そういちの平庵∞ceeport∞

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木根川橋


荒川の土手があり・・・
木根川橋という橋がかかり・・・
墨田区と葛飾区をまたぎ
昔は、川がすぐ氾濫し道が川になったそうです
曳船という地名がまだ残ってるはずです・・・
在日朝鮮人の学校が近所にあり
何度か衝突しました。
担任の先生は、軍隊経験者で泣きながら話をしてくれました。
日本人が植民地化し強制連行し朝鮮半島が分断され北側の思想が朝鮮学校で教えられ
日本人は、恨まれてると
関東大震災の時、何万もの朝鮮人が理由もなく荒川の土手で撲殺され小さな墓碑がひっそりと建っていることを
木根川橋の傍に・・・・
だから、日本人を憎んでる在日の人は沢山居る
同じ事を繰り返さないでくれ
僕たちの住んでいる土の下に埋まっている「何か」
偶然ですが、ここに書いたふうちゃんは、在日3世でした。
そして、僕を大事にしてくれたお好み焼きのみなさんも在日2世や3世でした。
そして、ここ北海道には、アイヌの人が、先週遊びにきたお友達も・・・
みんな人間なのに・・・・
家族、民族、国家
神様の子供、兄弟なのに・・・
僕は、良い先生や友達に恵まれて・・・
育てられたんだなあと
今、つくずく思います
感謝、感謝 (^。^)1999/10/17


めんたいパン」はじめて食べる

最近職場で話題になり

めんたいこのマヨネーズ和えフランスパンのっけ

食べてみると以外とうまい

HOKUOUのパンは澄川店は50%OFF

他では30%OFF

ボストンベーカリーがあるからかな?

やきそばパンもうまい

にくまんのようにやきそばをパンでくるんだ奴

パンは地元東京じゃスズキパン屋によく行った

コッペパンに何か塗ったり

コロッケ、ハンバーグ、野菜、色々とコッペパンに挟み売ってた

ここのコロッケは1個10円で当時としてもメチャ安だった

じゃがいものコロッケ・・・ラードのきつい香りにソース

こんなんをガキの頃遊びの合間に揚げたてをハフハフ言いながらほうばった

食パンを機械ででスライスするのがオモロかったり

近所に麺を売る店があった

こんにゃく稲荷のそばだ・・・と言っても誰もわからないね

製麺所件販売店だ

ここで蕎麦買ったりうどん買ったり

お使いでよく行った

ガラスケースに入り

箸で一人前ずつ麺を袋に入れる

味噌の図り売り

八百屋さんのぬか漬け・・・大きな木の樽でぬか漬けを漬けてた

そんな街が奇妙に懐かしい

「やあ・・・おつかいかい?」

そんな店頭での会話

魚屋じゃアラを買いに行かされた

父が好きだった

内蔵や肉の切れ端は安価でうまい

これを煮付けたのは好きだった・・・これは父がきまぐれに作った

母は料理がうまく何でも器用に作った

枝豆を湯がいてすり鉢で僕等がすり

これをおはぎのようにもち米にくるむ

これは北海道じゃ「ずんだ餅」という

まあこんなように食にまつわる思い出や

東京下町の記憶は僕にとってはメルヘンだ

屋台でおでんや金魚色々なものを売り歩く人が多かった

豆腐屋のラッパは夕方の合図・・・たそがれ時を知らせる時計

狭い路地でグチャグチャ暗くなるまで遊ぶ

駄菓子やコロッケやもんじゃで腹を満たし

暗くなると母が呼ぶ

そんな暮らしがあったなあ

これを昨夜書いてたら

1万字を越え今朝UPする

今朝も朝からこの時代の事を懐かしむ

かなり年の差があっても一緒に遊ぶ

子供の集団があった・・・男の子だけの集団だった

僕がこんな遊び方をした最後の世代・・・・自分の近所では

世話好きの町内会長さんや近所の目上の人と遊ぶようになったなのは小学の頃から数年

ベーゴマが当時流行り毎日のようにやっていた

子供の頃ののめりこみ方は凄かった

紐の結び方に回し方に駒の種類

こんなことを真剣に目上のななちゃんに聞いた

町工場が多く・・・自宅兼工場みたいな家

そんな家の子供が羨ましく

何しろ彼等は自宅のグラインダーでベーゴマを加工できた

僕は一番年下だった

結構内気で繊細なおこちゃまだった僕が近所の悪がきに揉まれどんどんたくましくなった

少し足をのばし遠くの子とも遊んだり

学校とは別のコミニュティーだった

集団万引きが流行り・・・イトーヨーカドー

首謀者の目上の人とは遊ぶなとか

子供達のあいだじゃいきなり何かが流行り出す

そうしたら取りつかれたように毎日そればかり

侍ジャイアンツというアニメがあり

分身魔球というのがあって

硬球をグニャリと潰して投げるボールが幾つにも分身するのだ

これを真似て1日中ゴムマリを潰しながら投げた

目上の亀ちゃんとかわりばんこに投げあった

一回だけそうなった

ボールが5個くらいになった

次の日周りに言っても信じてもらえず

じゃあ投げてみろ

魔球にならなかった

だからこの魔球は僕と亀ちゃんの2人だけの思い出だ

縁日は楽しかった

これもこんにゃく稲荷だ

幻想的な光の中

金魚すくいや、かたぬき、射的に輪投げ

浴衣を来た人ゴミをかき分け

色々な夜店を眺めた

姉は金魚すくいが上手く

バカデカ出目金をすくった

なのに店のおばちゃんは「これはすくってもあげられないの」

そして金魚を3匹くれた

子供心は傷つき「そりゃねえだろうおばちゃんよ」

姉と2人でブツクサ言いながら家に帰った

遊んでばかりかと言えば

そうでもなく

4つ下の弟の幼稚園に迎えに行ったり

お使いなんかもやってた

7つ頃にはホットケーキを自分で焼いて見たり

日曜の朝家族のために焼いてみたり

ラーメンくらいなら自分で作った

姉がその頃内科のの病気にかかり入院したり

友達のまっちゃんのお父さんが自殺したり

色々あったのだがこれらは僕に暗い影を刺すことはなかったのだ

やはりしっかりとした人交わりの中で生きていれば人の心は落ち着くのかな?

今朝は昔を思い出しながら1つひっかかることがあった

毎日遊んでたまっちゃんのお父さんが急に死んで

その事が新聞の夕刊にでた

足を病んで働けなくなり悩んでた

そんな背景の中でそんなことがあった

そのことは大人達の話から僕等のなかでも伝わり

だけど何事もなかったように遊び

時は流れて行った

まっちゃんとは一緒に銭湯に行った

近所には鶴亀湯と宝湯があり

僕等は宝湯によく行った

鶴亀湯は岩山があった

そこによじ登ると女湯が覗けた

きくちよしのりがここに登り

女湯を覗く「絶景かな・絶景かな」と

このあとしこたま怒られたと思う・・・さだかじゃないが

それで鶴亀湯ばかり行くようになったかも?

このきくちよしのりとは奴が幼稚園僕が小1の頃

物凄いけんかをした

僕が彼を泣かすと彼は鉄の武器を持って殴りかかってきた

僕の頭からかなりの血が流れた

怪我は大したことなかったが奴の無鉄砲は凄かった

何だか取りとめもなく色々と思い出す

紙芝居も見に行った

たいてい爺ちゃんがやってた

独特の節回しでみる紙芝居はおもろかった

あれはなんというのだろうか?

あめをハサミで切りながら

色を塗り鶴だとか花だとか

見事な語り口とともに作り上げる

その飴は見事で

僕等にはまるで魔法のようだった

世界一の人口密集地帯で暮らす僕等は狭い路地裏で色々な遊びを考えた

関東大震災、東京大空襲、そんな話も色々聞いた

疲れを知らず、悩みも知らず

そんな子供時代をあの街で過ごせたことは幸運だった

それだけに親が千葉に家を買い

「一人で住んでもいい」というのでこの街に残るかどうかで悩んだ

13歳の時だ

僕は一人街に残り

家族は千葉に越した

これは父が当時占いに凝り

姉が慢性疾患を抱えそのこともあった

占い師が勧めたそうだ

僕の一人暮しを

一人で暮らす僕は今度は

音楽や読書が大好きになっていく

2004年11月の日記

子供の頃

銭湯によく行った

空を飛ぶコウモリを眺め奴等は一体昼間どこで寝てるのか?

夜空の星を見ればあの星には宇宙人はいるのか?

月では本当にうさぎが餅をついてるか?

そんなこと話しながら

洗面器にタオル、石鹸、シャンプー、下着を入れて

トボトボ2,3分あるく

そこでは雑多な人が来た

鶴亀湯は湯船が二つの小さな銭湯

脱衣所には大きな籠に服を脱ぎ捨て

壁にはロッカー

昔ながらの下町銭湯

子供の僕等には熱い湯船に水を入れてると

「水でうめるな!!」とおっさん

隣の浴層が熱いのでそっち行けばと思うのだが

とりあえず言うことを聞き

次の日早い時間に行き

水をガンガン入れる

「貸し切り・・・貸し切り・・・極楽・・・極楽と湯船で泳ぐ僕等」

何の理由もなく

僕らが体洗ってると

水をかけてくるおっさん

ゲラゲラ笑いながら

逢えばいつもだ

こちらも水をかける

大騒ぎだ

そんな変なおっさんが沢山いた

腕の「つけね」を強く齧ると歯形が出来る

この歯形が何日で消えるか

おっさんと賭けをした

「こんなの2,3日で消えるよ」と僕等

「バーカ!!そんなに簡単に消えないぞ」とおっさん

で牛乳一本を賭けてみた

強く噛めよというおっさんの言葉のとおり噛み

腕のつけねに歯形ができた

結果は僕等の惨敗

僕らの腕の歯形は10日以上消えなかった

おっさんは誇らしげに「ほーら俺の言った通りだろ子供には
わからないことが沢山あるんだぞ」

誇らしげに牛乳を飲むおっさん

父と一緒に行けば帰る途中の駄菓子屋で買い食い

近くのおでんやで買い食い

母と行けばまっすぐ家に帰る

小学校からは近所の友達と男湯だけ

これは僕等の間じゃ鉄則みたいだった

たまに父から電話が来て

父の会社の風呂に入りに行った

父の会社の風呂は大きく

帰りに若竹というのみ屋で

父はビール

僕はジュース

鯵のタタキが好きで

僕はいつもそれを食べた

駄菓子屋は大抵ばあちゃんがやってる

七輪と鉄板でもんじゃ焼きを食べさせる店があり

同級生とよく行った

小麦粉を水でときキャベツを入れ

あとは駄菓子屋で売ってる

ベビースターラーメンをいれたりする

ウスターソースをドボドボ入れる

おこげをつくったり

皆でワイワイ言いながら食べる

父の若竹僕等の駄菓子屋

きなこをまぶしたあんこだま

あんずアイス

あんずジャム

すもも

ガム

あめ

そんなものをつまみながら飽きもせず

毎日遊んだ

夏の夕暮れ時は夕立がくる

雨上がりに路地で将棋を打つおっさん

うちわで顔を仰ぎながら

シャツにステテコ

一日の仕事を終えたあとのささやかな娯楽

狭い狭い路地という空間が家の延長

家と家に挟まれ

車1台ようやく通れる家の前の路地

大人達によく怒られた

爆竹を投げ込んだり・・・テロだねまるで

警察に言うぞと怒鳴られ

この家は僕等がボール遊びして庭に入れて

返してくれと行っても返してくれなかった

だから報復テロだ

しまいに家に怒鳴り込みにくる

「今度やったら警察に言う」

頭を下げる母

でかい声で騒いでると受験勉強中のあんちゃんに怒鳴られ

ベーゴマは子供の真剣勝負

負けると取られた

だから必死になった

するとPTAの見周り

PTA「あなたたち賭けてませんねえ」

僕等「はーい賭けてませーん」

年上の子が僕に負けた

その子が親に泣きつき

親子で我が家に来る

勝ったベーゴマを返す僕

次の日その子は馬鹿にされる

男らしくないと

負けは負けだと

泣きながらその子は僕にベーゴマをくれた

そんな路地で社会のルールを学んだ

子供達の集団で人間関係を学んだ

僕は街に育てられた

路地で成長した

多くの人との繋がりの中で

本当に狭い狭い空間

貧しい暮らし

だけど何だか輝いてた

のんびりしてた

みんなニコニコしてた

♪\( ──────── 。 ──────── )やぁ

お仕事・・・

今日はメンバー母から・・・いきなりのお電話

息子がxx自殺未遂xxパチンコxx金xxxx詐欺xx

しばあらく話を聞く

今日は出版の打ち合わせ今回はオモロそうなのが出来た

一人一人だんだん地力がついてレベルアップしてる

1段落して先程の母上の所に行く

店をやってる

そこにいて色々はなしてると

メンバー息子があらわれ

xxxxxxやっぱり死ねないxxx生きるしかないxxx

子を思う親の気持ちが

本人が向きあわなきゃいけない問題や苦労まで取り上げる

しりを拭ったり世話を焼き過ぎたり

これは医療も福祉も一緒かな?

そんなことで生きられない人が増えてる

人が育ったり成長できる場がない

家族だけで子供は育たない

学校はご存知の通り

どっか狂ってる

愛は盲目

そんな言葉を思い浮かべる

まあ誰が悪いわけじゃなし

この国が豊かになり

親はどこまでも子を養ったり

国はどこまでも色々な人の生活を保護出来るようになった

このことは素晴らしいことだ

しかしその結果なぜか

そこかしこで人の心は閉じ

家族も閉じ困る事が多くなった

安心して子育てすらままならない

人が人を疑い

信じるなという

メッセージが溢れてる

そんな世の中で何かを見失い

とことん困ることでまた人と繋がる

そんな風に思う

僕の仕事はそんな「困ったチャン」との出会いの連続

昔は、家に醤油がなきゃ隣の家に貰いに行った

おかずのやり取りや

気さくな会話

そんな雰囲気を今日あった母上には感じる

何かが何処かが食い違い

みな途方に暮れる

価値観だと思う

心のゆとりや

人とのふれあい

まあそんなことかなあ

大切なのは・・・

昨夜というか

先程

実家から電話が入り

魚が届いたとの連絡

数日前近所の魚屋から魚を送った

それが届いたという電話と共に

姉の病状が悪化したという知らせ

現在内科と精神科両方を病む姉は総合病院に入院中

内科の薬の副作用から精神状態が悪化し内科から精神科の閉鎖病棟に移される

小学校2年から内科の入退院を繰り返し

20歳過ぎには精神科も加わり

父母も嫁に行った姉のサポートをする

方道4時間かけて栃木の病院に行き・・・

病状は

幻聴、幻覚、退行、不安、妄想、とかなり酷い

これだけの状態は15年振りだ

主治医は精神科の閉鎖の病室に移させる

内科の事で大学病院に入ったのが6月で

精神科の閉鎖のある病院が望ましいとの判断で転院

あれから・かれこれ5か月だ

義理の兄貴も休みの度に見舞うが今回は時間制限つきになった

30分制限だそうだ

義兄の実家が衣類の洗濯などをしてくれてる

僕も同時期最悪の状態で姉を見舞うどころでなく

電話で話を聞くくらいだ

内科の主治医も精神科の主治医も大変そうだ

姉を取りまく周囲の人達もまた・・・

最初の入院が姉が小2で僕が小1

SLE=全身性エリトマト―デス

いわゆる膠原病

慈恵医大に入院した

あれから30年近く姉は闘病生活を続ける

当時の慈恵医大はまだエレベーターのドアも鉄格子でレトロな雰囲気を残し

僕は食べ物と消毒の匂いの混ざる病院の匂いが嫌いだった

その後、叔母や従妹に姉に色々な人の見舞いに病院に行く

今でも病院嫌いなのはそのせいだ

都営浅草線新橋の駅で降り

何度か姉を見舞った

学校に行かないで沢山のお見舞いの品々に囲まれる姉を僕は羨んだ

しかしステロイドの副作用で顔が膨らむ姉を見るにつけ

ただ事でない何かを子供心に感じた

僕はこの頃から一人で何でもするようになった

自分で簡単な食事を作ったり、外食したり

病気や病院ともこのころからのおつきあいだ

姉は病弱で体育も出来ず

家にいる事が多く

僕は毎日外で遊び歩き

弟は隣に住む叔父夫婦に預けられた

当時SLEは死に至る病で両親は主治医から姉の死の宣告を受けた・・・余命一年と言われたそうだ

姉は姉で大学病院内の医者同士のはなしを立ち聞きする

ふと腿の組織を取り検査するかどうかで医者の意見が対立する
話を聞いてしまうのだ

「あの子のふと腿の組織を取り研究すればあの子のためにも他の患者のためにもなる」

「あんな小さな子の身体に一生残る傷をつけるのは可愛そうだ」

「どうせ死ぬかもしれないからいいじゃないか」

そんな会話が病院内であったと僕等家族が知るのは

姉が20歳を過ぎ内科の病気の再発し精神病を発病してた頃

このことが誰にも言えず長いこと姉は苦しんでいた

そして会話も出来なくなり社宅のベランダから飛び降りたりするようになった

そして今また似たような状態になった

姉の病気は様々な影響を僕に与え

子供の頃健康だった僕も今はもうそんなに健康でもない

昨夜は母の話を聞き終わりすぐに寝た

不思議と午前2時前に目が醒め

記憶や思いはあちこちを彷徨い

僕は物思いに耽る

保育園でいじめにあい途中でやめた姉

やはり小学校でも嫌な思いはしたみたいだ

体育の授業に出れない事を気に病み

そんな事から中学は私に進む姉

地元で元気よく遊び保育園でガキ大将の僕

近所でも学校でも人に頼られる中心的な存在の僕

対象的な姉と弟

今思うと不思議なのだが

姉には勉強机があり

僕にはなく

僕は勉強などほとんどしないので気にならなかった

姉は病気の事もあって丁重に扱われた

僕はやはり外で元気に遊ぶことで色々と成長した

勿論生まれつきの性格もあるのだろうが

僕の家族で色々な人と関わるのは僕だけなのだ

姉も弟も内向的で友達も少なく

家にいる事を幼い頃から好んだ

母は精神的に弱く家で寝てる事が多く

父は仕事がらみの飲み屋通い

しかし友達という存在はいない

今ではほとんど家にいる

父も母も家庭というものをあまり知らないで大きくなり

そんなものに飢えつつ一緒になり

満たしあう事がなかなか出来ず

病弱の娘を抱え

占いなどに頼ったり

その結果僕が13で一人暮らししたり

色々な事があった

未だに娘のことで奔走する両親

だけどその声は以外と元気で明るい

ようやく姉と母が和解出来た事も大きいと思う

僕は僕で一時期課せられた家族の役割からは解放され

自分の事に専念するようになった

色々あったけど

みんな一生懸命なのだ

今はそんな風に思う

姉の病状は思わしくないが

それもプロセスだと思う

今の姉は病状こそ悪いが心開き生きなおそうとしている

僕は多くの事を姉の病気を通して学べたのだ

その事で今じゃ精神福祉で飯を食い

こうしている

不思議だけどね

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