そういちの平庵∞ceeport∞

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金子光晴


1965 光文社・1996 講談社文芸文庫

この本は金子光晴が高度成長の絶頂期の70歳のときに綴ったものであるということ

日本を憂える日本人も、日本を楽観したい日本人も、そのいずれもが虚心坦懐に、ただし一気に読んだほうがいい一冊だということ、
そしてこのような本を書ける世代は今日の日本にはもういないだろうということである。

話は明治の日本から始まる。金子が生まれたのが明治28年だったからである。北村透谷が自殺した翌年だった。
 生まれてまもなく口減らしのために養子に出た。虚弱な体だったが、10歳のころに「男女の区別なく、友人に、たんなる友情ではがまんのならない、激しい愛情の接触を求めていた」。男生徒と裸のまま一晩抱きあっていたこともあったという。
 その明治を「ひげ」が君臨し、「ひげ」が威張っていた時代だったと金子は見ている。天皇も政治家も役人も巡査も、たしかに「ひげ」をたくわえていた。その前の江戸の社会は「ひげのない政策」だった。武士や庶民に虚勢をはらせない政策である。それが明治で緩んだ。「ひげ」の虚勢が全面に出た。

江戸と言う日本独自の文化から劣等感に満たされた西欧化が生みだした感情
身分制度から立身出世にいたる行き方は親が子供に過剰に期待する時代になった
この事柄は未だにこの国に蔓延する諸問題の根だと思う

金子のまわりでは痛ましく傷ついていった男たちと驕慢な虚栄を嘯いていた男たちのいずれかが、頻繁に通りすぎていく。いや倒れていく。金子はその一部始終を見逃さない。立派な「ひげ」を生きた明治の父親たちが明治の息子たちを苦しめたのだ。

大正の移入文化がいかに浅いものかは、ヨーロッパの「石と鉄の文明の深さ」を見れば一目瞭然である。
 けれども、日本人がヨーロッパでヨーロッパ人になることも不可能なのである。それはまたもっと滑稽だ。その滑稽はヨーロッパでさんざん見た。では、それに対抗するはずの日本がもつ「紙と竹と土の文化の幻想的な美しさ」が、金子を救ってくれたかというと、そこは、「大正を生きた僕には、もう、帰ろうにも帰れない滅びた世界」となっていた。「明治精神が、それを断絶してしまった」のだった。

金子はついに日本を脱出することにする。船の中ではアジア人たちの強欲だが赤裸々な生き方を見せつけられた。ヨーロッパではめちゃくちゃな仕事をして暮らしのカテにしていた変な日本人ばかりに会った。
 それでも、そんなことをしていれば、日本の国内で外国文学に憧れていた連中の化けの皮がどういうものだったかは、あからさまに見えてくる。「彼らは、外国文学によって、自己を発見する方法を学びうると信じている。その自己によって、日本人である自分と、まわりにいる日本人を区別し、日本人に絶望すると同時に、おなじく日本人である自分にも絶望せざるをえない、サディズムの甘渋い味を知った」。

関東大震災で「大正人のきれいなうわっつらがひんめくられ、昔ながらの日本人が、先方から待っていたとばかりに、のさばり出てきた」。
 このときに登場する日本人を、金子は鋭く見抜く。「それは僕ら自身のなかから、拘束し、干渉するものがいないとわかって、無遠慮に、傲慢に、鎖をはずされたならず者のように、口笛をふきながら、あたりを尻目に駆けて出てきた、ほんとうの日本人なのだ」。この日本人は、「朝鮮人が井戸に毒を投げこんでいる」といった流言飛語をまき、それに乗っかっていったアモック(狂乱)な日本人である。このアモックな日本人を利用して、日本の軍部がのし上がる。金子はそのように見てとった。
 いや軍部ばかりではない。「無政府主義者を名のる若い詩人たちが、新宿、池袋から、白山あたりを横行し、詩をどなったり、飲んであばれたり、けんかをしたり、持てるものから金を強要したりしてあるいた」。
 そんななか、金子は生まれたばかりの長男をあずけて、母親と二人で上海にわたり、そこを振り出しに7年間にわたる二度目の海外旅行に出掛けてしまう。しかし彼の地で金子がしたことは、中国で無政府主義くずれの連中と、内外綿行などを相手に理由かまわぬ金を強要するようなことだった。そういうことを金子は赤裸々に告白しつづける。こうして金子は2年をかけてパリに舞い戻る。

 日本は昭和の時代になっていた。ふたたび浦島太郎のエトランゼの資格を得て日本に帰ってきた金子は、パリの日本人とは正反対の男たち、たとえば山之口獏と正岡容と知りあう。
 二人はそれこそ破天荒な貧乏を遊んでいた男たちにすぎなかったが、満州事変が世界の話題になってきた時代には、この二人にくらべると、多くの日本人に欠けているものが見えてきた。「日清、日露の戦争のときには、国の内部に軍の実力への半信半疑が湧いてくるのを、民衆がスバーしようとした若い情熱があった。しかし、昭和の民衆は、この情熱をもう持ちあわせていない」のである。昭和の日本人は軍というものから心が離れていたのだ。
 これがいいようで、実は悪かった。日本は軍部とテロルの花園となり、「昭和人は勘定高くなっていった」。そんななかで本物の戦争が動き始めたのである。満州帝国という“もうひとつの日本”がつくられつつあったのだ。金子は中央公論社の畑中繁雄のすすめもあって、自分の目で「戦争」と「満州」を見る必要を感じる。金子は輸送船で荷物となって神戸を出港した。
 そこで見たものはいろいろあったが、一言でいえば「日本軍が理想を失って、指揮者が戦争に熱がないくせに、兵士にむりに忠誠を誓わせたこと」、これである。

 金子は綴る。「日本人の美点は、絶望しないところにあると思われてきた。だが、僕は、むしろ絶望してほしいのだ」。「日本人の誇りなど、たいしたことではない。フランス人の誇りだって、中国人の誇りだって、そのとおりで、世界の国が、そんな誇りをめちゃめちゃにされたときでなければ、人間は平和を真剣に考えないのではないか」とも綴る。
 そして、この『絶望の精神史』は、次の言葉で結ばれる。「人間が国をしょってあがいているあいだ、平和などくるはずはなく、口先とはうらはらで、人間は、平和に耐えきれない動物なのではないか、とさえおもわれてくる」。

開高健により彼のことを知り中公文庫の彼の作品を読み
20年以上経った

息子が招集されることになった。金子は医師の診断書を入手して息子を戦地に行かせないために、とんでもないことをする。息子を応接室にとじこめて、ナマの松葉を燻す。いっぱいの洋書をリュックサックに入れて、これを背負わせ1000メートルを駆け足させる。「その難業を続けさせる自分が鬼軍曹のように思われてきて」、さすがに金子は閉口するが、このサボタージュはなんとか成功した。
 かくて、招集をぬらりくらりと逃げとおした息子と二人で、疎開先の山中湖で金子は玉音放送を聞く

、「一人の女に袖にされ、他の女のところへ行ったが、そこでも相手にされず、また元の女に戻ってきた惨めな男」のように、モーニングを着て山高帽を被って、「家並みの低い、とりとめのない、ゴミ捨て場のような港、神戸に帰ってきた」。しかし、ひとつだけ自信が出てきていた。金子は日本でもエトランゼでありつづけられそうだったのだ

こう書くと簡単なことのようだが金子光晴はこの国が生んだ巨星である

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