまでが昭和の話。入会地って言っても荒れるに任せてるから枝は伸びるわ草は茂るわ台風でぐちゃぐちゃになるわで管理がたいへんだったんですよね。だから分家の方は、お骨を取り出して菩提寺の納骨堂へ。(取り出したままの状態で墓石がひっくり返ってる)で、うちはコンクリート造りの<我が家専用の納骨堂>を建てちゃいました!まあ、大そうなものに聞こえるでしょうけど他に用途のない土地にコンクリートで小さいのを造ったんだから霊園に立派な石材で墓を建てるより、はるかに安い。頑丈で手入れも楽だし。こういうのは虫が知らせるというのか、これで心置きなくというのか建てたすぐ後に祖母の癌が見つかり、祖母・祖父と相次いで亡くなりました。それから十数年。最近改修して、すぐ父の死... 明日(金曜)の夜の飛行機で実家に帰り 日曜に(少し早めて)四十九日と納骨があります。小さいとはいえ専用の納骨堂だから母も含め父の代の者、そして僕らの代の者は(不謹慎だけど)いくらでも受け入れ準備が整ってます。問題は、その後なんだよね。従兄弟(いとこ)も含め、僕らの代で「宮」姓(仮名だけど)を名乗ってる者はまだ誰も子供がいないんですよね。このままだと、いずれ納骨堂から出して菩提寺に永代供養を頼まないといけないのかな。...(結婚して)僕の子を生んでくれる人、誰かいませんか?たいした奴じゃございませんがお墓の心配だけはないですよ!
2007/10/04
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がん保険のCMにも出演している鳥越俊太郎さん。2005年の秋に直腸癌で入院。人工肛門の必要もなく腹腔鏡手術が成功したようですが肺に転移が見つかり、今年1月に左肺を一部切除したようですね。うちの父はストーマー使用の「障害者」になって左肺への転移発見は4年後。5年間、転移が認められなければ完治と言われていますがそうでなかった場合イタチごっこモグラ叩きみたいな感じになるので(空中を飛んで転移するんじゃないからね。リンパ腺に癌細胞がいて体内を廻っているわけです)今後どうなることやら。父の小学校以来の親友(植木屋の跡を継ぎ、庭の設計をしてくれた)に弔辞で述べていただいたように父の人生の転換点は高校進学の時。伯父(父の兄)は鳥越俊太郎や堀江貴文の通った私立進学校の第一期生でその後大学教授になりましたがそれ以上に優秀だったそうです。当時は一斉テストをして、その結果で(県立高の場合)進学校を決めるというシステムで父は地区で一位。しかし入学したのは(こういう表現を僕はあまり好まないけど)三流高校の、しかも定時制。ちょうどその時期、母親(僕にとって祖母)が病気で寝込んでいたためです。江戸時代の庄屋の流れをくむ地主の家でしたが戦後、GHQの農地解放で大半を取られました。県立高校の教師をしていた父親(僕にとって祖父)の給料だけでは7人兄弟を養うのはたいへんでわずかに残された田畑が家計の足しになっていました。それを耕していた祖母が倒れたので(祖父は勤務、伯父は勉学があるので)それを引き受けたのが、次男の父だったわけです。ま、貧乏クジを引いたんですな。上で書いた高校は農作業の合間に歩いて通える距離。その後、大学に進みますが志望した九州大学は不合格(あの高校から九大に進める人なんて基本的にいない)福岡学芸大学(現、福岡教育大学。「金八先生」---武田鉄矢は中退だけど---の大先輩)に進み教師としての半生を送りました。いつも兄貴のお下がりの ぶかぶかの服でバットを振る空に突き刺さるあの鉄塔に 狙いを定め…夢はいつでも どでかいホームラン(中略)舵の壊れたこの俺は何処へ行く迷っては壁の写真に見つめられる俺が笑ってる 俺が突っ立ってる大事そうにシャッターを押す 親父を覚えてる(中略)俺が笑ってる 俺が突っ立ってる不器用そうな親父の背中を おふくろが見ていた NとLの野球帽/CHAGE & ASKA 作詞・作曲 CHAGE
2007/09/27
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福田康夫は昭和11年7月16日生まれ。親父(昭和11年9月14日生まれ)と学年が同じだったわけね。高齢批判があるとはいえ71歳で人生の絶頂を迎えるって、政治家って若いねぇ。父が亡くなって、はや一ヶ月。光陰如矢。あの喪失感から、もう一ヶ月経ったのかという驚きと共にいずれ必ず訪れる自分の死に向かってあっという間に一ヶ月分、歩を進めたという感慨があります。いのち短し 戀せよ少女黒髮の色 褪せぬ間に心のほのお 消えぬ間に今日はふたたび 來ぬものをゴンドラの唄/芸術座「その前夜」(1915、松井須磨子) 東宝映画「生きる」(1952、志村喬) 作詞 吉井勇 作曲 中山晋平(念のために書いておくと、テレ朝版「生きる」は観ませんでした。松本幸四郎が云々、ではなく、あの作品は当代最高の「脇役」が主役を演じてこそ意味があるわけで...)
2007/09/24
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兄嫁(静岡県在住)に「好きな食べ物を3つ挙げて♪」と訊かれた。福岡で料理を作る際の参考にするらしい。玉子焼き味噌汁ジャガイモと答えておいた。もちろん、3つとも好きだけど当たり障りのない白・宮さんバージョン。本当にこの3つさえあれば生きていけるという黒・宮さんバージョンはアルコール(酒)ニコチン(タバコ。食べ物じゃないけど)カフェイン(コーヒー)父が転移性肺癌で入院中の病院でも亡くなった葬儀の斎場でも(さすがに気がひけるから)こっそりタバコを吸ってました。正常な神経の人なら、これを機に禁煙するんでしょうけど僕はイカれた野郎なのでどうせいつか死ぬなら肺癌がいいかなと思ってます。他人の痛みというのは結局は分からないし、結局は分かち合えないんですよね。父がどれほど苦しかったか自分の身体で実験してみるのもいいかな、と思っています。目覚めの一服 食後の一服授業をサボって 喫茶店で一服風呂入って一服 クソして一服そいでまたベッドで一服朝から晩までスモーキン・ブギ朝から晩までスモーキン・ブギSoo-Paa Dura スモーキン・ブギSoo Pa PaSoo Pa PaSoo-Paa Dura スモーキン・ブギスモーキン・ブギ/ダウン・タウン・ブギウギ・バンド (1975) 作詞 新井武士 作曲 宇崎竜童
2007/09/20
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父の亡くなった翌日、加賀美屋の大女将が亡くなりました。あ、朝ドラの話ね。僕は通夜から泊まり込んだ斎場の控え室のテレビで観て母は録画したビデオを何日か後に観ました。二人の感想「死ぬ間際にあれだけ喋れたらいいよね!」--------父は長期入院せず綺麗な姿で亡くなったので良かったと思うと書きました。しかし逆にそのせいで死に臨んでの会話は出来ませんでした。8月12日の夜に帰省し19日の早朝から昏睡状態。その間、会話と呼べるほどの会話は帰省した直後にほんの僅かだけであとは「水」「痛い」「トイレ」だけ。父は短歌を詠んでそれを毎年の年賀状に載せていたのですが辞世の歌は無く辞世の言葉(と呼べるようなものではないけれど)も「水」「痛い」のどちらか(それすら記憶に残っていない)でした。そして夜中の0時7分に亡くなり延命行為は行わないという家族・病院双方の方針だったので死の瞬間を見届けたのは、病室に泊まり込んだ兄だけ。母や僕が駆けつけた時には息を引き取っていました。--------実は、この何年か僕の個人的な理由で、両親とあまり会話をしていませんでした。いまさら後悔しても遅いのだけどやはり生きている間にもっと話をすべきでした。I just wish I could have told himin the living yearsすごく思う 話すことが出来ていたらと生きている時に(中略)You say you just don't see itHe says it's perfect senseYou just can't get agreementIn this present tenseWe all talk a different languageTalkin' in defense君は言う まるで理解できないと父親は言う それは完璧な価値観だって君はまったく同意できないこの現在進行形において僕らはみんな違った言語を話す話している 身構えてSay it loud, say it clearYou can listen as well as you hearIt's too late when we dieTo admit we don't see eye to eye大声で言おう はっきり言おう耳を傾けることが出来る ただ聞くだけじゃなく遅すぎる 死んだ時に目と目を合わせなかったと認めるのは(中略)I wasn't there that morningWhen my Father passed awayI didn't get to tell himAll the things I had to say僕はいなかった その朝に父さんはこの世を去った僕は言うことが出来なかった言わなければいけない事を何も(中略)Say it loud, say it clearYou can listen as well as you hearIt's too late when we dieTo admit we don't see eye to eye大声で言おう はっきり言おう耳を傾けることが出来る ただ聞くだけじゃなく遅すぎる 死んだ時に目と目を合わせなかったと認めるのはThe Living Years / Mike + The Mechanics (1989) words & music by Mike Rutherford & B.A. Robertson translation by Miya_Juryou
2007/09/13
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(亡き)祖母は、父にドクダミ茶を勧めていた。体中に吹き出物があって肌が荒れていたからだ。足も汚かった。ぶ厚い角質があった。母も感じ僕も感じ、二人で意見が一致したのだが(介護というのは肌をすり合わせるようなものなので、よく分かる)亡くなる直前、そして亡くなってから火葬までのの父の肌は今までで一番綺麗だった。70歳で人生を終えるというのは今の御時世で早すぎる気もするけど8年前に直腸癌で人工肛門になり、結局は肺に転移。片肺の一部しか機能していなかったのだからもう、充分なのかも。それに最終的な入院から丸7日、意識が無くなってから丸5日という短期間で亡くなったので死に顔はとても綺麗だった。平均寿命に達した祖父母は寝たきりの期間が長かったので人相が変わってしまいこんな事を言ってはいけないのだけど、醜かった。18歳(祖母の時)、20歳(祖父の時)の僕に決定的な死生観を与えるほどに、醜かった。それまでの8年間はともかく、最後の1週間の父の死に方はうん、ぜんぜん悪くない。だって、すごく綺麗だったから。You are so beautifulTo meYou are so beautifulTo meCan't you see ? You Are So Beautiful / Billy Preston (1974) Joe Cocker (1975) words & music by Billy Preston & Bruce Fisher
2007/09/06
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初七日を終え金曜日(8月31日)、東京に戻りました。四十九日の法要は本来の日ではなく少し早めて(「取越」と言うらしい)三連休に設定したのでその時にまた福岡へ。それまでに相続放棄のために(母が全てを相続するために)必要な印鑑証明書の交付を受けることを、忘れないようにしないと。逝去 8月24日(金)午前0時7分行年 七十二(数え年) 七十(満年齢)宗旨 浄土真宗大谷派通夜 8月24日(金)午後7時~葬儀・告別式・火葬 8月25日(土)午後1時~精進上げ(本来は四十九日のものを「取越」) 8月25日(土)夕初七日 8月30日(木)午前10時半~(以降、毎木曜が七日忌)(生前の誕生日 9月14日(金))初彼岸 9月20日(木)~26日(水)初月忌 9月24日(休)七七日(四十九日) 10月11日(木)(10月7日(日)午前10時半~に「取越」)百ヵ日 12月1日いつの間にか僕らも 若いつもりが年をとった暗い話にばかり やたらくわしくなったもんだ(すばらしい日々/ユニコーン 作詞・作曲 奥田民生)
2007/09/02
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父が、本日午前0時7分に亡くなりました。本日 通夜。明日 葬儀。
2007/08/24
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(不謹慎なタイトルですが)昨日(水曜)の朝、父がいよいよ危ないという連絡があり急いで福岡に戻る。とりあえず持ち直したようなので、ひと安心。(まあ、意識は全然ないので喜んでいいのか分からないけど)そのまま母と病室に泊まり込む。(母が疲れているので交代ではなくずっと寝かせ、僕は徹夜。)今日の早朝、今度こそ危ないと言われ昨日も集まった親戚一同を急遽再招集。とりあえず持ち直したようなので、ひと安心。(とはいえ、皆だんだん疲れが溜まっている)今日の面会時間終了直前に担当医と話し今夜が山と言われる。兄が泊まり込み嫁(兄嫁)、姑(母)、小舅(僕)という微妙な組み合わせで自宅待機。
2007/08/23
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当初は短期の予定だったのに父は入院してから3日でみるみる衰弱。そのまま延長しています。昨日(日曜)兄夫婦が来たので入れ替わりに、とりあえず帰京しました。病室を離れる直前から意識のない状態で苦しみ出し病院の外は夕立。しかも新幹線は落雷の影響で45分の遅れ。嫌な感じだな、と思っていたら案の定今夜、連絡があり早ければ残り3日と医者に言われたとの事。喪服を含めた荷造りと(飛行機嫌いだけど)羽田→福岡便の下調べを今、終えました。何日後か分からないけど「その」知らせを待つことになります。最悪の場合、間に合わないかもしれないけど入院前後の男手が必要な時に居合わせて(叔父と2人で抱えるように運びました)最低限の役割は果たせたと思っています。--------コメントのお返事できなくて済みません。こういう状況なもので。
2007/08/20
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父は今まで通院しつつ自宅療養だったけどこの1週間、日に日に衰弱して行き今日(17日)から短期の入院。自分自身の将来を考えるとチューブだらけ(鼻-酸素、腕-血清→点滴→輸血、男性器-排尿)は御免こうむりたい。でも近親者の場合は、その考えも違ってくるんだよね。点滴の途中で熟睡し、面会が終わる時間になってもそのまま。仰向けに寝ると痛むらしく、家では座ったまま睡眠をとっているのでまとまった時間ちゃんと寝ていたのは今週ようやく2度目。それだけでも入院した意味はあったように思う。夜中のトイレを手伝ったり(間に合わない回数が増えている)ひと晩だけ、だけど認知症のようになって対応に追われたりしてろくろく眠ることの出来なかった母も今夜は心労はともかく世話からは解放されている。今回の処置で改善いやせめて現状で歯止めがかかればとりあえず、いったん東京に戻れるんだけど...いつ東京に戻るの? と聞かれるたびにどうしましょうかね? と返すしかない。
2007/08/17
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1週間前、夏休みが終わったと書きましたが12日に実家へ戻りました。父です。もともと患っていたのですが(心身ともに)介助が必要な状態になってしまいました。というわけで、東京に戻る予定は未定。というか、東京に戻るかどうかも未定。
2007/08/15
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