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日暮里に「喜酔」という酒場があります。実際に目撃したことがあるのか、ネットで情報を目にしたことがあるだけなのか記憶に定かではないのです。でも確かに「喜酔」という文字を日暮里と関連して知っているのであります。なぜそんな話を持ち出したのかというと単に「喜酔」という店名の酒場に訪れたからに他ならない訳なのですが、その酒場はぼくの知っているはずの「喜酔」とは違っているように思えたのだ。グズグズと悩む位であれば調べてしまうのが解決への近道です。早速ネットで調べてみた。すると以下の3軒が表示されました。小料理 喜酔 東京都荒川区西日暮里2-17-10 桑原ビル1F漁酒場 喜酔 東京都荒川区西日暮里2-18-2 イトウビル2F漁酒場 喜酔 2号店 東京都荒川区西日暮里2-40-9 小山ビル1F 今回訪れたのは一番上であります。残りの2軒は地番を見る限りにおいて、ご近所さんであることは間違いないようです。2、3軒目が系列店であることは恐らく決まりですが、じゃあ1軒目はどうなの。然らば一丁ググってみようかなって思ったけど、その手間を掛ける程には興味がないことに気付いたのです。わざわざ調べずともそのうち立ち寄ることもあるでしょう。 ということで、「小料理 喜酔」ですが、店名はなかなか渋いんですけど、店構えはピカピカだったかな。って実は記憶が曖昧なのです。黒っぽい外観で、店内はどこがどうと具体的に指摘するのは困難だけれどカフェバー風っぽかったという印象です。今、改めて写真を見てみたけれど白いスツールがそれらしくみえたのかもしれません。卓上に並ぶのは枝豆、ピザ、クリームコロッケのようです。刺身などのいかにも居酒屋って肴もあったから、場所の雰囲気に流されて洋風の肴を注文してしまったってことかな。ピザはまあ普通に美味しかったけれど、クリームコロッケが久し振りだったこともあってとても美味しく頂いたということが朧気に記憶に残っています。さて、他のお客様たちは皆同じグループの方たちでありまして、会社関係の呑み会のようです。大勢で呑む場合は、こちらを定番の呑み屋にしてるんでしょうね。決まった店で呑むのは、店の方にも融通が利いて重宝する場合もあるけれど、飽き飽きするなどの退屈になる場合もある、つまりは良し悪し両方ってだけのことですね。ともあれ、店主らしき女性もとても感じのいい方だったから、こうした店は店主がいい人であるってことが重要な判断材料となりそうです。
2024/10/28
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地方出身者のぼくにとって、町屋という町はけして好ましい印象を抱けるような町ではありませんでした。というのは、町屋っていうところは、火葬場の町であるという認識があったからです。どうしてほとんど東京に足を踏み入れたこともなかったぼくがそんなことを知っていたのか、それとも実はその知識は都内に住み始めてからのことだったのか、今となっては確信が持てない。ともかくぼくにとっての町屋とはそうした町だったのです。寺田寅彦著『B教授の死』 遺骸は町屋の火葬場で火葬に付して、その翌朝T老教授とN教授と自分と三人で納骨に行った。炉から引き出された灰の中からはかない遺骨をてんでに拾いあつめては純白の陶器の壺に移した。並みはずれに大きな頭蓋骨の中にはまだ燃え切らない脳髄が漆黒なアスファルトのような色をして縮み上がっていた。木村荘八著『「いろは」の五色ガラスについて』 ぼくの父木村荘平(明治三十九年歿、六十七歳)は「いろは」牛肉店の経営だけが、その仕事ではなく、製茶貿易、諸獣屠殺、競馬、火葬場経営等々……いろんな方面に関係のあつたもので、競馬と屠獣の関係で三田四国町を開いたり(明治十二年)、町屋に火葬場を建てたり(明治二十六年)、甜菜の製糖会社であるとか(明治二十一年)、その同じ年まで日本麦酒会社の社長を仕め、蛹を用ゐて機械油を作る計画に与つたり(明治二十三年)、さうだと思ふと羽田の穴守に稲荷を祭ることなど率先してゐる。 は、『私のこと』でもほぼ同様の父親の経歴を記していますが、エッセイ(青空文庫調べ)などを眺めてみても町屋と火葬場は頻繁に語られてきたようです。ぼくは町屋と斎場の関連をこうした文章を通じて知識として蓄えたのかもしれません。その後、町屋の別な側面を知ったのは、酒場巡りを始めた頃のことだったかもしれません。町屋には魅力的な酒場が充実しているとの情報が広く流布されていて、そうした情報を携えてちょくちょく訪れるようになりました。そうするうちにかつての陰惨なイメージも一掃され、むしろ庶民的な下町風のムードに行為を抱くようになりました。 そんな町屋らしい居酒屋に遭遇しました。「呑み喰い処 高畑」です。駅からはそれなりに距離のあるほぼ飲食店を始めとした店舗が影を潜めて、住宅街に切り替わろうとするエリアに位置します。でも町屋の場合はこうした場所にも好ましい酒場があるのがお楽しみなのです。一見すると何の変哲もない民家のような味気ないお店なのです。こうした酒場がこの町の外れには少なくありません。ぼくのような酒場に期待する要素の多くがその佇まいに依存する者にとっては、実のところさほど魅力のないタイプの店ではあるのです。でも町屋の場合はこのタイプのお店こそがこの町の酒場の典型のように思わされることがしばしであるため、つい見逃せなくなり立ち寄ってしまうのです。店内も本格的な居酒屋風情は希薄であります。ただすでに呑まれているお客さんたちの顔がいかにも町屋の人たちなのです。どこがどう町屋なんだと詰め寄られても困るのです。町屋に暮らす人それぞれが町屋顔なんじゃなくて、町屋という町の一軒の酒場に寄り合った時に彼らは一時、町屋顔の人になるという感じでしょうか。だからきっと我々も普段は町屋とは縁も縁もないけれどその時だけは町屋顔の我々だったんだと思うのです。さて、町屋顔の女将さんに数品の肴ととても濃いホッピーをお願いします。濃くて嬉しいと言えるギリギリまでたっぷりの中身がやはり嬉しいのです。肴を用意してくれているらしい方の姿はお見受けしませんでしたが、メヒカリの唐揚げを始めとした料理のいずれもが普通をちょっと上回って美味しいのであります。激ウマの料理でホッピーなどという無粋は避けたいのだ。ホッピーにはほどほどに美味しい位の料理がちょうどいいのです。といった次第でやはり町屋では駅前よりも少し奥地に踏み入った方が楽しいというお話でありました。
2024/10/21
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以前も書いたことがありますが、ぼくは自身の感性をとある身近にいる人物にある不愉快な言葉で総括されたことがあります。そのひと言とは「感傷的」でした。ぼくは他人に対して感情を素直に表現するのを回避したいという気持ちが強く、例えば好きな映画について語る場合でも対外向けの作品選定や評価をもってするなんてことがある訳で、それは嘘ではないけれどあくまでも好きの一面のみを開示しているに過ぎないのです。だからといって先の一面が表面で、後は裏面しかないってことではなくて、いくつもの側面を併せ持っているのですが、そんな面の一つに「感傷的」な側面があることにも自覚的なのです。分かってはいるんだけど、自分でそれを語るのならともかく他人から指摘されるというのは全く別なのだ。普段自分では押し殺せていると思っていたのに実はバレバレであったこと、そしてそれを見透かされいないだろうと思い込んでいたことへの恥じらいに憤るのです。また、そうした憤りを隠しておきたいという気持ちを汲むべきだろうという八つ当たりになるのだ。感傷的な人っていうのは大体において自身について何かしら劣等感を抱いているのだと思います。そうした劣等感を武器にして屈折した感傷を綴った作家に太宰治がいます。例えば、以下の文章の見苦しさを読むとぼくなどは、みっともないと思いつつも共感を覚えるのであります。太宰治著『惜別』(……)東京よ、さらば。選ばれた秀才たちよ、さらば。いよいよお別れとなると、さすがに淋さびしかった。汽車で上野を出発して、日暮里という駅を通過し、その「日暮里」という字が、自分のその時の憂愁にぴったり合って、もう少しで落涙しそうになった。(……) 太宰の感じる憂愁というのは今や名所扱いされている夕焼けだんだんで夕暮れ時に眺める風景が物悲しさやノスタルジーを喚起するのとそう遠くない感情だと思うのだけれど、ぼくの理解する「日の暮れる里」は、この里は日が暮れてからが本領であるという風に理解されます。表向きの感傷とは無縁の表情をこの町は持ち合わせているんじゃないか。実際、以前は余り露骨でなかった客引きや立ちん坊のおねえさんたちが町に溢れかえっていて、憂愁に浸る暇などありはしないのでした。 といった今日の日暮里の風景を形成する重要なファクターとして中国をはじめとしたアジア系を中心とした外国人の存在があるようです。かつてはかなりきわどい商売をしていた店もあって危なっかしい思いをしたこともありますが、近頃は良心的で気軽な店も増えてきました。こちら「紅吉坊 日暮里」もそうしたファーストフードっぽい気楽なお店の一軒です。こちらは写真にもあるように麻婆豆腐がお勧めのお店で、食べてみるとなかなかに美味しいのです。ぼくが自作するものに引けを取らないと書くと語弊があるかもしれませんが、町中華で時折遭遇する酷いシロモノに比するのは失礼な位に本場感がきっちり感じられ、酒が進むいい程度の刺激もあります。多くの客が麻婆豆腐とごはんを食べていますが、案外良かったのが餃子です。こうした本場風のお店の餃子って特に焼きの場合は外れが結構あるものですが、こちらのものは身詰まりが良くて、でもうんざりせずに食べ進めることができるなかなかの仕上がりに思えます。ぼくは餃子が好物って訳ではない割にはよく食べる方だと思うのですが、本当に美味しいと思えるのは10回に一辺程度と思っているので、それで美味しいということはかなりの高評価であるとご理解頂きたい。早速の総括ではありますが、吞みをじっくり楽しむには若干不向きではありますが、待ち合わせに使ったり、ハシゴの途中に立ち寄ったりするには十分なお店であると思えました。
2024/10/13
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どうやらぼくは日常生活を送るのに非常に厄介な問題を抱えているようなのです。幸いなことに現在まで多くのトラベルに見舞われはしてきたものの、それが原因で大きな事故に遭うというような最悪の事態は回避できたようです。しかし、それもこれまでは運よく躱せてこれたまでで、今後もそううまくいくとは限らないのだ。何を言わんとしているのか。何が厄介と言うのか。ひと言で述べるとぼくは空間認識もしくは認識した結果を記憶する能力に欠落が生じている鵜養なのです。つまりは、地図を呼んで覚えたとしても実際に町に出ると地図を辿ることが下手なのです。二次元で表現された情報を三次元的に展開して二次元情報と比較・照合する才能に恵まれなかったようなのです。何だか分かったような間違っているような、だからちっとも賢くないことを書き連ねていますが、要するに方向音痴ということが言いたいだけなのです。方向音痴っていっても東西南北の方角認識に劣っているのはもちろんのこと、目印の立て方が自身の趣味性に依存し過ぎていること(酒場はもちろんのこと、ボロ物件など目印としての寿命が短い場合が多いことは分かっているのです)もあって何度も通った酒場でもご無沙汰してしまうと誤った筋を曲がってしまったりしてすんなりと辿り着くことができなかったりするのです。今回降り立った西日暮里でありますが、この界隈は特に近頃しばしば訪れているにも関わらずやはり目当ての酒場には何度か行ったり来たりする羽目になったのでした。「やきとり 小鳥」もやはり何度か訪れているにも関わらずやはり迷ってしまったんですね。ネットの地図なんかを見てもこんな分かり易そうな場所で迷うってのは、人間として大事な機能のどこかが欠落しているとしか思えないのです。分かり易いはずだから地図を持ち歩くこともしないのだけれど、仮に印刷した地図を持っていたとしてもきっと間違ったんじゃないだろうか。そう思ってしまうのです。なにせ過去数回訪れた際もそうだったんだから間違いない。今度こそは大丈夫だろうと思ったけれど、やはりダメだったからもう今後も間違い続けるものと諦めているのです。確かにこちらにお邪魔するのは数年ぶりだったけれど、それでも何度も他所の店に呑みに行く際に通り過ぎているんだけどなあ。ぼくの知人たちは、ぼくのことを地図を読めない男と認識しているんだと思うのだけれど、どうしたものか決まってぼくがナビゲート役を買って出る、いや買って出ることを要求してくるのです。そんなに文句をぬかす位ならそんな連中と行動を共にしなければいいだけのことだという指摘は至極ごもっともであるけれど、そうした場面以外で特段カチンとくることもないのだから縁を切るということには至らない。加えてこちらが行きたいと思った店はどこだってさほど異論を唱えることなく付き合ってくれるから重宝なのだ(一人でいけばいいというご指摘もあろうけれど、一人だと肴を持て余してしまうようなお店もあるし、逆にあれこれ摘まめたりもするし、また、約束することで不退転の覚悟ができるので出不精なぼくには助けになるのだ)。とまあこの「小鳥」という可愛い名のお店であればそんな後押しなくても来れるんですけどね。にしても焼鳥屋でこの店名はやはり違和感があるのだ。カウンターにはご隠居さんが一人ビールの杯を重ね、奥の座敷では古馴染みがじっくりと腰を据えて呑むといった感じであり、やはりのんびりとしてちょっと好きなお店でありました。
2024/10/06
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町屋という町はどうにも掴みどころのないところがあって、それなりに足を運んでいてそれなりに知っているつもりでいるんですが、よくよく目を凝らしてみると気付かぬうちに微妙に変化していることに気付かされるのです。端的には依然あったお店が変わっていたりするのでありますが、それが思い違いなのか現実に変わったのかがどうも確認をもって判断することができないのです。比較として適切かどうかわからぬけれど、ジャック・フィニイの『盗まれた街』(何度か映画化されていますが、ぼくにはドン・シーゲルの『ボディ・スナッチャー/恐怖の街』がベスト、マンガでは桑田次郎のかなあ(タイトル失念))を想起してしまうのだ。見た目には馴染みある気がするんだけどぼんやりと雰囲気が違っているような漠たる不安に見舞われるのです。日常生活に知らぬうちに他者が忍び込んで町を乗っ取ろうとしているんじゃないか。話を町屋に戻してみると、見た目には従来と変わりないようでありながら、気付かぬうちに似たり寄ったりの酒場で埋め尽くされてしまう、なんてことを感じてしまうのです。酒場なんてものは煎じ詰めると酒と肴を提供し、その場で飲食することができる店っていうだけのものだからもともとが似ているもののはずです。入れ替わりがハコモノはそのままにしてそっと進められているとしたら、ほとんど誰にも悟られることなく人だけの入れ替わりが成功している例もきっとありそうです。厳密にいえば数十年に亘ってずっと変わらぬままにあり続けたような酒場であったとしても少しも変わらぬということは現実にはあり得ないのでありまして、そういった意味では酒場もまた人間と同じなんだろうなあ。 といったことを書いたのは、「立ち呑み 二代目ダルマ」の二代目に引っ掛けようとした意図などはないのでありました。片手間に文章を書いていたらそうなっていたまでのことなのだ。それはともかくとして、この夜はS氏に加えて久々にO氏も含む3名で呑むことになったのだけれど、O氏の到着が遅れるから先に二人でやっておこうとなったのです。そういった長居をしたくない場合には立ち呑みは便利ですからね。ケチな我々の場合、下手に一箇所で呑むと割り勘した際の金額の調整で難儀するということにもなりかねない。かと言って着席の店だと到着時に店を出るまでもたつくことが懸念されます。もう一つ、ここを選んだのは何よりも駅近だからであります。以前から何度も目にしていたので立地の良さはよく知っていました。さて、お客さんの入りは3名ほどとちょっと寂しい気もするけれど、狭いお店なので案外この程度の入りを見込んでいるのかもしれません。店主がガタイのいい人なので、混み合うと室温が上がりそうな印象を受けます。しかも当日の若い客のところに連絡があって、どうも現役力士がやってくるようなのです。その客はタニマチ気分に浸って大物ぶりたいって雰囲気を漂わせています。まあいいんですけどね。この日はまだまだ暑い盛りでありましたので、入れ替わりを理由に我々も引き上げることができそうです。立ち呑みとしてはかなり充実した刺身の盛り合わせを提供してもらえるなど、なかなか頑張ってはいるけれど、立ち呑みとしては幾分強気な価格設定かな。まあ、ぼくにはやはり待合せには悪くないなってタイプのお店に思えました。勘定を済ますとちょうど力士が登場。いきなり遠慮のない肴注文にタニマチくんは大いに満足の表情を浮かべるのでした。
2024/09/30
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三河島駅の改札を抜けて尾竹橋通りを京成本線の駅に向かって進んでいくと何軒かの居酒屋が立ち並んでいるのが目に入ってきます。ここら辺のお店、何が気になるかって、しょっちゅう居抜きで店が変わっていて、入ったことがあるんだったかちっとも覚えられないのです。初めての店ならまあこのブログの肥やしにはなるから良しとして、また、入ったことがある店でも気に入った店だったらそれはそれで構わないのでありますが、少なくともそれなりに気に入っていたとしたらいくらかは記憶に残っているはずです。いやいや、あんた(ぼくのことね)は初めてのつもりで何度も同じ店に入っては愚痴ってるじゃないかって指摘されたらぐうの音も出ないのです。ともあれ、これといった目星もなかったのでブラブラと歩いていたわけです。そしたら赤提灯を発見。ここらで赤提灯を下げた居酒屋は見たことがなかったのでちょっと気になります。でも店名がどうも気に食わない。やきとんの店らしいのだけれど、「29ちゃん」ってあんまりにも安直ではないかい。 といった訳で訪れたのは、「元祖炭火やきとり やきとん29ちゃん」でした。わずかのカウンター席と奥に卓席があるけれど、えらく狭苦しい造りのお店だなあ。雰囲気は嫌いではないけれど、これではキャパがなさすぎじゃないかな。と思ったらどうやら2階席もあるみたいです(未確認です)。お客さんは一人もいません。何となく嫌あな気分になります。新しい店(これも推測に過ぎない)で空いてるのってどうかと思うのです。ともあれサービスのセットを注文です。これは案外お得でないかな。串焼き3本と煮込み、ドリンク2杯で980円はなかなかだと思う。でも店の方に活気ってもんが感じられないんですね。しかも店長らしきおぢさんが何か様子を窺いに来ていたのですが、ちょっと感じが悪かったんだよなあ。これはこのセットだけでさっさと引き上げることにしようと思っていた矢先に嫌味を言いそうなオーナーが来てしまったので帰りにくいったらないのだ。でもこれ以上、浪費する気になれず気持ちを振り絞って勘定を済ませました。出る際に看板を見たら「29」は「にく」ではなく「ふく」だったみたいです。しかも何のことはない「串八珍」の系列だったとは。何だかさらに損した気分になりました。
2024/09/16
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とある土曜日の昼間に日暮里在住の知人から「軽く呑まない、ご馳走するから」とのお誘いを受けました。昔のぼくなら仮に誰かと会うなどの予定があったとしても何とかやり繰りして一目散に駆け付けたものです(ただし1度限りの映画上映の場合は迷いに迷って泣く泣く映画を取ったはずです)。ぼくは何度も言うように極端なぐうたらものですから、インドア生活が理想なのです。歩くのは嫌いではないですけど、願わくば巨大迷宮のような西洋の城なんかを彷徨っていたいと思うのです。人気の疎らなアーケード街や地下街なんかもいいですねえ。って話がそれてしまいましたが、そんな都合のいい話はないから休みの日には読書なんかで引き籠り生活を堪能したいのです。といった次第で若い頃は色気もあったりしてそういう呼び出しには、面倒ではあるけれどそれなりに嬉々として出向いたのですが、今は一日が若い頃より圧倒的に短く感じられるので、うっかり昼呑みなどしようものなら本当に瞬く間に時が過ぎ去るのです。それはそれでその場はいいのだけれど(酒場は大概インドアですから)、でも気付いて目を覚ましてそのまま出勤となるとさすがにゾっとしない。といったようなことをつらつら思っている間に出掛ける準備をしたらいいんですけどね。でも何だかんだとお付き合いすることにしたのでした。 出向いたのは、「日暮里 串まる」。見たとこはごくありふれた今風の居酒屋さんで、貴重な土曜日の昼下がりをここで過ごすというもの抵抗感を抱いた原因ではあります。何度かお邪魔していて悪い印象はないけれど、特段いい印象もなかったんですね。以前は表の立ち呑みコーナーは割引料金となっていたけれど(もっとも3人も並ぶと定員一杯といったキャパではありました)、今はそのシステムもなさそうです(西日暮里の系列店はそもそもそんなシステムはなかったような)。15時に開店だったかな、近頃は土日祝日には開店を早める酒場が増えていますが、ぼくとは違って世間の皆さんは昼呑みがお気に召しておられるようです。需要がなければ供給もないというのが道理ですからきっとそうなのでしょう。こちらも15時の開店前だというのにすでに数名のお客さんが今や遅しと店が開くのを待ち構えています。若い店主らしき人がオープン開始を告げるのですが、あらあら並んでいたのはその方のご家族のようですね。自分の家族に身銭を切らせるというのは余程自信をもって商品を提供されているに違いない、とこれまでの印象を拭い去って、まっさらな気持ちでこの店と対峙しようと思うのです。なんてことは思ってもいなかったわけで、スポンサーさんがお勧めメニューの恐らくぼくならまず注文することのない一串300円以上するサーロインだったかイチボだったかよく分からないけれど高級牛肉の串揚げなどなどを迷うことなくオーダーするのでありました。これを覚えていたのはこれがですねとりわけ美味しかったからでありまして、家族を呼んじゃうような店主がやってる店に関してはお勧めメニューってのは非常に有効かつ信用がおけると思ったのです。そして美味しい物を食べていると当然に酒も進み、時間もどんどん過ぎ去って、やがて飛び込みの知人も参戦して、さらには店も移って昼呑みはいつしか夜吞みとなり果てるのでした。ふう。
2024/08/26
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近頃、やけに西日暮里で呑む機会が増えています。コロナ以前には、お気に入りの「はやしや」に通うため、しばしば立ち寄っていましたが、理由は分からぬけれどとにかくそこがひっそりと閉店して以降は、西日暮里駅で下車することはめっきり少なくなりました。それでもこの駅をヘビーユーズする知人がいて、たまにはご一緒することもあったから全く縁が途絶えたって訳ではなかったけれど、激減したことは間違いないはずです。でも酒場巡りへの意欲の減退が著しいなりにゆるゆる書き継いでいるこのブログを継続してご覧くださっている方なら、むしろ近頃は西日暮里を大いに気に入っていると感じられるかもしれません。実際に新規オープンのお店にもお邪魔していたりします。でも何度か登場願っているそば屋さんはちょくちょくお邪魔しているけれど、基本的には改めてもう一回って思える酒場はそうはないのです。一度行っておけばいいかなって程度ですね。それを言いだすと多くの町が再訪に値しないとぼくが感じる酒場が大部分だからことさらに西日暮里に限ったことではないのだろうなあとも思うのです。でも先日、実に8年ぶりに訪れた酒場が記憶していたよりずっと感じの良いお店だったということが判明したのです。どういう理由から8年振りに訪れようと思ったのか、その理由は極めて退屈で、たびたび登場のO氏がやはり久々に立ち寄ってみたらとても良かったとの報告があったからなのです。 道灌山通り沿いを駅西側方面に進むとご存じ開成学園があるんですが、それを通り越してすぐに「とり花」はあります。前回お邪魔した際にはまだそう古い酒場に思えなかったのですが、改めてよくよく観察すると結構古びた印象に変わっています。8年という歳月が如実に反映されただけなのかぼくの加齢がもたらす感受性の変化が原因なのかは定かではありません。でも店内の印象はぼくの印象の変化などではなく明らかに経年劣化を被っているように感じられました。女将さんの印象も以前よりぐっとマイルドになっていたような気がします。でも数多いアレンジ料理の品書きとそのお手頃価格は変わっていません。当時、あんまりお手頃ではないなあと感じてその後、縁が切れてしまっていたのですが、少なくとも現在の相場と比べると変わらず頑張ってくれているということはいえそうです。こちらの肴は、店のムードが予想させる典型的な居酒屋メニューとは一線を画していて通り一遍の品よりむしろちょっと手の込んだものが数多いから日頃、正統派の酒場を好んで利用される方にむしろ支持されるんじゃないかなあ。ぼくなんかもそうあれこれは頼めないけれど、気になる品がたくさんで目移りしてしまうのでした。最近、決まりきった酒場で呑むことが多いから、週に一度交えてもいいかもしれないなあなんて思ったりするのでした。しかし、実際にはあれから早くも2カ月が経過。それほど気に入ったのならすでに再訪しているかとお思いかもしれませんが、実のところはそれっきりになってしまっているのです。
2024/08/25
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書くこともないのでこの夜訪れたそば屋のある通りについて、蘊蓄を述べることにします。この通りの名前は、冠新道といいます。なかなかに風情のあるいわくありげな感じで、ずっと気になりつつも怠惰ゆえに調べることもせぬままとなっていたのです(余談ですが、こうして日々何某かの文章を書くことがきっかけとなり、かねてからの疑問の解決に繋がることがあります)。実は、冠新道の「冠」は江戸時代に新堀村の名主を務めた冠家の名字にあやかっているそうです。大地主であった冠権四郎氏が自身の所有地を区画整理し、冠町と名付ける同時に、新設した道路を冠新道と命名したのでした。と分かってみると案外面白くもない答えが明るみに出たのでありますが、それでも知らずに悶々としているよりは余程いい。とさも自らが汗水垂らして郷土史を掘り起こしたような書きっぷりとなりましたが、実は以下の資料によっているだけのことなのです。荒川ふるさと文化館だよりhttps://www.city.arakawa.tokyo.jp/a016/bunkageijutsu/furusato/dayori.html こちらの第2号により詳細な記述があるので興味ある方は一読されるのもよろしいかと。とかく歴史というのは大文字で記された歴史に視線は向きがちですが、ぼくにはこうした地に足のついた身近な歴史がとても大事に思えます。図書館なんかには、大文字の歴史には残されることのない記述が含まれる資料やそれらを参照して執筆された市井の研究者たちの業績が郷土資料として保管されていますが、そうしたささやかな成果は大学などの研究機関では行き届かない重要な財産として永く残され人目に触れていくことを願うのです。 とまあ、もっともらしい感想を述べたところで、もう何度も書いていてこれ以上書くこともなさそうな「蕎麦吉里 童心舎」について、書くことにします。と今年の冬場に集中的に訪れたこちらですが、この日を境にパッタリ訪れる機会を逸してしまいました。近頃、こちら方面で呑むことの多い方と呑む機会が減っているのです。嫌われてしまったのかしら。それはともかく、何か書いておくことはないかと写真を見返してみたら、おお、すっかり失念していましたが、重要なことがありました。美味しいそば屋というのは、当然そばも美味しいけれど、そば湯も実に旨いものです。酒を呑ますそば屋の半分程度では焼酎のそば湯割りという他の飲食業界ではまずお目に掛かることのできないメニューが用意されています。身体に良さそうだし、そんなことより何よりもまったりと甘くて風味が良いのでぼくも大いに好んで頼むことが多いのですが、不思議とこちらで呑むのは初めてなのでした。そば湯割りとなると湯と付くこともあって熱々の焼酎割りであるのが定番ですが、こちらは何と冷たいそば湯(?)割りが存在するのです。そば湯が覚めるとそば粉が澱の様にデロデロになってしまうという印象がありますが、こちらのはさらりと舌触りもサラリとしていて実に上品で美味しいのです。焼酎の嫌味さをまったりと包み込んでくれてついつい呑み過ぎてしまいそうな危険な美味しさです。いやはやこんなに旨いなら早く勧めてくれたら良かったのにと、田端の立ち呑み屋のセミレギュラーである息子さんについ毒づいてしまうのです。にしてもこちらはそばも美味しいけれど、肴もどれもとてもいいのだ。外れがない。ご一緒した方は大の卵好きで、あれば大概玉子焼きを頼んじゃうんですが、ぼくはいい加減に呑んでからの玉子焼きはどうも胃に重く感じられて苦手なのですが、ここのはペロリと食べてしまいます。また、ここはそば屋の定番の鴨焼きもいいけれど、若鶏だって遜色のない美味しさなのです。ぼくの自宅の近所に数年前までお気に入りの酒が呑めるそば屋がありましたが、店を畳んでしまいました。叶う事ならこちらのお店、うちの近所に動いてきてくれないかなあ。老後のたまの愉しみに通えたら僥倖なんだけどなあ。
2024/08/18
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日本から四季が失われつつあるのは、事実かどうかはともかく実感として受け止めざるを得ないところです。そもそも四季というものがきっちりと定義付けできるものではないのであって、その曖昧となることはぼくがたどたどしい言葉でくどくどと語ってみるまでもないことです。でもぼくが子供の頃には確かに春なら春、夏なら夏、秋なら秋、冬なら冬って感じられる期間が確かにあったように思うのです。でも今では、夏と冬ばっかりで春と秋はあるかないかってな具合で、近頃は今年はなかったなんて思うこともあったりします。でも子供の頃には、春秋よりも夏冬が圧倒的に好きでした。そしてそれが望み通りとなったのだから本来であればぼくは喜ぶべき状況のはずなのだ。と書きはしたけれど、お察しのとおりちっとも喜べてはいないのです。現代の夏がぼくの子供時代の夏であれば喜んでいたかもしれません。当時の夏は今の夏に比べるとせいぜいが爽やかさを留める初夏の陽気でしかなかったと思えるのだ。だとすれば現代の酷暑を経験しているぼくには、むしろ当時の夏は物足りなく思えて、それこそこれは夏ではなかったと感じてしまうのかもしれません。結局、人(自分が人を代表しているような書き方は品がよろしくないけれど)なんてのは、いつだって現状に不満を抱いてしまう生き物なんだろうなあってみっともない結論に至るのでありました。 四季のことを語ったのは、一応今回お邪魔した「四海春」に引っ掛けたからなのです。不勉強というか無教養なのでこの語の意味どころかこういう熟語があることすら知らなかったのですが、ネットで見ると「海山すべてのものが春の足音をたたえていること」とのこと。となると「四」というのは「山」を意味する語なのかねえと思わぬでもないけれど、それは違っている気がします。ともあれ何やらおめでたい言葉だから店名にしてみましたってところなのでしょう。広くはないけれど、上品でもうちょっと飾れば高級中華屋風な印象にもなりそうなお店でありました。この夜はシミタレオヤジが一緒だったので、このセミ高級路線のお店では2人で1品の注文となりそうで、厚顔無恥を決め込みましたが、幸いにも牛肉のオイスターソース炒めと餃子の2品を頼んでいました。この前者の料理については、彼には思い入れがあったようです。彼が若かりし頃にアメリカ(確かシカゴだったかなあ)に留学していたそうで、そこの中華料理店でよく頼んだ品だったようです。この人、事あるごとに自分や家族の自慢話を話題として投入してくる人で近頃はさすがに自慢ネタも一巡りしたのでさほどイラっとすることもなく聞き流すことができましたし、自慢ネタを繰り出すため料理を注文してくれるのならばいくらだって自慢話にも付き合おうってものです。ただでさえ旨味の強い牛肉に危険な量の旨味成分を含有しているように思えるオイスターソースを掛け合わせたら、いかにもくどくなるんじゃなかろうか。実際、パーティメニューなどでこの料理は定番となっていますが、味が濃厚過ぎてくどく感じられしかも冷め切っていることがほとんどだからより一層にいい印象を持てずにいたのです。でもここのはちゃんとしてます。ちゃんと作って熱々のうちに食べたら美味しいものだなあ。でもこの料理、その気になれば自分でも簡単に作れそうって思うのは間違いだろうか。餃子を食べてみるとこれが素人ではなかなか至れないレベルのかなり本気の餃子だったことを思うと、きっと牛肉炒めも仕上がりが雲泥の差になりそうだと考え直すのでした。
2024/08/04
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記憶というのは不可思議なもので(別に記憶ばかりが不思議な訳じゃなくて、世の中不思議なことばかりなんですけど)、子供の頃のことはやけに鮮明に覚えているのに、つい最近の出来事は昨夜の食事などすっかり忘れてしまっているなんてことが生じます。単なる脳細胞の老化に過ぎないのかもしれません。と凡庸極まりない前振りをしてしまったことを後悔しつつも挫折することなく書き継ぐことにしますが、要は今回初めて訪れた(それもつい数日前の事)居酒屋のことをほとんど失念してしまっている現状を述べたかっただけなのです。と言って何から何まで忘れてしまうということでもないのであって、こうして書いているうちに記憶も断片的に蘇っては来ているのです。とここで中断せざるを得なくなったのですが、読み返しながらあまりの退屈さに嫌気が差したので、相当に唐突ではありますが、本題に入ることにします。 さて、今回お邪魔したのは、「居酒屋 三蔵」です。西日暮里には何度も訪れて呑んでいるけれど、よく道を間違います。地図を頭に叩き込んでみようとしても何故か間違った方向へ進路を向けているということが少なからずあるのです。そんなに複雑な地理でもないんですけどね。そんな場合は下手に記憶に頼らず、本能に従う方が上手く目的地に辿り着ける場合があるものです。ただし、今回に関しては本能に狂いが生じたようです。というか本当は狙っていたお店を目指したもののその店の位置を失念してしまい(普段なら思い出そうという意図がなくても湧いて出てくる暗証番号なんかが、突然にどうしたって思い出せなくなる場合と似ていました)、ならば目について酒場ならどこだっていいやといういい加減な態度でこのお店を選んだのでした。思い出したと言えばこの酒場の店名は忘れませんでした。にしても三蔵とは思い切ったネーミングとしたものです。入るとすぐにカウンター席に通されたのですが、この際に店のご夫婦らしきお二方は中国の方と察しました。品書きを見る限りでは中国風の何かがある訳じゃないのです。ホッピーに焼鳥盛合せ、揚げチーズ(この日、お勧めはカマンベールの揚げたのがあったようですが、すでに売切れ)を注文します。どちらもあくまでも普通の品物でした。これだけ普通だと逆に「普通」であることが特徴に思えてくるのでした。
2024/07/14
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西日暮里駅周辺の呑み屋には、余り好ましい印象はありませんでした。以前好きな酒場があったのですが、そこが閉店して以降は一人で立ち寄る店は皆無となりました。その状況は今でも変わらないのですが、最近になって従来までの西日暮里に対する見方に変化が生じてきました。それはこのブログを読み継いでいただけている方であれば感じ取っていただけているかもしれません。結論を言えば、一人で訪れるような酒場には事欠くけれど、2名もしくはそれ以上の人数で訪れてそれなりの金額さえ支払える状況にあれば、それに見合う程度のちょっといい酒場が少なからず存在するのです。店の種別も多様でありますが、特に魚介系居酒屋の優良店が思いの外に多く存在していると思うのです。ぼくは普段呑みに行く際には肴の良し悪しなんかにはさほど頓着しません。でもこの人と一緒ならきっと美味しい物が卓上に並ぶだろうと想像してしまうと途端に気分がグルメモードに切り替わるのです。昨日、宴会なんかで一定時間の拘束を強いられて食べるペースが落ちると案外たくさん食べられるみたいなんてことを書いたばかりですが、どうもそうではないみたいな気がしてきました。店に入るまでに旨いものを食うんだって心に決めておけば瞬時にたくさん食べて呑める人に変貌するみたいなのです。何事も気持ち次第ってことなのかもしれません。 この夜お邪魔したのは、「いざかや 漁火」です。ぼくが仮にここを大いに気に入っていたとしても毎晩通うには元手が足りないので、せいぜい月に一度通えるかどうかでありましょう。そうしたお店が西日暮里には多いってことなのかもしれません。値段もそうですが、魚介系、特に刺身などの生の魚介ってのは、続けて食べるといくら好きでもウンザリするもので(とはいえ本当に好きな人は毎日食べても平気みたいですね、ぼくもある時期にはそんな魚好きに誘われて毎晩のように寿司屋に連れて行かれた時期があります)、さらには同じ鮪を食べても同じ店だと嫌気が差すのが早いように思われます。同じ刺身でも目利き次第や腕次第で差異がかなりあるということのようです。さて、こちらはそういった定番料理に加えて、ちょっとだけシャレた和食アレンジ料理の品揃えもそれなりに充実しています。自分でも作れそうだけど、自分で食材を調達して調理するにはいくら何でも量が多過ぎたりして買い求めるのに躊躇するような食材を使用した料理などもあるので、そういったのを食べるのは実に楽しいものです。世の中にはちょっぴりだけ食べたい物は実にたくさん存在するはずなのです。でもそういった食材をちょっぴりだけで販売してしまうとお得様の飲食店の売上げに悪影響を及ぼすから一口サイズはあまり普及しないんじゃないかなあ。とこの店とは無関係なことばかり書いているけれど、そういったちょっと気の利いた食材があるからだろうと思うのですが、ここは女性客の支持を得ているようなのです。客の半数以上は女性じゃなかろうか。店の方たちに特別のイケメンはいなさそうだから恐らくそうなんじゃないかと思うのです。
2024/07/08
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日暮里駅の巨大タワーマンションの1階にとあるお店があります。そこの店名が「京の華」。この店のことを知らぬ方がこの店がどういう店であるか言い当てるのは困難だと思われます。「京の華」という文字面からするに京都にある華やかな何かしらであると想像されます。実際ネットを検索すると日本酒、和菓子、漬物、味噌などに加えて多肉植物や住宅型有料老人ホームなんかも引っ掛かってきます。老人ホームは何だかよく分からんけれど、先の食材は確かに「京」という言葉が想起させる日本的なものだったりするし、出来映え次第では「華」やかさも感じさせることもあるだろうと思うのです。多肉植物の実物写真を見たけれど、ぼくはそこに日本的な何某かを見出すことはできなかったし、「華」やかというよりは猛々しさを感じてしまいました。人によっては、日本的で「華」やかな植物に感じられるのかもしれません。にしても「京の華」という言葉はどうしてこうも頻出するのだろうか。もしや例えば「京の華」と呼ばれた芸妓さんが存在していたんじゃないか、などといった妄想も膨らもうというものですが、ざっくりと調べた限りそのような事実はなさそうです。一体いつ頃から「京の華」なう不可解な言葉が日本人にとってさほど違和感なく膾炙されていったのか気になるところです。 さて、東京都台東区の日暮里にあっては、「京の華」は中華屋さんになるのです。黄色い派手な看板に赤字で店名、青地で手打拉麺と焼小籠包を記しているから売りの商品は明白です。店内はファミレスよりはカジュアルでフードコートよりは開放度が低いといった感じで、つまりはファーストフード店そのものといったお店なのです。なのにメニューを眺めると少々強気な感じの価格帯であるからよく分からない。話を戻すが、中華屋さんほど「京の華」に似付かわしからざる店名はそう存在しないんじゃないだろうか。もしかするとインバウンド客を見込んでいるのだろうか。「京」の字は「京都」でインバウンド客にも馴染みがありそうだし、「華」は読めずともシンメトリーなイメージが漢字を知らぬ人の目にもどこか華憐に映っても不思議ではない気もする。でもそれにしたって「手打拉麺」や「焼小籠包」にせめて英語を併記しても良さそうなものだが、そうした工夫は見られないのです。店の方に伺えば良さそうなものですが、生憎我々の司会に届く従業員の方たちは余り日本語が達者ではなさそうです。ならば店名など気にせず大いに呑み、食を堪能すべきです。ということで同行者が一挙に大量の点心系を注文。メニューを眺めた際に一品料理を見逃して点心とラーメンが大部分を占めていると思い込んでしまったようです。慌てて頼んだのがエビチリだったのですが、色味が茶色がかってしまったなあ。こちらのお店、店の雰囲気などぼくには難も多い気がしますが、恐らく味が良いということでネットでも評価が高いようなんですが、確かにいずれも美味しい。けれど例えば小籠包は焼きじゃない方がきっともっと美味しいだろうと思ったり、気になる点もあります。といかにも初めて訪れたかのような書きようですが、実は10年近く前にも来たことがあったようです。その時も店名に難癖など付けたんだろうか。ちなみに京都には「京の華」を掲げるたこ焼き店も存在するようです。
2024/06/30
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偏見かもしれませんが、イタリア料理ってわざわざ外食するまでもないんじゃないの、なんてことを思うことがあります。無論、そこそこ高級店って感じのお店以上のランクになると修行もしたことのないシロウトが真似できない料理が提供されるけれど、手頃な価格帯のお店の料理は似たようなものを家庭でも作れると思っているし、むしろもっと美味しく作れたりもするんじゃないかって気もするのです。でもシロウト料理というのは、時々で仕上がりにムラが出たりしてしまうものですが、プロの料理は「サイゼリヤ」のような安いファミレスイタリアンでもいつもほぼ同じ味を提供することができるって辺りに違いがあるのかもしれません。しかしまあ概ねの場合、自分で作っても遜色のない程度の味には持っていけるものです。ただし、手間の掛かる料理、例えばラザニアなんてのは結構大変です。ミートソースとベシャメルソースの両方を作るだけでそれなりの時間を要するし、ラザニアを茹でたりオーブンで焼いたりするといった手間も含めるとソースは別々なタイミングで多めに作って冷凍するなどの工夫をしないとそうそう作る気にはなりません。その点、店では両方のソースを大量に作って大量に使い切ることができます。そういう意味では生パスタやピザ生地なんかも少量をいちいち作るのは非常に面倒ですが、まとめて大量に作って使っちゃえばいいのだから店に分があるのは当然です。だから外食ではこういう家で作れなくはないけれど、そうそう作ることのできない料理を食べることになるのです。 タワーマンションの1階にある真新しい「ピアンタ(PiaNta) 日暮里店」は、ファミレス風の気軽な雰囲気のお店でありながら、明るいバルみたいなムードも悪くありません。まあぼく好みとはちょっと違うんですけど。むしろ女子好みしそうな雰囲気というとこれまた偏見と謗られかねませんが、実際に店内は女性だらけ。今時、女子会という言葉は死語かもしれませんがそんな女性たちで店はびっしりで入店を少し待たされてしまうほどでした。実は今回、同伴した人が突如、ピザが食べたいと言い出したので立ち寄ったのですが、この人はかつて寿司屋で酒だけを注文して結局寿司を頼まず追い出された(ぼくも一緒でした)という過去があるのです。しばらくして通されたのですが、周囲は女性ばかり、店の方も女性ばかりとこれはこれで非常に楽しい気分であります。ここで恥ずかしい注文はよしてよと思うのですが、案の定、ピザ1枚とグラスワイン2杯だけを告げると黙り込んでしまうのでした。いくら何でもと思ったのでそっとオリーブを追加します。周囲のお客さんたちは我々のことはあまり気にしていないようですが、店の方たちの視線は冷ややかに感じられるのです。でもまあ、彼女たちもさほど気にはしていないのかもしれません。個人店でもそこそこの規模があって従業員も多い店では、ここの従業員は客単価がどうとかをそんなに意識していないのかもしれません。ピザはまずまず美味しかった。まあ、まずいピザってのは最近とんと出逢わなくなりましたけど。2人で1枚のピザだとあっという間になくなります。でもこれで出るのは気が引けるのでワインをお代わりしましたが、相方は早く次行きたいって様子を隠そうともしないのでした。何だかつまみ1品酒2杯程度で済ますスタイルがなぜか評判がいいらしいとあるマンガを思わせます。困った人だと思うけれど、年のせいにはしたくないけれど恥ずかしいという感情が希薄になっているんじゃないか。とこれまでピザと書いてきたけれど、これだって十分オッサンだなあなんて思わないでもないのです。
2024/06/10
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基本的にぼくは飽きっぽいのです。特に同じ食べものが連続するとうんざりしてしまい、そのせいで数カ月や数年単位で食べられなくなるなんてことがあるのです(実のところはカレーライスとラーメンであればほとんど毎日食べたって飽きないと思うんですけど。さすがに3食すべてがカレーかラーメンっていうのはちょっと無理かもしれませんけど)。だから家で食べる食事は余程に忙しいとか疲労困憊しているとかでない限りはできれば毎回違ったレシピが必要になるのです。無論、手間の掛かる料理や食材を揃えるのが難しいものなんてのもできれば避けたい。時間と予算がある場合であれば、そうした料理を作るのはたまになら構わないのですが、できれば短時間に冷蔵庫に常備したものだけで作れるのが理想です。そしてそうした意向にそった料理を30種類位はマスターして、レシピなど参照せずとも作れるようになるなら,今後はその30種類をルーティンで作ればいいだけです。月に1度食べる程度であればそうそう飽きないでしょうし。とまあ、普段の食事はマンネリを嫌う癖に外での吞みに関しては肴にさほどの拘りはないのです(というか一人だったり立ち呑みではあまりつままない)。コレクター根性の抜け切らないぼくは、居酒屋巡りをスタートした当初こそ、ほぼ毎晩のように数軒の未訪店を訪ねることを日課としていたけれど、今ではそうした欲求も収まりつつあるのはやはり以前以上に飽きっぽいことの証左なのでしょうか。それとも同じ立ち呑みで呑み続けて平気なのは案外まだまだ飽きっぽいという次元には至っていないのだろうか。 でもしっかり呑みもするけれど、むしろ食に向けての欲望を満たすことを目的とする機会がたまにあります。すでに長々と書いたように食に対しては確実に飽きっぽくなっているのでそうしたタイプの店に繰り返し訪れることは極めて稀なのです。せいぜい数カ月に1度訪れるか訪れぬかといった程度。でも西日暮里の「蕎麦吉里 童心舎」にはこのところ月1回以上のペースで通っているのでした。それは普段の独り呑みや仲間呑みとは違ったオフィシャルとまではいえぬまでもそこそこちゃんとした呑み会の機会があったからというのが理由の一端を占めているのだけれど、店選びを任されている身としては選択肢は無数にあったはずなのだから,やはりぼくもかなり気に入っているということなのだ。なんといってもここはそばが旨い。もっと上等なそばもきっとあるんだろうけれど、値段と質のバランスが格段に優れていると思うのです。肴も余技で作っているとは思えないほどだし(欲を言えば日替わりの品が1、2品あるとなお嬉しい。)、酒も種類こそ少ないけれどお手頃で気が利いてるのだ。そして店も混みもせず空きもせず、程よくお客さんが入っていて、皆さん実に品よく過ごしておられる(実はこの後に訪れた際にとんでもなく嫌な客もいたことがあるのだけれど、奴らは恐らく一見客であります)。雰囲気はまあ普通の小奇麗なそば屋の構えでありますが、快適であることは言うまでもないのです。そして近頃こちらで重視しているのが店の方たちの人柄にあります。主人の姿はほとんど目にすることはないけれど、奥さんはテキパキして気分がいいし、息子さんはいつもニコやかで愛想も抜群にいいのです(実は、この彼と昨日、店の外の某呑み屋で遭遇したのですが、彼の多面性を目撃するに至ったのです)。これからもちょっとした集まりがあったらまた訪れたいと思える使い勝手のとてもいい大好きなお店になりつつあります。
2024/05/27
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ファーストドリンクが安いって売り文句につられるなんて、我が事ながらさもしいなあと思ったりもする。よくよく考えるまでもなく、1杯目がそこそこ安くても2杯で打ち止めできるようなまだしもさすがにそれじゃ済まないから、元値を確認位はしておくべきなんでしょう。一軒2杯のルールで呑み歩くなんてことができれば、そこそこ安上がりで済むだろうし、数多くの酒場をハシゴしてこういうブログなんかのネタに困ったりすることもないのでしょうが、最近は呑み出すと億劫になって動くのがかったるくなってくるんですね。寡黙なOLさんが仕事上がりに美味しい肴と酒でチビチビやるってマンガがありますが、あんなにケチ臭い呑み方されると店側も迷惑なんじゃないかなあ。でもそんなのがテレビドラマ化されたみたいだから分からないものです。とか言ってぼくも一人だと肴はほとんどいらない方で、思い出してみると昨夜もお通しちょっぴりと軽い揚げ物と乾きもの程度で6杯吞んでいるから似たようなものかもしれないけど。でもまあ酒が稼ぎどころという話も聞くから6杯吞めばまあいいところなんじゃないかと。ともあれ、ファーストドリンク無料のお店だっていくらでもあることを考えると撒き餌としては店側にとっては手軽なやり口でしょうけど、ぼくのように簡単に引っ掛かる客がいるってことは結構な効果が期待できるもののようです。「居酒屋 待家」に入りました。店名については、特に何も申し上げるまい。店の男女どちらからも笑顔はなく、いらっしゃいもなかったように記憶します。席を指してくれたから全くの無口だったということはなかったはずですが、第一印象は余り芳しいものではありませんでした。いまさっきネットで確認したら店主の満面の笑顔の写真を見掛けることができたから、この日はたまたまご機嫌が芳しくなかっただけだったのかもしれません。何か嫌なことでもあったのかねえ。こうなると実際はともかくとして何もかもが不愉快に思えてくるものです。二人が店の奥で交わしている言葉が何やら我々に対する悪口なんじゃないかと疑心暗鬼となり、こんなんだから他にお客がいないんだよなんて思ったりもするのです。今、冷静に思い出すと、不愛想な点以外は普通にちょっと使いやすいお店ではあったなあと思われるのですが、最初が悪いとそのイメージを払しょくするのは非常に困難であるようです。正直、割引のファーストドリンクを呑んだらそのまま店を後にしたい気持ちにもなったのですが、焼き魚を頼んでしまい焼き上がりに時間を要することになったからそうもいかぬのでした(カマスを頼んだら1尾ですけどって怪訝そうに言われたのも、こちらが非常識な注文をしたみたいで身が縮むような気持になるのでした)。色々悪く書いてしまいましたが、店の人だって気持ちが落ち込んだり、不機嫌なこともある訳で、それを隠し切れない日もあったりするのかもしれません。そういう意味では客商売ってのはなかなか大変であるなあとは思っていますのであしからず。
2024/05/20
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ぼくは、寿司屋にはとんと縁の薄い人間です。回転寿司にすら年に1度行けばいい方で、高級寿司店は当然ですが、町場の個人店舗となるとさらに稀なことなのだ(と書いたけれど、よくよく考えると知人に誘われたり、職場の呑み会だったりで実はたまには行ってる気がしてきたなあ)。違う、違うのだ、ぼくのイメージする寿司屋ってのは銀座の店のような気取ったのではないけれど、商店街の片隅にひっそりあったりするようなカウンターだけの普通の町の寿司屋のことなのです。と書くといかにも寿司屋で呑んだって話に流れ込みそうでありますが、そんなことにはならないのでした。寿司屋に滅多に行かないって話はどうも有耶無耶になってしまいましたが、たまには持ち帰り寿司を買って帰ったりはしています。そんな際に巻き物が入っていると、先に食べてしまう(ぼくは好きなものは後までとっておくタイプです、無論、大人数向けの寿司桶なんかから食べる場合は好きなものから攻めることになります)、つまり、余り好ましいネタではなかったのです。ここで過去形を用いたのは他でもない、とあるテレビ番組で江戸っ子は干瓢巻で〆るということを聞いたからなのです。いやいや、今更江戸っ子なんて見栄を張ろうなどという下心はないのですが、握り寿司の本場の人がそうするには然るべき理由があるのだろと試みにやってみたらこれがなかなか良かったわけです。甘いというのも理由ではあるのでしょうが、同じ甘いといっても玉子じゃないんですよね。とにかく〆の干瓢巻は「あり」であるということに目覚めたのです。 ということで、先般西日暮里の「刺身屋 新太郎 本店」で呑みの〆に巻物を食べたから前段のような話をしたわけですが、今こうして書いている時点で幾種類か頼んだ巻物に干瓢巻が含まれていたかどうかはしっかり失念しているのです。だらだら書いた事が反故になってしまいますが、酒の〆には握りよりも巻物がいいと言い切ってしまいます。のりで手が汚れないし(ごはんのぺとぺとが服に着いちゃうとなかなか落ちない)、サイズもコンパクトで口元のだらしなくなった酔っ払いでも品よく食べられ、食べ過ぎにならずに済むからです。にしてもここは実に客の入りが良いですねエ。4名でお邪魔したのでぼくには珍しく予約して伺ったのですが、それでもどういう訳か入口付近で待たされてしまいました。4人卓の客が席を移動させられていたので、時間ギリギリまで空席を設けないということなのでしょう。それって結構な手間だし、オペレートも大変と思いますが、その点実によく頑張っていると思います。とある酒場で聞いた話ではこちらにはなかなかユニークな従業員の方がおられるとのことで、その方の接客が抜群との評判でした。でも2軒目だったということもあり、そんな話はすっかり失念してしまっており、確認はできなかったのです。酔っ払って余り記憶にない居酒屋のことを語ろうなんてのがまあ実に乱暴な話なのです。しかもこちらは刺身全般がお勧めのようですが、特に売りにしているのが鮪料理でありますが、なぜか誰一人として頼もうとしなかったのです。いや、もしかすると巻物に鉄火巻が入っていたかもしれないけれど、やはり確たる記憶もないのです。さらには〆にいいはずの巻物、頼んでいるのは覚えているけれど食べたって記憶は皆無なのでした。ここは魚介系の質が良くって量が多い事で知られているらしいのにほぼ覚えていないのはなんともお恥ずかしいことです。次回は1軒目に来ることにしよう。(今、写真を見たら干瓢巻はなしですが、鉄火巻は映ってますね)。
2024/05/06
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もう一つこの3日に及ぶ闘病の日々で自らを驚かしたのが、ちっとも食事を体が欲しなかったこと、そして何より酒もちっとも呑みたいと思わなかつたことです。初日がそば少量とピノ6粒、2日目がキムチのせそば少量とピノ3粒、3日目がそば少量、おにぎり1個、サンドイッチ1.5個と最終日には多少増えはしましたが、それでも普段のぼくにとっての1食分半から控え目な2食程度分です。だから当然といえば当然のことにその余得として、ベルトの穴ひとつ分位はダイエットに繋がったのです。これが1週間続けばなどと想像したくもなりますが、そう上手く事は運ばないだろうなあ。そうそう、足が僅かの館で痩せちゃって、回復後に靴を履いたらブカブカになっていたのも新しい発見でした。もっともこれは単に塩分とアルコール摂取量の減少でむくみが取れただけのことなのかもしれません。そんなストイック状態なのに仕事復帰したその夜、いつもの立ち呑み屋に行っちゃったんですね。アホですねえ。いつもの調子でお通しのちくわの煮付けを摘まむこともせずにチューハイ1杯を呑み干し、お替りしたところに注文していた鶏竜田揚げが登場。ようやくお通しを口に運び調子よく2杯目を呑み始め、竜田揚げを口にして3杯目を注文した辺りで体調の異変を感じたのです。チューハイも肴も喉を通り抜けてくれなくなったのです。一方で顔面は蒼白になり(と後で指摘される)、妙な脂汗も噴出して、腹具合も悪くなり、一度外の空気を吸いに荷物も財布もそのままに(これが馴染みの店のいいところ)店を出て便所で軽く用を足して戻るものの食欲、呑欲が戻ることはなく、竜田揚げだけ持ち帰りにしてもらったらの常連さんの言葉に従うつもりがそれを待つだけの気力もなく店を後にすることになったのです。その後の自宅の最寄り駅までの車中は地獄の苦しみでした。いよいよ駅が近付いたと思った僅か30秒すらもう立っていられない位のこれまで感じたことのないような不快感に見舞われ、とうとう列車の非常ベルが押されてしまうことになるんじゃないかという情景だけは想像することができたのです。辛うじて持ち堪えて列車を出ると噴き出すことのやまない脂汗を拭うこともままならない常態で何とかベンチにへたり込み10分程度休まざるをえないといった体たらくであったのです。断食だろうとプチ断食だろうと重湯からゆるゆると通常食へと身体を慣らすというのは重要なことなのだなあと感じたおっさんの春だったのです。 このところ立て続けに訪れているけれど、ぼくはここ「蕎麦吉里 童心舎」の事が大いに気に入っているのです。気に入ってるって言い方、何か上から物を言ってるみたいで何か感じ悪いかな。例えばぼくが女性に向かってに向かって君のこと気に入ったよ、なんてことを耳元で囁やこうものなら、確実にウザっとかキモって思われるに違いないのだ。店の方もきっと同じように感じると考えるに越したことはないのだ。つまり気に入るなんて回りくどい言い方はこうした私的(?)文章に留めて、当の相手には好きだと単刀直入告げるべきではないか。さて、この晩もまた知人3名と一緒だったのですが、以前の面子より歳は若くとも大人な人たちなので、一気に揚げ物や肉料理に向かったりはしないのだ。というか注文も慌てず騒がすじっくり吟味する。ぼくはさすがに見慣れているので、初めての3名に敢えて委ねることにしたのです。するとそのオーダーがすごもり、そば味噌、そばしんじょ、そしてずっと食べたかったそばがきにいってくれたのでした。やったね。すごもり、そば味噌は間違いない。そしてそばしんじょはふっくらもっちりでこれまたよろし。さて肝心のそばがきに箸を伸ばす。期待一杯で口に入れるのだがあれれ、春日に粉っぽさが残るしそばの風味もちょっとイマイチかも。他のそば料理のレベルを思うとまだまだレベルアップを目論んで頂きたい。それとここのお通しのそばの切れ端がもう最高に旨いのだから是非そば切りも提供して欲しいものです。麺とはまた別の旨さがありますからね。でもまあ最後は麺を食べるんですけどね。やっぱりここはいい。
2024/04/08
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今頃になってうら若き女子たちがレトロ系喫茶店に夢中になっているようです。若い人たちが古い何かに興味を抱くってのはまあそれ程珍しい話ではありません。特にファッションのジャンルでは思い出したように過去のトレンドが復刻されたりするようです。でもそれって大概は一過性のブームに留まります。何だか世間で流行っているみたいだし、確かにちょっと変わっているから私もブームに乗っかっちゃおうっていった程度の軽いノリで始めちゃうんですね。きっかけはそれで一向に構わないのだけれど、ブームが沈静化するとどうしたものか自分が抱いていたはずの興味すら失せてしまうようなのです。先日もテレビで若い女性がこれまで数百軒の喫茶店を巡ったと通人ぶって語っていたけれど、さすがにそれでは人様に語れるレベルではないだろうと思うのです。最低でもせめて千軒程度は見て回っていないと人々を啓蒙するには役不足に思えるのです。先人たちの発見してきた美味しそうな店だけをつまみ食いして満足しているうちはまだまだです。ぼくなんかはもう喫茶趣味からはセミリタイアしつつありますが、それでも少なくとも千軒以上は見てきたと思うけれど、圧倒的に知識と経験が足りていないと思っているのです。つまりは何事につけてもそれなりの修行期間を経てようやく真価を見極められるようになるのではないだろうか。って実のところ若い娘たちに自分(たち)の居場所を奪われたようで不愉快なだけなのです。実際、たまたま訪れた喫茶店でそうした俄か喫茶好きらしき娘たちに何度か遭遇してしまったことが近頃ぼくがセミリタイアに追いやられた理由があるのでした。といかにも己の怠慢を他人のせいにしているようで、これじゃむしろ彼女たちより自分の方がよほど性質が悪いって気がしてきました。 と何やら前段で苦言を呈しているけれど、ウトウトしながら書いたので消してしまおうかと思ったけれど、読み直すのも書き直すのも嫌だから放置することにします。ところで日暮里に喫茶店のようでいてちょっと違う感じもし、レストラン風でありつつも普通のレストランとも違う、強いて言うなら喫茶店風のファミレスといった雰囲気の「カフェ&レストラン談話室 ニュートーキョー」があります。ここに入るのは久しぶりです。以前もいつも混雑して賑わっていましたが、どうも近頃はちょっと様子が違うみたい。客の8割程度が若い女性なのです。カフェ&レストランのカフェを喫茶店と捉えているんだろうか。注文内容を見てもいかにもな喫茶メニューのオーダーが多いように見受けられます。しかし我々は違います。カフェなど見て見ぬフリをして、ここで呑んじゃおうっていう趣向なのです。ぼくにとってここはおつまみも充実したしかも酒もそれなりに用意のある美味しい洋食店なのです。といったわけでエビフライなどの洋食に加えて枝豆などのおつまみ類もあったりで、呑みの友には事欠かないのです。こちらのお店は開店から半世紀は経っているはずで、ご一緒した人はもう30年以上前からここに通っているそうだけれど、かつては呑みの利用をする客も多かったそうな。今はほとんどが喫茶利用もしくはそれに食事をプラスした利用のようで周囲を見渡しても呑んでる人はごくわずかです。ファミレスなんかだと夜は呑みの客も増えてくるものですが、こちらは若い女性客が客の大半となって呑み目当ての客たちは敬遠するようになったんじゃないかという気がします。ウエイトレスさんも何度も酒やつまみを追加するぼくたちを心なしか邪険に扱いだします。太客なのにねエ。でもそんな冷ややかな対応を受けつつも久々のここはやはり悪くないのです。これからはちょくちょく呑みに訪れて、この店にかつての雰囲気を取り戻すことに貢献したいと思います。
2024/03/17
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先日も書いたかもしれませんが、近頃お好み焼きがお気に入りです。料理としてはものすごく簡単なものだから自宅で作った方が安上がりだし、好きな食材の大量使いするなどその気になれば豪華版なんてのも作れるのでしょう。でも、どういう理由かは定かではないけれど、お好み焼きとかもんじゃって家で食べてもなんだかちっとも美味しくないんですね。タネの配合に秘訣があったりとか火力が違うなんてことではないように思うのだ。皆で鉄板を囲むのがいいというのもどうやら違っている。一人お好み焼きをしても店と家では雲泥の差があるからです。家でゴージャスなのを作るよりも店で貧相なのを食べた方がきっと美味しく感じると思うのだ。という訳で何が何だか分らんけれど、店のお好み焼きやもんじゃ焼きを食べるために同じような思いを抱く男と連れ立って日暮里のお好み焼き店に向かったのです。 駅のすぐ傍に店を構える「お好み焼 となり」でした。ここの存在は以前から認知していたし、通り掛かるとそのうちお邪魔したいなあと思ったりするのですが、いざ日暮里で呑もうということになると気分がお好み焼きではなかったり、そもそも存在すら想起できなかったりで今回がようやくの訪問となりました。じゃあどうして今回はその存在を覚えていたかというと、実は覚えてなどいなかったのだ。それなのにこうして辿り着けたのは、しばし彷徨った挙句にこのお店を見ることで、あゝオレは今、お好み焼きで呑みたいんだなあっておもっただけなのです。こういう巡り合わせの良いことはぼくには余りないのです。ぼくは子供の頃から食べるのは好きな癖に、その日その日の気分で食べたい物が違っていました。いや、違うなあ。食べたい物はよく分からないくせに食べたくない物ばかりがやけにはっきりしているのです。だからお好み焼きが食べたいっていうふうにはっきりと食べたい物を認知できることは極めて稀なのです。ということで、迷うことなく店に入りますと、これがまたなかなか良い雰囲気なんですね。奥に細長い造りで突き当りにわずかにカウンターの席が用意されていて後は小上がりになっているのです。靴を脱げるのはありがたいけれど、椅子席でないのは厳しいなあ。でも雰囲気に浸るためには足が痛くなること位は受け入れねばなるまい。ということで、さっそくもんじゃからスタート。土手なしの荒川流が推奨されているから楽チンです。この夜は勢いに乗ってもんじゃ=>お好み焼き=>ゲソなどの焼き物を2クールしてしまいました。当然酒量も増える訳で、ビールはそうは吞めないから酎ハイにまずは移行しますが、酒は安くないのでやがて酎ハイをチェーサー代わりにお手頃な清酒へと移行。10本まではカウントできていたけれど総数は不明。勘定も不明。ヨレヨレになって出勤したら財布には小銭が数枚残されているばかりでした。
2024/03/03
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このところ西日暮里で呑む機会が続いていますが、この夜は車に乗せてもらって西日暮里駅の近くで落としてもらったんですけど、車中でもずっと猛烈な睡魔に襲われて非常に辛かったんですね。人様の車に同乗させてもらっていて、寝落ちしてしまうなんて失礼なことは避けたいと思うのですが、この日はどうにも耐えられない眠気だったのです。何とか落ちまいと耐えに耐えてお喋りをして誤魔化そうなんてこともしたのですが、自分でも訳わかんないこと言ってるなってことが何度かありました。そんな時、何を言おうとしたかは覚えてなくても喋った言葉だけは不思議と記憶に留めているのです。ぼくの知人にもいるのですが、睡眠時間が極端に短い人は日中とか眠くなった場合、どうやってやり過ごしているんでしょうかねえ。根性で乗り切るといっても尿意同様に睡魔を振り払うのは容易ではないと思うのですけど。そもそもそういう人は眠気とは無縁だったりするんでしょうか。多少は睡眠の質が影響を及ぼしそうではありますが、3時間程度で乗り切れるとなるとそもそも脳の働きそのものがぼくなんかとは別なんだろうなあと思わされてしまいます。でも日中の睡魔は辛いけれど、そもそも寝れない人なんかよりは余程幸運だと思っています。寝れないじゃなくて寝なくて済む人への羨望もかつては抱いていましたが、近頃は練ることに幸福を強く感じるのです。この年になると寝ても寝足りないといった程度の符牒は仕方ないかななんて思いはしますけど。と脱線で随分紙幅を埋めてしまいましたが,いざ西日暮里で呑むと決めると案外眠気もどこへやら、スッキリ目覚めたのです。 さて、どこで呑もうか。せっかくだし初めての酒場にしたいなあと未訪店の思い当たりがある方面を目指します。中華料理気分ではなかったけど、いざとなればそれもありと歩いていると「きのや」なるお店があるみたいです。中華だとどれも似たような店構えなので実は以前に入っている場合もあったりして、それはそれで構わないけれど、旨くもない店に何度も間違って入ってしまうのはさすがに虚しいから避けたいですが、こういうビルの2階にあるお店は印象に残りやすいように思えます。でも店に入ってちょっとしまったなと思ってしまいました。そこそこのキャパがあるのにお客さんらしき方はカップル1組のみです。店のご夫婦の娘さんが客席をキャッキャと飛び跳ねています。なので決して静寂に包まれているって訳ではないけれど、子供の声と酔っ払いのそれとはまるで別物だからやはり呑み屋に来たって気分は希薄です。貼り紙にあるホッピーを頼み、目に付いた鯖の塩焼きを注文。お通し300円の表記があるからとりあえずこれでいいやと早速呑みをスタート。チビチビ呑んでると眠くなりそうなので最初の一杯はグイグイと呑み干します。ナカをお代わり。人心地も付いたので、ゆっくり呑み進めますが、一向にお通しが出てきません。鯖と一緒に堕してくれるってことなんだろうか。2杯目を終えそうになって鯖が届きました。お通しは相変わらずでないですね。こりゃチャージが掛かってるだけなんだろうか。そんなモヤモヤした気分でさらにナカをお代わりします。いっそ定食メニューにしておきゃ良かったかな。なんて今、慌てて昨夜のレシートを見てみたら300円は加算されてないですね。お通しはお通しとしてオーダーできるシステムなのかねえ。何となく釈然としないけれど。結局3杯目で鯖を食べ切って感情を済ませるのでした。
2024/01/05
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古川緑波に「ああ東京は食い倒れ」という短いエッセイがあって、戦後になって、都内で増加した食い物屋として、お好み焼屋が挙げられています。-- これとても、戦前からあったものに違いないが、その数は、戦前の何倍に及んでいるか。兎とに角かく、やたらに、お好み焼屋は殖えた。腹にもたれるから、僕はあんまり愛用はしないが、冬は、何しろ火が近くに在るから、暖かくていい。-- 戦後に東京にお好み焼屋が増加したのは、どういった理由からなのかは、よく分からないけれど、推測するに食糧不足の折、この食べ物は最低限、メリケン粉がありさえすればあり合わせの材料で作れてしまう、だけど家でやるには鉄板なんかが必要だから外で食べるしかなかったなんてところじゃないんでしょうか。-- お好み焼屋のメニュウは、まことに子供っぽく、幼稚だ。そして、お好み焼そのものも、いい大人の食うものとは思えない。が、これが結構流行るのは、お値段の安直なことによる。 そうは言っても、お好み焼にも、ピンからキリまであって、同じ鉄板を用いても、海老や肉を主とした、高級なのもある。むろん、そうなると、安くはない。 お好み焼は、何と言っても、材料の、メリケン粉のいいところが、美味いし、腹にも、もたれないから、粉のいいところを選ぶべきである。--「お値段の安直な」というけれど,ぼくが知る限りにおいて東京のお好み焼きは総じてお高いような気がします。かつて住んでいた和歌山もそうですが、関西方面はもっとずっと安かった。それこそたまにではあるけれど、小遣いで友人たちと食べに行ける程度には安かったと思うのです。最近の少なくとも都内の店は気取ったお好み焼き屋はやたらと豪華な食材を使ったり、気取った内装でぼくの期待するようなお店ではなくなりつつあるようです。ロッパは子供っぽいというけれど、そしてその意見には反対こそしないけれど、酒が伴いさえすれば十分に酒の肴と成り得ると思うのだけどなあ。無論ちょっと食べ過ぎちゃっただけでも酒すら喉を通らなくなるから頼み過ぎには十分注意が必要なのは言うまでもありません。 西日暮里に「大阪のおばちゃん」というお好み焼き屋があります。以前から気にはなっていましたが、どうもお好み焼き屋に独りで行くのは気が引けるのと店名がどうも好きになれなかったのです。前者はお察しいただくとして、ぼくはどうも関西圏の人たちが自らをおっちゃんだったりおばちゃんって称するのが気持ち悪いのです。ちゃんという甘ったれた響きや気安い雰囲気を装ったところがどうにも我慢ならぬのだ。しかしまあそんな感覚はきっと関西の人は分からないんだろうなあ。実際に来てみたらお好み焼きを食べたりそれで酒を呑んだりするのに店名なんて関係ないんですね。さて、外観より広々とした店内の奥の座敷に早速通されました。お好み焼きを食いに来たから早速注文しようとしたら、混み合ってるからしばらくお待たせすることになるので何か焼き物はどうだと仰る。それじゃまあとゲソ焼きを注文。3名で食べるにはいかにも控えめな量です。しばらくして豚玉と牛スジ入りの2つが届きます。しっかり混ぜてねとおばちゃんと呼ぶにはお若い女性から手渡されます。いつも思うんですけど、お好み焼きカップってどうしてこんなに小さいのかなあ。以下の記事を見つけました。樋口直哉氏が解説してますね。メシ通 「小さな器で生地を混ぜるには理由があった!大阪風お好み焼きを家庭で上手に作る方法を料理研究家に聞く」https://www.hotpepper.jp/mesitsu/entry/kin-masataka/2021-00676 樋口氏曰く、「生地と具材をよく混ぜてしまうと、せっかく空気が入るようにカットしたキャベツの間に生地が入り、生地の中の空気が抜けてしまいます。全体に空気を含ませるように軽く混ぜ合わせた状態で、すぐに焼き始めるのが重要なんです。/あとは同様の理由で、1人分ずつ小さな器などに入れて作った方がいいですね。」 確かに空気を含ませるっていうのはよく言われることですね。それを知ってか知らずか、ぼくがより混ぜにくい牛スジ入りを律儀にきっちり混ぜているのをよそ眼に、もう一人は不器用に混ぜていていかにも危なっかしい。口だけは出す残りの一人がそんなもんで十分だよって言った言葉をおばちゃんは聞き逃さなかったのです。全然ダメダメと言って自らしつこいくらいに丁寧に混ぜるのでした。樋口氏の解説とは真逆ですね。そして鉄板にのせると高さ5cmほどにもなろうかという程に分厚くのせて焼き出すのでした。随分時間が経ってからそろそろかしらとひっくり返しに来ました。おお、いい具合です。牛スジ入りをぼくが裏返すと生地が割れて見るも無残な姿になるのでした。慌てておばちゃんが戻ってきて修復してくれます。これ位なら対処できると誠に心強い。さすがに我々のダメダメぶりを見て、こいつらは面倒を見ないとどうにもならぬと諦めたのか最後まで仕上げてくれました。所要時間は15分程度は掛っただろうか。もう待ちくたびれてしまいましたよ。ところが食べてみてびっくり。これが実に旨いのですね。空気の含有量がどの程度かは分からぬけれど、食感もふっくらとしていてちっとも硬い感じは受けません。驚く程に美味しくてさっきまで何度か叱られてむくれていたことも酒を呑むのも忘れて一心不乱に食べてしまいました。いかんなあ、こんなに美味しいのを食べてしまっては、またすぐに食べたくなってしまいそうです。程々に美味しい程度だともう当分お好み焼きは食べなくてもいいかなってなるんですけどね。これじゃあしばらくはダイエットは無理そうです。
2023/12/25
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先般、西日暮里にあるという一茶庵系の「休屋」で修業したという方のお店にお邪魔しました。そこはここ数年、ほぼ連夜の如く通い詰める酒場にて話題に上っていたお店でありました。それだけではなくその蕎麦屋の二代目を継がれることとなりそうな、つまり現主人の息子さんもまた、ひと頃はよくこの立ち呑み屋に来られていて、常連たちとも顔見知りとなっていたそうなのです。どうしたものか、ぼくはその方のことをまったく認知しておらなかった訳なのですが、ご尊顔を拝見すればもしや思い出すこともあるかもしれぬと訪れたのですが、実際にお会いしても記憶が蘇ることはなかったのでした。それはまあたまたまぼくの観察力 and/or 記憶力が衰えていたことと無縁ではないかもしれませんし、そこまで自身の能力を卑下せずとも、単にぼくが主に他所へ呑みに行くことの多い金曜日にその方は訪れていたのかもしれません。そういったことを確認できるかもと期待してはいませんでしたが、仮にぼく独りでお邪魔していたらそれも可能だったかもしれない程度に空いていて、はっきり言えば我々以外には一人の客がいるだけだったのでした。 お邪魔したのは、「蕎麦吉里 童心舎」です。このお店の詳しい情報は、以下が参考になります。荒川ゆうネット 「荒川区再発見 都市観光編5「西日暮里」 > 蕎麦吉里 童心舎」https://www.city.arakawa.tokyo.jp/unet/issue/saihakken/0406/nishi02.html 参考になるとはいってもまず,一茶庵系って何なのだ。「一茶庵」って前々からよく耳にしていて、そば打ちの修行先として知られているということは薄々知っているけれど、5W1Hのほとんどに知識がないのです。足たび(足利市観光協会) 「足利で食べる 一茶庵本店」https://www.ashikaga-kankou.jp/eat/issaan なるほど足利にある大正15年創業の老舗蕎麦店なのですね。そば打ち名人・片倉康雄氏が創始、「多くの蕎麦打ち職人が同店を訪れたことが「足利詣で」と称された」のだですね。では、この一茶庵系の「休屋」ってのはどこにあるのだろう。https://tabelog.com/kanagawa/A1407/A140701/14006741/ どうやらこれのようです。ふうん、相模湖の傍にあるんですね。なんか観光地にある蕎麦屋って大概は本格的な蕎麦とは別物っていう印象がありますが、それは単なる思い込みなのかもしれません。相模湖辺りになると近隣はそば処なんだろうから競合するお店も多いでしょうしね。とまあ、そこまで知っちゃうと店の来歴調べはもういいかなって気分になりました。問題となるのはそばやそば前や酒なのであります。店の雰囲気は小奇麗ではあるけれど、風情があるって感じではないですね。瓶ビールはエビスもスーパードライも同じ中瓶で600円というのはお手頃ですがちょっと珍しいですね。通常ならエビスが50円とか100円とか高額になりそうなものです。そういう理由ではないのですが(ウソ)、エビスを注文します。天ぷら盛合せ、すごもりそば、若鳥とねぎ焼き、玉子焼き、お新香などを一気に注文しますが、どれもお手頃なのにとても美味しくてびっくり。でも最初にサービスで出してくれた紫蘇を練り込んだ代わりそばの余りで作ったらしいそば切り風の風味が抜群に美味しくひとしきり呑み食いした後のそばへの期待が高まります。日本酒は銘柄こそ2種のみですが、1合瓶が500円はこうした本格的な蕎麦屋ではかなりお安いのではないでしょうか。さて、〆のそばは迷った挙句に田舎そばを注文。これがまた手頃な価格に見合わぬしっかりとしたそばでありました。こうした気合の入ったそば屋は確かに美味しくはありますが、大概の場合、これだけ呑み食いすると値段も相当に跳ね上がることを思うと、こちらは相当に満足度が高い良店だと思います。
2023/12/18
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このところ、日暮里にポン引きが急増しているように思えます。以前も多少は見掛けたし、声も掛けられたりして鬱陶しいと思っていたけれど、コロナが五類扱いに移行してからというもの、コロナ前よりも遥かに多くのポン引きが町に蔓延りだしたようです。町を歩いていてポン引きに声を掛けられるのは非常に煩わしいものですが、仮に自分がそういう仕事をやっていて邪険にされたら苛立つんだろうなと想像すると無暗に無下にするのも、和を以て貴しとなすことをモットーとするぼくとしては避けたい振舞いなのでますます煩わしさが増幅されるのです。通行人のぼくはポン引きの声掛けと邪険にならない程度の態度に気を遣って疲れるし、奴らは奴らで大概は温厚さとは正対する性格を腹に収めて太鼓持ちのようにへりくだってみせては邪険に払いのけられ、町のダニ扱いみたくされて憤っているんじゃないか。つまりこの理屈に多少なりとも合理的な側面があるとすればポン引きが存在することで町は不穏なオーラに包み込まれることになるのです。日暮里という一見すると穏やかそうな町の暗部がネオンの灯りに照らし出され始めたということなんでしょうか。ともあれますます町が物騒になってきているように感じられるのでむしろ治安維持に貢献して愛されるポン引きとなってくれることを期待します。 ってまあ最近の日暮里の治安の悪化傾向には杞憂するところがあるのですが、この先、日本の各地でこうした状況が予想され、日本も日に日に夜歩きできなくなることが懸念されます。かつてのように夜道を延々と歩いて呑みに行くなんてことは、近々危険を顧みない愚挙と見做されることになりそうです。なので、駅近の「居酒屋 路」は誠に心強い、日暮里ではわずかに残された古酒場の一軒として今後も頑張ってもらいたいと応援したいと思っていますが、そのくせ、前回訪れてから早3年が経過していたのですね。それじゃとても応援してるなんてことは言えないよなあ。初めて来た時にはお客さんも疎らでホントの意味で場末の酒場然としていましたが、確実に物件としては劣化しているはずなのに、おky格の入りが良くなるだけで、店が若返ったように思えるのだから不思議なものです。しかもそのお客が初訪当時から通われているようなベテラン勢はそのままに若い人たち(しかも男女カップル2組)も気に入って通っているようだから心強い。ぼくなどの応援は無用のようです。しかも彼らはリラックスしていておでんをメインの肴に熱燗なんか頼んだりして、一端の酒呑みたる堂々たる振舞いであったのです。ぼくが若い頃はそこまで自然体ではいられなかったと思います。近頃の若者たちは、職場の連中を見ている範囲でも多少の失敗などしてもさほど動じることもなくしゃあしゃあとしているけれど、ぼくのようなおっさん世代から見ると感情の揺らぎの希薄さが不気味にも思えたりするのでした。ポン引きの連中の貼り付いたような笑顔にも通じるところがありそうで、ちょっと背筋が寒くもなるのです。ともあれ、こうしたお気に入りの酒場を支えてくれている人がいるのは有難いことではあります。今後は年1回程度は訪れることにしたいなあ。
2023/12/15
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ぼくはありとあらゆるジャンルの映画を無節操に見てきたから、好きな映画を挙げよと言われても容易には決めかねぬのです。それが10本だろうが100本だろうが大した差ではありません。でも最も好きなジャンル、死を迎える1週間前に見たいジャンルは何かと問われたら恐らく西部劇と答えるはずです。死に向かってまっしぐらの映画にあって、とっくに死滅したジャンルである(時折ゾンビの如くに蘇ってみせはするものの)西部劇のどこにそこまで惹かれるかについて語ってみたところで仕方のないことなので割愛します。ともあれ西部劇といえば最大の見せ場は決闘シーンであることが多いのですが、酒場でカードをしたり、恋のさや当てをしてみたり、そして何より呑んだり食べたりする何気のないシーンが楽しかったりします。そこで食べられるのはステーキというイメージが拭えぬのでありますが、実際に西部劇のヒーローたちがステーキを食べるシーンというのが案外少ないような気がするのです。いささか冗長な『大いなる西部』やセルジオ・レオーネの愛する『リバティバランスを射った男』などに描かれていたということだけれど、どうも思い出せない。その癖、多くの俳優たちがステーキを食らうイメージは鮮明に思い起こすことができるのだから不思議なものであります。 さて、それはともかくとして「ビリー・ザ・キッド(BILLY THE KID) 日暮里店」に行ってきました。この店を訪れるのは10数年ぶりのこと。それにしてもどうしてこのお店の名は、ビリー・ザ・キッドとなったのか。西部劇のヒーローであれば、ワイアット・アープ、ドク・ホリデイ、バット・マスターソン、ジェシー・ジェイムズ、、サンダンス・キッド、ワイルド・ビル・ヒコック、ブッチ・キャシディ、カラミティ・ジェーン……、などなど他にもいくらだって存在したのに、あえて21年の生涯で21人を殺したという左利きのガンマンを冠したお店とするのはどうしてなんだろうなあ。ウェスタン調の店内は以前とさほど変わってはおらず、型通りではあるけれど、これはこれでステーキを食うんだぞって気分を盛り立ててくれるのはおかしなものです。ほとんど見たことのなさそうな豪快にステーキにかぶりつく映画の主人公たちに我が身を置き換えてしまうからなんだろうか。さて、200gだったかのステーキをタコスをつまみながら待つことにします。このタコスはどうもチープな感じだなあ。セットのキャベツのサラダも何だかピンと来ないぼやけた味です。でもステーキが届くと途端に気分は高揚するのです。昔よくやったように大量のマスタードとタバスコをふって貪りつくのですが、記憶していたよりも美味しく感じられました。たかだか200gと高を括って食べ始めたのですが、これが勘違い。食べどもなかなか減らぬボリューム感は嬉しい毛レオd、オヤジにはこれはちょっと量が多いかな。と隣を見るとぼくよりはるかに年長のオヤジが汗だくになって500gに挑んでいるのを見ると全く驚かされるのでした。これだけでたらふくであったのにちょっと酒の肴が欲しいとバターコーンとチョリソーのセットを頂きましたが、これは余計だったかな。きっちり食べ切りはしたけれど、今度があった150gのステーキ程度で、当然ライスは抜きで頼みたいと思うのです。最後に以前と異なる点が2つ。ひとつは値段が2倍近く跳ね上がっていたこと、そしてにも拘らず非常に混み合っていたこと、特に女性客が多かった点に以前との違いを感じたのでした。
2023/12/13
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寺田寅彦に『猫の穴掘り』というエッセイがあります。 高架線路から見おろした三河島は不思議な世界である。東京にこんなところがあったかと思うような別天地である。日本中にも世界中にもこれに似たところはないであろう。慰めのない「民家の沙漠」である。 泥水をたたえた長方形の池を囲んで、そうしてその池の上にさしかけて建てた家がある。その池の上の廊下を子供が二、三人ばたばた駆け歩いているのが見えた。不思議な家である。 京成電鉄本線の開通した当初のことのようです。ちょうど寺田が30代半ばの頃の事なんでしょうか。三河島は三河島でも新三河島駅のことなんでしょう。それはともかくとして、「日本中にも世界中にもこれに似たところはないであろう。慰めのない『民家の沙漠』」って全体どうした光景なんでしょうか。江戸時代の三河島は稲作が行われ、歌川広重『蓑輪金杉三河しま』に描かれるようにタンチョウの飛来地としても知られていたそうな。旧三河島汚水処分場喞筒場施設が1922年の建設というからこの施設ができる以前の話のようですが、見れるものならぜひ見てみたかったです。写真など探したら残っているんでしょうが、まだ調べられていません。昨今では小規模なコリアンタウンがこの町を特色付けていましたが、それもここ数年で様相を新たにしつつあります。じわじわと韓国料理店も開店していますが、それを遥かに凌駕、というか全ての韓国系商店を圧倒するように中国、そしてこちらもじわりとインド料理店なんかが増加して、エスニックタウンへと変貌しつつあるのです。 そんな一軒が「暉記餃子屋」です。と訳知り顔で書きましたが、正直この町の変化に付いていき切れていません。というか中華屋さんとインド料理屋さんに関してはもはや記憶することを放棄しているのです。その増殖の著しいことにとても付いていけなくなっています。でも現在の日本の経済状況にあっては、日本で人稼ぎっていうアジア系外国人も近いうちに激減するのではなかろうかと予測しています。店構えは開店後日の浅い店舗に典型的なように全く味も素っ気もないのでした。ホントはお隣の焼鳥屋に入るつもりが満席と断られたから仕方がない。早速席に着いて店先の貼り紙で見たお得なセットを注文するのでした。 2種の料理はどちらもとんがっていない穏やかな味で非常に食べやすいですね。なんてことで安心して改めてメニューを眺めると見慣れぬ温州料理なる文字が。今、ネットで調べるとこんなのが引っ掛かりました。東京ディープチャイナ 「日暮里の日本で唯一温州料理店「瓯味」の名物は紹興酒に合う海鮮メニュー」https://deep-china.tokyo/restaurant-info/11916/夏さんはご主人の黄さんと一緒にまず池袋に小さな温州料理の店を始めました。2007年頃のことです。その後、そこは店じまいし、2014年に東池袋に「温州坊」という店を始めます。そして、2021年11月、日暮里駅前に2号店となる「瓯味(おうみ)」(東京都荒川区東日暮里)をオープンしました。 う~ん、日暮里駅前ということはこことは別かあ。でも日暮里の店舗が2号店というのに「日本で唯一」ってのも解せないなあ。しかもこのサイトに出ている店主の女性、三河島の店舗にいた人と似てるような気がするんですよねえ。ますますよく分からないけれど、とにかく温州料理は日本ではまだまだ希少だということのようです。これは図らずも面白い店に入ったもんだ。と思ってはみたけれど、肝心の温州料理を食べるにはもうさほどお腹が空いていないのでした。なので、厳選して夏さんとそっくりの方にお聞きして進められたスズキ科の魚(ニベと書かれていました)のスープを頂くことにしました。これが最もポピュラーな食べ方だそうな。しばらくして出されたそれは片栗粉でコーティングされていてムチムチした食感が楽しくはあるけれどスープを含め非常に淡泊でちょっと物足りなく感じました。豚肉の干豆腐巻きなど他にも数品のお勧めがあるので次は腹を減らしてそこら辺の品も食べてみたいかな。まあ、それなら日暮里か池袋の店舗に行くのでもいいかな。
2023/12/06
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谷根千がやたらともてはやされる昨今でありますが、ぼくが初めてこの土地を知った頃はまだまだ人手もそう多くはなく、寂れた町といった印象が適当と思えるような町でした。だから実際の日暮里を知る以前に読んでいた太宰治著『惜別』の一節がなるほど分からなくもないかななどと思ったりしたものです。(……)東京よ、さらば。選ばれた秀才たちよ、さらば。いよいよお別れとなると、さすがに淋しかった。汽車で上野を出発して、日暮里という駅を通過し、その「日暮里」という字が、自分のその時の憂愁にぴったり合って、もう少しで落涙しそうになった。 主人公は若き日の魯迅で、「日暮里」の字に涙しそうになりますが、ぼくには太宰が主人公に自らの心情を投影しているように思えました。この3字の意味するものを想像すると、失意に暮れる自身の心情とオーバーラップして感じられるのかもしれないけれど、ぼくはむしろ左右対称のシンメトリーな字面や「日本」を「ニホン」ではなく「ニッポン」と呼んだ場合のそこはかとないユーモラスさを嗅ぎ取ってしまうのです。それはぼくが現在の日暮里の状況を知っているということが影響しているのかもしれません。きっと太宰は「日暮里」を「日の暮れる里」と理解したんじゃないでしょうか。夕焼けだんだんなんかが象徴するような夕暮れの町のイメージです。ぼくがもっぱらこの地を訪れるのは夜の帳が下りてからの事で、むしろ日中の雑踏が潮が引くように収まってからなので憂愁という感情よりはずっと安堵の感情に包まれるのです。しかしここで商売する人には夜の日暮里は憂愁の地であるようです。 お邪魔したのは開店からそう日の経っていない「飲み食い処 ぽちゃ」でした。夕焼けだんだんの上,飲食店などの入居する雑居ビルの奥まったところに入口があります。こりゃまあ知識がないと入りにくい構えですね。飲食店ビルのどん詰まりにある店というのはどこか危険なムードが伴うものです。しかし、店内は2組、日本人の熟年男女(店で知り合ったようです)、国籍の異なる3名の男女とでとてもハッピーそうです。諸外国の物価と比べるとずっと安価ではありますが、この界隈の呑み屋は他の町に比べるとお高めであることが多いようです。観光地価格が盛られているのでしょう。やっているのは30歳そこそことお見受けする若い方で昼間のランチ時は非常に混み合うけれど、夜は閑古鳥の鳴くことが多くて苦戦なさっているようです。住民もそこそこいるだろうし、他の店と比較すると善戦しているように思えるんですが。きっとその内に外国人たちがSNSで宣伝してくれますよ、ぼくも微力ながら協力させていただきますなんて調子のいいこと言っちゃたりして。まあ約束通りこうして宣伝させていただいてますので、悪しからず。
2023/11/29
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今ではちっとも陰惨さや不気味さとは無縁となった三河島でありますが、江戸川乱歩著『妖虫』が執筆された1933~34年当時は、やはり小説で描かれるような危ない雰囲気が町を支配していたのでしょうか。 そこは竹藪が一間程の間途切れて、その向う側に、枕木の見える汽車の線路が長々と横わっているのが眺められた。三河島と云えば、大宮方面への鉄道の沿線に当るのだから、突然レールに出くわしても、別に不思議はないのだが、珠子には、なぜかその鉄道線路さえ、現実のものではなくて、悪夢の中の光景の様に感じられた。 無論、彼女を恐れ戦(おのの)かせたのは、鉄道線路そのものではなく、その線路の上に飛び散っている数個の白い物体であった。 電燈の丸い光が移動するにつれて、人間の手が、人間の足が、人間の腿が、その切口をドス黒い血潮に染めて、次々と彼女の脅えた眼に。 ねっ、なかなかに奇っ怪なことではありませんか。『赤蠍』。『赤蠍』を知らん人はありますまい。あの妖虫が、又ゴソゴソと這い出して来たのです。 三河島の見世物小屋で、活動写真みたいな活劇が演じられたのです。そして、相川珠子という美しいお嬢さんが、妖虫の為にさらわれてしまったのです。ごらんなさい。これがそのお嬢さんの写真ですよ」 赤蠍と聞くと、今までざわめいていた群集が、ピッタリと静まり返った。それ程彼等は妖虫事件の新聞記事に脅えていたのだ。 この事件を解決するのは、お馴染みの名探偵明智小五郎ではなく名探偵三笠竜介ということで余り知られていない作品ですが、乱歩らしい耽美性とグロテスクさがこの一節を見ただけで明らかです。こういうの流し読みしているとすぐにでも読み返してみたくなるなあ。 と本題とは全く無関係な引用をしてしまいましたが、今回訪れたのは現代の三河島としては怪しいムードを辛うじて留めている路地裏のさらに路地裏的な立地にある「陽子江」です。怪しいとはいってもテレビなんかにも登場しちゃったりして。ぼくが以前来たのはもう10年以上前のことのようです。その時には、ご近所の爺様たちの溜まり場のようになっていてねえ。なんてことを思いつつ店に入るとなんとなんと以前と変わらず長老たちが横並びに3名いらっしゃる。確認する術はないけれど、10年前の彼らがそのまま毎夜通っていると言われても驚く程の事はなさそうに思えてきます。まだ席に余裕はあるけれど、2階が広いのでどうぞと案内されたので、もしかしたら常連仲間がまだ来るのかもしれないというのもあるけれど、それ以上にこの狭いと思っていたお店に2階があることを知ったら無性に見てみたくなったのでお言葉に甘えることにしたのでした。確かにこの急峻な階段はご老体には危険極まりないと思うのですが、ぼくら(S氏と一緒)だってまだまだ先のことと思っていたら案外目先の事であったなんてことになりかねぬのだ。2階はそう造りが変わるはずもないのに案外広く感じられます。ダムウェーター(飲食物の昇降用エレベータ)まで設置されているけれど、そうは活用されていなさそう。これがあっても年配の人にとってこの階段の上り下りは大変そう。ご心配なく、笑顔を絶やさぬ若い娘さんがお勤めです。無駄口を叩くこともなくかといって不愛想とは程遠いという理想的な応対で、しかも動作もテキパキとしていてここの娘さん、いやお孫さんなのかなあ、そうじゃなきゃここまでの応接は期待できないと思うのです。さて、そうそうこちらはお通しがお刺身だったよね。餃子を始めとした料理は普通に美味しくて酒は中華屋さんとしては適切な価格(希望としては酎ハイは400円を350円にしてくれると大いに結構)で、確かにここを根城にするご隠居たちが多い訳だ。ところで店の貼り紙にもあるけれど、こちらは「揚子江」ではなく「陽子江」なのでくれぐれもお間違いなく。
2023/11/27
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この夏はホントに暑くって一足伸ばすという気力が湧かないのです。だから普段は通い慣れた比較的駅近の馴染みの酒場に直接向かうことになってしまうのです。駅近ってのはなかなかに定義しづらいものです。ゆっくり歩いて5分程度であれば、まあ駅近と見做すのが一般的に思えますが、それでも道が混み合っていると途端に遠く思えることがあるのです。世の中を見渡すと好んで人混みに足を運ぶ人が少なくないようですが、ぼくにはそうした人たちの気持ちが理解できないのです。いやまあ人が集まるってことはそこに何某かの魅力的なものがあるってことなんだろうけど、幸か不幸かぼくにはそういう集客力の高い何某かに対しての欲望は希薄なようです。そして幸いにも毎晩訪れる酒場に至る道中はいつだってそこまで人通りも多くないのです。というか人通りが多いとしたら訪れる機会も今よりは確実に減少するはずです。それでは単に道程が空いているからその酒場を訪れているということになりどうも具合がよろしくありません。確かにぼくの好きな酒場がぼくにとっての利便性のよい場所にあるのが一番いい訳ですが、いい酒場ばかりが集まる町などついぞ知らぬから、一軒だけでもそうした酒場を持てているなら良しとすべきなのかもしれません。ちなみにそちらは扇風機のみでエアコンなしだから暑くて気力が湧かぬという当初の言葉とは矛盾するのでありますが、単に飲むだけで激しく身体を動かさぬ限りは若い頃のように汗が噴き出て止まらないなんてことはなくなったのです。 なので、気になる酒場がある場合は、自力で何とかするのは困難です。誰かしらと約束して呑みに行く、行かざるを得ないといった状況に自らを陥らせるのが手っ取り早いものです。この夜もそうした姑息な手段で自らを追い込むことでようやく足を運ぶことができたのです。鉄道の駅としては日暮里・舎人ライナーの赤土小学校前駅が最寄りということになりますが、人混みを進むのと同程度に駅での乗り換えを嫌うぼくとしましては、ちょっと遠くはなりますが、田端駅からそこに向かうことにするのです。とまあごちゃごちゃ語っていますが、この夜に訪れたのは、「中華料理 栄楽」という中華屋さんだったのです。この路地裏の細い通りには数軒の酒場が存在して、いずれもお邪魔したことがあるからてっきりここにもとっくに伺ったものと思っていましたが、たまたまメモを見るとなんと未訪問であることが判明したのです。案外、身近に未訪問店が残っていたようです。まあ、こういう思い違いはしょっちゅうですから、己の記憶力の低さ及び低下には諦めをもって対峙するしかありません。外観的にはさほどの年季は感じられぬもののいかにもな中華屋さんの構えではあります。迷うことなく戸を開けるとおやおやまだお客さんは入っていないみたいです。店の中は思った以上に広々としており、30名以上なら収まりそうでありますからエアコンで冷やされた空間が心地よく感じられる一方で、いかにも効率が良くないななんて思ってしまうのです。初老のご夫婦二人でやっておられるようです。瓶ビールを待つ間に品書きを寝目回してこの日の気分に沿った最善の注文を心掛けるのです。レバ炒めというのがありますね。レバニラ炒めもあるからこれはニラなしのレバともやしの炒め物だろうと見当を付けました。ニラ好きですが、100円安価だからとレバ炒めを注文しました。ところがこれ、ニラも入ってるんですね。レバニラ炒めはニラの量が多いってことなんでしょうかね。何度も書きますが、ぼくはレバーはそんなに好まないのですがここのは美味しいなあ。もう一品はかた焼きそばを注文します。油で揚げた中華麺はどうもスナックっぽくてしかも脂気が多くで避けることが多いのですが、最近はなぜか平気になりました。これがすっごいボリュームなのです。2名でもこの2/3程度の量で満足しそうです。というか麺の量は半分程度でも十分な量。鎮まり切った店のムードと異なりむしろ若者たちにこそお勧めしたお店でした。
2023/08/25
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最近、業務スーパーに行く機会があってそこで老抽という中国醤油を購入したのでした。高級スーパーなんかでも扱いはあるけれど、どうも値段を見ると手を出す気になれないのです。果たして老抽が高級スーパーで売られているものと業務スーパーのものとで、味や品質にどの程度の差異があるのかは分からないけれど、まあお試しといった際の振舞いにその人の個性が現れるのではないか。例えば、高級スーパーで100mlで500円、業務スーパーで500mlで500円、富澤商店のような食材店で300mlで800円で販売されていたとする。そうした場合、ぼくがチェックする項目はまずは値段と量であり、一応原材料にも目を通すことがあるけれど、手にするのは間違いなく業務スーパーの商品なのであります。これは寿司屋の出前で松竹梅を選ぶ場合に似て非なるものでありますが、印象としては梅を選択するに似たような態度であろうと思うのです。無論、寿司の場合は品質やネタの差異に起因した価格設定となっているわけで、これはネタが開示されているなら変更となる余地もある訳で、大好きな例えばシャコが入っているなら竹だって辞さぬのだ。しかし、外国食材の場合、安易に値段と品質が直結しているとは限らないのであります。ほとんど中身は一緒、というかメーカーどころか銘柄が同じであっても値段に雲泥の差がある場合が少なくないから大いに迷ってしまうのだ。こういう場合、断捨離能力に自身のある人であればとにかく安くて大きなものを買うのが間違いないと思うのです。ぼくは本だったり服なんかはその気になればなんら躊躇なく断捨離できてしまうのですが、食べ物に関してはどうも思い切れないことが多いのです。やましたひでこ氏などは賞味期限切れの食品は容赦なく処分してしまいますが、ぼくは期限切れから結構な日が経過していても捨てるのに躊躇してしまうのです。世間ではSDG'sがどうこうと極めて真っ当で当たり前の取り組みが推進されているけれど、ぼくはどうもそうした潮流に上手に乗りこなせていないのではないかと思ってしまいます。世界各国の食材が安価で量り売りしてもらえるようなお店ができることを熱望するのであります。 と本来は老抽についてのみ書くつもりが話が思いっきり逸れてしまいました。しかも今回お邪魔した日暮里の中華店でその老抽が使われているようにはどうしても思えぬのです。お邪魔したのは「楚満苑」というお店。以前、この店のある日暮里から西日暮里駅に向かう通りにあるビルの奥まった一軒である台湾料理店にお邪魔したことがあります。そこが思いがけず美味しくてまた来たいと思ってたんですよね。偶然、近所に住んでる知人に会ったのでじゃあそこ行ってみようかってことになったのですが、どうも店名に違和感を感じる。それも無理からぬことでありまして、以前お邪魔したお店の名前は「府城」だったようです。まあ、来てしまったものは仕方ないし、もしかすると単に店名だけを変えただけかもしれません。以前も美味しいのに客の入りは悪かったから起死回生の策としてそれはあり得るかもしれません。という儚い期待も店に入った途端に打ち砕かれたのでした。というのが従業員の女性が以前の天真爛漫風な明るい娘さんから明るくはあるけれど明らかにお水系の色彩を強く帯びた女性に変わっていたからです。しかし、カウンター席で常連顔で大いに張り切るオヤジは以前も見掛けたように思うから店が変わってもそのまま居着いているのかもしれません。それはそれで凄いことだとは思えます。奥の席に通されメニューを開いても以前のいかにも本場って感じの台湾料理は見当たらずひと昔前の定番料理ばかりが載っていて何にせよ何か頼まざるを得ないということで無難な黒酢酢豚と青菜炒めを注文します。やがて届いたのは黒酢ならざる普通の酢豚。まあいいか。青菜炒めは炒めすぎならまあ目をつぶりますが、どうもちょっと傷んでいたようでどす黒い汁がしみだしています。酢豚を口にしてまず感じたのが、これはもしかすると熟成肉の熟成させ過ぎた味なんだろうかってことですが、すぐに考えを改めます。これは単にちゃんとした処理なく冷蔵庫で傷みつつある豚肉というだけのことなんだろうということです。近頃本格的に不味い料理って食べていなかったので、これはこれで何かとても感慨不い気もしますが、気持ちは昂っても食欲は衰えるばかりなのでした。結局ちゃんと摘まめたのはサービスの揚げ落花生だけで、2人がかりでも1/3も手を付けられなかったのです。ここを再訪することはもはやあり得ぬだろうけど、次はどんな店名に変わるのかそのうちきっと確認しに行っちゃうんだろうなあ。
2023/07/14
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もう何度も書いていることですが、日暮里駅界隈は行きたかったもしくは行けそうだったお店は大概お邪魔しています。行きたくなかったもしくは行けなさそうだったお店にもそこそこお邪魔しているからまあ、かなりの軒数はこなしているのではなかろうかと思うのです。このこなすという言い方に御朱印帳にハンコを集めるような邪さを意識しないわけではないけれど、酒場っていうのはその定義の曖昧さもそうだし、生まれては消えのイタチごっこで永遠に終わりがないものだから、あっちもこっちも行ってみたくなるのはそれ程不順ではないと思っています。なにせぼくがいくら古くからの酒場が好きといっても新しいお店にももしかするとこれまで知らなかった新たな酒場のあり様を見せつけられることも皆無ではないからです。ってまあ、とんでもなく安いとか旨いって程度の驚きはあたけれど、酒場の酒場たる所以を足元から揺るがしかねないなどという驚くべき酒場とは未だ出会えていないのが正直なところです。例えば観覧車酒場とか昭和風お茶の間酒場とかつまみもデザートにもアルコールをたっぷり用いた真の辛党酒場とかまあ思い付きはいくらでも語れるけれど、こうした適当なコンセプト系酒場ってのは一度は行っても二度は行かぬ定めだからどうもうまくはいかなさそうであります。って話が日暮里の酒場から逸れてしまいました。しかもそこはちっとも奇を衒わぬごくごくありふれたお店だったからここまでの無駄な饒舌は何だったのだ、ってなりかねないがご容赦頂きたい。 ということで日暮里駅の北側の長いエスカレーターを下って、西日暮里駅方面に歩き出してすぐに「ひぐらしの里 五所車」があります。どうしたものかぼくはここをずっとそば屋だと思い込んでいたのですね。ご存じのとおりひぐらしは夏の夕暮れ時に鳴くセミのことで、ひぐらしってのは「日を暮れさせるもの」の意から来ているようですね。ぼくのブログ名にも似合ったいいネーミングだなあと思ったら、「日暮里は江戸時代、四季折々の自然が楽しめる景勝地として親しまれた。風光明媚(めいび)な情景を眺めていると、「日が暮れるのを忘れてしまう」ことから「ひぐらしのさと」と呼ばれていた」そうな。日暮里では「ひぐらし」(出典は朝日新聞DIGITAL「「ひぐらしのさと」と呼ばれた日暮里 今も受け継ぐ俳句との縁」)の意は一般とは違って用いられていたのだなあ。っていうか「日を暮れさせるもの」と「日が暮れるのを忘れてしまう」こととはほとんど逆の意味合いに思えるのだが、どうなのだろう。それと「五所車」って何か想像はできるのだけれど、こりゃ一体何を意味するのだろう。ネットで調べてみる。ほとんど日暮里のこの店の情報ばかりなのですが、以下が混じり込んでいます。文化遺産オンライン 「五所車ト紋《車図》」https://bunka.nii.ac.jp/heritages/detail/570140きっとこれを典拠してるんでしょう。でも広辞苑にも掲載されていない単語を店名に据えるのって店のオーナーには余程の思い入れがあるのでしょうか。平塚にも同名のお店があるようです。なんてここまで店名の事ばかりなのに随分長くなってしまいました。最後に一言だけ。店の外観写真はありませんが、これまで素通りしたのはそば屋と思い込んでいたこともあるけれど、ガラス張りで秘密めいたところのないところが物足りなく思えたからだと思います。店内は表からの印象とは違って案外落ち着いた雰囲気です。酒も肴も種類が揃っていますし、特に肴はとても美味しいのです。ちょっと毎日使うにはお高めな価格設定となっていますが、たまに来るならちょっといい店だなあと思えました。と、なんか投げやりな文章で締めくくるのでした。
2023/06/16
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日暮里駅前のタワマン建設ブームもひと段落したのか、近頃は町の様子も落ち着いたように見えます。このタワマン住まいの知人がいるのですが、彼と呑むことになりました。いつも思うのですが、ぼくにはこういうタワマン住まいは無理なんだろうなあと思うのです。理由はいくつかありますが、一つ目の理由は極度ではないけれどそれなりの高所恐怖症の気があるからです。タワマンでも下層階に住めばそれは解決するのでしょうが、こうした集合住宅にはカースト制度が導入されているようなのです。どうも都心のマンションに限った話ではないようですが、近頃はご近所付き合いという文化が廃れつつあるようです。他人事のように語っていますが、ぼく自身もそれを自覚しているのであります。だったらカースト制度など無視してしまえばそれで事は済むようにも思えますが、どうもそう簡単な話ではないようです。それと夜中にちょっと酒を切らしてしまったりしてコンビニなんかに買い物に行こうとしても高層階だと降りて買い物を済ませて戻るだけでも相応の時間を費やさねばならないと思われ、実際にはさほどの時間を要せずとも想像を巡らせるだけでウンザリしてしまうのです。大した時間ではないだろうっていう人もいるでしょうけど、ぼくは待つのが大嫌いなのです。時間を無駄にするのが必ずしも嫌なんじゃなくて待つという行為が嫌いなのです。尿意・便意が差し迫った場合にはどうするんだろう。ぼくは階段を駆け上がって何とか自宅に駆け込んで間に合う程度のフロアーで充分です。まあきっとこういう大きなマンションだと住民専用の共同便所もあったりするんだろうなあ。数年前の台風かなんかの天災により二子玉川の高層マンションの上層階の方たち(に限らず資産価値が大いに下がったとの報道もありましたから全ての居住者かもしれません)が大変な思いをしたこともあってますます苦手意識が強化されたのでした。 さてまあそんな巨大ビルだらけになった日暮里ですが、低層階がテナント物件となっている場合も多くて、大概は味気ないけれど時折ユニークなお店もあって実は案外嫌いじゃないのです。実は駅前ロータリーのマクドナルドの裏手にある「そば処 太宝家」もそんなテナントの一軒だと思い込んでいました。でも改めて眺めてみるとここは単独のビルで周囲からは埋もれて見える低層4階建ての建物だったのですね。昭和32年開業(この情報は店の便所のカレンダーにて知りました)の老舗そば店ですが、かなり以前にリニューアルしたということのようです(というのがこの店の存在を知った時点ですでに今の状態だったはずでそれも随分昔のことだから)。実は緊急事態でどうこうって時期に一度お邪魔しようと訪れたことがあったのです。呑めるか伺ったところ、酒の提供を自粛しているということでご遠慮差し上げた次第で今回はそのリベンジとなるのでした。品書きが表に下がっているので酒の肴も充実していることを知っていたのです。店内はモダンな装飾で表の屋外エレベーターにも視界を狭められた目に付きにくい立地に見合った洞穴風のドーム風の天井が洒落ています。そこそこ年配のご常連らしきお客さんたちが中心で2,3名程度でゆったりした雰囲気で呑まれています。リラックスしたいい感じだなあ。と余韻に浸るのもそこそこに矢継ぎ早に酒と肴を注文します。お隣さんは冷奴とそば味噌でちびりちびりやってますがそれもいいなあと思いつつも、目の前に次々並ぶ肴はどれも美味しかった。特にさほど食材として興味を抱けない牛すじの煮込みはぼくをして旨いと思わせるものでした。カツとじもすごい肉厚で旨いなあ。安くはないからちょっと贅沢ですけど、そば屋吞みってやっぱりいいなあと思うのです。ただ肴の食べ過ぎでそばまで至らなかったのは至極後悔の残るところです。先に2人で呑んでいたのですが、遅れてタワマン住民が登場。店の女将さんとは顔見知りのようで女将さんは驚いておられました。おやおや、前段にて現代はご近所付き合いという交流スタイルが崩壊しつつあるなどと書いたばかりですが、日暮里ではまだ保たれているようですね。
2023/06/02
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前々からその存在を認知していてもどうにも立ち寄ることを躊躇わせられる居酒屋というのがあるものです。いかにも見るからに高級店というのは当然にそうした店に該当するのでありますが、これはまあ当たり前だから割愛することにします。いかにも客の入りが悪そうな店というのもつい敬遠したくなります。しかしこの条件に関してはいくらでも例外があります。話は脱線しますが客の入りが良い店/悪い店ってのはどうしたものか店の前に立った時点で不思議と分かってしまうものなのですね。表から店内が丸見えだったりするのは当たり前に認識できてしまいますが、戸が閉まっていてもそれと分かってしまうのはどうしてなんでしょうか。外を通ると酔客のざわめきが漏れ聞こえたり聞こえなかったりするのなら話は分かりやすいのですが、ざわめいていても空いている場合があるし、逆もある。もしくはそれと意識しなくてもその店の近隣を通り掛かるたびに客の出入りが頻繁にあるとかないとかを視界の隅で捉えているのかもしれない。これはまあありそうな気もするけれど、初めて訪れた町の居酒屋であっても何となく客の入りを予見できてしまうのであります。酒場の達人を自称するような変人には、店の周辺の清掃状況だったり、店先に置かれた植木の手入れの具合だったりで客の入りが分かるなどと語る人もいるが、ぼくにはそれはちっともアテにならないと思えるのだ。なんてったってぼくのような古い酒場、より端的にはボロい酒場好きには店先の鉢植えが枯れ枝のみとなっていたところで入店を躊躇う理由になどならぬのだし、実際そう考える人も少なくないようで案外混んでいたりもするのであります。そしてそういうちょっとだらしないところもある酒場はほとんどの場合、通り掛かってもひっそり鎮まり返っているものなのだ。とまあこれだっていくらでも見込み違いや例外はある訳で酒吞みが酔った頭であれこれ物思ってみても気の利いた回答など得られるはずがないのです。 ひっそりといかにもお客さんがはいってなさそうな居酒屋が三河島にもあるわけでして、ここの場合は店の前を何度も通っているからその過去の記憶の集積がぼくの思い込みに確実に作用を及ぼしているものと思われます。ご親切にも店先に品書きがちゃんと値段付きで掲げられていて、店の漂わす一見したところそこそこのお値段を取られそうな雰囲気は誤りである(つまりまずまず手頃である)ことは以前確認済みだったのです。だったらとっくにお邪魔していても良さそうだろうにどうにもぼくなど排除されそうなムードを感じ取ってしまっていたのです。なので今回は同伴者兼スポンサーを伴ってお邪魔することにした次第なのです。案の定といっては大いに失礼の極みでありますが、他にお客さんはおられません。おっとこちらは「食酒旬菜 いっさ」というお店です。後から物静かな店主に聞いたところによると開店してからすでに二十数年を経ているとのこと。へえ小奇麗な雰囲気を保って大事にしてきたんだなあってのがひしひしと感じられます。瓶ビールを呑んでいるとちょこちょこと多彩な肴が盛られたお通しが届きます。これだけでもなかなかやるではないかと高邁な感想を心で呟くのであります。その後に頼んだ1,300円(位だったかな)とは思えぬ豪華かつボリューム感のある刺身盛合せにホタルイカの沖漬け(無念にも刺身は切らしていたようです)、行者にんにくを含む充実のオールスターラインナップで楽しませてくれる山菜の天ぷらに濃厚な風味が嬉しい白エビの天ぷらなどなどいずれもとてもこの値段でやって大丈夫なのかと思わせられるほどでありました。また、各種日本酒を呑んだのですが、コップに並々と注いでくれて溢すのではなく片口にしっかりとした量をおまけしてくれるから実に有難い。なんてったって近年の日本酒の有名銘柄がズラリ揃い踏みしているのであります。ここで心に浮かぶのがどうしてここがこれほどに空いているのだろうという言葉でありますが当然に口には出さぬのでありました。後から若く態度も丁寧なサラリーマンが一人で来られたのですが、こちらは一人客はお断りしていると撤退を余儀なくされていました。仮に以前、ぼくを縛り付けていた「この店はぼくを受け入れないという思い込み」という呪縛が一時的医でも解けたとしても同様の対応をされたんだろうなあ、そしたらきっとこんな店,二度と来るかってな気持ちになって、今回の満足は得られなかったのだろうなあと思うと、ホント酒場の店主も客も全くもって度し難い程に身勝手なものだと思ってしまうのです。
2023/05/29
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三河島といえば死者160人を出す大惨事、三河島列車衝突事故でその町の名を知られる程度で、住民など駅利用者以外にはほとんど利用されることのない地味な駅です。先般JRで配布されたチラシで上中里、鶯谷、西大井などと並んで知られざる駅として紹介されていたのを見掛けましたが、まあそういった扱いもやむなしといった風情の駅前風景だったのです。ここで過去形にするのはここ数年で駅前風景が大きく変貌を遂げているからなのです。巨大な商業施設を含む高層マンションが林立しつつあり久し振りにこの町を訪れた方はきっと驚かされることと思います。あと一つよく知られているのが都内では最古といわれる(らしい?)コリアンタウンが存在することで、朝鮮半島出身という出自の人々が多く暮らしておりその多くが済州島(同名の韓国料理店が界隈にあります)出身ということらしいけれど、道行く人々を見掛けてもその方たちが在日の方であるかどうか見分けることは出来なさそうです。といった経緯もあってこの町にはそこここに韓国料理店や食材店なんかが存在していたのでありますが、どうも近頃様子が違ってきたようです。というのがベトナム料理店やインド、ネパール料理店が続々とオープンしており、とりわけ中国料理店の増殖のすごさには目を見張らされるのです。もはやその勢力は韓国勢を圧倒するほどでしかも中国勢はしばしば店舗の入れ替わりもあるからもう全容を把握するのが困難となっています。なんて毎日通っていればしっかり把握できる程度なのでしょうが、たまにこの駅を利用する程度ではきっと目視程度では判別できないと思います。 まあ、そんな一軒に「中華居酒屋 剣」がありました。ここも入ったことがあるかないかなど判然とせぬわけだったのですが、これだけインパクトのある店名でも覚えきれぬのです。でも店内に入ってみてここは初めてだろうと漠然と感じました。店内の様子がかなり賑わっていたからです。つまり周辺の数あるお店は特定のお店を除いてはどこも空いている印象があったからで、どうやら混んでいるお店のことは覚えているみたいです。そりゃまあ、混んでいるってことは一般にはそれなりに繁盛して長続きしているってことだろうし。とまあそんな状況だったので、辛うじて空きのあった奥の卓席に通してもらいました。さて、どうしたものかと品書きを眺めるとドリンク1杯におつまみ1品、そしてラーメン1杯のセットがあります。すでにたくさん呑んでいたのでそうお替りはできないでしょうけれど、小腹も空いていたのでちょうどいい。他のセットもあったかもしれませんが、その品書きが目に飛び込んできたので迷う間もなく注文を決めました。近頃のぼくにはこういう即断即決は珍しい事です。グズグズと迷うのが倣いですから。ねぎチャーシューは酒のアテには十分な一品でありますし、サワーの量もしっかりあります。ラーメンはこうした本場風の店にしてはかなり日本ナイズされていて吞み疲れした胃腸に優しい穏やかな味わいでありました。もし次があるなら一軒目で他の料理も試してみてもいいかなって思う程度の店ではありました。
2023/05/22
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いくら町を彷徨っていてもこれといった収穫を得られぬということは少なくないものであります。ネット上にありとあらゆる有象無象の情報が氾濫する現代にあっては、全くの予備知識もなく町を彷徨う機会は相当に稀有なものとなっていて、あえて知識もなくあてどのない散策を続けていると言い張れる人がいたとしたら、余程の暇人か現代日本にまだ知られざる秘境が忍んでいると信じられるロマンティストかもしくは単なる嘘つき位なものだと思うのです。なので一般の生活者がそうした状況に置かれるのは必ずしも暇ではないけれど待ち合わせなどの時間潰しだったり、そのための居場所を探索する時間程度だったりするのです。正しくそんな場面がつい先達てありました。ってかあったということを前回も記しております。でもですねえ、いくら興奮に値する物件を目撃したとはいってもそこが未だに現役であるかどうかなど確認のしようがないのです。食べログなんかも当てにならないからなあ。というかその時点ですぐ近くにいて、次なる酒場に備えて一杯遣りながらの待機中なのだから、今更ネットで確認しようがしまいがさしたる差はないのだ。無論、営業開始時間が夜の10時からとかだったりするとどうにもならないし、8時頃になっても営業してないことが判明すればさすがにもしやネットに開店時間が出てたりしまいかと調べてもみるだろうけれど、次なるお目当ての酒場に向かう中間地点にあるのだから営業していればお邪魔すればいいだけだし、もしまだやってなくても目当てを済ませてからの戻りで立ち寄ったっていいのだ。そういう意味では行きっ放しになってやってなければすごすご引き返さざる得ないよりはずっと状況はいいのであります。 さて5時を回ったので向かうことにしました。さっき通り過ぎた際には果たしてやっているかどうか確率は半々(やっている可能性の理由は感染防止対策済み認定証の存在でした、これの有無である程度までこうしたお店の営業状況の見極めに役立っているという意味ではこのステッカーにも一定の役割があったのかもしれません)といった見立てでしたが無事営業しています。営業が開始となってもやっているという兆候は極めて薄くはあります。「季節料理 みち」であります。なんとも飾りっ気のないお店ですが、いいですねえ。大いに期待した店内の様子もたまらんですねえ。オヤジさんは朦々とタバコをくゆらせつつ夕方のニュースを眺めておられたが、われわれを見るとピシっと営業モードに突入します。まあその後、手が空くと待機モードに移行するから良く言えばon/offの切り替えの良い方なのでしょう。とりあえずのビールを頼むと、刺身でも見繕いましょうかと仰るのでじゃあ、控えめにお願いしますと答えますが、実はこちらのお店、短冊の品書きが下がっているのですが、値段の標記がないタイプのお店なのでちょっとびくびくなのです。で刺身は2種、ごついのが切り身が各5枚であります。恥ずかしながら赤身は鮪か鰹か分からず終いでありましたし、それこそ白いのは何の切り身だか全く見当もつかなかったのでした。この時点で結構お腹が溜まったのですが、さすがにそれじゃあ申し訳ないからほうれん草の卵炒めを頼んだのでした。するとこれが2束ほどもありそうな大量のほうれん草が使われていていくら食べども減らぬといった具合でなんともサービスがいい。これは4名程度で奥の座敷に上がらせてもらって呑むのが正解かも。気になる支払いですが、ご安心あれ、思いもかけずお手頃でありましたから、この雰囲気が好きで紫煙が気にならないようであれば、また来たいと思えるはずです。
2023/05/03
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例えばネパール料理店があったとする。なぜ数ある料理店からネパール料理店を選択したかの理由は単にこの夜訪れたのがネパール料理店であったからなんですが、まず問題としたいのがいかなる理由をもってネパール料理店を標榜するのだろうか。ぼくはネパール料理を好きであるし、ひと頃は好んで通ったこともあります。でもネパール料理店を標榜するとある店のシェフはインド人だったのです。ここでハタと疑問が湧いてくるのです。ネパール料理店であるならばネパール人が料理を作るからネパール料理店であるわけではないのだということです。そりゃまあそうでしょう。ネパールと苦に出せば簡単にひと言で言い表せますが、実際のところは知らぬけれど、民族だったり宗教だったり、国内における地域性もあったりするだろうから、単純に統一されたネパール料理など存在しないはずに思えるのです。仮にネパールが単一の民族、宗教による国家であって、気候や土壌などの差異が存在しない国であったとしても、世代だったり年齢だったり性別、それこそ体質や味の好み、飲酒習慣の有無などなど次第でもどことなく似ていなくはないけれどでもやっぱり違う料理じゃないのっていうものも同じネパール料理として一括りにしてもいいものなんだろうか。さほど厳密でもないけれど、大雑把ではあってもちょっと疑問を抱いてしまうとこんな風にネパール料理と雑なカテゴリーで分類することが誤りのような気がしてしまうのだ。でもここでとりあえずの私的な見解を表明するとそれでいいのだってことになるのです。店の人がうちはネパール料理店だって標榜した時点でそこはネパール料理店であって、インド料理に近いなあなんて思ったとしてもそこはインド料理店ではないし、バングラデシュ料理でしか使われていたことのないスパイスが使用されていたとしてもそこは断じてバングラデシュ料理店ではないのだ。店の人がベンガル語でうちはネパール料理店だと告げたならそこはネパール料理店なのです。実際のところ、都内には数知れないほどのネパール料理店があって、個々の店を識別するのに新宿のネパール料理店に行こうなんて言い方はせず、店名で語ることが多いと思うのだ。逆に料理店が数軒しかない店でもネパール料理店とは呼ばれずカレー屋に行こうってな言い方がされていそうに思うのだ。まあ、何にせよ今回は三河島のネパール料理店の話をするのです。 その店を見つけたのは、三河島駅のホーム上からでした。以前は、「三河島焼き鳥酒場」なる極めて散文的なる素っ気ない店名の看板が知らぬうちに「ニューアユス(New Ayush)」なる得体の知れない看板へと置き換えられていたのです。いつものことではありますが、「アユス」とは何ぞやと気になったので調べてみたところ、Ayushとは、Ayurveda(アーユルヴェーダ)、Yoga and naturopathy(ヨガとナチュロパシー)、Unani(ユナニ医学)、Siddha and Sowa rigpa(シッダ医学とチベット医学)、Homeopathy(ホメオパシー)の略語とのこと。ぼくには、"A"、"y"、"h"しか聞き覚えがないけれど、つまりは西洋医学とは異なるインド医学の総称のようです。Ayushを管轄するAYUSH省なるインド政府じきじきの機関も存在するらしいけれど、それのNewだから事前に知っていたらよほど先進的かつ先鋭的な店主がやっているのではないかと警戒して訪れることはなかったかもしれません。でも以前と同じ場所に看板を掲げているということは業態のみ転換しただけではなかろうかという予想は少しの意外性もなく的中したのでした。内装こそ手が加わっていますが、以前の緩い焼鳥酒場の印象はそのままです。店内には先客がいて国籍不明のカップルだったんですが、イチャイチャしながら青菜炒めやらコールスローなんかを召し上がっておられました。ここがお手頃なのは知っていたので、まずレモンサワーを注文。メニューを眺めるとおお、ダルバート(この店ではダルバトセットの標記)が550円はお得ですね。これで味試しすることにしよう。ところが待てど暮らせど出てこない。豆の粉のお煎餅のパパドだって随分経ってようやく登場。3名のみの客なのにオーダーが通っていなかったみたいです。やがてレンチンの音が響き渡ります。ここですでに少し嫌な予感がしていました。出されたセットはちょっとチャチですが、まあそれなりの体裁は保っています。豆カレーのダルにマトンカレー、ニンジンときゅうりをスライスしただけのサラダに謎のチャツネ、大根のアチャール(でいいのかな)にもそもそのライス(インディ米でもタイ米でもない謎の古米)が盛り合されています。穏やかな風味の印象があるネパールのダルですが、ここのはドライな味わいで違和感があるけどまあこれはいい。マトンカレーは作り置いてレンチンしたのだろうかちょっと生臭いのです。でもこれはまだよかった。チャツネはトマトなのかなあ、食べられなくはないけどこのセットには合わないかな。問題はアチャールです。恐らく写真では見て取りにくいべっとりとまとわりついたオイル(多分マスタードオイルなのかなあ)がこれまで経験したことのない独特の刺激味と臭いだったのです。何の味も付いていないニンジン、きゅうりが清涼剤のように感じられました。それでも何とか食べ切ったところへ店の方がライスのお替りを尋ねてくれますが、丁重にお断りしました。きっと悪気もないし、彼らはこれを普通に食べてるのかもしれませんが、これまでぼくが食べてきたネパール料理とは全くの別物でした。その後、ラッシーも出てきたのですが、いろんな理由で呑み切れませんでした。店を出るといつもの立ち呑み屋に向かったのですが、普段はクリアな味のチューハイが謎のオイルの影響がとんでもなくえぐく感じられてちっとも進まなかったのです。ネットを見ると好意的な評価もあるので、これはあくまでもぼく個人の感想ということでお聞き流しください。
2023/04/28
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事前調査もなくとある縁の薄い町で呑むことになった場合、ぼくは居酒屋を探し求めます。酒が呑めさえすれば居酒屋以外のどんな店で呑んだって構うまいってなわけにはいかないのであります。まあ、居酒屋であっても全国どこの店も変わらないチェーン系居酒屋やファミレスは選ばぬだろうし、バーは気分次第、店次第で選択肢に加えることはあるけれど、スナックなどの酒を呑ませることを第一義としない店には訪れることはないのです。まあ、スナックの場合は目的が酒の場合は純粋に酒場としても利用できなくはないけれど、一般には店の人や常連との語らいやカラオケなんかも同等の価値を置いているように思えます(これはぼくの未完成の定義でありまして、詳細については、Wikipediaの「スナックバー」に記載があります)。まあ、何だかんだ書いてみたけれど、とにかくスナックでは極力吞みたくはないのです。例えば最果ての町で酒を呑ませる店がそこしかないってことになればそりゃまあスナックにだって足を向ける可能性はなくもないのだろうけれど、久しくそのような町(そもそも酒を呑ませる店がせいぜいスナック位しかないような土地を町と呼んでいいものだか疑問ではあります)に赴いてはいないのだ。だけれどそんな特殊な条件でなくともごく稀にスナックへと足を踏み入れることがあるのでした。そんな事態に陥る理由はいくつか考えられるけれど一つには見た目には居酒屋なのに内情はスナックそのものである場合があります(適当な事例が見つからなかったけれど、以前書いた町屋の「初歩」(https://plaza.rakuten.co.jp/nilic/diary/202211090000/)がそれに近いかと)。場末の居酒屋に行くとこの手のお店は少なくなく、多くは客の要望からカラオケを導入することでスナック化するということが多そうです。もう一つの理由として考えられるのは、酔った勢いというヤツです。先の事例も少なくないが、実感としてはこちらの場合が多いのです。 町屋にも居酒屋を標榜しつつもその外観はどう見てもスナックというお店があります。ガラス扉の紫がいかにもいかがわしい雰囲気を店にもたらしていると思うのですがいかがでしょうか。店名は「居酒屋 町屋おんじ」と何だかよく分からないけれど、スナックとは程遠いのもユニークではあります。でも、普段の酒の入っていないぼくならまず近寄ろうとはしないタイプのお店なはずだったのです。足を踏み入れたのは、そうなのです、軽く酔っていたからなのでした。酔っていたから不安よりも好奇心が勝っていました。果たして内実はスナック風の外観に見合ったものかむしろ標榜する居酒屋に近しいか、躊躇もなく扉を開いたのでした。答えは後者でした。見た目からしていかにもな雑然とした居酒屋の風景が広がっていました。しかもかなりの客の入りです。カウンター席がないので一人だとちょっと辛そうですが、平気で一人で酒なしの食事をとっているお客さんもいます。品書きを見ると、なるほどいずれもお手頃価格であります。種類も豊富で小腹に溜まりそうなラインナップも充実しています。なるほどこれならねえ、そこそこ賑わう訳です。紫の扉だけでも手を入れたらいいのになんて一瞬考えが過りましたが、現状でこれだけの集客があるならあえて手を加えなくても十分成り立つということか。この客たちも皆さん、ぼくと同様にスナックか居酒屋かを賭けして入ってこられたのだろうか。きっとそれは違って、思い切って訪れた何名かの人たちか口伝で広めていったんじゃないかと推測されます。すっごい旨いとかそういう店ではないけれど、お手頃に立ち寄るにはなかなか悪くない居酒屋でありました。
2023/04/26
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いやはや全くもって呆れるばかりに時間の経過が早すぎて花見の季節もとっくに過去のことに成り果ててしまいました。というか桜の開花時期も年々繰り上がっているようで、桜を主題とした歌謡曲の数々もそう遠くない将来には不可解な歌詞と受け取られるようになってしまうのかもしれません。っていうか現在辛うじて新生活のスタートの時期と桜の季節が一致しているとして将来には夏の始まりとかに置き換えられてしまうかと思うとゾッとなるのです。それはともかくとして本当は花見、いや花見にかこつけて昼吞みについていっちょ語ってみようかと思ったのです。というのが、昼からやる花見の宴会が大好きだっていったような肯定的な話ではなくて、むしろぼくは昼酒というのはどうも体質に合わないのです。待ち遠しい夜に呑む酒は旨いのに昼に呑むと余り旨いと思えないばかりでなくどうもアルコールの蓄積が体調に悪影響を及ぼす、端的にはだるくなってどうにも気分よく酔えない気がするのです。でもこれって実は気のせいではなかったようなのです。超お酒が飲みたいッッ!! 「昼間の酒が酔う理由|気のせいじゃなかった!驚愕の事実が判明」https://beer-whiskey.com/2018/11/06/%E6%98%BC%E9%96%93%E3%81%AE%E9%85%92%E3%81%8C%E9%85%94%E3%81%86%E7%90%86%E7%94%B1%EF%BD%9C%E6%B0%97%E3%81%AE%E3%81%9B%E3%81%84%E3%81%98%E3%82%83%E3%81%AA%E3%81%8B%E3%81%A3%E3%81%9F%EF%BC%81%E9%A9%9A/ この記載の信憑性のほどは定かではないけれど、いちいちぼくには納得のいくことなのです。科学的というよりは経験的に合点がいくのです。特に昼は、アルコール分解酵素であるアセトアルデヒド酵素の分泌が少ないというのはもっともに思えるのです。確かに昼に呑むと量は少しあったとしても顔に出たり(赤くなる)、呼気もアルコール臭がいつもよりしぶとく残ったりするのです。そういった身体状態への説明がその理由だけでも充分に説明が付いてしまいそうです。というか他の3つの理由、「活動的な為」というのはぼくの場合、呑むと普段ならその気に慣れないような遠方に平気で歩いて出向いたりすることもあるからこれには当たらない気がするし、「空腹時が多い為」は、昼だとランチついでに呑むことが多いからむしろ夜よりも食べることが多いし、「気の持ちようの違い」は、つい呑んじゃった場合はともかくとして前日から昼吞みするって気合が入っていたところで事態は変わらないのです。ともあれぼくは昼吞みは夜の吞みに影響を与えることを経験的に知ってしまっているので、できれば避けたいと思っているのですが、それでもまあ出張先で所用が早い時間に終えられたときにはいそいそと営業している酒場を探し求めているのだからまあ困ったものであります。 さて、選り好みさえしなければ昼吞みできる店はファミレスなどを含めて少なくはない。でもぼくが好きな酒場らしい酒場は早い時間から営業している場合はそう多くはなし、同様に町中華や蕎麦屋も中休みなしの通し営業ってのは案外探し求めていると出会えなかったりするものです。案外見掛けるのはチェーン店風でありながら単独した店舗である場合だったりします。「大衆食堂 安ざわ 町屋本店」もまたそうしたお店のようです。といか町屋本店とあるから町屋支店もありそうだし、全く別の場所に××支店があるのかもしれないが未確認であります。近頃チェーン展開していないのに今後の飛躍への祈念を込めてチェーン店風にナントカ店って記載するお店ってよくあります。さて、すでに書いたようにここにお邪魔したのは夕方にようやく差し掛かるかどうかっていう時間帯でした。ですが、すでに中年カップルや中年女性の2人連れなんかが呑んでいますね。つまみはポテトフライの明太マヨ添え、激辛ナッツ、メンマ、酒は翠ッピーとお手頃メニューを中心に組み立てます。翠ッピーって初めて呑みましたが近頃よくお見掛けしますねえ。翠という銘柄の日本製ジンをノンアルコールビールで割ったもので、ぼくにはあまり口に合わなかったですね。ジンはオーセンティックな呑み方がいいかなあ。でもまあつまみは非常にお手頃で100円程度の激辛ナッツは量もしっかりでこれだけでもいい位。ってそれじゃあやっぱり「空腹時が多い為」に該当してしまいますね。そもそもこちらにお邪魔したのは、ここからさらに10数分町屋の奥地に踏み入った場所にある町中華で通し営業のはずがやってなかったから仕方なく昼吞み出来る酒場を求めて駅まで引き返してきたから「活動的な為」にも該当しちゃうなあ。そのおかげでこれまで認識していなかった実に風雅な酒場を目撃することが叶ったのだ。しかしそこが減益かどうかまでは確認できなかったからまた引き返さざるを得ないのでありますが。この酒場から駅寄りには昼吞みできる酒場がいくつもあるけれど、ここは時間調整には実に都合の良いお店ではありました。おっとそうそう店の出がけに気付いたのがハッピーアワーの存在でしたが時既に遅し。以前はこういう貼り紙を見逃すことはまずなかったんだけどなあ。
2023/04/19
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大好きだった酒場が装いを新たにすることでかつての親密さを失ってしまうというのはさほど珍しいことではありません。装いを新たにする方法は色々ですが、典型的なのは店舗そのものの改築だったり改装だったり、場合によっては移転だったりが考えられます。古い酒場が好きなぼくにとってはそれは由々しき問題であるのですが、時の流れには抗い切れぬ事情もあることを理解できないほどに身勝手な考えは持ち合わせてはいないと思っています。大体において問題となるのは、代替わりなどをきっかけにして老朽化した酒場がリニューアルすることが店舗そのものがあ鱈育なるばかりではない多様な影響がもたらされることにあるのです。変化のきっかけを代替わりと書きましたがそれ自体が大きな変化であることはもちろんですが、仮に単に店舗のみが変わっただけであれば始めこそ未練たらしくぼやいてみせたりするかもしれませんが、やがてその環境にも馴染んでくると元の店舗のことを懐かしがってみたり、当時のエピソードを振り返ることが会話を活性化させる起爆剤ともなり得てくることもあるのです。でも多くの場合は店舗のみの変化では済まされないのでありまして、そしてその変化が良い方に向かうかというと残念なことにそうした事例はぼくには皆無だったりするのでした。 町屋には何軒も知られた酒場があるけれど、「亀田」は酒場マニアよりもむしろ地元住民にこそ愛される酒場のように思っていました。酒場マニアが一目置くばかりではなく、実際に地元の方の支持を得ているというのはものすごい強みがあるはずでした。1950年の開業というから開業当初からこの店に通い詰めてこられた方はもうほとんどいなくなってしまったかもしれません。でももしたったお一人でも存在していたとしたらその方は現在の「亀田」で呑んでどうお感じになられるのだろうか。ぼくなどはこちらで呑んだのは片手程度の回数でしかないから偉そうに語れるはずもないのだけれど、だからこそその変化には敏感になってしまうのです。いややはり、それは常連さんたち―もはやかつての常連さんたちはそれ程残っていないのかもしれませんが―は、こそが身に染みて感じていたことに違いないのだろうと思うのです。端的に言うとかつての賑わいはどこへやら、驚く程に空いているのです。それは週末の20時頃という繁忙期の最高潮のタイミングで4人が待たされることもなく通されることからも察せられるのです。席に着いて改めて懸念したのは、まず接客がとんでもなく横柄だったり酷い対応に晒されるのではないかということでした。ところが店の方の応対はむしろ以前よりも親切だったように感じられます。と品書きを眺めて驚いた。何に驚いたかについては語らぬことにします。驚きの原因については語らぬけれど、これってぼくのようなごくごく稀に思い出したようにしか行かぬ者なんかより毎夜通い詰めていた人にとっては死活問題ではなかろうか。というより実際にそれで客足が遠のいたであろうことは想像に難くないのでした。そりゃねえ、ここに至るまでにはいくつもの苦渋の果ての決断があったんだと思うのです。客商売素人のぼくにでも思い当たる理由がいくつもあります。でもそれでもやっぱりぼくには残念に思えてならないのです。ああ、かつてのここの良ささえ知らなければ普通に褒める事すらできたかもしれぬかと思うとつくづく残念です。
2023/04/14
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どうもこのところ駅近好立地といわれるような場所でも空き物件が増えているように思われます。駅から遠い場所にある物件であれば分からなくもないけれど,駅の傍にこうも多くの空き物件が(しかも都内で)増えるというのはやはり日本が現状、相当に体力が落ちてきていることの証左のように思われて気が滅入ってしまうのです。それにはコロナの影響も多分に受けているはずではありますが、それだけが原因ではなさそうです。日本の衰弱化が思っている以上に加速しているような気配が感じられてそのことを考えると夜も眠れなくなるのです(嘘)。一方で在宅勤務の普及などに起因して都民の地方流出していたのが、また都内へと回帰しつつあるようだから住宅への需要が高まりに応じてそのうち駅近の空き物件も有効に利用されてくることも期待していいのかもしれません。西日暮里駅にも駅に隣接した空き店舗物件がありました。朧気な記憶が正しいならそこはかつてはケンタッキーフライドチキンだったんじゃないかなあ。まあ過去はともかくとして今では7つの店舗が入居する西日暮里スクランブルなる複合施設として用いられるようになりました。たまたま知人と一緒でその知人が待ち合わせまで30分程度あるとのことで、ならば駅近でサクッと呑むことにしようということになったのでした。 駅に着いた時点ではどこで呑むかなんてことは全く想定しておらず、取り敢えずは近場ということだけを条件としました。あわよくば未訪店だとなおいいと思っていたのですが、そうも上手くはいくまい。そう思いつつ存在だけは認知していた立ち食いカレー屋の「SPICESH(スパイセッシュ)」なるお店で呑めぬかとちらりと眺めますが、さすがにカレーも食べずに立ち寄るのは気が引けます。どうしたものか、かつてであればお向かいの雑居ビル2階にあった「居酒屋 さと」にお邪魔すれば良かったのにと眺めやりつつ視線を戻してみると、おやおやカレー屋の上のガラスの向こうにカップルがスツールに腰掛けてビールらしきものを飲んでいるのが目に留まりました。2階はバーにでもなっているようです。「西日暮里BOOK APARTMENT」の隅にある階段を恐る恐る上がるとバーカウンターがあるではないですか。短時間で呑むには好都合なスタイルのお店に思えます。そんな次第で立ち寄った「NIGHT KIOSK」は4種類のクラフト生ビールに加えて目にしたことのない缶のクラフトビールが多種揃っていました。店のお姉さんが店のシステムをフレンドリーに説明してくれましたが、その内容はさして説明を要するほどのことでもないけれど、大事なのはフレンドリーな点にあります。さっと1杯呑んで帰られる風景は駅近ならではです。4種の生から頼んだ銘柄はちょうど切らしてしまったらしく、似た風味のものをといって出してくれましたが、そこは客に選ばせた方がいいんじゃないかなと思いはしたもののまあ文句を言うまでもありません。肴はすぐに出るものとオリーブをお願いしましたが、そこまで手の込んだ品はないけれど、餃子などの肴も食べさせてもらえるようです。まあ、ここはさっと酒を引っ掛けて長っ尻しないのが粋な使い方に思えます。とかなんとか言って結局生を2杯と瓶を1本、ポテトフライも追加しちゃったんですけど。とまあ値段はけして安くはないけれど、気軽に立ち寄れて店の方もフレンドリーでこうした1杯サクッと吞んで多様なビール類が楽しめるこんな店も今後は各所に増えてくるように思えました。
2023/04/10
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ことさら町屋に限った話ではないけれど、目を付けていた酒場目当てにとある町を訪れたとして、その酒場に向かいながら自分がここに住むことになったらどうだろうなんてことをよく考えたりします。そんな他愛ない夢想が案外楽しかったりするのです。でも思ってみるだけで実行に移す気力があるかというとそうでもないのです。ぼくは都内に腰を据えるまでは10回近く引っ越ししていて、引っ越しの大変さを実をもって体験しているからです。まあ、10回というのが必ずしも多いかどうかはともかくとして、今、引っ越しをしたいかと問われれば否と答えると思うのです。一つには今住んでいる町がこれまで過ごしてきたどこよりも便利で環境も悪くないと思えるからであるけれど、それ以上に面倒はなるべく回避したいのです。幸運にもそんなにお気に入りの町に済むことができていて、面倒が嫌だと言い張るのに、それでもどこか住んだことのない町で暮らしてみたいと思ってしまうのだからこれはもう単に飽きっぽいといった話ではないのかもしれません。けして住みやすいとは思えない土地で生まれて、死を迎えるその瞬間までそこを離れずに過ごして当たり前に生涯を全うする人々が少なからず存在ようですが、そんなシンプルな生き方にいくらかの羨望を感じつつもぼくには耐えられないのだろうななんて思うのです。ぼくの旅への渇望はかなり潰えてきています。旅のように通り過ぎるだけの隙間風のようなやり方よりは、むしろ短期的な移住みたいな町の一部となって過ごすようなやり方をしてみたいと夢想するのです。などと自身の心境など語っていますが、いやいたのですが、3月も中旬に至ってパッタリ文章を書くのが苦痛になってしまい放棄したままになっていたのです。だからここまでの文章と町屋の老舗飲食店との関係性を結びつける術も思い出せぬままに先に進める無法を働くのです。 町屋から王子方面に数分歩いて行くと串揚・天ぷら、右に和食・洋食とテント看板に記載のある食事処があります。ネットの情報によると「昭和30年に先代が天ぷらの店頭販売のお店は始め、昭和47年に2代目が店内でも飲食できるようにし」たというからなかなかの老舗と捉えて差し支えなさそうです。「藤家」という屋号もなんか悪くないですね。店の構えはごくありふれた居酒屋といった構えで特に目立ったところもなく老舗風の敷居の高さもない分、目を楽しませてくれるような何かがある訳でもないのです。ところで、最初にお断りしておきますと、この日は総勢4名でお邪魔することにしていたのでぼくには珍しく予約してから伺ったのですが、このやり取りでお店の方にとっても我々にとっても好ましからざる関係に陥ったのでありますが、そのことには敢えて触れぬことにします。ご夫婦で長年やってこられたとのことですが、心配なことにご主人が体調を悪くされてご不在でした。女将さんだけなので十分にサービスが行き届かぬかもしれぬというお断りがありましたが、それはそれで酒のお替りはセルフサービスで協力させていただくことで不満はありませんでした。肴も手が回らないところもあるとのことでしたが、この日に仕入れたばかりの新鮮な刺身はありますし、ハンバーグにメンチカツといったちょっと手間の掛かる品以外はご用意いただけました。確かに品数こそさほど多くはないけれど、和から洋まで幅広い用意がされていて個人店としては確かに頑張っているなあと思わされました。ほとぼりが冷めた頃にそしてご主人が復帰された頃に今度は予約なしでそっとお邪魔できればと思っています。
2023/03/31
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どうしたものかこのところ心がざわついています。目先に大きな懸案があるとか健康面で不安があるとかそういった理由ではなさそうです。無論、生きている以上はちょっとした悩みの十や二十は常に抱えているし、健康にしても万事会長ってわけにはいかないけれど、今すぐにどうだって問題ではないのです。いやこの心のモヤモヤした状態を招いているのは、必ずしも大問題に起因しているのではなく、そうした細々とした小問題が原因となっているのではないだろうか。でも仮にそうだとしたら時間を要するかもしれないけれど一つ一つ片づけていけば済むだけの事ではないだろうかとも思うのだ。問題を小問題として認識できているということはその問題について理解できているということだからさして気持ちが晴れないなんてことはないように思えるのです。ということは、まだ問題として可視化できてていない何事かがあって、その何事かが問題となり得ると訴えかけていて、間もなくぼくの認識に浮上しようとしている段階にあるのではないだろうか。それとも逆にすでに何事かはぼくの知らぬうちに解消されているにも関わらずそれを知覚できずにいるんじゃないだろうか。だとするとその意識できずに過ぎ去った何事かは死ぬまでずっとぼくの心の片隅に巣食って留まり続けるんじゃないだろうか。それってとても辛い状態に思えます。そんな時、独りで呑めば内省が上手く作用してそのモヤモヤの正体を突き止めることに繋がるのかもしれません。でも愚かなぼくは知人とともに呑んで憂さ晴らしするという目先の享楽に飛びついてしまうのでした。 と書くことがないからって青臭い省察を試みてしまったけれど、呑める程度のモヤモヤはまだまだどうってこともない状態に違いないのであります。いつもは店の選り好みで愚図愚図しがちなぼくではありますが、この夜はその意欲も潰えていたから知人の言うがままに西日暮里駅からすぐの居酒屋に連れられていたのでした。西日暮里には「はやしや」や「さと」が閉店してからというもの西日暮里とはすっかり縁が薄くなってしまいました。それはさておきお邪魔したのは、「いざかや 漁火」でした。これまで数回訪れていて、その度に印象に残るような店ではないしきっと数カ月も経つと忘れてしまうんだろうな、なんて思っていましたが、いやはや不思議なことにやけに記憶が鮮明なのです。記憶ってのは不可解な働き方をするもんですねえ。って、ここまで書いてきて前段で書いた憂鬱がどこかに消し飛んでしまったことに気付かされます。ここ数週間、酒量が増えていて体力がアルコールに奪われていたのが良くなかったんじゃないかなあなんて思い直すことにしますここに来ると決まって入口付近の2人掛け卓席に通されます。奥は予約が入っているみたいですが、後は一組のみで空席もたくさんあるのにどうしてかなあ。早く帰って欲しいとか思われてるのかしら。実際、知人は急な会合への呼び出しが入ってしまい1時間に満たない滞在にはなりましたが、矢継ぎ早に肴を注文していたから良客であったと思うのですが、どうした配慮によるのだろうか。ここは結構しっかりとした料理を出してくれるけれど、量は少なめで値段はそこそこいい値段であるというまあ極めて普通のお店ではありますが、なぜか来る度にポテサラや写真にはないけれど梅水晶やだし巻きなんかを食べている気がします。最後に知人が高菜チャーハンを頼んだのですが、メシ物は初めてだったかな。案外美味しくてこれは量もたっぷりと満足感が高かったのでした。
2023/03/17
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ぼくが若い頃に台湾料理がちょっとしたブームとなりました。どうしたものか台湾料理店というよりも台湾小皿料理店として一般に膾炙したように思えています。大皿料理寄りも色んなものをちょっとづつ食べたいというのは日本人の特性なのか金持ちの修正なのかよくは分からんけれど、とにかくそれなりのクリーンヒットとなったようです。でもそれもひと昔、いやふた昔前のこと。その後、台湾料理を代表するようなルーロー飯などに特化したお店なんかがむしろ主流になったように感じれます。って今回は写真がたくさんなので、余りのんびりしていられません。どうやら近頃になって台湾料理に再ブームの兆しが到来しているらしいのです。そういやちょっと前に御徒町でお邪魔したのも台湾料理店だったはずです。 さて、訪れたのは「府城」です。府城とは清朝における台湾府に置かれた城郭と都市を意味するらしく、正確には「台湾府城」と書くようですが、ならば店名も「台湾府城」とした方が店の売り物が明確になって良さそうですが、まあ色んなお考えがあってのことなのでしょう。通りから少し引っ込んだ目立たぬ立地でお隣は「胡弓」っていう中華料理店と競合しているのに思い切った店舗選びであります。そういやこの辺の中華料理店って味は悪くないけれど、結構強気な価格帯で勝負する店が多いです。さて、妙に静かな店の戸を開くと、なるほど他にお客さんはいませんね。ぼくらは3人だったのですが、3時間ほど吞み食いした間に来られる客は一人客が2組のみと集客には苦戦なさっているらしい。ご主人は物静かな感じですが、にこやかでいい感じ。女性従業員は元気溌剌なニコニコ娘さんでフレンドリーな接客が実によろしであります。鶏を酒、醤油、生姜、バジル、ごま油で炒めた三杯鶏、干し大根と卵を揚げた菜圃蛋、乳酸発酵させたササゲをひき肉と炒めた酸豆炒肉末などなどかつての小皿時代には余り食べられなかった日本の味付けとは全く異なる料理が数多くあって、異国の料理を食べておるなあと実に美味しく楽しいのです。酒も進む進む。その割にちゃんと食べたせいか翌日は案外ダメージが少なくて済みました。やはり呑む時にはちゃんと食べるのも大事ですね。ということで貸切みたいな雰囲気でゆっくり堪能できたのであまり知られたくない気もするのですが、食べログみると結構な高評価を受けておられるようだから今更このブログに書いたって大した影響はないのかも。
2023/03/10
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子供の頃、寿司屋にはとんと縁がありませんでした。たまに食べるとことがあっても親がスーパーマーケットで買ってくる助六寿司か「小僧寿し」のバッテラといった程度でした。そのうち両親の仕事がちょっとばかり忙しくなったことがあって、そこで初めて寿司屋との縁が生じました。といっても実際に店舗に赴くという記憶は残っておらず、もっぱら出前寿司を頼む程度でした。いつも決まって並みか梅の1人前。それと並行するように盛り込みのパック寿司が家庭にお目見えすることになりました。それだって当時のぼくには大変なご馳走に思えたものです。その頃、酒?みだったならこれじゃいかにも貧相に思えたかもしれませんが、幸いまだ飲酒するような年頃じゃなかったからそれだけで十分満足できていました。だからちゃんとしたカウンターで目の前で握ってもらう寿司屋で食べることができるようになったのは、長じて日常的に酒を嗜むようになってからのことでした。それどころか回転寿司なる店舗に入ったのもちょうど同時期だったのです。だから未だに寿司屋には苦手意識というか抵抗感が付きまとうのです。だからずっと寿司なんて食ってたらすぐに腹に溜まってまともに酒も呑めないだろう、なんて強がってみせたりもしたものですが、いかにも見え見えな強がりと悟られていたはずです。なんて書くといかにも貧しい家庭自慢みたいですが、まあ実際には実家は典型的な中流家庭でありまして、普段は慎ましく過ごしても時には贅沢に旅行したり食事に出掛けたりということもあったのです。家庭で寿司は滅多に食べなかったけれど、刺身は頻繁に食卓に上っていましたから。と手前の寿司遍歴を語るつもりはなかったのですが、長くなったので本当に書きたかったことは次に寿司屋に行ったときまで撮っておくことにします。ってきっと忘れちゃうんですけどね。 さて、知人に車で日暮里まで送ってもらい、そのついでに寿司までご馳走してくれるという。寿司を食べる機会が多少はあるとはいえ、日頃一人もしくは友人たちと?む際に寿司屋という選択肢はあり得ないのです。いい年をした大人が寿司屋で自腹で呑むことなどないと強く断言することに少なからず恥じらいを感じているのだけれど、事実であるから隠し立てせず打ち明けることにします。なので、誘われたら断る理由など見当たらないのです。しかし、この日は違っていたのです。なぜかというにこの2日前にgo to eat TOKYOの期限が迫ったため、慌ててテイクアウトの寿司を持ち帰って食べたばっかりであったし、その前夜は厳密には寿司屋というよりは寿司居酒屋といった方が実態に近いお店で呑み食いする機会があったばかりなのです。寿司は大好きでありますが、連日続くとどうにも身体が生の魚介を受け付けなくなってしまうのです。魚介というのは思っている以上に脂が強くてぼくのひ弱な臓器にダメージを与えてくれるようです。でもちゃんとした寿司屋で呑める機会など我が残りの人生にそう何度もなさそうである。というわけで重い胃腸ながらも向かったのは「喜せん」でありました。日暮里だから限界はあるけれど、この界隈の店舗としては瀟洒な外観であり期待を抱かせてくれます。店内もカウンターよりは卓席がメインの落ち着いた内装となっています。職人の2名は親子なんでしょうか。努めて表には出さないようにしたけれど、どうもこのお二方には確執があるようにお見受けしました。時折ぎすぎすしたムードが揺蕩うのを鋭敏なぼくの感性は捉えてしまったのです。でも出される刺し盛やお好みの握りは実に立派なものでした。胃腸の調子さえ良ければ当然に日本酒としたいところですが、この夜は生ビールにウーロンハイの流れで目一杯です。赤貝が美味しかったなあ。鮮度の差なのかよく分からないのですが、貝類ってきっちり値段の差が味の差に反映される気がします。昔は貝類にはあまり興味がなかったんですけどね。年を重ねるごとにゆっくりと好きになっています。それと都内ではシャコがなかなか食べられないので頼んだのですが、今年はシャコの入りが良くないみたいでお預けとなりました。でも勘定の金額を聞いて、この先ぼくがちょっと寿司でも摘まんでいこうかってなることはやはりなさそうに思えるのでした。
2023/02/10
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昨日までは大好きだった料理や酒が急に好きではなくなっているってことがあります。夜のニュースで信頼していた製造元だったりの食材や調味料が実はとんでもない素材から作られていたことが判明したなんて放映されているのを目にしたりするともしかすると突如として嫌悪を抱くなんていう事態が生じることがあるかもしれません。大好きだった上司が家庭では奥さんの尻に敷かれているとかマザコンだったりして一挙に熱が冷めるといったことと同じようなものなんでしょうかね。ちなみにぼくの場合は誰かに憧れるといったこともないので、見なければ良かったような好意を寄せる対象の裏側に何が隠されていたとしても驚きはすることがあっても絶望したりそれだけで嫌いになったりはしないと思うのです。ペシミスト気味のぼくはどうしても常に負のイメージを前提に物事を見る傾向が強いようでそれが精神衛生の上で自身を守るのに功を奏しているみたいなのです。でもそうしたあからさまなきっかけに気付けぬうちに嫌いになってしまう場合があって、そうなるとペシミストとであることが何ら役立たぬのです。というか理由が分からぬ以上は他の好物もいずれ嫌いになるのだろうと悪い方にばかり気持ちが傾くからよろしくない。そうした場合にぼくはその料理や酒に飽きてしまったというレッテルを張ることで嫌いになった理由としてしまうのです。ホントはきっと嫌いになるのは飽きることに先んじている気もするのです。理由が分かったとしても飽きたという状況は解消するのが困難だからまた厄介なのです。唐突に飽きたという気分が消し飛ぶのをじっと耐え忍ぶしかないのです。 実は、「太平山酒蔵 日暮里店」の肴も突如口に合わなくなったので飽きたんじゃないかと思うことにしました。そんな気分で呑みに行っても余り楽しくはない訳ですが誘われると断れぬからホイホイと従うのです。で、やっぱり席に着いてみても気分が盛り上がってはこないのです。どうやらぼくはこの繁盛酒場に対してかなり強い飽きたという勘定を抱かされているようで、しかも質の悪い事に特定の品物に対してだけではなく、この酒場の味全般に対して飽きてしまったようなのです。刺身なんてものは料理人の技術が仕上りに対してそれなりの影響を及ぼすとは思うけれど、超一流店でもない限りはそこまでの差異をもたらしはしないと思うのですが、どうしたものかこちらの場合、刺身ですら飽きているという印象を受けてしまうのです。他人の家に遊びに行って独特の生活臭にどうしても馴染めず滞在中終始食欲が湧かないといった感じに煮ているのです。そういえば昔の居酒屋にはそういった感覚にさせられることが少なからずあったように思うのです。これって何かしらのアレルギー反応によるものなんだろうか。毎日のように通っている客も見受けられるのでありますが、彼らはそのアレルギー源に耐性があるって考えれば理解はできるけれどどうもそんな単純な問題ではなさそうに思えます。できることならしばらくはここに呑みに来るのを控えたいものだけれど、そうもいかぬのだろうなあ。逆に荒療治ではあるけれど、もっと頻繁に訪れると一転して毎夜でも通いたくなったりするんだろうか。ここの雰囲気好きだから適度なペースで通いたいのが本音なんだけどなあ。
2023/01/25
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この間も書いたけれど、町屋のような町がぼくにはちょうどいいようなのです。呑み屋の少ない荒川区ではそれなりに酒場も充実しているし(し過ぎてもいない)、ごくありふれた酒場から通好みのちょっと入りにくかったりする酒場まであるというその多様性も魅力となっています。ぼくの好みは無論後者のハード系でありますが、ハードな酒場ばかりが密集している町があるとすればそれはそれで興味深くて当然偵察に赴くことになるのでしょうけれど、いざ店を選ぶのはどうしても迷ってしまうことになると思うのです。それはハードな酒場ばかりが多く店を連ねているとするとそれなりの人出があってしかるべくところなのに、ぼくが知っているそうした呑み屋密集地帯には不思議と静まり返っているのが通例であって、それだけにそれらの店々の経営を成り立たせるには単に飲食のみでは困難と思えるのです。仮に飲食のみでやっているとしたら無茶苦茶ボラレルことを覚悟すべきでありまして、そうでないとすればやはり性サービスが主たる収入源と考えてしまうのです。いずれの場合であっても背後に危険な組織の存在が浮かび上がってくることは単なる想像に留まらないものと思われるから必然、二の足を踏むことになります。というかなるべきであって、酒場に限った話ではなく怪しげな場所に踏み入ることの誘惑は大変に強いものです。しかし好奇心を満たすだけがために危険を犯すというのはもはや蛮勇でしかありえないのです。いい年になって世間というものの闇に潜むものの怖さそれなりには知ってこなかったはずもないのだから、余程安全だという確信もなしに立ち入ることは避けるべきなのでしょう。と自らを言い聞かせるのですが、それも酒が入ると気が大きくなるからか緩みがちで注意が必要です。 なんて、まあそんなリスクとは無縁に思える明朗に思える酒場にお邪魔することにしました。「昭和の和み酒場 拓庵」ですね。ぼくは昭和の生まれであるし、その時代に郷愁を感じることもあるのですが、だからといって昭和が好きとか昭和マニアを自認するような人をどうも理解できないのです。その理由は語るもがなであるから割愛しますが、昭和そのものもそうですが、「昭和」と「和み」が親しく結びついているのがどうも解せないのです。人によっては「昭和の忌み酒場」にもなり得るだろうに。単に「和みの酒場」とすればいいと思うのだけれど、わざわざ「昭和」を付けることでそれなりの宣伝効果が得られるってことなんだろうか。っていきなりケチを付けまくってしまったけれど、実のところぼくはこの居酒屋を大いに気に入ったのであります。「拓庵」は若い主人の「拓×」さんというお名前から取られたようです。さて、町屋に到着して最初に店の前を通過した際に、これといって目立ったところはなかったけれど、後で寄ることにしようと決めました。ここは良さそうだという勘が働いたものと考えています。客席はまだ空きが目立っていました。ところが、他所で呑んでから戻ってくるとあらあらほぼ満席の盛況ぶりに変貌しているではないですか。ダメかと恐る恐る店に入ると辛うじてカウンター席に空きができたところでした。早速ホッピーを注文します。注文を取りに来られたのは奥さんだろうか、お若くてきれいなお方です。お通しは嬉しいなあのマカロニサラダです。フジッリで作った濃厚な味付けがホッピーを進ませます。ぼくも時々作るけれどなかなかここまでの深い味にならないなあ。やはりそれなりの量を作るのがコツなんだろうか。鶏の唐揚げもごっついし、トロタク巻はさらにごつくてしかもしっかりと食べ甲斐もあってこれはいい。と何気ない肴がどれもこれも非常に旨いのだ。なるほど店が混む理由が分かります。ここなら週一ペースで通いたいかもなあ。ってそんな感じの酒場が町屋には実に多い事を知りつつある2022年の暮れなのでした。
2022/12/30
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時間が足りていないとつい昨日書いたばかりでそれをあっさり覆すのも気が引けるのですが、これまでも何度か書いていますが、ぼくには暇を飽かしてgoogleのストリートビューで散歩するという根暗な遊戯に耽るという悪癖があります。実際の散歩だとどうしても近所が多くなって飽きてしまう。散歩の達人だとかを堂々と自認する人は、道端に健気に咲く野花や小鳥の囀りなどを敏感に察知しては一句捻り出してみたりして飽きることを知らぬのかもしれませんが、ぼくのような風流を解するには未熟な者にはそうした全身と五感を駆使した小さな発見を感受する繊細さはさらさら持ち合わせておらないのであります。でありますので、ぼくはひたすら無粋な資格のディスプレイを視覚と目のみ駆使して時に触覚と指先を用いてマウスを操ることで満足するばかりなのでした。こう書いてみるとコンピュータやネットワークが飛躍的な進歩を遂げたといっても現実の体験にはとても及ばぬように思えますが、聴覚や触覚、味覚などもきっとすでに一定程度の再現が仮想的に可能となっているものと思われ、それらが日常に組み入れられる時代もそう遠い事ではないのではないだろうか。むしろ現実の世界が暗澹たる未来しか描けなくなっている以上、こうして仮想空間の未来像を思い浮かべる方がよほど気持ちが豊かになるのです。だからこそ近頃は異世界転生や終末物などで作者もしくは受容者にとって都合の良い物語が横行することにもなるのかもしれないなあ。いずれにせよ現時点で提供されているストリートビューは画期的とは思うけれど、まだまだ開発途上といった程度に思えるわけでそれは例えば酒場にしたところで取りこぼしが多いようだし、とても仮想現実と呼べるほどの退館をもたらしてはくれないのであります。まあ、単なる暇潰しとしてはそれなりに遊べるし、情報のソースとしても全てがフォローされていたらそれはそれで詰まらなかったり、取りこぼしがあったらそれはそれで悔しい思いをする―例えば虱潰しに探索していても画面で見られずに後になってその存在を知った時にはすでに閉業してしまっていたりする―もので、やはり自分の脚こそが頼りとなる以上は、せっせと歩き回ってみるのが最善のようです。 とまあ何だか訳の分からないことを書きましたが、「大衆割烹 けやき」はちゃんとストリートビューでご覧いただけるのであります。料理などの情報も提供されていますが、恐らく間違いなく同店のもののようです。この並びの酒場には以前もお邪魔していますが、どれも似たように見えるので戸を開けるまではちょっとドキドキします。そのドキドキは単に前お邪魔した店じゃなかろうかというドキドキに過ぎないのでが。幸か不幸かどうやら初めてのお店のようです。とはいえ極めてノーマルな店内なので既視感は絶えず付きまといます。まあ酒場などというものはフォーマットに沿って作る限りはどうしても似通ってしまうものではあります。そこに退屈を感じるかそれとも安心を得るかはその日の気分次第になりますが、この夜のぼくは後者でありました。ちっともあくせくしないのんびりとしたムードについまったりとした気分に浸ってしまいます。ひたすら燗酒でも舐めて過ごしたい気もしますが、こちらは大衆割烹を謳うだけあって魚介を中心とした料理がウリのようです。小肌とイカフライを注文します。最近どこぞやの酒場で小肌を注文していた客がいてそれが羨ましかったのとやはり他所の酒場でイカフライを食べているのを眺めて旨そうだったのでいつもはグズグズ迷うのに、ここでは瞬時に注文が決定しました。思わず口を衝いてうふふという喜悦の笑いが漏れる位、見るからに旨そうなのが登場しました。見るからに旨そうで食べてもやっぱり旨かった。身がぶっといのは味が淡泊の法則はここでは通用しません。燗酒じゃなくぐびぐびいける抹茶ハイにしたのは正解だったなあ。いつも安酒場で安肴に安酒ばかりですが、たまにはちょっとだけプラスしてこういう旨いものを頂くのも悪くないものだなあ、などと似合わない感想を抱くのでした。
2022/12/16
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自慢でも何でもなくむしろ恥部に当たる情報かと思うのですが、町屋では町中華などを含めて随分と数多くの酒場を訪れました。実は今しがたメモをチェックしてみたら町屋の3駅を最寄りとする59軒の酒場を訪れているようなのです。好きになったり嫌いになったりとこれまでこの町に対する意識は自分の中で随分揺れていますが、それにはいくつかの理由がありそうです。まず、この町には必ずやぼくが好きになる酒場があるはずだという無根拠な確認があるということ。そしてにも拘らずその肝心のお気に入りに未だ遭遇できていないこと。確信があるにも関わらず手が届かないというもどかしさがぼくの気持ちの揺らぎをもたらす核心にあるのではないかと考えたのですが、これはいかにも取ってつけたような言い訳でしかないんだろうなあ。でも今更ながら59軒は結構な数だなあと関心はせずとも我が事ながら呆れてしまうのでした。喫茶店も11軒回っているようだから合計70軒の飲食店を利用しています。先般書いたようにちょっと古いデータではありますが、荒川区の飲食店数は都23区中23位で1,191軒となっておりまして、同区内では町屋は飲食店の密集度は高いエリアではあると見受けられますが、それでも70軒といえば町屋の飲食店の何割かを占めていると思うのです。これだけ吞み歩いても通いたくなるまでのお気に入りに出逢えぬということはぼくの確認は誤りだったのか。 そんなことを思い始めた今日この頃ですが、京成本線の町屋駅の目と鼻の先にある酒場集落にはこれまで何度となく歩いて通ってきたはずなのです。でも「焼鳥・もつ焼の店 きしだ」は見過ごしていました。想像するに外観だけを眺めて通り過ぎていたので、店内の魅力が損なわれていたからかもしれません。いや、こちらの店内に味のあると認めるのが万人にとっての共通認識であると考えることがそもそもの誤りかもしれません。店を経営する方たちにしてみると外見だけでも新しくすることで気軽に入れるよう配慮した結果のようにも思えます。ともあれ、ぼくがこの狭く不可思議な内装に痺れたことは間違いないし、同じような感性の持ち主も少なからず存在するものと信じて疑わぬのでした。さて、まずは瓶ビールを注文。開店して間がなかったのか鶏皮の仕込みでご主人はかなり忙しそうです。仕込みばかりかテイクアウトでもつ焼きを買い求めるお客さんも立て続けに来られて店内こそまだ客はなかったけれどこちらも気を遣います。こちらのご主人、店のムードとは違ってすごいお若いのですが、忙しくてもちっとも慌てる様子もなく落ち着いた様子を崩すことがないのでした。大したもんだなあなんてことを思いつつ、目の前で処理されていた鶏皮が旨そうだったので、鶏皮ポン酢ともつ焼きを盛り合わせていただきました。これが驚く程美味しいのです。きっと丁寧に処理されてるからこの味が出せるんでしょうね。ちょっとびっくりです。見ると公衆電話の下にマッチ箱がありますね。以前マッチ箱をコレクションしていたのですが、当時もらったものと見た目が似ているのです。見ると「鳥新」とあって住所は、東尾久三丁目とあります。なるほど荒川線の東尾久三丁目電停の目と鼻の先にある「鳥新」のものですね。ご主人はそちらで勤めておられて修業したのでしょうかね。そのうち常連のご夫婦連れがやって来ました。店主とは店の主人と客の隔てのない密な関係となる程のお付き合いのようです。以前はそういう関係性に疑問を感じていましたが、今ではそれもありだなあと思えるのです。その常連さんのおこぼれでもないのかもしれませんが、驚く程に美味しい肴をサービスしていただきました。しっかり柔らかくなるまで煮込んできっちり処理された豚タンは豚タンがこれ程に上品で深い味になるものかと驚かされましたし、春菊浅漬は香りを残しつつしっかりとした旨味が加わっていて、これだけで燗酒2合はいけそうです。真似してみたくなるほど。とこれまで気付かずにいたことの迂闊さには赤面しかないけれど、今後折に触れては出向きたい酒場がとうとう町屋にできたという喜びが勝るのでした。
2022/12/12
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世間にはどれほどの酒場が存在するのだろうか。日本の全ての酒場はさすがに無理と分かっているけれど、東京都内、いや23区にある酒場なら1日2軒のハシゴをノルマにしたらきっと回り切れるんじゃないだろうかなんてことを漠然と考えていました。無論、本当にそんなことをするつもりなど毛頭ないけれど、可能かどうか何となく知っておきたかったのです。するとたまたま以下の記事と巡り合ってしまったのです。もう6年も前の生地であるし、10年前のデータを用いているからその後それなりの変動はあっただろうけれど、まあそれなりの目安にはなりそうです。東洋経済オンライン 「東京23区で飲食店が激しく密集しているのは?もっとも少ないのは「荒川区」」https://toyokeizai.net/articles/-/119427 この表の23区の飲食店軒数を合計すると70,642軒になります。一見するとどうということもない数で先のノルマを果たせば十分に回り切れそうに思えるがどうでしょう。70,642軒÷(365日×2軒)≒96.76 なんちゅうことだ。せっせと毎日ハシゴしても23区の飲食店を巡るには単純計算でこれだけの歳月を要するということか。まあ、この飲食店は鮭の提供のない店舗も含めての数でしょうからやや少なめに見積もって約半数としても50年近く要することになります。また、一応飲酒可能な年齢は20歳以上であること、多くの店が代替わりすることを織り込むとやはり80数年は見ないといけないんじゃないだろうか。つまり現在の平均寿命を健康体で全うできない限りは、たかだか23区内の酒場巡りすらコンプリート出来ないのだなあ。 それだけの飲食店があるのに近頃、どうもすでに訪問済みの酒場に立ち寄ってしまうことが多いなあ。それって7万分の一の確率ってことじゃないの。ってまあ見た目の好みなどの相性面を考慮に入れるとかなり確率は下がりそうでありますが、あえて再訪問しようとしない限りはそれなりに確率の低い事態ではなかろうかと思うのです。と思ってさっきのデータを見てみると、おやおや荒川区は23区中23位の1,191軒の飲食店があるばかりなんですね。だったらリピート確率はガクンと増加しても不思議じゃないのかもしれないですね。今回リピートしたのは、「あつめ」でした。もちろん、こちらにお邪魔したことは完全に失念していて同行した人たちに対しても、おっ、こちらはなかなかに風情のあるお店ではないですかなんてしゃあしゃあと感想を漏らしてみせたのだからお恥ずかしい限りです。まあ、ぼくはここはいいお店なんだと言い募って人を誘うことが多くて、それなりに大事な呑み会であっても行ったこともない店にお連れするなんていう悪癖があるのです。かつては人を誘うからには馴染みのある店だったり、そうでなくても一度は下見して訪れるというのがマナーであったのでしょうが、ぼくにはそうした美徳は全く生かすことができないのです。ということで反省ばかりを述べていますが、こちらの名物は鯨料理であります。あまり声高に述べるのも憚られる世の中ではありますが、ぼくもその肉々しい食感と濃厚な赤身臭さが大好きなのです。ところがこれまで珍味として知られるくじらのたれを食べたことがなかったのです。これがまあ美味しいこと。ビーフジャーキーと似たようなものではありますが、比べ物にならない旨さです。なぜかここではうどんも押しているようです。同席した一人が頼むと言い張っていて、実はぼくもちょっと食べたかったけど我慢してしまったがどうして我慢などしてしまったかなあ。食べた人の感想としてはごく普通であったそうです。
2022/12/09
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すごくいい町って訳でもないし、すごく好きな酒場がある訳でもない。便利と感じる人もいるのは間違いないけれどぼくにとっては必ずしも便利な場所にあるとは言えないし、特別に町を印象付けるスポットがありもしない。そういうほんのちょっとだけ面白くて、たまに顔を覗かせたくなるような酒場もある。すごく便利とは言えないけれど時間に余裕さえあれば自宅から乗り継ぎなしに行くこともできる。スポットなどは人が増えて煩わしいばかりと考えてみると町屋ってぼくにとっては結構いい町に思えてくるのです。周囲に目を向けてみてもこのようにぼくの採点基準に沿って10点満点で6点が揃うような都合のいい町は、やはりそうは思い当たらないのでした。だったらもっとちょいちょい足を運べよというとそういうものでもないのですね。毎日通いたくなる町でもなく毎夜管をまくような酒場もない。けれど月に一、二度、さして愛着もなくどことなくよそよそしさのあるこうした町を彷徨うのが余所者気分が高まってそれはそれで心地良かったりするものなのです。 この夜は「でこ助」にお邪魔しました。駅-3駅どこからでもすぐの場所-から至近で随分以前からここはきっと以前来ているんだろうなあなんてことを思って見過ごしていたのですが、今回入ってみて、ちっとも既視感が発動せず―似たような酒場の何軒かは脳裏をよぎったけれど―これはもしや初めてお邪魔したのではないかという感じは誤りではありませんでした。この店の存在はメモに留めてあるけれど、立ち寄った形跡はないのでした。というかそもそもこのメモも酔っ払って書いているから信用がならない。酔っ払って記憶のない領収書がポケットから出てくることも時々ありますしね。とそれはともかくとしてこちらのお店は細長いカウンター席だけのお店で両端がそれぞれ入口となっています。まあ、珍しいって程の造りではないけれど案外少ないかもしれないです。客層は原住民が多い感じで、ここを根城にして時間があったら入り浸っている強者ばかりにお見受けしました。こういう客層に恵まれると面倒も多そうですが、客の切れ目はないんでしょうね。安価でしかも多様な肴が用意されていて、これは確かに毎晩通っても飽きることはなさそうです。まあ、肴の種類が多くても作り手の癖ってのがあるみたいで、どうしたってどこかで似たような味になるものなんですよね。ぼくなんかの料理していてきっちり計量することはまずないけれど、どうしてもぼくの味になってしまうから不思議です。しかも塩味をグンと控えたりとその料理の根本に関わりそうな調味料の加減を変えてみてもどうしても深いところで通じている味に思えるのだからますます謎なのです。ともあれそうした酒の肴には分かり易く下ネタ含みのネーミングがされていて、女性客がこれを頼んだらタダにするとか書いてあるんですけど、ここにやって来るようなお客さんは何の躊躇もなく注文できちゃうだろうからこれはきっと採算度外視の商品なんだろうなあ。まあ、そんな店だから案外お若い店主も適当にいい加減で、実に楽しそうに商売しているのがなかなか良いと感じたのでした。でもぼくは町屋の十見だったとしてもここの常連にはならないかもなあ。たまに立ち寄るのがいいって思いそうです。
2022/12/02
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