そういちの平庵∞ceeport∞

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灰谷健次郎


「兎の眼」に「太陽の子」そして「私の出会った子供達」
苦しかった時代にも再読再々読する
浦河で出会った向谷地PSWも彼のファンだ
彼の自宅のテーブルに無造作に「私の出会った子供達」の文庫が置いてあり
ああやっぱりと1人納得した記憶がある

「出合ったものは、それが人でも、ものでも、かけがえのない大事なものじゃ。」というじいちゃんの精神が倫太郎の中に生きているのだ。

倫太郎について、園子さんはこう言っている。

「あなたは人とつながることしかしなかった。つながったものは、みな大切にして、なに一つ、見捨てたり、切り捨てたりしなかった。そうして、あなたは、あなたのやさしさを育てていったのよね。」『天の瞳』より

彼の生い立ちも結構僕と重なるものがある

 誕生~教師時代

灰谷健次郎氏は、一九三四年十月三十一日、兵庫県神戸市に父又吉、母つるの七人兄妹の三男として生まれる。

神戸市立垂水中学校卒業後、高校進学を希望していたが、家が貧しかった為断念する。働きながら定時制高校商業科(神戸市立湊高等学校)に通った。

一九五四年四月、大阪学芸大学(現国立大阪教育大学)に入学。教師を志したからではなく、教師になれば、ひまができて小説が書けるという傲慢な気持からであった。この頃から小説を書き始める。翌年、放蕩がひどくなる。睡眠薬を飲み始め、量もだんだん増えていった。

一九五六年、二十二歳の時、神戸市立学校教員となる。作文教育にうちこんだ。児童詩誌「きりん」を知る。また、詩誌「輪」の同人となり、詩人として活躍した。

 長兄の自死

一九六七年、四月二日、長兄吉里が自殺をする。灰谷健次郎氏、三十三歳の時だった。翌年には母つるが死去し、教師として、人間としての生き方に迷いを持ちはじめる。灰谷氏にとって、長兄の自死は重くのしかかり、ヨーロッパ、地中海、中近東、インドを放浪するが、挫折感は強くなるばかりだった。そして一九七二年五月、三十八歳、兄の自死から立ち直れず、学校を辞め、十七年間の教師生活にピリオドをうつ。そして退職後は東南アジア、沖縄に行く。

沖縄を訪れ、沖縄のパイン工場で働いていたある日、海に行くと貝を拾っているオッサンを見かける。

「船、二度沈めてしもてな。よめはんと娘、殺してしもた」

(略)

「神も仏もないですね」

ぼくは媚びたことをいってしまった。

「そやない」

男はきっとした表情になっていった。

「わしは自分を責めて生きとる」

(『わたしの出会った子どもたち』)


その話をパイン工場ですると、パイン工場で働いている沖縄のオバチャンのトミさんは「そりゃまちがいさ」「自分を責めて生きても、死んだ人は喜ばんさ。」と言った。

「わたしもおじいさんを殺してしもたさ。マラリアにかかって死んでしもたさ。床あげて、おじいさんを桟にくくりつけたさ。熱のせいで暴れるからそうしないとしょうがない。わたしはおじいさんにすまなくて、おじいさん許してくださいよ、おじいさん許してくださいよといいながら、ひと晩、おじいさんにしがみついてたさ。かいないよう。朝には冷たくなっていたさ」とトミさんは言い、そしておばさんたちが悲惨きわまりない戦争の体験を話して下さったそうである。

ひととおり話が終わったとき、「わたしが死んだら、おじいさんも死んでしまうさ。わたしは死ねないさ」とトミさんが言い、みんながうなずいていたそうである。

いつも陽気で笑っている人の中に「もう一つの『生』が生きている」。死者が生きているのである。「いのちは自分ひとりのものだと思って」いた灰谷氏は、大きな衝撃を受けるとともに、「生命観というものを根底的に変えられた」。

そして、子どもと沖縄の人たちが似ていることに気付く。


重い人生を背負っている子どもほど楽天的だった。苦しい人生を歩んでいる子どもほど優しさに満ちていた。それは何だろうとぼくは思いはじめていた。

(『わたしの出会った子供たち』)


そして「子どもから離れて成立しない自分の人生」を自覚した灰谷氏は『兎の眼』を執筆する。

○『兎の眼』

『兎の眼』は、大学を出たばかりの新人教師の小谷芙美先生が、担任の一年生、鉄三にてこずりながら、やがて教師として成長していく物語である。灰谷健次郎氏は、『兎の眼』についてこう語っている。

ぼくが十七年間の教師生活で、子どもたちから人間として生きることの意味を教えてもろた、子どもたちのやさしさに助けられて現在の自分がある、その道程を書いたのが『兎の眼』で、あれ書かれへんと、生きていかれへんかった。

(『子どもたちと沖縄とやさしさと 神戸からの手紙12・1月号』)

と。沖縄に行き、「自分の人生のなかに、子どもというものがほんとうに詰まっておった」『現代児童文学作家対談7今江祥智・上野瞭・灰谷健次郎』)ことに気付いた時、それは同時に「子どもたちのやさしさに助けられて現在の自分がある」と気付いた時ではないだろうか。「子どもを捨てたという負い目のようなものが」(『林先生に伝えたいこと』)自分の中にあり、だからこそ「あれ書かれへんと、生きていかれ」ず、その時の気持ちを「洗いざらい吐き出した」(『現代児童文学作家対談7 今江祥智・上野瞭・灰谷健次郎』)のだろう。

○『太陽の子』

しかし、「自分を、洗いざらい吐き出した」『兎の眼』では兄の死を消化しきれず、『太陽の子』を執筆する。

「てだ」は「太陽」、「ふあ」は「子」という意味を持つ。『太陽の子』は、ふうちゃんが、てだのふあ・おきなわ亭(小料理屋)に来る人々のやさしさに触れ、やさしさ、いのち、生きるということを考え、つらく悲しいことにも向き合っていきながら成長していく物語である。父親の心の病気に沖縄の戦争が関係していることを知り、未だに終わらない戦争、戦争により受けた父親の心の傷を少しでも治してあげたいという思いから、沖縄の戦争を学んでいく。

『太陽の子』を執筆しているとき、灰谷氏は神経症を患っていた。「神経症の苦しみは凄まじい」(『優しい時間』)、不安と恐怖感は増幅し、死をも選びかねないという苦しみの中から生まれた『太陽の子』は「兄の死を通して、『生』の根源的な意味を考える」為に書かれた作品である。

灰谷氏は『太陽の子』を執筆したことで、長兄の自死を受け入れるだけでなく、もっと深く『生』を突き詰めたのではないだろうか。
自らの醜さや弱さを認めその中から何かを掴み取ったのだと思う

僕は彼の作品に随分お世話になった
特に20歳前後のどん底の時代に・・・・

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