23話 【八日話】


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23話 (合) 【八日話】―ヨウカノハナシ―



≪01:9月8日、09時45分、ユナイソン本部≫

不破犬君は肩透かしを食らっていた。
出勤した暁にはイの一番に都築基に対して物申す気でいたのに、爽やかな笑みで出迎えてくれた千早凪から伝えられたのは、
「彼ならいないよ」
という毒気を抜かれる言葉だったからだ。
「……いらっしゃらないんですか?」
「そう言えば、どこに行ったんだろう」
と小さく呟いたのを犬君は聞き逃さなかった。無断欠席なのかと尋ねる前に「暑い中ご苦労さま。何か飲むかい?」と労われ、出鼻を挫かれてしまう。
「いえ、結構です」
「そう。荷物はそこに置くといい」
許可を与えられたローテーブルの上にカバンを置くと、テーブルとセットになっているブルーのソファーに座るよう促される。向かいに凪が座った。
「彼に何か用でも? あぁそうか、君を『招いた』のは都築だったね。積もる話でもあったのかな」
「そんなものは一切ないですけどね。ただガツンと言っておきたかっただけで。……すみません」
初手から牙を剥くことになってしまい、こんなはずではなかったと顔を背けて後悔に恥じていると、少し置いてから凪の声が聞こえた。
「都築から、君との確執は聞いてるよ。と言っても……別に何かしでかしたわけではなく、寧ろ君は被害者だろう? 可哀想に、とんだ災難だったね」
(まるで僕の異動にノータッチのような口振りだな。あくまでも都築の一存であって、満場一致で決まったわけではないのか)
犬君は根気よく、端々から情報を啄ばんでいくことにした。細かい作業だが馬鹿にはできない。先ほどの凪のようにぽろりと落ちてくる情報だってあるのだ。
「それならばなぜ、都築……さんの無茶を思い留まらせてくださらなかったんですか? 千早さんの方が上司ですよね。言うことに従うと思うのですが」
臆さない犬君の物言いに、凪は目を瞠った。
どこまで話すべきかを考えあぐねているのか、わずかに間が空く。
「その『上司』にも上司がいるんだよ、不破君。頂点に立つ者以外は、皆『誰か』の部下なんだ」
「……あなたも傀儡のひとりだと?」
「都築を止められなかった点からすればね」
「都築……さんの我儘が通ってしまったのはどうしてです? どなたが許可を?」
「さる御方の命令を忠実に守ることの見返りとして、願いを聞いてくださることになってる。
都築の願いは君の異動だよ、不破君。だから私にはどうすることもできなかった。都築とあの御方の話だからね。そこに私は介入出来ないんだ」
「伊神さんも異動することになってますよね。それだと、都築……さんの願いごとは2つ叶えられることになってしまうのでは?」
「もし伊神君の異動が都築によるものと仮定したら……そうだね、強欲は身を滅ぼす。都築の暴走がこのまま続けば、いずれ彼に鉄槌が……おっと」
遠い目をしかけた凪が視線を犬君に戻す。喋り過ぎたことに気付いた様子だ。
犬君としても、ここまで明け透けに聞いてしまってもよいものかと、逆にびっくりしている。
「『あの御方』とはどなたなのでしょう? 人事部統括部長ですか? それとももっと上の……管理本部――」
「さぁ?」
「ここまで暴露に近い告白をしておいて今更中途半端に惚けるの、よくないですよ」
「不破君は上手だね。晴れて人事部の一員になったんだし、早く私色に染めたくて、大盤振る舞いで情報開示してるけど、どうも匙加減が難しいなぁ」
「その微妙に色気を感じさせる表現方法、なんとかなりませんか……。えぇとそれで、千早さんは?」
「ん?」
「千早さんの願いは何にしたんですか」
容赦ない問い掛けに、凪は目を細めて犬君を見た。
初対面であるにもかかわらず、この若葉マークが取れたての若者は大胆で、物怖じもしない。
仲間に引き入れることに成功すればさぞかし心強いのだろうが、果たして正義感はいかほどなのだろう。凪は試してみたくなった。
「私が望んだのは、柾という社員の異動だよ」
相手の仕草や顔色を観察していた凪は、顔色ひとつ変えない犬君にいたく感心した。さすがに無反応すぎではと思い、尋ねてみる。
「……ひょっとして、知っていながら訊いた?」
「えぇ」
「なかなかの策士じゃないか」
「なぜ柾さんを? 好きな女性でも盗られました?」
「好きな女性……。まぁ、『大切な子』だと言っておこうか。手籠にされそうだったんでね」
「てご……。……では、麻生さんは?」
「麻生は柾のアキレス腱だ。それに優秀だと聞いた。『本部に欲しい』と家電の長が仰せでね」
「はっきり言えばいいじゃないですか。人事部の駒として本部に吸い上げた、って」
沸々と煮え滾るものが犬君の腸(はらわた)にある。一体本部の人間は、従業員を何だと思っているのか。
「上司が願いを叶える? なんですかそれ。アラジン気取りもいい加減にしてくださいって話ですよ。振り回されるこっちの身にもなれってんだ」
支店の代弁者として犬君は吠える。
怒りを真正面から食らった凪は、面食らいながらも犬君のことばを咀嚼し、理解しようと努めているようだった。
「……これを機に、君が思っていることを聞かせてくれないか」
「いいですよ。僕はドSだとよく言われますから、こういうのは得意です」
そもそも、と前置きをしてからつらつら述べる。淀みなく訴える言葉には喜怒哀楽がこもっていて、聞く者を飽きさせるどころか魅了してしまう。
そんな犬君の話術を好ましく思った。そんなことを犬君に言えばバキバキに凍ったバイカル湖よりも冷たい目で見られてしまうだろうから秘めておくが。
鬱憤の羅列は今度、ユナイソンの未来を憂いたものへと変わっていった。そこで凪はハッとする。
経営陣は目先の利益にこだわり、その先の将来を見据えていただろうか? 現に、『あの御方』の忠実な僕である加納の口癖は「いま」だった。
だが「いま」が良くても、長い目で見れば危うくないだろうか。誰かそこまで予測を立てて行動していたか? ユナイソンの未来。いや、いなかったはずだ。
誰もが「いま」与えられる甘い蜜を欲しがって動いていた。加納も、都築も、そして自分も――。
ぞっとした。見えない指先で背中を撫でられた気がする。頭の中で警鐘が鳴り響き、もう犬君の言葉は耳に入ってこない。
(戻れない/修正不可能なところまで来てしまった/支店との温度差が酷過ぎる/無理だ/支店は許してくれない/本部はやり過ぎたのでは/やばいまずい)
(もっと突き進もうと思ってた/破滅行為だと知りながら/Uターンしたかったのに/いや、認めろ/自分だって柾を異動出来て喜んでいたじゃないか)
(心のどこかではいけないと思っていて/やめたい/もういやだ/引き返せない/許して貰えないだろう/今更何を言ったって/キレイゴト/信じて貰えない)
「……っ」
ぎり、と奥歯を噛み締める凪に気付いたのか、犬君は言葉を止めた。「千早さん?」と名を呼んだ。
「調子に乗って言い過ぎました……かね? すみません、僕も加減が分かっていなか……」
「いや、いいんだ」
思わず「ちっともよくないです」と出かけた。凪の「いいんだ」が余りにも弱々しかったから。
息を整えてから凪は言う。
「誰も支店の気持ちを考えていなかったんだな」
「ですね」
「……」
「……すみません。手加減が難しくて」
「構わない」
右手で顔を覆ってしまった凪にかける言葉が見付からず、犬君は落ち着かない。
どうしようと思っていると、凪が言った。さっきよりは幾分声が安定している。
「ひとつ言えるのはね、人事部のモットーは適材適所。これに尽きるのさ」
言ってることは至極まともで、犬君としては頷くしかない。
居るべきところに居る人材――なるほど、その理念に基づいて異動采配を揮っているならば、人事部はきちんと機能しているかのようにも見える。
だがそこに個人的な感情を練り込んでしまうから、今回の4人のイレギュラーな異動のように、糾弾しなければならない事態に陥ってしまっているのだろう。
「この件については、また今度話しませんか?」
「私はこのまま続けてもいい」
腹を括ったのか、顔つきに変化が現れていた。意外にも凪が前向きになっている。この機会を逃がすべきではないのかもしれない。
だが一気に際どい中核まで迫り過ぎたせいで、情けなくも犬君の方はギブアップ寸前だった。情報過多だ。一度頭を整理したい。
「すみません。大変魅力的な提案ですが、実は僕が追い付いてないです」
正直に弱音を吐くと、凪は「すまなかった」と謝った。
「また声を掛けてくれ。私は逃げないから」
「……分かりました。では近い内に。……取り敢えず、仕事を教えてください。僕は何をすれば?」
時計を見れば、既に入室してから30分ほど経過していた。凪にだって通常の業務があるだろう。
「その前に聞いておきたい。不破君がここに来るのは」
「2回目ですが、このフロアまで上がって来たのは今日が初めてです」
「それだと不便だろうから、まず建物を案内しよう」
本部に来て間もない不破犬君を気遣うように、千早凪は秘書課に内線を入れて案内を依頼した。特に何も考えず、犬君は「千早さんは?」と尋ねていた。
「千早さんに案内していただきたいんですが」
「……何だって? 私に? 君は本当に面白い男だな」
犬君の申し出に、凪は目を丸くした。くつくつと声に出して笑う。
「いいかい? 秘書課は美人揃いだ。誰だってこんな男よりも綺麗な女性にナビを頼みたいものだろう。違うかい?」
いえ別にと言い掛けたがやめておいた。『自分には潮透子がいて、そういうのは間に合ってる』と伝えても白けるだけだろう。
曖昧に微笑んで誤魔化すと、犬君にとってはありがたいタイミングでノック音がした。
「さぁ、早速お出ましだ。行っておいで」
促された犬君が廊下に出ると、折り目正しい姿勢で待機している1人の女性が立っていた。
艶やかな髪をシニョンにまとめ、ライトグレイのオフィスカジュアルな服装。色彩は地味でも彼女自身に華やかさがあるため、秘書然とした佇まいだった。
「はじめまして。秘書課の鬼無里火香と申します」
「はじめまして。人事部に配属された不破犬君です。急に案内を頼んでしまって申し訳ありません」
後頭部を掻く犬君に、火香は「構いません」と微笑する。
「私はCOO付きの秘書なので、彼の許可があれば自由がききます。というより、私が他の仕事をまともに出来ないという話なんですけど……」
自虐的な人だと犬君は思ったが、――待てよ? 聞き流せないフレーズを耳にした気がする。
「COOですって?」
「はい、COOです。御存知ですか?」
御存知もなにも、会社の事実上のナンバー2ではないか。犬君はこの気弱なCOO専属秘書をまじまじと見つめた。
「では今からご案内致しますね」
「お願いします」
「ちょっと待った。ひ……鬼無里さん」
人事部のドアが開き、隙間から凪が顔を覗かせる。呼ばれた火香の表情が強張ったのを、犬君は見逃さなかった。
「……なんでしょう? 千早さん」
「間違っていたらすまない。訊きたいことがあるんだ。名古屋店にPOSオペレータを緊急派遣したのはきみか?」
「……一昨日、専属経営コンサルタントから相談を持ち掛けられまして。
それによりますと、名古屋店のPOSオペレータが人員不足で、業務に支障を来たしているのだとか。ですので私と彼女の判断で派遣いたしました」
「私を通さず、勝手に? 果たしてCOOの秘書と経営コンサルタントにそんな権限があるのかな」
「COOの意志も含んでいると思ってくださって構いません」
「それを盾にされると弱いんだがね……なんて言うとでも? だとしても、職権乱用だよね?」
「……確かにそうですね。あなたに相談し、人事部経由で発信していただくべきでした」
「発動してしまったものは仕方ない。以後気をつけるように」
「申し訳ありませんでした。二度と勝手な真似はいたしません。付け加えておくならば、関連オペレータ全員、打診には快諾してくださってます」
「それならいい。……本音と建前は別なんだ。鬼無里さん、ありがとう」
「いいえ。では、不破さんを案内して参ります」
最後まで緊張した顔のまま、火香は小さく頭を下げた。
話を掻い摘んで聞いていた犬君としては、ただただ呆れるしかない。
勝手に異動させてしまうのは人事部のお家芸だと思っていたが、そうではないようだ。
どんな理由があるにせよ、振り回される者の身にもなって欲しい。
せめて納得できる回答が用意されているのならまだ許せるのだが。


≪02:9月8日、11時26分、ユナイソン本部人事部室≫

「どういう事だ!?」
加納倭の憤怒の形相に、ル・コルビュジエのソファーに腰掛ける千早凪は足を組み換えた。眉根を僅かに寄せつつ、尋ね返す。
「……何をそんなに怒ってるんだ?」
入室早々声を荒げられ、その理由も分からない凪としては困惑するしかない。特に怒らせるようなことはしていないはずだが。
「俺が行うはずだった接待をキャンセルしただと? それも2つも!」
やれやれ、その件か――。凪としてはうんざりするしかない。
「正攻法でも十分攻略可能な案件だと踏んだため、性接待を取りやめたまでだ。何も危ない橋を渡らなくて済むなら、その方がいいだろう」
「正攻法だと? まともに進めたら、どれだけ時間が掛かるか分かったもんじゃない! 手っ取り早く2件も取れるというのに、お前は――」
「同時進行で2件も性接待なんて、まともじゃない。ただ闇雲に契約を取ればいいという話でもないだろう」
「俺はバイヤーだ! 人事部にはそれが分からないのか!? 契約あってのマーチャンダイジングなんだぞ。俺が働いていないみたいに言うな!」
「そんな風に言ったつもりはない。ただ、最近のお前は見境がなくなってきているから心配で――」
「心配だと? お前は妹の心配だけしてればいい。俺のことは放っておいてくれ!」
「慎重にことを進めないと、ユナイソン自体が……母体が危険な目に遭うんだぞ?」
「ふん、何を今更。この腰抜けめ。散々越権行為を振りかざしておきながら、今になって菩薩の心を現わすとはな。勝手にひとりで改心でもしていろ」
「加納――」
「お前と話すことはない」
「2件は」
「うるさい。俺の好きにする」
忌々しいとばかりに加納は舌を打ち、部屋を出て行った。
仲違いなんて可愛いものではない。最近は思想のすれ違いが激しく、加納を制御できずにいる。
(あいつの暴走が怖い……)
暴走と言えば、もうひとりの方も心配だ。部下の都築。先日から姿が見えないようだが、果たしてどこにいるのやら。
凪はローテーブルの上に置かれた、凝ったデザインの特注電話の受話器を取り上げる。相手を捕まえるまで鳴り続ける厄介な代物だ。
膝の上に手を乗せ、相手が出るのを待つ。コールが1分に達しようとしたところで電話は繋がった。
「千早だ。都築か?」
「ボクです。すみません、勝手に席を離れてしまって。書き置きやメールが残せれば良かったのですが」
「一体どこにいるんだ?」
「えーっと今は……クオリーベイ、です」
そこが地区の名前だと理解するのに数秒を要した。
「香港か? お前……日本にいないんだな?」
凪が尋ね返すと、都築は舌打ちせんばかりに声色を変えた。彼は吐き捨てるように言う。
「伊神・ラジュ・十御の尻拭いですよ! あいつのせいで、香港支店長は大変おかんむりですからね。お詫びに行くんです」
「彼女はそこまでお怒りなのか」
「名指しで香港まで来いと昨日言われました。あなたに報告する暇すら与えてくれなかったんですよ。伊神の異動だけでは気が治まらなかったんでしょうね」
「……伊神は何をしでかしたんだ」
「現段階では分かりません。彼女が――メイ・イン・イップが教えてくれないもので。恐らく帰国後の報告になりそうです」
「イップ……レオナか。分かった。構わないが、上手く立ち回ってくれ」
「了解」
通信を終わらせた凪は、受話器を置くと窓の外を見やった。いつの間にか暗雲が立ちこめていた。まるでいまの心境そのものだなと嘆息する。
加納に加え、都築とも足並みが揃っていない気がしてならない。どうにも胸騒ぎを覚えて仕方ない――。


≪03:9月8日、11時35分、ユナイソン本部≫

火香の案内は1時間足らずで終わった。ご丁寧にも人事部のドア前でガイドは終わる。火香にお礼を告げ、2人は解散した。
ドアノブを握った手が止まったのは、中から諍い声が聞こえてきたからだ。犬君は耳をそばだてる。
くぐもった声が聞こえるだけで具体的に聞き取ることは出来ない。なんとなく入りづらく、犬君は少し離れた位置で待つことにした。
2分が経過したところで1人の男が部屋から出てきた。当然見覚えがあるわけもなく、一体凪と彼は何を揉めていたのだろうかと首を傾げた。
すれ違いざま男のネームプレートに視線を走らせると、加納倭とある。
(加納倭? 八女さんに枕営業をさせようとした男か? 確か、酒のバイヤーだったよな)
犬君はわざと3分ほど時間を潰してから部屋に戻った。凪はちょうど個性的な形をした受話器を置いたところだった。
「あぁ、お帰り。意外と早かったね」
「ご存知でしたか? 3階男子トイレの個室が詰まっていて流れないんですよ」
「そうなのか? 貴重な情報をありがとう。なに、電話1本で業者を呼べば済む話だ。あとで手配をしておこう」
「すみません。そんなつもりで言ったんじゃ……」
「しかしトイレが使えないと困るだろう? 3階は一般客も利用するフロアだし、使えないとなると不便を強いてしまうからな」
「そうですね。ありがとうございます」
(仕事も早いし有能ではあるようだ。だがさっき、室内で2人のどちらかが声を荒げていた。千早さんは微塵も見せないが……あれは加納の方だったのか?)
思えば加納の歩幅は大きかった気がする。ただ単に足が長いという理由だけではないだろう。怒りの感情が混ざっていたからこその大股だったに違いない。
「千早さん、何か問題でもありましたか?」
犬君の問いに、凪は「なぜそう思うんだい?」と切り返す。
「眉間に皺が寄っているので」
真っ赤な嘘だしハッタリだ。実際には眉間に皺など寄っておらず、凪の顔は相変わらず端整のままだ。だが、
「そうかい? まぁ、色々あるさ」
言外に何かあったことを仄めかす凪。どうやら思うところがあるのだろう。犬君は違う方向から攻めることにした。
「人事部って大変そうですね」
「思っていた以上に大変だよ。入ったばかりの君にこんな事を言うのはいけないんだろうけど。たまに自分が厭になる」
凪と加納の足並みの悪さを、犬君ははっきりと感じ取った。加納は凪と対立している。なぜか? 
答えを知るのはそれほど遠くない未来かも知れない。犬君は凪の表情を見てそう思った。


≪04:9月8日、13時20分、ユナイソン香港店≫

ユナイソン香港店店長は日系香港人女性が就任している。
気位が高く、自他共に認める美貌。香港名を葉美言(Mei-yin Yip)と言い、普段はレオナ・イップと名乗っていた。
ファーストネームの『レオナ』は日本の女性名と分かるように、という意味も込められている。
レオナはユナイソンン香港店の最上階に位置する見栄えの良い来賓用部屋に都築を呼ぶよう秘書に告げた。
やがて秘書が都築を連れて部屋に戻って来た。用を済ませた秘書がしずしずと下がり、広くて清潔感に溢れた部屋にはレオナと都築だけになった。
黙考していた二重瞼をパッチリと開けると、レオナは項垂れる都築を見下ろした。確かにヒールは高いが、それでも174cmの都築に並ぶ身長だ。
「やっと来たわね、都築」
レオナのハスキーな声が都築の頭部に降り注いだ。彼女の性格を熟知しているだけに、都築は身を縮ませるしかなかった。全身から汗が噴き出ている。
女性であり、しかも若干32歳という若さで店長就任、というのは異例中の異例。レオナにはそれだけの才能と手腕、それに美貌があった。
上層部の会議に必ず出席しているレオナを相手に、都築は精一杯の声を出した。
「イップ店長。その……」
「伊神・ラジュ・十御」
レオナの怒りは尋常ではない。声は呻くように低く、男ひとりを竦み上がらせることも可能だ。
「話が全然違うじゃない。よくも私の顔に泥を塗ったわね」
最近はスクラブ(海泥洗顔)もそれなりに人気ですよ――いつもならそれぐらいの切り返しが出来るのだが、今日は言えそうにもない。
「顔? えぇ、勿論好みよ。凄くセクシーだし、体躯だってワイルドで、脱いだら凄そう。確かに彼なら加納倭の後継者にピッタリ。それは認めるわ。でも」
「……」
「私の誘いを断るとは、一体どういう了見かしら?」
「断った……。断ったんですね……あの男は。……くそっ」
顔を歪め、都築は吐き捨てる。なぜ自分が伊神の尻拭いをしなければいけないのかと歯軋りしながら。
「あの容姿ですし、加納のように枕営業をさせるつもりでした。でも伊神は女性を口説くどころか、全ての誘いを撥ねのけ続けた。大誤算です……」
「そしてその中には私もいた」
「……」
「己の身体と、自分の『女』を使って枕営業をさせる加納倭。その見返りは『商談の成功』。
一方性欲を持て余した女性権力者たちには伊神・ラジュ・十御を宛がう。この場合の見返りは『一時的な快楽及びストレス発散』」
「えぇ。確かにそれが目的だった。ボクは潮透子が欲しかったし、そのためには伊神が邪魔だった。だから伊神を香港に飛ばした」
「でも伊神はインポだった」
「イ……。……か、どうかは知りませんが……。伊神がそこまで頑なに性に対して否定的だとは思わず、全くの予想外でした」
「私の誘いを断ったのは彼が初めてよ。そりゃあもう私のプライドはズタズタよ。だから私は『あのお方』にお願いしたの。伊神を岐阜店に戻して欲しいって」
「坊主憎けりゃ袈裟まで、ですか」
「なぁに? 日本のことわざなんて知らないわ」
レオナは容赦なく切り捨てる。
「岐阜店に伊神を戻して貰ったのは、あなたを懲らしめるためよ、都築。まだMs.潮とかいう女性が好きなんでしょう? ざまぁみなさい」
「まさかボクに対する個人的な恨みとは思いませんでした。確かに伊神異動の件は、ボクにとって痛恨の極みです。
せっかく伊神以外の『新しい害虫』を異動させて、これでやっと虫除けが出来たと喜んでいた矢先でしたのに」
恨めし気な都築の告白を聞いたレオナは、己の姑息な手段を棚に置いて鼻で笑う。
「ライバルが現れるたびに邪魔者を左遷という名目で排除しているわけ? 泣けるわ~」
「なんとでも言って下さい。害虫を悔しがらせる目的もあるんですから」
「苦しい中、打てる策を講じたのね。精々お手並み拝見しましょうか。Ms.潮と伊神が同じ店で働くなら、その『害虫』とやらも気が気じゃないでしょうし」
「伊神と潮さんがくっ付いて困るのは、イップ店長、あなたも同じなのでは? 
あなたの美貌でもなびかなかった男が、日本に帰国したとたん彼女持ちになるかもしれないんですよ。……ざまぁみろ」
永久凍土の冷ややかな視線が、眼前の都築を捕らえる。目に見えない速度でレオナが都築の頬を叩く。
立っていられるのもやっとの衝撃で、都築は踏鞴を踏んだ。呆然と床を見つめる。軽い脳震盪だろうか。目の奥がちかちかする――。
容赦ない仕打ちは続く。レオナの腕が伸び、都築のネクタイをぐいっと引き寄せた。今度は蕩けそうなほど甘ったるい、媚びた声で耳打ちする。
「あと1時間ほどあるわ。あなたなりの誠意を見せなさい。あなたの性格は嫌いだけど、その顔と身体つきは嫌いじゃないの」
蠱惑的な双眸に見つめられた都築は、嫌悪感を抱き、吐き気を催す。こういう役目は加納が行うべきなのだ。
それでもネクタイを緩めたのは、一連の不始末のケリをつけるためだった。


≪05:9月8日、18時20分、JRセントラルタワーズ内≫

麻生と待ち合わせをしていた犬君は足早に名古屋駅構内へと向かった。JRセントラルタワーズの13階に着くなりスープ専門店へ直行する。
高校生や大学生が利用していることもあり、店内は賑やかだ。ここを選んだのは、聞き耳を立てられたり、漏洩の心配がないと判断した結果だった。
料理も内装も凝っているので、正に打って付けの場所である。
50席以上ある中から、待ち合わせている人物を見付けた犬君は、狭い通路を縫って目的地へ移動した。
「お待たせしました、麻生さん」
その声に、呼ばれた麻生は顔を上げた。テーブルの上には書類が広がり、ペンを握っている。仕事でもしていたのだろうか。
「悪い、すぐ片付ける。書類に署名する枚数が半端なくて」
「……ということは、僕も同じ量をこなさなければならないわけですね」
職場はペーパーレス化を目指しているのではなかったか。どうも時代と逆の流れをいくなぁと矛盾を抱きながらも、犬君は本来の目的を思い出す。
「食事するには早かったりします?」
「いや。正直慣れないことばかりで気力も体力も使ったから、空腹でどうにかなりそうだ。食べようか。何が良い?」
書類の下敷きになっていたメニューを掘りだすと、閲覧しやすいよう犬君に向ける。ビーフシチューにしようかな、と犬君は呟いた。
「飲み物は?」
「ジンジャーエールがいいです」
「分かった。待ってな」
「あ、僕が行きます」
「いいから」
この店では注文の際、カウンターでオーダーする形式を取っている。立ち上がりかけた犬君を制し、麻生はカウンターに向かった。
せめてものお礼にテーブルの上を片付ける。やがて麻生は2人分のトレイを持って帰って来た。
「奢らせてくれ。俺が急に誘っちまったし」
「そんな。……気を遣ってくださってありがとうございます。いただきます」
「どう致しまして。本部はどうだ? 慣れそうか?」
焼きたての熱いパンを千切りながら、麻生は尋ねた。犬君はジンジャーエールを口に含み、少し冴えた頭で考える。
「どうでしょう? なにせ陰謀渦巻く本部の渦中にいますからね。しばらくは気が張り詰めっ放しかもしれません」
「そうか。ま、そうだよな。今日はこの後ゆっくり休んでくれよ」
「ありがとうございます。……そうだ。今日は、秘書課の鬼無里さんという方に社内を案内して頂きました。ご存知ですか?」
麻生には聞き慣れた名前だ。自然と「鬼無里火香だな」と反芻していた。「俺も会った。少し知った仲でね」
「そうだったんですね。実は、案内が終わって部屋に戻ろうとしたとき、室内から千早さんと加納が言い争っているような声を聴いたんです」
「へぇ、そいつは興味深いな。仲違いか? 千早・加納・都築は『身勝手人事計画』を通じて繋がってると思ってたが、違うのか」
「その認識で合ってると思いますよ」
「お前さては……千早凪から色々聞いたな?」
鋭い指摘に犬君が首を竦める。情報を共有するため、犬君は朝の出来事をつらつらと話して聞かせた。
相槌を打っていた麻生は次第に苦虫を潰したような顔になる。聴いていて心穏やかでいられないのは分かっていたことだ。
「……勘弁してくれよ。素直に昇級を喜んでたのに、これじゃまるでピエロのようだ」
「いえ、昇級は本当だと思うんです。『優秀だと見込んで』と仰ってましたし。それに、腐ってもそこだけはしっかりしていて欲しいというのが僕の本音です」
「それで? 昇級の裏に潜むもう1つの理由が『柾のアキレス腱だから』ってか。クソくらえだな。言ってて空しくなるが、俺には利用価値なんてないと思うぞ」
やれやれと己の身を嘆く麻生だったが、すぐに思考を切り替える。
「ひとつ疑問なのは」
人差し指をスッと上げた。
「こうして筒抜けになることを、千早凪は予測していなかったのだろうか」
「そうなんですよ。意外と抜けてますよね」
「辛辣だな」
「千早さんは、僕を味方にしたがっていました。加納と都築が思った以上に暴走しているんじゃないでしょうか」
「つまりこういうことか? 今までの仲間との絆が壊れようとしている。千早凪としては、新しい仲間が欲しい。それが不破だと」
「想像以上に切羽詰まっているのかもしれません」
「崩壊寸前かもな。チャンスじゃないか?」
口角を上げた麻生は、嬉しそうに烏龍茶が入ったグラスに手を伸ばすと、祝杯だとばかりに犬君の方のグラスに合わせた。小気味良い音が鳴る。
「僕も疑問に思っていることがあります。鬼無里さんが千早さん一味に加担している可能性はあるんでしょうか?」
麻生は黙考してから、慎重に答える。
「どうかな……。ただ、そうなるとCOOすら俺たち支店側の『敵』という構図になる。一番最悪なパターンだ。もしそうだとしたら相当なスキャンダルだぞ」
言葉にしてようやく実感が湧いてきた。余りに大きな疑念を前にして、麻生は悪態をつきたい気分に駆られた。犬君とて同じ気持ちだ。
会社の軸自体が既に傾いているのだとしたら完全にお手上げだ。失職覚悟で真正面から闘うか、見て見ぬ振り精神を貫くか。選ぶ道はどちらかだろう。
「どうやら俺たちは、岐路に立たされているらしい」
「猪突猛進の平塚が言いそうなことですけど、実際、『正面突破あるのみ』なんですよね」
麻生は犬君に柾の面影を重ねていた。尊敬しているだけあり、なるほど考え方も柾寄りだ。それともふっきれたのか。
どちらにせよ頼もしいことこの上ない。たった1日でここまで敵の懐に入り、見事に情報を引き出してきたのだから。
「お前は凄いな。偉いよ」
心の底から感嘆の声をあげる麻生に、「急にどうしたんですか?」と驚きつつも、「ありがとうございます」と微笑んだ。


≪06:9月8日、18時43分、ユナイソン名古屋店≫

従業員通用口で、三原は八女芙蓉と千早歴が一緒に歩いている姿を見掛けた。2人は同時あがりなのか、社員証を警備に見せている。
その数歩後ろを、三原は歩いていた。
それほど面識がないにもかかわらず、つい視線が追いがちなのは何故だろう? どちらも気に掛かる存在。けれども理由を見いだせずにいた。
三原も社員証を提示して外に出る。歴が社宅マンションの方向へ向かうのを、芙蓉が手を振って見送っているところだった。
振り返った芙蓉は三原に気付くやいなや、かすかに微笑んだ。鮮やかで、艶やかで、ひとを惹き付けずにはいられない笑顔に嫉妬すら覚える。
(まるでモデルみたいだわ。相変わらず綺麗な人)
三原とて化粧品売り場の一員として美への余念がない。美しい容姿を保ち、部下から秘訣を問われることもままある。
だが芙蓉は、その三原からすれば、とても眩しく映るのだ。
その芙蓉が自分を見ている。彼女が微笑んだ相手は本当に自分だったのだろうかと、思わず周囲を見回した。……誰もいない。自分だけである。
ということは、芙蓉がコンタクトを取ろうとしている相手は自分ということになる。人差し指を自分に向けると、予想通り芙蓉は小さく頷いた。
「お久し振りね、三原さん」
呼び止められるほど仲が良かっただろうか?
同期とはいえ、入社式を終えれば部署に分かれての研修が始まり、2ヶ月を経て各店舗に振り分けられてしまう。
芙蓉と言葉を交わしたのは、数年前に何かの会議で本部に行く用事があり、その席だったように記憶している。思えばあれが最初にして最後だった。
接点がなければないままの人も、中にはいるのだ。
「急に呼び止めてしまってごめんなさい。質問したいことがあるの。三原さんの都合さえ良ければ、店内に入って一緒に食事をしたいのだけど……」
「えぇ、構わないわ」
碌に考えもせず答えていた。言ってから初めて口走った事実に気付くが、考えを改める気にはならなかった。帰ったところで、ひとり寂しい晩酌である。
話し合った結果、値段もわりかしリーズナブルなイタリアン料理店に落ち着いた。
注文を終えた芙蓉が、メニュー表を立て掛けながら尋ねた。
「同じ店舗で働く仲間ですもの。これから宜しくね」
「こちらこそ」
「早速だけど、気になることがあって」
芙蓉の顔に顕れた悲壮感に、三原は「気になること?」と鸚鵡返した。
「千早のことなの。どうも周囲の反感を買ってしまったらしくて、彼女の教育係としては気が気じゃないの。何が遭ったのか教えてくれたら助かるわ」
「上司であるあなたには話しておくべきなのかもしれないわね。端的に言ってしまえば、嫉妬の対象になってしまったのよ」
「彼女は昨日からって言い張るんだけど、本当に? 実際にはもっと前から敵意が向けられていたとか、そういう事はない?」
「そこまで彼女を注視していたわけじゃないから保障はしかねるけど、露骨に嫌がらせが始まったのは昨日からだと思うわ」
「そうなの……。でも、なぜ昨日から? そこもまた解せないのだけど……」
「実は、異動が原因なの」
「異動って……岐阜店と名古屋店だけの?」
「そうよ。実は名古屋店から異動していった男性2人は千早さんととても仲が良かったの。だから、やっかみと鬱憤を含んだ『お礼参り』みたいなものなのかも」
「なによそれ……。千早は悪くないじゃない」
不貞腐れた芙蓉は、理不尽だと言って頬を膨らませる。「そうね」と三原も相槌を打った。
「でも報復を恐れて、誰も千早さんの味方になろうとしないわ。八女さん、あなたが初めてだった。恥ずかしい話、私も彼女を見捨てた口よ」
赤裸々な告白に、芙蓉はぽかんと呆けた反応を示したが、それでも「三原さんに罪はないわ」と優しく告げた。
「千早はほら、あの通りの性格だし、だからこれからはね、歯向かって来る相手には、私が対処することにしたの」
堂々と言い切る芙蓉に、三原は圧倒されてしまった。
いまの状態で千早歴の味方をする者などいないと思っていたし、いたとしても、今度は庇った者がイジメの対象になってしまうのだ。
それを承知の上で『千早を守る』と言う。その強さは一体どこから湧いてくるのだろう?
「なぜ……そこまでして千早さんを守るの?」
「そんなの決まってるじゃない。千早が好きだからよ」
なんでそんなことを聞くの? と言わんばかりのさらりとした口調に、三原は絶句した。
「好き……?」
「そう! 好きなの! なんたってあの黒髪! 強烈よね。何物にも染まらない光沢のような絹がまっすぐ腰まで伸びてるのよ。エキゾチックよね」
エキゾチックさなら芙蓉だって負けてはいないと思うのだが。そう教えようとしたが、肝心の本人の興奮は増す一方だった。
「それにあの白い肌。でも何と言っても、あの腰の細さと胸のバランスよね。意外にあるのよ、あの子」
「そ、そうなの……」
(好きって、千早さんの容姿が好きということなの……? まさかね。人柄も込みで好きなのよね……?)
唖然としていた三原だったが、芙蓉が「こら」と鋭い声をあげたのですぐ我に返り、顔を上げた。
制服をだらしなく着崩した、ガラの悪い少年たちがへらへらと笑っている。男子高校生の集団だろうか。
「警察に突き出すわよ、このエロガキ」
どうやら集団の中の1人が、出口に向かう途中で芙蓉の背後から胸を触ったらしい。芙蓉は現行犯とばかりに少年の手を掴んでいた。
「私の胸を触ろうなんて百年早いわよ。出直してきなさい」
瞬時に三原の頭に閃くものがあった。
(『出直してきなさ』……キナサ……思い出した! 千早さんを見るたびに抱いていた違和感の正体が、やっと分かった……!)
突然立ち上がった三原に驚いた芙蓉は、思わず少年を掴んでいた手を緩めてしまった。その隙に少年は走って逃げて行く。
「あ、待ちなさい! ……全く、逃げ脚が早いんだから。三原さん、どうしたの?」
「どこかで千早さんを見たことがあったのに、ずっと思い出せなかったの。あれは鬼無里さんだったんだわ」
「鬼無里さん? ――鬼無里三姉妹?」
聞き捨てならないとばかりに芙蓉の眉間が寄る。
「いまの話、詳しく聞かせて。それって実しやかに囁かれている鬼無里三姉妹のことよね? 三姉妹って本当に存在していたの?」
「え? 八女さん、鬼無里さんについて知りたいの?」
「興味津々よ! 本社に有能な美人三姉妹が働いているって聞いたことがあるわ。滅多に姿を見せないという話だったから、信じてなかったけど」
「私が見たのは本社で一度だけ。確か、三姉妹の次女だったかしらね。性格や恰好は全く似ていないけど、造形がね……そっくりなのよ。彼女に」
「鬼無里三姉妹の次女が、千早に似てる……?」
(太いパイプを持っているソマと、本部に異動したわんちゃん、或いは歩く辞書の香椎……。誰かひとりでも鬼無里三姉妹に関する情報を持っていないかしら)
千早に似ている社員がいるなんて、どうも引っ掛かる。奇妙な符合に、芙蓉の胸はざわめいて仕方なかった。


≪07:9月8日、20時17分、中部国際空港セントレア国際線≫

香港を飛び立った飛行機が、愛知県は常滑市にあるセントレア国際空港の滑走路に降りてきた。
キャビンアテンダントたちの丁寧なお辞儀に出迎えられ、無事入国を果たした。
数年振りの日本は、とくに愛知県はとにかく蒸し暑い。
帰国手続きを済ましたその男はスマホの電源を入れる。ここまで父が迎えに来てくれるはずだった。
「……やぁ父さん、ただいま! いま着いたよ。荷物を受け取り次第、すぐ4階に上がるから」
スマホをスラックスのポケットにしまい、キャリーバッグが出てくるのを待つ。やがて男の私物類がコンベアから流れてきた。
眩い照明の光を受けて、バッグの取っ手にぶらさがっていた銀色のドッグプレートが光る。
よく見れば、そこに≪TOHGO RAJU IGAMI≫と読むことが出来ただろう。
彼――伊神・ラジュ・十御は、すれ違う日本人たちが話す懐かしい母国語を耳にして、自然と顔を綻ばせた。



2019.08.18
2023.08.22



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