2024
2023
2022
2021
2020
2019
2018
全7件 (7件中 1-7件目)
1
今日、ある記事を読んでいて衝撃で吐きそうになった。Organ Trade(臓器売買)に関する報道だ。噂話では無く事実だ。ニカラグアの農村で8歳の少年が登校途中に行方不明になった。村人達の捜査のかいもなく3日が過ぎた後少年は村の近くの排水溝で発見された。生きていた。が、両目を「盗まれていた」。弱々しい泣き声を聴いた通行人に発見された時、少年は血を流しながら苦痛の中でうずくまっていた。その後の経過は記事には詳しく書かれていなかったのだがこの衝撃から心をずたずたに裂かれた少年に母親もどうしてよいかわからず結局、少年は盲人の為の施設で暮らす事になった。その施設の少年達の「半数以上」が生まれつき或いは病気で失明したのではなかった。この少年と同様に誘拐され文字通り目をえぐり取られたのだ。「高価な商品である角膜」を盗まれたのだ。昨年末、こんな報道も読んだ。フランスの難民キャンプで医師が気付いた。アフガニスタン等からキャンプにたどりつく難民達の中に片目を失った子供達の数が増えている。無事、目的地にたどりつくための代償として角膜や臓器を提供させられているのではないかという....。インドでは貧困層であえぐ人々が腎臓、角膜だけでなく下肢(骨や皮を使用する)までも売っている。もちろん、インドでは、臓器売買は禁止されているが法律に抜け穴があった。臓器の提供は親戚間だけではなく「非常に親密な友人間」でも法律で許可されている為全く無関係な臓器の提供者と買い取り主が裁判で「長年の友人」と宣誓すれば「売買」は成立する。英国でも、昨年末、こんなニュースが騒がれた。障害を持つ幼い子供を抱えた父親が専門の私立校で子供を教育させるために必要な(公費での補助を拒否された)高額な学費を捻出しようとネット・オークションに自分の臓器を出したのだ。オークションサイト側から取り下げられるまでの間に米国で高値がついた。子供という弱者から「正気で」目をえぐり取る様な心を作った社会。「持つ者」が生き残り「持たざる者」は生き残る為に自らを傷付けざるを得ない社会。悲劇から残酷な金を絞り取る病んだ心を生んだ社会。そんな社会への暗澹たる哀痛の中「医学の進歩」という言葉が浮かんだ。私は医学の進歩を肯定的に捉えている。医学の進歩が無ければ、次男の顎の畸形も治せなかった。手術を受けられず、口を開けれないまま、成人できるのか、たとえ成人しても、どんな苦痛(肉体的・精神的)があるのかどの程度健康なのか....全くわからない。次男も、そして私達家族も幸運だった。私達の生まれた国、そして、生きている時代が幸運をもたらした。臓器の移植を可能にしたのは医学の進歩だ。臓器ではないが次男だって「移植」をしている。自分の肋骨と耳の軟骨を顎に与えたのだ。それを可能にしたのは臓器の移植を可能にした医学の一歩手前の技術かもしれない。もちろん、他人の臓器を移植する事と自分の体の骨や皮を移植する事との間に存在する莫大な差の克服は当時の医学の飛躍的進歩であったに違いない。そして、その医学の進歩によって多くの命が救われている。同時に、臓器移植が可能でなければ臓器が売り買いの対象となる事もなかった。少年の目が金銭の為に奪われる事もなかった。医学の進歩が直接の原因なのではない。とどのつまりは人類の心の進歩が医学の進歩に付いて行けなかったのだ。先週、クローン妊娠成功の報道も読んだ。不妊治療技術の最先端との事だ。生命がともったからには無事に生まれてほしいと祈っている。ただ、近年の不妊治療技術のめざましい進歩にはどうしても戦慄感を覚えてしまう。私は自分の子供達を愛している。疑問の余地の無い本能的な愛情だ。子供に恵まれない人が子供を欲しがる感情も疑問の余地の無い本能的な感情なのではないかと思う。だから子供を望む人達に希望を与える医学の進歩は全面的に肯定している。だが、その進歩に、どこまで人類の心が追いつけるのか..仮に、この不妊治療技術の悪用は一切考えず善意を持つ人達の間で純粋な善意のもとに行われた人為的妊娠・出産のみを考えることにする。例えば非配偶者間人工授精に関する規制は肝心の生まれて来る子供達の事まで考えているだろうか?提供された精子や卵子により生まれた子供達がその精子や卵子の提供者である「親」を知る権利を持たない状況のもとで子供達の心が、どれだけ重視されていると言えるんだろうか?医学の進歩に人類の心の進歩が追いつく事は無いかもしれないという深い絶望感と人類の心そのものに対する漠然とした不安・懐疑心...そして、今私の生きる暴力による悲劇の絶えない社会のどこにその不安を解消させてくれる様な要素があるんだろう?医学の進歩という灯かりが人類の心の中に広がる深い闇を照らし出してしまった。パンドラの箱と同じかもしれない。でも、希望は、あるんだろうか?そして、灯かりを持つ者は、一体、どうしたらいいのか?
January 23, 2004
コメント(29)
先週・昨日の日記をご覧になって「口が開けられないって、どのくらい開けられないんだろう?」と思われた読者様もいらっしゃるのではないかと思います。以下に続くのは、口が開けられないのに気づき始めた1歳半以降の写真です。いずれも、本人は口を精一杯開けているつもりでしたが親である私は、当初、全く気付いていませんでした。(今、あらためて、こうして見てみると信じられない事ですが)気付いてやれなくて本当に可哀相な事をした....思い込みほど、おそろしい事はない...と反省しています。*一歳半(大口で笑っている「つもり」) *一歳半(大口開けて泣いている「つもり」) *2002年1月・手術直前(笑っているところ。口は、ここまで開けるので精一杯。) *2002年1月・手術後(耳を守る為のスポンジ) 手術後、ここまで口が開けられる様になりました!*2002年1月・手術後(最大限) *2004年1月・手術前(顎の金具が目立つ) *2004年1月・手術前(普通の顎) *2004年1月・手術後2日目(まだ、顎が腫れている)
January 19, 2004
コメント(20)
心優しい読者様ご心配・ご祈祷・励まし..どうもありがとうございました!手結川弘仁の手術は無事成功し、術後4日めの今日、まだ顔は腫れているものの元気でゴネまくっています。以下に続く術後の記録は、後の参考になる様、どうでもいい事も細かく書いている為ダラダラと退屈な内容になります事をご警告申し上げます。********手術は朝8時からだった。長男を学校に送りバス・地下鉄を乗り継いで、やっとロンドンにある病院へ着くと順調な道程であったのに既に10時半だ。だが、手術には3~4時間かかるといわれていたので終了には間に合うと思いながら病棟に入っていくと看護婦さんから「今終わったところですよ。」と笑顔で言われ「Recovery Room」と呼ばれる手術終了後麻酔が覚め状況が安定するまで待機する部屋へ連れて行かれた。いくつかのベッドが並べられ何人かの看護婦が溜まってお喋りをしている待合室の様な(?)その広い部屋を見渡すと坐りながら次男を抱っこしているウザヲの後ろ姿が見えた。心の中で「無事、手術が終わってよかった~(心配する暇もなかった~)」「よくがんばったね!えらかったよ!」という安堵感と喜びと誇らしげな気持と「あ~、私が抱っこしてやりたかったな~。出遅れた...。」「手術が終わったら、すぐママと会えるからね、って約束してたのにな~」という申し訳なさと寂しさがまじわる。看護婦さん達に挨拶しながら、いそいそと次男のベッドへ向かい顔をのぞきこむと.....ギロっと鋭い目つきで私を睨んだ次男の口元は....血だらけだった。口から派手に血が「溢れて」いる。カンフー映画なんかによく出てくる口からブブっと血が溢れる場面が脳裏に浮かんだ。ウザヲに「下、見ない方がいいよ。」と言うとうざそうに「わかってるよ。もう見たから。こういう血は恐くないんだよ。」と答える。「じゃ、どういう血が恐いんだ?」と心の中で反問しながら「私が抱っこしようか?」と聞くと、また、うざそうに「今、抱っこしたばかりだから」と拒否。私の位置からまざまざと次男の顔を見ながら世話をするよりは坐って抱っこしているだけの方が安全だしもう失神するおそれは無さそうだと確信したのでそのままの状態で、次男の口や顎から溢れる血を拭き取った。次男を抱きかかえているウザヲの胸の所にも巨大な生理ナプキンというか昨今売り出された使い捨てのオムツ替えシーツにも似た20cmX40cmくらいの吸収マットがのせられておりそれにも血がぐっしょりと大量に滲んでいる。猫のガーフィールドの模様の手術服(?)にも血がたくさんついている。もっとも出血というのは見た印象ほどは量が出ていないものだし担当のアイルランド人の看護婦さんが「術後の出血は当然の事よ~ん」というような落ち着いた態度で愛想良くニコニコしていたのでこっちも感化され「うわぁ、可哀相......痛々しい」と思いながらも「なんでこんなに出血してるんだろう」と冷静に観察してしまった。すると次男がゲホゲホッと溢れる血にむせ始めた。洗面器というか受け皿に血を吐く。受け皿を抱えていた私の服にも血が飛び散った。瞬時に「しまった。濃い色の服で来るべきだった...」と不謹慎にも思ってしまい、心の中で、次男に「ごめんね、こんなに頑張ってる横でくだらない事考えて」とあやまった(^^;)。今回の手術は前回と違い危険度も難度も遥かに低いだけでなく手術前には体調を整える事のみに集中、当日は、無事(=ウッカリ者の私がバッグの置き忘れ無く乗り換えをこなし^^;)病院に到着する事のみに集中していたためはっきり言って、手術自身を心配する時間が全く無かった。だから、こう、妙に冷静なんだろうか....。いずれにしても、がんばっている次男には申し訳ない。結局、なかなか血が止まらないので、様子を見に来た執刀医師の指示によって濡らしたガーゼを丸めて口の中に入れる事になった。何とか口を開けさせようとおだてるが看護婦には「No~!I don’t want to!」ウザヲと私には「やだ~っ、やなの~っっ!」とご丁寧にも英語と日本語と両方で怒りながら抵抗する。試行錯誤の末、やっとガーゼを口に含ませる事に成功した。ここで何故かウザヲが次男を落ち着かせようとゆっくり英語で数字を数え始めた。するとそれを不満気な顔で聞いていた次男はウトウトと目を閉じた。まもなく出血も収まり病室に戻れる様になったのでウザヲが次男をそっとベッドにおろすと、次男は急に目を開け私達が側にいるのを確認する様に探った。病室まで運んで行く間も、心配なのか、必死で、こっちを見ている次男に「大丈夫だよ~。ママもパパも一緒だよ~。」と声をかけながら、ベッドの後に付いて行く。病室は、こざっぱりとした個室だ。 (↑この病棟には個室は二つしかなかった。)ビデオプレーヤー付きTVも付いている。大部屋にあるビデオの棚を覗くと次男の好きな番組が無かったのでしかたなく「Bob The Builder」を借りて来て見せるとまもなく寝息をたてた。寝顔を見ながら麻酔をかけた時の状況をウザヲに聞く。怖がったり暴れる子も少なくないらしいのだが次男は「先生」の言葉に「真面目に従い」順調に眠りに落ち麻酔医師に誉められた、と得意気に語るウザヲ。それを聞きながら微笑む私。親バカ....。一時間くらいして、次男は目を覚ました。喉がかわいたらしい。麻酔の為に、昨夜から、十二時間以上食事は言うまでもなく水も全く飲んでいなかったので当然だ。口の中に血がたまっているので、水だと血の味になってしまうから、薄めたジュースの方がいいと看護婦さんがジュースを作って来てくれた。ストローで一気に飲み干す。看護婦さんに、前回の手術の後、口を開けさせる為にアイスクリームをたくさん食べさせた話をすると「この病棟にもたくさんありますよ。」と言いながら次男に「アイスクリーム食べる?」と聞いた。強くうなづく次男。この無料でもらえるアイスクリームは、小さなカップ入りでバニラ味だ。ちょっと昔映画館の中で売りに来たアイスを思い出させる様な懐かしい味がする。さっそく持って来てもらったアイスクリームを看護婦さんの目の前で一気に平らげる。「もう一個食べる?」と聞かれて、また、うなづく。やっぱり、お腹が空いているんだろう。結局、夕方退院するまで6個食べた。昼過ぎ、ウザヲが、長男を二時間離れた学校へ迎えに行った後またウトウト眠った次男だったが目を覚ましたとたん「カード...」と言った。遊戯王カードの事だ。この遊戯王カードは、英国の小学生に大流行していて次男のクラスの子供達も、お兄ちゃん達の影響を受けカードの字も読めないのに収集と交換に夢中になっている。さっそく手術前に約束していた新しいパックを開けて手渡す。次男はニコリともせずカードをかわりがわり眺める。「好き?いいカードあった?」と聞くと無表情でうなづく。その時、ふと、手術前に、主治医が「稀に笑顔をつかさどる顔面神経が傷付けられる可能性がある」と言っていたのを思い出した。術後、次男は、まだ、一回も笑顔を見せていない.....。いや、きっと、顔も腫れてるし、痛いしで笑えないだけだ、と気を取り直す。次男は、しばらくカードをじっくり眺めた後「しまって。」と手渡し「おうち、帰りたい。」と言う。あきて来たのだろう。こんな事もあろうかと思って持ってきた小さなトランスフォーマーのオモチャを渡すとまた、ニコリともせず、遊び始めた。しばらく、トランスフォーマーとカードを遊んだり、しまったりを繰り返していると、3時過ぎくらいに看護婦さんが「病棟の中を歩けるかどうか試してみましょうね」と次男を誘いに来た。なんでも、自分で歩けないと退院できないらしい。次男の手をつなぎながら、ゆっくり歩く。この検査は合格となった。次いで、痛み止めの薬を飲む。案の上、次男は嫌がり、薬を吐き出そうとするが看護婦さんが「これ、飲まないと、おうちに帰れないわよ。」と言うとしぶしぶと呑み込んだ。顎の下の縫合した傷の出血も口の出血も止まったので夕方には退院できるだろうとの事。そして看護婦さんは病室をいったん出てからプレゼントがいっぱい入った箱を手にして戻って来た。病院へ寄付されたものらしくビデオ、ぬいぐるみ、車、飛行機....と雑多だが豊富な内容だ。手術を受けた子供は、この中から一つプレゼントを選べる。TV番組「Mummy(ミイラ)」のDVDがあったので、さり気なく、「これ、あっちゃんの好きなDVDだよ~」と選ぶようそそのかすが、次男は頭を横に振り、母の期待はマル無視し、さらに、箱をガサガサと探し続け下に埋もれていた「ベイブレード付きキーリング」を引っ張り出し選んだ。看護婦さんが立ち去った後、「これ、もう、家におんなじの二個もあるじゃん?」と聞くと「でも、コージのじゃないから」との答え。そう、確かに家のは兄のものだ。実は、自分専用のがほしかったらしい。そしてオモチャのパッケージを開ける事なく、やはりニコリともせず「しまって。あとで名前書いてね。」と私に渡した。5時になってウザヲに連れられ長男が到着しても次男は無表情のままだったが「あっくん、コージ、新しいカードあるよ。ベイブレードあるよ。」と自慢した。普段だったら得意気にイタズラっぽい表情で笑うところだがやはり無表情だ。長男も「なんで、コージ、ぼくの事、にらんでるの?」と聞く。....う~ん.....もとに戻るんだろうなぁ~....ほどなく、退院前の条件の一つである「トイレに行く」をクリアした次男は無事退院できる事となった。看護婦から退院後の注意に関する説明を聞き、服を着替えさせ準備が整ったとたん次男が急に「はきそう」と言った。大急いで、病室にあった使い捨てのアルミ製碗を口元にあてると吐いた。10分後くらいに、また吐いた。口の中に残っていた血が大量まじっているので真っ赤だ。ただ看護婦さんの話では、全身麻酔後24時間以内に吐くのは普通の事なので心配無いとの事。また、吐いても水分補給がされていれば大丈夫らしい。結局、家に帰るまでと寝る前に数回、翌朝一回吐いて、赤い嘔吐はピッタリ収まった。自然の摂理なのか、次男は、その夜は、一時間おきくらいに「ミズ」と要求。夜中にトイレにも行き、着実に回復している実感を受けた。さて、朝、あらためて顔を観察すると片方だけ下ぶくれに腫れていて、それが......こまわりくん、そっくりだ。米リーグの野茂選手にも似ている...。(これ、元に戻るんだろうな~....)相変わらず笑顔は無い。心配する事、ほぼ一日。記録の為にと、次男の顔を写真に撮っておこうとカメラを向けると、突然、次男が、ニコっと笑った。 良かった....。
January 18, 2004
コメント(9)
子供の誕生日は母親にとっても誕生日だ。長男の誕生日には母としての私が誕生し次男の誕生日には二人の子供の母としての私が誕生した。そんな理由で、子供達の誕生日には私にもプレゼントを買う事にしている。ちなみに可哀相だが父としてのウザヲの誕生は数に入らない。「No pain, no gain(痛み無くして収穫無し)」なのだ。さて、二度目の妊娠・出産は、一度目と全く違う。私の場合一度目の時はウザヲと義理家族の「女王状態」だったのが二度目の時は長男の「奴隷状態」だった。一度目の時に心配し気を遣った事も二度目の時には気にしている余裕さえなかった。それでも、一度目同様つわりは殆ど無く糖尿病の検査で、半日空腹で過ごした上、プチプチと6回も下手っぴぃな注射で採血された両腕が真っ青に腫れた以外は順調で楽な妊娠期間だった。日本では一度目が帝王切開だと二度目も帝王切開にする事が多いらしいが英国は違う。母体に原因がある場合は帝王切開だが胎児に原因があって前回帝王切開になった場合は二回目は自然出産を勧められる。(本人が強く希望すれば帝王切開を選べるらしい。)37歳で胎児が逆子だったのにもかかわらず私は自然分娩を勧められた。帝王切開の後の痛みはこりごりだったので私自身も今度は自然分娩&麻酔で楽してやるっと思った。長男の時の様に予定日を過ぎたら嫌だな~と思っていたら予定より一週間早くに陣痛が来た。ちょうど、その日は、一週間に一回の診察の日で陣痛をこらえながらウザヲ、長男、私と3人で地元の診療所に行くと、陣痛が始まったばかりなのに前回帝王切開の場合、高リスクグループに入るのでそのまま総合病院の産科に行き入院する様に言われた。一度家に戻って荷物をまとめ病院に着くと運良く個室が与えられた。4歳の長男も一緒にいたのでNHSで個室が開いていなかったら別料金(一泊2~300ポンドらしい)を払ってでも個室を頼もうかと考えていたので非常に嬉しかった。病院側の説明では分娩も、この部屋で行えるらしい。英国では、産婦が「こういうお産にしてほしい」という希望・計画(Birth Plan)を文書にして持ち込む事が多い。普通は、「某種の麻酔は使用しないでほしい..」「赤ちゃんが生まれたらすぐ母乳を飲ませたい...」等、どちらかと言えば「真面目にお産に取り組んでいる人」が「真面目な希望」を書くものなのだが、私の希望はまず第一に「麻酔は何でも最大限に使ってほしい。」第二に「問題が無ければ出産後6時間で退院したい。」(↑出産後、最低6時間は病院で経過観察する決まりがある)第三に「分娩時を除いて夫と子供と同じ部屋にいたい。」だった。全て許可された。実際の分娩の場は、4歳の子供には衝撃が強すぎると助言され私自身もそう思ったので分娩の前にウザヲが長男を連れて分娩室を出て専門の待合室で待機する事にした。こうして段取りを確認した後子宮口を確認すると1cm半開いているとの事。徐々に痛くなってきたので「麻酔は打ってもらえるんでしょうねぇ」と聞くとなんと「子宮口が4cm以上開くまで打てません」と答えるではないか。「は、話が違うじゃんよ~~っっ??」と心中怒りながらも冷静に「えっ、最初から打つんじゃないんですかっ??」と聞くと「麻酔を使うと子宮口が開かなくなる事があるから...」と答える。「じゃ、子宮口の検査はどれくらい頻繁にしてもらえるんですか?」と怒りをこらえながら聞くと「2時間おきくらいには来るから大丈夫ですよ。」って、二時間って、じゃ、あと、二時間は麻酔なしかよっっっ???????大丈夫って....笑顔で言われても...許せねぇぇぇぇ~っっっ。怒りでコメカミがピキピキしている私に気がついたのか助産婦さんは「麻酔の他に笑気ガスとかあるから使ってみますか?」と提案する。「もう何でもいいから早く持って来んか~~いっ」と心の中で叫びながら表面上は笑顔で承諾した。でも、この笑顔のせいで「まだ余裕あるわね」と誤解されたのかただ単にNHS的な「慢性的ノロさ」のせいかこの笑気ガスが来るまでには、かなりの時間がかかった。しかも、これ、全然使えない。頭が瞬間ボ~っとなるだけで痛みは全く緩和されないのだ。この頃、ウザヲは、私が大きなクッションを抱えてうめきながらうずくまるベッド脇にへばりつきオロオロし長男は、おりこうな事に椅子に座り静かにオモチャで遊んでいた。(次男だったら、決してこうは行かなかっただろう。)ついに我慢できなくなったのでウザヲに助産婦さんを呼びに行かせた。問答の末、前回帝王切開でもあるし高齢でもあるので例外的に麻酔を打つ事にしましょうと言われ子宮口をはかったら、既に5cm半だった....(バカヤロ~っっっ)(とっくの昔にクリアしてたじゃんか~っっっ)それから、また、しばらくして(とほほほ....)麻酔科の医師が来た。脊髄(だと思う。忘れた...)に注射をする。ウザヲの話では、注射器を抜き取った瞬間(か注射器の中に逆流か忘れたが)「血がブシュ~~っと勢いよく噴き出したのだそうだ。」麻酔医師と助産婦が部屋を出ていったと思ったら点滴を付けられている私の手が勢いよく下へ引っ張られた。ウザヲがガッチリ握っているのだ。点滴のチューブまで引っ張られて痛い。「何やってんのよぉぉぉっっ。引っ張んないでよぉっ!!」と怒鳴りつけると(怒鳴ってばかりで出産後は喉がかれていた)......長男が大声で泣き始めた。「ママぁ~っ、パパが、パパが死んじゃったよぉぉぉぉっ!!」「ん?」と、ふと、目を開けるとウザヲは私の手を握ったまま、床に倒れていた......。ウザヲは血に弱いのだ。医師と助産婦がいた時は我慢していたらしいがついにこらえきらなくなって貧血を起こしたらしい。「しょうがないな~。どうすりゃいいんだよぉ~。」と思いながら、硬直したウザヲの手を無理矢理振り払うとその手が床に当たって痛かったのか横たわるウザヲの横で号泣する長男の声のせいかウザヲは目をさましフラフラと立ち上がり椅子にこしかけ「ちょっと気持悪いな~」と何気なく言った。そして「あんた、今、気絶してたんだよ。」と私が言うとなんと「え~っ。気絶してた~っ??」と驚くではないか。自分で床から起き上がって椅子に腰掛けたのにそれさえも気付いていなかったのだ。本人は、ず~っと椅子に坐って貧血をこらえている「つもり」だったらしい。しかも、私の言葉を信用しないで長男にまで聞く。「パパ、いま、ここに倒れてた?」長男は涙のたまった目で「あっくん、パパ死んだと思ったんだよっ。ふざけないでよっ。」と怒った。その後、長男は、こんな顛末に疲れたのか怒ったまま椅子の上でフテ寝を始め、いつのまにか熟睡していたのだった...。一方、お産の方は、麻酔を打つと進行が遅くなる、という懸念に反しどんどん進み、ついに分娩間近になった。だが、だが、ここで麻酔が切れてしまったのだ。(何の為の麻酔なんだか......)しばらく陣痛から解放され「楽勝~」気分だったのに一挙に「爆発的陣痛」が襲って来た。しかも、麻酔が効いたままだと、うまく「いきめない」から麻酔剤の追加無しに、このまま生みましょう、と言われる。うそだろ~。「私は、高リスクなんだっっ。なんとかしてくれ~っ」と「前回の帝王切開」をふりかざし助産婦さんに怒鳴ると(この段階では全て怒鳴り声になっていた)医師を呼びに行き、二人で何やら相談していたが(相談してないで、早く麻酔追加しろ~~~っ)おもむろに麻酔の追加を承諾してくれた。この時こそ、前回、帝王切開にして良かったと思った事はない。帝王切開後の痛みと苦しみが瞬時に帳消しになった。今度は、麻酔医師は、即座に現われ点滴の中に麻酔を追加し痛みは嘘の様に消えたとたんすぐにいきめる状態になった。ウザヲは母親が痛みで咆哮している間も熟睡していた長男を抱きかかえ慌ててと分娩室を後にした。だけど、いきみ方がわからない。便秘で苦しむ人がトイレでいきむのと同じ方法らしい.......が、私は、幸か不幸か便秘になった事が無い。結局、何回か、いきんだ後吸引分娩となった。この間、麻酔が効いていたので生まれた瞬間もわからなかった。「赤ちゃんが生まれた瞬間、女で幸せだったと感動した」というセリフを聞いた事が何回かあるが私の場合、二回とも、その瞬間は逃したようだ。(とほほほほほほ。)助産婦さんが、赤ちゃんの顔を見せてくれる。「菅井きん」そっくり.....。なのに、お医者さんも助産婦さんも「なんて美しい男の子の赤ちゃんっ」と絶賛してくれた。ま、誰にでも、そう言うんだろうが赤ちゃんの顔を覗き込む助産婦さんは心底、そう思っている様な表情だった。さて、呼ばれて来た小児科の先生が嬉しそうに次男を抱っこし次男の体重をはかったり新生児の反応テストをすませ分娩室を立ち去りして一息ついたと思った瞬間、助産婦さんがハっとした顔で叫んだ。「あっ、ご主人の事、すっかり忘れてたわ~~!!」本来は、生まれたら、すぐに呼びに行くものらしい。助産婦さんは、あわてて、ウザヲと長男を探しに行きやっと、そろって「ご対面~」となった。...と感動したのもつかの間、私達は、即座に豪華(じゃないが居心地の良かった)個室から騒がしい産科の大部屋に移されてしまった....。それにしても病院というのは、どうして、いつもああ騒々しいのだろうか?治る病気も悪化するんじゃないかと思う。そんな訳で、私が、やっと、ゆっくり休めたのは6時間後で無事退院し、家に戻って来てからであった。ふぅ。こうして麻酔付き自然(というか吸引)分娩を経験し帝王切開と比べて痛感したのは、とにかく産後が楽な事だ。出産当日に即、歩き回れる様になったし退院後、東京や上海の家族や友人に電話をかけまくる活力もたっぷり残っていた。母乳も順調に始められた。前回のお産で湧いた怒りが、やっと晴れた気がした。だが、病院嫌いの母が、そそくさと病院を逃げ出したのにその5日後、保健婦から黄疸を疑われた次男は同じ病院の小児病棟へ逆戻りとなってしまったのであった。その後の経過は昨日の日記に書いた通りである。とほほほほほほ。人生、塞翁が馬.......とは、ちと違う様な......?ま、ともかく、生まれて良かった....。
January 14, 2004
コメント(27)
(続き)帰国後、上海で撮ったレントゲン写真を英国のGPに見せるとさっそくロンドンの有名な小児科総合病院へ紹介状を書いてくれた。二、三ヶ月後、精密検査の連絡が来た。スキャンや、一夜入院して、眠っている間に脳に行く酸素の量が減っていないか調べる検査等の数週間後やっとコンサルタント(主治医)による診察にこぎつけた。この時、初めて次男の頭のスキャン写真を見た。レントゲンより数百倍くっきりしている。本物の頭蓋骨だ。でも、頭蓋骨の形に見えない。異様に丸いのだ。まんまる。ボールそのまま。完全な球体。コロコロしている。思わず病気の事を忘れて「か、可愛い」と思った。記念に持ち返りたかった。(デジカメでの撮影許可はもらったが結局機会が無くそのまま....)そんな丸顔には見えない次男の頭蓋骨がここまで綺麗に丸いのが意外だった。写真を見ながら主治医の説明を聞くと次男の左顎は一部が全く成長せず一部は成長しすぎその結果、本来蝶番的役割を果たすべき顎が機能しない為口が開けられないらしい。また検査の結果から睡眠中の酸素が不足しているのも判った。手術内容は.....、と、こと細かく説明されたのだが手っ取り早く言うと(細かい部分は既に忘れた...^^;)、成長し過ぎた骨をけずり肋骨の一部と耳の軟骨の一部で成長しなかった部分を形成萎縮してしまった筋肉を引っ張る.....との事。驚く事に、その場で手術の予約を入れられたのだがこの手の手術は、この病院では一週間に一回しか行わない為予約が取れたのは、また数ヶ月後、長男の誕生日の頃だった。だが、先に述べた様に、この手術は病院側のミスでドタキャンされ再手術(というのか?)は年が開けてから、実は、もとの予定は1月3日だったのだが新年で人手も足りないし、まだお正月気分(というかクリスマス気分・パーティ気分)の抜けない病院で手術・入院をするのは恐いと危惧していたところ結局、スケジュール調整で、10日に決定された。この期間に病院では人事異動があり、次男の主治医は付近の大学病院へ移り何故か、その病院から別の医師が呼ばれ執刀する事になった。(この病院は頻繁に人事異動があり現在の主治医は5人目だ。)こうして二年前も今年と同じ様に風邪をひかさない様に、クリスマス休暇中も人ごみは徹底的に避け隠遁生活を送ったのだがそのおかげか手術は無事予定通り行われた。6時間あまりかかった。手術の終了の連絡が来て「リカバリー室」に行くと次男は既に大声で泣いていた。頭にはギブスの様な物が鉢巻きの様に巻かれ耳のところにはスポンジの様な物が縫い付けられ(!)そして顎と胸の傷に付けられた細い透明なチューブの中を緩やかに血が流れていた.....。その先には、血の溜まる袋の様なものが付けられている。「あ、ヤバイかも」と思ってウザヲを見ると既に顔面蒼白・貧血状態になっている。ウザヲは血に弱いのだ....。次男の横には椅子は一つしかない。外の待ち合い室に行く様にすすめるとフラフラしながら部屋を出ていった。その直後、私が次男を抱っこできる様に看護婦さんが次男の体についていた点滴のチューブを動かそうとした際、血の流れるチューブから袋が取れてしまい中の血がタラタラタラ~とかなり大量次男の体から私の服の上にまで流れて来た。この時ほどウザヲが側にいなくてよかったと思った事は無い。その場にいたら絶対失神していただろう。次男の顔は、よく見ると少し膨れ上がっていて鉢巻き式ギブスのせいもありお祭りで売っている蛸の風船にそっくりだった。大泣きしている口が大きく開き舌が見える。こんな可愛いピンク色の舌だったのか、と思ったら急に感動が込み上げて来て涙がこぼれそうになるのを必死でこらえた。その後、次男は泣き止み眠った。また起きて少しだけ泣き、また眠る、を繰り返しだんだん落ち着いて来たが、起きている時も家族の誰も判らない様に呆然としていた。翌朝、長男を学校に送って行った後に病院に行くと落ち着いてはいたものの、ちょっと不機嫌だった。わざわざ様子を見に来てくれたもとの主治医から手術後は、とにかく口を開けさせる事が大事だその為にはアイスクリームでつるのが効果的だと言われたので病院から無料でもらえるアイスクリームをたくさん食べさせた(私も残りを食べたが美味しかった)。家で大量作ってきたお粥も少しずつ食べさせた。眠ったり食べたりしてベッドの上で一日を過ごした後夕方、ウザヲに連れられて長男が病室に入ってきたとたん次男は初めて嬉しそうに大声で笑った。二人で仲良く一緒にアイスクリームを食べた。そして、点滴・血の流れるチューブと袋を付けたまま病室の側の遊び場で遊んだ。この遊び場について少し説明すると小児科専門病院として名声の高いこの病院には入院している子供とその兄弟の為の遊び場付き託児所・学校等の無料の施設が大変充実していた。長男も手術中は遊戯指導の先生と一緒に絵を描いたりタイルに絵を焼き付けたりして楽しく過ごした(もちろん無料)。先生にほめられたこのタイルは、今もキッチンに飾ってある。(というか窓際に置かれたまま二年間放置されている....)長男は今でも、この「学校」が懐かしいと言う。この後、次男は、おそろしい回復力でどんどん快方に向かった。痛め止めの薬を飲むのが嫌で吐き出したりしまっているのに全く痛がってもいないのにも驚いたが手術後4日目には既に病室の中を走り回りそうな勢いで無事、退院となった。(長男誕生時の帝王切開後の私と大違いだ.....)だが、だが、だが....せっかく退院となって喜んでいたらその一週間後、なんと、顎の傷から血の混じった膿の様な体液がじわじわと滲み出て来たのである.....。大パニックになった私はGPと病院と担当医に電話しまくり(↑何回も状況説明を繰り返しているうちに落ち着いて来た)慌てて家に舞い戻ったウザヲと一緒に医者の指示に従い小児科専門病院ではなく、その付近の大学病院へ次男を連れて行った。傷口が感染したらしい。抗生物質の与えかたが少な過ぎたのではないかと思う。結局、次男は再度入院となってしまった。小児科専門ではないこの病院、病棟は小児病棟だが、遊び場は、雑然としておりもちろん、専門の指導員もいず厭きた子供達の相手をするのにてこずった。さらに、一階にある急患には常に、ヤク中毒・アルコール中毒にしか見えない危ないタイプの人達が常にタムロしていた。(ロンドン中心の観光客も多く犯罪も多い危ない地域だった。)幸い、次男は3日で退院できたが、はっきり言って、もう二度とおじゃましたくない病院だ。ところで、ここで回診の際に担当医と一緒に来た若いオーストラリアの研修医(↑日本人の彼がいて将来日本で暮らしたいと言っていたが今何処?)によるとオーストラリア(やアメリカや日本)では、通常出産時には溶連菌検査をする事になっているそうだ。英国で検査をしない事に彼女は非常に驚いていた。溶連菌は非常によくある菌で、健康な大人が感染しても子供でも発病するどころか自覚症状も無い事が多い。だが、産婦が、たまたま、出産時にこの菌を持っていると、産道から胎児にうつり髄膜炎に発展して死ぬ事もある恐ろしい菌なのだ。だから、国によっては、出産時に溶連菌のテストを行い産婦に抗生物質を投与する。そうすれば胎児への感染は避けられる。どうも、英国のNHSには、検査をする予算が無いらしい。やっぱりタダほど高いものは無いのだろうか......?と言う事で、長くなりましたが出産を控えている方溶連菌の検査だけは絶対する事をお勧めします。この検査があったら、次男は入院を繰り返す事も手術する事も、術後の半年にわたるリハビリも、今回の手術も将来の手術も必要ありませんでした。こんな日記をダラダラ書く事もなかったでしょう。(別の用件でダラダラ書いていたかもしれませんが)最後になりましたが薬嫌いの次男の為に、薬をゼリー状にする「のませ~る(すごい名前)」を送ってくれた友人前回の手術、今回の手術で心配し励ましてくれた友人どうもありがとう!そして、長文におつきあい下さった読者様、どうもありがとうございます!こうして昔を振り返っているうちに次男の生まれた(私が産んだ)日の事を思い出しました。考えてみれば、長男の上海出産体験記に「続き」と書いたのに頓挫したまま...。遅れ馳せながら、明日は、手結川弘仁誕生記録、中マロ英国出産体験記を書きたいと思います。(書けるかな~?)
January 13, 2004
コメント(24)
いよいよ次男の手術の日が近づいて来て落着かない。今は手術自体よりも手術前の体調整備の方が心配だ。このド寒いだけじゃなく毎日雨が気まぐれに降る英国の冬、白人に比べて寒さに弱いらしいアジア人(エスキモーは?)の次男を手術当日まで鼻水ひとつ出ない状態に保つ..(できるのか???)運悪く風邪でもひいてしまったら手術がキャンセルされまた少なくとも3ヶ月は待たされる事になるので必死だ(ToT)。さっそくネルのパジャマとフリースのガウンを買って来て夜の対策はバッチリだが、登校時、どうなだめてもマフラーをしない。曰く「あちゅいのっ。コウジあたまイタくなっちゃうのっ。」....実は、前回手術の際、鼻の穴に通すチューブについた極小サイズのマイクロカメラ(100万円との事)が搬送中のミスで壊れてしまい替りが見つからなかった為開始30分前に手術がドタキャンされすぐに再手術の予約を入れると約束されたのにも拘わらず結局、3ヶ月近く待たされてしまったのだ。今回の手術をキャンセルされたくないのには大きな理由がある。それは、先週、手術前の説明がてらレントゲン写真を見た時の事だ。実際に顔を見るぶんにはそれほど感じないのだがこうしてあらためて見ると顎の高さも全然違うし歯の数も足りなかった(妙に細かいウザヲが気が付いた)のだがそれよりも何よりも、衝撃を受けたのは、今回取り外す予定の顎の骨を固定している金具だ。顎の所に何かボコっと小さく突き出ているのが明白な金具なのだがそれでも、先進的精密金属部品に違いない、と予想していた。だが、レントゲン写真に写ったその金具は、小さな洗濯バサミ....というか..メモ紙挟みというか...要するに、どこの家にもありそうなごっつい単純なクリップだったのだ。あらためて診察台の上に神妙な面持ちでチョンと乗っている次男の顔を眺める。こんなのが顎の中に入ってたら、さぞかしうっとうしいだろう。そして、何かのひょうしにぶつけでもしたら???ぞっとした。「中に入れておくと危険なので取りましょう」と言われてから既に半年待ったが(危険なんじゃないのか????)この金具の形を現実に見てしまってからは、もう一刻でも待てない気持だ。今日、明日、あさって、あと3日。ぜぇぇったい風邪はひかせられない!!!!さて、2年前に手術を受けるまで次男は口を5ミリくらいしか開けられなかった、と以前日記に書いたが実は、両親である私とウザヲは、その事を次男が二歳になるまで気が付かなかった...。うっかり、というか、ここまで来たら単なるバカ親なのだが確かに私達が大雑把なのは認めるとして、ここまで気がつかなかったのにも理由があるのだ。まず、口が開けられないなんて事態があるとは想像もしていなかったのが一大理由だ。乳児の年齢別成長チェックには聴覚や視覚の異常に関する記載はあるが口を開けられるかどうか調べましょう、なんて聞いた事が無い。だから考えた事もなかった。(というか普通気付くもんなのか???)そして次なる理由は、生まれつき口が開けられなかったのならさすがに私達でも、どんなヘボ医者でもすぐに気付いたはずだが次男は赤ちゃん時代には口を開けられたのだ。歯が生えるまでは、歯の分だけでも口の隙間が大きかったはずだし(よく覚えていない....)ともかく、お乳をやるのにも離乳食をやるのにもそれほど苦労した事がなかった。しかも、次男は、出産時B群溶連菌に感染していた事が退院後(出産後6時間で母子ともに退院した^^;)5日目にヘルスビジター(保健婦・出産後毎日産婦の家を訪問する)から黄疸じゃないかと疑われ(ただ単に黄色人種だから白人より黄色いだけだったのだが)受けた血液検査によって発覚し、即、入院し即抗生物質で治療したので大事には至らなかったもののどの様な影響があるか成長しないと判らないため生後6ヶ月まで通院観察し、脳スキャンや聴覚テスト等を繰り返していたのだ。だから、何か異常があれば、ここで引っかかってるはず、と思って(安心して)しまうではないか。もし病院で顎に何か後遺症が現われる、とでも言われていたらもちろん私達も注意していただろうがこんな所に障害が現われるのは「非常に稀な展開」で病院側でも予想もしていなかったのである。さらに、正直に言うと一人めの子供だったら、あれこれ心配したかもしれないが二人め育児というのは、比較と諦めに終始しやすいものなのだ。次男は長男に比べ、しょっちゅう泣くしひっじょぉ~に扱いにくい赤ちゃんだったのだが「同じ親から生まれても全然違う」と妙に諦め納得してしまい原因を追求してもみなかった。顎の畸形がわかってからは、次男があんなに不機嫌だったのはひょっとしたら、常に顎に痛みがあったからかもしれないのに「扱いにくい子」と決め付けて、深く考えもせず本当にすまない事をしたと反省している。思い込みほど危険なものはない。では、いつ頃から、さすがの私達もおかしいと思い始めたのだろうか?次男には1歳2ヶ月くらいまで母乳を与えていた。その頃には、かなり歯も生え揃っていたはずだが(よく覚えていない....)小さいなりに口は開いていたしこの時までは、まだ、特に疑問には思っていなかった。だが、卒乳後、食事の量が増えてから自分で何かを齧って食べる場合はいいのだが(今考えると、いつも、口の端っこで齧っていた。)スプーンで食べるものは、一回に少ししか食べれないのに気付いた。口を開けないので、ボロボロこぼれて食べれないのだ。友人は「『ア~ンして』って食べさせようとしても口開けないねぇ。」と不思議がっていたが、私は口が開けられないなんて夢にも思わず食べるのが嫌だから開けないんだと信じていた。その頃、風邪でお医者さんに連れていっても次男は口を開けて喉を見せた事が無かった。お医者さんは苦笑いしながらあきらめていた。もちろん歯も磨けない。前歯、歯の表面は何とかなるが、無理矢理歯ブラシを入れて引っかかってしまい、やっとの思いで抜き取ってからは奥歯は漱ぎだけで済ます様になった。詳しく説明すると、当時、口の開き方は左右均衡では無く、片端は全く開かず片端は角度をずらすと8ミリくらいは開ける事ができた。この頃、上海で口腔科の看護婦をしている義姉(ウザヲ姉No2)が次男の写真を見て口元が歪んでいる事に言及する様になった。私達夫婦は、当初、その懸念を医学的な理由よりも審美的な理由だと思い気にとめていなかったのだが、ちょうど引越しでGP(地域の家庭医)を登録しなおしたので子供好きで人あたりの良いこのお医者さんに次男の口元の歪みについて意見を聞いてみた。杞憂だと言われるかと思ったら、地元の総合病院に診せる様に紹介状を書いてくれた。ところで英国では医療は一般的にNHS(国家保健サービス、予算は国民から税金と共に徴収)でまかなわれ成人の薬代等を除き基本的に個人負担は皆無だ。国民以外にも適用されるし出産もNHSですます限り全く無料だ。逆に、NHSがきかない医者や歯医者で治療したりすると非常に高額の医療費がかかる。NHSの基底にある哲学自体は素晴らしいのだが現在のNHSは、つねに予算不足よって人手不足で、診察するにも手術するにも急患でも(!)とにかく待たされる。ガンの診察・治療・手術でさえ長期間待たされて結局手遅れになってしまう、なんて事が起こっている。そんな訳で、地元の総合病院での診察の予約が取れたのは数ヶ月後だった。結果、診断は「特に異常無し。」「頬がポチャポチャしているから口が余計歪んで見えるが、歪みを治す為には大掛かりな手術が必要だし個性だと受け止めた方がいいと思う」と言われた。異常無しと言われて少し安心したものの何故口を開けないのかは依然謎のまま。不安が日増しに大きくなった。最終的に、二ヶ月後、東京・上海での休暇のついでに、義姉の職場の先生達と既に引退した上海一の口腔科の名医と言われる先生に次男を診てもらった。名医の先生の診察には私は同行しなかったのだがウザヲの話によると、先生は、次男の両顎に手を当てただけで「この顎でどうして口が開けられるんだ。口を開けないんじゃなくて開けられないんだよ。」と断言したそうだ。そして「すぐに手術が必要。」「最悪の場合、睡眠時に窒息する可能性もあるから常に添い寝で様子を見て熟睡させないように。」等と続けざまに言われウザヲは目の前がまっくらになったらしい。義姉が私達が英国に住んでいる事を告げると術後リハビリが必要だから英国で手術を受けるべきと助言された。この時、次男のイビキも、顎の畸形のせいだとわかった。イビキは、確か一歳過ぎから始まったのだが(よく考えると乳児時代にはイビキは無かった..と思う。)ベビーカーに乗せて買い物をしている時うとうとと眠りに落ちた次男が大イビキをかき始め、その場にいる人が一体何の音だと周囲を見回し次男が原因だと気づき微笑んだり冗談を言ったりするという事がしょっちゅうあった。一度、図書館で注意された事もある。そのくらいすさまじいイビキだった。(夜、その横で熟睡できる私も私だが....。)名医の話では、このイビキは睡眠時に酸素が十分に脳に行っていない可能性(つまり、知能の発達に影響を及ぼす可能性)を示しているらしい。熟睡させないようにというのも同様の道理であった。(でも熟睡させないって...じゃ、親はいつ寝ればいいんだ???)とほほ時代の幕開けとなった。(長くなってしまったので、ここでいったん切ります...)
January 12, 2004
コメント(0)
新年・・「めでたい」和やかな気分で迎えたいもの。家族そろって迎えられるだけでありがたいのにそれが申し訳なく思える年越しだった。もともと手結川家の年末は中マロ母の命日やウザヲ母の冥誕(故人の誕生日)があり冥土用のお札を庭で燃やしたり(故人への仕送り!)死者を身近に感じる神妙な季節だ。それに加え今年は外を見ても戦争、天災、飛行機事故.....悲劇には年末年始とか関係ないもんなぁ....。人災も天災でさえも、財力と人力である程度までは軽減できる。その可能性がわかるだけに「できる限りの事は尽くした」の「できる限り」のレベルが財力と人力で全然違ってしまうのが余計悲しく辛い。そして自分自身が「できる限り」を尽くしていないのが余計に恥ずかしく思える。どこで「できる限り」の限界線を引けばいいのか?それに、一体何をしたらいいのか?そんな事をウダウダ考えているとますます自分が情けなくなってくる。でもその自責の念によって問題から目をそらす様にはなりたくない。昔、世の中が、今より更に不公平だった頃自分の無力さに絶望し自殺した文化人がいた。私は、自殺したら全ておしまいだと思う。辛くても恥ずかしくても生き抜く事に意義があると思う。生きている限り可能性が皆無になる事は絶対無いと信じているから。だから戦争で平和を呼ぶ「方法」にも納得できないのだ。戦争は必ず人を殺すから。絶対、他の方法がある。先月、イギリスの新聞で読んだが防衛費縮小により現在の英軍は独立で戦うのは不可能....つまり米軍と一緒でなければ戦争はできない状態らしい。だが、一体、どこの国が一国のみの軍力で米国にかなうだろうか?これからは、どの国も「過去の栄光」各国独自の「面子」に振り回されないで冷静に「ご近所つきあい」をしながら「お互い様」で助け合わなければ生きて行けないのではないか?米国が独占的軍事大国であるかぎり米国の植民地としてではなく独立国として生きぬく為にはいくつかの国自身が互いの相違点を認め合い尊敬し合いながら協力しあうしか道は無いのではないだろうか?でも....、これが難しいんだよねぇ。「牛尾となるより鶏頭となれ」という言葉があるが「牛尾」でなければ生きていけない...と洗脳されてしまっている人が意外と多いのに驚く。足下に火がついてからじゃ遅い。せめて政治家くらいは長い目で行動してくれ~!***************【読者様】あけましておめでとうございます。年末年始ネット日記から御無沙汰しておりましたら年初にご訪問下さった読者様のおかげで自己記録第二のアクセス数になり(過去最高は偶然にも敦朗の誕生日でした...)非常に、ありがたく、もったいなく同時に全く更新していなかったのが大変、申し訳なく思われました。これからはどんなトホホな状況でもユーモアと勇気を忘れないという「英国精神?」を見習ってユーモアというほどの技量はまだありませんが少しでも明るい日記にしようと思います。PS:春原おはなはん、ウサギGetおめでとうございます!明るいニュースで日記を付ける力が出てきました。*******************さて、手結川家では年末に、その年の「目標」がどこまで達成したか反省する事にしているネット日記という公の場(なのか?)で公開するほどのものではないが他にネタもないので無理矢理お見せしようと思う。(興味の無い方は、どうぞ、ここでおやめ下さいませ。)まず☆ウザヲ「上海と東京に一家で行く」→達成!(目標っていうか、これ年末、既に決まってたんじゃ?でも謝々!)「上海で不動産を買う」→撃沈~(今年も英国の家ローンだけで精一杯でしたぁ~..とほほ。)「妻にやさしくする」→撃沈だ撃沈!バカヤロー!「毎日、敦朗に数学を教える」→やる時はやるんだが....。「Pinyin=中国版ローマ字を習得する」→撃沈(もう3年目)。(Pinyinができないので中国語入力ができないウザヲ。)(中国語メールは中マロが代筆。ネット文盲なり。)☆手結川中マロ「筆まめになる」→いきなり...大撃沈!!(結局毎年諦めるクリスマスカード・年賀状のタタリじゃ~。)「通信教育、単位獲得」→達成。(後半は学費を無駄にしたくない一心だけで続けた。とほほほ)「毎日、敦朗の勉強を見る。」→かなり撃沈...?(今日は例外っていう日が多すぎてねぇ~。)「ネット時間を減らす」→フォフォフォフォフォ(ノーコメント。)「毎日、日記をつける」→どうして撃沈明白な目標ばっかり立てるんだよっ??☆手結川敦仁。現在9歳。「ベイブレードのプロになる」→英国では下火になったが、まだ続けている。(この道でお金は稼げていないがプロ並みか?)「パパとママに礼儀正しくする」→もちろん撃沈だ!前年より悪化!とほほ。(本人談「パパとママがいけないんだよっ」)「弘治にやさしくする」→本人談「こんな目標たててないよっ」「毎日ミルクを飲む」→ほぼ達成~!(お風呂あがりビールがわりにブハっと一杯!)「毎日、日記をつける」→本人談「それママの目標でしょっ?嘘つかないでよっ」☆手結川弘仁(現在4歳)「くまさんになる」→達成しなくてよかった...「ダイノソー(恐竜)になる」→あの~、一応、新年の目標について説明したんですが...(恐竜みたいに絶滅しないでくれ~!)「ご飯をたくさん食べる」→う~ん撃沈。(責任を感じます。ToT)「毎日ミルクを飲む」→ほぼ達成!(達成できそうな目標一つは入れとかなきゃねっ)「チョコを食べたら歯をみがく」→後半達成!(日記にも書いたが歯医者さんに注意されて以来全く甘いものに手を出さなくなった!!!)以上。いや~、なんて小市民的。ね、こんな平凡な家族の主婦やってる中マロが文句を言わずにはいられないほどマズイし危機感がある世の中なんだよっ!反省しろよっ、政治家!!(あ、また、もとの話に戻っちゃった~)手結川家の今年の目標なんて「家族全員で無事年末を迎える」だよ、もう。あ、そうか、だから「おめでとう」なんだよね。無事、一年が過ごせたから新年を「おめでたい気分」で迎えられるんだよね。あ~、やっと、おめでたくなりました。それでは年末をイラクやイランで過ごされた自衛隊・外務省・救助隊・派遣企業の皆様とご家族の皆様、色々な事情で家族離れて年末を迎えられた皆様が来年の年末は家族そろって無事暖かく迎えられますように英国からご祈祷申し上げます!ささぁ~っ!
January 5, 2004
コメント(18)
全7件 (7件中 1-7件目)
1