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結婚して35~6年ぐらいたちます。夫は当時二番目に好きな人でした。一人っ子の私は「同居しなければ結婚は許しませんよ」と親から刷り込みされていたので、一番好きだった長男の「栗ちゃん」とは、泣く泣く別れたんです。その後、8人兄弟の末っ子の「龍ちゃん」の押しかけ彼女になって、女の武器すべてを駆使してGETしました。短気で頑固ではありますが、男義のある(それでも、浮気はしたけど)女・子供を命がけで守ってくれる・・・(中々、いい男なんです)現在は世界一?(う~ん日本で10本の指には、入ると思う)の夫になっています。★全てに、自立している。(私の手をわずらわせないでも、生きていける)★女房の私の幸せが夫の生きがい(今までの罪滅ぼし)★生き生きと毎日を楽しんでいる。(仕事も遊びも・・私との生活も)この、自慢できる夫は長い年月をかけて創りあげたのであって、苦しい道のりがあっての「今」がある事を忘れないようにしなくてはいけません。これからは、何気ない日常を幸せと感じるフンワリとした生活を送ります。あっ!追伸今日は、1泊でゴルフに行きました。常磐ハワイヤンセンターに泊って、今日・明日とプレーするんですよ。(60歳でメチャクチャ元気なんです)月に5~6回のゴルフを楽しみ、カラオケ仲間も居て・・・(夫も幸せだと思うわ?)
2006年08月30日
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今年は父の3回忌です。正確にいうと、7歳から育ててもらったので義父なのですが私はずっと本当の父のように思って暮らしていました。ところが、そんな単純ではないと思った最初は、父との沖縄旅行でした。私が30歳ぐらいの時、父に誘われて沖縄に3泊ほどで親子の楽しい旅行をして、家に帰ったら物凄く不機嫌な母が待っていたんです。後で考えると、私は親子旅行と思っていたのに母はやきもちを焼いていたんです。元々両親の仲は崩壊寸前で、別居したり、戻ったり・を繰り返していたんですが・・・。母が脳梗塞で介護の生活に入ると自分は一切関知しないで、すべて私に任せて見舞いに行く事もありませんでした。それから10年程したある日、父は80歳を過ぎていましたが、ボケてる様子もないのに「あんたとは血のつながりが無いから養子縁組をときたい」と言われたんですよ。私達は仲良く暮らしていた・・・と思っていたんですが!歳を取る・・・と言う事は理屈では割り切れない感情が出てきたり世間が見えなくなるんだな~とつくづく思いました。だって、父は「士」のつく先生と呼ばれる職業を長年していて頑固で短期ではありましたが、正義感の強い、実力派の尊敬出来る人だったんです。その人が、暴力・暴言・疑り深く・娘すら信じない困ったちゃんになったんですから。その父は87歳で結核で強制入院したのですが、最後の日までの8ヶ月間に信頼を回復し、私も悔いの残らない看病が出来たし、父もあまりの我儘に医者や看護士に嫌われてしまい、私だけを頼りにしてくれて穏やかに過ごしてくれました。8月13日は父の3回忌です。父との思い出を書いてみました。
2006年08月27日
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今日は次男の話を聞いて下さい。S49年8月に大阪豊中の市民病院で生まれました。その前の年に戸籍上で次男の「覚」を点頭けいれん(脳性まひ)で生後11ヶ月で亡くしていたので、元気に生まれてくれて本当に嬉しかったです。おまけに、ものすご~く可愛い顔してたんです(いえいえ親ばかじゃなくてホントニ)。夫は覚が亡くなった時「こんな悲しい思いをするなら子供はもう要らない」って言ってたんですけど、私の作戦勝で(ナイショ)授かったんです。その2年後女の子も授かちゃったんです(この子は、ちょと計算間違いしちゃいました)幼稚園の入園テストで、色紙を持って「これは何色?」と聞く先生の手から色紙を奪い取って「僕の知ってる色はね、・・」と知ってる色だけ答えて100点取ったり。雄のカブトムシの角を「雌にするんだ」って、取ちゃたり、高校生になると、どういう訳かおじさんからお茶に誘われる事が多くなったりしながらも、すくすく育ちました。高校を決める時「宮大工」になるために建築科に進学し、その後、訓練校を持つ全寮制の建築会社に入社して現在13年程たちますが、あの色白の美少年?が色黒の逞しい青年に変身しました。因数分解も出来なかった次男も仕事となれば、√(ルート)の計算もしてるんですから。あっ!忘れていましたが、次男は生れ付き片目しか、視力がありません。「先輩にお前!曲がってるぞ!って言われるんだ」なんて笑って言っていますが、そんな仕事はしているはずもありません。正直言って、人生って苦しい事が一杯押し寄せます。くよくよしても、乗り越えてそれなりに生きるのも同じ一生です。片目に視力が無いと解って、良いと言われてる病院を(5箇所)回りましたが「駄目」と解った時はもう片一方が見えて良かった・・と気持を切り替えました。今年は、彼女と同居し、離婚して一人暮らしの彼女の母親を扶養する事になり、我家に帰って来るのも少なくなり私達は淋しいのです。18歳で巣立っていった次男の幸せな生活を祈るのみです。又、彼女がいい子なの。息子を幸せにしてくれる人なんだもの大事にするわよ。
2006年08月08日
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他人に話すような事でもないのですが、胸を締め付けられるほど恋しい人の思い出です。供養のつもりでの ひとりごと です。英会話スクールで知り合った文香(仮名)が死んで、4年がたちます。60歳の半ば位かしら・・と思っていたのですが、海外旅行に行く計画を建てるので、パスポートを見て私の母と同年で70歳を過ぎているのを知りました。英会話スクールでは彼女と私と先生の3人のレッスンでした。コロコロと良く笑い、おしゃれで、品が良く、本当に楽しい人でした。彼女が、モナコに行きたい!ということで、少し足をのばして、ミラノ・マルセイユ・パリ・・・と回ったんです。何度か海外旅行にご一緒したのですが、ホテルの部屋は別々にする事航空機はビジネスクラスか出来ればファーストクラス・・と言う事でした。楽しい旅行(国内も含めて)に何度も行きました。今度は船旅を・・なんて言ってた、さなかに彼女は肝臓ガンで亡くなったんです。私が、腎臓ガンで入院した時には、心から回復を祈ってくれた人なのに・・。亡くなった後で、彼女の淋しかった過去を甥と言う人に聞きました。東証一部に上場している海苔とお茶の会社の会長さんの後妻さんで、彼女には子供が居ませんでしたが、前妻さんの子供を何人か、立派に成人させ、会長さんが亡くなった後一人家を出なくてはならなかったみたいです。ずっと一人暮らしでした。私を娘のように可愛がってくれて、なおかつ、私に甘えてくれて、まだまだ楽しい時間を持てるはずだったのに・・良く食べて、二人でメチャメチャ飲んで。たまころの大切な大切な親友でした。 ♪ポチッと押してくれると 凄く喜びます♪<
2006年08月01日
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先日、石原都知事が定例会見で、靖国参拝について「自分は戦犯の事は無視しお参りする」・・と言っていました。私も同じです。私の父は戦死です。子供の顔を知らない父と、父を知らない私。3人の子供を一人で育てなければならなかった母。家庭の為に中学を出ると、毛布一枚持って住み込みで働きに出た兄。私も養女に出ました。日本中にこんな家庭を山程作って・・・・父が靖国神社に祭られる事を願ったか?それは解りません。でも、そういい聞かされて戦地に行って国の為に戦ったとしたら、遺族はせめて総理大臣にはお参りして欲しいです。戦犯は分祀して欲しいですが、一度合祀したものを神社の関係で分祀出来ないのであれば、心の中で無視するしか無いじゃありませんか。総理の参拝が、中国、韓国のご機嫌をとる為に出来ないような日本になって欲しくないです。もう戦争は遠い昔の話として、風化されかかっているのでしょうか?2年前、娘の希望で広島に行き3日間滞在しましたが、毎日「平和記念館」に通いました。肩をふるわせて泣いている娘を遠くから見ていて、今の幸せをかみしめて欲しいと切に願いました。とは、言え、北朝鮮東部の貿易港・元山の覚せい剤密造工場が、60年以上前の日本統治時代に造られた、製薬工場後だったとは驚きです。中国では日本の科学兵器もどんどん見つかっていますしね。どうしたらいいんでしょうかね。 ♪ポチッと押してくれると 凄く喜びます♪<
2006年07月23日
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