Nonsense Story

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片岡家の災難 7


 おばあさんが次に発したのは、ぼくの予想を裏切って耳をつんざくような怒鳴り声ではなかった。
「掃除してくれていたの? 篤史」
 おばあさんは感嘆を含んだような声で言った。部屋の障子には、まだ三箇所くらい小窓が開いていたが、おばあさんは気にしていないようだった。
「え・・・・・・あ、はい。障子が破れていたので。早かったですね。お茶席の方は?」
 片岡も拍子抜けしているようだったが、無表情のままおばあさんに調子を合わせる。
「ああ、預かりものが心配だったから、早めに帰らせていただいたのよ」
「預かりもの?」
「ええ。その辺にいたでしょう? 諭吉というんですって。あら、トイレシートがないわ」
 預かりもの? いた? トイレシート?
 ぼくはまた嫌な予感に血の気が引いていくのを感じた。あの一輪挿しの水を吸っていたシートはひょっとして、室内飼いの小動物用トイレだったのではないか。
 片岡もぼくと同じことを察したらしく、眉をひそめて口を開いた。
「おばあさん、そのユキチというのは・・・・・・」
「猫よ。真っ白いペルシャ猫。この部屋にいるでしょう?」
 当たり前のように言うおばあさんに、片岡は更に眉根を寄せた。
「おばあさん、猫嫌いじゃありませんでしたっけ?」
「嫌いだけど仕方ないじゃない。宗匠に頼まれちゃったんだもの。今日お泊りになるホテルがペット禁止でね、明日まで預かって欲しいって。もともと頼んでた人が急に都合が悪くなっちゃったんですって。一度は断ったんだけどねぇ」
 予感的中。ぼく達は、おばあさんが預かってきた猫を、必死におばあさんから隠そうとしていたらしい。
 ぼくは脱力すると同時に、冷や汗が吹き出てくるのを感じた。
 猫はおばあさんの大切な預かりものだったのだから、もう隠す必要はなくなった。しかし、その大切な預かりものは今や青空の下、自由の民になっているのだ。
「なんでもね、諭吉って名前にすればお金が貯まるかと思ったんですって。ほら、福沢諭吉は一万円札じゃない」
 おばあさんはさも愉快そうに話している。何流かは知らないが、お茶の宗家といえば結構な金持ちじゃないのか。お茶の道具って高そうなものばかりだし。金持ちの考えることって分からない。
 いや、今はそんなことを考えてる場合じゃない。
「それで諭吉は?」
 おばあさんが片岡に問い掛け、片岡はぼくに顔を向けた。ぼくは、ちょっと、と片岡を手招きし、彼が障子紙を跨ぎながらぼくのところへ辿り着くと、その袖を引っ張って小声で耳打ちした。
「猫、二階から脱走した」
「ええ!?」
 片岡の困惑した悲鳴を背中に、ぼくは二階へ向かって駆け出していた。おばあさんが片岡に、どうしたのかと訊いている声が階下から聞えてくる。すまん、片岡。骨は拾ってやるからな。ぼくは心の中で片岡に手を合わせた。
 二階の片岡の部屋の襖は、ぼくが出て行った時のままの状態で開けられていた。
「赤松! あの猫、おばあさんの・・・・・・って、赤松?」
 その部屋は、またしても空っぽだった。窓も開けっ放しで、赤松の物らしき靴下だけが、畳の上に転がっている。
「まさか・・・・・・」
 ぼくが恐る恐る窓から身を乗り出すと、屋根の下方に赤松が這いつくばっていた。
「ごめんなさい・・・・・・。あの後、猫がこっちに帰ってきたから、また捕まえられるかと思って・・・・・・」
 ぼくは溜め息を吐いた。やっぱりこいつが動くと仕事が増える気がする。
「上がって来れるか? って、一人じゃ無理そうだよな」
 この屋根は、幅はそんなにないが片岡の部屋の窓の位置からはかなり下に張り出しており、赤松のいる所からは立ち上がらなければ窓枠に手は届かない。しかし、傾斜が急なので、赤松はとても立ち上がれそうになかった。ドジな彼女のことだ。サッシに手を掛ける為に立ち上がろうとすれば、たちまち後方へ滑り落ちてしまうだろう。
 ほらつかまれ、とぼくが手を差し出した時だった。
 ぼくの頭上数メートルの所から、白い塊が滑空してきた。それは見事に赤松の頭に蹴りをかまし、瓦屋根の上に華麗な着地を決めた。見当たらないと思っていた猫は、どうやら二階の大屋根にいたらしい。
「おーっ! 十点零!・・・・・・じゃなかった、赤松!」
 ぼくは体操のオリンピック代表選手のような着地に拍手しようとした手を、慌てて再度赤松の方へ伸ばした。が、時すでに遅し。ぼくの手を取ろうと中腰になりかけたところを猫に頭を踏んずけられた赤松は、不安定な姿勢でいたことが災いし、大変なことになっていた。バランスを崩した足は宙を切り、顔が屋根に激突したかと思うと、腹から滑ってずるずると後退していっていたのだ。
「わっわっわっわっ落ちる落ちる落ちるーっ!!」
「わー! 赤松ー!」
 ぼくは叫びながら窓枠に足をかけたが、そうこうしている間にも、赤松の姿は吸い込まれるように見えなくなった。
 ぼくは猫を睨んだが、彼(諭吉という名前から推測)は素知らぬ顔でデカイ尻をこちらに向けると、立派な太い尻尾をふさふさと振って見せた。お尻ペンペンとでも言っているみたいだ。いい度胸してやがる。
「待ってろ、諭吉! 絶対ふん捕まえてやるからな!」
 ぼくが部屋の方に足を戻して猫に喧嘩を売ろうとしていると、屋根の下方から、たすけてという声が聞えた。
「え? 赤松?」
 屋根から落ちても独特の間延びした物言いは変わらない。あの声は間違いなく赤松だ。でもその声は、下に落ちたにしてはやけに近くから聞えた。
「赤松、無事なのか?」
「なんとか・・・・・・落ちてない・・・・・・」
 苦しげな声に目を凝らすと、瓦の黒っぽい連なりの先に小さな白い手が見えた。猫が風呂場の壁を伝う雨どいに手を伸ばしているのを見て、赤松が雨どいにつかまっているらしいと気付く。きっと留め具の所をつかんでいるのだろう。プラスチック製の雨どいは、人ひとりぶら下がるには脆すぎる。
「やば・・・・・・! 雨どいが・・・・・・」
「そのまま待ってろよ!」
 ピキッピキッという嫌な音が小さく耳に届く。ぼくは怒鳴ると、赤松の靴下を掴んで階下に向かって駆け出した。
 玄関まで走ると、片岡とたも網を持ったおばあさんが外に出ようとしているところに出くわした。
 片岡がどうにかおばあさんに説明してくれたらしい。何故おばあさんがたも網なんかを持っているのかと片岡に訊くと、猫を捕まえるのに素手で掴みたくないかららしい、という答えだった。たも網で猫が捕獲できるとは、ちょっと思えないのだが。あれで猫をすくったりしたら、網が破れるか柄が折れるんじゃないだろうか。
 外では猫が、風呂場の屋根からすぐ横の松の木を伝って、地面に降りようとしているところだった。
「諭吉!」
 おばあさんの金切り声に、猫がビクッと身を震わせて動きを止める。しかし、すぐに松の小枝を折りながら木を駆け下りて、築山へと疾走した。おばあさんも松の木の痛手に悲鳴をあげながら、諭吉を追って築山に上がっていく。
 ぼくは赤松の惨状におばあさんが気付いていないことに安堵しながら、彼女のぶら下がっている右手側の屋根を振り向いた。片岡も赤松に気付いてぎょっとする。そして、二人して唖然としてしまった。
「もう限界・・・・・・っ」
 顔を真っ赤にして下を見ている赤松に、ぼくは冷静に言った。
「赤松、そのまま手を放していいよ」
「え?」
 赤松の足先は、地面から一メートルもない所に浮いていた。
「おばあさん! 石の裏です!」
 赤松が尻餅をつきつつ地面に降り立ったのを見計らって、片岡が叫んだ。おばあさんは狭い築山で、大きな飾り石を隔てて猫と反対側に立ち、たも網を振り回していた。
 しかし、片岡の声に驚いた猫は、またもや築山から松の木の根へととって返した。そしてその場でひっくり返ると、背中を地面に擦り付けるようにしてごろごろと転がりはじめた。
「諭吉! やめなさい! 毛が汚れるでしょう!」
 おばあさんの悲痛な叫びもなんのその、猫は至福の表情を浮かべて白く長い毛に土を絡ませている。けれどおばあさんが近づくと、くるりと体を反転させてぼく達のいる方へ走って来た。
「篤史! 捕まえて!」
 おばあさんの命令に片岡が猫の前へ出る。だが、猫は彼の手をすり抜けて、少しだけ開いていた玄関の引き戸の隙間から家の中へ走りこんでいった。
「土足で家の中に入るんじゃありません!」
 猫に説教しながら、おばあさんも家の中へ入っていく。その言葉で、ぼくは赤松が裸足でいることを思い出し、すぐに靴下と靴を履くよう促した。
「おばあさんには俺から適当に話しておくから、お前らもう帰った方がいいかもしれない。荷物は俺が部屋の窓から落とすから」
 片岡がそう言っておばあさんの後を追おうとした時、道路の方から甲高い声がして、二台の自転車が片岡家の敷地に滑り込んできた。
「お兄ちゃん! この人、竹中先輩。餌の他にも猫のトイレ用の砂もくれてね、わざわざうちまで運んでくれたの」
 明代ちゃんが満面の笑みで、隣に立つ少年を紹介した。
 線の細い印象は受けるが、ほど良く日に焼けて健康そうに見える少年は、照れたように頭を下げた。細く見えるのは、制服のズボンを腰穿きにしているせいもあるかもしれない。
 明代ちゃんも竹中君も自転車を小脇に、にこやかに立っていた。しかし、二人を見る片岡からは、殺気ともとれるほどの怒気が漂っている。それに気付いているのかいないのか、明代ちゃんは平然と片岡の神経を逆撫でするようなことを言った。
「お兄ちゃん、迎えに出てきてくれたの?」
 え? ひょっとしてみんなで? とぼく達にも目を向ける。
「そんなわけないだろう。ばあさんが帰ってきたんだよ」
 片岡は、表情こそ変えなかったが、ドライアイスのような冷ややかさで答えた。ある意味、怒鳴られるよりも恐ろしい気がする。そして無表情のまま竹中君に顔を向けると、これまた抑揚のない喋り方で言った。
「せっかく来てもらって悪いけど、今日はすぐに帰ってもらう。きみがいるところを祖母に見られるとまずいんでね」
 ちっとも悪そうに聞えない。ぼくは明代ちゃんがブーイングをあげる前に、竹中君を取り成しにかかった。
「明代ちゃんから聞いてるかもしれないけど、隠してた猫がおばあさんに見つかっちゃってね、今ものすごくおかんむりなんだ。俺たちも早々に帰ったほうがいいなって話してたところでさ」
 面倒なので、おばあさんの預かっていた猫だということは省いた。明代ちゃんには後で説明すればいいことだ。今はこの精悍そうだが妙に現代っ子的な空気を放つ少年を、おばあさんの目に触れさせないようにすることが先決だった。いい子なのかもしれないが、制服のズボンを腰穿きしているようでは、極妻に気に入られるはずがない。
「そういうわけだから、好意はありがたいけど餌や砂も持って帰ってもらう」
 片岡が、有無を言わせない調子で付け加える。ありがたい、ではなく、ありがた迷惑だ、としか聞えない。
「えっ! 猫見つかっちゃったの!?」
 片岡に掴みかかりそうな形相をしていた明代ちゃんが、今度は泣きそうな表情になった。
 竹中君は事情を分かってくれたらしく、じゃあ、と言っておとなしく自転車の向きを変えた。明代ちゃんは竹中君に縋るような視線を送ったが、彼はすでに明代ちゃんを見ていなかった。
 その時、またおばあさんの絶叫が聞えてきた。今度は家の中からだ。
「どうかしましたか?」
 片岡が家の中に向かって叫び返し、どうしたもこうしたもないわよ、というおばあさんの声が近づいてきて、ぼくは慌てて竹中君の背中を押した。彼の自転車がつんのめるように発進する。
「これはどういうことなの!」
 おばあさんが走り出てきて破砕ゴミの包みを片岡に突きつけたのは、ちょうど竹中君の自転車が入り口の松の木の下を通り過ぎた時だった。
 ぼくは肩で大きく息をつくと同時に、またもや冷や汗を掻きそうになった。
 破砕ゴミの包みは、表面を覆っていたビニール袋だけでなく中の新聞紙まで破れており、陶器の破片が露出していた。あの諭吉が破ったのだろうか。猫の最期には立ち会わなくてすんだが、片岡の小指の送別会を開かなければならないかもしれない。
「マイセンのティーセットは大事なお客様が来た時にしか出さないはずでしょう! どうしてこんなことになってるのか説明して頂戴! あなたがやったのね!?」
 どうやら『破砕ゴミ』と書かれた文字で、片岡が割ったのだとバレてしまったらしい。おばあさんはマイクロミニ姿の明代ちゃんには目もくれず、片岡だけに般若の形相を向けている。
「いいえ。諭吉がやりました」
 片岡は涼しい顔で即答すると、どういう経緯で猫がカップを割ってしまったのかを、詳細にでっちあげて説明した。
「結局、あなたや明代が私の部屋の襖を開けたのが原因なのでしょう」
 おばあさんは厳しい口調でそう言ったが、どうにも生気に欠けていた。
「ねぇ、どういうこと? 猫ちゃんは?」
 明代ちゃんが説明してよと片岡にせっつく。
 おばあさんはがっくりと肩を落としてうなだれていたが、明代ちゃんの言葉で我に返ったように顔を上げた。紙の福沢諭吉が飛んでいくほど高価なカップが割れてしまったショックで、一時的に猫の諭吉のことを忘れていたらしい。
「あっ、あそこ」
 赤松がおばあさんの背後を指差した。その先には、足音も立てずに歩いている諭吉がいた。ところが、おばあさんが名前を叫ぶと、また一目散に走り出してしまった。
 猫が散々おばあさんと片岡を走らせている間、ぼくは、頭上にクエスチョンマークを点滅させている赤松と明代ちゃんに、猫がおばあさんの預かりものであったことを説明した。赤松は申し訳なさそうに身をすくませ、明代ちゃんは驚きに目を丸くしていた。
 猫は片岡家の敷地内を縦横無尽に走り回っていたが、松の木が気に入ったのか、その下に座り込んで動かなくなった。
 猫が動かなくなると、一番近くにいたおばあさんが果敢にも素手で捕まえようと両手を伸ばした。たも網は家の中に忘れてきたらしい。
 猫はすんでのところで逃げるのかと思ったが、おばあさんの手が恐るおそる体を掴んでも、少し前傾姿勢で座ったまま硬直したように動かなかった。
「ふん! もう逃がさないわよ!」
 おばあさんは猫がじっとしているので安心したのか、勢いよくその体を持ち上げた。そして、ぎゃあ、と人間とは思えないような声をあげた。
 片岡と明代ちゃんが口々にどうしたのかと訊くと、おばあさんはすっかり白から茶色に変色した猫を高く掲げたまま絶叫した。
「この猫、まだ一回しか着ていない訪問着にお小水をー!」
 ぼくはその言葉でやっと、おばあさんが近づいても猫が逃げなかった理由に思い当たった。猫は用を足している最中だったから、逃げたくても逃げられなかったのだ。
 ぼく達の方へ体を向けたおばあさんの薄紫の着物は、膝のあたりだけ色が濃くなっていた。それを見た片岡兄妹の顔が苦虫を噛み潰したというそれに変わる。おばあさんはこめかみに青筋を浮き上がらせて宣言した。
「もう許しません! 篤史、明代、二人とも猫を逃がした罰に、今晩はお風呂場で寝ること! ついでに諭吉を綺麗に洗っておきなさい!」
 ――午後五時五十五分。犯人確保。禁固刑確定。


つづく



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