23話 【露の世に】


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23話 (柾) 【露の世に】―ツユノヨニ―



ねぇ
それでも
世界のどこかには
何の争いも無い
綺麗な場所があるって
信じてもいいかな?


【1日目】

迷い込むような場所にある、隠れ家的なジャパネスク・モダン・スタイルな一軒屋。そこが行き付けの喫茶店だ。
日本家屋を改装したその店は外観こそ古民家だが、壁をツタが這うなど、どことなく初めて来る者を拒む気配が見受けられる。
どこにも看板がないので、そこが喫茶店だと気付く者はいないだろう。口コミや店主の紹介でしかこの店には入れない。
駐車場がないところも優しくない。それでも、店内に入ればそこは楽園だった。
中はさほど広くなく、打ちっ放しのコンクリートが無機質でもあり、洒落てもいる。テラスに吊るされたハンモックも利用可能だ。
他のどこにもない、ここだけのオリジナルなものがある。店内の床を走り巡る水路だ。
幅10cm×高さ7cm分が凹んでおり、そこを水が流れる仕組みなのだが、その1本が蛇行している様は視界を楽しませてくれる。
観葉植物が主張しすぎず置かれており、ボサノヴァやらジャズが静かに流れるこの店こそ、知る人ぞ知る、絶好の穴場だった。
「やっぱりここだったか」
窓際の、木漏れ日注ぐ、絶好のポジション。
風も心地よいお気に入りの席で珈琲を飲んでいると、聞き慣れた声がした。入社当時からの腐れ縁、麻生環だ。
白いカッターシャツに紺色のネクタイ。その上に背広を着ている。恐らく出勤前なのだろう。
「何の用だ」
「愚問だな。愛知県民の朝っつったらモーニングだろ。現にお前だって通いつめてるじゃねぇか」
「そういう意味じゃない。明らかに僕を探している感じだった。……待て、お前は岐阜県民だろ?」
「岐阜も愛知も変わんねぇよ。それよか柾、今日は何時出勤だ?」
「9時だが」
「じゃあこれ。宜しく頼む」
背広の内ポケットから取り出したのは、切手が貼られた1通の茶封筒だった。
「いい度胸だな。僕をパシらせるのか」
「ここからユナイソンの通り道にある唯一のポストは、収集時間が10時だから丁度いい」
「丁度いいのはお前にとってだろう。どうして自分で出さないんだ」
「遅番なんだ、俺。それまでここで2時間ほど読書」
もし僕がオーナーだったら迷惑この上ないと思うに違いないが、意外にもここの店主は長居に好意的だ。
麻生は早速ブリーフケースから本を取り出した。アウトドアな性分かと思いきや、意外にも活字中毒でもあるらしい。
そういえば麻生の部屋には文庫本や文芸書が雑多に積んであったことを思い出す。
腕時計に目をやれば8時38分。伝票と茶封筒を掴んで席を立つ。入れ替わるように、同じテーブルに麻生が座った。
「柾、それは置いていけよ」
指示語は、僕が飲んだ珈琲の伝票を指していた。
「手間賃だと思ってくれ」
「お言葉に甘えさせて貰うとするか。ご馳走様」
簡潔に「おぅ」とだけ答えた麻生の目は、既に文庫本に注がれていた。


***

その凡そ似つかわしくない風景に、軽い絶句を覚えた。
ユナイソンへ行くまでの道の途中にあるポスト。赤い鉄の塊りを前に、首を捻らざるを得なかった。
なぜポストの上に、部屋用芳香剤が置いてあるんだ?
周囲が臭うだとか、そういう違和感があるわけではない。単なる子供の悪戯だろうか。
恐らく考えても答えは出ないだろう。薄気味悪かったが、素知らぬ振りをして、麻生から託された茶封筒を投函する。


***

会議に出席するためバックヤードを歩いていると、麻生に出くわした。
聞けば同じ会議に出ると言うので、2人して会議室に向かう。
「あれから読書ははかどったのか?」と尋ねれば、麻生は首を竦めてこう言った。
「お前と入れ違いにちぃが来たんだ。だから読書は中止」
「彼女があの店に?」
「あぁ。今日は休みなんだとさ。……おい、そんな顔するなよ」
「どんな顔だ」
「どうして麻生がそんな僥倖にありつけるんだ? って顔。ちぃならまた、日を改めて誘えば……」
「確かに羨ましい話だが、そんなことより麻生。来る時にそのポストの前は通ったか?」
「ポスト? あぁ、通ったぜ」
「ポストの上に、部屋用芳香剤が置かれてなかったか?」
麻生は、僕を変なものを見るような目をしていた。案の定、「なに言ってんだ?」と尋ね返されてしまう。
「言葉の通りだ。僕が通ったときにはあったんだ」
「部屋用の芳香剤が?」
「あぁ」
「ポストの上に?」
「そうだと言ってる」
「……いや、なかったと思うぞ。だって、あったらおかしいと思うだろ? 柾みたいに」
僕が断言したものだから、麻生は困惑の色を隠せないようだった。
「10時に回収に来た郵便局員が撤去したのかもしれないな。あぁ、封筒は投函しておいたから安心しろ」
「……そいつはどーも」
腑に落ちないまま、麻生は礼を言った。
麻生以上に僕も腑に落ちていないのだが、やはりいくら考えても答えが出ないので、謎解きは諦めるしかない。
その時だった。顔を曇らせた部下の三原が近づいて来て、「柾チーフ」と僕の名前を呼ぶ。
「どうした?」
「それが……」
それなりにキャリアを積んでいる彼女だからこそ、弱気な口調なのが珍しかった。
「初老の男性客が、テスターの口紅を片っ端から口に塗りたくっておりまして……」
「テスターを全て回収して、新品と交換しておいてくれ。そのお客については警備員に委ねよう」
「分かりました」
「困った客と言えばさ、数日前のことなんだが、ダイエット器具の『ジョーバ』ってあるだろ?」
三原の背中を見送りながら、麻生は言った。
「家電売り場に4台並んでるんだが、これが傑作なんだ。客がスイッチを入れたままトンズラしたみたいでさ。
ウィンウィン回ってんだよ、4台。もちろん騎手はいない。それを見た時、肋骨が折れそうなほど笑ったよ」
「お前はとことん幸せなヤツだな」
「その光景を見たら、お前だって腹がよじれるほど笑うと思うぜ」
今からこいつも交えて会議か。そう思うと、自然と溜息が出た。


【2日目】

次の日も同じ喫茶店で朝食を取った。件のポストが気になったからだ。
腹が満たされると同時に好奇心も満たせてくれるのだから、430円という代金は安い対価だった。
一息ついた後、ポストへと向かう。心なしか歩幅が大きかったように思う。
麻生の言った通り、もう芳香剤は置かれていなかった。その代わり、名も分からぬ花が一輪だけ置かれていた。
それは明らかに人によって手折られたものであり、枯れていないところを見ると、摘んで間もなさそうだった。
「今日は花か……」
昨日の芳香剤、今日の一輪花。果たして同一人物が置いたのだろうか?
花を見てみる。ブルーサファイアのような群青色。花弁の枚数がかなり多い。おしべは紫色で、形状はコスモスに似ている。
花には疎い僕だったが、これなら育ててみようかなと思わず趣旨替えしたくなるような、可憐な花だった。
明日はどうなるだろう? 好奇心が抑えられない。しばらくは、あの喫茶店に通うことになりそうだ。


***

「青や紫の花というと、何を思い浮かべる?」
漠然とした問いに、千早歴は目を瞬かせながらも、うーんと呟いた。
「この時期ですとあじさいですか? 菖蒲も綺麗ですよね。それともパンジーかしら。露草も可愛らしいですよね。クロッカスも」
「問題。『あるところに、ポストがありました』」
「え? はい」
花とポストがどう繋がるのかと、興味津津のていで彼女は頷いた。
「『ポストの上に、花が一輪置いてあります。何故だと思いますか?』」
「それは、禅かなにかの問答ですか?」
「いや、単にポストの上に置かれた花を思い浮かべてくれればいい」
「……? 心が浮き立つかもしれませんね」
「じゃあ、芳香剤がポストの上にあったら?」
「芳香剤ですか? それはちょっと気味が悪いですね。……人を困らせたい者の犯行とか?」
僕も、彼女と同じ感想だ。
既に僕の中で答えは出ていた。悪戯をする子供の姿が、ありありと浮かんだ。


【3日目】

ポストの上に一輪の花が置かれてから、一夜が明けた。
意外にも花はそのまま置かれていた。しかし綺麗だった花弁は茶色く変化しており、既に枯れ始めていた。
いつか風に飛ばされて、花は姿を消すだろう。


【4日目】

さらに翌日。予期していなかったことが起きた。ポストの上には何十本もの花が置いてあった。
枯れてしまった例の1本は取り替えたのだろうか、それとも風でどこかへ誘ったのだろうか、どこにも見当たらない。
今回新しく置かれた花は先日と同じ花であり、こうなると、気付いているのが自分だけというのもおかしな話だった。
芳香剤が置かれていた時点で郵便局員は異変に気付いたはずだ。芳香剤は撤去しても、花は撤去しないのだろうか?
往来こそ激しくなくとも、市民が通り掛かからないなんてことは絶対にあり得ない。
僕が気付いたように、誰かも気付いてるに違いないのだ。
気になって麻生に尋ねてみると、「気付いたが、そのままにしておいた」という。
「何かの犯罪に巻き込まれてもいやだしな」
「犯罪……」
花束を置くことが犯罪に繋がるのだろうか。だが確かに奇妙な出来事であることには違いなかった。


【8日目】

この悪戯になんの意味があるのか。ただの気紛れの産物かと思いつつも2日後、花たちは枯れた。
1回目の1輪。2回目の10本。3回目があるとすれば、花束は何本になるだろう? 
当然僕は、3回目があるものと思っていた。けれどもその日はやって来なかった。
芳香剤の朝から数えて8日目の朝。僕は道の端に散乱する小汚い衣服と、私物らしき小物が点々と落ちていることに気付いた。
それがポスト周辺であるという奇妙な一致に、妙な胸騒ぎを覚えた。ふと『ヘンゼルとグレーテル』の話を思い出す。
(待て……。あの物語のように、子供の後を付け狙う悪い魔女がいたとしたら、筋書きはどうなる?)
例えば今までの行為が無邪気な悪戯などではなく、乱暴な犯罪者が関わっていたとしたら? 
何かがカチリとはまる音がした。疑問という名のパズルのピースが、1つの物語へと収束していく音だった。
街をさまよい歩く浮浪者、或いは痴呆が進んだ老人。
彼はユナイソンにも姿を現した。
三原の言う、テスターの口紅を塗りたくった老人こそ、その人物だと仮定する。
麻生の言う、4台のジョーバのスイッチを入れてトンズラした人物も、その老人と仮定する。
「彼」はユナイソンへ来る道中、ポスト前も通過する。どこからともなく摘んで来た花をポストの上に並べる。芳香剤を置く。
(誰が置いたかまでは分からないにしても、市民だって気付いている。けれども関わりたくないと思っている。――麻生や僕みたいに)
降りかかる「災い」や「奇妙な関わり」は、極力避けたい世の中だ。
果たして、この散乱した衣類や遺物が示すものは……。


***

上着、ズボン、シャツを拾い上げながら、僕はどこへ行こうとしているのか。
ただ、点と点を繋げば線になるように、物と物を繋げば、「何か」には行き着くだろうと思った。
それだけは分かっていたから、足は「答え」を知りたくて進み続ける。
誘導された先は、町外れの土手だった。
川と岩石が交じり合うその境に、老人はいた。
動かず、所々から血を流し、泥で汚れた下着1枚と靴下、靴のみの姿で倒れていた。
その右手には、例の花が握り締められていた。ブルーサファイアのような群青色が1本。
息絶えていることは、一目瞭然だった。
僕は、間に合わなかったのだ。


***

警察による事情聴取から解放されたのは夕方近くだった。
自分がどのように帰って来たのかすら覚えていない。何もする気になれず、ただ部屋の隅に蹲っていた。
チャイムの音も、携帯の着信音も、全て無視する結果になった。だって、僕の耳には何も入ってきやしなかったのだから。
そんな抜け殻状態の僕だったから、僕の名前を呼ぶ声が顔の真正面から聴こえてきた時は、幻聴かと思ったほどだ。
いつの間にか陽は落ちていた。薄暗い部屋で、僕を呼ぶ澄んだ声だけが希望の光だった。
「柾さん、柾さん。大丈夫ですか?」
私服姿の千早歴は、膝を抱えていた僕の高さに合わせるためか、膝を折り、顔を覗き込んでいた。
「千早……?」
「犯人が捕まりました。返り血を浴びた男が、2時間ほど前に逮捕されたそうです」
「そうか……」
「男は、『ムシャクシャしていた。殺すのは誰でも良かった』という供述をしているみたいです。
『たまたま目の前に弱そうな人間が通り掛かったから』、とも……」
千早の両目から、盛り上がった涙がとめどなく零れ落ちる。
始めの内こそ手で目尻を拭っていたが、決壊したダムを堰き止めることが出来ないのと同じで、無駄な行為だと気付いたようだ。
流れるままに任せ、彼女は続けた。
「……柾さん。園田さんの……園田さんって、亡くなられたお爺さんのお名前ですけど……」
「彼は、園田さんと言うのか……」
「警察の方から聞きました。園田さんには身寄りがなかったそうです。
奥様を亡くされてからは1人で自宅住まいをしていらしたそうで。でも最近は痴呆が進み、街を徘徊することが多かったそうです。
警察が道に散らばった園田さんの物と思しき物を回収したところ、奥様の写真と、わずかな所持金が見つかったそうです」
「そうか……」
「柾さん。先日、私に聞きましたよね? 青か紫の花について。あれは、園田さんに関係していたんですね」
「……ポストの上に、芳香剤や花束が置いてあったんだ。僕は、あれが園田さんの手によるものじゃないかと思った。
今なら合点がいく。痴呆が進んでいたなら、そんなこともあるんじゃないかってね。
子供の悪戯なんかじゃない。園田さんが、気紛れで置いたんだ」
「警察の方から、その花を見せて頂きました。矢車菊、だったんですね……」
千早の顔が、沈痛に歪んだ。
「矢車……菊?」
「その花弁の形から、矢車菊と名付けられました。その起源は古く、悲しいエピソードもあります。
かつてツタンカーメンが暗殺された折に、最愛の夫を亡くした妻アンケセナーメンは、その棺の上に、青い矢車菊を置いたそうです。
それを見た発掘者ハワード・カーターは、『あたりに輝くどんな黄金より、枯れた矢車草の方がずっと美しく見えた』と残しています」
「永遠の愛の証か……」
「園田さんが、どこから摘んで、何を思ってその花を持っていたかは分かりません。
でも、そのエピソードを知っていたとしたら……。痴呆を患っても、無意識にその花を愛していたとしたら……。
『あなたが亡くなっても、私たちは1つだ』と言う意味を込めて、持っていたとしたら……」
ほとんどが推測の域だ。そんな背景を勝手に描くなと怒られても仕方のない、想像に基づいたもの。
ハワード・カーターの件だって、“そんなものは無かった”、“そもそも花束ではなく花輪だった”という説もある。
けれども僕は見てしまった。知ってしまった。1人の老人の悲しい末路を。冷たいこの世界の現状を。
僅か8日間。たった8日間の出来事だった。それでも確かに僕は、社会の目の役割を果たしていたんだ。
涙が堰を切って流れた。漏れる嗚咽を抑えることなど出来なかった。膝を強く抱える。千早のぎこちない腕が、僕を包んだ。
彼女は何も言わなかったし、僕も何も言わなかった。
それでも、ただ彼女がそこに居てくれただけで、救われた気がした。

ねぇ
それでも
世界のどこかには
何の争いも無い
綺麗な場所があるって
信じてもいいかな?

そんな言葉が、心の中に渦巻き続けていた。


【11日目】

3日後、僕は町外れの土手に来ていた。
本当は翌日にでも花を手向けに来たかったのだが、熱が出て2日間ほど寝込んでしまい、今日になってしまった。
起き上がって一番にしたことは、出勤でもなければ通院でもない。
ユナイソンの花売り場に電話をして、矢車菊を仕入れて欲しいと頼むことだった。
今、その矢車菊の束が手の中にある。
園田さんが横たわっていた場所に、そっと花束を置いた。
手を合わせると、優しい風がすり抜けて行った。
矢車菊が揺れた。まるで、くすくすと笑うように。


2008.08.06
2018.04.06


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