平和の礎
1月12日(木)
ゆっくりと朝食を済ませ、最終日は「ひめゆりの塔」の視察から始まった。
写真の手前中央に見えるのが「ひめゆりの塔」である。
「塔」と名は付いているが、実物は高さ数十センチで、それほど高くはない。
奥に見えているのは慰霊碑であり先生と生徒、合わせて210名の名前が刻まれていて彼らの納骨堂となっている。
そして、塔と慰霊碑の間に大きく口を空けているのが第三外科壕である。
慰霊碑の名称は、当時第三外科壕に学徒隊として従軍していたひめゆり学徒隊に因んでいる。
「ひめゆり」は学徒隊員の母校、沖縄県立第一高等女学校の校誌名「乙姫」と、沖縄師範学校女子部の校誌名「白百合」とを組み合わせた言葉である。
元々は「姫百合」であったが、戦後、ひらがなで記載されるようになった。
なお、植物のヒメユリとは関係ない。
この第三外科壕で、年端も行かぬ乙女たちは祖国の勝利を信じ、負傷兵の治療に当りながら尊い命を散らしたのだ。
慰霊碑の前に置かれた献花台には絶え間なく花が捧げられる。
NIJIも彼女らに届けとばかりに心から祈念し花を捧げた。
そして、塔と慰霊碑の右横には千羽鶴が飾られ、これも絶える事はない。
塔と慰霊碑の後方には、此処を訪れる者を見守るように「沖縄平和祈念資料館」が建っている。
収納されている資料は、言わずもがな・・・である。
行って、直接あなたの目で確かめて欲しいと思います。
戦争の傷跡で言えば、広島と長崎も先の大戦の犠牲となった象徴の地であるが、沖縄が広島・長崎と決定的に異なるのは地上戦が行われた場所であるという点にある。
そして、日本人同士が殺しあった戦争であるという事だ。
それは、どういう事なのか・・・。
数ある話の中から1つ、代表的な史実を紹介しておきたい。
防空壕に身を潜めた数十人の日本兵と民間人。
幼子を抱えた若いお母さんが、外から聞こえる爆音に怯えて泣き出す子どもの口を押さえた。
敵兵に気付かれれば壕内の全員が殺されてしまうからだ。
母親は泣声が外に漏れないように子ども口を強く押さえ続けた。
暫くして・・・ぐったりと項垂れた我が子。。。
気がつけば息をしていない・・・窒息死をしたのだ。
それでも母親は泣く事すら許されない・・・。(><)
やがて母親は近くにあった小刀で自らの喉を突いた。
ガイドさんの話を聞きながら、NIJIの頬には大粒の涙が止めどなく流れ落ちていた。
周りを見たら、一様にハンカチで目頭を押さえている。
皆、思いは同じだったようである。( p_q)
「ひめゆりの塔」での遣る瀬ない想いを引きずりながら、バスは次の視察地である「平和祈念公園」に向かった。
先の「沖縄平和祈念資料館」もそうだったが、この公園も「記念」ではなく、あえて「祈念」という文字を使っているのだ。
ここで、再び戦争の悲惨さを目の当たりにするのである。
此処を訪れるにあたり、少なからず勉強もし、資料も集めて目を通して来たつもりだった。
しかし、眼前に広がった光景は想像を遥かに超えていた。
平和の
ここに建立された、おびただしい数の銘板には、国籍・軍人・民間人を問わず、沖縄戦の全犠牲者 約24万人
の氏名が刻まれている。
こちらにも絶え間なく花が手向けられている。
取り分けショッキングだったのは、【NIJIの長男】【NIJIの次女】などと、名前が続柄で記されている事だった。
一家全滅に遭った家などは、近隣の人でも時の経過とともに名前が思い出せないのだ。
「確か、NIJIさんの家には男の子と2人の女の子が居たよねぇ・・・」
名前は分からなくても、この世に生を受け、この戦争で犠牲になった証として、このような刻印となったのだという。
こちらの銘板にはアルファベットが刻まれている。
米兵と、その家族であろう。
名前は地域別、あいうえお順に刻印されている。
親戚か知り合いの名前を発見したのだろうか。
愛しそうに名前をなぞる人がいた。
ここに刻まれた1人1人の名前には、夢と希望を胸にして明日を生きようとする人生があったはずだ。
戦争は、個人の立場や事情に関係なく、それらを一瞬にして奪い去ってしまうのだ。(><)
このような慰霊碑が沖縄県内の至る所に立っているという。
「ひめゆりの塔」や「平和の礎」は、その象徴の1つに過ぎないのだ。
戦争は、あまりにも残酷すぎて言葉を失った。
恒久平和が訪れますように・・・。
その是非は、とにもかくにも今を生きる私たちに課せられている。
その行く末を見守るように、世界地図が模られた噴水の中央で、「平和の火」は今日も赤々と燃えている。
それにしても、戦争の傷跡は何処まで深いのだ。
県内の一般道は幅員が狭く、しょっちゅう渋滞する交通事情ならば、地下鉄を敷けば良いのにと思う。
しかし、那覇市内にモノレールは走っていても地下鉄は走っていない。
造れないのだという。
これは平和祈念公園内の資料館にある不発弾をカメラに収めたものである。
県内のあらゆる所に点在しているので穴が掘れないというのだ。
つまり、地下鉄は半永久的に出来ないだろうと・・・。
戦争は 絶対に
起こしてはならない!
沖縄旅行の最終日は、とても神聖な気持ちになった。
この公園に足を踏み入れた瞬間、日々の生活の中で起きる山ほどの苦しい事が、小さな事のように感じられた。
初めての経験となった沖縄にも、別れを告げなければならない時間が来た。
首里城で買ったボールペンを始め、食べ物や使う物や使用済みの下着などは、昨夜のうちに宅配便で自宅宛に送った。
何年か後、また同じルートを辿ってみようと思っている。
3日間の思い出を胸に刻み、戦争と平和を考えたり、次の旅行先を考えるなどしながら、複雑な思いを載せ飛行機は羽田空港に向けて飛び立った。