13話 【蒲公英】


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13話 (潮) 【蒲公英】―タンポポ―


一連の出来事を語り終えた私は鼻声状態だった。
のどの渇きを潤すフリをしてために紅茶を煽る。すっかり冷めていたのに依然美味しく感じられたのは嬉しい誤算だった。
よほど上手に淹れてくれたおかげだろう。
その不破犬君といえば――。私は視線を彷徨わせ、彼の姿を探した。
一方的に話していたときには気付かなかったけれど、背中を壁に預け、両足を抱える体操座りで聞いてくれていたようだ。
たったひとりの観客はふぅーと息を吐いた。矢庭に頭(こうべ)を垂れたかと思うと、がしがしと髪を掻き――。
「……それは災難でしたね」
労いのことばを掛けられるとは思わなかったので、小さく「そうね」とだけ答えた。
「伊神さんと連絡は取っていないんですか?」
「取ってるよ」
でも不破犬君には言外に伝わってしまった。その頻度が少ないことを。
「いつから音信不通状態なんですか?」
「そこまではひどくないよ。ただ申し訳ない気持ちもあるし……怖くて」
「怖い? 都築の蛮行で遠距離恋愛になったとはいえ、成り行き任せの交際は今でも続いているんでしょう?」
「私の所為で伊神さんは外国に飛ばされたの。だから伊神さんが私をどう思っているのか……知るのは怖いよ」
「そんな。どうして……。潮さんは愚かです。伊神さんをみすみす手放すなんて。あ、僕にとっては好都合か」
隠そうともしない辛辣なことば。それが不破犬君の本音か。清々しさすら感じる一方で、愚かという烙印はかなり効いた。
「伊神さんを手放した覚えはないわ」
「お2人の愛はその程度のものだったんですよ」
不破犬君のことばがナイフのように私の胸に突き刺さった。鋭い指摘にじくじくと痛む。
世は就職氷河期の真っ只中。
就職難という厳しい荒波時代において辞職届を受理されなかったことは、生きていく面ではありがたかった。
ユナイソンは基本給こそ高くないものの、労働組合は力を持っている。福利厚生が手厚かっただけに離職しがたかったのだ。
仕事と恋を天秤にはかり、結局会社を選んでしまった。その負い目もあって、私は伊神さんに合わせる顔がなかった。
だからこそ不破犬君のまっすぐな意見が耳に痛いのだろう。
「聞きたくなかった言葉を平気でくれるのね」
皮肉を言うと、満面の笑みで返された。
「傷をえぐり尽くしてあげますよ。塩だって、悲鳴をあげるまで塗り込んでやる。僕にとってこれはチャンスですから」
「……本性を現したわね」
ドSだ。一方で正論だとも思う。『怖いから』という理由で伊神さんとの交流を減らした自分はやはり愚かだったのだ。
「まだ伊神さんが好きなんですか? 記憶の中で相当美化されてません? 僕には彼が何もしてないような気がしてならないんですけど」
「なっ……」
ここで反論をしておかないと、一事が万事、彼の言葉に丸め込まれてしまいそうだった。
伊神さんへの想いを鈍らせるわけにはいかない。決意の固さを再認識する意味も込めて、私はキッパリと言い放つ。
「『何もしてない』ことない! 伊神さんは、突然の理不尽な異動を承諾するという形で私を守ってくれたの!」
「そこまでしてくれた伊神さんを信じてるんなら、電話だって普通に出来るでしょうに」
「それは……! だからさっきも言ったじゃない。いくら伊神さんが優しいといっても、限度があるでしょ……」
俄かには信じがたいという目で見られていることは分かっていた。……最悪だ。ここを追及されるとは思ってもみなかった。
「何か腑に落ちないんですよね。……ひょっとして潮さん、都築に弱みでも握られました? 伊神さんに顔向け出来ないような……」
「……!」
「そう……なんですね? 何されたんです? まさか都築に……」
ぶんぶんと首を振る。言いたくない。答えたくない。聞かないで。
無情にも、その願いは聞き届けられなかった。
「どこまでですか」
今まで一度も聞いたことのないような低い声で尋ねられる。『絶対に答えて貰う』という気概が籠っていた。
『何を?』ではなく『どこまで?』という問い掛けで私は悟った。彼は気付いてしまっている。
「場所を訊かれても何のことだかさっぱり……」
「惚けないでください。僕の『どこまで』が場所ではなく段階を指していることぐらい、あなたが一番よくご存知でしょう」
「……っ」
話さなくていい。教えなくていい。そんな義理はないのだから。再び首を横に振り、発言を拒む。
口を割る気配がないと気付いたのか、不破犬君は呼気を整えるように溜息を吐いた。
「すみません。ついカッとなってしまって……。これじゃあセカンドレイプですね……。やめます」
堪えようと思っていたのに、その気遣いが私の涙腺を決壊させた。
「……ふっ……」
(あぁ、やだ。もう! 泣きたくなんかないのに。これ以上不破犬君に知られたくないのに)
――私のことを。
目の前の人物は、ぎくりと顔を強張らせた。
(馬鹿、私の馬鹿……こんなところで泣いたら、ひどいことされましたって白状したようなものじゃない……!)
「……まいったな……これで三度目だ。僕は本当……潮さんを泣かしてばかりだな……」
そう呟いた彼の顔に張り付いていたのは後悔の念。
「以前痴漢から助けたことありましたよね。あの時どうしてあれしきで泣くんだろうと不思議でした。でも……そうか……」
後悔に打ちのめされた、苦渋の顔だった。
「過去にひどい目に遭っていれば、男性への恐怖心は俄然増しますよね……。……ちくしょう……」
彼は聡い。というより、私が分かりやすいシグナルを送ってしまっているのか。ともかく自分の推理力のみでどんどん暴いていってしまう。
こんなはずではなかった。全てが予想外の展開になりつつある。
「……私……最後までは……されてない……から」
「……! なんて……言うか……正直とても、……とても複雑です。安堵していいのか……僕には分からない。でも……よかった」
「……必死に抵抗して……でも無駄で……最後に……仕方なく従うフリして、時間稼いで……隙が生じるのを待って……逃げたの」
「偉いです。本当によかった……。……潮さん、デリカシーに欠けた今までの行為に、心から謝罪させてください。
僕はあなたを苦しませたくない。寧ろその逆です。笑顔が見たいんです。前にも言いましたよね? 潮さんの笑顔が好きだって。
伊神さんと離れてから、心の底から笑えたことないって思ってるかもしれません。でも……本当に笑ってたんですよ?」
『笑顔なんて作り物。それは私が一番よく知ってる。それなのに『笑った顔が好き』なんて。いい加減なこと言わないで』。
そう言って、彼に対して線引きをした。あの時の話題を、また持ち出すというのか――。
「そんなの……もう済んだ話じゃない。私本人が『違う』って言ってるんだから、絶対違うのよ」
「潮さんは頑なに否定しますけど、……これ、言っていいのかな……。
潮さんがソマさんと八女さん、青柳チーフと話してる時、とても優しい表情になってる瞬間があるんですよ。
優しくて、まるでたんぽぽの花が咲いてるような気持ちにさせる、とても穏やかな顔です。時折口元に手を当てて、唇に弧を描いて……。
声に出して笑っているんじゃない。けど、そんな表情にならざるを得ない、温かい気持ちでいるのが十分伝わってくる。……そんな顔を」
してました、と不破犬君は締め括った。私は呆気にとられる。
「……たまに私が笑ってたって言うの……?」
「本当に気付いてなかったんですね」
彼は苦笑した。
「でも……今にして思えば、あれは伊神さんのことを話題にしていた瞬間だったのかな……。ね、潮さん」
そのことばに私は目を瞠った。突拍子もないデタラメ推理だったからではない。その指摘に心当たりがあったからだ。
その3人の前では伊神さんの話題を出すことが出来た。
自分ではどんな顔で話していたかなんて気にも留めていなかった。
恐らく素の反応をしていたのだろう。不破犬君が言うように、そんな表情にならざるを得ない、自然な反応を。
「その時はただ単に、『3人には心を許していて、だから彼らには笑顔を見せるんだな』って遠目から見てて思ってたんですけど……。
そうじゃなかったんですね。本当は、『その3人には伊神さんのことを話せるから笑顔になってた』んですね」
「……」
「思い当たる節はありますか?」
「私……そんな顔してたの? ちゃんと笑えてたの……?」
「えぇ。本当に綺麗でしたよ。……僕にとっては悔しいシーンでしたけどね」
あんな別れ方をしてから、何があっても心の底から笑えることなどないと思っていた。
伊神さんがいなければ楽しいことなんて何も起こらない、素直に喜べないと。
自分では、なんて仏頂面で愛想がない女になってしまったのかと落ち込んだりもした。
未来に向けて歩き出せる可能性なんて、とっくの昔に諦めていたはずだった。
でも……違ったのか。私を見ていてくれたひとが言うのだから、そうなのだろう。
(私の隣りに伊神さんはいない。それでも伊神さんの話題を通じて、心が穏やかになれる瞬間を味わうことが出来ていたんだ……!)
その事実に気付かせてくれる人がいたことが嬉しかった。それが例え普段口喧嘩をしている相手だったとしても。
私の怒りと反発を食らいながらもお構いなしに本心を探り続け、真実を引き出してくれた、不破犬君の力強い忍耐力に甚く感謝した。
不破犬君に出会わなければ、今も尚思い返したくない都築との出来事を頭の中で再演し続け、悲しみに囚われたままだったろう。
「私……そっか」
ちゃんと血が通った人間でいられたのだと分かって安堵し、ずっと張り詰めていた余計な力が全身から抜け落ちていくような気がした。
「……ごめん。でも……ありがとう……」
不破犬君に対し、謝罪しなければならないこと。お礼しなければならないこと。1つ1つ列挙してたらキリがない。
その結果、『ごめん』と『ありがとう』だけになってしまった。
「僕の方こそ、話を聞かせてくださりありがとうございました」
穏やかな声に加え、とても優しい顔つきだった。
ふと、伊神さんもそんな風だったなと懐かしさが込み上げる。
(……そんなことを言えば一転、不機嫌に逆戻りしちゃうんだろうけど。……でも感謝してるんだよ、本当に)
頬を伝う涙が熱かった。この涙が出尽くせば、心ごと浄化されるような気がした。
その滴を、不破犬君の人差し指が拭い取る。
「……!」
心臓が高鳴った気がしたけれど、いまは単に、感情が昂っているからだと思うことにした。


2019.05.10
2025.03.17


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