題未亭

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ミハエル・シューマッハー

ミハエル・シューマッハー (Michael SCHUMACHER)

本   名 
ミハエル・シューマッハー (Michael SCHUMACHER)
通   称
紅い皇帝  ターミネイター   シューミ
生年月日

1969年1月3日 (ドイツ出身)

主な記録
(2004年終了時)

1990年 ドイツF3チャンピオン1990年 F3マカオGP 優勝 

1994~95年・2000~04年 F1ワールドチャンピオン

出走 211回 (歴代 2位)  (歴代1位はR.パトレーゼの256回)
優勝  83回 (歴代 1位) 
PP   63回 (歴代 2位))  (歴代1位はA.セナの65回)
FL   66回 (歴代 1位)
獲得ポイント 1186P (歴代1位)  ただし1997年度のポイントは全て剥奪されているが、生涯ポイントには計算されている

F1での主な戦績
1991年
ジョーダン191・フォード(第11戦)
ベネトンB191・フォード(第12~16戦)
決勝最高位  5位
予選最高位  5位
シリーズ   12位(4P)

◆第11戦ベルギーGPでショーダンからデビュー。スパ・フランコルシャンの難サーキットでいきなり予選7位を獲得。決勝は500mでリタイアとなったが、そのパフォーマンスをアピール。翌イタリアGPからはベネトンに移籍するといきなり5位入賞を果たす。
また、元世界チャンピオンのネルソン・ピケに対して予選では5戦中4戦で上回ったのも注目。ピケはこの年限りで引退。
1992年
ベネトンB191B・フォード  B192・フォード  
優勝     1回
予選最高位 2位
FL       2回
シリーズ   3位(53P)

◆チームメイトにはM.ブランドルが加入するが、予選では全戦でチームメイトを上回る速さを発揮。
第2戦メキシコGPで参戦8戦目にして初の表彰台を獲得(3位)。その後もコンスタントに表彰台を獲得。デビューまる一年ととなる、第12戦ベルギーGPでは、名物スパ・ウェザーにA.セナも翻弄される中、冷静にタイヤの交換を行い見事に初優勝を飾る。同時に初のFLも記録した。
1993年
ベネトンB192B・フォード   B193B・フォード
優勝     1回
予選最高位 2位
FL       5回
シリーズ   4位(52P)

◆ウィリアムズのプロストがシーズンを独走。D.ヒルがその後ろを堅実に走り、それをマクラーレン・フォードのセナが追いかける展開。シューマッハーも彼らに次ぐ存在となっていく。
第14戦ポルトガルGPでの優勝を含む9回の表彰台を獲得。しかし、残りの7戦はリタイアとなる。
チームメイトはベテラン、R.パトレーゼだったが、予選では全戦で上回る結果で圧倒した。哲人といわれたパトレーゼはこの年限りで引退する。
1994年
ベネトンB194・フォード
優勝 8回
PP  6回
FL  8回
シリーズ 1位(92P)   ワールド・チャンピオン
(第8戦イギリス・第11戦ベルギーは失格。第12戦イタリア、第13戦ポルトガルは出場停止処分)

◆前年最強を誇ったウィリアムズ・ルノーにA.セナが移籍。シーズンを圧倒するかと予想されたが、この年のウィリアムズはシーズン当初は安定を欠きドライブしにくいマシンであった。開幕2戦はPPはセナが獲得したが、決勝はミハエルが連勝。そして、運命のサンマリノGPを迎える。
PPはセナが獲得したが、2位を走るミハエルの直前でセナはコースアウト、そのまま他界してしまう。この事故により、ミハエルは最強のライバルを失ってしまった。
チャンピオン候補を失ったF1で、圧倒的な力を発揮したのはミハエルだった。セナ亡き後、第4戦モナコGPで初のPPを獲得しそのままポール・ツゥ・ウイン。
セナのNo,2だったD.ヒルとチャンピオンを争う形となったが、速さでは圧倒。2戦の失格、さらに2戦の欠場が有りながら最終戦までD.ヒルとチャンピオンを争い、結局はオーストラリアGPでの接触・両者リタイアという形で初のチャンピオンを獲得した。
1995年
ベネトンB195・ルノー
優勝 9回
PP  4回
FL  8回
シリーズ 1位(102P)   ワールド・チャンピオン

◆搭載エンジンがルノーに変更。チームメイトはJ.ハーバート。
同じルノーエンジンを積むウィリアムズのD.ヒルと前年同様チャンピオンを争うが、ミハエルが圧倒。年間9勝をあげる。
第11戦ベルギーGPでは、予選では天候に翻弄され16位となるが、決勝前には「後ろから追い上げるから、みんなちゃんとミラーを見ていろよ」とうそぶくが、その言葉通り、怒濤の追い上げで逆転優勝を遂げる。
また、予選結果ではまたもハーバートを圧倒。天気に翻弄されたベルギー以外は圧倒した。しかし、天候によるとはいえ、ベルギーでの予選結果は1991年最終戦でピケに予選で負けて以来の57戦ぶりにチームメイトの後ろからのスタートとなった。
1996年
フェラーリ F310
優勝    3回
PP     4回
FL     2回
シリーズ 3位(59P)

◆名門フェラーリに移籍。チームメイトには、E.アーバインが加入。
一時の低迷からやや復活の傾向を見せつつあったフェラーリとはいえ、94・95年は各1勝をあげていたのみだったが、シューマッハーは第5戦サンマリノGPで移籍後初のPPを獲得。第7戦スペインではフェラーリでの初優勝を飾る。その後、自身が得意とするベルギーGPで優勝後、フェラーリの地元イタリアGPでもフェラーリに1988年以来となる地元での優勝を達成。ティフォシらは新しいフェラーリのエースに熱狂した。
1997年

フェラーリ F310B
優勝   5回
PP    3回
FL    3回
シリーズ -- 位 (獲得ポイントは78点で、実質2位だったが、最終戦でのペナルティで全ポイントを剥奪された)

◆移籍2年目。チームはやや競争力をとりもどし、ジャック・ビルニューブとチャンピオンを争う。5勝をあげたミハエルは最終戦ヨーロッパGPで雌雄を決する事となる。ポジションを争っていた2台はコーナーで接触。1994年のヒルとの接触事故ではミハエルはタイトルを獲得したが、今回は逆の結果となった。接触により
ミハエルははじき飛ばされてリタイア。ビルニューブは生き残って初のチャンピオンに輝いた。
さらに、その接触についてFIAは意識的に接触をしたと判断、シーズンでの全ての獲得ポイントを剥奪された。(ただし、チームのポイントはそのまま)

1998年

フェラーリ F300
優勝    6回
PP     3回
FL     6回
シリーズ 2位(86P)

◆マシンのナロー化、グループドタイヤの採用などでレギュレーションが大きく変更。グッドイヤー+フェラーリのミハエルと、ブリジストン+マクラーレン・メルセデスのハッキネンがチャンピオンを争う。
第14戦終了時に二人は同点で並び残り2戦で雌雄を決する事となった。
第15戦ルクセンブルグGPではPPを獲得したものの予選3位のハッキネンに逆転され2位。最後の望みをかけた第16戦日本GPでもPPを獲得したものの、フォーメイションラップ中にオーバーヒートに見舞われ最後尾スタートに。これで万事休すと思われたが、ミハエルはあきらめることなくレースを追い上げ3位まで復帰して、ハッキネンにプレッシャーをかける。しかし、ハッキネンは焦らずに逃げ切って優勝。フェラーリでのタイトル獲得はならなかった。

1999年
フェラーリ F399
優勝    2回
PP     4回
FL     5回
シリーズ 5位(44P)

◆最大のライバルであるマクラーレンのミカハッキネンは絶好調。予選での一発ではハッキネンにかなわないミハエルも食い下がる。
しかし、シーズンの折り返しとなる第8戦イギリスGPで大クラッシュ。右足骨折のため以後6戦を欠場を余儀なくされる。本命の一人を失ったシーズンは、その後の6戦で5人の優勝者が出る予想のつかない展開に。チームメイトのE.アーバインはチャンピオンを争うが、マクラーレンのハッキネンがチャンピオンを獲得。しかしフェラーリはコンストラクターズタイトルを獲得した。
また、ミハエルは第15戦マレーシアGPで復帰すると、いきなりPPを2戦連続で獲得。復活を深く印象づけた。
2000年

フェラーリ F1-2000
優勝 9回
PP  9回
FL  2回
シリーズ 1位(108P)   ワールド・チャンピオン

◆チームメイトがR.バリチェロに変更。この年、BMWはウィリアムズと、HONDAはBARと組み、フォードもスチュワートを買収しジャガーで参戦。F1は自動車メーカーの対決の場となった。
序盤は3連勝で好調な出足。シーズン半ばにはリタイアも続いたが、後半第14戦イタリアGPからは4戦連続のポル・ツゥ・ウインを決め、フェラーリ移籍後5年目にして自身3度目のチャンピオンを獲得した。
また、第14戦イタリアGPではセナと並ぶ41勝目をマーク。勝利後の記者会見でこのことについての感想を聞かれたミハエルは絶句。感情を抑えきぬかのように号泣した。それを傍らで見守るのは最大のライバルであり、かってのセナのチームメイトであったハッキネンだった。

2001年
フェラーリ  (F1-2001)
優勝   9回
PP   11回
FL   7回
シリーズ 1位(123P)   ワールド・チャンピオン

シーズンを通じて圧倒。6回のポール・ツゥ・ウインを含む年間9勝をあげて2年連続、4度目のチャンピオンを獲得。アランプロストに並ぶ歴代2位の記録となる。
しかし、2度のリタイアは、サンマリノとドイツ。そしてイタリアGPでも4位と地元では何故か表彰台に乗れず。それ以外は全て表彰台を獲得していたのに意外な結果も。
2002年

フェラーリ  (F2002)
優勝 11回
PP    7回
FL   7回
シリーズ 1位(144P)   ワールド・チャンピオン

◆最大のライバルであったハッキネンが引退した結果、年間11勝をあげるという圧勝で3年連続5度目のチャンピオンを獲得。しかも全戦完走のみならず全戦表彰台の偉業も達成。チームメイトのバリチェロも4勝を含む10回の表彰台を獲得。フェラーリ二人による1-2フィニッシュも9回を数えるフェラーリの為のシーズンともいえる年となった。
タイトル決定は7月の第11戦フランスGP。これも、史上最速のチャンピオン決定となった。
しかし、第6戦オーストリアGPではトップを走っていたバリチェロがチームオーダーによりミハエルにポジションを譲るという事件が発生。これには、スタンドを真っ赤に染めていたシューマッハーファンたちも一斉にブーイングを浴びせ、世界中からも大批判を浴びた。

2003年

フェラーリ  (F2003-GA)
優勝  6回
PP    5回
FL    4回
シリーズ 1位(93P)   ワールド・チャンピオン

◆入賞が8位まで拡大しポイント配分が変更。また、予選システムも変更されシーズンは拮抗した。ライコネン、フィジケラ、アロンソが初優勝するなど年間で8人のウィナーが誕生。
年間6勝をあげたミハエルと1勝ながらコンスタントに成績を残したライコネンが最終戦日本GPまで争った。ミハエルは1ポイントを獲得すればチャンピオン決定という有利な状況ではあったが、予選グリッドは14位というポジション。しかもレース序盤に佐藤琢磨と接触し最後尾まで落ちる。しかし、そこからなんとか追い上げて8位入賞。自力で前人未踏の6度目のチャンピオン獲得を決定した。

2004年
フェラーリ F2004
優勝  13回
PP     8回
FL    10回
シリーズ 1位(148P)  ワールド・チャンピオン

◆2002年を彷彿とさせるフェラーリの圧勝したシーズン。フェラーリの1-2フィニッシュは8回を記録。全18戦というシリーズをシューマッハー+バリチェロが15勝を記録した。
ミハエルは開幕から5連勝。モナコではSC導入中に接触して、リタイアに終わるが、その後も再び7連勝を重ね、第14戦ベルギーGPでは2位となったものの、早くも
5年連続7度目の チャンピオンを決定した。
シーズン後半からは、彼の引退時期をめぐり憶測が乱れ飛んだが、本人にその意志はないようだ。
2005年
 
2006年
 
  ミハエル・シューマッハーの 全成績はこちら をご覧下さい  (F1 Data Web)
ミハエル・シューマッハーの記憶

F1史上最強と思われるドライバー、ミハエル・シューマッハー。ほとんどあらゆる記録を更新し、最も成功したドライバーの一人であることは間違いない。真面目で、完璧主義。妥協を許さずベストを尽くす様は、最強のプロのドライバーであり、記録にも記憶にも残るドライバーと言えよう。
(以下、文中のシューマッハーは全てミハエル・シューマッハーをさします)

しかし、反面その完璧さ故にファンの望まないレースを行うこともあり、そのあたりが彼の評価の難しいところかも知れない。

彼がその名を広く知られるようになったのは、90年のマカオGPでハッキネンとの対決で勝利を得たあたりからだろうか。この年ドイツF3を制したシューマッハーは、同じくイギリスGPを制したミカ・ハッキネンとマカオGPで対決。第1レースではシューマッハーはトップのハッキネンから約2秒のビハインドで2位となっていた。続く第2レース。1位を走行するシューマッハーにハッキネンはピタリと2秒以内につける。このままなら、ハッキネンの総合優勝、と思ったところ、前を行くシューマッハーのラインがアウトにより、続くコーナーへのインが開いたかに見えた。そこにレーサーとしての本能で飛び込もうとするハッキネンとドアを閉めたシューマッハー。後に因縁の対決となる二人の対決は、ハッキネンの自爆という形で最初の決着をみた。表彰台の中央で喜ぶシューマッハーと、コース脇で泣きじゃくるハッキネン。対照的な勝者と敗者の姿だった。

翌91年、ハッキネンはロータスからF1デビュー。一方シューマッハーはF1へステップアップ出来ず、スポットで全日本F3000に参戦するなどの活動を続けていた。そして、突然シューマッハーにチャンスがやってくる。ジョーダン・グランプリからデビューのチャンスがやってきたのだ。初めてのF1参戦はベルギーGP、難コースと知られるスパ・フランコルシャン。いきなり予選で7位を獲得。これは過去のジョーダンの最高グリッドであり、ベテランのA.デ.チェザリスを上回るものであり、F1関係者に衝撃を与えた。(余談では有るが、シューマッハーはこのジョーダンでのデビューにあたり、事前テストで1500万円、さらに参戦の為に3000万円を支払っている。しかし、シューマッハーがレース出場の為に支払ったのは生涯でこの時だけだ。)


ミハエルが強いのはマシンが速いからだと評するドライバーもいる。それはある面では正しいかも知れないが、やはり違うと判断せざるを得ない。
彼を最も評価するべきと思うのは、チームをも強くする力では無いだろうか。最初にチャンピオンを獲得したベネトン、そして、移籍したフェラーリ。ともに、ミハエルが加入した時点では最強のチームというべき存在では無く、セカンドグループに位置するチームだった。しかし、2チームともミハエルの加入後に大きくチーム力が上がっている。
それは、シューマッハーの天性の速さと強さの他に、全力でチームのために取り組む姿勢などが自然と影響を与えたのかも知れない。またフェラーリ移籍後については、シューマッハーを追うようにR.ブラウンが移籍。F1を引退するつもりだったR.バーンも加入するなどベネトンでチャンピオンを獲得した時の主要メンバーが移籍したことになり、その効果は大きかった。

彼のレースキャリアの上で、A.セナのイモラでの事故死は大きな影響をあたえた。F1が大きな変動を受けた事故。開幕2連勝と波にのり、チャンピオン候補として名乗りを上げたシューマッハーはにとって最大のライバルは3度のチャンピオンに輝くA.セナであったが、イモラでの事故により、乗り越えるべき最大の壁であり、最大のライバルをシューマッハーは失ってしまった。
シューマッハーは最大のライバルを自らの力で倒し、自分の能力を証明するという機会を永遠に失ってしまったのである。
急遽ライバルとなったD.ヒルは当時の力ではいかにも役不足であったと言わざるを得ない。これこそ、シューマッハーにとって最大の不幸であっただろう。

また、目標達成のために完璧を期すというチーム体制は、シューマッハーの為のチームを作り上げ、彼の所属するチームは、チーム・シューマッハーというべき体制となった。デビュー当初のベネトンでは、ピケ、パトレーゼ、ブランドルなどを力でねじ伏せて勝ち取ったNo.1体制であり、それ自体は非難すべき事では無いかも知れない。なにしろミハエルは彼らに対して予選で1回も負けなかったのだから。
しかし、No.2ドライバーが彼をオーバーテイクを許されないというのは、ファンにないがしろにしているのではないだろうか。

チーム内でフェアな競争が認められないチームのチャンピオンは、ファンからの真の尊敬は得られない。なぜなら、チームメイトこそ最高のライバルであるはずだから。
チームが彼をチャンピオンにするため、彼の意志に反してチームオーダーを出すこともあるかもしれないが、2002年のヨーロッパGPを見るまでもなくファンはチームによって操作されたレースを支持することは無い。そして、その結果得られたチャンピオンに対する賞賛は、作られた操作の分だけ尊敬の念が薄れるというと言い過ぎだろうか?
しかし、少なくとも私が見たいのは同チームにあっても、競い合うセナとプロスト、ピケとマンセルの様な存在であって欲しい。

チームメイトをはじめとする全てのドライバーの挑戦を受け止め、そして退けてこそ真のチャンピオンといえるのでは無いだろうか。

しかし、彼のキャリア・実績は過去最高のものであり、その輝きはますます増しているかにも見える。しかも経験を積み、円熟味を増した現在でも、走ることが楽しいというM.シューマッハー。彼はどこまで記録を積み重ねていくのだろうか?

今、歴史が作られている場面を目撃していることは間違いない。

関連サイト

シューマッハ王国
http://www001.upp.so-net.ne.jp/schumi/f1.html

Michael Schumachr's Fantastic Bugle
http://www003.upp.so-net.ne.jp/mod/

Michael Schumacher Fanclub (英語)
ファン・クラブの公式HP
http://www.schumacher-fanclub.com/

MICHAEL SCHUMACHER (英語)
シューマッハのオフィシャルHP
http://sport.rtl.de/formel-1/michaelschumacher_home.php



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