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2009年08月08日
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 今年も、京に暑い夏がやってきた。
 大堰から六条へ渡ってきて初めての夏。山麓に川を控えた大堰の里は、冬は凍えるほど寒かったけれど、夏は開け放てば涼風がどこからか吹いてきて快適だった。それでもあかねは暑い暑いとだだをこねて、女房頭の少納言を困らせていたけれど。
 六条の屋敷は、大きな池を設えて水を流し、涼やかに作ってはあったが、山から吹き下ろす風があるわけではなく、町中のよどんだ空気が、生ぬるく覆っているだけだった。

(大堰に戻るって言えばよかったかなあ……)

 あかねは後悔していた。友雅はこうなることを見込んで、あかねに、大堰の山荘へ避暑に行くよう勧めてくれたのだった。しかし、そうするとまた、友雅と別れ別れの暮らしになってしまう。あるいは、友雅が遠い道をまた馬を駆って内裏へ通うか。どちらもあかねには寂しく心苦しいことだった。

「いいよ。ここに居ます。」
「いいのかい?」

 あかねは元気よく頷いた。せっかく、友雅が自分とちい姫のために用意してくれた洛中の館だ。北の方としての務めがたっぷりあるというのに、本当は嫌いな内裏務めを自分のために堪えてくれている友雅を置いて自分だけ避暑に行くなど、考えられない。
 それを口にしたら、友雅は嬉しそうに抱きしめてくれた。たくさんの愛の言の葉と一緒に。


 しかし、口ではどんなに強がっても暑いものは暑い。あかねは涼を求めて西の対へ出かけた。階の近くまで水を引き入れてあるそこはちい姫の館になっていて、風通しも寝殿よりよく、このところあかねはしょっちゅうそちらへ出かけていた。

 いつもの居間を覗くと、そこにちい姫の姿はなかった。いつもなら出迎えて案内する女房の姿もない。どこへ行ったのかと耳をすますと、遠く、対の屋の南の端から、小さな歓声が聞こえた。あかねはそちらへ歩いていった。

 遣り水の小さな流れの畔に幔幕を張り、その中から歓声が聞こえてくる。
 傍にいた女房があかねに気づいて迎えた。

「あまりにお暑うございますので、本日は姫様には行水を。」
「わあ、いい考え。気持ちよさそうだね。」

 幕を上げてもらって中に入ると、ちい姫が目ざとく見つけて駆け寄ってきた。

「ああ、姫様、濡れたままおいでになっては。」

 乳母が急いで寄ってくるのをあかねがやんわりと止めた。ふふっと悪戯に笑って、袴の紐に手を掛けた。乳母が驚いて目をむいた。

「お方さま、何を遊ばされます。」
「だって、あんまり気持ちよさそうなんだもの。私も一緒にいいでしょう?」

「え~? いいじゃない。こうやって幕も引いてるんだし。誰も見に来やしないって。」

 とは言うものの少し気が咎めて、着いてきていたお付きの女房に、湯帷子を持ってくるようにあかねは言いつけた。かしこまりましたと女房が去るのを見て、乳母は不承不承ながらもあかねのためにもう一度湯を運ぶように西の対の御達に頼んだ。

「まったく……殿様がお聞きになったらなんとおっしゃることか。」
「大丈夫、友雅さんはそんなこと気にしないよ。一緒にしたいって言うんじゃない? ねえ、ちい姫。」

 ちい姫が嬉しそうにぱしゃぱしゃと盥の水しぶきをあげる。夏の日差しがしぶきに反射してきらきらと七色に煌めく。



 ちい姫の可愛いしぐさも、この綺麗な水しぶきも、何一つ思い出を残せない。だから、せめて、たくさんの思い出を共に。
 夏は必ずプールに入っていたのだ。大堰でも、内緒でしょっちゅう池で泳いでいた。本当にこの六条の池でも泳ぎたいけれど、ここは余りにも人目が多すぎてできない。ちい姫の行水に便乗するのは、またとないチャンス。

 湯帷子も届き、盥には新しい湯が足され、あかねは袴と羅の単衣を湯帷子に着替えて、盥に飛び込んだ。大人が一緒に、しかも母が一緒に入るなど思いもつかなかったのだろう、ちい姫の目が丸く大きく見開かれて、次の瞬間には大きな笑い声を立ててあかねの胸に飛び込んできた。

 思う様抱きしめ、湯をかけてやり、小さな体をこすってやり。乳母が洗ったのはよくわかっていたが、すみずみまで自分の手でこすってやりたい、柔らかい小さな体。ちい姫もあかねを真似て、大好きな母のおっぱいを小さな手でこすってみたりするようだった。

 幔幕の外が急にざわついた。必死で止める声を振り切って、幕が開かれた。

「ふふ、良い眺めだね。」
「友雅さん!」

 朝参が終わって戻ってきたのだろう。友雅の顔が覗いていた。あかねは慌てて向こうを向いた。ちい姫がせいいっぱい小さな腕を広げて父を呼んだ。友雅は乳母から体を拭く布を受け取り、それでちい姫をすっぽりと包んで抱き上げた。

「ご機嫌だね。湯浴みは楽しかったかい? 姫君。」

 頷いてちい姫は父の頬に自分の頬を擦りつけた。友雅はくすぐったそうにそれを受けながら、穏やかな目をあかねに向けた。あかねは、友雅の眼がちい姫に向いているうちにと急いで体を拭いている最中だった。女房の一人が友雅の視線からあかねを守るように布を広げているので、友雅は残念だと言うように肩をすくめた。

「殿様、おいたも程々にして差し上げてくださいませんと。」

 友雅を追ってきていた少納言が、呆れたように言った。

「……人目につくようなところで湯浴みをしていた北の方にお小言はないのかい?」
「……この暑さでございます。お留めすることはかないません。」
「ああ……」

 あかねは京の暑さに弱い。あかねがいた世界では、夏は部屋を冷やす道具があって、それで暑さをしのいでいたと言うから、毎年、あかねの夏越は大変なのだ。

(だから、大堰へ行けと言ったのだがねえ……)

 身仕舞いをして、すましてその場にいるあかねに向かって、友雅は苦笑した。あかねはつんと横を向いた。ちい姫が不思議そうに両親を見るので、友雅は笑ってちい姫ごとあかねを抱きしめた。

「……ひどいわ。気持ちよかったのに。」
「続けていればよかったのに。なかなか素敵だったよ。めったに見られないお姿だったからね、奥方様。」
「だって、恥ずかしいでしょ!?」
「恥ずかしい? どこが?」
「もう!」

 ちい姫を間に挟まれているから、叩きたくても思うように叩けない。あかねはちい姫を抱き取って、友雅の腕の中でくるりと体を翻した。追う手をくぐり抜けて乳母にちい姫を渡し、さっと幕を上げて外へ出てしまった。

「ご機嫌を損ねてしまったな。」

 言葉とは裏腹に、友雅の表情は自信たっぷりだった。夏の煌めく日差しの中、思う様水に戯れる楽しさを知らない友雅ではなかった。あかねが喜ぶことを一つ見つけた。

 友雅は寝殿に戻ると、急ぎ家司を呼びつけた。



◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆



 数日後、西の対の釣殿の先で、何やら普請が始まった。

「聞いてないわよ?」

 何の普請かと尋ねるあかねに、友雅はふふと笑って答えなかった。



 更に数日後、友雅はあかねを伴って西の対の先へ出かけた。
 普請はもう終わっていて、白木の板塀で囲った小さな板葺きの小屋ができていた。促されて扉を開け中へ入ると、小上がりの上は小さな部屋になっていて、そして更に奥には……

「お風呂!?」
「そうだよ。あんな風に幕を張って行水するくらいなら、この方がいいだろう?」

 檜の香りがぷんと薫る、新しい木の湯船。深さはあかねの膝ほどのようだが、広さは脚を伸ばしてくつろげるほどだった。ちい姫が一緒に入っても安全だろう。背後は壁になっているが、目の前は素通しに開けて、庭の一部を囲みこんだそこは白い玉砂利が敷かれ、引き込んだ遣り水で水遊びもできるようになっていた。

 あかねは無言で友雅を振り返った。黙ってじっと抱きしめた。見なくてもわかる。あかねは涙ぐんでいた。

「どうしたの。気に入らない?」
「ううん、嬉しいの。何も言わないのに、こんなにしてくれて……」

 友雅はあかねの顔をすくい上げ、口づけた。

「……愛しい君のためならね。」

 ちい姫が、乳母に連れられてきた。新しい湯殿に目を丸くした。

「おいで。」

 あかねは涙を拭いてちい姫を呼んだ。遣り水の傍へ連れて行き、そっと水に触らせた。ひんやりした感触にちい姫は歓声を上げて、嬉しそうに遊び始めた。
 手で水を掬っては一緒に戯れるあかねを、友雅も嬉しそうに眺めていた。





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最終更新日  2009年08月08日 20時41分03秒
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