土曜日の書斎 別室

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戦争と平和


【土曜日の書斎】 ロマン断章


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戦争と平和




12月2日

三帝会戦。 露 ・ 墺連合軍、 仏軍に大敗。
青年公爵アンドレイ、 重傷を負う。



  1805年12月2日。
  オーストリア帝国領土モラヴィア地方ブルノ近郊。

  燎原の火の勢いで欧州を席捲しつつある ナポレオン の膨張を阻止するため、 英 ・ 露 ・ 墺三国 第三次対仏大同盟 を結成。
  是の日・・・。
  アウステルリッツの野に対するのは、 ナポレオン麾下の 仏軍 七万数千と、 露 ・ 墺連合軍 八万数千。
  決戦の火蓋が切られるが、 連合軍は、 意思の不統一 ・ 連携の不備も禍して、 高度な機動力を有する仏軍の前に、 歴史的大敗北を喫する。

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『第一部』 のハイライト ・ モチーフとして描かれる アウステルリッツ会戦
  主人公の一人である青年貴族 アンドレイ ・ ボルコンスキー公爵 は、 ロシア軍司令官 クトゥーゾフ将軍 の副官として、 この会戦に参加するという設定になっています。 (^.^)

  ・・・厳格な軍人の家庭に育ったアンドレイは、 虚栄と欺瞞に満ちた社交界の生活を忌避し、 戦場の栄光にのみ唯一至上の価値を認めていました。


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  仏軍の攻撃は、 凄まじかった。
  連合軍は、 全線で潰走を余儀なくされる。
  全軍が崩れ立つ中・・・。
  アンドレイは、 軍旗を掲げて、 将士を鼓舞し、 敵軍を目掛けて突進するが、 銃弾を受けて倒れる。


  そして、 砲煙が静まった時・・・。
  累々として地表を覆う死屍の間に、 アンドレイは置捨てられていた。
  身動きも成らない儘、 仰向けに横たわる彼の頭上には、 何処までも澄み透った無限の空が広がっていた。
  アンドレイは、 その空を見上げ、 人間の営為の微小さと無意味さを知る。


静かだ。
  なんと平和なんだろう。
  厳かな静けさだ。
  今まで戦って来た事が、 まるで夢の様だ。
  この無限に高い空。
  どうして、 今まで気が付かなかったんだろう?
  この大空に気が付いて、 俺は幸せだ。

  そうだ!  この無限の大空の他は、 すべてが虚ろだ。
  すべてが欺瞞だ!
  戦場の名誉も栄光も・・・。 栄達も・・・。

  この大空以外は、 なに一つ存在しないのだ。
  この静けさと平和・・・。



  やがて、 幕僚を伴って戦場を巡視しているフランス皇帝 ナポレオン一世 の姿が、 視界の端に映じる。

  「ホウ!  是も見事な戦死だ・・・。 実に見事な最期ではないか・・・!」

  軍旗を握り締めながら倒れているアンドレイの姿が、 ナポレオンの注意を惹いた。
  然し、 アンドレイの胸中には、 最早・・・一片の感慨も、 感興も、 湧起こらなかった。

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アウステルリッツの悠久 の空の下・・・。

  人間界の虚妄を見通してしまったアンドレイの眼には、 欧州制覇の野望に憑かれたナポレオンなどは、 塵の様にチッポケな存在としか映らなかったのである。







3月4日

ピエール ・ ベズーホフ、 決闘から生還。



  露暦1806年3月4日。
  モスクワ郊外ソコーリニキの森。

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『第二部』 から。
アンドレイ ・ ボルコンスキー と共に、 主要な登場人物の一人である ピエール ・ ベズーホフ と、 近衛騎兵将校 ドーロホフ の決闘が行われた日です。

  庶子の身ながら、 ベズーホフ伯爵家の継嗣に指名され、 莫大な遺産を相続したピエールは、 一躍社交界の名士の仲間入をします。
  美貌の誉高い、 クラーギン公爵家令嬢 エレン とも、 目出度く結ばれます。
  処が、 結婚はピエールの財産を目当てとしたもの・・・。
  エレンとの新婚生活は、 多事多難なものとなります。
  青年将校ドーロホフとの決闘に追い込まれたのも、 エレンの不倫疑惑が原因でした。

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  拳銃を擬して相対する二人・・・。
  ピエールの銃から放たれた一弾は、 ドーロホフの腹部を抉ります。
  雪原に鮮血を滴らせてうずくまる、 ドーロホフ。
  至近距離から撃ち返しますが、 銃弾は逸れ、 ピエールは事なきを得ました。
  然し、 己の所業の愚劣さに思い至って、 暗澹たる気分に陥ります。

  軽はずみに 愛情のない結婚 に踏み切ってしまった事と併せて・・・。
  今更ながらに、 深い後悔の念に苛まれるのでした。







12月31日

皇帝臨御の大舞踏会開催さる。



  露暦1809年12月31日。
  首都ペテルブルグ。

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  エカテリーナ女帝時代のさる高官の邸宅で、 皇帝臨御の大舞踏会 が開催されたのが、 同夜の事です。
  本格的な社交界デヴューを飾る伯爵令嬢 ナターシャ ・ ロストフ と、 アンドレイ ・ ボルコンスキー公爵 の運命的邂逅が描かれています。

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(米 ・ 伊版 『戦争と平和』 )




  最初の出会いを、 ナターシャは憶えていませんでしたが、 アンドレイの胸には 鮮明な情景 として焼付けられていました。
  その年の春、 ロストフ家の領地をアンドレイが訪れた際、 眼の前に不意に現われた一人の少女・・・。
  春の化身の様な、 生命力にあふれた少女 がナターシャでした。


ハイ。 コレですネ。

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(旧ソ連版 『戦争と平和』 )


  そして、 アウステルリッツの戦場体験と、 妻の病死によって、 人生の一切に絶望していたアンドレイの胸に、 ナターシャは愛の灯を甦らせたのです。

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(米 ・ 伊版 『戦争と平和』 )








1月3日

アンドレイ、 ナターシャとの結婚を決意。



  露暦1810年1月3日。
  首都ペテルブルグ。

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『第三部』 から。
  1809年大晦日・・・。
  皇帝臨御の大舞踏会で、 ナターシャ ・ ロストフ と再会した アンドレイ ・ ボルコンスキー公爵
  アウステルリッツ会戦で瀕死の重傷を負いながら、 奇跡的に生還。
  その夜、 妻の死に遭遇。
  絶えず虚無感を抱きつつ日を過ごしていたアンドレイの胸に、 生きる希望を甦らせた少女。
  天真爛漫で、 生命力にあふれたナターシャへの愛を、 アンドレイは明瞭に意識します。

  年が明けて、 是の日・・・。
  アンドレイは、 無二の親友であるピエールに、 ナターシャへの想いを打ち明け、 彼女に求婚する決意を告げます。

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  更に、 老父の承諾を得る為に帰郷しますが、 アンドレイの申し出に、 老公爵は難色を示します。
  そして、 一年間の冷却期間 を置くという条件付きで、 二人の婚約を認めるのですが・・・。







6月12日

ナポレオン軍、 ロシア領内へ侵攻を開始。



  露暦1812年6月12日。
  ポーランド ・ ロシア国境線ネマン河。

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  欧州全土の覇権確立を目論む フランス皇帝 ・ ナポレオン一世 は、 大陸封鎖令 に順わぬロシアを軍事的に屈従せしめるべく、 国境地帯に集結させた隷下軍団に対して進撃を下令。
  フランス軍四十五万を主体とする 六十万の将兵 が、 国境のネマン河を押し渡り、 ロシア領内へ雪崩れ込んだ。


「そして 戦争 が始まった。
人間の理性とあらゆる本性に反する事件 が起こったのである」

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  革命の寵児・・・。
  自由と平等の崇高なる理念の体現者と讃えられたナポレオンも、 今は欧州制覇の野望に憑かれた 一個の偏執者 に過ぎなかった。
宿敵 ・ 英国 を経済的苦境に陥れんと謀った 大陸封鎖令 は、 却って欧州諸国の反感を高め、 離反を促す結果を招いていたのである。

  ・・・ロシア軍は、 戦略的撤退 を重ねながら、 フランス軍を広大な国土の奥深くへ引込もうとしていた。
  ロシアの農民達は、 収穫物を侵入軍の手に渡すまいと、 自ら農地に火を放って逃亡した。
  フランス軍の行く手には、 満目一面の焦土 が現出した。
  食糧の調達も、 物資の集積も、 成らなかった。
  暗い平原を進む 征服者の軍隊 は、 何者も征服し得ていなかったのである。
  やがて・・・彼らは、 冬の到来 と共に、 彼ら自身が創り出した 荒廃の道 をたどって帰る事となる。



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  フランス軍侵攻の報を受けて、 激しい動揺に見舞われるロシア貴族社会。
  自然発生的に祖国防衛に立ち上がる、 無数の・・・無名の民衆達。
  人々の愛と運命も、 目まぐるしい転変に見舞われる事となります。

ナターシャ との愛に破れた アンドレイ は、 絶望を振払うかの如く、 再度の前線勤務を志願。
  その生家も侵入軍に蹂躙される処となります。
  一方、 ピエール は、 神秘思想に惹かれ、 ナポレオン暗殺 を決意。

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(米 ・ 伊合作版 『戦争と平和』 )

ロストフ家の人々 の運命も急転します。
長男 ・ ニコライ は、 愛する ソーニャ との誓いを胸に、 勇躍戦地へ赴く。
 未だ十代の 次男 ・ ペーチャ も、 両親の猛反対を押し切って、 志願入隊を果たします。

  そして、 傷心のナターシャは・・・。
  自らの過ちを悔い、 アンドレイとの再会を希求するナターシャですが、 その日はめぐるのでしょうか。

  ボロディノ会戦。
  ナポレオンのモスクワ入城。
  同市街炎上。
  冬将軍の到来。
  フランス軍の敗走と、 惨憺たる壊滅。

  畳み掛けて描かれる、 歴史上のモニュメンタルな事件の数々・・・。
  叙事詩的展開を見せながら、 物語はクライマックスへ向かいます。

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8月26日

ボロディノ会戦。
ピエール、 一民間人として戦場に立つ。



  露暦1812年8月26日。
  モスクワ西方110km ・ ボロディノ村近郊。

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  聖都モスクワに迫るナポレオン軍を撃滅すべく、 一大防衛線を布いて待受けるロシア軍。
  ロシア軍総兵力 12 万。
  ナポレオン軍総兵力 13 3000

  是の日早朝・・・。
  両軍の運命を賭した ボロディノ会戦 の火蓋が、 遂に切られた。



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  自らの眼で、 実際の戦場を、 戦争の真実の姿を見極めたいと願う ピエール は、 民間人の身分の儘、 ボロディノを訪れる。
  戸惑いながら、 ロシア軍陣営内を徘徊する中・・・。
  何時しか彼は、 或る砲兵隊陣地の一角に佇んでいた。

  その陣地こそ、 ロシア軍防衛線に於ける最重要拠点の一つであり、 激烈な攻防戦の舞台となる ラエフスキー角面堡 であった。

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  全兵力の半数を失いながら、 尚死闘を続けるロシア軍に、 ナポレオンは初めて動揺した。
  彼が・・・是程までに苦戦を強いられた戦場は、 嘗てない。
  全線で発揮されたロシア軍将兵の不屈の闘志は、 フランス軍全兵士を驚愕せしめていた。

  それは、 不当な支配への屈従を拒む、 毅然たる意志の表われであり、 祖国防衛戦争 のみが持ち得る、 民族のエネルギーの発露でもあった。
  その意志とエネルギーの総和が、 それまで不敗を誇って来たナポレオン軍を、 精神面で圧倒し、 彼らの最終的勝利を阻んだのである。

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  是の日一日の戦闘で、 両軍とも夥しい損耗を強いられ、 死傷者は八万を数えた。
  翌日の戦闘続行は不可能・・・と見た ロシア軍総司令官 ・ クトゥーゾフ は、 全軍退却と聖都放棄を決断する。

  数日後、 フランス軍はモスクワ入城を果たすが、 それは・・・ロシアに降伏を促す決定打と成り得なかった。
  ナポレオンの前途には、 既に破滅の予兆が顕示されていたのである。







9月1日

ロストフ一家、 モスクワから退避。



  露暦1812年9月1日。
  モスクワ市内。

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  ロシア軍総司令官 クトゥーゾフ将軍 の発した退去命令に従い、 顕官貴族 ・ 市民らは続々とモスクワから脱出。
  膨大な数の避難民が列を連ね、 市中は空前の混乱を呈していました。
  ナポレオン軍の軍靴が迫る是の日・・・。
ロストフ家の人々 も又、 連れ立って同市を離れます。

  その最中・・・ ナターシャ は、 平民に身を窶した ピエール の姿を街路に認め、 声を掛けます。

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  束の間言葉を交わした後、 共に避難しようとの誘いを辞退し、 ピエールは雑踏の中に身を翻して行きました。

  是の時・・・ピエールは、 単身市内に潜伏し、 ナポレオン暗殺を決行する覚悟を固めていたのです。



  そして、 未だナターシャは知りませんでしたが・・・。
  偶然、 ロストフ一家と同道する事となったロシア兵の一隊の中に、 ボロディノ会戦で重傷を負い、 意識不明に陥っている アンドレイ がいたのです。







9月2日

ナポレオン軍モスクワ入城。
ナターシャ、 アンドレイと再会。



  露暦1812年9月2日。
  モスクワ市内。

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  ボロディノ会戦から一週間後・・・。
ナポレオン麾下のフランス軍 は、 ロシアの聖都 モスクワ に整然と入城を果たします。
  住民の大半が逃げ去ってしまった大都市を手中にして、 勝者然と振舞うナポレオンですが、 彼が内心で待望していた降伏の軍使は、 遂に姿を現わしませんでした。
  聖都失陥と云う事態も、 ロシアに講和を促す決定的要因とは成り得なかったのです。
  然も、 ボロディノの戦闘の結果、 満身創痍の状態に陥っているフランス軍に、 更なる攻勢を掛ける余力は残されていない。
  結局、 フランス軍は、 補給の途絶したモスクワに一ヶ月余に渡って滞留を続け、 徒に兵力を損耗してしまうのです。

  ・・・その夜、 市内各所から火災が発生、 モスクワは嘗てない巨大な劫火の洗礼を受けます。



  同夜。
  モスクワ郊外イムーシチ。

  炎上するモスクワの焔は赤々と夜空を焦がし、 ロストフ一家 が投宿している郊外の寒村からも望見されました。
  その光景は、 祖国を蹂躙した者に対するロシア人の憎悪と敵愾心を、 いっそう激しく燃え立たせずにいませんでした。

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  一方・・・。
  同行している傷病兵の一群の中に アンドレイ がいる事を知った ナターシャ は、 意を決して、 仮設繃帯所を訪っていました。
  重傷者の悲惨な姿を目の当りにしながら、 懸命にアンドレイを捜し求めるナターシャ。
  そして・・・遂に、 瀕死の床に横たわるアンドレイを発見します。



  漸くにして果たされた二人の再会。
  最後に言葉を交わしてから、 二年半以上の歳月が流れていました。

  過ちを深く詫び、 一途に許しを請うナターシャを、 混濁する意識の端に捉えるアンドレイ。
  アンドレイは、 変わらぬ気持ちを・・・ナターシャへの愛を、 切れ切れの言葉に込めて伝えます。
  その眼差しには、 前にも増して強められた慈愛と信頼の光が満ち溢れていました。

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  是の夜から・・・。
  ナターシャは、 終始アンドレイの傍らに寄添い、 献身的看護に勤しむ事となるのです。







9月3日

ピエール、 仏軍の捕虜となる。



  露暦1812年9月3日。
  炎上中のモスクワ市内。

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  前夜発生した大火は、 更に勢いを増し、 今や・・・モスクワ全市街が紅蓮の焔に包まれていました。
  同時に、 フランス兵による掠奪の嵐が吹荒れ、 市内は阿鼻叫喚の巷と化します。


  その混乱の渦中を・・・。
  ナポレオン暗殺の機を窺い、 徘徊し続ける ピエール は、 猛火の中から、 一人の幼女を救出する仕儀に・・・。

  然し、 不運にもフランス軍の巡察隊と遭遇。
  拳銃を隠し持っていた事が露見し、 捕縛されてしまいます。
  斯くして、 ピエールのナポレオン暗殺計画は、 実行に移される事なく挫折しました。

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  放火容疑者として獄に繋がれた彼は、 同房の捕虜の一人と知遇を得ます。

  農民出身の兵士 プラトン ・ カラターエフ

  信仰心に厚く、 善良で、 真正直で、 温順な気質の持ち主。
  無学ながらも、 経験に根差した確かな智慧を、 あふれるばかり備えた人物でした。
  恰も、 ロシア民衆の美質 ・ 美点を具現化した様な是の人物から、 ピエールは人生観が変わる程の多大な影響を受ける事になるのです。







10月7日

仏軍、 モスクワから撤退開始。




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・・・ボロジノ戦とそれに続くモスクワ占領、 さらに、 新しい戦闘がないまま行われたフランス軍の退却――それは歴史のもっとも教訓的な現象の一つである。
  ・・・フランス軍のボロジノでの勝利ののち、 全面的な戦闘どころか、 いくらかでもめぼしい戦闘は一つもなかったのに、 フランス軍は消滅してしまったのだ。
  これは何を意味しているのか?

(トルストイ 『戦争と平和』 藤沼貴訳)



  モスクワ失陥から約一ヶ月後・・・。
  ボロディノ会戦で瀕死の重傷を負った アンドレイ は、 ロストフ家の人々に付き添われ、 モスクワ北方ヤロスラヴリの地で療養を続けていました。
  アンドレイの傍らには、 常に、 献身的看護に勤しむ ナターシャ の姿が有ります。
  そのナターシャを、 安らいだ表情で見つめるアンドレイの眼差しには、 これまでにない愛情と信頼の光が満ち溢れています。
  然し、 アンドレイの容態が快方へ向かう事は遂になく、 今・・・その生命は燃え尽きようとしていました。

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(米 ・ 伊合作映画 『戦争と平和』 )

  ・・・不安な、 怖ろしい夢から目覚めた彼は、 死が終末ではなく、 新たな目覚めに他ならない事を悟ります。
  そして、 ナターシャと実妹 ・ マリアに看取られながら、 静かに息を引き取るのでした。


  その頃・・・。
  本国との連絡を断たれ、 補給の途絶したモスクワに在って、 フランス軍は物資の欠乏に喘いでいました。
  未曾有の大火災に見舞われたモスクワ市街は、 その大半が灰燼に帰しています。
  食糧も、 住居も、 大軍の越冬に必要な量を確保し得る見込みは全く有りませんでした。
  勝者然と振る舞っていたナポレオンも、 自軍の陥っている、 抜き差しならない状況を認めざるを得ません。
  ロシアの冬の猛威が、 目前に迫っているのです。
  廃墟同然のモスクワに閉じ込められるのを恐れたナポレオンは、 遂に全軍退却を決断します。

  斯くして、 露暦1812年10月7日。
  占領軍はモスクワから撤退を開始。
  僅か数ヶ月前に進軍して来た同じ道を、 再びたどって帰る事となります。
  それは、 見渡す限りの焦土と化してしまった、 暗い平原を貫く道。
  彼等自身が創り出した荒廃の道に他なりませんでした。
  征服者の軍隊は、 実は・・・何物も征服し得ていなかったのです。

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・・・戦闘の勝利は 征服 の原因でないばかりでなく、 征服 に必ずともなう徴候でもないということであり、 また、 国民の運命を決する力がひそんでいるのは、 征服者 のなかではなく、 軍隊や戦闘のなかでさえもなく、 何か別のものなのだということである。
(前掲書)


  ロシアの空に、 冬の到来を告示する、 白い粉雪が舞い始めていました。
  歴史上名高い 1812年の雪 ・・・。
  雪は、 日成らずして、 巨大で獰猛な怪物と化し、 フランス軍の背後から、 牙を剥いて襲い掛かるのです。

  撤退するフランス軍の長大な隊列の中に、 拉し去られて行くロシア人捕虜の一団が有りました。
  その中には ピエール カラターエフ の姿も見られます。
  ピエールは、 当然ながら、 親友 ・ アンドレイの死を未だ知りません。
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(米 ・ 伊合作映画 『戦争と平和』 )

  どの様な状況に陥っても人生探求の熱意を失わないピエールは、 捕虜生活を強いられる間にも、 一段と成長を遂げていました。

・・・人間は幸福のために創られているのだ。
  幸福は自分自身のなかに、 自然な人間的欲求を満足させることのなかにあるのだ。
  そして、 すべての不幸は不足ではなく、 過剰から生じるのだ。


  ・・・と、 思索によってではなく、 経験によって、 確かな智慧として体得したのでした。
  無論、 ロシア農民の美点 ・ 美質を具現化した様な兵士 ・ カラターエフから啓発された部分も少なくはなかったでしょう。

  その夜・・・。
  広大無辺な星空を仰ぎ見ている中に、 突然、 身体の奥底から衝き上げて来る歓喜と共に、 一個の確信に到達するのです。
  例え身柄は拘束されていようとも、 魂は何者の支配も受けない。
  人間の魂を支配する事など、 誰にも出来はしない。
  無限の大宇宙に通じている人間の内的宇宙を縛る事など出来はしないのだ。
  ピエールは、 歓喜に打ち震えながら、 常軌を逸したとも取られかねない様子で、 高らかに哄笑し続けるのでした。











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