26話 【After That!】


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26話 (―) 【After That!】



■ 柾 ■

「好きな子が出来たんだ」
数ヶ月振りに会った前妻は、報告を聞くなり『面白そう』とばかりに口角を上げた。興味を惹かれたときに、こうした仕草が表れることが多い。
フォックスタイプの眼鏡フレームから覗く焦げ茶色の瞳には茶目っ気と色気が混ざり合い、やはり彼女は美しいと思った。笑んだ顔は、特に。
「要らないのに。報告なんて」
緩やかなウェーブを描いた髪を片側で結い、遅れ毛をほどよいバランスで垂らしたエアリーな髪型。
大胆に覗くうなじには、手を差し伸べたくなる魅力があった。
両肩を露わにしたプリーツブラウスにブラックカラーパンツという着こなしからは、凡そ科学者という堅そうな生業とは一致しない。
隙だらけの色香漂う女性、それが児玉菫だった。
「その子に嫉妬しちゃうもの」
「どの口がそれを言うんだ?」
「研究しか頭にない教授と結婚して絹と玄を産み、離婚して貴方を選び、寂しさから浮気に走った駄目なこの女の唇、かしら」
ベージュルージュで縁取られた、潤いたっぷりの唇を指差す。スミレの顔には、情熱のまま流離う魂そのものを宿した笑みが浮かんでいた。
「自分の教え子とデキるなんて、普通じゃないと思われて当然よね。自覚してるわ。
疲れたのよ。科学者として生きたいのに、『児玉』を継がなければならなかった使命に」
代々児玉家は迷える者を導くアドバイザー的な役割を担ってきた。
そう聞くとカウンセラーを思い浮かべる者も多いが、その実態は、傍からすれば超常現象の類だの時代錯誤だのと陰で揶揄されるような生業だった。
彼らが用いるのは玉――『珠』であり、つまり『石』。それらには神聖なるものが宿るとされ、古代より児玉家は石を使って人々を癒してきた。
連綿と受け継がれてきたその使命は、スミレにとって、科学者を目指す最先端事業とは真逆の次元にあった。
当然だ。昔ならいざしらず、このご時世に堂々とオカルトを掲げていたら、振興宗教だと勘繰られること必至だろう。
それに、とスミレは続けた。
「私といても、貴方はどこか夢現だった……」
夢現。
それは過去に何度も聞かされた。過去の、幾人かの女性たちから。
貴方はどこを見ているの? 誰の姿を追っているの? 私じゃないわね。一体だれ? それとも、まだ見ぬ誰か?
その疑問を、寂しさを、スミレも同じように感じていたと言う。
「でも直近は、夢から覚めたのね」
優しく「よかった」と言う。スミレなりの祝福の言葉だ。
「どんな子? 聞かせて。応援するわ」
「芯のある子だ。キミみたいにね。一度言いだしたら捻じ曲げたりしない」
「翻弄されたのね。思うように手に入らないから、俄然燃えたんでしょ」
「……友人も、彼女が好きなんだ。僕は、彼にけしかける真似をして……それが仇となった」
「聞くわ。話して」
「昨日は社員旅行の2日目だった。初日に僕は彼女に告白していて、出方を決めかねている友人にも素直になるよう、進言したばかりだった。
昨日解散した後、彼女と友人は2人で話し合う場を設け、お互いにどんな感情を抱いているかを素直に認め合ったらしい」
「まぁ……! それで?」
「彼女と友人は別れ際、どちらからともなくキスをした。それ以外の行為はしなかったと言う言葉を、僕は信じてる。
それが愚かな判断なのか、単にその言葉に縋りついていたいだけなのかは自分でも分からないが」
「貴方は友人も、好きな子も信じたいのよ。そんな貴方を決して愚かとは思わないわ。……続けて」
「『柾さんに話さなければフェアじゃない』と彼女は言った。震えながら事実を告げていたよ。抱き締めたいほど震えていた。目も当てられないほどに」
「どうして抱き締めなかったの? 急に彼女が憎くなった?」
「馬鹿な……。憎いなんてとんでもない。そうじゃない。僕はただ……。あの時彼女を抱き締めてしまったら、全てを奪ってしまいそうで怖かったんだ。
震えを身体で温め、甘い言葉で心を温め……分かるだろ? これでも衝動を抑えるのに必死だった。何せ職場内だったしね」
「その衝動は分かるような気がするわ」
「『ファーストキスだったんです。だからもう半分以上あの人に囚われてしまっている』と告白する彼女は、それは苦しそうで、胸が締め付けられた」
「直近……。貴方は振られたの?」
「聞いて驚いたんだが、振られたのは僕だけじゃなかった。彼女は僕と友人、どちらも振るつもりだったようだ。……保留にして貰ったが」
「そんな……」
「友人も、包み隠さず真実を話してくれた。彼の言い分はこうだ。『友情も恋も大切だ。せめて彼女と柾には誠実でありたい。その姿勢で挑み直す』と。
『彼女が柾を選べば素直に祝福したいし、彼女が俺を選んだ場合、友情の行方は柾の判断に委ねる』、とね。
けしかけたのは僕だ。恨みたくても恨めない。なにせ友人なんだ。僕もあいつを大事に思ってる。
この先どうなっても、僕は2人を責めない。僕は、己の行動や言動にはきちんと責任を持ち、貫く気でいる」
「前進するって決めたのね。3人とも偉いと思うわ。彼女の気持ち、私には分かるかも。
私が苦しまずに決断したとでも思った? その場の気持ちでふらりと選んで来たとでも?
違うわよ。教授との離婚の時も、貴方との再婚の時も、浮気を始めた時も。道徳的には誉められたものじゃないけど、これだけは堂々と胸を張って言える。
私は3人とも本気で惚れたし、悩んで枕を涙で濡らした日だって続いた。3人に申し訳ないと思った。だからこそ私なりに本気で、本心から選んだわ。
倫理に反した行動をしているのだから、せめて嘘だけは自分にも相手にもつかないようにしなければと思った。
とことん悩み抜いて、どこまでも自分に正直であろうとした。だからこそ悔いはないし、あの時あぁしていればという後悔に苛まれることもない」
それは自由にも似ているのだとスミレは続けた。
「あなたたち全員、『誠実であろう』としている。それはとてもいいことだわ。真剣に生きている証拠よね。
だから……そうね、責めたり責められたりするのは、恋愛シップに則っていないわよね。
彼女も、友人も、貴方も、まっすぐ正面を見据えてる。きっとどんな結果になっても、貴方たちならうまくいくわよ。友情も愛情も壊れないんじゃないかしら」
そう。僕たちに共通しているのは、誰との関係も壊したくないという純粋な気持ちだった。
だからこそ、相手を出し抜いたり、彼女を得る為に姑息な手を使ったり、駆け引きをしたり……。そんな手段は選ばないと、僕と麻生は誓ったんだ。
千早歴と恋人に発展しなくても一生友として縁を結んでいきたいという想いが生じたからこそ、真摯であろうと決めたんだ。
これは紳士協定。
正々堂々、恨みっこなしの真剣勝負。
誰からも後ろ指をさされることなく、やれ臆病者だ、姑息な奴だと批難されることのないフェアプレイ。これから僕たちが繰り広げるのは、そんな戦だ。
「頑張ってね。応援してるわ」
「聞いてくれて有難う」
「いいのよ。お安い御用だわ」
スミレはそう言って再び微笑んだ。
「今日はとことん付き合うわよ」
眼鏡を外すと、カウンターの横に置いた。既に酔い潰れること前提らしい。
「キミの話も聞かせてくれ。彼とはどうなんだ?」
「あら、聞いてくれるのね。それがね……」
スミレが身を乗り出すと、手に持っていたグラスの中身も同じように揺れた。
店内の照明の色と同じ。バーボンがぽちゃりと弾んだ。


■ 凪 ■

社内旅行の翌日、社内からはすっかりお祭りムードが消え、早くも仕事モードに切り替わっていた。
ユナイソン従業員ら接客のプロフェッショナルは、客でいるより提供する側の方が性に合っているとばかりに生き生きしている。
旅行で息抜きが出来た分だと思えば、行事も無事成功に終わったように思う。――我が妹を除けば。
昨日から歴は余所余所しい態度を取り続けている。近寄ればそそくさと逃げ、会話が成り立たない。
あのうろたえよう、旅行中に事件があったに違いないのだ。それも、高確率で柾が関わっている。
柾が歴の手を取り向かった先。考えたくはないが、柾の宿泊部屋だろう。
同室の相手である麻生はヒメと一緒に俺を取り押さえていた。
その間わずか30分。されど30分。
空白の時間に何があったのか。聞きたいが聞けない。
心配と怒りの狭間で、俺は不機嫌だった。


*

ネオナゴヤ店、事務所内の一角。人がまれに入室する以外は、ごくごく静謐な空間。
歴が声を掛けてきたのは、そんな日暮れの時刻だった。
「妙なうわさを聞いたの」
神妙に切りだすその口調に、俺はすっかり柾の件を問い質すタイミングを失った。
どんな? と尋ねれば、返ってきたのは意外な人物の名前だった。
「本部詰めの村主さん。知ってる?」
歴の口から、かつての同僚の名が出てくるとは思わなかったので、面食らいつつも「あぁ」と答える。
「村主さんがどうかしたのか?」
ちょうど数時間前、その村主さんから電話を貰ったばかりだった。
ネオナゴヤに来ていたらしいが、生憎会議に出なければならず、久し振りの再会とはいかなかった。
「村主さんが、『鬼無里三姉妹が喧嘩してる』って教えてくれたの」
「三姉妹のいざこざなんて、珍しくもないだろう」
俺は一笑に付した。
しかし歴はぎこちない笑顔で「そうかな」と言う。まるで、『そうだといいのだけど』と言い聞かせたがるかのように。
「心配なのか?」
「喧嘩に発展するなんて、よっぽどじゃないかしら。だって、物言いをする相手は、あのそよ香さんよ?」
そこでハタといきあたった。そうだ、あの3人に限って対等な喧嘩などあり得ない。上下関係は歴然だ。
「原因は?」
「村主さんも、そこまでは把握していないみたい」
確かに、気にはなる。諍いごとがこちらに飛び火しなければいいのだが。
不安を掻き消すかのように、俺は歴に向かって微笑でやった。
「心配するな。彼女たちだって立派な大人なんだ。喧嘩も終わってるさ」
歴も俺と同じ気持ちだったのだろう。こくりと小さく頷いた。
それより。
俺には鬼無里三姉妹より歴の方が大事なので、今がチャンスとばかりに唐突に尋ねてやった。
この機会を逃せば、もう次はないだろう。そう予測しての行動だ。
「柾とは、何もなかったんだよな?」
不意打ちを食らった歴は、きょとんとしたのち、「えっと、あの……」とうろたえ始めた。ちょっと待て。これは100%認めたも同然じゃないか!
「歴!」
「な、なにもないですっ。柾さんとはあの後、すぐに別れましたから」
断言。これは本当だと直感が告げる。長年培ってきた歴専用レーダーに狂いはない。
ホッと胸を撫で下ろす。夜這い宣言をした柾だけに、心中穏やかではなかったのだ。
対抗馬として用意した肝心のヒメは柾を応援すると言い出すし、一貫の終わりかと思っていたが、よかった。本当によかった。
「柾も口では強がりを言っていたが、意外と奥手なんだな。歴に何もなくてよかった」
その瞬間、歴は真っ赤になった。
始めは俺から心配されたことが恥ずかしかったのかと思ったが、どうやらそうではないらしい。頬を染め、耳を染め、全身が細かく震えている。
「……歴?」
怪訝になって尋ねてみると、か細い声で「なんでもないです」と一言。……そんなわけあるか。
「柾とは何もなかったんだろう?」
「ないです。そう言ってるじゃない」
「急に真っ赤になったのには理由があるんだろう?」
「これは違います」
「何が違うんだ」
「もうっ、根掘り葉掘り聞くのやめてったら!」
身を翻し、脱兎のごとく駆け出してしまった。
……おいおいおいおい、柾とは何もなかったんだろ!? それなのにあの反応はおかしいだろう!
くそ、今を逃せばもう、貝のように堅く口を閉ざす歴だ。これ以上の情報は引き出せない。
柾ではない、というのが真実ならば、相手は柾以外の誰かなのか?
咄嗟に麻生の顔が浮かぶ。
確か今日は出勤のはずだが、そう言えば姿を見ていない。パソコンで出勤の状況を確認すると、就業中のようだ。
ついでに柾を見てみると、こちらは30分前に終業している。
残業過多につき、労働法に抵触する恐れがあるため、定時であがれと通告したのは記憶に新しい。どうやら忠実に従っているようだ。
「……千早チーフ!」
間近で名前を呼ばれ、慌てて画面を消した。顔を上げれば麻生本人が立っていた。
「ディスプレイの棚、どうなったかと思って。申請書をおたくに提出してから1週間経つが」
ディスプレイ? 棚? 申請書? とっさに記憶を探り寄せる。
「あぁ、あれなら店長の認可が下りた。予算が捻出できたから買うといい」
「希望通り、4つ買っていいのか?」
「6つだ」
「マジか。太っ腹」
「買い揃えるからには、最高の陳列をして売り上げを作ってくれ」
「任せな」
不敵に笑い、立ち去ろうとする麻生に俺は声を掛ける。
「麻生、聞きたいことがあるんだが」
「ん?」
「歴と何かあったのか?」
間が空く。
容疑者は無表情だった。
「どうしてそんなことを聞くんだ? 千早さんが何か言ったのか?」
「言ったわけじゃない。歴の態度がそう語っていた」
「別に、柾とは何もなかったと思うぜ」
「柾とは言ってない。何かあった相手は、お前だと思ってる」
へぇ、と麻生は目を瞬かせた。
「俺とだって? なぁ、一昨日、俺は姫丸サンと一緒にあんたを引き留めてたよな? で、千早さんは柾と一緒にいた。
なのに、柾と彼女の間に進展はなかったって断言するのか? いやはや、柾を遊び人呼ばわりした人物の発言とは思えないな」
「空白の時間が存在しているのは一昨日だけじゃない。昨日だってアリバイはないんだ。違うか?」
「そりゃそうだが、俺と千早さんの間に何が起こるんだよ? あんただって知ってるだろ? 俺がどうして出世できずにいたか。
こちとら最近まで女性不信だったんだ。そんな俺が、どう動くっていうんだ」
麻生の言う通りだ。俺の見立てはまったくの見当外れだったのか……?
「千早さんの恋の相手は柾じゃないのかもなー」
またそうやって撹乱させようとする。柾といい麻生といい、じつにタチが悪い。
「歴の相手がお前だというのか?」
「だとしたら光栄だね。千早さんの近しい存在であるあんたが、千早さんは俺を選ぶと思ってるのか? 
そういや、柾を選ぶくらいなら麻生の方がまだマシって言ってたっけ」
「茶化すな。あの時はそう思っていたが、今はそれも御免だ」
「やれやれだな、まったく。なぁ、そういうあんたこそどうなんだ。好いてる女性はいないのか」
それは意表をついた問いだった。脳裏に誰かがちらつく前に、「ない」と答えていた。
「ざーんねん。だから千早さんへの思いやりに欠けてんのかねぇ。前にも言ったが、彼女の恋愛を認めないなんて可哀想だぜ」
「私なりに思いやってる」
「その形が歪なんだよ」
「私と歴の問題だ。放っておいてくれ。それよりも今の話、どこからどこまでが本当だ?」
これが最後の質問だと麻生にも分かったのだろう。少しだけ緊張した面持ちになり、言葉を選んでいるのが手に取るように伝わった。
今までのやり取りを反芻し、絞りだした答えは、
「嘘は言ってない」
「ということは、真実も語っていないんだな」
「ほー。頭いいねぇ。騙されちゃくれなかったか」
「歴は好きか?」
俺の質問を受けた麻生は室内を見渡した。帰宅者もぽつぽつと出始める中、遅番の人間は食堂で夕食を摂りに行っている頃合いだ。
静まり返った事務所。ひとが押し黙った空間には、機械の音だけ。
「ああ。大好きだ」
はにかんだ笑みには溢れんばかりの感情がこもっていた。
まるで目の前に歴がいて、素直に想いを伝えるかのような、一片の曇りもない言葉だった。
「あんたが俺の恋路を邪魔したいなら、すればいい。
もう異動という手段は使えないだろうが、それでも策士のあんたなら、何かしら仕掛けることは出来るんだろうな。
いいぜ、受けて立つよ。惚れた女性だからな、傍にいたいんだ。そのためなら俺は、踏ん張ってみせる」
純粋な愛、というものがこの世に存在するならば、麻生のような決意のことを、そう呼ぶのだろう。
「その意志には敬意を表するが、歴への想いを口にしたのは間違いだった。無駄な宣言だ。全力で阻止する」
「平気。俺は揺るがない」
ふっと笑い、麻生は後ろ手にひらひらと手を振った。これで話は終わりだとばかりに。
失うものがあるのに怖くないのか?
それとも歴を手に入れるまで、諦めないつもりか。
柾に麻生。敵に回すとなると、厄介な相手だ。


■ 麻生 ■

千早凪は十中八九、俺に何かを仕掛けてくる。
例えそれがなんであろうと、屈してしまうような安っぽい感情は、生憎と持ち合わせていない。
だからあの千早歴命のシスコンの件は、放っておくのが一番だろう。
(つか、『千早歴は好きじゃない』なんて言ったら、それはそれで怒るんじゃないか?)
それも理不尽な話だなと思っていると、
「ぅおっ!」
前触れもなく素っ頓狂な声が出てしまったのは、退室した事務所前の廊下で、あろうことか千早歴と鉢合わせしてしまったからだ。
バインダーを抱えた彼女は顔も耳も真っ赤。ちょっと待て。まさかとは思うが今の話、聞かれたのか?
周囲に人がいないのは幸いだった。
遅番の人数自体少ないし、売り場や食堂へ散り散りなのだから当然だが、人がいると話づらい内容ではある。
「ちぃ、俺と千早チーフの会話、なにも聞いてな」
「はい、何も」
「いよな?」
言葉の上に言葉を被せる、か……。聞いてたんじゃねぇか。
「聞いてません。存じ上げません。見てません。大丈夫です」
がちがちに震えた声で何を言う。
聞いてなかったのなら、動きたいのに完全に竦んでしまった足を動かしてみろよ。
見ていなかったのなら、明後日の方向なんて見てないで、ちゃんと俺に視線を合わせてみろよ。
出来ないだろ。それが証拠だ。
――さぁ、どう言うべきかな、俺は。
「そんなに脅えないでくれ」
怖がらせたいわけじゃないんだ。だから警戒心を解いてくれ。
俺は、きみの微笑んだ顔が好きなんだからさ。
「兄は――」
「ん?」
「兄はまた、悪巧みを企んでいるんでしょうか? 麻生さんや柾さんに迷惑が被らなければいいのですが……」
辛そうに目を伏せた彼女から漏れる憂い。これにはフォローが必要だろう。
「気にすんな。これは男の問題であって、女性側には関係ないからな」
さすがに長居し過ぎた。そろそろ売り場へ戻らないと。
進みかけた歩を、再び止める。一応言っておこうと思った。この言葉も、ちぃを安心させる材料に違いないだろうから。
「ちぃに荒っぽい真似はしない。誓うよ。『紳士協定』な」
ポケットでPHSが鳴り出し、現実に引き戻される。
「麻生チーフ、中部KK工務店の方がお見えです」「そっちに向かう。すぐ着くから」「畏まりました」
いや、と、かぶりを振る。
昨日のキス、絡まる視線、告白、あれらはすべて現実だった。現実の中で生きている。生まれた心は、気持ちは、全て本物だ。
俺に人を愛することが出来るなんて、知らなかった。あんたはその無償の愛の存在を俺に気付かせてくれた。
そんな大切な恩人を――唯一無二の女性を、千早凪の姦計なんかで失ったりはしない。


■ 歴 ■

『誰からも後ろ指をさされる事なく、やれ臆病者だ、姑息な奴だと批難される事のないフェアプレイ』。
麻生さんと柾さんが、お互いに相手を信頼して取り決めた約束。『紳士協定』は、今日の昼に締結された。
3人の関係を壊したくないから、正々堂々、恨みっこなしの真剣勝負にすると2人は言った。
例え恋愛に発展しなくても一生友として縁を結んでいきたい、とも。
その場に居合わせた私は、口を挟む余裕も勇気もなかった。
まさかこの私が、こんなに情熱的な恋愛に巻き込まれるなんて。
いつだって片想いをしては、想いを告げることなく終わる恋を繰り返してた。臆病者はただ恋心を秘めるしかなかったのだ。
好きな人が女性と睦まじく歩く姿ばかり見てきた。ただ羨む側。
今回は違う。気になる人たちから、思いの丈を打ち明けてもらえた。好きだと言ってもらえた。
私も誠実でありたいと思う。
でも……。
心のどこかで警告音が聴こえてくる。
電車の遮断機のように、止まれと訴え続けるそれは、不破さんが忠告した『優しい残酷者』を手招きしているかのようだった。



2012.10.10 - 2013.06.20
2020.01.15


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