35話 【Olive Branch!】


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35話 (―) 【Olive Branch!】



【犬君side】

「すみません、遅れました」
14時を3分回ったところでドアを開けると、講師の糸川は「あそこに座って」と、とあるテーブルを指し示した。
そこには僕にとっての天敵が涼やかな顔で座っていたため、回れ右したい気持ちを抑えながらテーブルへと向かう。
「……宜しくお願いします、伊神さん」
笑顔を作ることもなく、横一文字の唇でその言葉を口にした僕に対し、
「よろしく、不破くん」
と切り返してきた伊神の顔には微笑が浮かんでいて、心の余裕の度合いを表しているならば、第1ラウンドは僕の負けだろう。
「これで全員揃ったわね。それじゃあ始めるわよ。講座時間は90分。あなた方には6種類のラッピングをして貰います。
完成したら、ラッピングの更なる向上を狙って、同じテーブルの人たちと意見交換や練習をしてくださいね。はい、始め!」
テーブルには各3人ずつ居たのだが、このテーブルには伊神さんしかいない。
僕が来たことで2人になったのだが、よりによって今から90分もの時間を共に過ごさなければならないなんて……嘘だろう?
いや、1つのラッピングに対し、15分掛ければいいんだ。黙々とこなせば、伊神さんと話さなくて済む――。
「オレ、ラッピング苦手なんだ。不破くんは得意そうだね?」
僕の決意は早々に粉砕された。まさか向こうから話しかけてくるとは。しかも疑問形で尋ねられ、これを無視するのはあまりに大人げない。
「まぁ……毎日、何かしら包んではいるので……」
「道理で。とても手付きが滑らかで綺麗だ」
そして伊神スマイル。……何なんだ、この爽やかイケメン……。
己の手元を見下ろせば、15分かけて仕上げるはずだったのに、1つめのキャンディー包みを終えてしまっていた。迂闊、そして不覚。
駄目だ、どうも調子が狂う。
一方の伊神さんは苦手な作業らしく、まだ4分の1程度しか進んでいなかった。
それでも1つ1つの動作を丁寧にこなそうという姿勢が見て取れ、こういうところにも性格が出るんだなと感心せざるを得ない。
……いや、どうでもいいだろう、伊神さんのことなんて。
僕は口を閉ざし、2枚目の包装紙を手に取る。
5分、10分と静かな時間が流れたが、時間の進み具合が遅い。窮屈で仕方ない。簡単なラッピングに15分掛けることも面倒臭く、イライラが募ってしまう。
伊神さんの手元を盗み見れば、1つ目は終わっていたようで、なかなか見栄えのする仕上がりになっていた。
2つ目の包み方も慎重で、寧ろ伊神さんが『1種類15分ずつ』の時間配分になりそうだ。それならそれでいい。僕は3枚目の包装紙を手繰り寄せる。


【伊神side】

『メンテナンスの仕事にラッピングなんて必要ねぇじゃんよ』、とは我らがメンテナンス部チーフ、一廼穂碩人の言である。
確かに今までラッピングを必要としてこなかったので、碩人の言うことも一理ある。
けれど1年に1度のこの講義には全員参加が義務付けられているため、『必要ないので受講しません』では済まされない。
オレはこの日に捻じ込んだのだが、3人1組のバディだったので、開始時間直前に来たオレは、ぽつねんと1人きりになってしまった。
かくして3分遅れで部屋に現れたのはドライの不破犬君くんだった。ハァハァと肩で息をしているところを見ると、慌てて駆け付けてきたようだ。
作業用のエプロンも着けっ放し。恐らく売り場が忙しかったのだろう。そういえば、今日はドライチーフの幹久は休みだったっけ……。
彼は言い訳をすることもなく、「皆さん、お待たせしてすみませんでした」と真摯に詫びると、糸川講師の指示に従ってこのテーブルへとやって来た。
きっと全員、事情を察したのだと思う。中には「よぅ、お疲れー」と労う声もあった。
言い訳をしない男らしさ、申し訳ありませんと素直に謝れる潔さ。彼のこういうところが、『ドライ・ホープ』と呼ばれる所以なのだろう。
その不破くんは、緊張した面持ちで席に着くと、小さな声で「宜しくお願いします」と声を掛けてきた。
会話らしい会話をするのはこれが初めてだな、と思いながら、オレも「よろしく」と返す。
いざ講座が始まると、不破くんの目付きが変わった。
緻密に計算されたように置かれた商品が、いとも簡単に包(くる)まれていく。
幹久の技も凄いけれど、彼も相当なもんだな……と感心して……。オレはいつの間にか彼に声を掛けていた。
「オレ、ラッピング苦手なんだ。不破くんは得意そうだね?」
「まぁ……毎日、何かしら包んではいるので……」
「道理で。とても手付きが滑らかで綺麗だ」
本心からの言葉だったけれど、相手側には世辞だと思われてしまったようで、「はぁ……その、どうも」と淡白な反応だった。
その後も不破くんはてきぱきと2つ目3つ目とこなしていくが、オレはプリントアウトされた用紙を見ながら2つ目をこなすだけで精一杯だった。


【犬君side】

青柳チーフも休みだし、売り場だって忙しいから、さっさと6種終わらせて早めに抜けさせて貰おう。
全種類作り終えたとき、タイミングよく糸川講師が通り掛かった。
「糸川センセー、6つ終わりましたよ」
「あら、早いのね。さすが! それに綺麗な出来だわ。じゃあ伊神さんをサポートしてあげて。4つ目で躓いちゃってるみたいだから」
「え? いや、僕は売場に戻りたいんですけど」
「だぁめ。ちゃんと混む時間、混まない時間を調べて組んであるから売場は心配しなくて大丈夫。さ、伊神さんをお願いね」
ここまでハッキリ言われてしまっては従うしかないだろう。
しかし、売場へ戻れないどころか伊神さんの講師役を任されてしまうとはツイてない。
今のやり取りは本人にも聴こえていたようで、僕と目が合うなり、伊神さんは申し訳なさそうに手を合わせた。
仕方ない、とうとう向き合うときが来たのだ。


【伊神side】

「……僕は、あなたと会うことも話すこともイヤで、今までずっと、わざと避けてました」
なんの前触れもなく、突然ぽつりと呟いたので、一瞬不破くんの独り言かなと思ったけれど、間違いなくオレに向けての告白だった。
「……知ってるよ。なんとなく気付いてた」
ネオナゴヤ初出勤の日から、随分意識されているなと勘付いてはいた。
すれ違っても気まずい目礼が返ってくるだけで、言葉を伴った挨拶はなし。そのくせ視線がこっちを向いていたりする。
「……透子さんがいつも伊神さん伊神さんって言うから……。ずっと嫌いでした、伊神さんのこと」
拗ねながら理由を言う不破くんを眺めつつ、オレもこれ、言った方がいいのかな? と首を捻る。
言えば敵に塩を送ることになる。でも、理想はイーブンな関係だ。
「透子ちゃんね、オレにはいつもこう言ってるよ。『聞いてよ伊神さん、あの馬鹿犬がさぁ』ってね」
彼が本音でくるなら、オレもそうあるべきだ。向き合う時期が来たんだろう。
「オレがキミを恐れていないとでも思ってた? だとしたら自分を安く見積もり過ぎてるよ。できればオレも関わりたくなかった。――キミとは」
不破くんは驚いた顔でオレを見返した。オレがここまでハッキリ言い返すとは、ゆめにも思わなかったのだろう。
オレにとっての脅威は彼で、彼にとっての厄介者がオレ。でも。
「不破くん。……透子ちゃんを悲しませないであげてね」
これがオレからの餞別。
不破くんは「どういう意味ですか?」と訝しげにしているけれど、さすがにそこまでは教えてあげないよ。自分で考えてね。
透子ちゃんの話はやめようと思って、オレは彼の名前に話題を切り替えた。
雑談のつもりで「そう言えば、戌年ではないんだよね。それなのに犬君って、珍しい名前……」と言い掛けた途端、左の頬に衝撃が走る。
「僕にとっての禁句を、よりにもよってアンタが口にしますか……」
激昂した不破くんが席を立ち、オレを睨み下ろしていた。じんじんと痛みが広がり、左頬を殴られたのだと気付いた。
おおごとにはしたくない。周囲を見れば和気藹藹としたムードで、幸いにも気付かれた気配はない。
胸を撫で下ろしながら、オレは不破くんを見つめる。彼にとっての禁句? 名前が?
「……とてもマズいことを言ってしまったみたいだね。ごめん。謝るよ。でもどうして……。
犬君って、源氏物語に出てくる名前だろう? 雀の子を犬君が逃がしつる、の。女性の名前だから気にしてたのかい?」
「……まだその話を続けるつもりなら、もう1発殴りますよ」
睨みを利かす不破くん。これは相当怒ってる。
「でも、ごめん。理由が知りたい」
それに、凄まれても怖くない。入社以来ずっと、喧嘩っ早い碩人や杣庄くん、幹久の隣りにいたせいで、耐性がついてしまっているし。
さすがにそれは不破くんの沽券に関わるだろうから、言っちゃマズいだろうけど。


【犬君side】

予想外だったのは、伊神さんがペースを乱す天才だった点だ。
嫌がっているのに「でも気になるんだ」と言って縋りつくなんて真似は、伊神さんじゃないと出来ない芸当だろう。
手強くて、一筋縄ではいかない。あの笑顔の裏には、思った以上にしたたかな一面が隠れている。
さっきから伊神さんの度胸に圧倒されっ放しの僕は、結局折れるしかなくて……誰にも語ったことのない理由を話さなくてはならなかった。
それなのに「透子ちゃんを悲しませないで」という意味深な言葉の真意を尋ねてもはぐらかすのだから、とんだ食わせ者だ。
「こうして話すのは初めてですね」
「そうだね」
「まさか、大嫌いな人に、自分の言いたくない秘密を晒すことになるとは思ってもみませんでした」
「ごめんね」
「……謝れば済むと思ってるでしょう、伊神さん。……いいや、こうなったら話しますよ。
御察しの通り、僕は戌年生まれじゃありません。源氏物語から取ったわけでもありません。……表向きはそういうことにしてますけど。
犬君という名前は、『君は犬のように従え』、という意味で命名されたんです」
「……!」
「八女先輩がわんちゃんって呼んでるでしょう? 虫酸が走りますよね。悪い人ではないので、アナタほど嫌ってはいませんけど」
「なかなか手厳しいね」
僕の皮肉を、苦笑しつつも軽くいなす伊神さんは、やはり大きな器の持ち主なのだろう。
「名付けたのは祖母です。母は、届け出ギリギリまで考え直すように説得したんですが……駄目でした。
弟のときは、赤ん坊の手首に刃物を宛がって、自分に名付けの権利を与えるよう陳情したのが功を奏して、何とか変な命名は防げましたが」
「! なん……っ。どうしてそれがまかり通って……」
さすがに狼狽したようで、伊神さんの声はかすれていた。
「祖母が不破家の絶対的存在だったからです」
不破家当主、不破刀自にはそれだけの力があった。孫の人格を操作することなど造作もない。
「名前コンプレックスでした。それを僕の天敵であるアナタがあっさり話題にしたんですから、ムカついて当然でしょう」
「オレも……祖母で苦労した。けれど……」
「その比じゃないって? ……やめてくださいよ。もういいんです、……もう」
「いや、よくない。ちっともよくないよ。そんな、まるで尊厳を無視されたみたいな扱い……」
「だから、自分と重ねないでくださいって。あのね伊神さん。仕方ないんです。郷に入りては郷に従えですから」
「オレの母も、父と国際結婚するために色んなことを諦めざるを得なかった。嫁としての力量だけでなく、女性としても試されて。
でも、仕方ないっていうのは、まるで不破くんが自分にそう言い聞かせているみたいに聞こえるよ。絶対本心じゃないでしょ、それ」
「くそっ……。どうしてそうやって土足で踏み込んで来るんです? ただ闇雲に正論を振りかざせばいいって問題じゃないんですよ。
そうやって割り切らないとやっていけないんです、うちは……!
祖母の力は未だ健在です。彼女が望む不破家の未来のため、僕はこの世で一番好きな人を諦めなければならない。それに……彼女にはアナタがいる」
「不破くん、それって……! じゃあ千早さんのことは、やっぱりウソ?」
「……」
「駄目だよ、それで誰が幸せになれるの!? 偽物の恋で、キミのお祖母さんが喜ぶとでも!?」
「あの人にとって大事なのは、動機じゃない。千早家という家柄です」
「千早さんの幸せは? 不破くん自身は!? それに……」
「それに?」
「あ、いや……」
バツが悪そうに口を噤む伊神さんは、「でも」、と続けた。
「やっぱり間違ってる。今のままでは誰も幸せになれないよ。本心が捻じ曲がってしまっていては苦しいでしょう……?」
「苦しいとか、そういう問題じゃないですってば。僕の意見なんて通用しないんです。今までも、これからも。……やっぱり伊神さん、調子狂う」
「不破くん、目を覚まして。気付いて欲しいんだ、ひとは、呪縛から逃れられるってことを……!」
「ははっ、どうやって?」
伊神さんの短絡的思考に、思わず吹きだしてしまった。
「おぎゃあと産声をあげた時から『君は犬のように従え』なんて服従命令されて。成人になっても嫁を宛がわれ、3人以上子供を作るように言われ。
伊神さんだけに教えますけど、僕がこの会社に入ったのも、祖母が選択した道だからですよ。ほらほら、いつ呪縛から抜け出せるっていうんです?」
「訴えなよ。断固、自分の意思を貫くべきだ。キミの未来だ、お祖母さんの敷いたレール、お祖母さんの選んだ相手じゃいけない……!」
意思を貫く――。……そう、僕だってそう思ってた。縁談話が正式にまとまるまでは。
今度こそ、首を縦に振るもんかと。誓ったはずなのに、どうして勝手に話が進んでしまう?
ノーと言ったはずだよな? イヤだと訴えたはず。それなのに、なぜ……。
あぁ、そうか……。今回は……。
「遺言だって言うから……従うしかなかった……」
「遺言!?」
しまった、口に出ていた。面倒な相手に漏らしてしまったものだ。苦々しい顔を作り、「とにかく」と念を押す。
「……なんでアナタに心配されなきゃいけないんです? いりませんよ、同情なんて」
やれやれと溜息が零れる。本当に、変な人だ。
「不破くん……!」
伊神さんは少し怒った顔で僕をたしなめる。
「お願いだから、自棄にならないで」
「……。ねぇ、伊神さん」
「なんだい?」
「お互い祖母で苦労した者同士、透子さんの件がなければ、ずっと前から仲よくなれていたんですかね?」
「そう思うよ」
「ははぁ……。まぁ、僕も今ならそう思います。……伊神さんともっと早く出会えばよかった気がします」
「……今からでも、なれそうな気がするけどね」
そう言ってスッと差し出されたのは右手で。唖然としながら伊神さんの顔を見ると、伊神スマイルが浮かんでいた。
この笑顔には、どんな人間も白旗を揚げざるを得ないよなぁ……。僕は観念して「同感です」と言い、伊神さんの右手を握った。


2014.07.08
2020.01.29 改稿


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