G2 (―) 【橋頭堡】


日常編 (―) 【橋頭堡】―キョウトウホ―



自宅の玄関を開け、最初に視界に入るのは、1本の南天の木だった。40年前、南雲の妻が苗を買い、そこから育てた代物だ。
≪難を転ずる≫ことから、『縁起のよい木とされている』という話を聞いた妻は、新居の庭にそれを置いた。
南天は大木にならないので、南雲は始め、それほどこの木を好きになれなかった。
松のように、どっしりと構えたものを好んだ彼は、南天の大きさに物足りなさを感じ、弱々しい木と捉えていたのだ。
けれども、雪を被った南天の姿に虜となった今では、毎年のように赤い実がつくのを誰よりも待ち侘びている。
今は11月。急に冷え込んだ天気の影響で、紅葉した南天の葉は、霜で縁取られていた。


*

2年前に定年を迎えた南雲は、62歳になった今、知人の紹介で警備員をしている。徒歩5分という、通勤に便利な近距離。
警備員仲間は南雲と同じ境遇の人物が集まっているため人間関係も良好だ。勤務計画さえ上手く立ててしまえば、数日休んで連泊旅行することも出来る。
何の憂いもない南雲の日常。けれどもここ最近、南雲を困らせているものがある。それは……。
「おはようございます、南雲さん」
伊神はロングコートのポケットから社員証を取り出し、従業員入り口から数メートルほど進んだ所で人の出入りをチェックしている南雲に呼び掛けた。
ユナイソンの従業員を始め、荷積み業者やメーカーの営業が必ず通らなければならない、関所の役目を果たしている区域。
そこに2点ほど恵まれないことがあった。問題は、入り口にある。


*

≪従業員専用≫というからには、客には見せてはならない部分を預っているという意味に他ならない。
品物の在庫倉庫、生肉や鮮魚の加工場……つまり≪バックヤード≫を兼ねているため、人物以外にも、商品すら全て、ここを通らなければならない。
≪警備員≫が人物をチェックし、品物をチェックする≪検収≫へと流れていく仕組みだ。
様々な物品を通さなければならない為、入り口はとても広い。
開店前に品物が出入りする、いわゆる≪第一便(イチビン)≫が、トラックから続々と運び込まれる時間だが、今日などは霜が降りた、特に寒い日。
入り口が北側に位置するため、寒さが尚更堪える。
仕事の内容には、遣り甲斐がある。けれども木製の簡易作業台の前に立つその姿は、お世辞にもサマにはなっているとは言えない。
椅子などない。完全な立ち仕事だ。それが最近、特にきつくなってきている。
ストーブはあるにはあるが、四面中一面が壁なし状態では、とても追いつかない。
警備服の上にコートを羽織った南雲は、提示された社員証を確認してから伊神に答えた。
「おはよう。今日は一段と寒いね」
「本当、寒いですね。南雲さん、風邪なんてひかないで下さいね」
「ありがとう」
「そうだ。これ、使い掛けで申し訳ないですけど、どうぞ」
伊神がもう片方のポケットから取り出したのは、携帯用のカイロだった。
「マンション出た頃に封を開けたので、夕方まで大丈夫ですよ」
「だが、それだとキミが……」
「オレなら大丈夫。これでも一応、毎日走って抵抗力つけてるし」
辞退する南雲の手に、半ば強引にカイロを押し付けると、伊神は男子ロッカーへと足を進めて行った。
「……あたたかいなぁ……」
それは人の心だったり、画期的な携帯保温器具だったり。
南雲はシワが目立ち始めた両手で、カイロを包み込んだ。


*

あらかた荷物が収容された、開店時間の午前10時。一面開いていたシャッターがゆっくりと下り始める。
次にこのシャッターが開くのは、≪第二便(ニビン)≫が運び込まれる午後1時だ。
今では人間が出入りするためのドアが、たまに開けられるぐらいの頻度に落ち着いた。
先に出勤していた同僚たちは既に仕事に取り掛かっていた。
事務所の壊れた電話を直したり、ごみが車輪に絡まって動かなくなった買い物カートを直したりと、さまざまだ。
繋ぎの服に着替えた伊神だったが、今のところ出番はないようだ。社内用携帯をポケットに収めると、メンテナンス室を後にした。
伊神の控え室でもある≪メンテナンス室≫も、≪警備≫や≪検収≫の近くにある。その為、伊神は南雲たち警備員とも仲がいい。
メンテナンス室を出た伊神は、一段落ついた南雲の名を呼んだ。
「あぁ、伊神クンか」
伊神の姿を認めた南雲の手には、カイロが握り締められていた。その様子を見た伊神は、呼気の白さに気付く。
「シャッターが下りても、寒さは変わりませんね」
「そうだねぇ。でもさっきキミに貰ったカイロのお陰で、手先が温かいよ」
「本当? それはよかった」
笑顔を湛えた伊神だったが、ふとその顔が引き締まる。
「どうしたんだい、伊神クン?」
伊神の変化に気付き、声を掛けるものの、呼ばれた本人は意に介さない。
「せめて風だけでも、どうにか出来ないかな……?」
そう呟くのである。
「伊神クン?」
「え? あぁ、すみません。えっと……何の話でしたっけ?」
「いや、話と言うか……。あぁ、そうだ。今日はね、南天の木に霜が降ってたんだよ。葉の先にね、ビッシリと、こう……」
「ナンテン……?」
「あぁ、南天だよ」
「太い幹のナンテンは、確か……材木になりますよね……?」
「そうなのかい? いや、すまない。そこまでは知らないなぁ……」
「箸なんかに使われていますね。オレの母は宗教上、箸を持ってはいませんでしたけど。祖母がオレにプレゼントしてくれて……」
「キミの流暢な日本語を聞いていると、本当にインド人とのハーフなのかと驚いてしまうよ」
「箸……箸か……。……端?」
「ハシ?」
伊神の視線が南雲を定める。考え事をしている伊神の癖だった。色男に真っ向からジッと見詰められ、南雲は若干落ち着かない。
「ハシが、どうしたんだい、伊神クン?」
「そうか、机の両端を囲ってしまえばいいんだ! それだけでも風は防げる」
「な、なんの話だい?」
「その机です。少し手を加えてもいいですか?」
「手を加える?」
「えぇ。この机の両端に、頭の高さまでのベニヤ板、もしくは透明ガラスをこしらえるんです。
それで多少なりとも風除けになります。色を塗り直せば見栄えもよくなるかも。逆に夏はそれがあると暑いので、取り外し出来るように工夫して」
「直に風が当たらなくなるのかい? それは皆、喜ぶよ!」
「許可とか……いるのかな? 店長に伺ってみればいいかな……? 許可が下りたら、早速作業を始めます」
「もし許可が下りなかったとしても、伊神クンのその気持ちだけで十分だよ」
「許可が下りることを願いましょう」
伊神が微笑む。彼が言葉にすると、本当に実現出来そうに思えるから不思議だ。つられる様に、南雲も微笑んだ。


*

伊神と南雲の祈りは通じ、あっさりと許可が下りた。寧ろ店長は気付かなかった落ち度を詫びるほどである。
早速伊神は作業に取り掛かり、次の日の昼には塗装作業すら終えてしまっていた。
他のメンテナンスの仕事が入って来なかったのも、順調な作業に拍車をかけた要因だった。
かくしてヴァージョンアップした警備の作業台は警備員全員から重宝がられ、伊神には大賛辞が送られた。
南雲の憂いの1つはこうして解消された。
立ち仕事という悩みはまだ残っているものの、妻の勧めで始めた登山のお陰で、それほどめげない足腰にはなってきている。
今日もまた1日が始まる。玄関を開けるのだ。そして、南天の木を見よう。
本格的な冬の訪れとともに、その赤い実が弾けんばかりにたわわに実る姿を見守ろう。
きっと今年も、白い雪が赤い実を覆い、新聞を取りに行った妻が「あなた!」と息せき切って呼びに来るだろうから。


2008.09.15
2020.02.16 改稿

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