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1969年1月3日 (ドイツ出身)
1990年 ドイツF3チャンピオン1990年 F3マカオGP 優勝
1994~95年・2000~04年 F1ワールドチャンピオン
出走 211回 (歴代 2位) (歴代1位はR.パトレーゼの256回)
優勝 83回 (歴代 1位)
PP 63回 (歴代 2位)) (歴代1位はA.セナの65回)
FL 66回 (歴代 1位)
獲得ポイント 1186P (歴代1位) ただし1997年度のポイントは全て剥奪されているが、生涯ポイントには計算されている
フェラーリ F310B
優勝 5回
PP 3回
FL 3回
シリーズ -- 位 (獲得ポイントは78点で、実質2位だったが、最終戦でのペナルティで全ポイントを剥奪された)
◆移籍2年目。チームはやや競争力をとりもどし、ジャック・ビルニューブとチャンピオンを争う。5勝をあげたミハエルは最終戦ヨーロッパGPで雌雄を決する事となる。ポジションを争っていた2台はコーナーで接触。1994年のヒルとの接触事故ではミハエルはタイトルを獲得したが、今回は逆の結果となった。接触により
ミハエルははじき飛ばされてリタイア。ビルニューブは生き残って初のチャンピオンに輝いた。
さらに、その接触についてFIAは意識的に接触をしたと判断、シーズンでの全ての獲得ポイントを剥奪された。(ただし、チームのポイントはそのまま)
フェラーリ F300
優勝 6回
PP 3回
FL 6回
シリーズ 2位(86P)
◆マシンのナロー化、グループドタイヤの採用などでレギュレーションが大きく変更。グッドイヤー+フェラーリのミハエルと、ブリジストン+マクラーレン・メルセデスのハッキネンがチャンピオンを争う。
第14戦終了時に二人は同点で並び残り2戦で雌雄を決する事となった。
第15戦ルクセンブルグGPではPPを獲得したものの予選3位のハッキネンに逆転され2位。最後の望みをかけた第16戦日本GPでもPPを獲得したものの、フォーメイションラップ中にオーバーヒートに見舞われ最後尾スタートに。これで万事休すと思われたが、ミハエルはあきらめることなくレースを追い上げ3位まで復帰して、ハッキネンにプレッシャーをかける。しかし、ハッキネンは焦らずに逃げ切って優勝。フェラーリでのタイトル獲得はならなかった。
フェラーリ F1-2000
優勝 9回
PP 9回
FL 2回
シリーズ 1位(108P) ワールド・チャンピオン
◆チームメイトがR.バリチェロに変更。この年、BMWはウィリアムズと、HONDAはBARと組み、フォードもスチュワートを買収しジャガーで参戦。F1は自動車メーカーの対決の場となった。
序盤は3連勝で好調な出足。シーズン半ばにはリタイアも続いたが、後半第14戦イタリアGPからは4戦連続のポル・ツゥ・ウインを決め、フェラーリ移籍後5年目にして自身3度目のチャンピオンを獲得した。
また、第14戦イタリアGPではセナと並ぶ41勝目をマーク。勝利後の記者会見でこのことについての感想を聞かれたミハエルは絶句。感情を抑えきぬかのように号泣した。それを傍らで見守るのは最大のライバルであり、かってのセナのチームメイトであったハッキネンだった。
フェラーリ (F2002)
優勝 11回
PP 7回
FL 7回
シリーズ 1位(144P) ワールド・チャンピオン
◆最大のライバルであったハッキネンが引退した結果、年間11勝をあげるという圧勝で3年連続5度目のチャンピオンを獲得。しかも全戦完走のみならず全戦表彰台の偉業も達成。チームメイトのバリチェロも4勝を含む10回の表彰台を獲得。フェラーリ二人による1-2フィニッシュも9回を数えるフェラーリの為のシーズンともいえる年となった。
タイトル決定は7月の第11戦フランスGP。これも、史上最速のチャンピオン決定となった。
しかし、第6戦オーストリアGPではトップを走っていたバリチェロがチームオーダーによりミハエルにポジションを譲るという事件が発生。これには、スタンドを真っ赤に染めていたシューマッハーファンたちも一斉にブーイングを浴びせ、世界中からも大批判を浴びた。
フェラーリ (F2003-GA)
優勝 6回
PP 5回
FL 4回
シリーズ 1位(93P) ワールド・チャンピオン
◆入賞が8位まで拡大しポイント配分が変更。また、予選システムも変更されシーズンは拮抗した。ライコネン、フィジケラ、アロンソが初優勝するなど年間で8人のウィナーが誕生。
年間6勝をあげたミハエルと1勝ながらコンスタントに成績を残したライコネンが最終戦日本GPまで争った。ミハエルは1ポイントを獲得すればチャンピオン決定という有利な状況ではあったが、予選グリッドは14位というポジション。しかもレース序盤に佐藤琢磨と接触し最後尾まで落ちる。しかし、そこからなんとか追い上げて8位入賞。自力で前人未踏の6度目のチャンピオン獲得を決定した。
F1史上最強と思われるドライバー、ミハエル・シューマッハー。ほとんどあらゆる記録を更新し、最も成功したドライバーの一人であることは間違いない。真面目で、完璧主義。妥協を許さずベストを尽くす様は、最強のプロのドライバーであり、記録にも記憶にも残るドライバーと言えよう。
(以下、文中のシューマッハーは全てミハエル・シューマッハーをさします)
しかし、反面その完璧さ故にファンの望まないレースを行うこともあり、そのあたりが彼の評価の難しいところかも知れない。
彼がその名を広く知られるようになったのは、90年のマカオGPでハッキネンとの対決で勝利を得たあたりからだろうか。この年ドイツF3を制したシューマッハーは、同じくイギリスGPを制したミカ・ハッキネンとマカオGPで対決。第1レースではシューマッハーはトップのハッキネンから約2秒のビハインドで2位となっていた。続く第2レース。1位を走行するシューマッハーにハッキネンはピタリと2秒以内につける。このままなら、ハッキネンの総合優勝、と思ったところ、前を行くシューマッハーのラインがアウトにより、続くコーナーへのインが開いたかに見えた。そこにレーサーとしての本能で飛び込もうとするハッキネンとドアを閉めたシューマッハー。後に因縁の対決となる二人の対決は、ハッキネンの自爆という形で最初の決着をみた。表彰台の中央で喜ぶシューマッハーと、コース脇で泣きじゃくるハッキネン。対照的な勝者と敗者の姿だった。
翌91年、ハッキネンはロータスからF1デビュー。一方シューマッハーはF1へステップアップ出来ず、スポットで全日本F3000に参戦するなどの活動を続けていた。そして、突然シューマッハーにチャンスがやってくる。ジョーダン・グランプリからデビューのチャンスがやってきたのだ。初めてのF1参戦はベルギーGP、難コースと知られるスパ・フランコルシャン。いきなり予選で7位を獲得。これは過去のジョーダンの最高グリッドであり、ベテランのA.デ.チェザリスを上回るものであり、F1関係者に衝撃を与えた。(余談では有るが、シューマッハーはこのジョーダンでのデビューにあたり、事前テストで1500万円、さらに参戦の為に3000万円を支払っている。しかし、シューマッハーがレース出場の為に支払ったのは生涯でこの時だけだ。)
ミハエルが強いのはマシンが速いからだと評するドライバーもいる。それはある面では正しいかも知れないが、やはり違うと判断せざるを得ない。
彼を最も評価するべきと思うのは、チームをも強くする力では無いだろうか。最初にチャンピオンを獲得したベネトン、そして、移籍したフェラーリ。ともに、ミハエルが加入した時点では最強のチームというべき存在では無く、セカンドグループに位置するチームだった。しかし、2チームともミハエルの加入後に大きくチーム力が上がっている。
それは、シューマッハーの天性の速さと強さの他に、全力でチームのために取り組む姿勢などが自然と影響を与えたのかも知れない。またフェラーリ移籍後については、シューマッハーを追うようにR.ブラウンが移籍。F1を引退するつもりだったR.バーンも加入するなどベネトンでチャンピオンを獲得した時の主要メンバーが移籍したことになり、その効果は大きかった。
彼のレースキャリアの上で、A.セナのイモラでの事故死は大きな影響をあたえた。F1が大きな変動を受けた事故。開幕2連勝と波にのり、チャンピオン候補として名乗りを上げたシューマッハーはにとって最大のライバルは3度のチャンピオンに輝くA.セナであったが、イモラでの事故により、乗り越えるべき最大の壁であり、最大のライバルをシューマッハーは失ってしまった。
シューマッハーは最大のライバルを自らの力で倒し、自分の能力を証明するという機会を永遠に失ってしまったのである。
急遽ライバルとなったD.ヒルは当時の力ではいかにも役不足であったと言わざるを得ない。これこそ、シューマッハーにとって最大の不幸であっただろう。
また、目標達成のために完璧を期すというチーム体制は、シューマッハーの為のチームを作り上げ、彼の所属するチームは、チーム・シューマッハーというべき体制となった。デビュー当初のベネトンでは、ピケ、パトレーゼ、ブランドルなどを力でねじ伏せて勝ち取ったNo.1体制であり、それ自体は非難すべき事では無いかも知れない。なにしろミハエルは彼らに対して予選で1回も負けなかったのだから。
しかし、No.2ドライバーが彼をオーバーテイクを許されないというのは、ファンにないがしろにしているのではないだろうか。
チーム内でフェアな競争が認められないチームのチャンピオンは、ファンからの真の尊敬は得られない。なぜなら、チームメイトこそ最高のライバルであるはずだから。
チームが彼をチャンピオンにするため、彼の意志に反してチームオーダーを出すこともあるかもしれないが、2002年のヨーロッパGPを見るまでもなくファンはチームによって操作されたレースを支持することは無い。そして、その結果得られたチャンピオンに対する賞賛は、作られた操作の分だけ尊敬の念が薄れるというと言い過ぎだろうか?
しかし、少なくとも私が見たいのは同チームにあっても、競い合うセナとプロスト、ピケとマンセルの様な存在であって欲しい。
チームメイトをはじめとする全てのドライバーの挑戦を受け止め、そして退けてこそ真のチャンピオンといえるのでは無いだろうか。
しかし、彼のキャリア・実績は過去最高のものであり、その輝きはますます増しているかにも見える。しかも経験を積み、円熟味を増した現在でも、走ることが楽しいというM.シューマッハー。彼はどこまで記録を積み重ねていくのだろうか?
今、歴史が作られている場面を目撃していることは間違いない。
シューマッハ王国
http://www001.upp.so-net.ne.jp/schumi/f1.html
Michael Schumachr's Fantastic Bugle
http://www003.upp.so-net.ne.jp/mod/
Michael Schumacher Fanclub (英語)
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http://www.schumacher-fanclub.com/
MICHAEL SCHUMACHER (英語)
シューマッハのオフィシャルHP
http://sport.rtl.de/formel-1/michaelschumacher_home.php