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南千住とか三ノ輪の辺りというのは、蕎麦屋さんが似合う町のような気がします。それも日本橋とか赤坂とかの風流な―必ずしもぼくがそう感じているわけではないけれど―町にある文化人系蕎麦屋ではなく、ごくありふれた町にしっくりと馴染んだ肩肘張らぬ普通の蕎麦屋は実にいいものであります。そんな蕎麦屋で穏やかな昼下がりを店内に据えられたテレビを眺めつつ軽く板わさなんかを摘まみながら盃を口に運ぶ、なんてことを想像しただけでうっとりします。ここでは酒すら小道具に過ぎずこの居心地の良さこそがぼくをそこに向かわせる原動力となっているのだろうと思うのです。そして、そんな静かな町の小さな蕎麦屋の似合う町というのが南千住や三ノ輪という訳です。無論、巨大ビル群の谷間に埋もれるように店舗を構えるといった光景も感動的ではありますが、それは幾分か敗者の美学とか失われつつあるものに対する愛惜とかいった無常やら諦念といった息苦しさを伴うものであるのに対し、南千住の場合には多少なりとも寂しくはあるけれど、ごく当たり前に隣近所の住宅とも違和感なく溶け込んでおり、少なくとも哀愁や惜別の哀しみは孕んではいないのです。しかし、実際にそうした土着系の蕎麦屋はありはするけれど、案外に数は少ないようです。町の盛衰というのはなかなか一筋縄でいかぬところがあるようで、巨大資本の参入が町を飛躍的に活性化することもあれば、逆に劇的に過ぎることがそれに追い付けぬ人々をその町からつま弾きすることにも繋がりかねません。町のこれまでの有り様まで変えてしまう傲慢さは許されるべき所業であるか、それはまだ結論付ける事は出来ぬかもしれぬけれど、ぼくには必ずしも好意的に受け止める心の準備は出来ていません。 だからぼくにできる事、例えば「美加志屋」なようななんの変哲もない町の蕎麦屋を好んで訪ねる事にするのです。昼時を過ぎた店内にお客さんの姿は見られません。ひっそりと静まり返った店内には調理する作業音と時折店のご夫婦の交わす他愛ないといえばこの上なく日常的な会話が聞こえるばかりです。昼のビールはおいしいけれど、一本は少し多いなあなどとぼくもやはり思考を放棄したかのような詰まらぬことを思うだけです。たまに無性に食べたくなるカレー南蛮そばは、店の売りな一品であるらしいけれど、他にも豊富な品数で飽きさせぬようにしているのはとても楽しい事です。来る度に注文に迷うのは不粋なのかもしれぬけれど、これもまた週末の昼下がりというサラリーマンにとって特権的に自由な時間なのだから、お許し頂く事にしよう。その迷った末に注文を通した後にやはりコチラにしておくべきだったかなどと愚図ってみるのもそれはそれで小市民的で可愛げのある微笑ましい姿であると思うのです。こうした普通の蕎麦屋でのひと時をぼくは愛していきたいと思うように最近思えるようになったのだけれど、果たしてこの先、あと何十年こうしたささやかな贅沢を享受し続けることができるのか、人通りの少ない商店街を歩きつつ思うのでした。
2019/01/05
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毎日が忙しくて忙しなく過ぎ去っていくなあ、なんて発言をぼくが漏らしたとしたら真っ当な勤め人であれば呆れるやら怒り狂うやらでどうにかなってしまうかもしれません。てもまあそんな方はいないと思っています。それを言ったらおしまいよ的な発言ですが、こんな脳天気なブログに付き合っていただける方にそんなにセカセカと業務に勤しむなんて方がおられるとは思えぬからであります。いやまあ確かにこれからお邪魔しようとしている居酒屋について、宴席を慎重にリサーチしやうとした勤勉なサラリーマンがどんな因果か間違ってこのページに辿り着かぬとも限らぬのであります。確かにたまにネットで検索すると自分の所らしきURLがトップだとかトップページに表示されることもあるのであって、しかしそこは旅立ちの前に軽く立ち寄るような便利なお店だったりすることはほぼ皆無だと思うから心配には及ぶまい。このページに飛ばされるのは、根本的にこのページで報告しているような酒場なり喫茶が好き、でなくとも好奇心を持ち合わせる方だと考えられるからであります。ともあれ、この日の夜は夜行バスで一夜を過ごさねばならぬのだから、軽めにででも呑んで置かねばやってられんのです。 高速バスは新宿のバスタから発車するのだけれど、新宿の酒場はうかうかすると入りそびれる程に混み合うことが起こりうるから、呑みっぱぐれたりせぬよう勝手知ったる町で呑む事にしたのであります。でもねえ、新宿に向かう人間が西日暮里で呑むというのもどうしたものかねえ。しかしまあ西日暮里で呑む事にしたのは急なお誘いがあったからなのです。いろいろ迷いはしたけれど、ぼくにも誘い主にも時間制限があるのだ。そうなると案外話は早いものです。いや、いろいろあったけれど、「漁火」にそう時間を要さずに辿り着けたのだから良しとすべきであります。さて、ここからが本番で感想をあれこれ述べるべきなのだろうけれど、特筆すべき何ものもないのです。出される肴はそこそこ悪くなさそうだし、店内も清潔に保たれていることもあってか女性客の割合も多いし、かと言って適度な入りだから窮屈な感じはないのです。旅立ちの前に立ち寄る酒場は、得てして矛盾した選択を迫ってくるようです。この夜はこの後に自宅に立ち寄って、シャワーを浴びたりしたいと思っています。荷物の準備も何も出来ていません。そんな場合は本当ならカウンター席だけのサクッと呑めるタイプのお店が正解だったのかもしれません。こんな比較的落ち着いた店だと尻に根が張ってしまいます。背後の調理場では寿司職人風のなりをしたお兄さんが、さも職人であるかのように振る舞っているのがちょっとばかし気取り、いや気張り過ぎな印象です。ぼちぼち腰を上げないと、そう思った頃にお隣りには中年カップルが来店しました。そうそう、この酒場はおっさん二人よりきっと怪しい関係の一歩手前のカップルが気分的には人目を忍ぶ体でありつつ、いざ知人に遭遇しても無難に誤魔化せるといった単なる同僚と互いを憎からず思い始めるというその狭間の揺れる関係性を愉しむような店かも知れぬなあ、などと己に無縁なシチュエーションを思い描くのでありますが、それを実地に鑑賞する暇はもはや残されてはいないのでした。
2018/12/22
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別に日暮里を疎遠にした覚えはないし、思い返してみてもちょくちょく訪れてはいます。なのにどうして気付かなかったかなあ、いつの間にやら「いづみや」も「豊田屋」も姿を消しているじゃあないか。気付かぬくらいだからそれ程贔屓にしていた訳じゃあないけれど、それでもやはり困った時の2軒だったからショックも小さくはないのです。つい知らぬ酒場の刺激を求める余りに定番を疎かにする嫌いがぼくにはある。良く言われるのがあんたは所詮コレクターに過ぎぬのよ。コレクターという生き方に常々反感とは云わぬまでも、小さからぬ不信を抱くぼくにとっては、それを云われるのは結構どころでなくかなりキツい事なのであります。こんなブログだけれど毎日読んでくださる方もおるのだよというのも取ってつけたようで胡散臭いばかりです。人によっては、どうどうぼくってすごいでしょ、って誇ってるみたいで下品だとまで云うのだから何だか気分も萎えてしまうのであります。またしてもいつもの如くに話が脱線気味でありますが、確かに好きな店があるなら浮気ばかりをするのもどうかと思うのです。以前も書いたけれど、未訪の酒場の次にハシゴすべきは定番のお店であるべきなのです。ちょっとした冒険心を満たしていつもの安息の酒場で過ごすというのが、当初からのコンセプトだったはずです。でも未だにそういう酒場のリストは埋まることもなく、片手で余る程度の酒場に懐具合が寂しいとか残業なんかで遅くなったからというネガティブな理由で寄るのが関の山なのです。 ってな事を語っているうちにどこの酒場について書こうと思っていたか失念してしまいました。「ハヤシ屋(HAYASHI屋)」?、こりゃ西日暮里の数少ない定番酒場の事か?、いやいやさすがに日暮里と西日暮里を間違うことはないはずと店名のみのメモを頼りにネットで調べることになるのだった。まあ場所さえわかればあゝあそこの事かとすぐに思い出せるのでありますが、実はこの錯誤に気付いたのも今まさに西日暮里の「はやしや」で呑んでいるからで、やはり日暮里のこれから報告する酒場はレギュラー入りを逃したということなのであります。いやその酒場の客たちの顔ぶれを眺めていると夜な夜な入り浸っていると思しき方たちも少なくないようです。なるほどレギュラーメニューも定番を逃していないし、日替わりも帆立のヒモ刺など気が利いているのです。近頃スーパーでも見かけるようになりましたが、ぼくはこれが大好きなんですね。生ももちろん美味しいけれど、バター醤油で炒めたのなんかそれだけで呑み続けてもいい位に好きなのです。翌日もお邪魔したら黒板の品書はそれに書き換えられていたかもしれぬと思ったりもするけれど、きっとまあこの夜のうちになくなったのだろうなあ。とまあ、悪くはないのですよ、だけれど何が問題ってやはりお値段ということになるのがまたかという感じで我ながら残念至極ではあるのだけれど、ホンの1、2割の差が決定的な差別化の理由となり得てしまうのであります。その差は毎晩呑み歩く者にとってはけして小さくなくて積もると給料日前の数日を呑まずに直帰するという事態に陥りかねぬのです。だけれどこの倹しい計算がビンボーハシゴライフの醍醐味でもあるのです。
2018/11/09
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三河島駅駅の周辺には呑み屋そのものが少ないのだけれど、こと立呑み店に至っては一軒もないのだから困ったものです。結構物騒な人達が行き交うこの町では余り遅くまでやっている店が少ないと治安面からも好ましくなかろうと思うのです。東京であからさまに落ちぶれた町はそう多くはないけれど、夜になると極端に人通りが途絶えたり、店の灯りが消されるような町と呼びたくないような駅前風景が思ったよりもあるものです。人家は密集するのに人も店の灯りもないとは、なんとも言えぬ侘びしさに背筋の冷え冷えとする感覚を認めたりすることもあります。そうなるに至った理由は町ごとの事情があるのだろうし、それは致し方ないといえる。三河島駅などは駅前の再開発が主なる理由として考えられます。巨大マンションな住人達は足元のテナントのコンビニやチェーンの弁当屋なんかで買い物を済ませ古くからの商店街まで足を伸ばすことは少なさそうです。それは店側にも早く店を閉じてしまったりと利用者に寄り添っていないという課題を放置しっぱなしにしたツケが巡ってきたとも思えるからどちらが悪いわけではない。とちらが悪いわけでなく、強いて言えば両者ともに町を形骸化させたるに貢献したに違いない。所詮は自分が住んでもおらぬし、荒川区に税金も収めておらぬ町のことなのだから意見を述べるのは差し出がましいと言うしかない。今の三河島の町は今の三河島の住民自らが選び取った姿でしかないのであります。 さて、食べログのニューオープンを眺めていると三河島になんと立呑み店がオープンをしたという。当たり外れはともかくとしてその事実にはひとまず喝采の声を上げるに憚らぬのです。ならばそこは巨大タワーマンションの一階テナントに違いないと決め付けてしまったのが大間違いてした。行ったり来たりを繰り返すが見つからぬので、埒が明かぬとスマホを取り出すのは安直極まりないがこれは便利だねえ。すると思いもかけぬことにそこは、駅の改札を抜け新三河島駅方面にしばらく進んだ路地の入口にあったのです。ここは以前は薄ら汚さを漂わす中華飯店だったと思う。思うというのは入ってみたいと思うだけの古めかしさとは無縁の単にちょっと小汚い感じの店だったと思います。「立ち呑み家 正木」は、そんな唐突な感じに姿を見せました。お隣はごく普通の喫茶店「アイリス」だっただろうか。これが三河島でなかったならさほどの違和感は感じなかったはずですが、三河島には何故か立呑み店があるというイメージが希薄に思われるのです。いや、三河島のことは知識として知っているなら、荒川区のあすこら辺には呑み屋などいくらでもあると思うのかもしれません。しかし、実際に三河島を知る方にはそれが誤りであることなど言うまでもないのです。そのイメージと実態とのギャップが面白い場合もあるし、逆に少しも楽しくない場合もあるのです。この立呑み店に入ってもやはり印象は想像と異なりました。まず店がすっかり改装されていて、「三河島の立呑み店」が想起させるような店とは激しい違和があるのです。店の主人も上品でありつつ社交的な女性で、今はその手伝いで都内某所に同居するという可愛らしい姪っ子さんも含め、凡そ三河島といつ地名が喚起する印象と異なるのです。さて、食券を購入します。このキャパで食券機はあまり合理性を感じないかも。千円で一割分がお得になるようで、酒と肴は別個に購入するシステムであるけれど、実際には特に区別していないのが不思議。また、来るかわからぬのに二千円分を購入するとはぼくらしくもない。酒は300円から肴は200円からあるけれど、値段という点のみで考えるとやや割高感があるようです。主人がちっともお客さんが来なくってと仰ってましたが、何よりもそこらに理由があるのでは。立呑み店は安いという刷り込みがあり、安いからこそ立っているのがダルくても通う人が多いのであります。なので椅子は思い切って取っ払って、値段を下げてみるのはどうだろう。開店したての今動かないと、町の人々の記憶にすら残らぬかもしれぬと思うのだけれどいかがでしょう。と今でも手元の小銭入れにはここの100円分のチケットがあるのだけれどどうしたものか。
2018/09/26
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もうかなり前に行ってるお店で至極恐縮ではありますが、このまま放り捨てるには惜しいのでとりあえずは報告しておくことにします。一軒だけでは余りにも詰まらないので、二軒のお店を報告します。それぞれ違う日に行っているのだけれど、その辺は気に掛けず読み飛ばして頂きたいのです。などと唐突にへりくだって見せたのには、大した理由はないのであります。さすがに日暮里についてはもうほとんど語ることなどはないのであって、場所についてお知らせするに留めておきます。一軒目は西側の改札を抜けてエスカレーターを下り終えたその脇の路地にあるから、まあ便利といえる立地であります。二軒目は東側の改札を出て谷中霊園を突っ切った霊園の入口付近にあります。まあ、そういう事で、ネットで調べればすぐに分かるだろうという言い訳で、いつもは道案内どころか住所すら書かぬというのにどうした事か。それだけ書くことがないのでこれまで放置しておいたという事になるのです。いや、後者についてはなかなか良い風情のお店だったからコチラは是非とも記録に留めておきたいと思うのです。でもここだけじゃ少し弱いから、既に以前書いたことのあるお店をついでに添えさせて貰います。 さっきも書きましたが「大三元」はとにかく駅から至近である事が強みのお店です。というかそこにのみこの店の存在価値があると書いては言い過ぎかもしれぬけれど、書いてしまったからもう仕方のない事なのです。こちらの料理は和式中華ではなくどうやら本場の中国の方が作っているらしいから、便宜的に中国料理店と呼んでおきますが、これらの店の特徴であるところの原材料の品質には不安要素が少なからず感じるけれど安価さとその割に旨いというのが一般的でありますが、ここは安くもなく―というかむしろかなりお高い―、少しも旨いと思えぬ―別に不味くはないのだけれね―というのが印象に残るようなお店なのであります。なので好んで行きたいお店ではないのだけれど、ここを待ち合わせに指定したがる人がいるのだから仕方がないのであります。いつもなアンタなら平気で我儘を通すじゃないかというご指摘には、唯々諾々た首肯する訳にはいかぬのだ。そこに介入するのはやはり奢りという打算があるのです。この人曰く、時間を金で買うと言うことらしい。一理あるのは認めるけれど、人生それ程までに急ぐ必要があるのかねえ。 かつては、夕焼けだんだんなる大して気の利いているとも思えぬ谷中銀座に繋がる階段に至る手前に本店やらがあったように記憶します。その本店もいつの間にやら姿を消し、支店のみが虚しく残される事になったのでありますが、本店がないからには向かうのは「珎々亭 支店」なのであります。初音小路のある―朝倉彫塑館があると書くのが文化的な人物と思って貰えるのだろうか、たまたま思い出す事ができたので書いてみました―通りをひたすら進むのでも辿り着けるはずでありますが、間違っていたらごめんなさい。とにかくまあ、駅からはちょっと歩くので暑い日だとちょいとシンドイのです。この日もやはり暑かった。フウフウとまではならぬけれど、億劫なのは確かであります。それでも頑張ってくるだけの価値はある風情があります。向かいにはなかなか行く機会を掴めぬ有名なバーがあったりしますが、そうだ、今度時間を金で買う人に連れてきてもらおうかなあ。案内するのはぼくですけどね。さて、昼には少し遅い時間なのでお客さんは一人だけ。既に食事を終えてマッタリとスマホなどイジっておられます。愚図愚図していては店の方に迷惑だからとビールに中華丼を注文します。サービスの品が有り難い。チャーシューの切れ端だったか、ニンニクの醤油漬は好きに取って食べて良いというのは大変に有り難い。有難がってばかりいるけれど、これは酒呑みなら有り難くって仕方がなかろう、最高の肴であります。中華丼は特に個性のあるようなものではないけれど、しみじみと旨いのです。そうそう、激烈に旨くなどなくても良いのだ。そんなのは大抵すぐに飽きてしまうものです。適度に美味しいのが丁度いいのだよ。なんてどうでもいいような事をゆったりと思ってみたりするような緩やかな時間をここでは送ることができるのです。なんだ、こうして振り返るとやはりこのお店、とってもいいじゃないか。
2018/08/25
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町屋は一通りの有名酒場を巡ってしまうと、不義理にも―誰に義理立てするでなし、咎められるような謂れもないのでありますが―ぱったり足を運ぶことをしなくなっていましたが、呑みの場所の視野を拡大してみると、町屋は俄然輝きを取り戻したのでありました。というわけで、またも蕎麦屋目当てで町屋にやって来たのでありました。これから向かおうとする蕎麦屋は、外観からは何のお店か見当の付かぬようなユニークな構えの食堂の数軒隣にありました。なのでこの写真をブログにアップする作業をするまで、昼間にお邪魔したものと勘違いしておりましたが、実は夜に伺っていたのですね。 町屋駅から歩いて向かいます。途中、「coffee ブルーマウンテン」があります。このお店知らなかったなあ。立ち寄りたい気持ちはやまやまですが、開け放たれた扉から間もなく閉店なのではないかと思い込み断念したのですが行っておけば良かったなあ。まあ、隙間とも呼べぬ程に開放されているので、じっくり覗き込ませていただいたのでそれ程の未練はありません。 いそいそとやって来たのは、「やぶ栄」です。期待したほどには古びた感じはなく、むしろ小ざっぱりとした品のいい内観でありました。これはこれで気持ちのいい時間を送れるというものです。こうした町の蕎麦屋ではお客さんが他に誰もいないということをたびたび経験しています。普通に考えるとこれで経営が成り立つのか不安になりますが、恐らくは出前での利用が一般的なのでしょうね。店屋物というのは昔は楽しみだった覚えがありますが、今は断然店派となったぼくには値段には店の雰囲気も含まれているのになあなんて思うのですが、出前派の人たちは運び賃の方が得だと思っていたりするのでしょうか。さっぱりとレモンサワーを注文すると、大根の薄切りに醤油をタラリと垂らした小皿が添えられました。多分浅漬けなんでしょうが、かなり漬かりが浅かったので醤油を垂らしてくれたのだろうと推測します。これがひんやりとして口中が心地よいのです。酒の肴になるものは少ないけれどカレー丼があるなら文句はありません。かなりカレーライス寄りのカレー丼で、しっかりとした味わい。カレー丼ならではのサラリとした口当たりの良さよりもボリューム感があってこれはこれで良し。とにかくカレーはなんだって旨いのであります。静かな店内で独りうんうんと頷いてはカレー丼を口に運び、レモンサワーですっきりと口直しを繰り返す至福の時間を過ごしたのでした。
2018/08/24
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町屋は数カ月前に思い出したかのように連続して出掛けたのでありますが、うっかり書きそびれていた酒場があるので、今更にはなるけれど報告しておくことにします。ところで町屋を知らぬ方にあえて助言めいた偉そうな態度を取るのは気が引けるのですが、酒場よりもしかするとそこらの異業種の店の方が余程酒場らしいなんてこともありそうなので、是非とも機会があれば訪れて報告などして頂きたいのです。横着なぼくはやはり抑えの店を想定しておきたいのだ。という事でこれ随分前の話になるので書くこと自体に気が引けるのでありますが、これが元来は日記に過ぎぬこともあるし、もしかすると誰かのお役に少しでも貢献できるならそれもまた良かろうと思い直したのであります。 さて、一軒目は「町屋 立ち呑み」です。さも店名らしく書いてみましたが、看板らしきものもなかったはず。店内にこのよあに貼り出されていたのを珍しくもメモしておいたからこうして、いかにも店の名を記載できていますが、普段のぼくならそれを思い出せずに歯かみしてそのままに捨て置くところだったはずです。全くと言っていいくらいに飾り気がなく彩りもない店内の様子は嫌いではないです。というか、もう少しうらびれていさえすれば相当に好みの店になりそうな予感がありますが、そうなるにはまだ相当の歳月を重ねる必要がありそうです。そう、もし自分に子供ができて、その子が成人して一緒に呑みに行ける年頃になる頃にはかなり良い雰囲気になっているんじゃないかしら。まあ陽気なご主人が元気であったとしてもこの町がその時までこのままの姿を留める可能性など微塵もないと予想されます。それにしても脱サラ風の陽気ではあるけれど言葉遣いがそこはかとなく横柄なご主人は、それまあそれで構わないんじゃないかな。こう言ってはもしかするととんでもなく無礼かもしれぬけれど、そんなに真剣にそしてあくせくと商売する様子はなく、どこかしら趣味の延長で立ち呑み屋をやっている気がします。これからはそんな生き方もありじゃないか。どこだったか神奈川とか少し遠くの町からやって来たという隠居老人がしきりに町屋はいい町やで、町田はいい町だなんていった下らぬことを語って聞かせていたような記憶があるけれど記憶違いかもしれぬ。とにかくここの店主はそうして行き交う、そして今後二度と顔を合わすことのなかろうそうした関係を煩わしいと思いつつも楽しんでいるようなのです。少しも根拠のない想像ではあるけれど、もし彼がそうした人生を選択したならちょっと素敵だと思うのです。でもまあもう少し肴とかに工夫があると良いのだけどね。 駅方面に歩いてくると「バリヤス酒場 町屋店」という酒場がオープンしたらしく、店先でお兄さんが大きな声で呼び込みをしています。通常営業時でも相当にお手頃らしく、さに開店のサービスでさらにお安くなっているという事なので、余り興味のないタイプの酒場ではあるけれど入ってみることにしました。実は先の店に入る前に一度通り過ぎているのだけれど―回りくどいことだけれど駅と店の位置関係をお分かりの方であれば、違和感をお感じになるのでお断りしています―、すでにここは店内を覗き込んでいてその閑散たる有様を見るにつけさっと身を引いてしまったのです。しかし、先の店にて財布の中身を確認し、まあ駄目ならすぐ出ればいいさのつもりで再訪したのです。危ないところでした。カウンター一席以外はほぼ席が埋まっていました。なんとか席に着けたけれど店の方が流石にまだまだ不慣れ過ぎて頼んだもののなかなかに届かぬのはまあ多目に見るべきか。確かに値段もこれで大丈夫かいなという価格であります。この日のサービス品はこの店の名物らしく割といけていた気もしますが記憶にありません。もう随分前のことだからなあ。ならばネットででも調べて思い出す努力をせよと言われても仕方ないけれどそれはズルイ気がする、なんて単に横着してるだけなんですけど。というわけでとくに店のムードなりにこだわりのない方なら楽しめるのではないか印象を店の人も大分慣れただろうし。ただし、カウンター席が少し窮屈な気がしました、がそれはどうにもならないんだろうなあ。
2018/08/03
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三ノ輪橋って都電特集などで思い出したように放映されるけれど、取り上げられるのは決まってあのアーケード商店街の惣菜店などばかりであり、このマンネリズムの徹底ぶりには呆れるというか、そんなお決まりの内容を好んで聴取する視聴者が大部分である事を見透かしたマスコミ関係者の傲慢さに不快の念を禁じ得ないところであるけれど、ここでそれを語ってみたところで詮無きことであります。ぼくなども参考にしたりするからそう偉そうなことを抜かすのもどうかと思うけれど、せいぜいそんな情報は色んな町を訪れる起爆的な役割に留めるべきであってそれ以上のとっておきの情報など忍び込んではいないものなのです。 なのでぼくは自らの脚と近頃とみに発揮されることの少なくなったカンを頼りにして三ノ輪の町を歩くのでした。すると何度も歩いているのにこれまで視界に収まることのなかった―それは「遠太」の存在感の大きさがもたらす弊害でもあったのかもしれませんが―「遠太」のすぐそばに「まるきん」はありました。まあ今に至っても至って穏当で平凡な構えのお店なのでまあ見逃していても仕方がなさそうです。広い小上りはそれなりの宴席も開けそうな規模がありますが、それなりの幅のあるカウンター席にちらほらお客がいるばかりで何ともお寒い様子であります。飾り気もなく活気もなくって、これはA氏とではなく独りでどんよりと呑むのに適したお店だと少し後悔をするのですが、すでに店に入っていてそんなことを思ってみても詮無きことであります。酒の肴はこれ以上ないという位にオーソドックスで変わり映えがせず、そういう所に不満を感じる輩もおるわけですが、ぼくなんぞにとっては、下手に悩まずに済むのがありがたい。手頃に適当に摘まめてそして呑むものが揃ってさえいれば文句などないのです。お客同士が会話を交わす気配もなく、店の方もだんまりを決め込んで黙々と作業に没頭する、そんな酒場があっても良いだろうし、ぼくなどはむしろこうした酒場を望んでいるのでした。 次は都電の三ノ輪橋電停の裏手を彷徨ってみることにしました。この電停の北側のエリアは必ずや古い酒場の一軒や二軒は残っているはずだとこれまでも何度となく流離ってはいるのだけれど、これまでこれといった収穫が得られていません。来るたびにこれが最後と決心はするものの、一定の頻度でこちら側を歩くことになります。しかし、どうしてこの酒場を見逃していたのか、いやそもそもにおいてこの路地を通ってみたことはなかったとしか思えぬのであり、それこそ初めての道をあるくことをモットーとするぼくにはどうにも理解しがたい事態が起こってしまったようでありますが、ともかくも「呑べえ」に遭遇できたのは僥倖でした。こんな相当のオンボロさに目立たずにはおかぬであろう木造一戸建ての酒場を目にして、見過ごして済ますなんて、ぼくなんぞにとっては有り得ぬはずなのです。ところで、酒場の分類の方法として「男の酒場」、「女の酒場」、「夫婦の酒場」、「子供の酒場」というのがあると思っていて、これがこうして書くとどうでもない気がするけれど、なかなかに含蓄に富んでいるのではないかと思っているのです。これを詳述する準備はないけれど、基本的に店の主人―客の性別と関係性に応じて変化するものと考えています。ここを店名から安直に「男の酒場」と判断したのは早計に過ぎたようです。ここはむしろ「女の酒場」とするのが適当な酒場のように思えました。特に自分の親を呼ぶのに「おふくろ」と呼ぶのに恥じらいや躊躇なしに発することができぬぼくのような者であっても、何度か通うとここの女将のことをおふくろさんと呼んでしまいそうな包容力があるのです。これ以上語るのは面倒なので、続きはまたいずれに先送りしますが、そんなあったかな気持ちになれる郷愁に満たされた気分にさしてくれる酒場なのでした。
2018/07/30
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鶯谷の根岸の里に足を踏み入れるとピンクなネオンも立ち消えて、閑静なしかしどことなく未整備な田舎のような住宅街が出現します。この界隈には、ネットで調べる限りにおいてこれというべき酒場は見当たらないのだけれど、かつて何度か迷い込んでみて、ネットでは見落としてしまうような良い酒場があることは知ってはいたのであります。知ってはいたけれど無策にてこの地に赴くほどの気概も衝動もなかったから大体この界隈を通る時には、すでにそれなりに呑んでいたり、腹が満たされていたりする事が多くて結果良くは虚しく横目に見ながら通り過ぎることになるのです。気概が沸かぬ場合は誰かを巻き込むことで無理矢理に動機づけをするのが効果的であることを知っています。約束を簡単に破るような不義理な者にぼくはなりたくはないのであります。酒呑みの最低限の仁義というか挟持を失してはやがて碌でもない何者かに成り果てるしかありません。 という訳で、多忙なS氏と落ち合って根岸の里を目指すわけです。根岸の里という呼び方は今となっては少しばかり白々しい印象をもたらす気もしますけれど、この町はそう呼ばれる事を望んているようなので、あえてそう呼ばせて貰うことにしました。さて、そんな飲食店とは無縁であるかに思われる住宅街の只中に「とんかつ 花とく」はあります。ここを通り過ぎたのはやはり満腹の時のことでした。そして、店に入って千円の瓶ビール付きの串揚げセットを頂いてみて、その判断が誤りでなかったことをすぐに確認することになるのでした。さて、カウンター席にテーブル席が2卓ばかりの店内は表から見た印象よりさらに狭小であり、でもその狭さは身体にジャストフィットするようで、良い塩梅なのです。数多くの肴になる品書からついついお得な品を選んでしまうことでこれまでどれほど選択肢を狭めてきたことか。しかし、ここのセットは瓶ビールの中瓶一本に焼酎の水割りを二杯ほど頂くにジャストミートな選択なのでした。ポテサラに奴にキムチってこれだけで水割り2杯を頂くに充分すぎるし、さらにはしばらくして揚げ上がった串カツはなかなかのボリュームで、これひと皿で800円とか取られても不思議ではないと思うのであります。カウンターのおぢさんやテーブルで寛ぐおばさんも酒場使いをされていてさもありなんとかつてに連帯意識を強めるのでした。続いて来られた恰幅のよろしい女性はカツ丼を頼んでいましたが、遠目に見ても立派でボリューミーなのでした。店は寡黙な女性とやはり寡黙な娘さんらしき方がやっていて、とても好ましいお人柄のようですっかり気に入ってしまうのでした。 駅に向けて引き返し始めると途中の路地で「ふるさと」なる定食屋を見つけました。ほらね、やっぱりこんないい感じのお店があるよ。無論寄らせて頂きます。カウンター席のみの店内にはオッチャンが二名、女将さんと陽気に言葉を交わし合っていてすっかり顔なじみのようです。夜はやはり呑み屋が主たる商売らしく、女将さんは食事かしらとお尋ねになります。いやいや、ちょいと呑みに寄ったのですよと応じると、オッチャンたちは嬉しそうに良かったねえ、食べる物何もないよ、なんて女将の顔をいたずらっぽく見つめてからかっています。カウンターの皿には両手に足りぬくらいの惣菜が並び、ゴーヤチャンプルーと茹でたイカを頼むと喧嘩をせぬよう配慮してくれたのか、それぞれに取り分けて装われた小鉢が並びました。どうということもないけれどこうした店で食べると不思議と美味しい気がするものです。しばらくして若くて派手派手しい女性が一人で来られました。女将とも二人の常連とも親しい仲らしく早速かしましくお喋りを始めとどまることを知らぬのです。少しばかり疎外感を感じるものの二人だからまあ支障はありません。とか言いながら気にしていることがありありと伝わってしまったかしら。でも席を立つ頃にはこちらのことも気遣ってくれて、また来てくださいねと声を掛けられると途端に相好を崩すのだから、いい歳をしてみっともないことだなあ。
2018/07/26
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日暮里で呑むのもやはり飽きているのです。こう毎度のように飽きていると書いていると、これはもしかすると酒を呑むという振る舞いに飽きているのじゃないかと思うのだ。確かに飽きているような気がしなくもないのです。この飽きているという気持ちを優先して、スッパリと酒をやめてしまった思い切りのいい人も知らぬではないのです。しかしまあ、意志の弱さでは日本でも指折りであろうという自負のあるぼくとしては、そう簡単に酒を捨てるには至らぬのであります。このままでは話は前に進まぬので気を取り直してみるけれど、日暮里には多少なりとも好みの酒場が何軒かあるけれど後はもう落穂拾いのようなものだと思っていたのです。しかし、知人が最近知ったという万能酒場の存在を知らされ、しかもそのお方の接待まで受けられるとなっては行かぬわけがないのであります。いやいや、タダ酒は消して嫌いではないけれど、何もかも好むわけではないのです。やはり見知らぬ酒場との出逢いを大事にしたいのです。 日暮里駅前に林立する高級マンションの一棟にはそれなりに知らなではない酒場の何軒かがあるのですが、「青い地球」というこっバズカシイ店名の店をご存知の方もおられるかもしれない。ぼくもその存在は知っていたけれど凡そぼくのような者の立ち入る雰囲気ではなかったのであります。いやいや外観はそんなに大層なゴージャスムードを放っていたなんてことは少しもないのです。見方によればむしろチープなスナック風と思えなくもないのです。スポンサーに誘われるままに店に入ります。その雰囲気はやはりどうもスナックそのままであって、ぼくの思い描くある意味では鋳型にハマった凡庸な感性ではこれは違うんではないかいと思わざるを得ないのです。しかし、そこから先は美食のオンパレードということになるかと思いきや消してそんなこともないのであります。誘ってくれた彼には悪いけれどここはあくまで良質な家庭料理を出してくれる店なのです。焼きそら豆なんかは料理とかどうこういう品でもないからまあ置いておくとして、手の混んだ例えばボロネーゼのパスタなどはなかなか頑張っている。けれどぼくにもあれ位なら作れなくはないと思うのです。ちゃんとしたレシピをちゃんとした手順でコツコツ辿ればここの味に劣らぬ程度の料理を拵える事はできそうです。しかしね、一人だけで、しかも何人分もの多様な肴を用意するとなるとまた話は違ってきます。それができるところがこの店の頑張ってるなあと感心する点です。いや頑張るなんてのはさして意味のない事です。頑張りが結果に結実してこそその頑張りが輝きを放つわけです。そしてそれを暑苦しくもアピールするようではいけない、さり気ない表情でサラリとやり遂げてこそスマートなのであります。そう店の人は目立っちゃいけないのです。でしゃばりな店主というのは少なからずいるけれど、ああいうのは基本的にはマルデダメオなのです。ちょっと美味しい物を静かな環境で落ち着いて頂ける、ここはそういった類の店であり、麻布とかとにかくそっち方面の成り上がり芸能人達の出入りするような隠れ家系のお店はそんな感じかもしれぬが、ここ日暮里では比較的お手頃に似たような雰囲気に浸れるのです。
2018/07/17
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三ノ輪には、かつて多くの名酒場がありました。ぼくなどはその終焉間近のひと時をそこで過ごさせて頂いた程度の新参者に過ぎず、古参客たちに混じえてもらい彼らの邪魔にならぬよう控えめな態度を崩さぬよう、まずは礼儀正しく振る舞ったものでした。いや、ぼくはそもそもにおいてそんな殊勝な態度の持ち主ではありません。彼らには何ら負い目など感じてはいないのであります。ぼくが負い目を感じているとすれば、それらの酒場を営む店主たちに対してであったと思うのです。客がお金を払っておいて引け目を感じるのはおかしいという考え方もあり、それに対してはぼくも概ね同じように考えています。しかし、やはり節操なく手当たり次第に尽くの酒場を経巡るその振る舞いは、いかにも浮気者の態度としか思えぬのであり、それを店主に告げることが躊躇われることからも少なからず後ろめたいという思いがあるのだろうと推し量れるのです。それでも未だに同じような行動を夜な夜な続けているのだからこれはもうかり業が深いと諦めるしかなさそうです。好奇心を満たすためには恥をも捨てる姿勢を今後も崩さず己が納得するまでは細ボソと続けていく所存であります、などとまあ酒場巡りなどという本来日の目にあたってはならぬはずの自堕落な趣味に対して改めて所信表明するのでした。さて、それにしたって酒場の荒野と成り果てた三ノ輪にまだ見も知らぬ酒場など残されているのだろうか。 いや、やけにあっさり見つける事が出来たのです。「酒蔵 いがり」がそれで、三ノ輪から入谷に向かう裏通りに二軒の酒場が少しばかり距離をおいて、それでもどことなく寄り添うようにして赤い提灯を灯し続けているのでした。寄り添うようにしてあったのは、随分前に酩酊状態でお邪魔した「居酒屋 新珍」であります。こちらはもう早くも閉まっています。ここももしかするとそう長くないのかもしれません。命の尽きるまで光を発し続けるホタルの徐々に光の熱量が衰えていくのと同じように、営業時間がじわじわと短くなるとどうしようもない胸騒ぎを封じ込めるのに難儀するのです。そんな寂しい思いで店の脇を通り過ぎたのはその先に寄り添うようにやっている「いがり」の灯りが見えていたからです。そんな様が互いに見守りながらそして激励を送り合っているようにも思えるのです。しかし、店に入ると至って元気な主人が迎えてくれます。大きな声で何を呑むんだいととう声はまだまだ大丈夫そうです。土曜日というのにこんな時間までご苦労さんのサラリーマン四人衆もこれまた声が大きい。いつもならやかましさに眉をひそめるところだけれど、少しばかりしんみりした気持ちに活力を与えてくれるようです。そんな喧しい連中が去った頃にはこちらの気分も随分といつもの能天気さを取り戻し本調子になりつつあるようです。酒もその肴も定番どころが揃っていてつまりはまあごく当たり前なのだけれどこうした酒場ではこういうのこそが良いのであります。新しいお店でこれをやってもきっと半年も持たずに店を閉じざるを得なくなるだろうけれど、なぜに古い店ならそれが許されるのか。そのメカニズムは未だに解明の糸口すら掴めぬけれど、そんなもの掴めなくて一向に構わぬという気持ちもある。そんな風にして長い土曜日の夜は続くのでした。
2018/06/23
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あったなどと過去形で表現するのは、紛れもない誤りなのであってその存在は初めて日暮里を訪れたのがいつの事だったかは記憶に定かではないけれど、恐らくは初めて来た時にその存在を認知したに違いない。場所も駅前ロータリーの正面にあるし、周囲には日暮里の昼呑みのメッカ、「いづみや」があるし、特徴的な麺で幾度ものラーメンブームをものともせず変わらず安定の人気を誇る「馬賊」もある。しかし、それなのにこれから向かう中国料理店は見てみぬふりを決め込み続けたのには、切実でちょっぴり切ない理由があるのだ。そう、ぼくにはこのお店はとても高級そうに思えて、いつでも二の足を踏んでしまうのでした。何故にそう思ってしまったのか。一つには風格すら漂わすクラシカルな佇まいを挙げるべきでしょう。古くて歴史のある町ではこうしたゴージャスな中国料理店をしばしば目撃できます。それがチェーン店にはない独自の装飾が施されることで、どこにでもありそうでいながら、やはり唯一無二のユニークな存在感を晒し魅惑されるのであります。しかし、古い町といっても地方都市というのが定番で都内では古くて格式のあるというその両者を兼ね備えるお店は少ないように感じます。そして、さらに入り辛くさせるのが客層にあります。なんとすればとにかくこちらのお客さんはご高齢の方が目立つのであります。あと母娘なんて取り合わせで入店する様子もたまに目撃したものです。ねっ、いかにも金を持ってそうな人たちばかりが集うっていう感じでしょ。 でもいよいよお邪魔するチャンスが到来したのでありました。その理由はあら詰まらぬ、単にこの日が日曜日でやってる店が少なかったからなのだ。見て見てなかなかシックで本国風のテイストも感じられて良くないですか。店内などはさらにいい感じではないですか。「中国料理 又一順」であります。これまで縁がないと思って、考えてみようとすら思わなんだけれど、ユウイシュンと読むらしい。まあこれすらきっとすぐに忘れてしまい、マタイチジュンと無粋に呼ぶ事になるのだろうけれど。席に着くと、いたいた裕福そうな母と娘です。彼女らから視線を振りほどきメニューに目を通します。常に貧民としての選択眼を鍛錬し磨きをかける事に腐心してきたぼくがお酒とつまみセット800円を見逃すはずはないのでありました。牛すね肉とがつの盛合せに白菜の甘酢漬けであるラーパーツァイというコッテリとさっぱりがバランス良く盛り付けられこれがなかなかいい肴になるのです。というかむしろこれだけで良い。って実際これで3杯呑めてしまったのだ。しかし、これから本番てな時になって突如メールを着信。近くにいるから呑みに来いとの連絡であります。店の名を聞き本当に近いから渋々向かう事にしたのです。それにしても何で近いと分かったのだ。 向かったのが「海産物居酒屋 さくら水産 日暮里北口店」であります。ねっ、気乗りしないのも無理からぬでしょ。でもひと言だけ感想を述べると、こちらの肴のレベルは格段に向上しているように思われました。特に刺身は千円の盛りが凄まじく豪勢でありまして、質も消して悪くないのです。でも同じお金を払うなら、ウ~ンやっぱり先の中国料理店をぼくなら選ぶだろうな。
2018/06/22
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前から気にはなっていたのです。気にはなっていたけれど余りに絵に書いたような酒場というのはどうも忘れてしまいがちです。気になりつつもそこがあまりにも風景画なりスケッチなりで描かれるような端整な造りだったりすると、既にある記憶で合致してしまいやがてはそれが自分の記憶だけに残る酒場に過ぎぬのではないかと思えてくる。この場合の記憶には実在しない映画の中のセットすら含まれるだろうし、夢に思い描いた実在しない脳内酒場だったりしても不思議ではないのであります。それは女性―女性でこれをお読みいただいている方は男性に置き換えていただければ―に対する思いと似たりよったりなのであり、憧憬する余りにさらなる美化を塗り重ねてにっちもさっちも立ち行かなくなる、例の感情と同じようなものであります。これはこれから訪れようとしている酒場に対する結論ではなくあくまでも一般的な話ですが、憧れていた人でも物でも構わぬけれど、それを手に入れた時にはそれまで抱いていた憧憬なりは霧散するものなのです。だから人は真に心を満たしてくれるものなどありはしないと割り切って常に次なる対象を求め続けるか、常にその空隙を携える事を受け入れるしかないのです。多分、前者は全てを持つ者―と本人以外はそう思い込んでいる―の憂鬱であるし、後者は真っ当な社会生活を送る大方の人の現実的な振舞い方なのだと思うのです。そして後者に大人しく収まっておられぬ幼児的な自分は自ら夜な夜な情景の対象を消尽することに躍起になるのです。 町家を分断するように通された尾竹橋通りを北千住方面にしばらく歩いて行くと、道路に面して「三楽」があります。以前からオーソドックスながらも手堅く端正な店構えに好感と好奇心を切らすことなく携えてきたのだけれど、看板に記されたうなぎの一字がぼくの決断にストップを掛けていたのです。うなぎで酒をやる幸福を日常のものとするような贅沢を享受しても良いものなのか。こうした酒場ではハレの日こそ相応しいのでなかろうか。しかし今夜のぼくは少しばかり違うぼくなのです。まあたまたまの臨時収入があっていつもより少しばかり財布に余裕があったというたったそれだけの事なのですが、その程度のことで束の間に気が大きくなるのだからサラリーマンによる三面記事的事件が耐えぬのも理解できなくはないのです。さて、戸を引いて店内に入ると、まさに想像そのものの空間が広がっていたのです。想像通りというのは造作がそうであるという事で、枯れ具合を体感するという経験というのは何度経験してみてもその場限りの追体験のできぬものなのです。それはともかくとして、こんな雰囲気の良いお店になぜかお客さんは独りもいないのが不思議でならないのです。オヤジさんが寡黙で少しばかり沈鬱なムードなのが良くないのかなあ。ぼくなどのような孤独な酒を愛する者には非常に居心地がいいし、近くにあれば大いに贔屓にしたいような酒場なんですけどね。杞憂していた値段も案外お手頃で一安心。簡単な肴を摘みながら充実のひと時を過ごさせていただきました。それにしても臨時的な収入というものは身につかぬという定めに従い、せっかく予想より安く上がったのに、それを得したと勘違いするに至り、次なる酒場にてきっちり浪費してしまうのでした。
2018/06/05
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酒は楽しく愉快になるために欠かせぬ、会話の潤滑油としての効能があることはよく知られているところです。一方で独り酒場で酒を呑むといった演歌めいたシチュエーションも消して稀な事ではないぼくのような者にとって、酒で孤独を癒やすなんて用い方もそれなりに一般的な作用であります。この場合の癒やしとは、孤独である気分を酒の力を借りて高揚させることで、単なる孤独をどこかしらヒロイックなハードボイルドのヒーローにでも転身したかの様な、予め横目で眺められることを意識したかのような助平根性を孕んだポーズとしての孤独を取る事で日常を逸脱しようという非現実感がもたらすもののような気がするのです。それの程度が過ぎると本当のハードボイルド的危機に見舞われることもあり得るので要注意ではあります。同様に何人かで呑んだ場合にも会話が滑り過ぎて、白熱の激論の場となる事が往々にしてあるものです。これは仕事やらで忙しくてしばらく呑めない日々を送った人などによく起こりうる現象らしい。珍しく顔を合わせることになったT氏交えるという稀な機会も加味されたものだか、残業続きでほとんど表で呑めぬ日が続いたS氏の語りは否応もなく白熱化するのは必定なのでありました。 最初に集まったのは都電の東尾久三丁目の「もつやき おとみ」でありました。トタン看板が真新しくなっていることに、落胆するのは失礼なことは分かっているけれど、それをおくびにも出さぬよう店に入ります。女将さんは変わらず無愛想でそこがまた堪らんのだよね。で、ここの良さはこれまでも何度となく語っているから詳細については語らぬ事にします。ただしこの時点ではS氏はいつもの寡黙なおっさんに過ぎなかったのでありますよ。 彼の気分が高揚し出したのはという町屋二丁目の「たつ味」というお店でのことでありました。その内容については詳らかにできぬのでありますが、しかしここでS氏は日頃見せぬほどにヒートアップしたのであります。こうした人アップした酔客に対する態度にはいくつかのパターンがあります。まあまあまあそうムキにならずにとなだめにかかるタイプ、これがこの夜のT氏でありました。次にそれを面白がってけしかけるタイプ、ちょっとニュアンスが違うのですが、これがぼくでありましょう。そして一番良くないのが、その酔客をいないものとして無視して掛かるタイプです。これはフンフンと聞いてるフリしているうちはいいけれど、うっかりそれがフリでしかないことが露呈した場合は、収拾がつかぬほどの激昂へとS氏を駆り立てるかもしれないのであるから配慮が必要であります。しかし、この夜のS氏も興奮は冷めやらず、結局、勘定を済ますとわれわれのことを振り切って独り町屋の闇の中に消えて行ったのです。その後、何度かのやり取りの末に関係を修復するに至りましたが、酒から遠ざかった人を相手にするには気を付けるべきことを肝に銘じることになったのでした。あっ、うっかりしておりましたが、こちらのお店が酒場としてどうだったかについて、まるで触れていませんでした。いや、まあ町外れの近隣住民ご憩いの場という雰囲気で時間が遅かったからもう他にはほとんどお客さんはおりませんでしたが、適度に狭いところなど居心地の良い環境でした。酒も肴もごくごく普通というのもこうした酒場なら難点にはならぬと思います。
2018/05/24
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新三河島駅は、喫茶ファンの間では3軒の個性的なお店がある事で、言い方は良くないけれど一端の喫茶ファンとなるための通過儀礼としても位置付けられよう定番のコースであります。一方で酒場ファンとしては、ここぞという呑み屋がある訳じゃないのでなかなかに縁遠い町となっていると思われます。ぼくもその例に漏れず、ごく稀に思いついたように足を伸ばしてはみるのですが、結局は何度か暖簾をくぐった酒場に繰り返し訪れてしまうのは先日書いたとおりであります。余程に記憶力が弱いのだろうというネガティブな気持ちに陥るかと思いきや今晩は何故かそうはならぬのであります。何故と言うに、今晩は己の趣向が一貫しているというその一点に自己評価の基準を据えているからであります。このブレなさ加減というのはなかなか評価すべき事項ではないだろうか。それはそのまま融通が効かぬだの幅がないだのといった意見をもたらすことにもなるのでありますが、今のぼくにはそのような意見に耳を傾ける余地はないのです。しかしまあ、さすがに今回は来たばかりなので同じ酒場は避けることになる。そして、選択肢は必然的に限られているから、近頃ハマっている蕎麦屋呑みへとなだれ込む事になるのでありました。 駅の改札を出てすぐの「やぶそば」は、新三河島に来る者であれば必ず通過しているはずであります。ぼくも何度となく通り過ぎているはずですが、これまで意識に登ってきたことはなかった。これがオンボロだったりしたならば少なからず記憶の片隅にあったはずです。しかし、このお店の場合は、あえて存在を潜めるかのようになりを潜めているのでありました。新しくはないけれど少しも古くない置き看板にさえ目をやれば少しは琴線に引っかかろうものでありますが、それすら固辞しているかのような頑なな存在感のなさにこの夜はいたく興味を惹かれました。それはまあ蕎麦屋に対して希求する心持ちが芽生えたからでもあります。そして品書を見てこれは入ろうと酒呑みに思わせるのであります。店内は外観とは異なりかなりくたびれた、しっかりと町外れらしき様相を呈していました。駅前にありながら町外れとしか思えぬのは京成本線の持ち味であることを思い出しながら、周囲を見渡すと他の客も酒を嗜んでいるのです。やはりここは蕎麦屋であると同時に酒場なのであります。実際、常連らしきおぢさんはそばどころか何一つ肴を頼みもせずひたすらビールを呑みつつ女将さんとの会話を楽しまれているのです。カウンター席のないその造りはいかにも伝統的なそばやそのものでありますが、ここが酒場を標榜していたとしたらすぐさま気に入っていたに違いありません。実際およそ蕎麦屋らしからぬ目玉焼きなど摘みつつ酒を呑もうというのだからぼくなども同類に違いないのです。蕎麦屋の肴が焼き海苔とか板わさ、玉子焼程度というのは余りにももったいない。巷間の蕎麦屋はプライドが高過ぎるのではないか。蕎麦屋の造りというのは、もともと本流の酒場の造りそのものであるのだから、下手なプライドなど投げ打ってどんどん酒場化する事を切に願うこの頃なのでありました。
2018/05/15
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以前、都電荒川線には下町があると思っていたし、今でもこの沿線には下町があるとかなり無理のある企画を押し通して恥もせぬ観光ガイド本が巷で流布されています。確かにもんじゃ焼のお店や荒川遊園など荒川区らしいみみっちくもいじましい光景が残されてはいるけれど、大部分が真新しい民家で埋め尽くされており、余り楽しくないのです。だから自然とこの界隈からは足が遠のいてしまうのでありましたが、知人から荒川区役所電停から少し歩いたところにお前の好みのタイプの蕎麦屋があると聞いたら黙って入られぬのだ。早速重い足を引き摺るようにしてかの現場へと赴く事にしたのであります。 いやまあこんなとこは事前に知識なしで辿り着けるような場所ではないから当然ながら位置は確認してありました。そしてこれまた避け難く店の雰囲気も目にしてしまった訳で、これが全くの初見であるなどとは口が裂けても言えぬけれど、ネット上に拡散されたそれを実物は遥かに凌駕していたのです。「甲州屋」という屋号は各地で目にする定番で、不思議とこの屋号の店には業態はとりどりであるけれどとにかくハズレが少ない気がするのです。それがなぜなのかという理屈は分からぬけれど、可能性としてはこの古めかしい屋号を今になって採用する人も少なかろうし、そんな古めかしい屋号を未だに継承しているのは定着した客があるからだろう。そう考えるとこの屋号はかつて夥しいまでに普遍的なものであって、その中でも優良店でありかつ後継ぎのいた店のみが生き延びてきたのだと思うのです。ぼくも実際に同じ屋号の名残のみを留める店舗を知っている。 おっと長くなってしまいました。店内の眺めも実にいいなあ。蕎麦屋というのは高級店とか老舗、つまりはお値段の張る店以外は妙に忙しなかったりするものですが、こちらはそうした事とは無縁です。なんたって酒の肴が豊富で、そしてそれ目当ての客が多いのです。この夜はたまたま近所の小学校だかでイベントがあったらしくその打ち上げとやらで若いパパママが大宴会で喧しいのって何のって。それは残念だけれどそれでもここが酒場として宴席を持たれる程に人気があるのは嬉しいし納得もいくのです。将来この店で大人たちに混じってすごく盛り上がったことを少年少女たちは記憶に留めてくれると本当に嬉しいし、その思い出を守り続けてくれるなら、この夜の蕎麦屋呑みの風流をぶち壊しにしたダメな親たちの事にも目を瞑ろうではないか。それにしてもやはり最近になっての事だからまだそう経験を積んだわけじゃないけれど、蕎麦屋呑みってホントに良いものですねえ。馴染みのT氏はよく隠居後は蕎麦屋でのんびりとちょっとした肴で呑んでからもりの一杯を手繰るのが理想と語るけれど、そのためにも今からそれを残すために協力すべきじゃないか。 その帰りに懐かしい「奥様公認の店 森島屋」に遭遇してしまいました。この酒場はここにあったかと現場に至って思い起こせる程度にご無沙汰してしまいました。サッシ戸の安普請さというのは、店内まで透けて見えるようで曇りガラス越しの店内が逆に気になってしまうのです。そして水場の蛍のように暗い町場にあって煌々と光を放っているのが店の存在を際立たせるのです。光に引き寄せられるのは生きとし者の生業であるから抗いようのない習性なのです。正直なところ店内がどうだったかについて少しの記憶もなかったのです。日頃、内観についてばかり情熱を込めて記していますが、本当に古い店の佇まいを愛しているのか心許ない気持ちになるのです。そしてそういう事が珍しくもないのが口惜しいのです。まあ映画だって一度見ただけで何事か語れると勘違いする評論家を名乗る輩が少なくないのだから素人のぼくが忘れたとしても仕方ないことと思う事にするしかなかろう。店内は事前に想像したものと異なっていて、意外と平凡な造作であったわけですが、それでも生半可な年季では醸し出せぬ味わいが見て取れて思わずうっとりと見入ってしまうのです。こういう店では酒も肴も選り好みする必要などないのだ。先客はお独りと店のご夫婦のみといささか寂しくはあるけれど、その哀愁も堪らなく滋味深い肴になるのです。それでもご夫婦は至ってお元気で、しばらくしてやった来た常連を見ると総合を崩して憎まれ口を叩き合ったりするのが下町風か。この界隈には今でも荒川区らしい―とぼくは感じている―下町らしさが残されていたようです。
2018/05/09
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しばらく足が向かなかった町家の町ですが、酒場ならざる異業種飲食店を酒場と見立てて呑むとなれば、さすがに呑兵衛の町と知られる町屋であります。選り取りみどりの店舗はそこが喫茶店だろうが食堂だろうが呑ませる店がふんだんにあるのであって、少しも似てはいないしもとよや行ったこともないのだけれど、その出鱈目さは少し整然としすぎてはいるけれど東南アジアのどこか知らぬ町を歩いているような気になるのです。実際国籍不明の連中が国籍があって無しかのような得体のしれぬ料理を出す店をやっていたりして、それはもう混沌たる様相を呈しているのであります。そしてそんな町に相応しいことこの上もない一軒の酒場らしき店に引き寄せられてしまったのです。 ところがその「天だこ」を訪れたのはこれが初めて出なかったことを帰宅してから確認できました。もともと表通りから路地の奥に店が見えた瞬間に間違いなく訪れているという自覚が芽生えたのです。その程度の印象しか残さぬのだからどだい大した店ではないだろうになぜに立ち止まるなったのか。それは以前とはどうも様子が違って見えたからなのです。近寄ってみるとそこはタイ料理とたこ焼を看板商品に据えた全く呆れた出鱈目さを兼ね備えた素敵な店なのであった。2階はタイ風マッサージ店になっているが、この施術を行うのは一階と二階を忙しげに往復する異国の方らしき方なのであろう。いかにも良く凝りが解れそうな頑強なガタイの持ち主であります。そして恐らくは一階の酒場らしき店で出されるタイ料理は彼女の調理によるものだと推測されるのです。さて、違和感とはまさにここにあったのです。ぼくが以前お邪魔したときには、ここは単なるたこ焼酒場でしかなかった。いやまあたこ焼酒場ってのがそれ自体においた昨今の流行りものでしかないと、賛同するに躊躇わぬけれどもそこにタイ料理はやっぱりちょっと異色に思われるのです。しかしまあ、たこ焼など関西では家庭の食事の定番だし、タイ料理といったところで家庭でかなりのレベルの味を再現できる今となっては、今ひとつインパクトに欠ける。だからこうした乱暴なハイブリッドはありなのだ。酔っ払いなど所詮は味覚など麻痺しているのであって、旨いとか不味いとかいう意見に信憑性などありはしないはずだ。この夜は、久し振りにS氏が参戦しており、この彼がパクチーとココナッツミルクが駄目というすなわちタイ料理はハナから拒絶する男なので、酔っ払っわせて無理クリ食わせようなんて思ったけれど、味覚の抵抗力というのは余程に強靱なためか叶いませんでした。嫌いなのは仕方のない事だけれど、いつももったいないなあと思うのです。だから食べたのはやはりたこ焼という事になります。このたこ焼、思った以上に旨いのですよ。これでは以前と変わらぬではないかと言われるなかれ。店内の様子は恐らくは様変わりしています。その典型がカウンター席そばに置かれた象の像です。そこで晩酌を嗜むご婦人はそれをあたかも自分のペットのように寄っかかったり、撫でさすったりと可愛がり放題です。そして、この変わり種のお店を取材したレポーターなどのサインがたくさん飾られていたりもするのでした。
2018/05/04
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町屋という町は、実に多様で多くの飲食店があります。古今東西各地のありとあらゆる料理がいただけるし、老舗店から若い意欲的な店主がやっている店が突如出没しては姿を晦ましたりと目まぐるしいことこの上ありません。無論、ぼくなどは古いお店を目当てにやってくるわけですが、どうしたものか酒場らしい酒場というのは思っているほど多くはないようです。むしろ昼のみの営業のそばや中華の店がそれいら中に店を構えていて、そういう意味では、遊びに来る町というよりは、実際に暮らして生活するのに適しているのかもしれません。近頃そうした純粋に酒場とは呼べぬ店にも足を向けるようになったはいいけれど、何度も言うようにそうそう食べれるものでもなく、しかも夜だと呑めなくなってしまうというジレンマもあります。なので、無理のない程度にそうしたお店を巡って、報告していければと思っています。 そんな町屋の古いお店の一軒「いろは」は、茄子と人参、ピーマンのデザインが付された看板が印象的な可愛くて懐かしさオーラ全開のお店です。おそうざいの文字がお食事より目立っているとは言えぬので、一見すると食堂には思えぬのですが、ガラス戸越しに食事をしている方を見掛けることができるので、臆せず入ってみることにしました。狭い店内にはそのスペースを最大限活用しようとテーブルが配されていて、やや窮屈な感じもしますが、お昼時を過ぎての訪問だったので独りで4人掛けテーブルを確保することができました。恐らく昼だけの営業ですが酒類も置いていてくれるのは有り難い。お新香を摘まみながらちびちびと昼下がりに呑むのも悪くないなあ。つい最近までは、昼呑みは好きではないと主張してきたけれど、2杯ルールさえ遵守すれば―そういかぬ場合もあるけれど―、呑み過ぎということもないし夜にも差支えないということが分かってきました。要は昼から呑み過ぎさえしなければ、昼酒も捨てたものではないのですね。そして、食事を取れば必定腹がくちくなるわけで、酒もそうは進まぬから非常に合理的でもあります。ほんのり酒の回ったところで、近所をのんびりと散策しながら帰宅して昼寝するなんて理想的な休日の過ごし方かもしれないなあなんて思ってみたりするのです。さて、食事の品数はこうした店だから数は限られています。メインはさばや鮭の焼き魚の定食です。注文後に焼き始めるさばは、いかにも普通なのだけれどどうして家で焼くより美味しく感じられるのだろう。さば焼を肴にもう一杯、本当ならばもう一杯呑みたいけれど、その一杯が休日を充実させるかの岐路となるからそこはぐっと我慢すべきです。そばには「そば栄」というこれまた良さそうなそば屋さんがありますが、これもぐっと我慢で見て見ぬふり。愉快だけれど愉快で済ますためには我慢が求められるのです。 さて、またある別な休日、今度は京成本線の高架を背にした老舗そば店「京屋」を訪れました。見るからに古いそば屋で写真で見るとそうは見えないでしょうが、案外奥行きがあったりもするので、店の方はもしかするとここにお住まいなのでしょうか。それにしては京成本線が至近過ぎるからうるさくてやり切れないのではないか。と思ったけれど店にいる間中は少しも列車の通過音が気になるということもなく、昼なのに薄暗い店内は静けさを保っていました。奥のオヤジさんは瓶ビールを呑んでいますし、カウンター席ではハイボールを片手に店主と語り合う方もおられたりと、こちらのお店はしっかりと町の昼呑み場としての位置付けを確保しているようです。そば屋ではカレーライスとか中華そばに流れがちですが、この日はシンプルにたぬきそばにしました。そばの味や香りについて語るには訓練が足りぬので、町場のそば屋らしく肩ひじ張らずに頂ける普通に旨いそばであったとだけ書いておきます。店内を見渡すとほろ酔いセットの類のメニューもあって、手頃な価格設定なのもうれしいなあ。こんなちょっと古いどこにでもありそうな普通のそば屋で軽く呑んで食べる、こういうのにささやかな幸福を感じられるようになったなんて、ぼくも大人になったものだなあ。
2018/04/24
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新三河島にやって来ました。京成本線で日暮里の次の駅だからちっとも遠くはないのですが、周りは住宅が多くて地形マニアでも民家マニアでもない凡庸な古酒場好きに過ぎぬぼくにしてみれば、あまり歩いていて楽しい町ではありません。強いていえば常磐線快速の三河島駅からはそう遠くはないのでありますが、基本的にJR利用者であるぼくは運賃のことを考えて、三河島駅から新三河島駅に向かうので帰りにも同じ道を歩くのはまっぴらゴメンなのであります。そうなると荒川線方面に向かうか、日暮里駅、西日暮里駅、田端駅という選択肢が残されます。もし歩くのであれば個人的には田端駅を目指すことをお勧めしたいところです。けして近いとはいえぬけれど大人の脚力であれば20分もあれば辿り着けるはずです。途中、冠街道という商店街があって多少の飲食店もあるので、立ち寄ってみるのも一興かもしれぬけれど、なんにしろ目当てもなく訪れる町ではなかろうし、その肝心の目当てすらどことお勧めするようなものが果たしたあるのか、ぼくの知識程度ではおぼつかぬのであります。 それでもどこかちょっとでも良さそうな酒場、いや酒場でなくとも酒を呑ますような店さえあったならそれでよかろうし、もし仮に何もなかったとしても田端まで歩いていつもの立ち呑みでもまあ構いはせぬだろう。といった浅い考えでいつものように三河島駅から新三河島駅を目指したのでありました。するとやはり日を置くと同じ町でも違って見えるものであります。最近になって蕎麦屋を酒場の仲間に加えたことで「かみむら」なる立ち食い蕎麦屋風情の店に遭遇できたのでしょう。何せこのお店、相当にくたびれた様子を隠しようもなく晒しているのであってこれはぜひ入っておきたい。しかし問題なのが酒の提供があるかなしかという肝心なところが外観からは見て取れぬのであります。しかしそれは杞憂に当たらぬのであって、暖簾越しに少し覗ける店内の奥ではジンロだかのペットボトルで手酌するオヤジたちがいるのでした。安心して店に入ると店内にもビールと清酒の記された短冊が吊るされています。しかし焼酎気分なのでオヤジさんに聞くとあるそうなので、お願いすることにします。カウンターのネタケースには天ぷらが積まれているのでこれを肴にさせてもらうことにしよう。ゲソと春菊にしておこうかしら。麺つゆに浸されたそれは旨いけれどさすがに油に胃がもたれるので、見上げた先に記された関西風のだしのうどんを頂くことにしました。これに天ぷらが良くあってアッサリ平らげることができました。さて、ここの残念なのはネットで確認したところでも18:30には閉店となるのです。ぼくのお邪魔した夜もまだぼく以外にも3名程いたけれど、容赦なく暖簾が下げられたのです。まあそれも仕方ないか。 さて、もう少しだけ呑みたいなと駅の周辺を徘徊するのです。すると「ろばた焼割烹 まるい」が気になりました。晩酌タイム特別セットなるサービスがあり、生ビールもしくは酎ハイ2杯に肴がついて千円とのこと、これが慌てての読み違いであることに気付くのは店に入った後でした。サービ時間には制限があってその19時は目前に迫っていました。幸いいいですよと言って入れてもらえましたが、女将さん、何も聞かずに生ビールを注ぎ始めたのでした。おっとっと、待ってくださいよ、酎ハイがいいのですよと訴えると、何ということ生ビール―これが嬉し苦しの大ジョッキ―と酎ハイ2杯が頂けるのです。これは嬉しいではないの。大根煮付の突き出しに、刺身盛合せ又ワ豚生姜焼―原文ママ―の二択になります。刺盛りを注文、マグロ赤身に中トロ、イカにタコという王道の盛合せで、これがなかなかにちゃんとしているのでした。杞憂したぼくは早計でした。これってなかなかにゴージャスな宴と言えるんじゃないかな。できれば二人で行って、生姜焼きと分けっこするとなお贅沢感は高まる気がします。余りにも凄いからついその場でしたスマホを取り出して調べてみたら、あらまあ何たる事か、このブログが筆頭で表示されるのでありました。さらに調べるとどうやらここには2度来ていたようです。やれやれ、困ったものだ。しかしまあ今回の経験で忘れられぬ酒場となるはずです、きっと。最後にくれぐれも7時前に余裕をもってお出掛けください。例え常連であっても僅差でお断りされる現場を目撃しましたので。
2018/04/19
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山谷の食堂の一番の利用者はどういった方たちなのだろう。山谷がかつてさも山谷らしい表情を浮かべていた時代にあっては、きっと労働者諸君が店を埋め、旺盛な食欲を誇示しあっていたに違いありません。そんな当時の食堂や呑み屋にぼくのような品の良いとっちゃんボーヤが足を踏み入れようものなら、彼らの嫌がらせや嘲笑の格好の餌食にされたことでしょう。いや案外透明人間扱いされるのかもしれないし、必要以上に構われてご馳走なんかになってしまったりしたのかもしれません。どうもドヤ街という場所に対しては、殺伐しているものだという刷り込みから自由になるのが困難みたいです。しかし今となっては古食堂に入っても、いるのは高齢者が大多数を占めているのであります。何も語らぬけれど鋭い眼光を素早く放ってみせはするものの、身の危険を感知するまでには至らぬのであります。下手をすると揉み合った末に腕脚をポキリとやらかしてしまい加害者になりかねないとすら思うのです。彼らも当時は若かったはずです。今でも彼らが小競り合いする光景を目にすることはたまにありますが、それが決まって交番の前というのが何だか切なくなるのです。そんな黄昏色に彩られた食堂の一軒に立ち寄ることにしました。 ここに来て思ったのが、あれ、ここは以前来たことあるんでないのということです。でもまあホントに来てるのかもしれないし、それが勘違いとしても似たような店は少なからずあることでしょう。「中華 洋食 わたなべ」って何かすごく素敵ではないでしょうか。中華とか洋食って結局はほとんど和食のテイストを孕んでいるものであって、だからここには世界の料理の半分が存在するような気になるのです。だからといってここの料理の全てを制覇した暁には世界の食の半分を知り尽くしたと述べるのはいかにも無理があるのであります。ここで食べる事ができるのはあくまでも山谷の一軒の食堂の味でしかないのであって、他のどこかの町の料理と似通ってはいるけれど、それでもここでしか味わえぬ味なのです。ぼくの頼んだ餃子は出てくるまでに随分と時間を要するのでありまして、それはそこそこの繁盛にも関わらず全てを高齢の女将さんだけでこなしているからという事ばかりが理由ではありません。餃子を焼くのは例の水道の蛇口から水をじゃぶじゃぶ流し入れる餃子専門店で見掛けるようなシロモノであって、それでじっくり蒸し焼きするのだから時間も掛かろうというものです。そんな時間を掛けた品なのに皮はパリパリの好みのタイプで最近食べた中でも一番の好みでありました。待つ間に頂いたちょっとしたお通しも嬉しいのです。世代を超えた労働者諸君3人組は、生姜焼きだか焼肉の定食を食べていたけれど、それが期待を裏切らぬすごいボリュームで圧倒されます。今度は腹を括って昼飯にでも訪れてガツガツワシワシと掻き込んでみようか。それにしてもここ、確かに来たような気がするのだけれど、勘違いかなあ。 おっと、うかうかしていると目当ての酒場が閉まってしまう。近頃とみに閉店の早くなった「大林」に駆け付けました。最近、立ち呑み店で良く顔を合わせて仲良くしてもらっているご夫婦にここの牛乳割はぜひ試す価値があると聞かされていたのだけれど、その場に至るとやはり定番のチューハイを選んでしまうのです。ニラ玉を肴に呑むチューハイの旨さたるや、牛乳割では余り相性が良くなかろうと思うのです。こちらは先の店と異なり客の大部分が若い方たちで占められていて、このカッコいい酒場を支持するのが若い層である事を頼もしく思う一方で昔はやはりギラギラしたオヤジたちが大勢であったのであろうし、そんな中で呑みたかったなと思わずにはいられぬのでありました。
2018/03/15
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先般、三河島の渋い寿司屋について少し触れました。ぼくの嫌いなのがやけにもったいぶることです。もったいぶる奴がいるとぶん殴りたくなるのであります。実際にぶん殴りはしないけれど、そういう奴のもったいぶる際の表情の憎々しさというのは醜悪と呼ぶほかないとさえ思っています。顎を突き上げて鼻腔をひくつかせるその表情にはぶん殴るのに抵抗があるなら、唾を吐きかけてやりたくなるほどであります。なので、己がそのような醜悪さを晒すことのないよう早々に報告を済ませることにするのであります。三河島駅の改札を抜けて正面の横断歩道を急ぎ足に渡り切ります。左に折れて道なりにしばらく進むと最初の脇道を無視してうねった路地に足を踏み入れます。こんな路地に入り込んで大丈夫だろうかと思うような狭い通りなのですが、実はその先に商店街が伸びているのですが、そこまで足を進める必要はありません。商店街の入口に目指すべき寿司屋はあるのでした。 初めて「好寿司」を見てからずっと憧れ続けていた錆の目立つトタン看板の見事さは言うまでもないのですが、ピッタリ二間の引戸もさぞや腕の立つ職人の手によるものと見入ってしまいます。暗い中に佇む姿も素敵でありますが、日中の磨りガラス越しに憂いを帯びた茜色の照明が灯るのも実に絵になるのであります。同行してくれるのはぼくにとっては数少ない大金持ちの知人です。知人なんて他人行儀な呼び方はむしろ失礼かもしれぬから友人と呼ばせて頂く事にする。その友人の目にこの小ぢんまりと儚い建物に対し、どういう感想を持ったのかあえて聞かぬ事にしました。その答え次第で付き合い方を考えなければならぬかもしれぬから。ぼくのような寿司屋のシロウトとは違って、さすがに友人は堂々たる立ち居振る舞いであります。こういう店では余りウロキョロしてはならぬのであります。ぼくは腰が落ち着かぬという事ではないけれど、店内の造作の隅々まで見尽くしてやろうと躍起になるのでした。でも酒が目の前に届くとそんなことなどどうでも良くなるのが呑兵衛の性であります。呑めれば何処だって立派に酒場なのだ。正気に帰るのは精々精算時のみなのだから、喫茶趣味なんて相当品の良い趣味なのだろう。どのネタが旨かったとかどうとかいうほどの味覚は持ち合わせておらぬけれど、ぼくにしては大変美味かった。最初の突出し風に出された〆鯖はいまひとつと思えたからもしかすると〆は不得手なのかもしれない。しかし、ここの愉しさは旨さに留まらぬのだ。店のご夫婦や常連さんとの語らいがこれ程に心地よかったのは久しぶりの経験です。今度は己の小遣いをやりくりして訪れたいものだなあ。
2018/01/23
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たまに土曜日に仕事で出掛けることがあります。まあ、昼には終わるような簡単な用件の事が多いから、それを済ませたら軽く一杯やりたくなるのが人情というものです。三河島には呑み屋らしい呑み屋というのはあまりなくて、それはまあ荒川区全般に言えることなのですが、その代わりに昼呑みのできる居酒屋以外の飲食店が少なからずあります。焼肉屋に洋食屋、喫茶店でも呑んでる人をよく見掛けます。今回はうどん屋さんと中国料理店の2軒の報告です。ちなみにこれはハシゴをしてはいません。土曜日だからといって昼からぶっ通しで呑むほどに若くはないのです。下手に呑み過ぎてしまうと夜が楽しくなくなりますし。 という訳で、最初のお店は三河島駅の改札を出て信号歩道を渡った先にある「三河島うどん」です。見た目も真新しくてとりたてて代わり映えもしないし、ここにどうして入る気になったのか。それには訳があって、あまりにも単純極まりないので語るのもどうかと思うのだが、ここまで書いたから語ってしまうことにします。前々から行きたかった近所の洋食店がやっていなかったのです。午後2時からサワー類が安いという情報を得ていたのに準備中の札が掛かっていてがっかりなのです。目の前にぶら下げられた餌を取り上げられると無性に腹が減る。やむなくこのうどん屋に飛び込むことになったのでした。でもけしていやいや入ったわけではないのです。近頃、うどんがおいしく感じられるようになりました。いや、昔からうどんはけして嫌いじゃないし、たくさん食べてきたけれど、うどん以上にそばが好きだと思い込んでいて、今回のように連れられてうどんの専門店に入ったり、うどん県を自称する香川県にでも行った時でもなければ、うどんを注文することはそうそうなくなりました。でもきっと前々からうどんが食べたかったのだけれど、うどん食いを自称するのはなんだかみっともない気がして―そば食いが大人な印象があるのに対して―、自分の欲望に正直になれないでいたのですが、今はそんなカッコつけの武装を解除出来てきたようです。親子丼でセットにしちゃうなんてのもカッコつけにはできぬこと。酒の肴も一揃えはありますけど、今は空腹を満たすのが優先です。なんて差し出されたウーロンハイのでかジョッキと結構な濃さにセット物は多過ぎたとすぐさま後悔するのです。さて、先に出された親子丼はトロトロ系の本格派でこれを主力にしてもやってけるんじゃないかと思う位―あくまでも三河島でね―、うどんは適度にモチモチ、シコシコと歯ごたえあって、武蔵野うどんのように粉っぽくてカチカチなものよりやはり王道が旨いなあ。ここはうどんが主力の昼のお店と思っていたけれど、これなら夜に来て、単品の肴を頼んで本腰据えて呑むのもありかもなあ。 さて、また別のある土曜日の昼下がり、三河島の商店街をぶらぶらしていました。この商店街に向かう途中にすばらしく風情のある寿司屋さんがあるのを御存じでしょうか。ぼくは長年御存じだったのですが、ついに念願叶ってお邪魔したのですが、それは夜行ったから本稿の対象外であります。改めて報告指していただくことにせざるを得ません。そんなぶっ通し営業中の寿司屋を過ぎると商店街の中心に踏み込むことになるのですが、踏み込む一歩手前というところで、「壹王餃子」というお店の宣伝ポスターに目を奪われてしまったのでした。おつまみ全品100円、サワー全品210円ですって。これを見た瞬間に空腹が爆発し、たまらず店に突入するのでした。いかにも居抜き店舗を手間暇と金を掛けずに中国風な装いにしたといった雰囲気でこれはこれで悪くはない。他にお客さんは独りだけ。現地の方らしき愛想の良い女性と厨房にはこちらは厳つい調理人がいらっしゃいます。全品100円のおつまみは、店の方がおつまみと定義した品が100円ということで、料理と判断するものはちゃんとしたお値段設定になっていて、ちょっとだまされた感がありますがそれでも全般にお手頃価格はうれしいなあ。特に定食メニューは500円とびっくりプライスなのです。なので回鍋肉を定食でいただくことにしました。無論サワー210円も忘れずに。お新香に卵スープ、大盛ご飯に杏仁豆腐まで付いているのだからこれはなかなか立派であります。回鍋肉もお肉がたっぷり―今はキャベツがバカ値になってるから肉の方が安いのかなあ―なので、これで普段だったら3~4杯は呑めるのですが、昼だから2杯で止めておこうという抑制が働くのだからまだぼくも大丈夫だな。なんて満腹でもう呑めぬところまで達してしまっただけなんですけど。といったわけで、こちらも夜の利用もありなお手頃中国料理店なのでした。
2018/01/18
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日暮里で呑むのも飽きてしまったなあ。あちこち行ったけれど大体が「いづみや」とか「豊田屋」で落ち着いてしまったし、あとはこのところはいつ行っても入れたためしのない「鳥のぶ」や初音小路にもまだ入っていないお店があるにはあるけれど、雰囲気は良くて駅からも近いからふらふら出向いてしまうことも多いけれど、けして安くは済ませてくれない酒場がほとんどであります。ちなみに初音小路では、「麻音酒場」、「沖縄家庭料理 あさと」、「酒処 力弥」、「たむら」、「よしむら」、「やきとり 鳥真」にお邪魔しているけれど、「たむら」が最もお手頃で使い勝手がいいかな。「やきとり 鳥真」もできればスポンサーがいれば気軽に呑めます。ぼくにとっては安くはないけれど、奢る気のある人からすると案外お手頃のようです。とまあ腐している割には一身上の都合により頻繁に利用せざるを得ない境遇に置かれっぱなしになっているゆえ、日々、開拓に余念がないのであります。 そういえば駅の北側にも好きな店があったなあ。「もつや」はどうってことないけど、カウンター席の造りが良くて、案外居心地がいいし、「お食事 とみや」は最近閉まっている気がするけど、よもや閉店したんじゃないだろうなあ。そうそう路そばの有名店「一由そば」も捨てがたいなあ。こんな機会でもないと写真を載せられぬからついでにアップしておこう。げそ天が有名だけれど、ぼくはここの紅ショウガ味のゲソ寿司が大好きだからめったにげそ天にはお目に掛かれぬのだけれど、今度はげそ天そばにしようと思う傍らで、カレーも食べていないなあと欲望はどこまでも拡大するのでした。 さて、そんな日暮里駅北側の「もつや」のそばに、サッシ戸の安普請な構えの居酒屋ができていたのを思い出しました。安普請ではあるけれど、案外ちゃんとしていそうなので、躊躇しているうちに行く機会を逸してしまっていました。この夜はあわよくば御馳走になれる気配があったので、そこを目指すことにしました。ぼくは幹事役を常々拝命する割には、予約を入れた酒場の多くが初訪店を設定してしまうのですが、この夜はホントは「鳥のぶ」に予約の電話を入れたのですよ。なのに振られてしまったので、いつもガラガラな様子の「牛島」なら3名程度であれば入れると思いお邪魔したのでありました。店の前を通り過ぎる時、決まって店内を観察していたのですが、店内はカウンター席のみの造りと思い込んでいたら、ちゃんとテーブル席もあるのですね。品書きはぐい飲みサイズのグラスのコップに丸めて入れられていました。これはブロガー泣かせではありますが、面倒なら撮らずに済ませてしまう横着なぼくにはさして支障はありません。お値段は、むむむ、これは独りで来ることはなさそうなそんな価格帯の品揃えとなっていますね。店主は無愛想で(時折不自然な笑みを浮かべはする)すが、料理の腕はなかなかのものに思われます。ただし調理時間が幾分掛かり過ぎるのが難点です。刺身に腕の良し悪しを見極められるほどにはグルメではないが、少なくとも目利きであることは間違いはなさそうであります。同行者たちにはなんでもない鳥の唐揚げが好評でお替りまで頼んでいましたが、ぼくにはもう少し油が切れていたほうが、食べやすかったかも。あと塩気が物足りなく、卓上に塩があったらきっと振りかけていたんだろうなあ。ロールキャベツにしたって薄味でちょっと物足りなかったかな。ぼくにはどうやらというかやはりグルメになる素養には恵まれていないようです。
2017/12/12
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小台電停は都営荒川線の駅です。何をいまさという話ではありますが、知らぬ方もおられるかもしれぬので、一応書いておきます。なので、これから向かうとこを目指すのであれば、荒川線に乗ってしまえばいいのだけれど、地元の方でないと乗り換えになかなか適当な駅がありません。利便性では、山手線の大塚駅が一番なんでしょうが、大塚から小台までは思いのほかに時間を食うのです。路線バスも明治通りをバンバン走っているけれどこちらも時間が読み難い。そうなると京浜東北線も通る王子駅か日暮里舎人ライナーの熊野前駅がよいのでありますが、小台に行くのに余計な運賃を支払うのを躊躇うぼくのような者が使うのは己の足ということになります。田端駅からせっせこと歩けば、20分とは掛からぬのであります。しかし、すぐにも呑みたいという欲望を押さえ込んで、ひたすらに歩くというのはなかなかに難儀なものです。ちょっとした修行の趣きすら感じられます。しかし行ってみたい酒場があるのです。呑みたいという欲望を知りたいという欲望に打ち勝つ、これはなかなかに立派な事ではないか、と自画自賛するような事ではないよなあ。 そんな自惚れも、明治通りを渡って小奇麗な通りを進んだその細い脇道に「中華料理 タカノ」の煤けたテント看板を見るといともあっさりと覆されるのだから情けない。都内各所に数こそ少ないけれど点在するこの系列店には目にしたら出来る限り立ち寄ろうと思っています。枯れた雰囲気も共通しているけれど、値段の安いところも気に入っています。店内は他店とちょっとばかり様子が違っていて、狭く雑然としているのです。これはこれでいい雰囲気ですが、この系列は殺伐としたやうな褪色こそ目立つけれどスッキリしたところが持ち味だと思っていたので虚をつかれました。女将さん一人になって整理整頓まで手が行き届かなくなったのか。ビールに肉ピーマン炒めを頼むと、ピーマンを切らしているとのこと。ナスに変更します。入口のそばのテーブル席で引き戸に背を向けて腰を下ろすのがベストですが、そこの足下には悲しいかな荷物が置かれて座れぬのです。やむなくその対面に着きますが、こちらからは天吊のテレビを見るのにいちいち首をひねらねばならず面倒です。なんて思いながら30回ほど振り返っていると、ナスの肉炒めが到着しました。大量の餡に野菜炒めを放り込みナスがトッピングのように浮かんでいるといった物で、とても旨そうに見えぬのです。ドロンとした餡は正直不得意です。最近神奈川で給食を大量に残すというのが問題になっており、度々報道されていますが、ぼくの時代は冷たいのは当たり前だし、トロミも餡というよりスライム状でお玉で掬うのではなく切り刻むというのが近い有様でした。そんな無残な代物を当然にぼくは喉を通せぬのであって大変苦労した思い出があります。ここのも当時の嫌な記憶を呼び起こす見た目でしたが、口に入れるとそこそこイケるのです。お通しに肉炒めをちょっぴりだけどどうぞと出してくれて、冷え切っていて脂も固まっているけれど、この気持ちが嬉しいのだあと思ったのだけれど、ちゃっかり勘定されていたのには苦笑いするしかない。 さて、小台銀座商店街に足を踏み入れてしばらく歩いていくと「梅の湯」たいう銭湯が見えてきます。銭湯にも興味はあるけれどとてもそこまで興味の対象を広げる時間も金もないので大人しく「梅京」という併設の焼鳥店に向かいます。併設されていようがいまいが、建物は新しくて情緒の欠片もないのだから、いくら久住昌之なんかがセント酒がどうとか言ってみたところで特別な感慨が湧くはずもないのでした。風呂上がりのビールの旨さは理解するけれど、腰にタオルで飲むコーヒー牛乳もやはり旨いことには変わりがないのだから、殊更にセント酒を称揚するのもいかがかと思うのです。なんて苦言を呈する辺りに嫉妬が見え隠れするのは、まだまだポーカーフェースを決められぬぼくにはどだい無理があるというものです。さて、店内はカウンター席だけだったと思います。8割方席が埋まっているということは、風情はともかく味には期待してもいいかもしれません。バラだと安くはないですが、もも、ボンジリ、砂肝など5本のセットは600円とお手頃です。しかも特にももはすごい大振りでジューシーでかなり旨いんじゃないか。ホッピーもセットが350円と財布にも優しいのは有り難い。お通しは計算すると200円ですが、立派な栗の渋皮煮が2個、こんなお通しなら大歓迎であります。きっと品書きにあっても注文は躊躇うでしょうが、こうして自然に出してもらえるなら大変うれしい。年の頃はまだまだ現役世代の女性2人でやっておられますが、物腰も大変丁寧でフレンドリーでいやはやなるほど、場所が場所なのに人が入るわけだ。こんな店ならコーヒー牛乳を我慢して、直接ここに来たくなっちゃうかも。その後、田端の立呑みに行くと、この銭湯そばの住民の方がおられて、銭湯が古い建物だった頃からこのお店、やっておられたとのこと。そうと知っていれば以前のお店に行っておきたかったと未練を残してしまいました。
2017/10/10
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仕事を終えて、食べログなど眺めているとどうやら一人で入りやすい気軽なカレー屋が開店しているらしいことを知りました。さほど食に執着しないといっても、好物はあります。ぼくにとっての普段のご馳走といえば、カレーなのであります。カレーといっても色々ありますが、そのほとんど全てが好物なのだから一言であんたはお子ちゃまな味覚なのだねと一蹴するのはどうかと思う。そしてこれもけして変わった嗜好ではない事が、SMSなどの普及で白日の下に晒されつつあるけれど、誰がなんと言おうとカレーは酒の肴なのである。それは酒場のそう多くはないけれど古酒場ばかりでなく意欲的な若い店主の始めた店なんかにも置かれていたりして、それだけですっかり気に入ったりするのであります。でもつい先日までタイカレーブームが来たとか言っておきながら、やはりインドのカレーに戻ってくるのであります。 ところでライス付きのカレーも無論大好きで、それがナンとかであっても構わぬのであるけれど、こういう炭水化物は端的に腹に溜まりすぎるという難点を携えているのです。だから昼ならそうでもいいけれど、本格的な夜の呑みでは避けたいところ。じゃあ残せばいいかというと根がケチなぼくにそんな事ができるはずはない。じゃあ持ち帰りを頼めばってそんな照れくさい事もねえ、二人で一人前を頼むのはみっともないしそれに付き合う相手もそうはいない。だからこの「シルクロード」の自販機写真を見て、ナンやライスがセットじゃなく別売りなのを見て、これだと思いました。食べログのレビューではビリアニというピラフのようなものが勧められていました。ぼくもビリヤニは大好きだし、後から来たお隣さんなそれを盗み見てまさます食いたくなるのだけれど、それではここに来た理由がなくなる。ピラフで腹一杯にせぬためにここに来たのだから。インドなどの料理屋で行きたい店は他にも幾らもあるのだ。そうすると途端に選択肢が狭まります。キーマカレーやシーフードカレーなら家でも作れるよ。サグパニール、これなら良かろう。これまたインド料理では定番のほうれん草とチーズのカレーです。ほうれん草のペーストを作る、いや、ミキサーやフードプロセッサーの後始末が面倒なのです。きっとこのほうれん草はハナマサ辺りで売ってる中国産の冷凍物なんだろうな。味はまずまず、意を決して以前自分で作ったものが上だな。辛味も控え目で温めのビールに合います。ところで、目の前の貼り紙が気になる。ラッシーやチキンティッカなどをサービスとあるのだ。ネットではビリヤニのサービスとあったけれど、そんな断りは書かれていません。しかし、控えめなぼくは無愛想なシェフに尋ねることは出来ぬのでした。どなたか確認してくれないかなあ。まあその時点でこの貼り紙は張り替えられちゃうのだろうけど。 そんな満たされぬ気分で向かうのはいつもの「はやしや」なのです。ここはとても好きなんだけど、配膳役のお姉さん二人の機嫌の悪い日は、ちょっと嫌な気分にさせられます。まあ、大抵の日が機嫌悪そうなのですが、それが自分に跳ね返らぬ限りは支障ないのだけど時折ムッとさせられる時があるのだ。機嫌が良くて空いてさえいれば、すごい愛想も良いんだけどね。いや、これは逆なんじゃないか、空いてさえいればご機嫌なんじゃないかしら。この夜は塩梅よく空いてるではありませんか。いそいそ、席に着くと先に呑み物どうぞ、と少しな愛想もなくどこかしら蔑んだかのような視線で問い掛けるのでした。
2017/09/13
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先日、小台を歩いていたら商店街の外れになんともはやぞくぞくするほどに渋い中華料理店がありました。こういうのを近頃は、町中華と呼んだりするらしいのですが、どうもピンとこない。ピンとこないからと言って他に適当な呼び名を思いつくでもないので、とりあえずここでは町中華と呼ぶことにしておきます。この町中華、都内を散策しているとそちらこちらで目にするのだけれど、いざ探し求めてみるとなかなか見当たらないのはどうしたことだろう。特に夜になると少なく感じられるのは、恐らくは案外店を閉める時間が早いからでありましょう。それなので、町中華を見掛けたらなるべくメモに残したいと思っているのだけれど、暗かったりそれ以上に酔っ払って横着になっているのが原因なのでしょうが、最寄りの駅名と店名程度ではネットで検索しても見つからぬ場合が多いのです。そして、そんなメモが膨大になってしまい、肝心な時に記憶が浮上してこないもしくはストリートビューなどで確認した店構えは鮮明な像を留めているのに、そこが一体全体どこであるのかが分からぬということになるのです。さてどうしたものか、目に留まったら迷わず店に入るのが最善であるとは思うのですが、なかなかそうもいかぬ場合があるし、そうハシゴして食べ歩くのも厳しいお年頃なのです。でもここの店構えは忘れない。なんといってもつい先達て目撃したばかりだし、記憶も新鮮なうちに来ているからさすがに記憶に鮮明です。 まず、看板がすばらしい。真ん中に赤地に薄紫で店名があり、その左には黄地で中華と軽食の文字、そして右側にはペプシコーラのロゴが記されています。こんな看板ひとつでコロリとやられてしまうのだから我ながら単純なものです。サッシの引き戸もいかにも町中華らしい風情であります。「金龍」という剛毅で硬派な店名も素敵です。こういう見栄えのする店というのは店舗それ自体だけでもう半分満足してしまっているものです。残りの半分は、そうお察しのとおり内装さえ良ければもう十分という気にすらなってしまいます。そこら辺は喫茶店も似たり寄ったりですが、内観が残念であっても、酒場の場合はまだまだ好きになれる余地は残されています。喫茶店のグルメ本なんかが近頃出版されていますが、たまに見栄えのする品もありますが、基本的にはさほど変わり映えはしません。基本のコーヒーすら明らかにまずいものはあっても、驚くほどに美味しいということは稀であることを考えれば、酒場には一定程度の伸びシロが有るということになります。無論、ひどい場合もありますが、ぼくの場合は見た目の良さでそれは許せてしまうから、マイナスの査定には結びつかないのであります。見た目で高評価を下した酒場には加点だけであるのに対して、喫茶店は高評価の店はともかく、まずまずの店には減点のみ課されることになるのです。ちなみにこちらは、内観は段差になっているところは良かったのですが、外観から受ける印象からすると全般に明るくて、物足りない感じがあります。それでも個性的な麺を使ったあんかけ焼そばなど料理は旨いし、昼間から呑めるのもこうした店ではそう珍しくありませんが便利です。この界隈には探してみれば似たような店が潜んでいるのではないか、また探索に出向いてみたいものです。
2017/08/29
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都電の荒川線の沿線ー町屋や大塚などなどの乗換駅はとりあえず除外するーには、これといった酒場がないというのがぼくの持論てあります。これまでもかなり多くの酒場を訪れているし、これからも当分は懲りずに通い続けることだろうけれど、どうもこれといった酒場がない。熊野前は日暮里舎人ライナーの乗換駅ではないかという明快な指摘はここであえて無視させて頂くとする。ここにはその数少ない良店がそっと毎夜酔客の来訪を待ち続けているのだから、こじつけのような口上であっても勘弁していただけるはずなのであります。日暮里舎人ライナーの乗客であれば、注意深くさえあればここを見つけることはできるはずです。荒川線で熊野前を通過するだけでは見逃しても消して不思議ではない。駅から近くて便利なのに視線を避けるかのような死角にあることこそ、ここを未だあまり知られざる酒場として守っているのもしれません。いつもこうして知られざるとか書いておいて躊躇うのが、これまでずっと営業してきたのだから本当に知られていなかったわけではないということ。だから、ここでの知られざるの意は、地元の方以外にはという留保付きであることをご承知置きください。 ところで、そこに出向く前に「喫茶 エルム」に立ち寄りました。ここの存在は、つい先だってまで全く知りませんでした。ここが地域密着のそれほど飾り気のないお店だったこともありますが、不覚にもこの界隈は大分歩いているつもりでやはりまだ見落としがあったようです。店先には自転車がずらりと並んでいてご近所さんたちの寄り合いの場として存分に活用されているようです。ちょうど彼女らの引き際であったらしく、席に着いた時点の騒々しさは程なく止んで静けさを取り戻しました。特別なところはどこもないのだけれど、近所にある喫茶店ならこうあってほしいという要素が過不足なく揃っています。近所には、「手打ちそば うどん 実(MINORU)」、「中華定食 らんらん」、「居酒屋食堂 やよえ」などがあっていずれも少し良さそうですが、今晩の行き先は決まっています。 ぼくが勝手に荒川線沿線の名酒場と認める「もつ焼 お好み焼 かわかみ」に向かいました。5時前というのにすでに何名かのお客さんが入っています。わずかばかり設けられたカウンター席には女性の方ばかり。女性が独りで呑みに来れるというだけでもこの酒場の快適なことが察せられると思いますが、奥に入らぬのはそこが鉄板付きの座敷席ということもあります。ありとあらゆる客に対応できるだけの肴を取り揃えながら、一方でお好み焼きまでいただけるのがこの店の醍醐味です。A氏と二人奥の座敷に通されます。これまてはカウンター席だったから新鮮です。サワーをもらうと嬉しいことに煮こごりのお通しであります。これだけでも2、3杯はいけちゃいそうですが、悲しいかなA氏は煮こごりが苦手なのであります。そう言えば品書きをちゃんと見るのも初めてかも。いつもは黒板のオススメばかりに目がいったけれど、座敷席からは短冊の品書きがじっくりと確認できます。中でもお好み焼きともんじゃメニューが思った以上に充実しているのでした。あらかわくらしく400円から頂けるのが嬉しい。月島あたりのもんじゃの値段はまあ嫌いじゃないけれど、どうもしっくり来ない。それは当然値段に対する不満がもたらすものですが、ここでは心置きなく粉物尽くしも可能なのです。しかし、今回は自粛することにしました。次回のお楽しみ。そうこうするうちに近所の首都大学東京の職員や学生の団体さんがやってきました。こんな良心的で気分のいい酒場があれば他の店には行けなくなるよなあ。しかし、あまり団体で使われるのは有難くないとも思うのです。店の方もたいそう親切でフレンドリーなこのお店、彼らだけに独占させるのはもったいなさ過ぎます。
2017/08/05
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都電荒川線なんてごく少数の地元原住民が利用するか、その普通な退屈に思われるであろう町歩きを趣味とする余程に時間に余裕のある者くらいしか赴かぬ沿線でありましょう。確かに雑司が谷には鬼子母神を始めとした情緒いっぱいの風景が残っているし、庚申塚はそのまま刺抜き地蔵に直行できるし、荒川遊園で郷愁に浸るのも一興ですし、まあ400円と廉価な一日乗車券を購入して損をしない程度に楽しむことは可能でありましょう。しかし、そういう一般的な名所巡りを終えると途端に人々は、もとより荒川線などなかったかのように記憶から拭い去ってしまうようです。実際、リピートを促す程に、この沿線は魅力的かと問われれば首を傾げざるを得ないのであります。目当てなどなしに散策することは、なんだかんだと忙しない日々を送らざるを得ない現役世代にはなかなかに困難なことであります。これは老後に残しておくことにしたい。だからぼくは明確な目的をもって熊野前にやってきたのでした。この電停そばには商店街が元気とは言えぬけれど、それなりの現役ぶりを保ちつつ生き延びているのです。そしてその一軒のマーケットのようなお店で酒を呑ませるらしい。このことは、文化放送の多芸多才なアナウンサーである野村邦丸の冠番組で知ったのでした。 商店街の中程に「ニュー まつね(FG松峯)」はありました。何度となく通り過ぎていて、外見には当たり前のスーパーみたいだったので、さほど期待していませんでしたが、店に一歩足を踏み入れるとどこかしら地方都市の駅前のよろず屋風のようにありとあらゆる食品が揃っています。惣菜類も豊富でこれは呑みにも提供されると思われます。と冷静を装っていますが、店に立ち入る前にすでに表から奥の方に暖簾が下がっているのが見えていました。店の若い主人に声を掛けて呑ませて欲しい旨を伝えます。レジを優先するのでお待たせするかもしれないと断わりを告げられますが、一向に構わないと答えると、お好きな席をどうぞと通していただけました。そこは簡易な間仕切りがされ、時代遅れのダイニングセットが配置されただけでしたが、店内をそこから眺めつつ呑むのは新鮮です。酒もそれなりの取り揃えで、肴は揚げ物を中心におつまみ三種盛りみたいなのもありました。手作りの家庭の味という感じで、すごい旨いとかそういうものではありませんが、安心していただける味です。先程まで人がいたようで、皿やグラスが残されたままになっているので、この後どんなお客さんが来るのだろうと楽しみにしましたが、マーケットも含め一人の客も来店しませんでした。昼下がりの最も暑い時間帯を避けてのことなのでしょうか。というか降ろされたホワイトボードのメニューには定食が並んでおり、酒はオマケで本来は食堂が本来の姿なのかもしれません。荒川線の散策にこうしたちょっと変わり種のお店を挟み込むと、感慨もひとしおなのになあと思うのですが、皆が皆こうしたお店を喜ぶとも言えぬのだから勝手な発言は控えることにしましょうか。
2017/07/26
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猫またぎさんの情報提供に促されるままに、赤度小学校前に3度にわたり足を運びました。たった3度で恨み言を言うつもりなど毛頭ありません。それどころか、これといった店のないものと思い込んでいたこの界隈ても好きになれそうな酒場に出会えたことには感謝せねばならないでしょう。それでも気持ちしては、ほとんど当分は行かない事になるだろうなあと、思い掛けていた7月に入って早くも夏真っ盛りの土曜日の午後、退屈でしかもお金のないとあっては行ける場所は限られてくるのです。半日遊べてしかも安上がりということになると、自宅からそう遠くないのであれば、都営荒川線の散歩なんてのは悪くないことでしょう。その散歩は早々に到来した満腹により、早々に打ち切らざるを得なくなりましたが、それはまた追々ご報告します。ここで話題にすべきは、例の焼鳥店に首尾よく辿り着けたかであります。今回は、荒川線の一日乗車券400円を購入済みなので、熊野前の優良酒場と東尾久三丁目の素晴らしい風情のもつ焼き店を後に確保しているのでーどちらも行き掛けに営業しているのを確認済みー、意気揚々といつもとは逆方面から向かうのでありました。 見慣れた公園の隅っこに赤提灯を見掛けたときにこれまでの苦労は一気に報われたように感じました。これは間違いなく営業しているに違いない。だからこの先の報告はあくまでも事務的に必要事項のみお伝えします。女将さんが一人でやっています。旦那さんはそのフォロー役。21か16年前から似たようなスタイルめ店をやってきた、しかし以前やっていたスーパーからは撤退を余儀なくされたそうです。その後も翻弄されて、結局自宅の庭を利用して営業することにしたのは常連さんの後ろ盾があってのことのようです。賃料を払い続けることが馬鹿らしくなった時に、支えてくれるお客さんがいるというのは、それこそ最高の財産です。缶ビールなどの酒はクールボックスからセルフで取り出します。コップなどありませんが、アウトドアでは缶から直に呑むのが醍醐味です。ゴミや洗い物を増やさぬのが現代人の嗜みです。焼鳥を3本頼みました。タレで出されたそれは正直かなりしょっぱいのでした。ここでは塩でいただくのが正解のようです。今でも営業時間にはあまり涼しくはないけれど気分だけは爽快なオープンな空間での夕涼みのご隠居さんや生徒諸君もおやつ代わりに買い求めて行くそうです。風通しの悪いサウナ風呂のような焼き場で暑くて難儀に違いないけれども快活な明るい女将さんに癒やされる方も多いことでしょう。ぼくもそうでした。ちなみに店の名はちゃんとあります。「小さなやきとり屋」というそうです。女将さんの携帯やご自宅の電話番号が記されていなければご紹介できたかな。ちなみに休みは月曜日だけ、あれっ、それじゃなんで今まで入れなかったのの答えは明快です。営業時間が3時から6時までというのだから、どうりて入れなかったわけだ。
2017/07/20
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前々から三河島で気になっている洋食店があります。実は数日前も訪れていたのですが、どうしたものか見逃してしまったようです。その日はとにかく何が食いたいとかいう欲望を高めるわけでもなく、通りかかりのついで程度の心持ちで向かったから見つからなかったのか。その店は三河島駅前を通る尾竹橋通りと繊維街のある日暮里中央通りの交錯する交差点そばという非常にわかりやすい位置にあり、これまで何度となく歩き過ぎているはずなのに、何故かその日は見逃してしまいました。しかし今晩は違います。突如としてマカロニグラタンが食べたいと思い立ったのです。食欲に促されて酒場を目指すことなど極めて稀なぼくでありますが、この欲望が顔を覗かせた場合は極力従ってやることにしています。 目指すのは「ニュー マルヤ」であります。その気になるとアッサリと見つかるものですね。しかし、遠目にいつもと何処かが違っているように見えるのです。近づくにつれ本日休業のプレートが目に入り、極度の落胆に見舞われることになるのですが、ドアの貼り紙こそが気掛かりです。怪我のため休ませて頂きます、といった記載なのです。しかしドアをも覆いそうな緑の植物の茂り方はすにもうでしばらくの間、店を開けていないと思わせるのに充分な様です。早く店を開けられる日が来ることを願うしかなさそうです。 何とも無念な、そしてグラタンはどうしたものか、と思案しつつ歩いていくと、おや、こんな路地の先に店なんかあったかしら、これは素通りはできまいな。ぼくは食欲より知識欲、う~ん、今ひとつピンとこない言い回しだ。そう食い気より好奇心が勝るのがぼくの持ち味であります。なのでどこか他所の洋食店より今すぐ入れる「中華料理 勝楽」を選択するは必然なのであります。看板こそ立派ですが、店舗はかなり古ぼけている。早速サッシ戸を開けて店内へ、外観に偽らぬ年季を積んだぶっきらぼうな内装です。椅子だけは喫茶店でよく見る木製チェアの座面を覆うようににレザーを貼ったものでした。カウンター席ではご近所さんながら初めてここを訪れたらしいおっちゃんが2本目のビールに突入したところです。ぼくはバイスを貰うことにしました。特別好きなわけじゃないけれど、中を200円で追加できるシステムなので一番安価に呑めそうなことが理由です。回鍋肉をいただこうかな。特別感はないけれどちゃんと美味しいなあ。お通しの豆腐も嬉しい。次の老夫婦の旦那がビールを頼んだらそのお通しはシナチクでありました。酒の種類で変わるのか、それとも常連具合で違うお通しなのか、その辺はどうでもいいのです。だって豆腐が食べたかったから。母と中学生の娘、まだ3歳くらいの孫を連れた爺さんなどなど地元の方が集うこのお店は、やはりとても素敵なお店でした。
2017/07/18
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我ながら粘り強いことと感心します。またもや赤土小学校前に足を伸ばしました。三度目の正直を信じて、今度は西日暮里から歩きました。最寄は日暮里舎人ライナーの赤土小学校前で、これで「あかど」と読む事もようやく覚えました。人は恥をかく事で学ぶ事も多いのであります。語学だって何だって恥をかく事が己の自尊心を惹起するのでしょうか。何はともあれすっかり身に付いた現場に直行します。もはや営業していることなど期待はしておらぬのです。ここに日参することに目的すら見失いかけているのです。なんて訳のわからぬ事ではないのであります。まだ何件可行っておきたい店を見付けていたので、訪れたまでの事です。やはり今回も空振りに終わったのですが、さほど気落ちしなかったのも確かです。 その一軒目が「中華料理 一番」てす。尾久橋通りに面する駅そばのお店だけれど、いつもお客さんは二名程度しか入っていないけれど、通りの反対側から眺めると実に充実した表情を浮かべているように思われるのです。無論、こんな大きな通りの向かいから表情が見えるまでに視力は良くないけれど、そう思われたのです。そんな幸福そうな店になら入ってみたいと考えるのが人情です。そしてそれ程に盛り上げるほどにはいい話ということもないけれど、ちょっと好ましい出来事があったので書き留めておきます。餃子にビールというお決まりの注文を済ませ、表通りをボンヤリと眺めつつビールをチビチビと呑んでいると、恰幅のいいオッチャンがほんの一瞬の躊躇を見せて入ってきました。カウンター席にドッカと腰を下ろすと鋭い眼光でメニューを睨め回すのでした。それもほんのわずかの時間であります。ぼくなら悩んで悩んで悩み抜いて決断を下すところをいともあっさりと結論付けられるとは只者ではない。注文はラーメンとチャーハンでありました。何だよ、それならメニューを眺めるまでもないではないか。父娘の連携でまたたく間にそれは供されました。一方、ぼくの餃子はまだ届きません。そのおっちゃん、ほんの少し先に置かれた炒飯を猛然と頬張り、ラーメンをすすり込むのであります。あまりの食べっぷりに見惚れてしまいます。まだ餃子の出されぬぼくを尻目に、おっちゃんはお勘定、そして突然席を切ったかのように店の娘さんに語りかけるのであります。日暮里の「喜楽」なる中華料理店をこよなく愛用していたが、店を閉めてしまった。その後、これといった中華料理店に巡り合えなかったが、ここは実においしかった。これからは途中下車して寄らせてもらうと告げて颯爽と立ち去ったのでした。これは飲食店の人にとっては、この上ない幸せな瞬間であったと心中をお察しします。さて、ぼくの食べた餃子はというとやはりこれまた大層美味しかったのであります。 西日暮里に引き返す途中にある「そば処 瀧乃家」を前回見かけていました。表に貼り出された品書きを見ると蕎麦屋ではありますが酒の肴が豊富でしかもお手頃であるらしい。というわけで再びやって来ました。今度は貼り紙を見るのももどかしく、スイっと入店、アラら予想していたことではありますがお客さんが少ないですねえ。おひとり様が冷やしの蕎麦を食べ終えると、すぐに店内にはぼくと店の方、こちらも父娘らしきお二人でやっておられました。肴はやはり充実しているなあ。お通しに立派な酢鷄を頂いたので、200円のラッキョウと350円のハーフサイズの野菜天ぷらを頂きました。これがまたすごい量で嬉しいけれど持て余してしまうほど。酒もそば焼酎の280円を底値に安価であります。これはすごい立派だなあ。店の女性は親切で優し気な応対に癒されるし、オヤジさんは寡黙だけれど実直で良さそうな方です。近くにあれば週一位で通ってしまいそうです。しかしちょっとばかり微妙な立地なんですねえ。もう少し便が良ければと思うのですが、だからこその価格帯なのかもしれません。店の雰囲気もいいのですよ。古びてくたびれてはいるけれど、それが不潔な感じはなくてとても落ち着くのです。オンボロ酒場は総じて好きですが、夏場にキタな系は厳しいですから。次に焼鳥屋行った帰りにも寄ってみようかな。
2017/07/13
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翌日もまた懲りずにやって来ました。相変わらず営業するという気配すら感じ取れません。こんなやってるかやっていないんだかよく分からぬ自宅の庭を使ったお店に再びやって来たのは、有力かつしかしながら結局は曖昧模糊としたことは変わらぬ情報を地元民から入手していたからです。昨夜、中華料理店を出て件の焼き鳥店を失望とともに眺めやった時、その屋台が置かれた庭と接するように、柵を隔ててはいるけれど、ちんまりとした児童公園が設けられています。わざわざこんな隙間に公園を作らなくてもと思わぬではないのですが、とにかくその公園にここを縄張りの中心に据えるらしいツッパリ君がいたのです。彼に聞けば何らかの情報を得られるのではないかと思い、オヤジ狩の危険を厭わずに接触を試みたのでした。人は見かけで判断してはならぬなと思い知らされるのですか、案に反して礼儀正しい彼はこう語ってくれたのでした。はええ、たまにやっていて近所のおっさんたちが何やら食べているようですね、ラーメンを食べていたかも。酒?、酒はどうでしたか、呑んでいたような気もしますが。とにかくたまにだけやってるみたいで、やる時は夕方にはやっていたはずですよ。この聞き込みが教えてくれるのは、たまにしか営業せず、やる時は早い時間からやっていて、確かに近所のおっさんたちが(呑み)食いしているという事です。だからと言って、その翌日にすぐさま訪れずともよいではないか。しかし、仮に曜日によって営業日が決まっているとしたら、曜日を変えて訪れる意味があるというものだ。まあそれすら憶測でしかなく、曜日すら無関係にホントに思いつき営業なら手のうち用もないんですけど。 結論から申しますと、やはりこの日もやっていなかったのであります。今日は火曜なので月火はやっていない公算が高いかな。ここは青年の情報を信じてまた後日の再戦を期待することにしよう。 前夜お邪魔した「味平」は尾久橋通りの路地にあるのですが、路地裏ばかり歩いたので、見逃していましたが、通りの向こう側に居酒屋らしきものがあります。店先に酒類が安く貼り紙されているのに引き寄せられてウッカリと入ってしまいましたが、これはどうもハッピーアワーとかの時間制限付きだったみたい。ホントは来がけに良さそうな蕎麦屋を見つけていたのでした。だけどまあそこはまたの楽しみにすればよいか。「居酒屋 しゅん」は、若い夫婦でやっているお店で、入った時には誰も入っていないと不安な気分になったのですが、実は二階で宴会をやっているようです。ぼくの後にも数名が階上に吸い上げられていきやがて賑やかになってきました。お通しは小松菜やカニカマなどの混ぜ込まれたあっさりお浸し、蒸し暑い中にこういうサフパリしたものは有り難い。肴はカレーソースコロッケだったかな、コロッケの具材がじゃがいもメインの濃厚なカレーソースになっていてこれがなかなかに秀逸なのです。よくも秀逸なんて単語が浮かんだと己の語彙力も捨てたものではないと、かなと図に乗って使いましたがそれは大袈裟にせよ確かにうまかった。しかも肴としての満足度も高く、ホッピーの中を2つお代りするに十分でした。今後に期待される良い酒場と思ったのですが、勘定は聞いた瞬間には計算間違いではないかと思う値段なのが残念だった。競争相手が少ないのでしょうがもう少し安いといいんだけどな。
2017/07/04
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赤土小学校前なんて言ってもどこじゃいそこはってなもんですが、地元の方なら当たり前だけれどあああすこね、なんてことになるわけです。そんなの言うまでもないのでありますが、ここは都内でも知る人ぞ知る駅の一つであることでしょう。なぜなら赤土小学校前駅は都内でも最も新しい路線の一つ、日暮里舎人ライナーの駅だからです。大体において赤土と書いて何と読むのかすら分からない方が多いでしょう。知ってるように語っていますが、ぼくもしばらく来なかったから、うっかり「せきど」と読んでしまったのであります。なのでお分かりですが、「あかつち」が正しいのであります。アカギやカイジのように生死を賭けた賭博で二択を選ばされたときに、これを問われると思うと戦慄するのです。だってねえ、知らぬなら純粋に己の勘を頼りにするしかないけれど、下手に知っていたことがあればまさに走馬灯のように記憶が脳内を駆け巡り、騒ぎ立て、全く出鱈目な物語さえも捏造してしまうかもしれぬのだから身震いするほどの怖さであります。だけれどもそんな危険極まりない地へと誘う 氏は、罪作りな方であります。ぼくにとってはこれ以上の耳寄りな話はないすごい情報を提供して下さったのだから、いかな危険地帯であろうと躊躇いは許されぬのです。早速かの地へと赴くのでありました。 目指す酒場は、いや酒を出すかどうかなど何ら保証されてはおらぬのだから決めつけるにはまだ早すぎます。危険ではあるけれど、明瞭に提供いただいたストリートビューがある以上、そこにはあっけなく到達するのであります。好奇心を抑えきれずに予習してしまったそのままの光景がそこにはありました。表札に下がる赤提灯こそ見当たらぬけれど自宅らしきとちの駐車スペースの真ん中の一等地に屋台が2つ。確かに焼き鳥を提供していることは分かる。しかしまだ営業しておらぬようだ。その辺で時間を調整して出直すことにしよう。 近くの「味平」とやらいう店に入ります。今回はあくまでも謎の焼鳥店がメインなので語りは最小限に留めます。ここは実はアンジャッシュの渡部のBSの番組、「ハシゴマン」に登場しているようなのだーよく知らんけれどグルメとして知られているらしいし、それよりも佐々木希の旦那となったことで一躍脚光を浴びたようだー。ようなのだと書いたが実はこの番組はぼくもそれなりに見ていたのだ。少しも役に立たなかったけれど、何故かよく見ていたのだ。なんてこれだけで長くなったけれど、まあそんなお店なのだ。なんてことないお店で値段も高いけれど、うなぎも出すらしく山椒が完備されているのはありがたい。単調にりがちなフキノトウとイカの天ぷらも華やぐというものです。悪くないけれど、この値段に折り合いをつけるのは難しいな。地元の方に愛されればいいと思います。なんて他に客はなかったのが懸念です。 外観からも察せずにはおられぬ「冨士屋」の不振さ。表からも客の入りがはっきり分かるのだからどうも上手く行ってないことがわかる。しかしどうして上手くいかぬのか確かめたくなる不遜で物好きなぼくがいふ。どうやら目当ての店がやっていないことへの不満がこうした地元の店に跳ね返るのは、仁義にもとる所業であろう。いかに客がなくとも良い店はあるはずだ。表から見るほどには店内はうらびれていない事も見過ごすことにしよう。主人が客よりもテレビが気になるのもまあ分からぬではない。肝心の酒とラーメンさえ良ければいいといつもと全く別の事を思う。しかしこのラーメンはなんだ! まあちゃんと食べれるが食べれたらそれでいいのだろうか。あっさりスッキリしたスープは爽やかでとか縮れ麺は昔懐かしいとか書くと聞こえはいいのでしょうが、どうもベクトルは逆に向かっているようです。別にラーメン屋の皆が皆揃って気合がこもっていなければならないなんてさらさら述べるつもりはないけれどーむしろ最近のやたら声を張り上げることで気魄がこもってるとかいう演出の店には反感すらいだきたくなりますー、せめてもう少しだけ自分が食べてそれなりに旨いと思えるものを出すのは、最低限のマナーだと思うのです。いや、マナーではなく倫理という言葉こそ相応しい。 ということで、改めて例の焼鳥店の様子を見に引き返したのですが、無念、明かりは消されたままです。
2017/07/01
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日暮里ねえ、ちょくちょく行くのは通勤経路の関係があるからで消して好んでのことではありません。無論、好きな酒場も少ないながらあるにはあります。だけれどだからと言って毎夜通いたくなるようなそういう酒場には当然ながら事欠くのです。新しい酒場には好奇心はありますが執着はないので、例えちょっとばかり良い酒場に行き着いたところで、通い詰めるなんてことはありえないだろう。なんてことを書いて投げ出してしまったようだ。そうだなあ、確かに日暮里について何事かをボヤいてみせるにしても、芸がないのは分かっているけれど、それにしたってネタは尽きるというもの。しかし、ネタは尽きても行くべき酒場がまだあるというのは頼もしいと言っても良いのかもしれません。そう、実際また行ってない酒場などいくらでもあるのですね。このボヤキを止めるためにもさっさと行き尽くしてしまうのが近道かもしれない。ボヤキ酒にもそれはそれで酒の呑み方としては典型なのだから、きっとそれなりの感慨となり得るのでありますが、酒の呑み方よりは毎夜の酒場巡りというささやかな冒険、いやそんな勇ましさなど微塵もないから小さな散歩とさらにちっぽけな旅情を感じることこそが楽しいのであります。旨い肴や酒、気の利いた呑み方を知るのはもっと老いてからでもできる事です。 何だかんだ無駄口を叩きましたがようやく酒場に向かうのです。日暮里の繊維街に向かう途中に「くいしん坊 大将」はあります。地方の町らしい町もない駅前にだって近頃はチェーン系のハデハデしい看板が見られますが、このお店もそうした退屈な店の系列に連なるお店です。だからこの日まで徹底して黙殺を決め込んできたのです。こうした居酒屋で呑みたいと思う人たちの気がしれません。しかし驚くべき事などではないのは、チェーン展開するほどにこうしたタイプの店は支持されていることで、それだけて充分な証左となるわけだが信じたくないと思うのがぼくの心情なのです。人々は手頃そうな小奇麗そうな店であればそれで満足なようであります。こうしてマイノリティーであることを書き連ねると己がさも特別な感性や考え方の持ち主でおることをむしろ誇っているようで面映いのだけれど、そんな意図はサラサラないのであります。少なくともこの一事においてはという留保を付けねばならぬのが小市民のケチな根性なのですけれど。ともかくやはり多くの客が入っている店内の案外広くてリラックスできるカウンター席にいて、これはまあ楽なのは確かだなと思う辺りが良くも悪くも順応力があるのです。しかし、チェーンのお店、いやここに他の店舗があるかなんて知りはしないけれどそれっぽいお店は、少しもお得に思えぬのです。こうした店で若い奴が安くもないサワーを十数杯呑んだと豪語してみせたことがあるけれど、そんなの下町の酒場で5杯も呑ませりゃ、コロリとぶっ潰れるに違いない。肴も高いから炙ったイカ一夜干しでダラダラと呑んでみせる。怪訝な表情で見やる若い従業員には食わずに呑むわれらは不気味に思えたのかもしれません。実はここに伺ったのは随分前のことですが、どうしても思い出せずメモに残ったままだったのをさっきようやく写真を見てなんとなく思い出せたのでした。 やはり最初から「豊田屋」に来ておくのが正解でした。安定と安心の正統派居酒屋の典型的なお店です。庶民的な価格帯と落ち着いた雰囲気でなごめることこの上ないのですが、独り呑みにはやや難があるのが残念です。この夜は同伴者がいたからいいようなものの、独りでしかも混み合っていると、数少ないカウンター席はかなり窮屈に感じられます。テレビもなかったので手持無沙汰になりますが、かと言ってスマホをいじるのさえ気を使わねばならぬのはちょっぴり厳しいのです。それでもここは独りでもついふらふらと訪れたくなる程度には気に入っています。一度奥の大テーブルでしみじみ呑んでみたいと思うのですが、まだ通されたことはありません。あすこはやはり常連のための席なんだろうなあ。
2017/06/21
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西日暮里という町も何ていうかあまり面白みがなくて、そんな事を言うくらいなら立ち寄ってくれるな、不愉快であると思われる方も少しはおられるかと思うのですが、そうした皆さんも心の底ではもう少し呑み屋があってもいいんじゃないのなんて本音では思っているのではないでしょうか。酔っ払いを嫌う方がいるのもよく知っています。そんな方たちにとっては西日暮里はきっと住みやすいと思うのです。何だか下らぬことを言っているけれど、ぼく自身が今住んでる家の周辺にはあまり呑み屋などないのです。半径50mの範囲内に酒場らしい酒場は恐らくは2軒しかないと思います。呑もうと思えば呑めるという店を含めてもきっと10軒にも満たないと思っています。だから困るかといえばそんなことは少しもないのです。時折表の通りを奇声を上げて通り過ぎるバカタレもいないわけじゃないけれど、極めて少ないと評して過言ではないと思います。20代の頃はどこかしらで呑んだ後に自宅のほんの近所の酒場に立ち寄って呑み直すなんてことがしばしばあったので、今の家に越してきた当初は近所に馴染みに慣れそうな酒場が極めて少ないことに不安を感じ、不満も述べたくなったものですが、年のせいもあってかわざわざ表の店で呑み直す欲求が治まってしまったようです。それはまあ寂しいことでありますが、家でちょいと呑み足すのもそれはそれでいいものです。でもやはり表で呑みたい。家で呑むのと同じ酒でも違って感じられるのはどうしてだろう。 ともかく西日暮里にいるのだから家ではできぬ呑み方をしたいものだ。もちろん家でだって大抵のものは用意できるし、酒だってコンビニだってぼくの普段表で呑むような酒は手に入る。だけど味が全く違って感じられるんですね。第一、家で呑んだ方がずっと安上がりであります。家でも蕎麦を茹でます。わざわざ手打ちしたりはしないけれどそれでも今は上手い乾麺もあるし、その気になれば十分呑めるけれど敢えてそうはしないのであります。だってすぐに腹一杯になるし、そうすると呑めなくなりますから。例外的に大晦日は蕎麦で呑むけれど、つい旨いに違いないと茹で過ぎでしまうからせっかく腹を空かせて紅白も終わったのにお腹いっぱいになってそれで打ち止めになってしまうのです。だから表の蕎麦屋で呑むのはぼくにとって非常に勇気のいることです。「そば処 瀧乃家」の暖簾をくぐって案外和風モダンな雰囲気に悪くはないなと思いつつも、やはりそばを食っておかねばと腹具合ばかり気になる。そして結局セットメニューを頼んでしまう矛盾したというか出鱈目なところがぼくにはある。セコいからどうしてもお得な品を頼んでしまうのだ。でもまあそれでいいのである。後から来た客で他人丼が食いたいとわがままを言うのがいた。関西に住んでいた者には馴染みがあるが確かに都内ではあまり見かけぬ。あくまでもわがままを通そうとするのがなんとも図々しいが、それも一興であります。 結局お腹が一杯になり、久し振りに「居酒屋 さと」に行きました。ここはどこがどういいとはなかなか言い難いのであるが、確かに酒が濃くて良心的な気がする。肴はいまひとつな気がしないでもないが手頃だからすべては許容範囲なのであります。この酒場は、これから店を出す方にはぜひとも見習っていただきたい美点が多い。いや、一発大儲けを狙う向きには全く参考にはならないかもしれません。ただし、長年通う人たちにとっては間違いなく束の間のオアシスのような場所になるのです。行き場に困る客の足はついつい暗い雑居ビルの階段を登らされる、そんな酒場はやはり独り呑みの孤独者には癒やしの場所なのです。
2017/06/19
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だからと言って、わざわざ足を運ぶとはぼくもそろそろヤキが回ってきたのだろうか。西日暮里の馴染みの店はあすこしかない。仕事上がりにちょいとばかり遠出するには面倒な時間になったので、無闇に歩き回ったりせず大人しくいつもの酒場に向かおうと思っていたのでありました。事実店の前まではすんなりと辿り着けたのです。ところがそこに見慣れぬ新しい店舗があって看板にちょい飲みと書かれているからもう思考は完全にその文字に支配されてしまったのです。 そこが一大チェーンの「日高屋」であったことも恐らく見逃してはいなかったはずなのに、支配された脳では抗うことはできなかったのです。まんまと他愛ない広告戦略に引っかかってしまったわけで、愚かしいことであります。しかも開店したばかりだからかやけに混み合っていて、それほど珍しい店でもあるまいにこぞって押しかける店じゃないだろうと己の体たらくなど顧みずに思ってしまうのでありました。空いた席は窓際のカウンター席の隅っこだけだったのですが、まあここなら長居せずに立ち去り易かろう。安価なこのお店だけれど極力安く上げるために、メニュー片手に熟考する。結局サワーとおつまみ唐揚、餃子3個にしておく。肴としては十分な量であります。しかし背後のサラリーマンからタンメンの麺少なめのオーダーを聞くと、なるほどその手もあったかと地団駄踏む程ではないけれど、してやられたりの感に打ちのめされるのです。ぼくはそれこそあらゆる物を肴とするに苦とせぬ変態的嗜好の持ち主なので、タンメンなんて絶好の酒の肴であります。こうした後悔を糧とすることのできぬのがぼくのうだつが上がらぬ理由なのであります。餃子だって鶏唐揚げだって無論嫌いではないけれど、特別食べたかったわけじゃないのだから、他人の注文が羨ましくってもしょうがないことなのです。そんなもやもやした気持ちで呑むものだから、気分は少しも乗ってこないのでありました。やはりチェーン店の雰囲気はどうも好きにはなれぬようになったらしいのです。 だから結局はお隣の「はやしや」に辿り着くのです。なんの事はないはじめからここにきていればよかったのだ。でも前があったからこそ良く感じられるということもあるものだ。いや安くそこそこ美味しく食べるというのであれば、まあさっきのもありだと思う。だけどあればかりの世の中に鳴るのは耐えきれぬのです。サーモンフライ180円なんて嬉しいじゃないですか、スーパーだったら100円で食べられるじゃないなんて言っちゃいけない。ここのは揚げが強くて味気はないけどそれはそれでいいのですよ。つい数ヶ月前に親しくおしゃべりしたお姉様方は、その時の事など何一つなかったかのようにぼくを無視するけどそれもそれで致し方ないのであります。こちらの案外若い主人とお姉様方二人との確執はまた深まったように思われるけどそんなことは気にする必要はない。客の半数は一人だと思うけれど皆それぞれにここでのひと時を堪能しているように思われるから、他人がとやかく言うことではないのです。最後に一つ、初めてここを訪れようとする方に声を大にして語っておきたいのです。ここの焼物、特にこの日のオススメはなかなか良いですよ。この夜は鳥の軟骨もあったけれど、ボリュームもあるし、何より味がいい。酷いとこはとても食えたもんじゃないというのに何故にこれほど差が出るのだろうか。一頻り串をたぐったあとはポテトフライで十分です。
2017/06/10
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西日暮里に降り立ってみたはいいけれど、はてさてどうしたものか。定番で通う店もないわけじゃないけれどどうもその気分ではない。いや、実は店の前までは行ったのだけれど、立呑展開もする中華チェーンの呑みをメインにしたお店が気になって向かってみたら開店前のバイト面接などの最中でした。そんな浮気めいたことをしてお邪魔しては申し訳無さすぎるといつもの店を見送ってふと振り返ると前からあったのか見知らぬ中華料理店があります。さほど興味のないタイプの中国人経営の安料理店であります。こうした店は得てして味も手頃さもそれなりの満足に足るサービスは提供していると思うのだけれど、店の雰囲気がどこの店に行ってもほとんど似たりよったりで退屈極まりないのが難点なのです。難はありますけど、つい味と手軽さ、特に後者を目当てに立ち寄ることがあります。やがて日本の飲食店はこういったインスタントな造りの中華料理店とインド料理店に取って代わられるのではなかろう。残されるのが家系などの高級ラーメン店とファミレスばかりになってしまうんじゃないだろうかという嫌な想像もあながち的はずれでない気がします。 それなのに来ちゃうんだよな。でき得ることなら日本の昔ながらの町中華にこそ訪れたい気持ちなのでありますが、銀実には通勤途上の通りがかりにはあまり見掛けなくなっていて、むしろ中国人の出している安くてそれなりに本場の味わいの店が主流になっているのだから、前者のような店を見掛けたらなるべく立ち寄るようにしているが銭も胃袋にも限界があります。それも限界が早々にやってくるのだから頼りにならぬのです。だけどまあ時間潰ししなくてはならぬ事情があり、しかもそれなりの時間を潰さねばならぬのだからと、誰に向かってか分からぬけれど言い訳しながら「中華料理 故郷亭」の戸を開けるのでした。うっ、狭っというのが最初に浮かんだ感想でした。いや、2階にも客席があることは分かっちゃいるんですけど、とにかく1階席がカウンターだけでしかも中が厨房になっているんじゃないから何とも視線の置き場がないのです。なので5人が並べば満席のこの狭い空間でみなスマホやタブレット、雑誌に耽ることになります。行儀悪いこと甚だしい。そんな独りがぼくなのでありますが、そうは言ったものの食事のみ取る方はともかくとして、呑みに来た客なら多少は許されるべきと思うのです。時折、スマホやタブレットのみならず雑誌や新聞を眺めるのを禁ずる店があるけれどいらんお世話だと思うのです。そりゃ、音漏れやセルフスペースを必要以上に確保したがる輩は排除されてしかるべきという意見に与するが、控え目でありさえすればとやかく言われる筋合いはないと思うのです。仕事を終えたひと時をリラックスしたいというささやかな楽しみを奪う権利など誰にもないはずです。しかしまあそれも程度を弁えるべきで、外に入店待ちの客がいるのにお代りすることもなく居座るなんて輩は即刻退場を申し渡してもらって構わぬのです。脱線しました。ここも一階は旅館の布団部屋のような疎外されたムードだからつい長居したくなる方が多いようです。水餃子にオトクさは感じられぬが200円のザーサイは盛りも多いからつい長居したくなるから気を付けねばなりません。ちなみに千円の呑兵衛セットがありますが、これはどうもあまり値頃感がないのでくれぐれも引っ掛からぬよう慎重に選んでください。
2017/05/31
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三河島には、きっとまだ何軒もの未知の酒場があるはずだと折にふれ下車し続けてきました。しかしその期待が叶うことはとんとないのであります。我慢強さでは定評のあるぼくであってもーって、言うのは当然嘘、ぼくの本性は怒りっぽいらしいのです、ぼくが激情型で吝嗇という上司に持ちたくないタイプの筆頭ですー、いい加減嫌になるのです。でもまあこころのどこかでは希望を捨てきっていないらしくて、時折ふらりと駅に降り立ち、入りや方向に向かって歩き出すのです。南千住方面と日暮里方面にはもはや通ったことのない道などほぼないはずです。入谷というのは案外にウイークポイントで無論それなりに歩いてはいますが、見落としている道も少なくないはず、そしてこの辺りはよもやこんな住宅街に酒場などあるまいという固定観念を打ち砕かれることがしばしばあったのだから油断ならない。 そんな訳で駅前の通りを南下し始めたらなんの事はない早速見落としていた酒場に遭遇しました。いや見落としていたわけではなさそうです。「居酒屋 三蔵」はどうやらつい最近になってオープンしたお店のようです。店内の様子が伺えぬのはちょっとばかり気掛かりですが、いずれ遠からずお邪魔するのは間違いないのだから今入ってしまっても何の問題があろうか。第一出直すとなると面倒であります。店内はやはり開店したばかりの真新しさで、まあたまにはキレイなお店も悪くはないものだと思ったものです。ただテーブル席ばかりでカウンター席がないのはやや気がかりです。ここはどうも焼鳥だかもつ焼メインの店だから尚更であります。お好きな席をどうぞと言われつい隅っこを選ぶのは日本人の特性か。隅っこについては色々語りたい気もするが前段の独り言コーナーではないのだから先にすすめることにします。店の名から想像される通り、こちらのお店の主人は中国の方らしい。腰も低く態度も大変よろしいのです。ところが後から買い物だかから戻ってこられた奥さんはキツイ人でした。それは語らずに置こう。さて、品書きを眺め始めます。取りあえずは酒の確保もしたし、後はやはりもつ焼なんかを頼むのがよろしかろうと、品書きを眺めどさっぱり見つからないのです。クリップ止を外そうとすると今日はここだけですねとやはり焼物はないのです。なんだか困った店に入ってしまったなと思いながらカツオのタタキのカルパッチョだったかを頼んだら量も多いし味も悪くないのでした。まあまた来るかどうかはともかく悪くなかったなと席を立ち勘定を頼むとどう計算しても300円以上高いじゃないか。言わぬつもりだったけどやはり言ってしまった。吝嗇だからね。その時は激情を抑えたけど今になって蘇ってしまったのでした。 憤慨遣る方無い気持ちを押さえんとひたすら歩きと観察に注意を集めることにします。するとあるもんですね。路地裏のまさか店などあるまいと思う民家の並ぶ退屈そうな中にどれが本当の店名であるか判別が困難な看板混在の物件であります。ここでは暫定的に置き看板に記された「越後屋」と称する事にします。煎餅屋さんみたいななかなか雰囲気のある店名で悪くないのです。さて、店内はというとカウンターに5席ばかり、奥にはちんまりとした小上がりがあるようで、ぼくの入ったときには埋まっていたカウンター席から、顔見知りの夫婦客が来てお一人が合流されました。奥の席は自宅の茶の間のような使われをしているのでしょう。皆さん方顔見知りなのはこういう店では少しも珍しいことではないのですが、ぼくのような闖入者を少しも怪訝とせぬのは有り難いけれどやや人情味に欠けるなと思ったのはほんのひと時でした。とにかく店の方も含めてとんでもなくフレンドリーでおちおち酒を口に運ぶ間が取れぬくらいです。一人しんみりしたい時に来る店じゃないね。この夜は少しもしんみりとしたかった訳じゃないから無論歓迎です。さて、品数も豊富で値段も手頃なこのお店、なかなか良いですよ。女将さんは手際よく肴を用意し、オヤジさんはカウンター席の隅に腰を掛けてーあゝ、この方はご主人だったのねー、酒の注文に応えるという分担ができているようです。なかなか見つけ出すのは困難かと思われますが、こういう人情酒場がお好きな方はぜひ探索してみてはいかがでしょうか。
2017/04/29
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西日暮里駅の周辺にはぽつりぽつりと呑み屋が点在していて、あちこち寄り道してきました。と言ってもいわゆる呑み屋街と呼ばれるような特異かつ普遍的な町並みが形成されている訳ではなく、そもそもが商店街と呼べるほどの規模の商店が密集する区画もごく狭小な範囲に留まっています。これは駅の至近に大きな自動車道路が交錯し、必然的に商業エリアが限定されてしまうことが原因になっているのでまあ仕方のないことなのでしょう。だからというのではないけれど、西日暮里界隈は歩いてみてもあまり面白くない。つい先日、アド街で西日暮里を特集していましたが、これが初登場というのもさほど意外に思えません。この夜の2軒目に訪れたお店もこの放送で登場していて、思わずホンマかいなと口にしてしまいましたが、まあそれは後程に報告することにします。まずは、いきなりタイトルを裏切る大通りに面した焼鳥屋を訪ねることにしました。 実は以前訪れていたようですが、少しも記憶していません。「かしわや なかす」には、3、4年前に来ていたらしいので、きっとこのブログにも記録されているはずですが、わざわざ振り返るような面倒はしません。いつも書いていることですが、覚えてさえいなければ、実際問題としてそれは初訪と同じく初めての体験となるわけですが、そこにトキメキやら期待感を抱くのはパッと見が相当に魅力的であったり、何度も通っているのにその存在すら気付かないでいたとかいう場合なのであって、ここはいかにも今風の洋風居酒屋風の小奇麗な店構えだし、何と言っても幾度となく店の前を通り過ぎて、ちょっと覗き込んだりもしたけれど、結局なかったものと通過するのが決まりとなっていたのでした。まあ実際にはこの夜同様にこの辺りをさすらった挙句に観念して入ったこともありますが、まあそういうお店です。入口付近がテーブル席になっていてそれなりに客は入っています。大概が職場の同僚というか、上司のおぢさんに部下の娘、そして付け足しのお兄さんたちといった構成で、まあ、値段も安くはないが下手なチェーンの居酒屋よりは注文次第では安く済ませられるかもしれぬし、何よりも若い娘が好むであろうとあさはかなおぢさんが考えがちな、まあそういう手合のお店なのです。なんでいかにもぼくの好みではないのですが、それがまあ気の迷いで店選びした場合の末路なのです。奥のカウンター席にはぼく独りです。格言めいた物言いは胡散臭いばかりで避けたいところですか、独り客のいない酒場はぼくの好みの店はないというのはまあ個人的な実感だから間違いではないでしょう。なんてボヤキ優先になるのですが、迷いを引きずったままに店に入ったので、珍しくも刺盛りをオーダーしてしまったのです。まあ値段の割にはちゃんとしてるというのが率直かつ端的な感想です。BGMでは有線なのでしょうか「八月の濡れた砂」が流されていて、独り呑みの孤独がもたらす作用なのか、神経や注意力が過敏になるらしく、やけに身に沁みるのです。その切なくてか細いけれど記憶を揺さぶる効果は、酒よりも勝って感じられます。 もう少し呑むことにしようと、暗く人気のない通りに唐突に出現する「とん喜多」です。ここがどうしたものか、アド街にピンで登場したわけですが、あの番組のランキングにはほとんど意味のないところだけど、時折、こういう地元の人でもなかなか知らなさそうなスポットに目を付ける取材力にはビックリすることがあります。ぼくなんかは地元でこそないけれど、そこそこ西日暮里を利用しているけれど、ここのことは知らなかった、いや知ってはいたとしても認知できていませんでした。実際この店の入るビルがのっぺりとしていて店舗であることを示す看板や庇の出っ張り加減が控えめ過ぎて、普通に通り過ぎると見逃してしまいそうです。この夜はたまたまに道の向こう側から見えたのでわざわざ大きく迂回して物色しにやって来たわけです。でも今のぼくならこの店の前を通ったらきっと躊躇なく立ち寄っていただろうなと思い直すのです。それは店の実力やらを見抜く能力が身に付いたからとか偉そうに語れる話ではありません。なぜ足を止めると言い切れるのか、店先にグラスワイン200円(2杯限定)の記載を見て取ったからです。これは何をさておき立ち寄ることにしましょうか。引き戸を開けると小上がりで店の夫婦が腰を下ろして客の来訪を待ち受けているのは、テレビで見たとおり。店の前でうろうろしている姿は丸見えということです。貼紙一枚で即決して良かったと思うのですが、ぼくの先に店の前で躊躇した挙句に立ち去ったおぢさんと勘違いだけはしてくれるなよと思うのでした。他にお客さんはいません。まずはワインを所望し、肴を見繕うことにします。酒の肴になる品も揃っています。よしよしと串かつにコロッケなど揚げ物づくしのオーダーを珍しく素早く決めると、出てきたのが冷酒用のガラスのぐい呑に入ったワインです。ええっ、こう来たか。暗雲が立ち込め始めます。なら300円のチューハイをチェーサー代わりにチビチビやることにしよう。と思ったらこのチューハイかなり濃い目でむしろワインが口直しみたい。初めから欲をかかずにチューハイにすべきでした。串かつ、コロッケは確かになかなか旨いのです。しかし、キャベツ千切りの少しも添えられず、質実剛健、色味素朴な何となく侘しさを感じるものでした。とまあ、正直なところいい店なのかどうでもいいのか判断を付け難い不可思議なお店でした。再訪の必要があるかも。
2017/03/22
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南千住では何軒かの中華料理店で呑んでいます。山谷に近い店では呑むのに丁度いい肴を出す店も多いのてすが、駅のそばの店は食事寄りなところが多いようで、酒を呑むにはちょっとばかりボリュームが過ぎるということになります。南千住駅から三ノ輪に繋がる何という名だったか、店舗の散漫な商店街があってここにも3軒ほどの中華料理店がありますが、まだ三ノ輪寄りの一軒に入ったきりです。真ん中の店は長いことラーメンを出していて、見た目はごくオーソドックスな品のように見えるけれど何やらネーミングされていて、となるとやはりそれを食わぬわけにはいかぬようです。ラーメンでビールでも一向に構わぬし、大体ぼくは摘めるなら何だって酒の肴にできるし、ことによったら中華スープだろうがコンソメだろうが、ざる蕎麦の汁の残りを蕎麦湯で割ったものでも味噌汁でも充分なのであります。だけれど他にお客さんがいなかったこともあり、ここはまた次にしようと思うに至るのでした。もっとも南千住駅に近い店の様子を見ることにしようか。「中華料理 一力家」にやって来ました。父子連れがこの3軒中ではもっとも年季を混じさせる佇まいの店を中を眺めながら昼から呑むなんて南千住らしいというような感想を漏らしたのを聞き逃すはずもない。その時点でぼくはすでにしてここの客になることを決めたのでした。カウンターの正面で二人のオッサンがビールだけでご機嫌になっていますーこの後勘定するとどちらも2,500円近く掛かっていたから3,4本は呑んだんでしょう、よくビールばかり呑めたもんだー。何れにせよ気兼ねなく呑めるのが確認できたのは有り難い。ぼくも1本ビールをいっておこう。次に来た客もテーブル席に着くやビールと奴を注文していたからね。お付き合いしました。そう、ここでは酒の肴になるよな品もそれなりに揃っているので、重宝だったのですね。夜ここの前を通るといつもオヤジさんと女将さんが恨めしそうに表を見やっている印象があって、そのせいもあって入店が今になってしまいましたが、やはり実際来てみないとわからないですね、オヤジさんは寡黙ですがシャキシャキ手早く調理する姿はカッコイイし、女将さんも表から見た印象とはまるで違っていて愛想がいい。中華丼をもらうことにしました。餡を残し気味にすればそれで十分に飯が食えます。ここの餡には溶き卵が混ざっていて、これがなかなかいいんてすね。餡のコーテイングで飯が冷めにくいのも嬉しい。あんかけ飯でもう一杯もありです。こんなに旨いならもっと早く来ていればよかったな、やはり何事につけ第一印象で決め付けることは良くないですね。大事なことを見落とす事になりかねぬ。そんな当たり前のことを再確認させられた昼呑みなのでした。
2017/03/17
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この夜、ぼくに目を掛けてくれる奇特でお金持ちな方にご馳走になることになりました。年下から奢ってもらうのを潔しとせぬような狭量な魂は持ち合わせておらぬぼくはホイホイとお供を快諾するのでありました。それにしてもこういう事は惨めになるから言いたくないのだけれど、お金に不自由したことのない方というのは、懐具合ばかりじゃなく生き方にも余裕があるものです。己の進退にも関わるような大事があるというのに鷹揚と構えていられるのは羨ましい限りです。ぼくなどは日々の呑み代に戦々恐々という体たらくというのにえらい違いであります。 ともあれ日暮里は初音小路にやって来ました。目指すお店は「谷中の雀」です。行灯型の看板が飾られ雅さを全面に押し出していて、普段のぼくなら尻込みするところですが、今晩は強気なのです。他人の財布をあてにした強気というのもみっともない話ですが、それはこの際問題とはせぬのです。戸を開けるといきなり掘り炬燵風の小上がりになっているのには少しばかり面食らうのです。4人掛けらしいその席にはきっちりテーブルセットされていて、あゝこれは予約で一杯だなと思うと奥から姿を見せるオヤジさんにその思念を鸚鵡返しされました。 ならまあ以前伺って印象の良かった、お向いの「やきとり 鳥真」にお邪魔してみることにしましょう。こちらもそれなりに席は埋まっていて、予約の時間までという制限付きですが、ひとまず一杯呑んで喉の乾きを癒やすことにします。ここの事は以前持ち上げているので、今回はサラリと流すにしても、やっぱりいいなあ。店主はぼくのことなど少しも覚えていないようだけど、そりゃまあ仕方ないさ。お愛想で覚えてもいやしないのに、以前お見えになられた事あられるかしらなんてわざとらしい事を言われるくらいなら、一見のように扱われる方がよっぽど気楽です。ぼくの感想など影響力はないにしても、誤解を招いて、何だよ少しもうまくないじゃないかと告げられるのが悲しいから言っておくと、やっぱりここは旨いです。なんて言っても土地持ち財産持ちのお墨付きだから、ぼくだけの思い込みでないことは確かなようです。 さて、まだ呑み足りませんが次に移らねばならぬ。正直ぼくの全人生を書ける位の選択肢を与えられたのですが、控えめなぼくはもんじゃのお店「よし川」を選択するのです。夕焼けだんだんとか呼ばれるまあ見晴らしが良くて庶民的なムードの商店の連なる谷中銀座商店街ですが、正直あまり興味がないのです。一度来ておけばもう充分という感じ。もう知りきっていたと思っていた勘違いをまたやらかしました。でもこのもんじゃのお店、知っていたとしてもこうして案内でもされぬ限り訪れることはなかったと思います。店内はちょっと広めのテーブルが3卓という狭いお店です。靴を脱ぐのがちょっと煩わしい。壁には隙間のないくらいのサイン色紙が貼られています。大学野球のスター選手らしき人たちのものが大部分のようです。店主のオヤジさんは柔和な笑顔と親切さが魅力的です。そしてオヤジさんの作るというか用意するもんじゃが何ともうまいのであります。自分で味付けする式のもんじゃなので正直、材料の良し悪し位しか差異の生まれる余地はないはずなのに、どうしたことかこのもんじゃがビックリするほど旨いのであります。味付けする式なのだから当然自ら焼くのでありますが、ぼくはそれには手を出さず任せっきりとしました。その焼き方もけして上等なものとは言えぬのに旨いのだからたいしたものであります。しかも一つの量がボリューム満点なので二人で二種類も頂くとたらふくとなります。惜しむらくはお値段が荒川〜足立の子供のおやつ価格ではなかった事です。値段は中央区なのでご注意を。ところがそんなぼくの懐向きの店ではないのに、すぐまた再訪することになるのだからつくづく谷中とは相性が悪いなあ。
2017/03/02
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三ノ輪から古い酒場を一掃されつつあり、もはや立ち寄る理由をほとんど見いだせなくなっている今、どうしてあえて三ノ輪橋までやって来たのだろうか。その理由は紙幅の都合により割愛することにします。なんて、紙幅なんてブログでは無縁で、文字数制限とかの不粋な言い方が似合っています。単に先般読んだ本で紙幅という単語が用いられていたので、忘れぬうちに使ってみたかったのです。若い頃から使ってきた言葉は例外として、単発的に記す勿体ぶった気取った熟語が出てきたらそれはつい今しがた読んだり眺めたりしていた本から引用したものだと思っていただければ概ね間違いないはずです。一体何を書いているのだ、三ノ輪橋から話が遠ざかるばかりなので話を引きずり戻すことにします。そう、たまに荒川線に乗ってダラダラと帰宅することに突如気が向いてそれなら始発から乗車すべきとわざわざやって来たわけであります。 三ノ輪橋電停の脇に餃子のお店がありますね、こんなお店以前からあったかなあ、まあテイクアウトのお店のようだから、気にならなかっただけだろうか。と周辺を散策するもこれといった収穫がない。仕方がないから久し振りに大通りに面した古い大衆食堂にでも行ってみるかと足を進めると、見慣れぬお店がありました。まだ開店したばかりのお店のようです。三ノ輪らしくオヤジたちで店内は充満しています。「定食酒場 すばる」という定食屋らしい雰囲気は微塵も感じられぬお店です。見るからに立ち呑み屋できない。無論それは望むところなのであります。壁に沿ってカウンター席が設けられ、間のスペースには点々と樽が置かれ、それが立ち呑み用のテーブルとなっています。そうそう板橋の価格破壊の立ち呑み店「SHOWA」と似たような席の配置となっています。結構混み合っているので入口付近に辛うじて見つけた席を確保しますが、ここで厄介なのが酒や肴は店の奥まで行って買い求めてこなくてはならぬのです。広いといっても隙間を縫うようにして行くのは面倒だし、荷物も置きっぱなしにするのはやや不安を感じる人もいるんじゃないだろうか。でもまあ安いからそれくらいの不都合は我慢するのだ。焼豚に肉じゃがなんて贅沢な品を手に取り温めてもらいます。後から思ったのは、2品も摘むのだから酒も最低2杯は呑むに違いない。だったらハナから2杯は購入しておくべきだった。まあ、いずれにせよ肉じゃがが思った以上に盛りが良くて都合3回往復することになったのでした。 もう一軒寄っておきたいところだけど、ハテさてどうしたものか。さっき通り過ぎた「手造り餃子の店 いろは 三ノ輪橋店」をよくよく見るとイートインも可能みたいです。だったら荒川線の乗り場から離れるのもかったるいので、ここで呑むことを決めるのに一瞬の迷いもありませんでした。カウンターはわずか3席、2席は通い慣れたようなお二方が根を張っています。まあ自分が座れりゃ文句などない。餃子以外にもそこそこの肴メニューがあるようですが、餃子屋さんだから餃子は食べとかなきゃねえ、なんてわざとしいこと言ってみますが、これまでどれ位そういう無作法を重ねてきたことか。幸いにも専門店を自称するお店で、看板商品など見て見ぬふりを決め込んで呑みに徹してきた悪徳を思い起こしてみると、いまさら取り繕う必要などないのかもしれぬ。けれどまあ餃子ならね。あちこちで餃子を喰ってきましたが、ここで告白してしまうと正直ぼくは餃子ってそんなに興味ないのです。その理由が一つにはそなりに腹が張膨れるということもあるけれど、実際のところそれ程美味いものなのか。銀シャリとの相性はいいと思うけど、酒の肴としてはどんなものだろう。ぼくは酸っぱいのが好きなので酢にビタリと浸して食べるのだけれど、餃子という物体によりマイルドになった酢の味ばかりが際立つように思われます。人によってはそれが醤油だったりラー油だったりする程度の違いしかないように思われるのです。中国式の餃子ならそれ自体にバッチリ味がありますが、日本式だと本体自体にはさして味がないんじゃなかろうか。などと言いながら頻繁に食べているのは好きというより中毒みたいなもの粉もしれません。という感想を覆されるような餃子ではありませんが、今晩もまたよく分からぬうちに食べ終えて、案外満足のゲップなどを漏らしながら荒川線に乗り込むのでした。
2017/02/28
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山谷には行くときは、いつもJR常磐線の南千住駅を利用していて、これが仮に東京メトロの日比谷線を常用としていれば、今よりはずっと足繁く通っていたに違いないはずです。その理由は地図を見れば一目瞭然であります。ご存知のように駅の東側には広大なJR貨物の隅田川駅と日比谷線の車両基地が広がっており、これが山谷への道程における心理的な障壁となっているように感じます。日比谷線の南口はこのエリアに掛かる跨線橋からすぐにあることもあって、これを渡ってしまえばもう泪橋も目と鼻の先とあれば、心の負担も少なくなろうというものです。でも一度訪れてしまえば、やはり案外近いということが再確認できるのであって、立て続けに通うことになるのです。今回はせっかくなので、「大林」を過ぎて「カフェ・バッハ」も越えて、「丸千葉」に向かうかと思わせておいて実はアサヒ会通りの周囲で酒場探しをしてみる気になったのです。 でもここまで来るとすぐにでも呑みたくなるというもの。商店街に足を踏み入れてすぐの「玉ちゃん」にお邪魔することにしました。小さい赤提灯に縄のれんと伝統を踏襲しつつもどことなくモダンなテイストをまとっていて、いまひとつ山谷という町のもたらすイメージとはギャップを感じてしまうのは、おおいに偏見を含んでいるというべきかもしれません。店内もこざっぱりとしていて店主は物静かな方でした。焼鳥数本とコールスローというヘルシーオーダーでこちらも上品にいくことにします。おやおや突出しがありました。もつ煮込みです。普段滅多なことで煮込みは注文しないのですが、お通しであれば量も適度でこれなら文句はありません。通常の注文でもつ煮込みを頼むと、ぼくには少しばかり量が多すぎて、飽きるというより満腹になってしまいます。もつ料理の酒場なら半人前程度のもつ煮込というのはなかなかよいアイデアに思えます。煮込みの豆腐だけとかこんにゃくなんかもよさそうです。って最近似たようなことを書いた気がする。他にお客さんは夫婦連れだけで、しんとした雰囲気でしかもあまり店主が存在をアピールしないこともあり、リラックスした気分に浸れます。特別な店ではないけれど静かに酔いたい時には勝手良く使えそうです。駅から近いとは言えぬので、そうそう行く機会はなさそうですが。
2017/02/14
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泪橋の交差点こそが山谷のへそと言い切ってしまって良いものだろうか。まあ、そう的を外してもいないと思うから良しとします。そこにはかつておっとろしく無法な酒場があったことを聞いてはいるけれど、今はその痕跡はほとんど見て取ることはできない。横断歩道を渡ると未だに入っていない何とも入りにくい中華風の居酒屋があって、その二階はピンクなムードが漂っているが果たしてどんな施設なのか。この周辺の酒場には大抵足を踏み入れてみたが、どこもそれ程には山谷らしさを感じさせてはくれなかった。釜ヶ崎あたりも似たりよったりですが、ここらで呑むおっちゃんたちはカラオケが好みらしくて、カラオケ施設のある居酒屋とスナックのどっち付かずという曖昧なお店が多かった。いやいや山谷に来たのだからいつものあすこに寄らぬわけにはいかぬだろうと、まずは馴染みの店に向かうのでした。 言うまでもない、「大林」なのですが、山谷を訪れるのはもはやここがあるからと言い切ってしまいます。「丸千葉」も確かに良い酒場ではある。だけれども相手が悪すぎる。ぼくにとって酒場とは何かと問われても気の効いた明確な回答は用意できていない。しかし、あえて答えるなら、「大林」のような酒場こそが理想とするところだと答えたとしてもけして後悔はせぬはずです。先日、とある都心の少しだけ気取った町の開店したばかりの酒場の店主が、若い頃はあちこち呑み歩いた、そこにももちろん行ったが二度行ってやめてしまった、もはや行くことはないだろうと語った時点でその酒場とは決別することを決めました。そこは大人だから激昂するなんてことはありませんが、世間の評価とはそんなものなんだろうなあ。旨いと言えるほどの肴があるわけじゃないし、オヤジも馴染まなければ相変わらずの無愛想、この夜も酔っ払いの馬鹿なサラリーマン3人組を一喝して追い出してみせるのだから、嫌いな人は嫌いで仕方がないが、少なくともぼくはそんな人たちと親しくなりたくない。人々の思いとは超絶したところで今宵もまた変わらぬ夜が繰り返されます。卓席の失われた広いスペースには灯油ストーブが置かれ、一抹の寂しさを感じるもののそれでもカウンターの正面や時には天井を眺めるとかつてと少しも変わらぬ景色が視界に収まりこの上なく贅沢な気分に浸れるのでした(入った時には邪魔があって取り損ねて、出た時にも失念、次の店の後に寄るとすでに店は閉まっていました)。 道を渡ると「大倉屋」という店がありますが、物売りの窓から中を見ると、1杯270円の記載があるので、思わず立ち寄ります。何が呑めるのか尋ねたら、けんちん汁とのお答え。酒はないとのこと。う~ん、残念。カウンターの中ではジイサンが大鍋で何やら煮物を掻き混ぜていてそれも酒の肴にはサイコーといった様子でニコニコと誘惑してくるが酒がないんじゃ持て余してしまうことだろう。 なので、大通りに面した屋号の知れぬ酒場に入ることにしました。ここは何度となく歩き過ぎているのにもかかわらず酒場として認知していませんでした。実はたまたまネットで山谷辺りに知らぬ酒場がないか調べていたら、新興のグルメサイトでこの並べに二軒焼鳥屋があるらしい事が判明したのです。しかし、何度も通っているが目にしたことなどないはず。でも写真まで掲載されているのだから、ここ数ヶ月無沙汰する間に開店したのかもしれぬ。といった次第でここらを散策して何度かこの「友」という暖簾に目立たないように記された酒場の店内を暖簾の向こうのガラス戸越しに見ると、コの字のカウンターの良さそうな雰囲気がぼくの心を鷲掴むのです。一人の客もいないと思われた店内には、いかにも山谷のおっさんという3人組と独り客が呑んでいました。この3人組の独りがやけに眼光が鋭いのであります。鋭いというかはっきりと敵意を孕んだ凶暴な視線を浴びせかけてくるのだ。しかし、そんなのには少しも動じた風もなく、他人の事などどこ吹く風と知らぬふりをするくらいの場数は踏んできています。ここで、視線をまともに受け止めてはならない。妙な意地を張ることは若者の町くらいにしておいたほうがいい。ここでは、じいさんたちのほうがずっとカッコ付けでプライドが高いのだ。事実しょーもない事で喧嘩が勃発する現場を何度となく目にしたし、道路の向こうの交番勤務の連中もすぐに止めに駆け付けたりせず暫くやれやれといった表情で、しかし苦笑など浮かべたりもせずあたかも日常の一コマでしかないような冷淡な視線で様子を見守るのです。ところが、このおっさんたち帰る段になってママさんに語るには、亀戸の住民らしい。急いだら亀戸餃子に間に合うぞなんてすっとぼけたこと言ってやがる。取り残された隣のじじいとぼくでありますが、彼氏、こちらの様子をちらちら窺っている。ママさんも適当にあしらっているのを見るとどうも面倒なオヤジらしい。グチャグチャになったポトフが汚らしくも妙に旨そうだけれどなるべく視線を合わさぬようにするのです。煮込みなんかより、クズ野菜でもなんでも放り込んだようなポトフという名の煮物がこの店には似合っていると思うのだけれどそれを頂くのは、また今度にしておこう。
2017/02/08
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日暮里で呑みたいから頻繁に訪れている訳ではありません。新宿、渋谷、池袋のような巨大ターミナルやサラリーマンの町、新橋や神田で呑むのは何だか億劫です。理由は簡単なことです。人でごった返したこれらの町は、喧騒にのしかかられるような窮屈な気分になって憂鬱になるのです。実際には行ってしまっていざ店に入りさえすれば、愉快な酒場も少なくないのですが、疲れた夜に向かうなら日暮里のような退屈なくらいな町のほうが塩梅が良いのです。実際この町は店もそんなになくて行きたい店が少ないのは道理であります。だから新しいお店ができたらひとまず入ってみることになります。 しかし、「笑元」という西日暮里に向かう途中にある酒場はぼくを少しも癒やしてはくれないのでした。いきなり文句をつけるのも新年早々、どうかと思うのですが、この店はいかにも独り客を蔑ろにしていると思うのです。どこがどう蔑ろにしてるかというと、端的にはカウンター席のあまりにもおざなりな造りに惨めな気分になるのです。その狭さは同時に肴を2品頼むと厄介になりそうです。ぼくはまあそれを理由に呑みに徹することができるので、その点は良しとしようか。でも背後すぐにテーブルがあって楽しげな彼らの視線を背中は敏感に察知するしかないのです。僅かに余ったスペースに孤独な客を無理やり陳列して、さらし者にしているように思えてならないのです。いや、これが自意識過剰と思うなら思っていただいても結構です。でもぼく自身似たようなシチュエーションでそのように思ったこともあるし、大体において猫背気味の日本人がカウンター席で呑むと非常にわびしい見た目になるのだし、それが様になるのなんてせいぜい松田優作なんかの映画スターくらいではないか。そして一瞬にして忘れ去られるのでおるけれど、その一瞬感にテーブル席連中は間違いなくください哀れみと蔑みの視線を浴びせるに違いないのであります。だからいくらここが案外お手頃で肴も悪くないとしてもひとりで再訪することはもはやあるまい。まあ、誰かと一緒に来て孤独な客を暖かな視線で眺め倒すことはあるかもしれぬけれど。 だから独りならやはり最初からここにしておけばよかったじゃないか。でも随分とご無沙汰してしまったなあ。「いづみや」は初めて日暮里で呑んだ酒場です。当時は大宮の典型的な大衆酒場と縁のある酒場であるなんてことちっとも知らなかったし、当時の呑み方ではここの真価のひとつ、すなわちは安さに気付かなかったかもしれない。とにかくリーズナブルであることを至上なのだと信じていた愚かなる時代には、食い気を優先して呑みはそれに随伴すると思い込んでいました。バタリと食欲が衰えて初めて酒場は肴を摘むためにあるわけでも人との会話を楽しむためにあるわけでないことに気づいた時、そんな境地に至ってようやく見えてくる酒場の真髄、そしてコチラをはじめとする店の良さに首肯することになるのです。安さのことはもはやどうでもいい、梅割をハムサラダなんかの腹にたまらぬ品でくいくいと空けていくとそのうちに両脇のおっさんたちの拡幅争いなど超越した境地に立てるのであります。店のオバチャンたちの稀に出会う優しい言葉など無礼にならぬ程度に受け流せばいい。昔話など聞き出したところでモノの役にも立たぬ。ひたすら己の酒呑み道を邁進すれば、そう遠くなく浮世のことなど遠い過去の出来事に思えてくるはずです。そしてその更に先に踏み込めば翌朝は、あえて目を覚ます義務からさえ開放されるのだから行かぬ手はないのであります。とまあまたもや脱線しましたが、こちらのお店、やはりいいなあ。また近いうちにきっと訪れること必至です。
2017/01/03
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西日暮里にも散々通って行くべき酒場も限られてきました。でもちょっとした虫の知らせに導かれるままに夜の暗い路地裏をしばし徘徊していると、見慣れぬ新しい居酒屋がありました。最初その店を見たときにはまあ立ち寄るまでもないかななどと思っていたのですが、そこに吸い込まれていくお客を目の当たりにすると、駄目ですね、つい金魚のフンのように後をついていってしまう。さすがに立て続けに入るのは気不味いので二呼吸程の間を取ってすごすごと店に入るのでした。 やって来たのは近頃オープンする居酒屋の典型のような凡庸な構えのお店でした。レジの脇に置かれたショップカードを取ってカウンター席に収まります。テーブル席と掘り炬燵式の小上がりはまだ空きがありますが、その後順次埋まっていきました。店の値段の指標として瓶ビールもしくはホッピー、食堂なら清酒一合などから判断することが多いのですが、毎夜酒場通いをされる方ならだいたい似たようなチェックから呑みをスタートするのではないでしょうか。その中から割のいいホッピーを頼むことにします。酒の種類は己の欲求ではなく、あまねく価格に左右されるのがちょっぴり不自由ではありますが、酒にこだわりはあまりないので一向に構うまい。美味い酒は家で呑むことにしてます。そのほうが合理的です。カードには「炭火大衆酒場 やっとこ 西日暮里店」とあります。なんだ、チェーンかと翌日ネットでチェックすると大塚の他一、二店あるだけのようです。お恥ずかしいことに大塚の店のことはまるで覚えていませんが、一度お邪魔しているようです。届けられたホッピーセット、一目見て思わずウンウンと頷いてしまいます。ご明察通り中身の量が立派なのです。これなら外を使い終えるのに中身をもう一個貰うくらいが丁度加減が良い。チェーン店の中身なんて下手すると計5杯分でも外が余ったりするからこれはいい。肴も充実しています。種類というかお手頃価格の品のことですけど。200円代の品が多いのも嬉しい。頼んだのはチキン南蛮240円也。さすがに利用は少し少なめだけどむしろ独り呑みにはありがたい。青味もないけど致し方ない。ちゃんと揚げたてで肉の味もしっかり残ってるんだから不満などありません。なるほど、駅から少し離れた目立たぬ場所にあるけど混雑するはずだと納得するのでした。 でも最後には「はやしや」に立ち寄らぬわけには行かぬ。まあいけなきゃないけど先日書いた松戸の「上州屋」同様に数少ない定期的に通う店なのです。この広いカウンターで構成された店の雰囲気は、どこにでもあるものではありません。で、あまり語られることはないけれどー語ったこともー、ここのもつ焼や焼鳥はなかなかうまいのであります。何度も来ていて、何度か報告しておりますので、さして語ることも残されてはいませんが、特筆すべき出来事がありました。いやまあこんな事はぼくにとって特別なだけで他の人にとってはどうだっていいことでしょうけど、こちらのあまり愛想のいいとは言えぬお姉さん二人ととうとう親しくお喋りできたのでした。これは全く持って驚くべきことであり、少しばかりこの店の馴染みになった気分にひたれたのでした。
2016/12/28
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健在なりなんて気取ったタイトルにしてしまいましたが、このタイトルでかますということがどうにも照れくさくてどうも決まらない。もともとは備忘録を兼ねてあわよくばアフィリエイトとかいう広告の収入システムがあるとかで、そこで月に一軒分の立ち呑み代くらい稼げればと欲をかいて始めたこのブログですが、アフィリエイトとやらは未だにその仕掛けの仕組み方すら調べもせず、放置しっ放しにしているのだから、このブログを書いている目的の半分すら果たせていない。第一に人のブログなりを見てそこに貼られた広告に手を出すなんてことついぞない自分なので、そんなことをしてお小遣い稼ぎになんぞなるのものかと信頼せぬこともあるのですが、ともかくいづれは物は試しにやってみたいと思っている下心をここに表明しておくことにします。ところで話は変わり、三ノ輪のことに移るのですが、一頃は熱狂的と言っても過言でないくらいに頻繁に足を運んだ三ノ輪ですが、すっかり寂しくなって今では月に1回どころか数か月ご無沙汰してしまうことも多くなりました。その理由は言わずもがなであり、いくら丹念に歩き回ったところで新鮮な光景などどこにも見当たらなくなっているのです。 だから歩きに歩いてみてもたどり着くのは「弁慶」だったりするのです。もちろんこの酒場のこと好きなんですけど、ぼくにはいささか元気が良すぎるんですね。大抵どこの酒場に出向いたところでアウェイ感に包まれるのは一緒なんですが、ここではドクトの疎外感が尻を落ち着けなくさせるのです。そんな自意識過剰の感覚など酒の効果でいかようにもできそうですが、どうも上手くいかない。それは今考えるといくらか近過ぎる若い主人とその母親らしい女将との距離感にあると思われるのです。隣席との距離感は視線が交錯することはあまりないので、互いに気配りさえすれば誤魔化せるものですが、直接視線の交わる店の人との距離感は屋台なんかと近しい家族のような間柄に適切であるようです。ぼくの求める初めての地方都市で呑んだ時のような心地よい疎外感はここにはありません。ここにあるのは徹底して濃密な仲間意識であり、余所者は彼らに背を向けてそっと呑んで足早に立ち去るのがよろしいようです。そういえば、以前あった通りに面したカウンター席や壁面の席はあっただろうか、どうも席としては使われていなかったような。そうだとすれば、ますます敷居が高くなるなあ、ここの串の煮込み時折無性に食べたくなるのですけど。 そんないつも感じる満たされない気分に晒されたならどうしても足はこちらに向いてしまうのです。「中さと」は適度な距離感がまさに地方の裏通りの居酒屋のようでしんみりと呑めるぼくの大好きな酒場の一軒です。酒場というよりは割烹のような立派な構えのお店語見えてくると明かりが灯っているかを賭けをするかのような緊張感をもって祈るようにすがるような視線をそらさずに歩み寄らなくてはならなくなってから随分と日が経ちました。このところ不定期に営業しているのは気のせいで、足繁く通ってみればなんのことはない定期的に休まれているだけかもしれませんが、少なくともぼくの場合は三回に一度くらいしか店に入れていない気がします。ここではいつでも二、三品は摘みたくなる肴があって、日頃肴を決めるのが面倒でもつ焼でいいかなんて、杜撰なことをしてしまうぼくもここでは結構くよくよと迷ってみたりするというお楽しみがあります。ああ、こう書いてるうちに今晩にでも訪れたくなってきたなあ。
2016/10/28
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またもや南インド料理店に行きました。でもこれをもってシリーズ化するかに思われた南インド料理特集も終了となります。多くの皆様にとっては幸いなことと思われます。と書いてしまうと早くも飽きたのかと思われかねぬので一応お断りしておきますが、飽きてしまったなんてことではなくて、かなり本物に近い味を再現することが可能となったというのが正解なのです。そのためにはそれなりに使い慣れぬスパイスに投資することも厭うことはできません。そうは言ってみたものの実はぼくにも第一次自作カレーブームが到来したことがあってナンみたいに胃腸に負担のかかるものではなく、チャパティというパンケーキというよりはむしろタコスの皮みたいなものを作ってもいたのですが、これはどうも南インドの料理には合わないようです。豆と米粉から作るドーサやそのままライスというのが合うのです。この長粒米にもこだわりましたがそれはともかくとして、これにラッサムというコショーとニンニクの香る酸味の強いスープと潰した豆入りの野菜カレーであるサンバルー味噌汁のようなものとよく表現されますが確かに材料はそれに近いけれど風味はまるで別物ーに数種のポリヤルー野菜炒めーやらアチャールー漬物ー、チャツネー風味を変化させる調味料のようなものーをぐちゃぐちゃに混ぜて口に放り込むとそこには、広大なガンジスが広がったりはしませんが、あゝインドの食文化の豊かさを実感するのです。 その手作りの味を確認するために都電荒川線の荒川遊園地前からほど近い、ハデハデして外観が特徴の「なんどり」にやって来ました。こちらは南インド料理に惚れ込んだという見た目は新橋のサラリーマン風の主人が調理に当たります。この日は日曜で基本は休みみたいですが、インド映画の上映会ーお仲間がわざわざ自前で字幕をつけているらしいーがあるとかで、映画談義なども交わしてみたい気もしますが、今は映画よりミールスー南インドの昼定食ーをいただくのが先決。インドのワインとかいうのを嗜みつついただくそれはなんともナチュラルな風味で、健康に良いことがしみじみ感じられるなかなかの品なのでした。でもまんざら自分のサンバルも負けておらぬとますます自信を強くするのですが、こちらのすごいのは週替りでラッサム、サンバルを始めとしたミールスのメニューを見直していることで、このこだわりようを見る限り、スパイスの配合やらに変化を加えているのは当然としてもとにかくヴァリエーションの豊富さはぜひレシピの公開に踏み切って欲しいものです。ドーサなんて発酵を理由に夏しか出さないというのだから腹が座っている。ところでワダー豆の粉で作ったドーナツーも頂きましたが、これが絶品、これまで食べたものでベストであります。これにラッサムとココナツのチャツネをまぶして食べたらもう幸福なのてす。インドとビートルズ好きのおっちゃんには本物以上のインドの血が流れているようてす。
2016/07/20
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三河島から永遠に名酒場「すすや」の灯が消えて、今では痕跡すら留めてはいないのであります。もはや最後の砦は「豚太郎」のみというお寒い酒場事情を余儀なくされる三河島ではありますが、そういえば三河島から入谷方面に向かって歩いたことはあまりないなと思いたち、思ったら行動に足繋がるのがぼくの美徳でもありーなんてことをしゃあしゃあと言ってしまう恥じらいのなさ!ー、無謀さでもあります。そんなわけで一つしかない不便な改札を抜けるとお決まりの信号待ちとなります。グズグズと青に切り替わらぬ信号を早くも苛立ち待ちつつも、視線は見飽きた風景を漫然とトレースします。するとそこにこれまで視界からこぼれ落ちていた文字が飛び込んでくるのだから、たまには立ち止まって町を見つめ直すのも良いものです。 視線が捉えたのは「酒」の一文字であります。細い路地の奥の方にその一文字を見つけたのですが、一見したところの感想はなんとも稚拙で手書き感を恥ずかしげもなく露呈しているものだというものでした。次に思ったのがこれはやはり酒屋なのだろうな、でも果たしてそんなところに酒屋があっただろうか。新規に酒屋を出すのは無謀でしかないしまずありえないよな。それに酒屋さんの看板というのは大抵の場合、プロの手によって堂々たる書体で書かれているものが多いし。これは何だかよく分からんのでとりあえずは近づくことにしよう。これまで歩いたことのなかった道ではありますが、遠巻きにして何度も横目でチェックしていたのでその想像通り民家が続くだけです。でもはの「酒」の店はなんとも嬉しいことに酒場なのでした。淡い期待もあったので驚きこそしなかったもののこの民家にむりくりに呑み屋を付け足したような安普請さは好奇心を激しくくすぐられます。品書も店先に張り出されていてお手頃であることが確認できます。これはもう入店の一手しかありません。カウンターに6席と2人掛けの止まり木席があるだけの狭いお店です。40代位の女性が迎えてくれました。他にお客はいません。ホッピーと稚鮎の天ぷらを注文。やはり呑みのスペースだけを増設して調理は住居の台所を兼用しておられます。味気ないといえばそれまでですが一度眺めてしまうともう所在がなくなり黙々とホッピーを口に運ぶしかありません。やがて調理を終えた店主が戻って来られました。中国の福建省の出身というこの方、昨今のあまりいい印象を持てなくなってしまっている中国人のイメージからは程遠く、控えめで上品ながらお喋りもお好きなようです。内職っぽく始めたこちらのお店、開店からもう一年半経っていたそうです。客層は日本人ばかりで中国人も韓国人もず来ないようです。近場のもつ焼屋によく通われているというので、お聞きすると当然のように先述した2軒もご存知でした。天ぷらというよりフリッターに近い稚鮎など嬉しいねえと言ったら、日本に来てお寿司大好きになりました。故郷では何でも火を通しちゃうから。こんな穏やかな会話をしながら呑めるなんて嬉しいことです。これからもたまに寄せてもらうことにしよう。いつも空いてんですと眉をしかめておられましたが、静かな店であってほしいものです。って書いちゃっておいて矛盾していますけど。「つぼみ」というお店ですが、きっとまだネットには出ていないようなので行かれるようでしたら駅前に立って「酒」の字を探してみてください。
2016/06/16
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三ノ輪というとどうしても都電の三ノ輪橋側が情緒があって、それを取り込むように広がるジョイフル三ノ輪は、ぼくも大好きな商店街でぶらぶら散歩したり、ふらりと路地裏を覗き込むのがなんとも楽しいのです。ただ残念なのは酒場が少ないことで、もしや路地の先に知られざる酒場が潜んではいぬかと幾度も彷徨ってみたのですが、これといった収穫はありません。三ノ輪で呑むなら都電側ではなく大通りが交錯する東京メトロの三ノ輪駅のある一帯に、せいぜい二、三軒が軒を連ねるような長屋こそあるものの、殆どはてんでバラバラに店をやっているのです。そんな繁華街とは呼べぬような三ノ輪ではありますが、いやだからこそ数多の名酒場が生き延びてこれたのでしょうが、それらもここ数年で軒並み店を畳んでしまい足を伸ばす機会も理由もないままになってしまっていたのてした。 それではいかぬと現存する名酒場「中ざと」を訪ねるものの店は暗いままです。やむなく向かったのは、以前から気になっていた古い中華料理店なのでした。泪橋に繋がる通りと吉原に向かう通りが交錯するところにそのお店はあるのですが、この夜は生憎にもお休みのようです。やむを得ないのでそのお隣にある「五穀」という小奇麗な居酒屋さんにお邪魔することにしました。ここも以前からその存在は認識していたのですが、いかにもぼくの好みからは外れているので見てみぬ振りをしていたのです。でもまあ歩き回るのにも飽きたので入ることに決めたのでした。店の前に簡単な品書きがあるのも決断を促してくれるのでした。案外お手頃のようです。でも店に入った瞬間、思わず舌打ちしたくなったのです。一人のお客もいないのでした。今更引くにも引けず観念してカウンター席に腰を下ろします。黒板にオススメの品が書かれており、手の混んだ料理というわけではありませんが、ちょっと気の利いた肴が揃っています。ハタハタの干物があったので焼いてもらうことにします。主人は職人気質な風貌で取っ付き難い印象でしたが、ふとしたキッカケで話し始めるとにこやかな表情を絶やさず、このお店のことをいろいろ聞かせていただいたり、近隣の酒場ことをあまり知らないことなどお聞きしたはずですが、恥ずかしながらあまり覚えていません。さて、焼き上がったハタハタ、ふっくらと柔らかく、あっさりしながらもしっかり濃厚な味わいでとにかく旨い。オスのハタハタだったのですが、独特の食感とネバネバが珍重されるブリッコー魚卵ーをたっぷりとお腹に抱えるメスよりずっと味がいいと認識を改めることになりました。機会があればまたお邪魔してゆっくり主人と語ってみたいと思います。
2016/06/11
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