Nonsense Story

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旧校舎の幽霊 9


 英語準備室のある本館と旧校舎は、校舎の建っている敷地の中でも端と端に位置する。いくら走っても八時までに旧校舎の屋上まで上がることは、不可能に近い。
 しかし、ぼくの取り柄は足の速さくらいのものなのだ。赤松にも頼まれたというのに、ここで間に合わなかったら何の意味もない。
 暗闇に沈みかけている学校の敷地の中を、ぼくは走った。校舎が、部室長屋が、体育館が、どんどん後ろへ流れていく。
 旧校舎に着くと、最上階まで一気に階段を駆け上がった。リノリウムの床を蹴る音が、暗く静かな校舎にこだまする。
 念のため、屋上へ行く前に多目的教室を覗いてみが、真っ暗な空間に秒針が時を刻む音が響いているだけだった。電気を付けてみると、八時まであと三十秒弱。すぐに階段へ引き返し、また屋上まで駆け登る。
 屋上へ続く扉の鍵は、いつも閉まっているはずだった。それが今は開いている。きっと栗田の仕業だろう。
 扉の向こうに夜空が見えた時点で、ぼくは叫んだ。
「栗田!」
 屋上には、栗田亜湖が一人でいた。端っこの少し高くなった部分に腰掛けている。
 春とはいえ、晩方はまだ肌寒い。冷めた風が、轟音とともに吹きつける。遮るものが何もないので、まともに顔を直撃する。
「川野先生は?」
「川野先生は来ない」
 ぼくは足を止めると急に息苦しくなって、喘ぎながら答えた。膝ががくがくする。自分の心音がうるさい。
「そう」
 栗田は乾いた声を出した。長い髪が顔にかかっていて、表情が見えない。
 ぼくは彼女の方へ歩きながら言った。
「本当に人違いだったんだよ。あんたの母親は川野先生じゃない。あんたの言ってた彼女の子供って、自分のことだったんだろ?」
 誘拐なんて狂言だったのだ。彼女は自分で自分を誘拐した。自分の母親を振り向かせるために。そしてそれに失敗したと思っている今、自分で自分を殺そうとしている。
 彼女は黙って高くなった部分から校舎側に降りた。ぼくは駆け出した。
「来ないで!」
 拒絶の叫びに、ぼくは足にブレーキをかける。
「それ以上あたしに近づいたら、あのこと二枝ちゃんにバラすわよ」
「バラしたかったら、バラせよ! あんたが死ぬくらいなら、その方がいい」
 こいつが死んで、赤松がまた悲しむくらいなら。
 そんなぼくの心を見透かしたかのように、栗田が叫んだ。
「あたしが死んだら、二枝ちゃんが悲しむから? どうせみんな、あたしのことなんてどうでもいいのよ」
 ぼくに背を向け、右足を高い部分にかける。
「そうだよ。あんたがいなくなったら、赤松が悲しむんだよ。どうでもいいなんて思ってない奴がいるんだ。よく分かってんじゃん」
 一瞬、栗田の動きが止まった。しかし、すぐに左足も上に伸ばし、とうとう端の高い部分に登ってしまった。ぼくはたたみかけるように声を張り上げた。
「それに、赤松だけじゃない。他にも悲しむ人間はいっぱいいるだろ。俺だって、どうでもいいなら、英語準備室からここまで走って来るかよ!」
「でも結局、あの女は来なかった。あの文を見ても、何の反応もない。それどころか、あたしを見ても全然気付かなかった」
 栗田は高くなった部分に立ち上がろうとしている。
 ぼくは足音を立てないように、ゆっくりとそこへ近づいていった。不気味な風の音も、今はぼくの足音をかき消す手伝いをしてくれている。
「だから、川野先生は、あんたの母親じゃないんだよ。本当にあんたを見たことなかったんだ。それでも先生は二通目の文を見て、電話しようとしてた。それを俺が止めたんだよ」
 真っ暗な空へ吸い込まれるように、バランスを取りながら彼女は立ち上がった。
 栗田まであと五メートル。ぼくは喋り続けた。
「余計なことして悪かったよ。でも、本当に川野先生は人違いだったんだ。俺、先生の子供の写真見たんだ」
 お風呂に入っている赤ん坊の写真、幼稚園のスモッグを着て踊っている幼児の写真、リレーのバトンを持って走っている子供の写真・・・・・・。写真の中の子供の成長は、小学校の卒業式までで途切れていた。
 栗田まであと一メートル。ぼくはそっと手を伸ばす。
「あの子はあんたじゃない。だって、彼女の子供は男の子だったんだから」
 栗田が振り向こうとした瞬間、ぼくは右手で彼女の左腕を掴み、自分の方へ力任せに引き寄せた。バランスを失った体が、ぼくの方へ倒れこんでくる。ぼくの足も急に乗ってきた体重を支えきれず、ぼく達は冷たいコンクリートの上に転がった。
「いたた・・・。大丈夫か?」
 上体を起こして、横になったままの栗田を覗き込む。彼女は目を見開いていたが、どこも見てはいなかった。頬に涙の跡が光っている。
「栗田?」
 そっと声をかけるが、表情に変化はない。ぼくは不安になった。
 栗田の体を起こそうとしたその時、彼女の口から声が漏れた。その声に合わせるように、体が小刻みに震え出す。浅い息のようだったその声は、だんだんと大きくなり、嘲笑のような笑い声になった。
「腕を離してもいいわよ。もう飛び降りたりしないから」
 屋上に転がったまま、ひとしきり笑った後、彼女は言った。ぼくは、栗田が笑っている間もずっと、彼女の腕を掴んだままだったのだ。
 栗田は頭を動かし、寝転んだままぼくを見上げた。彼女の顔からは先程の嘲笑は消え、妙にスッキリとした表情になっていた。髪はぼさぼさ、顔も涙でぐちゃぐちゃ、おまけに暗くてはっきり見えないのだが、その顔は、今まで見てきた彼女の顔の中で一番綺麗なものに思えた。
「もともと死ぬ気なんてなかったもの。あたし、留学するの」
「はぁ?」
 ぼくは耳を疑った。何だって?
「最低でも三年は帰国しないつもり。出発するまでに、一度母親ってものに会ってみたかったの。二枝ちゃんから聞いてるでしょ? あたしが母親の顔知らないの」
 ぼくは、はぁ? と言った時の表情のまま頷いた。
「あたしは父親から、母親はあたし達を捨てて出て行ったんだって聞いて育ったの。写真も何もなくて、分かってたのは、高校の英語教師だってことと、指輪の裏に書いてあった名前だけ。なんとかこの学校に勤めてるらしいことまで自力で突き止めたけど、英語の先生なんていっぱいいるし。それで、この学校出身の友達に制服借りて忍び込んだってわけ」
 ぼくは呆然とその話を聞いていたが、思い出して彼女の腕を離した。栗田はぼくが掴んでいた部分を、反対の手でさすりながら続けた。
「能島愛子のことも、その友達に聞いて知ってたの。当時はテレビでもよく取り上げられてたしね。本当のことを話して、きみ達に協力を仰ぐことも考えたわ。でも、会ってどうしたいのか自分でも分からなくて。真正面から会うのが怖かったのね。拒絶されたらどうしようって。だって、あの人は一度あたしを捨てたんだもの。そして、落胆するあたしを二人に見られるのも嫌だった。人間のプライドってやっかいよね」
 誰でも人に拒絶されるのは怖いのだ。こんなに美人で、自信に溢れている栗田亜湖でも。彼女に、赤松の気持ちが分からないと言ったことを、少しだけ撤回した。心の中でだけど。
 栗田は起き上がると、どきっとするような笑顔を向けてきた。
「でも、止めてくれてありがとう。さっきは、本当に飛び降りてしまいそうだった」
 ぼくは大きく息を吐いた。さっきまでの緊張と恐怖が、今頃になって心臓を叩く。一瞬とはいえ、自分の動悸の大きさまで忘れていたことに、笑いがこみあげてきた。
「あはは。あんた、本当に爆弾娘だな。成り行きであんなことやってたら、命がいくつあっても足りないよ」
 腹も立ったが、それ以上におかしかった。きっと安堵の方が大きかったんだ。
 栗田もつられて、また笑い出す。今度は心底おかしそうな、気持ちのいい笑いだった。
 ぼく達は座り込んで笑い続けた。その笑いがやっと治まってきた頃、入り口の方から足音がして、屋上に三人の人影が現れた。辺りはもう真っ暗で顔は見えないが、きっと、赤松、大橋、川野先生の三人だろう。
「亜湖!? 亜湖がいるの?」
 大橋の声だ。
 ぼくは肝心なことを思い出した。そうだ。あの指輪は・・・・。
「栗田、本当の母親、誰だか分かったんだ。あの指輪、お父さんのだったんだろ? あれを知ってる人物が居たんだよ」
 ぼくは栗田の両肩を掴んで揺さぶった。
「大橋だよ。俺のグラマー担当の。あの鬼教師。大橋もマミコって名前だったんだ。コの字は、あんたと同じ、みずうみの湖だ」
 栗田が探していたのは大橋だった。栗田の持っていた指輪は、大橋の別れた旦那のものだったのだ。
 二人の特徴のある耳。コという字を湖と書く名前。英語教師の娘は、多くの子供と同じように、自分の中に母親のヒントを持っていた。
 母親が大橋だということは、彼女が飛び降りようとしていた時、喉もとまで出かかっていたのだが、大橋が来なかった時のことを考え、口に出さないようにしていた。
 栗田はまだ理解できていないようで、「え?」という表情のまま、声のした入り口の方へ顔を向けた。
「赤松さんから事情を聞いたの。いるんでしょう?」
 大橋の声が暗闇の屋上に響き渡る。暗くて、なかなかぼく達を見つけられないでいるようだった。
 ぼくは手を上げた。
「先生! こっちです」
 ぼく達を見とめた大橋は、真っすぐこちらに向かってきた。ゆっくりとしていた足取りはだんだんと速くなり、終いには、駆けるように栗田のところまで来ると、中腰になって彼女の顔を覗き込む。
「本当に亜湖なのね。大きくなって・・・・きれいになっちゃって・・・・・。でも、この耳、やっぱり変わってない」
 大橋は、ピアスのついた栗田の耳に触れた。
「おかあ・・・さん?」
 幼い子供のような栗田の声に、大橋はコンクリートに膝をつくと、彼女を抱きしめた。
「ごめんね。本当にごめんね。手放したくなんてなかった。でも、あなたを引き取れるだけの経済力が、あの時の私にはなかったの」
 涙を流しながら娘を抱きしめる大橋の顔は、間違いなく母親のそれだった。
 ぼくはそっと二人の傍を離れて、入り口で待つ赤松達のもとへ向かった。


-つづく-



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