明治の町家   姫路の春霜堂  

明治の町家   姫路の春霜堂  

高橋三吉 海軍大将 1882-1966 101ht


ニックネームは「三吉姐さん」1901(明治34)年 海軍兵学校(29期)卒 
飛行戦隊司令官、海軍大学校校長を歴任
1932(昭和7)年2月 軍令部次長、1926(大正15)年11月1日~1927(昭和2)年12月1日 聯合艦隊兼第一艦隊参謀長
1927(昭和2)年8月24日 美保ケ関事件、 旗艦・戦艦「長門」艦上で現場近くの混乱した海域は危険だから「長門」は先に帰還しようと進言し、加藤寛治聯合艦隊司令長官もこれに同意したが、傍らでこれを聞いていた大川内伝七参謀は、死傷者が多数出ているのに長官だけ先に帰るとは何事か、と色をなして諫めたと伝えられる
1933(昭和8)年11月15日~1934(昭和9)年11月15日 第2艦隊司令長官
1934(昭和9)年11月15日~1936(昭和11)年12月1日 聯合艦隊兼第一艦隊司令長官
1935(昭和10)年9月26日 第四艦隊事件、1939(昭和14)年 予備役編入
1966(昭和41)年6月15日 死去、享年84


日本橋区箱崎小学校として使われていた昭和十二年の末に、当時、尋常六年生として在学していた岩井光子という生徒が亡くなりました。光子さんは三年生の頃からの病気のため学校を休みがちでしたが、成績は優秀で、とくに担任の先生から教わった吉田松陰の生き方に深く心を動かされていました。

そこで彼女は卒業を三ヶ月後にひかえて亡くなる際に、自分の貯金を示しながら、学校に松陰先生の銅像を建ててくれるように両親に遺言しました。両親は貧しいながらも苦労してこの遺言を実現し、昭和十三年三月二十二日に盛大な除幕式が行われたました。

この話を開いて感激した海軍大将高橋三吉が「松陰先生」の文字を書きました。当時、この物語は教育美談として伝えられ、東京日々新聞が表彰を行い、時の文部大臣、東京市教育局視学課長等が参列しました。

昭和十四年九月、螢雪書院より「愛国少女光子さんの遺言で出来た吉田松陰銅像の話」という小冊子が発行されて、徳富蘇峰が題辞を寄せています。昭和十九年四月に本校が移転した時、松陰像も引き継いで今日に至っています。 なお、台座の左右には上に掲げた、光子さんが好んでいた松陰の歌二首と次のような文字が彫られています。

 「本校第六学年在学中病没せる長女光子の遺言により精神教育資料として之を建つ
               昭和十三年三月二十二日 寄贈者 父 岩井五郎」

春霜堂にあるのは、おそらく2・26事件前後頃のの高橋三吉大将のの額である。

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