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皇室典範改正を勧告 選択的夫婦別姓導入を―国連委【パリ時事】国連女性差別撤廃委員会は29日、8年ぶりに行った対日審査の「最終見解」を公表し、女性皇族による皇位継承を認めていない皇室典範の改正を勧告した。選択的夫婦別姓の導入に向けた法改正も求めた。最終見解に法的拘束力はない。 皇室典範は「皇位は皇統に属する男系男子が継承する」と定めてある。国連委は前回2016年の審査時、最終見解案に見直しを求める記述を盛り込んだが、日本政府が手続き上の問題などを理由に反論し、削除された経緯がある。 今月17日にスイス・ジュネーブで行われた審査で日本政府は「皇室制度は歴史や伝統を背景に、国民の支持を得て今日に至っている」と強調。皇位継承の在り方は「国家の基本に関わる事項で、委員会が取り上げることは適当ではない」と主張した。 これに対し最終見解は、皇室典範の規定が女性差別撤廃条約の「目的・趣旨に反する」と指摘。他の条約締約国を参考にしながら「皇室典範を改正し、皇位継承における男女平等を保証するよう勧告する」とした。 一方、同委は03年、09年、16年と過去3回の審査で、夫婦同姓を義務付けた民法の規定が「差別的」だと繰り返し指摘。前回16年は法改正に「遅滞なく取り組む」ことを促していた。 ただ、日本政府は今回も、選択的夫婦別姓を巡り「国民の意見は分かれている」として、導入には「幅広い国民の理解を得る必要がある」と慎重姿勢を崩さなかった。このため同委は、今後2年以内に勧告の実施に向けて講じた措置を報告するよう日本に求めている。皇室典範改正を勧告 選択的夫婦別姓導入を―国連委:時事ドットコム 皇室典範にも言及し、「改正により男女の平等な皇位継承を保障すべきだ」と勧告した。皇室典範は同委員会の審査対象ではないとする日本政府の立場に触れる一方、継承を男系男子に限るのは女性差別撤廃条約に反すると指摘した。国連委、夫婦同姓義務見直し求める 皇室典範にも言及 - 日本経済新聞神の子孫とか万世一系とか、男系男子に保守派はこだわっているようですが、アベの時の義論で正妻の子で天皇についたのは5人ほどであとは側室の子どもと知って驚きました。生殖が天皇の重要な仕事とはいえ、難儀なことです。皇位継承者を男子だけに限り、しかも妾NGの現代では、この制度に無理があるように思います。朝日新聞が補足的にいくつか記事をアップしていました。女性差別撤廃委、皇室典範改正を勧告 識者「日本は世界の流れ逆行」国連の女性差別撤廃委員会(CEDAW)は29日、日本政府に対する勧告を含む最終見解を公表した。最終見解では、皇位継承における男女平等を保障するため、男系男子のみが皇位を継承することを定める皇室典範を改正するよう勧告した。象徴天皇制について研究する名古屋大学大学院の河西秀哉准教授は、「勧告によって、議論が進むことを期待する。勧告は、長年国内での議論を先送りにしてきた結果ともいえる」と話す。皇位継承については、憲法第1章第2条で「皇位は世襲のものであって、国会の議決した皇室典範の定めるところにより、これを継承する」と明記されている。皇室典範は1947年に公布された法律で、第1章第1条で「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する」と定めており、天皇には、父方が皇族の男性に限ってなれるとする。第2条には継承の順位を規定しており、天皇の長男を意味する「皇長子」を1位としている。女性差別撤廃委、皇室典範改正を勧告 識者「日本は世界の流れ逆行」:朝日新聞デジタル「家父長的な固定観念が背景に」 国連の担当委員、日本勧告を語る女性差別撤廃条約の実施状況を審査する国連の女性差別撤廃委員会が8年ぶりに日本のジェンダー平等への取り組みについて審査し、日本政府に対する勧告を含む「最終見解」を公表しました。選択的夫婦別姓の導入を求めたほか、「男系男子」が皇位を継承することを定める皇室典範の改正を勧告しました。これに先立ち、日本審査をまとめる「報告者」を担当したバンダナ・ラナ委員が朝日新聞の取材に応じ、審査を振り返りました。 ――今回の日本審査を通じて感じた良い点と悪い点を教えて下さい。 いくつかの前向きな政策を打ち出していることは進展であり、努力の成果です。例えば、2016年の前回審査以降、法改正で、女性にのみ課されていた離婚後100日の再婚禁止期間が廃止されたほか、〇行為に同意するかを自分で判断できるとみなす「性交同意年齢」は13歳から16歳に引き上げられました。 根強い課題の一つは、日本文化に深く根付いた、家父長制的な観念にあると感じます。行政や法的手続きなど、あらゆる面に反映されています。 議員や、企業の管理職、法曹界に、女性の割合が少ないなど、政治、経済、司法の分野で意思決定をする地位に女性が少ないことも課題です。「家父長的な固定観念が背景に」 国連の担当委員、日本勧告を語る:朝日新聞デジタル他にも、スペイン出身の委員が、自身もスペイン王政の皇位継承について勧告しており、日本だけを狙い撃ちしているわけではないと話していました。国王だけというのは、女性差別撤廃条約の観点からはNGのようですね。
2024.11.06
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皇室の祖先を祀るとされる伊勢神宮。天皇の代替わりもあって、新年も多くの参拝者で賑わうだろう。しかし、かつてその近くにあった「韓神山(からかみやま)」の跡を訊ねると、伊勢神宮と天皇家の別の顔が見えてくる。<片岡伸行> 天皇・皇后(徳仁・雅子)夫妻は11月21日から23日まで、三重県伊勢市の伊勢神宮を訪れ「即位」の報告をした。出迎えたのは2005年に皇籍を離脱し、17年から現職に就く黒田清子(くろださやこ)祭主である。 天皇参拝の喧騒とは打って変わり、翌週11月28日の伊勢市内は閑散としていた。私は同日、天皇の参拝経路「御幸道路」が近くに走る、近鉄鳥羽(とば)線・五十鈴川(いすずがわ)駅に降り立った。「伊勢郷土会」の石井昭郎(いしいあきお)副会長と待ち合わせ、「韓神山(からかみやま)」に向かうためである。この山の存在は金達寿(キムタルス)の本で知った。 天皇家ゆかりの伊勢神宮の近くに、なぜ「韓国(からのくに)の神」とも読める名称の山があるのか。謎の多い韓神山を紹介する前に、伊勢神宮の創建からざっと見ておこう。◆伊勢神宮の創建 伊勢神宮には「内宮(ないくう)」(皇大神宮・こうたいじんぐう)と「外宮(げくう)」(豊受大神宮・とようけだいじんぐう)という二つの正宮(しょうぐう)がある。 720年に編纂(へんさん)された『日本書紀』「垂仁」の条は<祠(ほこら)を伊勢国に立てられた。そして斎宮(いつきのみや)を五十鈴川のほとりに立てた。これを磯宮(いそのみや)という>と記す。これに基づき、伊勢神宮は内宮の創建を「垂仁天皇26年」(紀元前4年)とする。 しかし、11代「垂仁」は実在が定かではない。『日本書紀』が編まれた700年以上前、文字のない弥生時代からの伝聞で異説も多く「後付けの神話」と言えよう。 斎宮とは天皇の代わりに神に奉仕する未婚の皇女(斎王・さいおう)が執務する場所だが、「磯宮」と記され、「神宮」という名称が使われていないことに留意されたい。一方、内宮創建から500年近くあと、21代天皇「雄略(ゆうりゃく)」が建てた(当時の丹波(たんば)国から伊勢山田原(やまだのはら)に遷(うつ)した)とされるのが現在の豊受大神宮=外宮である。 平安時代初期(804年)の『止由気宮(とゆけぐう)儀式帳』の記述に基づき、伊勢神宮は外宮の創建を「雄略天皇22年」(478年)とする。が、『儀式帳』に記される300年以上前の古墳時代のことだ。 実は「神宮」の名称が使われ始めたのは8世紀以降である。それ以前は「伊勢・大倭(やまと)・住吉(すみのえ)・紀伊(きい)の大神(おおかみ)」(『日本書紀』持統(じとう)天皇の条、692年)とあるように、伊勢大神は他の神社と並列され、特別の地位にはなかった。 「神宮」という呼称を歴史上初めて使ったのは、紀元前から朝鮮半島南東部にあった国・新羅(しらぎ)だとされる。半島に現存する最古の歴史書『三国史記(さんごくしき)』の「新羅本紀」第21代および22代王の条に<始祖の誕降の地、奈乙(ナウル)に神宮を創立>とある。5世紀後半のことだ。 一方の伊勢神宮は7世紀後半(673年)に即位した40代「天武(てんむ)」が現在につながる形に整備したとされる。「神宮」の称号だけでなく、「斎宮制」も新羅から来たとする説がある。◆天皇家との関係 冒頭で触れた「祭主」というのは、伊勢神宮のみに置かれる、神宮を司るトップの役職である。 天皇家との関わりが深いとされる伊勢神宮なので、歴代祭主は皇族ないし皇族から離脱した女性のように思われがちだが、そうではない。女性祭主は敗戦後からで、初代は1947年就任の北白川房子(きたしらかわふさこ・明治天皇の七女)。黒田祭主で4人目だ。「天皇の娘」が祭主になる(「皇室典範」にはない)習わしからすれば、次期祭王は愛子内親王(あいこないしんのう)ということになる。 皇族が祭王になったのも、国家が神道を管理下に置いた「国家神道」期の明治時代からで、1875年(明治8年)に就任した久邇宮朝彦(くにのみやあさひこ)が最初だ。それまで約300年間の大半は伊勢国度会(わたらい)郡出身の、皇族ではない「藤波家」が世襲で祭主を務めていた。 古代に未婚の皇女を「斎王」としていたと前述したが、それも室町時代の14世紀末に途絶え、以後は前述の藤波氏が祭主になった。天皇家と伊勢神宮との関わりは、思われているほど緊密ではない。 そもそも、歴代天皇で最初に伊勢国を「行幸」したのは「持統」で、『日本書紀』によれば692年のこと。以後、1869年に明治天皇が「参拝」するまで1200年近く、歴代天皇は誰も訪れていない。平安時代以前は伊勢に限らず、天皇が神社に参拝する制度もなかった。なぜなら、天皇家が祀(まつ)る神は「宮中(きゅうちゅう)」にいたからだ。 こうして見てくると、伊勢神宮と天皇家との関係は150年ほど前の明治時代以降、国家神道によって政治的に作られたものであることがわかる。それまでの慣例を破って明治天皇が参拝したのも、国家神道の中心地・伊勢神宮の権威づけのための政治的パフォーマンスであったのだろう。◆園神・韓神と賢所御神楽 天皇家が祀る神は「宮中」にいたと前述したが、その宮中において天皇家の守り神とされたのが最古神とされる「園神(そのかみ)・韓神(からかみ)」である。園神は新羅の神、韓神は百済(くだら)の神とされる(注1)。 平安時代に宮中で盛大に行なわれていた「園神祭」「韓神祭」は中世以後に廃絶したとされるが、その精髄は現在も宮中で催される「御神楽(みかぐら)」に継承されている。 憲法違反が指摘されながら約166億円もの税金を費やした「即位の礼」や「大嘗祭(だいじょうさい)」などの主行事は終了したが、関係儀式は続き、その最後を飾ったのが「宮中三殿(きゅうちゅうさんでん)」の一つ「賢所(かしこどころ)」で12月4日に行なわれた「賢所御神楽の儀」である。<とかく神楽といえば、日本固有の神事的歌舞とのみ考えられやすいが、それは根本的に誤りである>と、京都大学元名誉教授の上田正昭(うえだまさあき)は『日本の古典芸能1 神楽』の中で指摘する。というのも、宮中で歌われる神楽歌の「韓神」に次の一節がある。 <三島木綿(みしまゆふ) 肩に取り掛け われ韓神の 韓招(からお)ぎせむや 韓招ぎ韓招ぎせむや〉(注2) 賢所の庭に庭燎(にわび)を焚き、笛や篳篥(ひちりき)、和琴(わごん)の伴奏で歌われ、宮中に韓神を迎えて祀る。 現在も「韓神」が歌われるのかどうか、「一般の見学はできない」(宮内庁)ので確認できない。しかし、朝鮮半島との関わりの濃厚な神を古くから祀り崇(あが)めている事実などから、倭(わ)国を統一した天皇家の祖先は半島から渡来した朝鮮民族であると、複数の研究者が指摘している。 ここにきてようやく、伊勢神宮内宮の近くになぜ「韓神山」があるのかという謎に近づいてきた。天皇家とつながる古代朝鮮半島の残像(26日の日記) | より良い明日をめざして - 楽天ブログ (rakuten.co.jp) ◆韓神山と山宮祭場 「韓神山は現在の地図に載っていませんが、元禄時代の絵図にその名が記されています」 伊勢市中村町(なかむらちょう)の共有財産自治会が保管する「元禄二年」(1689年)の日付の入った「彩色絵図」。現在の中村町と隣の楠部町(くすべちょう)による土地境界争いで、当時の奉行「岡部駿河(おかべするが)」が裁定した際に作成されたのがこの絵図だ。 絵図には<加らかみ山森>とあるが、境界論争の古文書では<韓神山>と表記されている。 「今のところ、これが韓神山の歴史的な初見です」 石井副会長の執筆による論考「中村・楠部村境界争論の展開」(『伊勢郷土史草第9号』所収・1976年)によれば、当時の中村町文書には<韓神山>のほかに<唐木挟(ときばさ)>という地名も見える。「挟」とは桶狭間(おけはざま)が「おけばさま」と読まれることがあるように起伏ある地という意味だろうか。「唐木」は「韓から来た」(韓来)と解すこともできる。韓神山と唐木挟。いずれも江戸時代には存在した地名が今は消えている。 石井副会長に案内された「韓神山」は伊勢市楠部町の五十鈴川のほとりにあった。竹林の茂る森の頂上部に「韓神社」の祠が建つ。 「現在は地元の医師が管理しておられますが、江戸時代の地誌『楠部雑記』によれば、元の所有者は地元の有力者で、その後、内宮神主である荒木田(あらきだ)一門の所有になったと記されています。近くに、その荒木田家の墓所があります」 韓神山の南麓、荒れた森林内の倒木をまたぎながら道なき道を分け入ると、「小谷(おだに・尾谷)」と呼ばれる谷間(たにあい)の低地に二つの巨大な岩崖がある。ここで荒木田一門は「山宮祭(やまみやまつり)」と呼ばれる同族の祖先祭を行なっていた。かつては岩前に多くの墓石が立ち並んでいたというが、今は荒れ果て、<元禄十三年>と刻まれた墓石や五輪塔の上部が周辺に転がっていた。◆荒木田氏と渡来の痕跡 伊勢神宮内宮の禰宜(ねぎ・注3)を代々務めた荒木田家だが、その出自はよくわかっていない。 伊勢地方には元々、伊勢神宮の創建前から朝鮮半島からの移住者が暮らしていた痕跡が多数残る。津市の「六大A遺跡」では弥生時代後期から古墳時代の古式土師器(はじき)、韓式系土器、初期須恵器(すえき)、須恵器などが多数出土。かつて「斎宮」のあった伊勢市隣の多気(たき)郡明和町(めいわちょう)の「北野(きたの)遺跡」からも土師器、須恵器などが出土している。 このうち土師器とは、百済王の子孫とされる「土師氏」の一族が製法を伝えたことからその名がついた。須恵器は朝鮮半島南部の伽耶(かや)諸国の流れを汲む硬質の土器で、これが中世以降の陶器につながる。その伽耶(加羅・から)諸国の一つに「安羅(あら・阿羅)」がある。 岡谷公二(おかやこうじ)は『伊勢と出雲』で、「荒木」姓は安羅から来た「安羅来」だと、平林章仁(ひらばやしあきひと)・龍谷大学元教授や金達寿らの指摘を紹介する。「新羅」が「白城(しらき)」や「白木(しらき)」「信露貴(しろき)」などに置き換わり、神社名や地名に広く用いられているのと同じだ。 荒木田氏も安羅から来て、祖先をこの地に祀ったのだろうか。 荒木田氏の本拠地は現在の度会郡玉城町(たまきちょう)で、一族の氏神を祀った「小社(おごそ)神社」が残る。津市の「大乃己所(おおのこそ)神社」、四日市市の「小許曽(おごそ)神社」など「コソ」とつく神社は大阪や福岡など全国各地に存在する。これも岡谷が前述の著書で詳細に述べているが、「コソ」とは古代朝鮮語で社ないし聖地の意である。日本では「社」を「こそ」とも読む。 小社神社の南を流れる宮川(みやがわ)の対岸には「園相(そない)神社」が建つ。「園」は、「新羅の神」とされる「園神」を想起させるが、実際ここの字名(あざめい)は「白木」である。 奈良時代に書かれた『伊賀國風土記(いがのくにふどき)』逸文に伊賀(現在の三重県伊賀市)の国名の由来を述べた記述がある。「伊賀国」は最初「伊勢国」に属していたが、国名が十余年定まらないことがあったと説かれ、次の記述が出てくる。<その間、加羅具似(からくに)と言われた> 加羅具似(カラクニ)とは「韓国(からくに)」のことであろうか。 「山宮祭は江戸時代まで行なわれており、明治を境に廃れていったようです」と石井副会長は言う。 実は、荒木田氏も藤波家も、外宮の禰宜を世襲した度会氏も、国家神道への移行に伴い、神宮から排除された。やがて天皇家が中心に座った。そして韓神山は地図から消えた。しかし、古代朝鮮半島との関連を示す残像はこうして各所に眠っているのである。(文中一部敬称略)(注1)『延喜式(えんぎしき)』神名帳に「宮内省坐神三座」の「園神社・韓神社二座」がある。「古事記」上巻「大年神(おおとしのかみ)」の系譜に<韓神><曾富理神(そほりのかみ)>があり、この<曾富理神>が「園神」とされる。「曾富理」は『日本書紀』に、素戔嗚(すさのお)とその息子五十猛(いそたける)がいたと記される新羅の「曾戸茂梨(ソシモリ)」との関連が認められることなどから、多くの研究者が「新羅の神」とする。「韓神」は、平安京遷都以前に園韓神を祀った敷地(山城国葛野(やましろのくにかどの)郡大村=現在の京都市下京区・南区)が百済系の秦(はた)氏の所有地であったことから「百済の神」とされる。(注2)「韓招ぎせむや」は「韓神をお招きしよう」の意。(『古代歌謡集(日本古典文学大系)』(小西甚一校注、岩波書店)。(注3)宮司を補佐する神職名。《参考文献》金達寿『占代朝鮮と日本文化』(講談社学術文庫)、藤谷俊雄・直木孝次郎『伊勢神宮』(新日本新書)、末松保和「新羅史の諸問題」(東洋文庫)、岡正雄・石田英一郎・江上波夫・八幡一郎『日本民族の起源』(平凡社)、上田正昭・本田安次・高取正男ら著、芸能史研究会編・『日本の古典芸能1 神楽』(平凡社)、土橋寛『占代歌謡と儀礼の研究』(岩波書店)、岡谷公二『伊勢と出雲』(平凡社新書)。<かたおか のぶゆき・記者> 2019年12月20日/2020年1月3日合併号 「週刊金曜日」 1262号 24ページ「伊勢神宮の隣にあった『韓神山』」から後半を引用天皇家とつながる古代朝鮮半島の残像-その2(27日の日記) | より良い明日をめざして - 楽天ブログ (rakuten.co.jp)アベと統一教会のことを調べていたら、上記の記事を見つけました。引用された原文はすでに削除されているようです。天皇の伊勢詣では、明治天皇からのとても新しい慣習なのですね。祭主が皇室関係者、女性が務めるというのも新しいということを知りました。次は愛子さん?学習院で日本文学を学んだのも、これと関係があるのでしょう。天皇家が祀る神は「宮中」にいたと前述したが、その宮中において天皇家の守り神とされたのが最古神とされる「園神(そのかみ)・韓神(からかみ)」である。園神は新羅の神、韓神は百済(くだら)の神とされる(注1)。平安時代に宮中で盛大に行なわれていた「園神祭」「韓神祭」は中世以後に廃絶したとされるが、その精髄は現在も宮中で催される「御神楽(みかぐら)」に継承されている。宮中行事には疎いですが、天皇が新羅・百済と朝鮮の神をあがめていたというのは面白いですね。今年の大河ドラマは平安時代の宮中が舞台ですが、この「園神祭」や「韓神祭」を再現してほしいですね。直木幸次郎、上田正昭と、なつかしいお名前です。歴代最長の政権を誇るアベがこの歴史を知っていたのか定かではありませんが、「美しい日本」といって伝統を強調してきた政治家です。韓国由来の天皇家にならって、アベも韓国の宗教(欧米ではカルト扱いだそうです。)に傾倒していたということなのでしょうか。荒木が安羅(あら・阿羅)来(あらき あらから来た人)というのも興味深いです。学生の頃京都で家庭教師をしていたお宅は、秦さんでした。勤務していた会社の人事部長は、百済さん。天皇家に限らず、私のまわりにも古代の朝鮮半島由来の人たちが散見されます。関西に限らず埼玉にも朝鮮ゆかりの日高市があります。日高市では、「高麗(こま)」という地名や、「高麗神社」や「高麗川」などの名称を目にします。これは、古代朝鮮半島「高句麗(こうくり)」と深い関わりがあったことを表しています。716年(霊亀2年)に、「高麗郡」が置かれ、高麗人たちが移住しました。「郡」とはいくつかの町村をまとめた広い行政区画のことです。 江戸時代の末頃には、日高市・飯能市・鶴ヶ島市の全域と、狭山市・川越市・入間市・毛呂山町の一部を含んだ範囲を「高麗郡」と呼んでいました。高麗郡建郡1300年の歴史と文化/日高市ホームページ (hidaka.lg.jp)
2024.09.29
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