Nonsense Story

Nonsense Story

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 多目的教室の前に人が立つ気配がして、ぼくはようやく硬直していた体を解いた。ゆっくりと机から腰を上げる。歩けることを確認し、体を支えていた手を机から離した。
 埃の舞い踊る教室を、机の間をぬって入り口へ向かう。扉を開けると、赤松がうつむいて立っていた。
「どうしてここに・・・・・・?」
「なんとなく、きみがここに居るような気がして」
 赤松は、視線を落としたまま言った。
 考えてみたら、こいつが何も気付いていないはずがなかった。
 赤松は自分に対する好意などには恐ろしく鈍感なのに、変なところで察しがよかったりするのだ。昨夜片岡があの場にいたであろうことも、彼がしようとしていたことも感づいているに違いない。だからぼくに早く電話をしろとせっついたのだ。
「遺書には、本当はなんて書いてあったんだ?」
 赤松は一瞬身を硬くし、目を伏せた。
「・・・・・・『あの人の処へ行きます。ご迷惑おかけしてすみません。』って。それだけ」
 それから彼女は、がばりと頭を下げた。
「ごめんなさい。きみに辛い役目を押し付けたと思う。でも、わたしじゃ片岡君を止められないと思ったんだ」
「いつから気付いてたの?」
「気付いてたってわけでもないけど・・・・・・」
 赤松は目を伏せたまま頭を上げた。
「最初に話した時の片岡君の言葉が、ずっとひっかかってたんだ」
 悪気があったわけじゃないし、悪いことをしたとも思ってないから謝らない。
「だから、あんな理由でわたしに謝ってくるような人じゃないと思った。もちろん、あれから一年以上経ってるんだから、片岡君の考え方も変わってるかもしれないけど」
 片岡が赤松に謝ったのは、白石久美子の倒れた原因が直接彼にあったからだった。しかし、そんなこと話せるわけがない。だが、どうしても赤松に謝りたかった彼は、謝る理由として、本当に悪いと思ったことではなく、白石久美子をあの場に導いたことのみを挙げた。つまり、自分の感じる罪悪感の基準をいつもより少し緩めに設定して謝罪したのだ。その基準の差を、赤松は敏感に感じ取っていたのだった。
「じゃあ、最初から気付いてた・・・・・・?」
「気付いてたわけじゃないよ。何かあると思ってただけ。嫌な奴だよね、わたしは。人を疑ってばかりだ」
「そんなことない」
 両手で自分の腕を抱いて小さくなっている赤松に、ぼくはそう呟くのが精一杯だった。
 赤松は疑っていたのではなく、信じようとしていたのだろう。信じたかったから、いろいろ調べていたのだ。
 一番辛かったのは片岡かもしれないが、一番怯えていたのは片岡でもぼくでもなく、彼女かもしれない。
「あとは薬をネットで検索した時。印刷したページには書かれていなかったけど、白石さんが服用を止めていたベージュの錠剤は、経口糖降下剤、つまり糖尿病薬と一緒に飲むのは避けるべきだということになってたんだ。低血糖症を起こしやすくなるからって。低血糖で死のうと考えたなら、この薬を一緒に飲むのが自然でしょう。だから、飲んだのは彼女の意思でも、選んだ薬には他人の意思が介在していたんじゃないかと思った。禁忌薬のことまでは知らない誰かの意思が」
 そして薬の入れ替えを行ったのが片岡であると推測した時、睡眠薬の行方と利用法について、彼女はぼくと同じ結論に達した。
「こんなこと言ったら片岡君は怒るかもしれないけど、わたし、片岡君は白石さんを好きだったんじゃないかと思うんだ。だからよけいに許せなかったんじゃないかな。相手も自分も」
「うん・・・・・・」
 それはぼくも先程の会話で感じたことだった。
 片岡は彼女に愛情を感じていたからこそ、危険を冒しても彼女の願いを叶えてやろうと思ったんじゃないだろうか。そして、そんな自分を許せなかった。憎むべき相手にそんな感情を抱く自分も、望みどおりにしてやる自分も。彼女を殺してしまった自分も。
 生い立ちを語った時に見せた彼の嫉妬は、白石久美子に対してだけでなく、父親に対しても向かっていたのかもしれない。
 片岡自身が、どこまで自分の気持ちに気付いているかは分からないが。もし気付いていないなら、このままずっと気付かなければいいと思う。
「俺はこのことは誰にも言う気はない。もちろん警察にも。でも、赤松は自分の思うようにすればいいから」
 直接手を下していないとはいえ、自分では死ねないから片岡を呼んだという白石久美子の手紙が明るみになり、昨夜片岡が病院にいたことが立証されれば、自殺幇助罪くらいにはなるだろう。
 片岡にはあんなことを言ったが、ぼくの方針を赤松にまで押し付けるわけにはいかない。
「わたしは、この件に関しては全部きみに一任するって決めたから」
 赤松は目を上げ、真っ直ぐにぼくを見つめて言った。
 ぼくからポッキーを受け取った時の、彼女の顔を思い出す。何かから解放されたような、それでいて申し訳なさそうな、ため息のような笑顔。
 あの時の言葉はこういうことだったのかと、ぼくは納得した。
 彼女はあの日、本当に荷物を半分下ろしたのだ。あの白い月の下で。
「重い決定まで押し付けたようでごめんなさい。でも、そういうことならわたしも一緒に背負うから」
 蝉の合唱に掻き消されそうな赤松の小さな声は、それでも強い意思を持ってぼくに届いた。
 しかし、彼女がせっかく下ろした重荷をまた背負わせたくはない。その荷物は明らかに重量を増しているのだ。
 それに、ぼくは白石久美子には何の思い入れもないので、片岡さえ無事なら平気だが、赤松はそういう人間ではないだろう。彼女がどこまで感づいているのかは分からない。昨夜の病院のことまでは知られていないと思う。それでも、片岡ほどではないにしろ、彼女は罪悪感を抱き続けるに違いない。
「サンキュ。でも・・・・・・」
「それで、片岡君は・・・・・・」
 断ろうとしたぼくを遮るように、赤松が口を開いた。
「ああ。片岡ならもう大丈夫だから、安心していいよ」
 ぼくは彼女を元気付けようと、努めて明るく言った。
 片岡は、自分から始業式に会おうと言っていた。あれは、あの力強い言葉は、社交辞令なんかじゃない。
「きみは?」
「え?」
「きみは大丈夫?」
 意外な問いかけに、ぼくは戸惑った。
 大丈夫だけど大丈夫じゃないような気もする。本当は怖かった。我を忘れるほど怖かった。今にも片岡が消滅するんじゃないかと、内心は恐怖で気が狂いそうだった。
 まだ足の震えは微かに残っている。許されるなら、このまま目の前の少女に寄りかかってしまいたい。寄りかかって、赤ん坊のように大声を上げて泣いてしまいたい。
 それでもぼくは彼女に寄りかかってしまえるほど、素直でもなければ強くもなかった。
「大丈夫じゃなかったら、何かしてくれんの?」
 シリアスな気持ちを吹き飛ばすように、しれっと言う。もともとそういう感情が表に出ることなどあまりないのだ。ぼくの顔の表皮は、中学で総スカンを食らって以来ずっと、そういう風になっている。
 赤松は少し困ったように首を傾げた。
「何がしてほしい?」
 生きていて欲しい。どこにも行かないで欲しい。ぼくの傍に居て欲しい。 「かき氷を奢ってほしい」
「今から?」
 そりゃそうでしょ、と頷く。
「用事があるなら別の日でもいいけど、明日からまた実家に帰るんだろ?」
 ぼくはすいっと赤松の横を通り抜け、多目的教室を後にした。呆気にとられていた赤松は、一拍遅れで駆けてきた。
 肩の荷が下りたせいか密閉された教室にいたせいか、校舎の外は暑くても解放感に溢れているように感じた。木々はむせかえるような緑の匂いを発散し、太陽は白く輝いている。
 ぼくは外の光の眩しさに目を細めながら、思い切り腕を上げて伸びをした。直射日光がジリジリと肌を焦がしても滝のように汗が流れても、その先にキーンと冷たいかき氷が待っていると思うと、全てがそれをおいしくするためのお膳立てに思える。
「今日はないな、月・・・・・・」
「月?」
 腕を空に突き出したまま、薄氷のような白い月を探してぼくが呟くと、赤松が不思議そうな顔をした。
「一昨日は白いのが見えたんだ」
「ああ、夕方くらいになれば見えるんじゃないかな、今日も。そういえば、昨日の夜の月は怖いくらい綺麗だったよ」
「月を見ながらおじいさんと晩酌でもしてたんだろう?」
 ぼくが茶化すと、赤松はそんなところかなと呟いて、耳にかかっていた髪を手で梳いた。肩まである髪の毛が、少し前屈みになっている彼女の横顔を隠す。ぼくは再び空へ目を向けた。
 雲ひとつない青空を見上げて蝉の声を浴びていると、タオルハンカチで額の汗を拭っていた赤松が情けない声を出した。
「そういえば昨日いっぱいお金使ったから、今、持ち合わせが・・・・・・」
 処方薬事典のことだな。
「いくら持ってんの? 足りない分くらい自分で払うけど」
 ぼくの食べたいサラサラかき氷の値段なんて三百円くらいのものだ。しかし赤松は、財布を調べて更に申し訳なさそうな顔になった。
「五十円・・・・・・」
 ぼくは耳を疑った。
「は? 印税は? 映画化の臨時収入は?」
「そんなの入るの先だよぉ。微々たるものだし。それに学校来るのにそんなにお金いらないから、普段もこんなもんだよ」
 でも、女子高生の財布に五十円はないだろう。学校の自販機のジュースだって買えないじゃないか。
「仕方ない。今日は俺が奢るよ。今度倍返しね」
 ぼくがため息と共にそう提案すると、赤松は一瞬嬉しそうに顔を上げた。しかし、すぐに顔をしかめてこう言った。
「それって、あんまりありがたくない気がする」
 ぼくは素知らぬ顔で駐輪場に向かった。赤松も渋々ついてくる。どうせなら高いのを奢ってもらおうと言いつつ、倍返しのことを考えると安いものにするべきかと悩んでいるようだ。とてもサイドビジネスで稼いでいる奴とは思えない。けちなのか貧乏性なのか。
 ぼくは、赤松の足を踏まなければ百円脅し取られる、という片岡の例示を思い出した。
 足を踏まずに後で彼女に請求した場合、金は返ってこないかもしれないと思う、今日この頃である。


つづく


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