Nonsense Story

Nonsense Story

草螢 1




草螢 1






 旦那がまだ、年端もいかぬ子供だった頃の話である。
 彼が川原で遊んでいると、麦藁帽をかぶった老人が水草の中に屈みこんでいた。よく見ると、大きな虫籠を下げている。老人は、水草の中から何やら掴んで、せっせと籠に入れているのだった。
 彼は興味をそそられ、老人に歩み寄っていった。
 何を捕ってるの?
 いいものだ。
 いいもの?
 傍で見上げた老人の ( かお ) は逆光でよく見えなかったが、黄ばんだ歯がにいっと笑っていた。
 彼は虫籠を覗き込んだ。竹細工の美しい籠である。その中に、茶色く萎びた水草が、ぎゅうぎゅうに押し込められていた。彼には、ただの枯れた水草にしか思われなかった。
 これがいいものなの?
 不思議に思って訊いてみる。
 ああ、そうだよ。坊主にも少し分けてやろう。
 老人はそう ( ) うと、どこからか布袋を取り出して、篭の中から草を一掴み取り分けた。そして、袋の口をしっかりと輪ゴムで結んだ。
 家に帰ったら、暗い ( ところ ) で開けてごらん。
 彼は家に帰ると、云われたとおり暗くなるのを待ち、 電氣 ( でんき ) を消してから袋の口を開けた。袋の中からは、ぽうっと燈った小さな灯がいくつも飛び出してきた。黄色や橙ではなく、 ( あお ) っぽい光である。
( ほたる ) だ。
 おおかた枯葉の中にでもいたのだろう。老人は枯れ草を集めていたのではなく、螢を集めていたのだ。
 灯達は部屋中に広がり、夜空の星のように静かに明滅した。


 「あの後、袋の中の水草を捨てようと思ってゴミ箱の上で袋を振ったんだけど、草なんて全く入ってなかったんだ」
「腐草為螢、ですね」
 後部座席の女性が、旦那の昔話にそう感想を述べた。この季節には少々早い、 ( ) の着物を身に着けている。透け感のある涼やかな濃紺地に、薄桃色の山螢袋の模様が華やかさを添えている。
「フソウホタルトナル?」
「七十二侯の中の一つよ。枯れた草が螢になるって意味」
 ハンドルを握ってクエスチョンマークを点滅させる旦那に、助手席から注釈を入れる。
「七十二侯って、その時の気象や動植物の変化を表してるんじゃなかったっけ。 菊花開 ( きくかひらく ) とかさ。そんな非現実的なのがあるの?」
「腐った草の下から螢が出てくる様が、草が螢に変化したように見えたのでしょう」
 女性の説明に、旦那は納得したようだった。なるほど、草の下から出てくるなら現実的だ、などと云っている。自分の経験は現実的でないと認めるのだろうか。
「そういえば、ちょうど今頃じゃない?」
 わたしの言葉に、着物女性はそうですねと微笑んだ。


 三人で、旦那の運転するレンタカーに乗っている。
 福引で当たったという温泉宿のチケットを ( はは ) から貰ったわたしと旦那は、仕事を休んで、はるばる島根県まで旅行に来ていた。玉造などの有名処ではない。島根三大美人の湯の一つということだったが、初めて耳にする名の温泉場である。島根といっても広島に近く、チケットは民宿に毛が生えたような宿のものだった。
 宿の周辺に公共交通機関がないため、JRの最寄り駅からレンタカーを借りて移動した。タクシーも考えたのだが、近辺の山中でホタル祭りをやっているというので、それを見に行くためには車があった方がいいだろうということになったのである。駅員の話では、島根にはあちこちに日帰りの湯があるので、時間があれば廻ってみるといいということだった。
 着物の女性とは、旦那が宿で知り合った。
 旦那がホタル祭りの場所を宿の従業員に確認しようとしていたところ、 ( ほたる ) 狩りなら祭りに行くより良い ( ところ ) があると声を掛けてきたのが彼女なのだそうだ。特に祭りに興味があったわけではないので、よりたくさんの螢が集まる場処というのに、旦那もわたしも飛びついた。それで旦那が詳しい場所を彼女に訊きに行くと、当人も行く予定だったらしく、車に同乗させてくれるならと道案内を申し出てきたのだった。
 年の頃は三十代半ばくらいだろうか。若く華やいだ雰囲気はあるものの、着物姿であるせいか、落ち着いて見える。なかなかの美人だ。
「あなたもご旅行で?」
 わたしの問いに、彼女は肯定の意を表した。旦那は意外そうな顔をしたが、さして意外な返答ではない。この辺りの地理に詳しいようだが、彼女の言葉にはこの土地独特の訛りがない。少なくとも土地の人間でないことはすぐに知れた。


 車は川沿いを徐行していた。進行方向の右手では、涼しげなせせらぎが、透き通るような薄墨色の空気を震わせている。左手は、緑の隆盛とともに伸びた木々の枝が、道に襲い掛かるように生い茂っていた。
 女性の話によると、この辺り一帯が ( ほたる ) の生息地であるということだった。しかし、車を停められるような広い 場処 ( ばしょ ) がない。車線もない道路の片方から木々が迫っているため、対向車と離合するのも困難に思われるような ( ところ ) なのである。
「あ、螢」
 わたしは思わず、運転席側の窓の向こうを指差した。ガードレールの隙間を、すうっと小さな光が過ぎる。
 背後で女性がふっと笑った。
「気付きませんでしたか? さっきから、ずいぶんたくさん飛んでるんですよ」
 気付かなかった。国産車の助手席に座って進行方向の退避場所を探していたわたしは、川の方を見ていなかったのだ。旦那が車を止め、ライトをスモールに切り替えた。
「わぁ、こんなにたくさん」
「おれも気付かなかった」
「ここが一番多く集まってくる辺りです」
 まるで天然のプラネタリウムだった。流星のように螢が飛び交っている。ガードレールを飛び越え、車のライトの周りにまとわりつく。
「もう少し先に退避場所があったと思うのですが・・・・・・。ちょっと見てきます」
「ああ、いいですよ。おれが行ってきます」
 降りようとする女性に、旦那が ( ) った。
「二人とも先に車から降りて、ゆっくり見てて」
 わたし達は旦那の言葉に甘えることにして、先に車から降りた。数分の間にすっかり陽が落ちて、月が大きく輝いている。
「今日は満月だったんですね」
 わたしは、んーっと伸びをしながら云った。空気は既に夏で、車外に出るとすぐに汗ばむほど蒸し暑かったが、水の匂いが清々しい。
「この道にはあまり街灯がないから丁度良かったですね。いくら ( ほたる ) の光があっても、新月では足元が不安ですから」
 云われて初めて、街灯が見あたらないことに気が付いた。
「人も車もあまり通らないから、整備が遅れているんです」
 彼女が髪に手を ( ) りながら云った。鈴の付いた ( かんざし ) を挿している。歩くと ( かす ) かに、凛とした音がする。
「詳しいんですね、このあたりのことに」
 わたしが云うと、彼女はおっとりと微笑んだ。よく来ているのかもしれない。
 彼女について川の方へと道を渡る。ガードレールから川へ身を乗り出してみて、わたしは歓声を上げた。
「天の川みたい」
 水そのものが光っているかのように、川は螢で溢れていた。満月で霞んでしまっている 夜天 ( そら ) の星達より、ずっと輝いている。




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