07話 【姿情追い】


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07話 (歴) 【姿情追い】―シジョウオイ―


___01

お昼休憩が終わる寸前。
手を洗うために女子トイレに入ろうとした私は、隣りの男子トイレから出てくる社員とぶつかりそうになった。
「ごめんなさい」
「……っと、俺の方こそごめん」
私とは、あまり接点のない売場の男性社員だった。
器用に肩と耳で携帯電話を挟んでいる。ハンカチで両手を拭いているため、そんな仕草になってしまったのだろう。
「――あぁごめん。いまトイレでぶつかりそうになっちまって、謝ってたところ」
今度は電話の相手に謝っている。
「――それで? え、なに? あいつが!?」
急に素っ頓狂な声をあげたものだから、何事かと思い、振り返ってしまった。
彼も思った以上に大きな声になってしまったことに気付いたのだろう、慌てて左右を確認している。
私と目が合った彼は、バツが悪そうだった。元々私から遠ざかっているうえ、既に話し声も小さくなっていた。
「――柾……異動するん……急に決まっ……」
聞き取れなかったその文言は、青天の霹靂そのものだった。
(異動? 柾さんが? そんな!)


___02

事務所で柾さんを見付けた瞬間、私は前置きもせず開口一番こう切り出していた。
「あの……っ、異動、なさるんですか?」
さり気なく尋ねたつもりだった。普段の会話の延長、日常会話。
でもこれは非日常な出来事。決して他愛ない話題なんかじゃない。
どこから聞いたのかとばかりに、質問された本人は僅かに目を見開いた。一拍置いてから、柾さんは口元を緩めた。
「寂しくなるね?」
「……そ、そうですね」
違います。そんな言葉が聞きたいわけじゃないし、こんな冷たい言葉を返したいわけでもないんです。
模範回答としては“寂しいです”。そうと分かっていながら、この期に及んでどうして素直になれないの?
「急に決まってね。明日異動するんだ」
どうか神様、嘘だと言って。それとも、その願いは神などではなく、本部の人事課に向けるべきなのだろうか。
明日だなんて早過ぎる。どうしてそんな急に?
「配属先はどちらですか?」
「岡崎店だ」
出世街道だと気付く。柾さんは期待を寄せられている。
重役に上り詰める人材の多くは、その店を経由して本部へ栄転するパターンが多いのだ。
「柾チーフ、お電話です」
背後からの呼び声に、私は我に返る。
「それじゃあ。また会う日まで元気で」


___03

翌日は重たい瞼を上下引っ付かないようにするのが精一杯。寝不足の朝だった。
今日からあの人は居ない。
誰よりも早く出勤して、BOSS缶を片手に、静かな建物の裏から道路向こうの風景を見ていた姿はもうない。既に過去のものだ。
あの人が見ていた景色と同じものを見ようと、今日、私は誰よりも早く出勤した。
扉を開けて、建物の外に出る。そこは普段使われない臨時の駐車場。
敷地の向こうには道路。通学途中の小中学生が列を成して往来している。
そんな景色を、柾さんは見ていた。
いつもと同じ朝なのに、柾さんが居ない。ただそれだけで、何もかもが違う。
これからはこんな朝が続くのだ。彼の居ない毎日が。

(きっと慣れるわ)
(本当に?)
(忘れることだって出来るわよ)
(それはいつの話?)
(いつかは分からないけれど。もしかしたらすぐにでも気になる殿方が現れるかもしれない)
(他の人? 柾さんじゃなくてもいいというの?)
(それは……。でも歴、あなた……)
(『お願いです。どうか行かないで』。そう言えばよかった。言ったところで止められはしないけど、でも――)

だって私、まだ何も伝えていない。
そもそも自分の気持ちを曖昧にしたままだった。
現実を突き付けられてから動いていては遅過ぎるというのに。

(そもそもの話、柾さんのことをどれくらい――)

「おはよう」
静かなテノールボイス。聞き慣れた挨拶。私の心臓はピューモッソ。果たしてこれは現実?
「あの……どうして……ここにいらっしゃるんですか?」
彼はコンクリートの壁にもたれかかり、腕組みをしていた。その片手には、相変わらずのBOSS缶。
沈黙ののち、彼は溜息をついた。その口元には笑みが浮かんでいる。眼鏡を押し上げ、彼は悠然と言い放った。
「僕が、とは言わなかった」
「!? ……さすがの私も、怒りますよっ?」
「寂しかった?」
「…………っ」
言葉に詰まり、顔を背けて「いいえ」と返すと、じゃあ何で千早さんはこんな所に居るの? と問いた気な顔になる。
「ここがそんなにいい場所なのか、前から気になっていたんです。柾さんが毎日陣取ってらっしゃったから。それを確認したくて……」
「やっと確認するチャンスが巡って来た?」
「……そんな所です」
「なんだ、そんな理由か。てっきり名残惜しくて訪ねてくれたのかと」
私が無言を貫いた為、柾さんは勝手に『違う』と解釈したようだ。癪なので敢えて訂正したりはしない。
「千早さんには残念がって貰いたかったな」
てらいもない言葉に、ぼぼぼっと顔が赤くなってしまう。
果たして柾さんは気付いたのか、気付かなかったのか。私の反応を待たずして踵を返すと建物の中へと戻りかける。
「え……柾さん、ここで飲んでいかないんですか?」
ルーティンを放棄したことに驚いていると、柾さんは振り返りこう言った。
「今日はきみに譲るよ。ぜひそこを堪能してくれ。気に入ったなら、明日から一緒にモーニングコーヒーを飲もう」
その意味が通じないほど初心ではない。これ以上ないほど赤面してしまい、柾さんはふっと微笑する。そして本当に行ってしまった。
……もしかしたら、ずっとこのまま振り回される?
いいえ、そうはさせません。
そう誓った、朝陽の中の出来事。


初稿 2006.07.10
改稿 2025.03.06


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