Nonsense Story

Nonsense Story

16



 片岡が固唾を飲む音が聞えた。
 ぼくの額を、首筋を、背中を、じっとりとした冷たいものが伝っていく。  ぼくが危惧していたのは、片岡が殺人を犯したかもしれないということではなく、彼がそれを理由にこの世から消えてしまおうとしているのではないかということだった。
「・・・・・・何、言ってるんだ。どうして俺が死ぬなんて・・・・・・」
 片岡の搾り出すような声が携帯から伝わってくる。ぼくは言った。
「持ち帰ったんだろう? 白石久美子の睡眠薬」
「なんで・・・・・・っ」
 いつもの片岡なら、さらりとかわされていたところだろう。しかし今の彼は普通ではなかった。明らかに答えに窮していた。驚愕した声が、ぼくの恐れを肯定していた。
 白石久美子は倒れた時、病院で処方されていた睡眠薬を飲んでいなかった。だが、赤松の持っていたネットの効能書きには、勝手な判断で服用を中止してはいけないと書かれていた。自分はどうなってもいいと思っていたにしろ、常用していた睡眠薬の量を減らすとは考えにくい。つまり、白石久美子はもとから睡眠薬を飲んではいなかったのではないかとぼくは考えた。もちろん、自ら命を絶つために飲まずに溜めていたんだろうと推測したのだ。
 しかし、倒れた彼女が飲んでいたのは、睡眠薬ではなく糖尿病薬だった。
 自殺決行に糖尿病薬を使ったのは、ぼくは睡眠薬が紛失したためではないかと想像していた。今の片岡の話で、彼が入れ替えたから糖尿病薬を使ったのだということは分かったが、それでもやはり、全く検出されなかったというのはおかしい。片岡に殺してもらうつもりなら、普通に服用していてもよかったはずだ。一緒に飲めば、致死率だって上がったかもしれない。
 それを飲んでいなかったのは、やはり手元になかったからではないかと思うのだ。そして紛失の理由として考えられるのが片岡だった。
 彼は親父さんと白石久美子の薬を入れ替えた時に、睡眠薬を持ち去ったのではないか。彼女が入れ替えた薬を飲むとは思っていなかったにしろ、もしもそれで彼女が死ぬようなことがあれば、自分にも制裁を与えるつもりで。
 ぼくはそう考えた。
 そして片岡は今、自分を許せないでいる。彼には変に融通の利かないところがある。自分の罪を認めたら、納得のいくまで自分を律するだろう。電話を切った後の彼の行動が、ぼくは怖かった。
 電波はしばらくどんな声も乗せてはこなかった。時間の合っていない教室の時計の音が、やたらと耳につく。
 額を伝う汗が目の中に入ってきた。ぼくはそれを拭って再び口を開いた。
「俺は本当に、お前のしたことに罪なんてないと思ってる。それでも償いたいというなら止めるようなことはしない。でも、その方法には口出しさせてもらう」
 携帯電話は沈黙を続けている。
 ぼくの不安は頂点に達しようとしていた。
 片岡の眠たげで少し舌足らずな物言いが、もう手遅れなのではないかという気にさせる。
 ぼくはいつも何かあってから気付くのだ。大切なものの存在に。その存在の大きさに。
 自分がまだ、人を失うことをこんなに恐れているなんて思わなかった。いや、それは限られた人間に対してだけだと思っていた。しかし、その限られた人間は、ぼくの中で確実に数を増やしている。ぼくも知らないうちに増殖している。
「お前が忘れろと言うなら全て忘れる。一人で抱え込むのが嫌なら俺が一緒に背負ってやる。お前が忘れたくても忘れられないなら、お前の代わりに覚えててやってもいい。だから・・・・・・!」
 生きてくれ。
 ぼくの声はいつしか痛切な叫び声になっていた。
 空白の時間が過ぎていく。片岡は何も言わない。ぼくも何も言えない。これ以上言えることなど何もない。
 それはたった数十秒のことだったかもしれない。しかしぼくには、何十時間も待ち続けているように感じた。片岡の声を。生きている証を。
「・・・・・・言ってて恥ずかしくないか?」
 低くくぐもった声で、ぼくは我に返った。片岡の声は言葉とは裏腹に掠れていた。
 ぼくは顔から火が出そうになりながらわめいた。
「死ぬほど恥ずかしいわ! 俺にこんなこと言わせてただで済むと思うなよ。勝手なことしやがったらぶっ殺してやる」
「死ぬなと言ったり殺すと言ったり・・・・・・」
 片岡は苦笑した。そして掠れ声のままこう言った。
「でも、どうして俺にそんなことを?」
 ぼくは少し考えてから、なるべく平然と聞えるように答えた。
「俺が中学の時一番仲良くなった奴は、会って半年で転校した。去年ツルんでた坂口は、一年で引っ越した。これでお前がいなくなったら、俺には『親しくなった奴はみんないなくなる』っていうジンクスができちゃいそうなんだよね。だから、お前に消えられると困るんだ。それに、お前がいないと今年の秋提出の読書感想文は、誰のを盗作すりゃいいんだよ」
「ずいぶんと自分勝手な理由だな」
「知らなかったのか? 俺は自分勝手な一人っ子だ」
「俺らがそんなに親しかったということも知らなかったな」
「俺も知らなかった」
 片岡はしばし絶句したようだったが、負けたよ、と言って少し笑った。そして、先程までとは打って変わった力強い調子でこう告げた。
「もう切らなければならないから始業式に会おう」
 携帯を持つ手が、汗でぐっしょり濡れていた。切る時には、手が滑って電話機を取り落とすかと思った。早鐘のように鳴り続けている鼓動も、足の震えも、なかなか治まりそうにはなかった。
 しかし、薄暗い教室を覆っていた見えない布は、確実に取り除かれていた。
 ぼくは机に座りなおして目を閉じた。窓ガラスを震わせるような蝉しぐれが、ぼくを包み込む。
 片岡の、体格に似合わず繊細な印象を受ける顔を思い浮かべる。眼鏡を外した彼の顔は、数えるほどしか見たことがない。しかし、細い目は父親譲りだと彼は言っていた。
 昨夜、暗闇に佇む片岡を見た白石久美子は、そこに希望を見たんじゃないだろうか。
 妻の元に逝ってしまった恋人が会いに来てくれた。そして、自分を呼んでくれている。
 それは、夜の海で遭難した小舟から見た灯台の灯のようだったかもしれない。自分を救うべく輝く、暖かな道しるべ。
 大きく両手を広げた彼は、彼女にとって幸福の使者そのものだった。
 確認することはできないが、彼女の死に顔は微笑んでいたんじゃないかと、ぼくは思う。


つづく



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