18話 【桐一葉】


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18話 (―) 【桐一葉】―キリヒトハ―



___潮透子side

控えめな灯りのもと、そこかしこから聞こえてくる囁き声。夜を迎えた大人の憩いの場で、私は八女チーフの到着を待っていた。
ユナイソン岐阜店の最寄り駅にそのホテルのバーはあった。ホテル利用者だけでなく外部からでも来店可能な店のため、賑わいをみせている。
教えてくれたのは八女チーフで、年に1、2度の頻度で立ち寄ることがあった。
5回目ともなればお気に入りの席もできるし、そこに腰をおろさないとなんとなく落ち着かない気分になってしまう。
だから窓際一番隅のカウンターが空席だと判明したときは嬉しくて、心の中でよしと快哉を叫んだほどだった。
皮張りのメニュー表を眺めていると、突然視界が暗くなった。人影だ。隣りに誰か座るのだろうか。
もしそうなら困る。「生憎、連れがいますので」と断らなければならない。
顔を上げた瞬間、私は驚きのあまり絶句してしまった。八女チーフではないが、それに等しいくらい見慣れた人物が横に立っていた。
「こんばんは、透子さん」
声を掛けられても一瞬誰のことを指しているのか分からなかった。下の名前で呼ばれ慣れていないのだ。でも『透子』は私の名だ。
私は怒っているのか困っているのか判断がつき辛い複雑な顔をしながら、周囲を真似して密談っぽく繰り出した。不破犬君と。
「透子さん? なんで下の名前で呼ぶの?」
「そろそろ名前で呼び合う仲になったと思いません?」
「思わない」
力を込めた断言には、遠回しにキスの件を振り返りたくないという牽制を込めたつもりだった。
「でも名前で呼びたいんですけど」
ここまで食い下がられては小さな溜め息をつくしかない。後輩から器の小さい女だと思われたくなかった。
「何を言っても無駄みたいね。……いいわ、好きにして。でももう私の部屋には来ないで」
「じゃあ今度は透子さんが僕の部屋に来てください。ね?」
「なにそのポジティブ変換。絶対行かないし。それよりどうしてあなたがここにいるの」
「聞いてませんか? 八女さんに呼ばれたんです」
私の後を付けてきたとは思いたくないが、どうにも胡散臭い。果たしてこの言い分は本当だろうか。
「そんな話は聞いてないけど?」
「ごめんなさい。2人に話があったから呼んだのよ」
絶妙なタイミングで八女チーフが現れた。
鎖骨へと垂れてきた髪を後ろへ凪ぐ仕草。それに乱れた息。……まさかここまで走ってきたのだろうか。
私の右隣りに座るなり、「ほら、わんちゃんも座って」とさらにその右側に着席を促した八女チーフは、まるで焦っているかのようだった。
何をそんなに急くことがあるのだろう? 予想していた展開との相違に戸惑ってしまう。
それでも各々カクテルをオーダーし、取り敢えずは乾杯をした。
さてどうなることやらと頭の中を疑問符だらけにしていると、水色の液体を一口流し込んだ八女チーフが意を決したように口を開いた。
「まずはあなたたちに聴いて欲しい話があるの」


*

八女チーフから語られた7年前の出来事。その過去は、スキャンダルに塗れた、驚くべきものだった。
「加納という男の行為は、汚職とか職権乱用とかセクハラとか……とにかくマスコミが好んで扱う類の不祥事じゃないですか……!」
私は怒りで頭が沸騰しかけていると言うのに、不破犬君は涼しい顔のままカクテルで唇を湿らせている。
とはいえ私同様、衝撃は受けたはずだ。寧ろそうであって欲しい。
ユナイソンは業界2位の大手スーパー。その会社の不祥事ともなれば、マスコミだってネタにせざるを得ないだろう。
私たちがこの就職氷河期になぜユナイソンを選び、こだわり続け、内定を貰った時、どれほど嬉しかったことか。
それなのに、事が明るみになれば世間から後ろ指を指されるどころか客足だって遠退いてしまうではないか。バッシングも覚悟しなければならない。
「待ってください、透子さん。不祥事か否かを決めつけてしまうのは時期尚早です。僕らは入社して間もないひよっこ社員で、相手は本部のキャリア組。
孤軍奮闘した所であっさり首を切られるだけだし、カードも出揃っちゃいません」
不破犬君は対等に闘えるだけの準備をする気でいる。頼もしい半面、無謀とも言えた。とはいえカードは多い方がいい。私も1枚切った。
「私ね、杣庄から情報を貰ったの」
「ソマさんは何て?」
「『岐阜店がキナ臭い、最近やたらと本部の人間が店に出入りしてる』って言ってた」
不破犬君は顎に指を添えた。
「本部が出入りを? どうしてだろう……」
「杣庄が言うには――」


*

「単に仕事じゃないかって? めでてぇな透子は。来てるのは複数の人事部だぜ」
「人事部!? 来てるのは人事部なの?」
問い返す私に、杣庄は厳しい声で続けた。
「いまいち自信は持てないが、都築を見たかもしれない。シルエットが似ていた気がする」
「えっ……」
「だが都築だとすると……。透子や俺がいることを知ってるくせに、どの面下げて来やがったんだろうな?」
「……都築さんに見付かった?」
杣庄は「まさか」と皮肉気に笑った。
「そんなヘマはしてない。大丈夫だと思う。ただ……」
「ただ? ただ、なに?」
「こっそり本部の後をつけたことがあったんだが、どうも変なんだ」
「何がどう変なの?」
常に切れのいい啖呵を得意とする杣庄なだけに、言い淀むと不安を覚えて仕方がない。私がせっついたからだろう、杣庄は教えてくれた。
「どうも不破を見ていたんじゃないかと思って」
「え……」
「俺も解せなかった。だが確かに人事部は不破の後ろ姿を見て、『あれがナンバー2か』って言ったんだ」
人事部が意味深に視察していた相手が不破犬君だと言うの?
「そのナンバー2って、本当に不破犬君を指してると思う?」
「あの場には不破しかいなかった」
「ナンバー2ってどういう意味だろう……」
「そのままの意味じゃないか? 知ってるだろ、あいつの通り名。入社3年目にしてユナイソン・ホープなんて言われてるんだぜ」
「ドライの1番は当然、統括者である青柳チーフよね。じゃあ『期待の2番手』ってことで不破犬君が視察されてたのね」
「だろうな。人事部が糞餓鬼を嗅ぎ回る理由なんてないはずなんだ。……くそ、一体これから何が起こるってんだ?」
「杣庄、このことは不破犬君に……」
「秘密にすべきじゃない。寧ろ、本人が把握してなきゃマズいと思う。いざという時のために。あいつに教えてやってくれ」
「……分かった」


*

「僕が人事部から監視されていた……?」
追加情報を聞かされた不破犬君はグラスの中に浮かんだ氷を指で掻き回す。濡れた指先を唇に含むと、「うざいなぁ」と呆れた口調で呟いた。
「まぁ大方予想はつきますけどね」
「分かるの?」
黒縁フレームの眼鏡の奥から私を射抜くように見つめる。
「次の標的は僕ってことです」
「えっ!?」
頬杖をつきながら、不破犬君は面白くなさそうな声で言った。
「単純な話ですよ。僕が透子さんに懸想していることを、都築はどこからか入手したんです」
「そんな情報、そう簡単に漏れるかなぁ……? 
それに本部を去ってからは都築さんと全然会ってないのよ。いまさら私や不破犬君を攻撃して、何の意味があるって言うの?」
3年越しのお礼参り? そんなこと言われても、いまいちピンとこない。困惑するばかりだ。
「聞けば相手は妙なプライドだけは一人前だそうじゃないですか。自分を袖に振った透子さんをいまだに諦め切れないのでは?」
「まさか」
「僕を左遷する気かもしれませんね。ほんっと、これだからキャリア組って……。変な所で権力を行使するんだから始末に負えない」
「ねぇ、どうしてそんなに平静でいられるの?」
「言ったでしょう。そうなった時の僕の身の振り方。決心はついてます」
「辞めるの?」
「透子さんを守る為ならね」
「馬鹿なこと考えないで。それで私の心が手に入ると思ったら大間違いだからね!」
「ムード満点のホテルのバー、頼り甲斐のある年下社員。これだけ演出してもまだ駄目ですか」
くすくすと不破犬君は笑う。笑ったあと、その顔は嘘のように引き締まった。真剣な顔で、私だけを見つめる。
「ソマさんですか?」
「何が?」
「透子さんがなびかない理由」
「何度言えば分かるの? 何を勘違いしているのか知らないけど、杣庄はね……」
言い掛けて、この先は駄目だと気付く。杣庄の問題だ、線引きは必要だろう。
私たちの不毛なやり取りを黙って聞いていた八女チーフが口を開いた。
「あなたたち、何のために私が加納の話をしたか分かってるの?」
「まさかとは思いますが、僕たちが暴走しないように釘でも刺したつもりです? 残念でしたね、従いません」
まったく可愛げがない最年少の意見に、八女チーフは眉間を揉んだ。思わず同情しそうになるけれど、どちらかと言えば私も不破犬君寄りの意見だ。
「私も従えません。だって、納得いかないですもん」
「潮まで? はぁ、黛の言う通りか……。やっぱり私が変わらないと駄目みたいね」
「何の話です? ――すみません、電話だ」
メロディーではなく素っ気ないバイブが、不破犬君のポケットから着信を知らせていた。


*

___不破犬君side


スマホを持ったまま席を立ち、バーの外へと移動した。電話は鳴り続けている。意外に粘るなぁと思った。
ディスプレイに表示されていたのは知らない11桁の番号だが、なぜか『出てはいけない』と直感が告げる。なんだか嫌な予感がするのだ。
ひょっとしたら、あんな話を聞いたばかりで神経がささくれ立っているせいかもしれないと気を取り直し、通話ボタンを押すと耳に押しあてた。
「もしもし」
「こんばんは。そしてはじめまして。都築基です」
スマホを握り直す。そうしなければ、この不意打ちとも呼べる急な接触のショックで危うく落としてしまいそうだった。
「きみが岐阜店ドライ売場のナンバー2、不破君かい?」
受話器越しに姿が見えてくるようだ。話し方や口調は柔らかくて丁寧なのに、相手の心を掻き乱す術を携えた慇懃無礼な男。
都築基――。こいつが透子さんに迫り、彼女の人生をぐちゃぐちゃにしたやつなのか。
そう思うと、腹の底から煮えるような怒りが沸いてきた。それでも何とか、頭だけは冷静でいろと自分に言い聞かす。
(雰囲気に飲まれたら僕の負けだ。そんな情けないこと出来るか。近くに透子さんがいるっていうのに)
「もしもし? 不破君だよね?」
(あぁくそ! もういっそのこと「違います」って他人の振りでもして切ってしまおうか)
辟易したものの、待てよ? と首を傾げた。
都築は、僕がいま透子さんと一緒にいることを知った上で接触を謀ってきたのだろうか。
いや、さすがにそれは考え過ぎだろう。直接尾行されていたならともかく、そう都合良くピンポイントで狙えるはずがない。
だとしたらこの電話はたまたまなのだ。僕と都築、お互いにとって不幸なタイミングでの接触じゃなかろうか。
試しに「ホテルのバーで透子さんと一緒にいるので邪魔しないでください(※嘘ではない)」と告げたらどうなる?
都築は相当ダメージを食らうはずだ。
(胸糞悪い男に痛恨の一撃を与えられるならそれもアリだな)
そう考えたら少しだけ胸がスカッとした。――最悪、香港へ飛ばされるかもしれないが。
「よく僕の番号が分かりましたね。個人情報ダダ漏れですか」
不破犬君であると認めつつ、しかし歓迎はしていないというニュアンスを含んだつもりで言った。
嫌味の応戦に相手は一瞬黙りこんだものの、挑発には乗ってこない。
(相手の怒りの沸点が分からないと、やり辛いな……)
「その言い方……。彼に似てるね」
「彼?」
「愛する女性の傍らに居たいばかりに本部に逆らい、左遷されてしまった愚かな男の話さ」
伊神さんのことだろうかと訝ったものの、すぐさま打ち消す。面識はなくても伊神さんが横柄な態度を取る人物とは思えない。
きっと他支店の誰かを指しているのだろう。つまり、他の支店にも八女さんや潮さん、伊神さんのような被害者がいるわけだ。
「そのひとは敏腕だから、社内にたくさん信者だっているんだよ。あぁ、きみもそうだっけ」
僕が信者だって? 都築は一体誰のことを言ってるんだ? 僕には信仰している人なんて……。
「不破君。きみの話は聞いてるよ。優秀なルーキーなんだってね。そして……潮透子に懸想しているとか」
ついに向こうが本題を切り出してきたため、信仰信者云々の話は一端寝かせておかねばならなかった。
今はこっちに集中しないといけない。少しでも情報が欲しい。そのためには都築に語らせなければ。
「憶測で会話を進められても困ります」
「やだなぁ、とぼけないでよ。ボクはきみが片想いをしていること前提に話してるよ。彼女は魅力的だよね、分かるよ。だから好きになったんでしょ?」
僕が透子さんを好きになった理由は誰一人として知り得ない。都築だって知らないくせに。当然無視を決め込む。
「そんなきみに、プレゼントをあげよう」
「プレゼントですって?」
予想だにしていなかった展開だ。嫌な予感がさらに膨れ上がる。顔が強張っていくのが自分でも分かった。
「人事部に来て、ボクたちをサポートして欲しいんだ」
「……!」
「一気に出世だよ。凄いね! そしてさらに! いまなら香港店にいる伊神君を、岐阜店にお返ししよう」
「なっ……」
これには絶句するしかなかった。ふざけている。しかもテレビショッピングのノリで伝えてくる不快さと言ったら。
(前半については予測済みだった。でも後半は――まさかそう出るとは……。ただ、相手にとってメリットはあるのか?)
「お得意の人事異動ですか。はははっ、ワンパターン!」
虚勢を張っておく。そうでもしないと、足元がぐらりと崩れてしまいそうだった。悔しいけれど、都築が僕に与えたパンチは強烈だった。
それに異動で全国に飛ばされるのは社員共通のルール。辞令が下れば逆らえない。
(けど、これは誰がどう考えたって越権行為だろう。逆らいたくもなるさ)
己の保身や損得勘定で決めている人事部のことだ、理由なくチェス駒の移動などしないだろう。
僕を異動させたい理由があるはずで、伊神さんを帰国させることにも理由があるはずだ。
都築が透子さんに未練があるなら、伊神さんと透子さんを引き合わせたくないはずだ。焼きぼっくいに火がついては面白くないだろうから。
普通はせめて北海道沖縄ほどの距離を取っておきたいと思わないか? それを同じ岐阜店に戻すなんてナンセンスだ。
僕にしたって、なぜ本部の、しかも畑違いである人事部に配属されるんだろう?
透子さんが本部に行った理由は『いつも彼女に会えるように』という都築の我儘な采配によるものだった。
けど僕は違う。本部採用されるほど優秀で即戦力になりうる社員というわけではない。まだ新人で、学ぶべきことは岐阜店でも沢山ある。
(まずいな、目的がさっぱり分からない。何だろう……。ちくしょう、考えろ……考えろ……!)
「人事異動の発令は追って連絡するよ。じゃあね、不破君」
最後まで人の良さそうな声音で言い切ると、一方的に通話を遮断しにかかった。仕方なく僕も通話をオフにする。
途方に暮れた僕が一番最初にしたことは深呼吸だった。深く吸い、深く吐く。それだけでも幾分か気分がましになった気がした。
取り敢えず、戻らなければ。
店内に戻ると、八女さんと透子さんが談笑していた。
僕のいない間に話題が変わったのだろう。十中八九、八女さんが気を回して当たり障りのないネタに切り替えたに違いない。
普段通りとまではいかないまでも、リラックスしている透子さんを見て、胸がきゅっと締め付けられた。
(そうか、彼女にとっては吉報なのかもな)
想い人が帰国するのだ。嬉しくないはずがない。
ただ、僕はその事実に耐えることが出来るだろうか? 2人の再会を祝福できるだろうか?
そんな予感は全然しないし、それどころか消えてしまいたいとさえ思った。
(僕が本部へ行けば、2人の仲睦まじい姿を見なくて済む……)
そう思ったが最後、都築の提案が魅力的に思えてきて、僕は頭を振った。
それこそが都築の目的であり、狙いなのだと気付いたからだ。
一方的に打ちのめされた。これでは単なるK.O.負けだ。
(くそ……! やっぱりさっき『透子さんとデートなう』って言っておけばよかった)
再び込み上げてくるムカムカを抑えつつ椅子に座ると、気配に気付いた2人が僕の方を見た。
「……大丈夫? 顔、怖いよ?」
「どうしたの? 何かあった?」
それぞれから心配され、顔に出ていたかと反省する。僕もまだまだ子供だ。何事もなかったかのようには振る舞えない。
「電話の相手は都築でした。彼は、なぜか僕の番号を知っていた……」
「まぁ……腐っても人事部だからね。調べようと思えば調べられるんじゃない?」
八女さんのことばで気付く。
基本的に社員は緊急連絡先を事務所に提出しなければならず、携帯番号を明記した覚えがある。
それを事務所はどう管理しているのだろう?
PCに入力した? 
当然、本部からだってアクセスは可能だろう。ましてや人事部に所属していたら、支店の一情報なんて見たい放題に決まってる。
それでは紙媒体ではどうだろう?
これも不可能ではない。
ソマさん経由で『人事部による岐阜店の出入りが頻繁にある』と聞いたばかりだ。
都築らから「個人情報が見たい」と打診されれば、店長は『はいはい、喜んで』と揉み手をしながらリストを渡すだろう。
「ほんとだ……。筒抜けてても不思議じゃないな、これ……」
個人情報なんてないようなものだ。常に開示されている状態ではないか。あまりに間抜けなザル管理と気付き、ズキズキと頭が痛んだ。
「あとですね……落ち着いて聞いてください。伊神さんが、帰国します」
「何ですって? 伊神が?」
頷き、一連のやり取りを伝える。
思い掛けない人物の名前に、透子さんはショックを隠しきれない様子だった。
喜びというよりかは、戸惑いの色が濃い。水を飲もうとして取ったグラスが小刻みに揺れている。
八女さんを見ると、彼女の方も思い詰めた顔をしていた。僕と同じく相手の意図が読めず、不安で仕方ないのだろう。
「……今日はもうお開きにしましょう。わんちゃん、潮を送ってくれないかしら」
「勿論です」
バーテンダーに『会計を』と告げ、手早く済ませる。
預けてあった背広を渡され、羽織る。背広の内ポケットにスマホを収めようとした指が、元々忍ばせてあった紙類に触れた。
それは僕の最後の切り札。『退職願』と書かれた封筒を奥へ押し込むと、同じ場所にスマホを突っ込んだ。


___潮透子side


その報告をするとき、不破犬君はとてもつらそうな顔をしていた。
むりやり笑顔を張り付け、少しでも私と八女チーフの心の負担を減らすよう努力していることがなんとなく伝わってきていた。
本当は言いたくないと、その顔が如実に語っている。
「伊神さんが、帰国します」
その言葉に、私は息の仕方を忘れた。
(伊神さんが……?)
震える声、震える身体。渇いた喉を潤そうと持ち上げたグラスさえ、手が震えて口まで上手に運べない……。
八女チーフが何かを言っている。でも私には聴こえない。会話、室内、音楽、全て。色んな音が、耳朶を滑る一方だ。
「今日は……お開きに……くれないかしら」
「透子さん……タクシーで……送り……」
不破犬君の声が、徐々に小さくなる。
(帰って来る)
伊神さんが帰って来る。
この、不自然極まりないタイミングで。
どうやって帰ってきたか分からない。気付いたらいつの間にか見慣れた部屋にいた。
時計を見れば深夜0時。
寒くないはずなのに震えが止まらない。身体を温めれば、この震えは止まるだろうか。私は風呂場へと向かった。
「伊神さんが……帰って来る……」
まだ実感が湧かない。その名を呟いてみる。何度も何度も。
「伊神さん……伊神さん……」
頬を伝う涙が、まるでお湯のように熱くて。
浴槽の中で1人、膝を丸めて嗚咽した。
(今日は……眠れそうにない)
伊神さんが帰って来ると知った、そんな夜に。
到底眠れるはずがなかった。


2008.11.12
2019.06.10
2023.02.17


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