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(カモメ)その事件とは、沈没した後、ジーン・ニコレットの生存者が海を救命ボートで浮かんでいた時、それを狙って、伊八号潜水艦は機銃掃射を行ったのです。(ウツボ)戦後、東京裁判で、この事件で起訴された豊田副武連合艦隊司令長官は、そのような命令は出していない。伊八号潜水艦長の独断命令によるものだと答弁している。(カモメ)この事件については、「幻の潜水空母」(佐藤次男・図書出版社)にも、詳しく記載されていますね。(ウツボ)そうだね。井浦祥二郎大佐の記述とは一部異なり、意外な内容なのだが、「幻の潜水空母」によると、南方戦線の疲れを癒す間もなく、潜水空母部隊、第一潜水隊の最高指揮官という大任を受けた有泉大佐は翌朝も酒を存分に飲んだそうだ。(カモメ)そうですね。当日は呉の第六艦隊司令部に出なければならなかったのです。(ウツボ)だが、酔いすぎて千鳥足でふらついていた。駅の改札口では、もたれかかってしまうほどで、まつ夫人がようやく支えて送り出した。(カモメ)実はその頃、伊八号潜水艦の国際法違反事件が問題となっていたのですね。昭和十九年七月二日、有泉中佐が艦長を勤める伊八はインド洋チャゴス諸島東方で米国商船「ニコレット」を撃沈しました。(ウツボ)この本では、ニコレットを米国商船としている。一方、「潜水艦隊」(井浦祥二郎・朝日ソノラマ)によると、軍艦となっている。実際は、ニコレットは米国海軍の艦船だったが、戦闘艦ではなかったようだ。(カモメ)そのとき海上に浮かんでいるニコレットの乗組員(非戦闘員)数名を、伊八の甲板に拾い上げ、撲殺させたといわれている事件です。(ウツボ)米国はこれを国際法上の問題とし、中立国スイスを通じて、日本に対して、再三に渡って、抗議の問い合わせを行っていた。(カモメ)これは、昭和十八年九月、第八潜水戦隊司令官・市岡寿少将が、東京の軍令部首脳より「ドイツのリッペントロップ外相から日本に対して、連合国の商船を撃沈した場合、乗組員も全滅させてもらいたいという申し入れがあり、海軍も同意した。貴官もそのつもりでやってもらいたい」と言われていたのですね。(ウツボ)そうだね。リッペントロップの申し入れの趣旨は、敵の乗組員を見逃すと、また、再び、他の船に乗り組んで、敵対行為に移るというものだった。(カモメ)乗組員がいなくなれば、連合軍がいくら船を造っても動かすことは出来ないということですね。(ウツボ)そういうことだね。従って、前線の日本潜水艦は大体この考え方にそっていた。有泉艦長の伊八もこの状況により、米国艦船「ニコレット」の乗組員に対して、あのような措置をとったと考えられる。(カモメ)だから、米国からの抗議の問い合わせに、当初、海軍省軍務局では、問題にしなかったのです。(ウツボ)だが、問い合わせが執拗に続いたため、軍務局は有泉中佐に事情を聞いた。そのとき、有泉中佐は怒って横を向き、黙ったまま一言も語らなかったという。(カモメ)有泉大佐の自決の背景には、このような状況があったのですね。(ウツボ)そうだね。終戦後戦犯に指定される可能性があった。(カモメ)ところで、軍艦旗を降ろした伊四〇一が相模湾に入ると、米海軍が乗り込んできました。彼らは経線儀、双眼鏡、砂時計、などを記念品として持って行ったそうです。また不要になった軍服や襟章なども争って持ち去ったそうです。(ウツボ)米兵にとっては、戦利品のつもりだろうが、とにかく相当数が米国に持ち去られている。(カモメ)さらに、それぞれ乗組みの海軍軍人が所有していた日本刀や軍刀は全て提出させられ、蒔きのように抱えられて持ち去られたということです。(ウツボ)やがて伊四〇一が横須賀港内の米国潜水母艦プロテウスに横付けした時は、すでに伊一四、伊四〇〇も横付けしていた。(カモメ)前述しましたように、伊四〇〇は八月二十九日午後、金華山沖で米軍哨戒機に発見され、まもなく米国駆逐艦ブルーが東京の北東五〇〇海里の地点で触接、三十一日に相模湾に入った訳ですね。(ウツボ)そうだね。一方、伊一四は八月二十七日、米国駆逐艦ムアライにより捕捉され、二十九日、相模湾に入った。(カモメ)「伊号潜水艦」(学習研究社)によると、終戦直後、昭和二十年八月三十日、横須賀には、潜水空母の伊四〇一、伊四〇〇、伊一四の三隻が並んで係留されました(伊一三は米軍により撃沈された)。(ウツボ)米軍により撮影されたこの三隻の映画と写真が現在残っている。「伊号潜水艦」(学習研究社)には米国の潜水母艦プロテウスに三隻並んで横付けした写真が掲載してある。(カモメ)巨大潜水艦である潜水空母の外観や内部の写真が全部で三十枚位、大きく載っていますね。(ウツボ)そうだね。潜水母艦プロテウスから写したと思われる写真だね。この潜水空母の甲板上には、日本の乗組員に混じって米軍の士官や水平が一緒に乗っているが、この巨大潜水艦に驚いた様子で興味深く観察している。(カモメ)南部艦長ら伊四〇一の全乗組員は、私有品を持って横須賀潜水艦基地隊に上陸しましたが、そこに監禁され、交代で艦の整備に当たるとともに、米兵に操縦法を教えました。(ウツボ)「潜水艦大作戦」(新人物王来社)によると、第一潜水隊司令・有泉大佐は南部艦長らにより、水葬に付された。ところが、日本を占領した米軍当局の戦争犯罪追及者はそうは考えなかった。(カモメ)有泉大佐は自らが戦犯として追及されるのが分かっているので、それを逃れるために逃亡したのではないかと米軍当局は追求したのですね。(ウツボ)そうだね。そして、米軍当局は伊四〇一の乗組員はその逃亡を隠匿、援助しているのではないかと疑った。事実陸軍の辻政信大佐のように、戦犯の追及から逃れて、後日「潜行三千里」などの本を出版した者がいたし、その逃亡を援助した者もいたから。(カモメ)こうしたことから、伊四〇一の乗組士官は米第八軍司令部に拘禁されたのです。そして連日、取調べを受けました。米第八軍司令部は当時丸の内の明治生命ビルにありましたので、そこに閉じ込められたのです。だが、結局、調査が進むと、誤解は解けて、全員釈放されました。(ウツボ)伊四〇〇、伊四〇一、伊一四は米軍により、本国に回航、調査の後、伊四〇〇は昭和二十一年六月四日、伊四〇一は同年五月三十一日、伊一四は同年五月二十八日、ハワイ沖で米軍の魚雷により沈められた。(カモメ)そのほかの潜水空母ですが、伊四〇二は終戦直前の七月二十四日に竣工しましたが、そのまま終戦を迎え、二十一年四月一日、佐世保港外で爆沈処分されました。伊四〇三は建造中止されました。(ウツボ)伊四〇四は呉で建造、昭和十九年七月七日進水後、未完成のまま終戦となり、解体された。昭和十九年九月二十九日に起工された伊四〇五も建造中止され、解体された。(カモメ)開戦初期からの日本海軍の夢であった、潜水艦と飛行機を一体化した潜水空母の歴史は、こうして敵に一撃も加えることなく幕を閉じました。(ウツボ)だが、日本海軍がいかに高度な潜水艦の設計および建造技術を持っていたかを誇るシンボルとして、この日本の巨大な伊四〇〇型潜水空母は、世界の潜水艦史に、その名を残した。(カモメ)なお、伊四〇一の艦長、南部伸清少佐は、戦後海上自衛隊に入隊し、昭和三十八年、海将補に昇進、昭和四十年退職しています。(ウツボ)南部伸清少佐は兵学校六十一期で「どん亀艦長青春期」「あゝ伊号潜水艦」の著者、板倉光馬中佐と同期だね。(カモメ)二人とも、若い士官にもかかわらず、太平洋戦争中は潜水艦長として活躍した人ですね。(ウツボ)活躍したというより、艱難辛苦を乗り越えたと言うべきでしょうね。(今回で「潜水空母・伊401」は終わりです。次回からは「沖縄玉砕戦」が始まります)
2009.09.04
(カモメ)坂東航海長の報告が終わると、セガンドの米軍士官は「横須賀に回航せよ」と言いました。だが、なぜか、有泉司令はこれに頑固に反対したのです。「われわれは天皇の命により、大湊に回航しなければならない」と。(ウツボ)すると米軍士官は「天皇はマッカーサー将軍に降伏したのであるから、マッカーサー将軍の命令に従うべきである」と言った。この米軍士官のほうが正論だった訳だ。(カモメ)結局、伊四〇一は横須賀に回航することに決まったのです。南部艦長はその米軍士官が帰艦するとき、サントリーの角瓶を一本やったのです。そのあと、米国潜水艦セガンドから下士官一名を含む五名が監視員として乗艦してきました。(ウツボ)逆に、坂東航海長は再びセガンドに戻り、乗り移った。ジョンソン艦長とは、最初は敵意があって固かったが、話し合ううちに打ち解けてきた。(カモメ)交渉は円滑に進みました。最後にジョンソン艦長は「横須賀まで、連絡将校としてセガンドに乗って行かないか」と坂東航海長を誘った。横須賀に入港すると、ジョンソン艦長は記念にと坂東航海長にライターを贈りました。(ウツボ)実は、米国の戦史家M・C・ロバーツによると、当時、東京の日本海軍司令部はハルゼイ提督にメッセージを送って「伊四〇一は危険であるから、米国艦船を接近させないでほしい」と伝えていた。(カモメ)それで、米国側は、伊四〇一を腫れ物に触るような扱いをしていたのですね。(ウツボ)そうだね。こうして伊四〇一は米国潜水艦セガンドに見守られながら横須賀に向った。艦は敵の手に渡るのだから、艦内を清掃して、いつでも引き渡せるようにした。南部艦長自身も私有品で没収されて困るものはすべて海中に投棄した。(カモメ)いよいよ明日八月三十一日は横須賀入港という日。その夜はなんとなく異様な空気が艦内にみなぎったのです。敗戦、降伏という日本の歴史にない悔しさと屈辱感、その反面、生きて帰れたという安堵感、そして明日の運命を予測できない焦燥感、そんなものが暑い艦内を渦巻いていました。(ウツボ)米潜水艦セガンドは、相変わらずピタリとついてくる。魚雷発射準備は完了して、何かあったら撃沈するつもりに違いなかった。(カモメ)アメリカ兵の監視員は艦橋の後部に陣取って、動こうともせず警戒していました。「それほど緊張して警戒しなくても、われわれは危害を加えたり、艦を沈めたりしないのに」と、南部艦長はおかしく思ったそうです。(ウツボ)南部艦長はまる二日眠っていなかったが、その夜、落ち着かない気持ちのまま艦橋に立った。すると有泉司令が、下の機銃甲板に立って、暗黒の海を見つめていた。(カモメ)その心に去来するものは何だったのでしょうか。無念さでしょうか。(ウツボ)ほぼ一年間、この潜水空母と晴嵐攻撃機の育成に粉骨砕身してきた有泉司令の無念さは想像に絶するものがあったことは確かだ。(カモメ)八月三十一日の明け方、南部艦長は艦長室でうとうとしていました。すると突然異様な音がしたのです。とっさに隣の司令室に飛び込みました。(ウツボ)司令室には、硝煙の匂いが立ち込め、おびただしい血が飛び散っていた。有泉司令は第三種軍装に威儀を正し、みごとに自決していた。帯勲して左手に軍刀、右手に拳銃を握って銃口を口にくわえて、引き金を引いていた。(カモメ)時刻は午前四時二十分でした。机の上にはハワイ九軍神の写真が飾ってあり、その前に供えるように三通の遺書がありました。一通は南部艦長宛、一通は海軍宛、もう一通は家族宛でした。(ウツボ)南部艦長宛ての遺書には次の様に書かれていた。(カモメ)読んでみます。「太平洋なくしては独立も存続もかなわぬ日本である。小生は将来の日本の再建と発展をこの太平洋の海底からいつまでも見守っている」(ウツボ)次を読むよ。「われわれが最も誇りとする軍艦旗とともに、小生は太平洋の底深く身を沈めることを光栄とする。午前五時には星条旗の掲揚を余儀なくされたが、それを見るに忍びない」(カモメ)南部艦長は、この三通の遺書に目を通した後、米軍に知られないように水葬を命じました。有泉司令の遺体は毛布に包まれ、バラストが入れられ、軍艦旗で巻かれました。軍医長は死体検案書を書きましたね。(ウツボ)そうだね。前部二番ハッチを開いて、艦橋後部にいるアメリカ兵の監視員の目を盗み、遺体を上部構造物のすきまから水葬した。(カモメ)終戦後、「潜水艦隊」(井浦祥二郎・朝日ソノラマ)の著者、井浦大佐宛にも有泉大佐の遺書が届きました。その遺書には、日本海軍を思う切々たる文章が書き連ねてあったそうです。(ウツボ)そして最後に、「祖国の敗戦によって、自己の生命をこの世に永らえることは、無意味なるが故に、自刃する」旨が記してあった。(カモメ)有泉司令と長い間の親友だった井浦大佐はその遺書を読んで、男泣きに涙を絞りました。有泉司令と井浦大佐は兵学校五一期の同期でした。海軍大学校は、有泉司令は三五期、井浦大佐は三三期でしたが。(ウツボ)「潜水艦隊」(井浦祥二郎・朝日ソノラマ)によると、実は、有泉司令の自決の原因と考えられるのが、機銃掃射事件ということだ。昭和十九年七月、当時、有泉艦長の伊八号潜水艦が、インド洋でアメリカの軍艦ジーン・ニコレットを撃沈した。そのときに起こった事件だ。
2009.08.28
(ウツボ)米海軍の潜水母艦プロテウスでは、ヒラム・カセディ中佐を隊長にして士官四名、兵員四十名からなるチームを編成した。チームは護衛駆逐艦ウィーバーで発見地点に向った。(カモメ)途中出会ったのは米国駆逐艦マーレイに護衛された日本潜水艦、伊一四でした。(ウツボ)マーレイには潜水艦経験者がいなかったので、伊一四乗組員四十名をマーレイに乗せ人質にとって、残りの日本人乗組員により、東京湾に回航する途中だった。(カモメ)護衛駆逐艦ウィーバーは、八月三十日朝、相模湾から二百海里の地点で、ついに日本の巨大潜水艦、伊四〇〇に接触しました。(ウツボ)伊四〇〇に対しては、すでに、米海軍の駆逐艦ブルーが護衛していた。(カモメ)そうですね。ウィーバーの移乗班が直ちに日本潜水艦に乗り組み、デッキ下の魚雷や爆弾が降伏条件通りに処理されているか確かめた後、全バルブをロックして潜航できないようにしました。(ウツボ)そして伊四〇〇潜水艦の日下艦長に対して、命令に従うことを約束させ、軍艦旗を降ろし、星条旗をマストに掲揚した。(カモメ)このとき、日下艦長の目には涙があふれていたそうです。(ウツボ)くやしかったのだろうね。そういう状況での気持ちは、我々は、少しは推し量れるね。(カモメ)そうですね。星条旗を破り裂いてやろうかと思ったでしょうね。(ウツボ)ところで、伊四〇一の話に戻ろう。伊四〇一に対しては、八月三十日、米国潜水艦セガンドが現れ、接近してきた。(カモメ)セガンドは近寄ってきて国際信号を掲げたのです。国際信号の意味は「停戦せよ」でした。(ウツボ)そこで南部艦長は巨大な潜水空母伊四〇一を停止させた。その日、海面は静かだったが、緊張は極度に達していた。(カモメ)再び国際信号が上がりました。「降伏せよ」でした。次に「士官一名を派遣せよ」ときた。南部艦長は誰もやりたくなかったから「われボートなし」と返事をした。すると、米国潜水艦セガンドは「われボート送る」ときた。(ウツボ)このとき、伊四〇一の艦橋には、有泉司令、南部艦長、先任将校・伊藤年典大尉、坂東宗雄航海長、片山通信長らがいた。協議の上、仕方なしに航海長の坂東大尉(海兵七〇)を軍師として出すことにした。(カモメ)そうですね。有泉司令は坂東航海長に「ご苦労だが、敵潜に行ってくれないか。いずれ俺たちも生きるつもりもない。君も敵中どうなるか分からないが、最後のご奉公だと思って行ってくれ」と言ったのです。(ウツボ)日本海軍では、このような場合、渉外事項は部署規定で航海長の役割になっていた。だが、ひょっとすると、坂東航海長は殺されるかもしれない。その可能性も皆の頭をよぎった。だから当然のことではあったのだが、有泉司令は、頭を下げんばかりにこの重大任務を頼んだ。坂東航海長は「承知しました」と意気に感じて引き受けた。(カモメ)やがて米国潜水艦セガンドから迎えのボートが来て、坂東航海長はそのボートに乗り、セガンドに向いました。(ウツボ)敵潜に向っている時、坂東航海長の心境は「今自分は単身敵艦に乗り込むが、乗組員一同の運命は自分の双肩にある。犬死だけはさせたくない。交渉が決裂すれば死である。その時は敵艦長に鉄拳のひとつも見舞って死にたい」というものだった。(カモメ)やがて坂東航海長は米国潜水艦セガンドに到着し、乗り移りました。彼は艦橋に導かれました。すると、艦橋で待っていたセガンドの潜水艦長は、坂東航海長に突然、握手を求めたのです。それから「降伏せよ」と言ったのです。(ウツボ)これに対し坂東航海長は「日本の海軍精神は天皇陛下の命令なくしては絶対に降伏しない。もし貴官が我々に降伏することを強制するならば、我が潜水艦をよく見ていてください。甲板上で壮烈な自決をして見せましょう」と答えた。(カモメ)これには、米国潜水艦長は驚きました。米国潜水艦長は「ハラキリ、ノーグッド」と叫びました。そして「自決されると責任上困る。戦争はすでに終わり、円満に終戦処理が行われている。自決は無駄である。思いとどまるよう説得してもらいたい」と真剣に坂東航海長に言った。(ウツボ)この米国潜水艦セガンドの艦長はS・L・ジョンソン少佐だった。ジョンソン少佐は、アナポリス海軍兵学校出身で、当時二十七、八歳だった。開戦の数年前、日本の海軍兵学校の卒業生がアナポリスに立ち寄って交歓したこともあり、ジョンソン少佐は日本に非常に親近感を持っていた。(カモメ)そしてジョンソン艦長は、柔らかな調子で「グアムの米太平洋艦隊基地まで同道してもらいたい」と言ったのです。(ウツボ)これに対して、坂東航海長はまずいことになったと思って、「燃料が少なくて、とてもグアムまでは無理である。せいぜい横須賀くらいまでである」と答えた。すると、ジョンソン艦長は旗艦の指示を求め始めた。(カモメ)このとき、伊四〇一から手旗信号で「わが艦を速やかに撃沈せよと伝えられたし」と言ってきたので、坂東航海長は「話し合い中につき、しばらく待て」と返事しました。(ウツボ)坂東航海長は白紙委任されて決死の覚悟で来ているのに、交渉の結果も分からないうちに「撃沈せよ」とは何のための交渉かと腹立たしく思った。(カモメ)これは、交渉に手間取っていることに不安と焦燥にかられた有泉司令が手旗信号を送らせたのですね。(ウツボ)そうだね。また、交渉の間、有泉司令は自沈のためか「キングストン弁を開け」と命令したりした。それで、乗員は混乱に陥った。(カモメ)そうですね。この有泉司令の号令に対して、艦内の乗員は拳銃を用意したそうです。南部艦長はこの命令を阻止しました。艦の命令権は艦長にあるのですから。それでなんとか、艦内も正常にもどりました。(ウツボ)やがてジョンソン艦長は「横須賀まで同道してもらいたい。それまで監視および連絡のため士官他数名を伊四〇一に派遣する」と坂東航海長に言った。(カモメ)それで、坂東航海長は米国潜水艦の士官と一緒にゴムボートで帰ってきたのです。坂東航海長は交渉の経過を有泉司令や南部艦長らに報告しました。(ウツボ)だが、有泉司令は、思いつめた様子だった。
2009.08.21
(カモメ)有泉司令は衝撃的な提案を士官全員に提案しました。それは「自沈すれば賠償金などで、それだけ日本国民に負担をかけることになり、申し訳がないから、全員自決すべきと思うがどうか」というものでした。(ウツボ)全員自決とはすごい提案だね。(カモメ)だが、「自決するにしても拳銃は全部で六挺しかない。准士官以上は軍刀をもっているが、見苦しい人が出たのでは具合が悪い」「乗組員は二百名もいるから立派な自決ができそうにもない。だからこの際は自沈しましょう」などと言い出す士官もいて、反対論が出たのです。(ウツボ)有泉司令の提案は保留の形になった。一方、この会議では、「内地に帰れば、軍人は全て戦犯として処刑されるか、捕虜となるかもしれない。とにかく内地に帰るにしても、三陸沿岸か北海道に入港、米軍の目にふれないように解散して行方をくらますべきである」という意見も出た。(カモメ)そんな中で、航海長の坂東大尉は「命令どおり内地に帰投すべきである」と強く主張しました。彼が新婚早々であったという理由だけでなく、これは正論であり、皆この常識的意見を支持したのです。それで一応は、内地に帰投することに意見が決しました。(ウツボ)この頃、内地の晴嵐の六三一航空隊基地でも、混乱が起こっていた。搭乗員の竹内少尉、若狭少尉ら若手将校が「内火艇を用意し、武器、弾薬、糧食など積めるだけ積んで海賊になり、朝鮮海峡で暴れまわろう」と意気巻いていた。(カモメ)また、「今更おめおめと復員できない」と山本大尉が中心となり、内火艇に糧食などを積み込んで瀬戸内海の小島に立てこもり、糧食が尽きるまで約一ヶ月間頑張りました。(ウツボ)整備分隊では、酒の入った整備分隊長が先任下士官に対し「今から腹を切るから、お前介錯しろ」と言い出し、先任下士官を大慌てさせた。(カモメ)そうですね。ところが、その切腹するはずだった分隊長は翌日、広島の実家がやられたからと、トラックに天幕や物資を積んで逃げるように帰っていきました。(ウツボ)また、整備分隊の下士官二名が、日本刀を抜いて、日頃面白く思っていなかった整備兵曹長を探し回るという一幕もあった。(カモメ)内地の晴嵐の航空基地でも混乱が起きていたのですね。海上の伊四〇一に戻ります。結局、伊四〇一は鉄拳を振り上げたまま、内地に帰還しなければならなくなったのです。艦内は騒然としていました。(ウツボ)乗員たちは有泉司令や南部艦長の言動に注意を払っていた。戦死はなくなったが、別の意味で死への不安があったのだね。(カモメ)なにしろ有泉司令は全員自決を主張したのですからね。一方、飛行機搭乗員は万死に一生も無い精神の緊張を一挙に解かれ、安堵というよりは虚脱感に包まれていました。(ウツボ)八月二十四日ごろ、内地が近くなった。伊四〇一は昼夜を問わず水上航走を行った。八月二十五日、陸海軍人に対する二度目の「復員」の勅語を受信した。米内光政海軍大臣の「解員」の訓示も受信した。(カモメ)そこで南部艦長は司令塔に訓示を掲示しました。もはや心は定まったのですね。有終の美をなすために全力を尽くせと説いたのです。そして最後に一首の短歌を示しました。「この恥辱わが子に孫に語り継ぎ生きて祖国の礎となれ」。(ウツボ)その夜、南部艦長は以前からたくわえていたひげを落とした。八月二十六日、内地に向う艦船は一切の武器を捨て、マストの上に黒球と黒の三角旗を掲揚せよと指令してきた。(カモメ)黒色三角旗は国際旗信号の規定で「われに降伏の用意あり」という意味を表す降伏旗ですね。(ウツボ)そうだね。伊四〇一では魚雷と飛行機をのぞいて、いっさいの武器、弾薬、暗号書など秘密書類を海中に投棄した。その後、攻撃機晴嵐と魚雷を発射、投棄した。晴嵐は翼をたたんだまま、捨てられるのを悲しむようにカタパルトから去っていった。しばらく浮いていたが、やがて沈み始め消えていった。(カモメ)三機目を射出する時、船田隊飛行長か浅村飛行長か、他の誰かかも分からないが、万歳の声が上がりました。このような悲壮な万歳はあまり聞かれなかったということです。(ウツボ)魚雷も八十番爆弾も発射管から射出投棄した。だがこのような作業をしながら、皆、敗戦、降伏とはどんなものなのか、不安があった。内地はいったいどうなっているのか。(カモメ)その頃米海軍では、東京湾内の戦艦ミズリー号で日本の降伏文書調印式を数日後の「九月二日」に控え、停戦処理を円滑に進めるため、まだ太平洋上にいる日本の潜水艦を求めて空と海から全力で捜索を行っていました。(ウツボ)八月二十九日夕刻、日本列島沿岸を哨戒中の米軍パイロットは、ゆっくりと北上している黒い物体を発見した。(カモメ)鯨にしては大きすぎたので旋回しながら高度を下げると、それは潜水艦にしては大きすぎるほどの異様な物体だったので、パイロットは唖然としました。信じがたいものを見た感じだった。(ウツボ)だが、まもなく、それは紛れもなく日本潜水艦であり、世界最大と思われるほどの驚異的な潜水艦であることがはっきりした。巨大潜水空母、伊四〇〇だった。(カモメ)パイロットは直ちに「降伏旗をつけた日本潜水艦を発見」と打電し、この報告電報は東京湾に向け航行中の米海軍の潜水母艦プロテウスが受信したのです。
2009.08.14
(カモメ)浅村飛行長は搭乗員の感が狂うことを恐れて、夜は交替で艦橋の見張りに立たせたり、ときには格納筒に入って操縦席に座らせ、」飛行機操縦の手順を繰り返させたりしていました。(ウツボ)だが、八月六日には広島に原爆が落とされ、八月九日、ソ連が対日参戦をし、長崎に第二の原爆が投下された。(カモメ)このような状況の中、八月十四日、伊四〇一は定められた配備点に到着し、ポナペ島の南方一〇〇マイルの地点に浮上したのです。ウルシー泊地に在泊中の敵空母を攻撃するべく準備にとりかかりました。(ウツボ)ここの第一会合地点で伊四〇一は伊四〇〇と会合し、作戦上の打ち合わせを行い、再び西進し、八月十七日の午前三時、ウルシー環礁の南方海面で再会合、最終打ち合わせをした後、六機の攻撃機を発進して、奇襲攻撃を敢行する手はずになっていた訳だ。(カモメ)ところが、この地点では伊四〇〇を発見することはできなかったのです。そこで伊四〇一は第二会合地点であるウルシー環礁の南方海面へと向いました。(ウツボ)ところが伊四〇〇は、十四日にはすでにウルシー環礁の南方海面に来ており、味方識別信号のレーダー波を受ける態勢をとって伊四〇一を待っていたが、受け取ることができなかったので、十五日天明とともに潜航した。(カモメ)両艦の会合打ち合わせが食い違っていたのですね。(ウツボ)そうだね。これは伊四〇一が予定の航路を変更したので、最初の会合方法の変更を命令する電報を伊四〇〇に打ったのだが、それが伝わらなかったのだ。(カモメ)このことについて、伊四〇一の南部艦長は次の様に戦後話しています。(ウツボ)読んでみるよ。「こっちから打ったコース変更の電報が不達だったということです。こんなことは考えられないんですがね。もっとも、よく考えて見ると、会合点変更の電報を打ったという記憶がどうゆうわけか私にはないのですよ」(カモメ)続けて読みます。「ひょっとすると、打たなかったのかも知れません。しかし、有泉司令は打ったと言っていましたけどね。その辺のことはちょっとわからない」(ウツボ)一方、伊四〇〇の日下艦長は戦後次の様に語っているんだ。(カモメ)読みます。「伊四〇一は会合点をポナペ島の南百海里に変更し、伊四〇〇に変更の指令を出したそうですが、伊四〇〇はこの電報を受信していません。したがって伊四〇〇は最初に決められた会合点に直航していました」(ウツボ)続けて読みます。「こんな大きな手違いで、両艦とも大変心配したわけですが、私は終戦後、横須賀に入港してはじめて会合点の変更を知りました」(カモメ)伊四〇〇を発見できなかった伊四〇一は、ひょっとすると、伊四〇〇は撃沈されたのかもしれないと思ったのです。それで伊四〇一単独で、ウルシー攻撃を行おうと決意したのです。(ウツボ)ところが、伊四〇一は、サンフランシスコのラジオ放送を傍受し、通信長の片山伍一大尉が南部艦長に報告してきた。その内容がどうもおかしかった。というのは「日本、降伏近し」との情報が多かった。(カモメ)しかし南部艦長は巧妙に仕組まれた宣伝であると判断したのです。有泉司令も黙って艦長の意見に同意しました。しかし、狭い艦内のことなので、乗員は、浮上して電信員が当直に立つと、電信室に集まって情報を聞きたがったのです。(ウツボ)十五日の明け方になっても伊四〇〇と会合することはできなかった。ともかく、浮上すると情報は混乱していた。どの情報が正しく、どの情報が正しくないのか、判断しようがなかった。(カモメ)ところが、八月十五日、天皇陛下の詔勅の電報が入ってきたのです。日本が降伏したということらしい。しかし南部艦長は詔勅の「堪え難たきを堪え、忍び難きを忍び」というところまで読み進んだとき、あまりの意外さに「これはデマだ、こんな馬鹿なことがあるものか、乗員に絶対に知らせてはならぬ」と怒鳴るように叫び、次を読むことができなかったそうです。(ウツボ)それは無理はないね。前日まで決死の覚悟でウルシー攻撃を行おうとしていたのだから。(カモメ)その後十五日から十六日にかけて、海軍総隊司令長官から命令電報が入りました。「即時戦闘行動停止せしむべし」。(ウツボ)先遣部隊指揮官からは「第一潜水隊各艦は作戦行動を取り止め呉に帰投せよ」と入電したんだね。(カモメ)これで、もはや日本の敗戦は確実に思われたのですね。しかし、このような場合、どのように対処すべきか、南部艦長にとって、これは教えられたことも考えたこともない命題だったのです。(ウツボ)しかし、一方で南部艦長の頭を去来したものは、もう戦死という重圧から解放されたという詠嘆的な感動とともに、正直ホッとしたというのが、卑怯だとたとえ人が言おうとも、偽りのない実感だった。(カモメ)伊四〇一の士官室では有泉司令、南部艦長を囲んで会議が開かれました。(ウツボ)そうだね。会議では、「爆撃機三機、魚雷二十本、砲弾、機銃弾満載、三か月分の糧食を積んでいるこの潜水艦で、海賊船となって暴れまわったらどうだろう」という驚くべき主張や、「日本帝国が降伏というこの時期に、おめおめと内地には帰れない。自沈すべきだ」とかいう意見も出た。(カモメ)だけど有泉司令は自沈を認めなかったですね。(ウツボ)そうだね。だが、有泉司令はもっと衝撃的な提案をした。
2009.08.07
(カモメ)晴嵐攻撃隊十二名の搭乗員は、伊四〇一搭乗が、一番機が浅村大尉と廣野少尉、二番機が高橋上飛曹と野呂上飛曹、三番機が津田上飛曹と谷口上飛曹でした。(ウツボ)伊四〇〇搭乗が、一番機が高橋少尉と吉峰大尉、二番機が渡辺上飛曹と島岡飛曹長、三番機が奥山上飛曹と渡辺上飛曹だった。(カモメ)ウルシー攻撃隊は神龍特別攻撃隊と呼ばれました。これは有泉龍之助司令の一字をとったもので、司令自ら名づけたのですが、正式の艦隊命令には認められていなかったのです。(ウツボ)暗黙の了解があったようだ。有泉司令も南部艦長もこの作戦を特攻であると正式に命じたものではなかった。だが伊四〇一の飛行長・浅村敦大尉や伊四〇〇の飛行長・吉峰徹大尉らは特攻と思っていた。(カモメ)そうですね。浅村大尉は戦後、「パナマ運河の図上演習のころから、搭乗員は少なくとも私は特攻であることを心中に誓って、動揺がなかった」と語っています。(ウツボ)壮行会を終えて、醍醐忠重中将ら三人は汽車で帰途についた。汽車は秩序も無く混乱していて、二等車、三等車の区別も無かった。窓から出入りする者もいた。(カモメ)海軍中将の軍服を着た醍醐司令長官の座席のひじ掛けに、尻をもってきて、断りひとつ言わず、平気の平左で腰掛ける労働者風の男もいたそうです。(ウツボ)そのとき、井浦大佐は祖国の運命も末期に近づいたことが感ぜられて、慨嘆に堪えなかったと記しているね。(カモメ)有泉司令の指揮する伊四〇一、伊四〇〇は昭和二十年七月二十日、舞鶴を出港、七月二十一日、大湊に入港しました。(ウツボ)ここで、搭載機晴嵐の塗り替え作業が行われた。晴嵐の塗り替えは、晴嵐を前甲板に引き出し、晴嵐の日の丸を米軍の「星」のマークに描き替えたのだ。(カモメ)さらに機体の色も米軍同様の銀色に塗り替えました。晴嵐を米軍機のように塗り替えたのです。その理由を浅村攻撃隊長は次の様に述べています。(ウツボ)読んでみよう。「ウルシー攻撃はやり直しのきかない千歳一遇の攻撃である。ウルシー突入の場合、恐らく上空には米の直衛戦闘機がいて襲われるに違いない」(カモメ)次を読みます。「たまたま、晴嵐はちょっと目にP51に似ていたが、P51は単座、晴嵐は複座なので直ぐ判別されるにしても、米機がいざ攻撃しようというとき、晴嵐の星のマークを見て、おやっと思って、一瞬たじろぐだろうということを期待した」(ウツボ)続けて読むよ。「そうすれば、この一瞬の隙に一機でも二機でも米艦に突入することができると考えた。やり方としては国際法上にも触れるし、卑怯な方法ではあった」(カモメ)最後を読みます。「だが、やり直しのきかない攻撃を何とか成功させたいという切羽詰った気持ちだった。末期的な攻撃法だったが、当時としては真剣だった」(ウツボ)それだけ、成功の確率が低いことを搭乗員は知っていた。(カモメ)また、伊四〇一の斉藤七郎信号長によると、この晴嵐の塗り替え作業中、大湊航空隊の飛行機が飛来し、潜水艦上空を旋回したので、整備員が機体に腹ばいになって「星」のマークを隠すなど、大慌てをしたということです。(ウツボ)七月二十三日、伊四〇〇が午後二時、伊四〇一が午後四時、大湊を出撃した。この大湊出撃の日時については二十二日説、二十三日説、二十四日説、二十六日説と様々ある。(カモメ)これは終戦で拿捕されたとき、各艦とも航海日誌を始め公私を問わず一切の書類、日記等を海中投棄したため、戦後は各人の記憶に頼るしかなかったため、諸説が出てきたのですね。(ウツボ)午前二時頃、闇夜だったが、伊四〇一の前方一〇〇〇メートルのところへ水柱が上がり、大きな音を聞いた。津軽海峡の東口をまだ出ていない地点だった。(カモメ)ただちに潜航したが、北海道側で閃光を見たという見張員がおり、見方打ちでした。北海道の海峡防備部隊だったと言われています。有泉司令は憤慨して、大湊に電報で抗議しました。(ウツボ)その後、伊四〇一と伊四〇〇は、敵機動部隊や船団に遭遇したが、任務達成までは極秘だったので、攻撃は行わなかった。(カモメ)その間、絶え間なく西へ西へと移動する連合軍の艦艇や航空機の大集団に遭遇し、そのものすごい量に圧倒され、日本の運命も予見されるように感じたそうです。(ウツボ)だが、南部艦長を含め、二〇四名の乗員は誰一人として日本の降服など思いもよらず、文字通り滅私奉公、会敵のため潜航時間が長くなり、進出が遅れるのを心配していた。
2009.07.31
(カモメ)ウルシー環礁はモグメグ島など二十余の小島からなる環の形をした珊瑚礁の島々ですね。ここは以前、日本の連合艦隊が前進泊地として利用したところですね。(ウツボ)昭和十九年十一月十七日、トラック島を飛び立った第七基地航空隊の三木琢磨大尉が高速偵察機彩雲を操縦して決死の偵察を行った結果、ウルシー環礁には米国の艦隊が碇泊していることが判明した。(カモメ)米国艦隊は、北部に戦艦三隻を含む艦艇約三十隻、中部に輸送船約百隻、南部に戦艦、空母を含む機動部隊約五十隻がいました。(ウツボ)この時点では、これらの艦船部隊は、フィリピン攻撃のため終結していた訳だ。(カモメ)そこで日本海軍は、このウルシー環礁に対して、人間魚雷回天が繰り返し特別攻撃を行ったのです。その結果、当時、大本営は戦果として空母三、戦艦二を撃沈と発表しました。(ウツボ)だが、戦後の米軍資料では「油送船ミシシネワ(二三〇〇〇トン)が爆発を起こし、機動部隊補給用の重油八五〇〇〇バレル、ディーゼル油九〇〇〇バレル、航空用ガソリン四〇五〇〇〇ガロンが燃え、巨大な炎と黒煙が上がり、あたり一面火の海となった」と記されており、空母、戦艦などは沈んでいなかった。(カモメ)そうですね。それが真実ですね。その後も回天攻撃は続けられたが、決定的な戦果は得られませんでした。このような状況を受けて、第一潜水隊のウルシー環礁攻撃案が浮上してきた訳です。(ウツボ)伊四〇〇と伊四〇一は晴嵐六機を搭載してウルシー環礁に在泊中の敵機動部隊に特攻攻撃を行うことになった。これを「嵐作戦」と呼んだ。(カモメ)だが、ウルシー攻撃のためには攻撃直前の偵察を必要としました。本土からの偵察はできない訳です。そこで南洋群島に孤立しているトラック島に、伊一三、伊一四が、高速艦上偵察機彩雲各二機を輸送し、同機でウルシー泊地の偵察を実施する。これを「光作戦」と呼びました。(ウツボ)作戦終了後、第一潜水隊の四艦は、シンガポールに回航することに決まった。(カモメ)このシンガポール行きについて、伊四〇〇先任将校兼水雷長・斉藤一好大尉は、舞鶴出撃の直前、連合艦隊司令部の渋谷潜水艦担当参謀から次の様に言われたのです。(ウツボ)読んでみよう。「帰ってきても内地には燃料がない。シンガポールに行け、燃料がたっぷりある。補給の続く限り攻撃を繰り返してほしい」(カモメ)遂にウルシー攻撃を敢行する事になりました。昭和二十年六月二十五日、海軍総体司令長官からウルシー攻撃の作戦命令が出されたのです。(ウツボ)七月十一日に伊一三が、七月十七日に伊一四が、それぞれ晴嵐用の格納庫に彩雲を二機積んでトラック島へ向けて大湊を出港した。(カモメ)ところが、そのころ、米機動部隊十三隻が北上し、七月十四日、十五日の両日にわたり、艦載機多数が東北、北海道を襲い、北海道では根室、釧路、室蘭、函館など、東北では青函連絡船(十一隻)をはじめ、八戸、三沢、石巻、気仙沼、秋田など、広範囲に熾烈な銃爆撃を加えたのです。(ウツボ)このため。不運にも伊一三は、この機動部隊の真ん中を航行する羽目になったのだね。(カモメ)そうですね。不運でしたね。七月十六日、米軍護衛空母アンツィオの艦載機と駆逐艦ローレンス・C・テイラーの攻撃により、伊一三は小笠原北東方の海中で撃沈され、艦長・大橋勝夫中佐(海兵五三)以下百四十名が戦死しました。(ウツボ)伊一四はこのような状況の中、昼は長時間潜航、夜は浮上して警戒航行の繰り返しでトラック島へ向った。(カモメ)七月三十日にはブラウン環礁とサイパン島を結ぶ線上で米国艦隊と遭遇、駆逐艦の執拗な攻撃を受けました。だが、伊一四は、八月四日、無事トラック島に着いたのです。(ウツボ)伊四〇一の南部艦長は出撃すれば、再び内地を見ることはあるまいと覚悟した。たぶんその間に内地は連合軍の上陸を迎えるかもしれない。(カモメ)南部艦長は家族にどうすればいいか、はっきり言う自信がなかったのですね。(ウツボ)そう。それで、見送りに来た妻に、南部艦長は、「そういう場合には山の中に逃げ込んで生き延びろ」とだけ言い、別れを告げたという。軍人の妻として覚悟はできていたということなのだろう。(カモメ)伊四〇〇と伊四〇一は昭和二十年七月十三日、最後の整備を完了するために舞鶴軍港に入港しました。(ウツボ)第六艦隊司令長官・醍醐忠重中将(侯爵)(海兵四〇)と首席参謀・井浦大佐、通信参謀・坂本文一少佐(海兵六〇)の三人は最後の作戦打ち合わせと、壮途を見送るために舞鶴に向った。(カモメ)そうですね。七月十九日、旅館「白糸」で壮行会が開かれたのです。醍醐長官から晴嵐搭乗員に渡される白鞘の短刀は、有泉司令が代行して受け取り、潜水艦に帰ってから各搭乗員に渡されました。(ウツボ)この白鞘の短刀は連合艦隊司令長官・小沢治三郎中将から醍醐長官が預かったものということだ。
2009.07.24
(カモメ)晴嵐のトラブルが多発したのですね。六月十三日、名古屋から空輸中の晴嵐一機が能登の山中に墜落、搭乗員二人が殉職しました。報告電報は次の通りです。(ウツボ)読んでみよう。「発・六三一空司令 宛・官軍大臣等 機密 一四〇八〇番田彩雲操縦員江上益男大尉(ヨヒ二五三一)偵察員飛行兵曹長木本久義(呉新准)十三日名古屋より七尾に晴嵐一機空輸中一〇二〇石川県鳳至郡三井村山林内に墜落、機体大破、搭乗員触衝により即死、当日天候曇、雲量一〇、雲高一五〇メートル、視界一〇キロ」。(カモメ)また、六月十九日、伊四〇〇と伊一四、伊四〇一と伊一三が相互に燃料補給訓練を行っていた時、岸康夫大尉と津田武司飛行兵曹の搭乗する晴嵐が行方不明になり、全艦出動して捜索したが、とうとう発見できなかったのです。(ウツボ)このほか不時着事故も何度かあり、その都度出動、捜索しなければならず、飛行機を全機搭載、発進できたのは、少なくとも伊四〇〇型では二、三回しかなかった。(カモメ)さらに晴嵐の生産が間に合わなかったのですね。「日本潜水艦史」(木俣滋郎・図書出版社)によると、晴嵐を作っている名古屋の愛知航空機が爆撃で破壊された上、昭和十九年十二月の東海地方の大地震で工場が破壊されたのです。(ウツボ)晴嵐の生産は事実上中絶状態に近かった訳だね。ところで、伊四〇〇型潜水艦は、戦艦大和と同様に、潜水艦の本体に覆いを被せるなどして極秘に建造され、進水後も擬装するなど、艦形を分からないようにしていたが、いつしか米軍の察知するところとなった。(カモメ)そうですね。それで、第一潜水隊が七尾湾に回航すると、七尾湾はB29により猛爆撃を受けました。また、付近海面には無数の機雷が投下されました。(ウツボ)この第一潜水隊が瀬戸内海から七尾に移って、米軍にとっては、本来なら作戦上全く戦略的意義のない、裏日本の新潟、伏木、仙崎などが意味不明の大空襲を受けた。(カモメ)第一潜水隊の待避港とみなされたのですね。このようなことから、訓練も順調には行かなかったが、なんとか、体制は整いました。有泉司令から軍令部の藤森参謀に「できた。そろった」と電話連絡がありました。(ウツボ)そこで藤森参謀は軍令部の定例会でパナマ運河爆砕の作戦計画とその成果予測を説明して決裁を貰おうと思った。(カモメ)定例会の出席者は、米内光政海軍大臣、豊田副武軍令部総長、大西瀧治郎軍令部次長、富岡定俊第一部長、黒島亀人第二部長らでした。(ウツボ)藤森参謀が詳細にパナマ運河爆砕計画の説明を行った。説明が終わるや否や、航空特攻の推進者だった大西軍令部次長が発言した。「中止しろ、間に合わん」。(カモメ)このとき、他の出席者からは発言がなく、異論もでなかったので、パナマ運河爆砕作戦の計画はこの一瞬にして消え去ったのです。(ウツボ)戦後、藤森参謀は大西次長のパナマ運河爆砕計画中止発言について次の様に語っている。(カモメ)読んでみます。「次長はこの時すでに戦争の終結の近いことや、終戦内閣・鈴木貫太郎内閣誕生の経緯を内々知っていたため、このような発言になったに違いない」(ウツボ)また、現実的にも、最初のパナマ運河攻撃作戦の出撃予定の六月には間に合わなくなった。パナマ運河攻撃は出撃してから一ヶ月を要するのだ。差し迫った現在の戦況から余り実施時期を延ばすことはできない。それで、パナマ運河攻撃は中止になったと考えられる。(カモメ)だが、有泉司令はパナマ運河攻撃計画の放棄をなかなか了承できなかったのです。上京して軍令部や艦隊と折衝しました。六月中旬、船田少佐は有泉司令に随行して、穴水を夜、出発しました。(ウツボ)空襲下の信越本線を真っ黒になって南下し、日吉防空壕内の軍令部に出頭して、有泉司令は訓練準備の状況を説明の上、パナマ運河攻撃決行を懇願した。だが、採用されなかった。(カモメ)強気の有泉司令も、ここにいたって、パナマ運河攻撃は無理と考え、計画は二転、三転しました。次に出た案が、サンフランシスコまたはロサンゼルスのいずれかを空爆する案ですね。(ウツボ)そうだね。潜水艦の搭載攻撃機で米本土に一矢をむくい、米国民の頭上に爆弾および焼夷弾をあびせ、帝国海軍潜水艦部隊の意気を米国民衆に知らせたかった。(カモメ)だが、この案も、差し迫った戦場を打開するのが先決問題であるという理由で海軍総隊司令部により却下されました。結局攻撃目標は、連合軍機動部隊の基地であるウルシー環礁に決定されたのです。(ウツボ)ウルシー環礁は北太平洋の南西に点在するカロリン諸島の一つで、東経一三九度四六分、北緯一〇度、ヤップの東北東、グアム島の南南西に位置する。パラオとグアムの中間あたりだね。
2009.07.17
(ウツボ)磁気機雷に触れた後、南部艦長が調査した結果、伊四〇一はキングストン弁や計器類に損害があり、大連行きは困難になったので、呉に引き返してきた。(カモメ)結局、交代として伊四〇〇に有泉司令が乗艦し、四月十四日、呉を出港して大連に行き、燃料を満載して四月二十七日、呉に帰ってきました。(ウツボ)最終的に伊四〇一は呉軍港の燃料を貰い、伊一三、伊一四の両艦は鎮海に回航して補給を受けて、燃料問題は解決した。(カモメ)そのころ、大西洋方面におけるドイツ潜水艦がシュノーケル装置を装備しているとの情報が入ったのです。連合軍のレーダーへの対策が間に合わず、困り抜いた上での採用でした。(ウツボ)シュノーケル装置は、潜航中の潜水艦が海中から油圧により昇降自由の煙突を立てて、一方から大気を吸い込み、他方から排気を出してディーゼル機関を運転、発電し、この発生電流により艦の推進を計ろうとするやり方で、充電のため浮上する必要がなくなるという画期的なものだった。(カモメ)そうですね。これにより、それまでできなかった長時間潜航(十数日あるいはそれ以上)も可能になりました。(ウツボ)当時日本潜水艦が悩まされていた米国海軍のレーダーをかなりの程度回避でき、さらには潜水艦本来の奇襲効果をも増大できるものだった。(カモメ)この装置は、煙突がステッキの握り手状になっており、先端は下向きに曲げられ、波浪が煙突を超えたり、艦の深度が急に変わるようなときは、自動的に吸気口を閉鎖するようになっていました。(ウツボ)これらから、明治四十三年の第六号潜水艇(艇長・佐久間勉大尉)のような事故の心配は全く無いものだった。(カモメ)有泉司令は第一潜水隊の各艦にシュノーケル装置を装備することを上申、直ちに工事が開始されました。(ウツボ)わずか一ヵ月半足らずの間に四隻の潜水艦とも、油圧によって伸縮するシュノーケル、いわゆる給排気筒が取り付けられた。水中で補助発電機を運転し、その発生電力で潜航持続が可能になった。(カモメ)日本の潜水艦がシュノーケル装置を装備したのは、この四隻が初めてだったのです。その後シュノーケルは終戦までにそのほかの一部の潜水艦にも取り付けられましたが。(ウツボ)六月五日、第一潜水隊は富山県の七尾湾に集結して訓練を開始した。また晴嵐の第六三一航空隊も舞鶴近くの誉田に基地を開設し、各艦に晴嵐を搭載した。(カモメ)けれども、搭載機の晴嵐が、故障が多いうえに、一〇機が全部調達できませんでした。名古屋にあった晴嵐の製作所が前年の濃尾地方地震で被害を受け、しかも空爆にあい、生産工程が進まなかったのです。(ウツボ)それでも厳しい訓練は連日行われた。搭載機の射出、発艦、揚収訓練、飛行機航法、爆撃訓練などを実施した。また潜航訓練も行ったんだ。(カモメ)「艦長たちの太平洋戦争」(佐藤和正・光人社NF文庫)によると、伊四〇一の艦長、南部少佐は「伊四〇〇潜型というのは、当時世界最大級の潜水艦であったわけですが、性能は以外によかったですね」と話しています。(ウツボ)また「性能は従来の潜水艦となんら変わるところはなかったし、大きい割には小回りがきいて、潜航秒時も一分を切るくらい優秀なものでした」とも述べている。(カモメ)舞鶴工廠でつくられたパナマ運河の閘門の模型が曳き船によって七尾湾に回航されて設置してあり、飛行機はこれを標的にして緩降下の爆撃訓練を行いました。(ウツボ)標的の閘門の模型は、有泉司令が一月に軍令部の藤森参謀と話した時、藤森参謀がパナマ運河閘門の模型を中央で準備すると伝えたのだが、有泉司令は図面もあるので現地で用意すると答えた。有泉司令が舞鶴工廠で閘門の模型を製作させた。(カモメ)そうですね。この模型は、木製の筏の上に、同じく木製のパナマ運河閘門の模型を乗せた実物大のものでした。曳船によって七尾湾に回航、設置されました。(ウツボ)ところが、このころ、晴嵐のトラブルが多発した。搭載のアツタエンジンの故障をはじめ、各種の故障や事故が多発した。(カモメ)伊四〇一の浅村飛行長は、発艦した途端、突然操縦席の前から、真っ黒いオイルが噴き出し、目の前の遮風板一面がオイルで覆われ、前方が見えなくなって不時着水しました。(ウツボ)オイルタンクの閉鎖が不充分だったため、エンジン全開によって高温となったオイルがあふれ出たのが原因だった。
2009.07.10
(カモメ)藤森参謀が大船収容所に出向いて、訊問したところ、その米国の元警備兵は「パナマ運河は、開戦当時は飛行機も配備されて警戒厳重だったが、今ではほとんどがガラ空き同然である」と答えました。(ウツボ)昭和二十年四月上旬、呉潜水隊基地で、パナマ運河攻撃の図上演習が行われた。有泉司令、第一潜水隊幹部、六三一航空隊幹部、それに第六艦隊首席参謀・井浦大佐、軍令部参謀・藤森中佐らが参加した。(カモメ)図上計画としては、開戦時の、真珠湾攻撃の機動部隊のハワイ進出コースに準じて、ハワイ北方海面を経由、ハワイと米国本土の中間を経て南下、パナマ沖をいったん通過して、南米コロンビア沿岸ぞいに北上して接敵するというものでした。(ウツボ)それは、なるべく近い距離から飛行機を発進、攻撃後揚収して避退するという計画だからね。当時のアメリカ本土の情勢から判断して、成功の可能性が高いと確認された訳だ。(カモメ)晴嵐がパナマ運河を攻撃後帰投するとき、潜水艦が予定地点で浮上することも、晴嵐が潜水艦を発見、着水し、揚収されることも、米国の制圧海域だけに極めて難しい問題でしたね。(ウツボ)そう、困難な状況だった。だが、潜水空母によるパナマ運河攻撃は、全くの隠密、奇襲攻撃であることを考えたら、たとえ晴嵐の機体を放棄することになったとしても、搭乗員の収容だけは可能であろうとの結論に達した。(カモメ)けれども、この作戦を実行する伊四〇一の南部艦長は、この作戦は晴嵐十機で魚雷と爆弾併用の体当たり攻撃、つまり特攻隊だ、と思ったのですね。(ウツボ)それは、当時、上層部と現場の認識のずれがあった。だが、現実の問題として、警戒の厳重な陸地付近の海面で潜水艦が浮上して、飛行機を収揚する可能性はなかった。(カモメ)そうですね。さらに、命中の確度を一〇〇パーセントにして目的を達成するためには、特攻攻撃よりほかに手段はない。そのように南部艦長は認識していたのですね。(ウツボ)最大の問題は、運河のどこを攻撃するかだった。結局、攻撃場所はパナマ運河の太平洋に面する閘門に決まった。(カモメ)パナマ運河には太平洋側に二箇所、カリブ海側に一箇所の閘門があり、船を海面から二十六メートルの高さまで持ち上げ、再び下ろして通行させる構造になっていましたね。(ウツボ)そこで、爆撃で閘門を破壊すれば、船を持ち上げて下ろす水の水源であるガツーン湖の水が海に流れて出てしまい、パナマ運河は永久に通れなくなると日本海軍は考えた。(カモメ)軍令部では潜水空母によるパナマ運河爆砕計画が進められていましたが、軍令部がこの構想について古賀峯一連合艦隊司令長官ら司令部に初めて説明したのは、昭和十九年三月二十八日です。(ウツボ)それはね、軍令部の山本親男第一課長、源田実航空参謀、藤森参謀の三人がパラオを訪れた時、藤森参謀が、潜水空母によるパナマ運河爆砕計画を説明したんだ。(カモメ)けれども、その三日後の三月三十一日には、古賀長官ら司令部要員が乗った二式大艇がパラオからフィリピンに向う途中、大低気圧に巻き込まれて、墜落、古賀長官らは殉死しました(海軍乙事件)。(ウツボ)ちなみにパナマ運河攻撃作戦を研究した昭和二十年五月頃における関係指揮官は、連合艦隊司令長官・豊田副武大将、第六艦隊司令長官・三輪茂義中将(五月十日以前)・醍醐忠重中将(五月十日以後)、第一潜水隊司令・有泉龍之助大佐だった。(カモメ)日本海軍が開戦時までに貯めこんだ燃料は約六百万トンで、燃料を心配することなく作戦ができたのは昭和十七年末までだったと言われています。(ウツボ)それは、南方の資源航路が米軍に遮断され、補給の途が全くなくなってからは、燃料は急速に減少した。昭和二十年四月の時点で、日本内地の燃料はほぼ底をついていた。(カモメ)当時、呉軍港には貯蔵燃料は、昭和二十年四月の時点で、二〇〇〇トンしかなかった。伊四〇〇型潜は一隻だけでも、一六〇〇トン以上の重油を必要としました。(ウツボ)パナマ運河爆砕作戦のため、第一潜水隊四艦全部が必要とする燃料は約五千トンだった。それらの燃料を全部内地でまかなうことは到底できない相談だった。(カモメ)そこで伊四〇一が四月十一日、呉を出港して、大連まで重油を取りに行くことになったが、宇部沖の姫島灯台付近でB29が投下した磁気機雷に触れたのです。(ウツボ)艦長の南部少佐は、水深五十メートルくらいのところで、轟音を聞いた瞬間、何が起こったか判断できなかった。艦尾方向に白く盛り上がって泡立つ海面を見て、「機雷だ」と直感した。(カモメ)南部艦長は「人間の感覚はおかしなもので、機雷と知った瞬間から、吃水がだんだん深くなっていくように思えた」と記していますね。
2009.07.03
(カモメ)開戦時、南部艦長は、伊一七の先任将校で、米国本土のエルウッド油田に十二センチ砲弾十七発を撃ち込んだ戦歴がありますね。(ウツボ)また、艦長として指揮した伊一七四ではオーストラリア東海岸の通商破壊戦や輸送作戦を、伊三六二ではナウル島の輸送作戦を行った歴戦の勇士だった。(カモメ)伊一三の艦長・大橋勝夫中佐は開戦時、伊一五六の艦長としてインドネシアのジャワ島方面の作戦に当たり、次いで伊一八一、伊五四の艦長をつとめました。(ウツボ)伊一五六は昭和十七年三月八日、洋上で敵の救命ボートに遭遇した。この救命ボートは、ジャワ島のジリジャップを脱出したオーストラリアとイギリスの混成の爆撃隊員十二名だった。(カモメ)そうですね。彼らは武器を持っていなかったので、大橋艦長は「ジャワは落ちたんだ。戦況に変わりはない。無用の殺生はやめよう」とこの救命ボートを見逃したそうです。(ウツボ)それから四十二年後の昭和五十九年、オーストラリアの戦史家ロバート・K・パイパー氏が、攻撃せずに見逃してくれた恩人を探そうと来日した。(カモメ)当時の毎日新聞によると、もはやこれまでと覚悟した十二名は命拾いし、雨水を貯めながら約二千四百キロ離れたオーストラリアのパース付近四十四日間かかって、たどりついたのですね。(ウツボ)オーストラリアではこの脱出行が話題になり、新聞にも掲載された。だが、日本側の艦長や乗組員が分からなかったので、パイパー氏が調査のため来日、その結果、伊一五六の大橋艦長と分かった。(カモメ)当時の伊一五六の乗組員によると、ボートを発見した時艦内では、「敵兵だ、殺るか」と騒然としたが、大橋艦長がこれを押さえて救命ボートを見逃したのです。(ウツボ)大橋艦長は帰国した時、「ゴムボートで逃げる敵兵を発見、撃とうとしたが、よく見ると武器を持っていなかったのでやめた。いくら戦争でもフェアにやらなきゃ」と語っていた。(カモメ)だが、その大橋艦長は、伊一三の艦長になり、昭和二十年七月、トラック島に向って大湊を出撃した直後、アメリカ艦隊の襲撃を受けて、沈没、消息を絶ちました。(ウツボ)残念だね。戦争は皮肉なものだね。次に、伊一四の艦長・清水鶴造中佐は軽巡洋艦、駆逐艦など乗り組みの後、潜水艦に乗り組んだ。三隻の潜水艦の艦長をつとめた。(カモメ)清水中佐が伊五六の艦長だったとき、インド洋でイギリスの輸送船三隻を撃沈しました。昭和十九年には、アメリカの駆逐艦の攻撃で艦が破損したが、運良く沈没をまぬがれています。(ウツボ)このように第一潜水隊、潜水空母部隊の各艦長は歴戦の優秀な士官ばかりだった。(カモメ)そのころ、第六艦隊首席参謀・井浦大佐は、有泉司令とパナマ運河攻撃計画について研究を進めていたのですね。(ウツボ)そうだね。軍令部の潜水艦主務参謀・藤森康男中佐(海兵五六・海大三八)や情報部の実松譲大佐(海兵五一・海大三四)も井浦大佐の研究の援助に当たった。(カモメ)当時、アメリカ海軍は太平洋艦隊と、大西洋艦隊の二艦隊を編成していました。だがパナマ運河は巨大な戦艦は通行できなかったのですね。現在でも大型の空母はパナマ運河を通行できません。それ以外の艦船は通行できるのですが。(ウツボ)だが、パナマ運河は米国にとって極めて重要な二つの価値があった。一つは、米国が大西洋艦隊を必要に応じて、随時、迅速に、太平洋に回航させることができることだ。(カモメ)そうですね。もう一つは太平洋全域に布陣する米軍に補給する膨大な戦略物資を迅速に、輸送することができることですね。(ウツボ)事実、当時、米国の戦略物資のほとんどは米国本土東海岸からパナマ運河を経て太平洋側に輸送されていた。(カモメ)だから、ドイツが降伏したら、大西洋に作戦中の連合艦隊艦艇は、大挙して太平洋に出てくるだろうと予想された訳です。(ウツボ)この場合、もしパナマ運河を爆撃して閉塞すれば、少なくとも三ヶ月は連合軍の太平洋集中を遅らせることが出きるかも知れないと日本海軍は考えた。(カモメ)具体的にはニューヨークとハワイ間の距離は、パナマ運河を経由すれば六二〇〇海里ですが、南米を迂回すると、マゼラン海峡を抜けても、一三〇〇〇海里以上ですね。(ウツボ)船団の平均速力を十四ノットとしても、二十日以上の差が出る。しかも長途の航海となると燃料消費は膨大な量になり、少なからぬ給油船を随伴しなければならなくなる。(カモメ)そうですね。そうすると、運航速力が低下しますね。日本海軍にとっても潜水艦による攻撃が容易になり、一石二鳥の効果が期待できます。(ウツボ)昭和十九年一月、藤森参謀はパナマ運河の元警備兵だった者が捕虜となって大船収容所に入っているとの情報を得た。それで、パナマ運河の警備状況を訊問することになった。
2009.06.26
(ウツボ)さらに大空襲では、超低空から呉地区一帯に熾烈な機銃掃射を行った。日本海軍も懸命に対空砲火で応戦したが、巡洋艦大淀が大破、戦艦伊勢、日向、榛名、重巡洋艦利根が損傷し、戦艦大和、軽巡洋艦矢矧を除く艦艇のほとんどが戦闘力を失った。(カモメ)第一潜水隊の伊四〇〇、伊四〇一、伊一三の三艦も港内に在泊していまいしたが、いち早く緊急避難あるいは急速潜航したので、被害は軽微でした。(ウツボ)それでも、伊四〇〇の対空機銃員一名が戦死した。また伊四〇一が機銃掃射の断片を受けた。(カモメ)伊四〇一の南部艦長は「軍艦大淀が呉の秋月沖で、半ば傾きながらも砲を全部振り向けて射撃し続けていた悲壮な光景は、今も忘れられない」と呉大空襲の壮絶さを述べています。(ウツボ)また、三月二十七日、三十日には千五百海里も離れたマリアナ諸島を発進したB29の編隊が、瀬戸内海西部海域一帯に機雷を投下した。その数は一千個で、落下傘で投下した。(カモメ)このため、呉鎮守府の掃海部隊が懸命に機雷の処分に当たりましたが、これらは磁気機雷、水圧機雷といった新型だったため、有効な処理ができなかったのですね。(ウツボ)これで、今までは、米国潜水艦の攻撃も及ばない聖域とされ、日本海軍の重要な終結海面であり、安全な訓練海面であった瀬戸内海は、一夜にして危険海面に変わってしまった。(カモメ)「潜水艦隊」(井浦祥二郎・朝日ソノラマ)によると、昭和二十年五月、ヒトラーが死に、ドイツが連合軍に降伏するに及んで、連合軍交通の要衝であるパナマ運河を破壊して、一時的にではあるが、太平洋方面への、敵の兵力移動を阻止することが必要とされたのですね。(ウツボ)そうだね。パナマ運河攻撃には、伊四〇〇潜型の潜水空母の使用が決まった。(カモメ)「潜水艦隊」の著者、井浦祥二郎(海兵五一・海大三三)は元海軍大佐で、潜水艦一筋の軍人で、海軍兵学校、海軍大学校を出て、伊一二二、伊三、伊七四などの潜水艦長、第三潜水戦隊首席参謀、大本営参謀、第六艦隊首席参謀などを歴任、終戦まで潜水艦作戦を実施した人ですね。(ウツボ)生粋の潜水艦の専門家だね。伊四〇一は昭和二十年一月八日に竣工していた。当時潜水空母は、伊四〇〇及び伊四〇一が完成しているに過ぎなかった。(カモメ)伊四〇三は進水していたが、まだ作戦には使用できませんでした。このほか潜水空母は、改造型の伊一三、伊一四の二隻が完成していました。(ウツボ)この四隻で昭和十九年末に第一潜水隊が編成されており、有泉龍之助大佐(海兵五一・海大三五)が司令に任命された。伊四〇一が第一潜水隊の司令潜水艦になった。(カモメ)有泉大佐と、井浦大佐は海軍兵学校同期で仲が良かったですね。第一潜水隊は第六艦隊(司令長官・醍醐忠重中将)に所属していました。(ウツボ)有泉大佐は、徳川の直参、有泉家の出身で、父の海軍主計中佐・有泉庚午の長男として東京に生まれた。(カモメ)静岡中学校から海軍兵学校に入り、潜水艦、空母赤城乗り組みを経て、海軍大学校を卒業しましたね。(ウツボ)昭和十四年十一月から十七年三月までは軍令部の潜水艦主務参謀だった。昭和十七年三月から第八潜水隊、十八年十二月から第十一潜水隊の先任参謀を務めた。(カモメ)また、十九年一月から伊八の艦長になり、インド洋で交通破壊作戦に従事しました。インド洋では五隻を撃沈する戦果をあげたのです。(ウツボ)有泉大佐は豪放磊落、酒豪で弱音をはかない武人だった。剣道もよくした。他面、作戦や航海計画となると、臆病と思えるほど慎重で、緻密、常に最善策のほかに次善の策も用意させるというところがあった。(カモメ)第一潜水隊は、伊四〇〇、伊四〇一、改造型の伊一三、伊一四の四隻で編成されました。(ウツボ)そうだね。伊四〇〇と伊四〇一には特殊攻撃機・晴嵐を各三機、伊一三と伊一四には各二機、合計十機を搭載する、いわゆる潜水空母艦隊だった。これは世界の戦史上、類を見ない艦隊だった。(カモメ)また、昭和十九年十二月十五日、関東の鹿島航空隊で潜水空母搭載攻撃機「晴嵐」で第六三一航空隊が編成され、その後広島県福山海軍航空隊を基地としました。司令は有泉大佐が兼務しました。(ウツボ)伊四〇〇の艦長は日下敏夫中佐(海兵五三)、伊四〇一の艦長は南部伸清少佐(海兵六一)、伊一三の艦長は大橋勝夫中佐(海兵五三)、伊一四の艦長は清水鶴造中佐(海兵五八)だった。(カモメ)伊四〇〇の艦長・日下敏夫中佐は生粋の潜水艦乗りで、潜水艦乗り組み十二隻、そのうち艦長として乗り組んだ艦は、伊一二一、呂五八、呂六三、伊一七四、伊一八〇、伊二六と六艦にも及ぶベテラン艦長でした。(ウツボ)伊四〇一の艦長・南部伸清少佐は昭和十一年以来一貫して潜水艦畑を歩き、呂六三、伊一七四、伊三六二の艦長をつとめた。また伊三五一の艤装委員長を経て二ヶ月目に伊四〇一の艦長に補された。
2009.06.19
(カモメ)当時一般の飛行機はマグネットの磁気コンパス装備が普通でしたが、潜水艦は艦自体が鉄の塊なので磁力線の影響を受ける訳です。(ウツボ)そうだね。さらに、晴嵐は魚雷や爆弾を積むのでこれだけでも磁気コンパスは大きく狂い、赤道直下では水平に作動するものの、南極や北極では使い物にならなかった。(カモメ)そこで当時大型機だけが使用していた、高価ではあるが磁力線の影響を受けない、ジャイロ・コンパスを使用したのですね。(ウツボ)ところで速度だが、晴嵐は単発複座でフロート装着の水上機だ。最大速度は時速四七四キロ、フロートを投下したら時速五六〇キロも出る。これはゼロ戦と同じくらいの速度だ。(カモメ)武装は一三・二ミリ旋回機銃一基装備。爆弾は八〇〇キロ一発、または二五〇キロ四発、または九二式改三航空魚雷(四五センチ)一発装着できます。(ウツボ)乗員は二名。エンジンは愛知「熱田」三二型で離昇出力一四〇〇馬力。航続距離は一五四〇キロ。実用上昇限度九六四〇メートルだ。(カモメ)晴嵐は大型爆弾を搭載した実戦の場合は、フロートを装着しません。帰還は潜水艦近くに胴体着水または搭乗員を落下傘降下させて収容します。(ウツボ)晴嵐は当初の計画では、昭和十九年に四十四機、二十年には三十四機の生産が要求されていたが、実際に完成したのは十八年に一機、十九年に十機の全部で二十八機に過ぎなかった。(カモメ)現在は米国ワシントンDCのスミソニアン博物館に一機展示されていますね。(ウツボ)「米機動艦隊を奇襲せよ」(南部伸清・二見書房)によると、晴嵐がようやく潜水艦に搭載され、射出訓練ができるようになったのは昭和二十年三月だった。(カモメ)なれない水冷エンジンや分解組み立てなど、整備や始動に苦心の多い晴嵐でしたが、性能は良かった訳です。伊四〇一の飛行長・浅村敦大尉(海兵七〇)は晴嵐について次の様に述べています。(ウツボ)読んでみよう。「私は専門が二座式水上偵察機の操縦であって、九五式水偵、零式観測機、零式水上戦闘機などを操縦してきたが、晴嵐は従来の飛行機に比べて最新鋭といってよく、その装備も時の航空機としてはトップレベルではなかったかと思う」(カモメ)続けて読んでみます。「水上艦艇でさえ全部は持っていなかったジャイロコンパスまで装備されていた。このように従来の、どちらかといえば練習機に毛の生えたような小型偵察機とは全く異なり、晴嵐は空母搭載の攻撃機、爆撃機にも匹敵する飛行機だった」(ウツボ)潜水空母の格納庫の中には、爆弾や魚雷を抱いたまま翼をたたみ、晴嵐三機が滑走車に載せられたまま設置されていた。フロート(浮舟)はずされていた。(カモメ)前方から一番機、二番機の順に格納してあり、天井に三番機のフロートが吊るされており、最後に三番機が格納されていました。(ウツボ)主格納庫の下側に左右二本のフロート格納筒があり、主格納庫と同様な形式の水密扉で閉じられ、それぞれ二本ずつ一番機と二番機のフロートを格納してあった。(カモメ)射出訓練は瀬戸内海で行われましたが、射出のため浮上している時間が多いため、特殊な潜水艦であることを隠すために、煙突らしいものを取り付けて、水上艦艇のようにカムフラージュしました。(ウツボ)それができるほど従来の潜水艦とは外形が異なっていた。少なくとも駆逐艦が走っているくらいには見えた。(カモメ)伊四〇〇型は晴嵐を三機格納していますが、射出訓練は、当初、一、二番機の発進は当時としてはかなり早くて約四分、三番機の場合は約十五分を要し、全機発進に約二十分を要する状況でした。(ウツボ)潜水艦が浮上してから三機発進終了まで二十分もかかるようでは、とうてい満足な作戦ができない訳だ。それで、その後、整備員の血のにじむような訓練と努力の結果、所要時間を十分に短縮することができた。(カモメ)訓練のときはフロートをつけるが、実戦の時は大きな爆弾を抱えるので、フロートをつけない計画だったから、三機連続射出十分以内は確実となったのですね。(ウツボ)そう。一方、晴嵐は複雑な飛行機だったので故障も多く、整備員を悩ませた。だが、整備員の努力と訓練で乗り切った。(カモメ)昭和二十年三月、戦況はますます不利になってきました。二月三日、米軍はマニラ市内に進攻、サイパン、テニアンからB29による本土空襲は激しくなりました。(ウツボ)そうだね。三月十日未明にはB29一二〇機が東京をじゅうたん爆撃、死者二一四〇〇余名、行方不明多数を出した。焼失家屋は二三三〇〇〇戸を超えた。(カモメ)また、三月十九日には呉軍港大空襲がありました。米艦載機グラマンF6Fが約三百五十機、呉軍港碇泊中の軍艦や、呉工廠、広工廠、呉空などの軍事施設に爆弾を投下しましたね。
2009.06.12
(カモメ)南部少佐は乗員の士気を鼓舞するために伊四〇一の歌を作りました。佐世保軍楽隊に作曲を依頼し、数回の講習も行いました。(ウツボ)日本海軍で艦歌があるのは珍しい。「伊四〇一潜の歌」は五番まである。(カモメ)歌詞を読んでみましょう。一、咲くや万朶の桜花 忠魂ここに雄叫びて 集う丈夫百余名 神州不滅の意気高し。二、男度胸に血の出る練磨 鍛え鍛えし急速潜航 怒涛逆巻く太平洋 必勝不敗の士気高し。三、どっと砕ける荒波を 蹴って開いたベント弁 映える朝日の潜望鏡 やるぞ空母だ戦艦だ。四、爆弾爆雷繁くとも 至誠に懲りし鉄血を 鍛えし熱火の訓練に 凱歌轟く太平洋。五、波濤万里の海越えて 見よ堂々のこの雄姿 勲は薫る潜水艦 仰ぐ芙蓉の峯高し。(ウツボ)また伊四〇一の発令所にある艦内神社に、伊勢神宮でもらったご神体を奉安、全員が武運長久を祈った。潜水艦はたいていお伊勢さまだった。(カモメ)艦内神社の神鏡は、その艦の起工式のときの鋼鈑の一部を磨いてつくるのが慣例になっていましたね。(ウツボ)「伊号潜水艦」(学習研究社)によると、潜水艦に飛行機を搭載することは、第一次世界大戦中から各国海軍で試みられていた。(カモメ)日本海軍も大正十二年に、ドイツのカスパル社からハインケルU1潜水艦水上偵察機を輸入して研究を始めたのです。この機体を手本に横須賀工廠が昭和二年に横廠式一号水偵という実験機を製作し、第四八潜(後に伊二一)で実用試験を行いました。(ウツボ)そうだね。その結果、開発されたのが、九一式水偵で、日本海軍初の正式潜水艦搭載機となった。だが実用機としては性能不足だったので、九六式水偵が新たに開発され、巡洋潜水艦等に搭載された。(カモメ)さらに性能を向上させて昭和十五年(紀元二六〇〇年)に制式化されたのが零式小型水上偵察機です。前にも述べましたが、昭和十七年九月九日と二十九日、伊二五潜を発進した藤田信夫飛曹長(操縦)と奥田兵曹(偵察)搭乗の零式小型水偵は、アメリカ西海岸のオレゴン州山中へ焼夷弾夜間爆撃を行いましたね。(ウツボ)世界に先駆けて潜水艦で飛行機を運用することに成功した日本海軍は、開戦直後に攻撃機を搭載して四万海里の航続力を持つ巨大潜水艦の開発に着手した。これが伊四〇〇型潜水艦であり、特殊攻撃機「晴嵐」はこの伊四〇〇型潜水艦搭載用に開発された。(カモメ)そうですね。一方搭載する攻撃機の設計と試作は愛知航空機が担当し、海軍側からは横須賀航空隊第四飛行隊長・船田正少佐が空技廠実験部員兼務としてこれにあたりました。(ウツボ)最初は彗星(艦上爆撃機)の改造型が考えられたが、折りたたみや組み立ての技術的問題から、むしろ新しく専用機を開発したほうがよいということになった。(カモメ)こうして昭和十七年春、十七試特殊攻撃機M6A1、のちの晴嵐および南山(晴嵐の陸上機)の設計開発がスタートしました。(ウツボ)十七試とは、十七年に海軍が設計・試作を指示することを意味する。(カモメ)機体そのものは、これまで愛知航空機で製造していた零式水偵よりやや小型程度であるが、分解、組み立てのための特別の苦心がなされました。(ウツボ)試作一号機が完成したとき、晴嵐と名づけられたが、名付け親は船田少佐だった。「海鷲の航跡」(海空会編・原書房)の中で、船田少佐は、その晴嵐の名前を付けた経過を次の様に記している。(カモメ)読んでみます。「試作機M6A1の適当な機種名を考えよと海軍航空本部より要請があり、潜水艦の隠密性に水上機操縦者の狭視界行動能力(計器飛行能力)を加味し、忍者のように霞の中から突如出現するという意味で、粟津の晴嵐から晴嵐という名を考え、採用になった」(ウツボ)「潜水艦隊」(井浦祥二郎・朝日ソノラマ)によると、潜水空母搭載攻撃機晴嵐は、昭和十八年十一月に愛知航空機株式会社によって一号機が完成した。小型軽量の急降下爆撃が可能な特殊爆撃機だ。(カモメ)一般的に爆撃機が比較的小型の爆弾を積んで急降下して爆弾を投下する飛行機であるのに対して、攻撃機の定義は、大型爆弾や航空魚雷を積んで緩降下して雷爆撃を行う飛行機ですね。(ウツボ)そうだね。晴嵐は潜水艦搭載用のため、できるだけ小型で、しかも折りたため、また分解もでき、同時に急速に組み立てができることが要求され、反面、攻撃機として、強襲攻撃することにも耐え得る強度が要求されるという複雑な飛行機だった。(カモメ)だから晴嵐は大量生産には向かず、コストの高い飛行機でした。また当時最新鋭の飛行機で、その装備はトップレベルでしたね。(ウツボ)そう、装備は優秀だった。航空計器では、当時水上艦艇でさえ全部は装備していなかったジャイロ・コンパスを装備していた。これは原理的にはコマを高速回転させると一定の方向を指す特性を利用したコンパスで、当時は非常に高価な計器だった。
2009.06.05
(カモメ)南部少佐は佐世保工廠に行き、艤装中の伊四〇一と対面しました。見ると、その大きさが実感され、度肝を抜かれました。(ウツボ)それは、大型潜水艦を二隻横に並べ、その上に小型潜水艦を一隻積んだような巨大さだったからね。びっくりするよね。(カモメ)日本帝国海軍は、これまでの潜水艦の概念から飛び離れた、怪物潜水艦を作り出したのですね。(ウツボ)そういうことだね。南部少佐は伊四〇一の感想を聞かれて「私はずいぶん長い間、潜水艦に乗ってきたけど、あんな大きな艦を見たのは初めてでしたね。なにしろ、今までの潜水艦は前から後ろに一本の通路を通るだけだったけど、今度の艦は横にハッチがついていて、隣の部屋に行けるようになっていたのには、びっくりしました」と答えている。(カモメ)さらに「あの艦は、普通の潜水艦を二つ並べて、その前後にもう一隻ずつくっつけたような具合でしたね。その上に飛行機を収納する巨大な筒が乗っかっている。その筒だけでも二二〇トンもあるのです」とも述べていますね。(ウツボ)「日本の潜水艦パーフェクトガイド」(学習研究社)によると、この巨大潜水艦に必要とされる艦内容積を得るだけの大型の内殻を単一構造で造るのは不可能だった。(カモメ)それで内殻の形状は「海大一型」以来の多筒式船殻とされたのですね。船体中央部の内殻は眼鏡型断面として必要な艦内容積を稼ぎました。また、潜航時の横傾斜を防ぐことをねらった構造にもなっています。(ウツボ)伊四〇〇型は、特殊攻撃機「晴嵐(せいらん)」三機を搭載した潜水空母で、もちろん当時世界最大の潜水艦だった。昭和三十五年に米国のミサイル原子力潜水艦イーサンアレン級が就航するまで、世界最大の潜水艦のタイトルを維持した。(カモメ)伊四〇〇型の水上常備標準排水量は五二二三トン、水中排水量六五六〇トンですね。五二二三トンは駆逐艦以上の大きさで、巡洋艦並みですね。(ウツボ)まさに巡洋艦だね。そのほかのデータは全長一二二メートル、全幅一二・〇メートル。水上七七〇〇馬力(ディーゼルエンジン四基、一九二五馬力×四)水中二四〇〇馬力(電動モーター二基、一二〇〇馬力×二)。二軸。速力は水上一八・七ノット、水中六・五ノット。航続距離は水上一四ノットで三七五〇〇海里、水中三ノットで六〇海里。燃料は重油一七五〇トン。乗員一五七名(士官は約二〇名)。なお、二二号電探一基、一三号電探一基を搭載していた。(カモメ)連続行動期間は約四ヶ月ですね。三七五〇〇海里は、理論上は地球を一周半まわれる長大な航続距離ですね。フランスの小説家、ジュール・ベルヌの海洋空想小説「海底二万海里」の約二倍の距離です。日本帝国海軍はノーチラス号以上の壮大な潜水艦を作り上げました。俺はそこにロマンを感じました。(ウツボ)「海底二万海里」はビデオで映画を観ましたが、海底旅行の興味深い映像を含めて、意外なストーリーは観どころがある。ネモ船長の人間性も、現代の船長や艦長からみて批判的な面もあるだろうが、全体のストーリー展開から見れば理解できる。(カモメ)俺は「海底二万海里」は観ていないですけど、一度観てみたいですね。ところで、伊四〇〇型の武装は四〇口径一四センチ単装砲一門、二五ミリ三連装機銃三基、同単装機銃1基、五三センチ魚雷発射管艦首八門、魚雷二〇門ですね。(ウツボ)四〇口径一四センチ単装砲は、日本の潜水艦用としては最も大きい砲で、単装と連装があった。俯仰角+三〇度、-五度。弾丸重量三八キロ、初速七〇〇メートル/秒。最大射程は仰角三〇度で一五三六五メートルだ。(カモメ)潜水空母・伊四〇〇型は搭載機晴嵐を発信させるカタパルト(四式一号一〇型射出機)を前甲板に一基設置していましたが、船体中心線より約一五インチ右舷に寄っています。(ウツボ)この射出機圧縮空気動力だが、火薬動力の一式二号射出機と同等の射出性能があった。全長は二六メートル。このカタパルトはもともと、艦上爆撃機「彗星」、艦上攻撃機「天山」を発進させることを目的に開発された。(カモメ)伊四〇〇型の格納筒や、扉、上部構造物には、モルタル様のステルス塗料(防探塗料)が塗られていました。ステルス塗料は、ソナーの超音波とレーダーの電磁波を吸収・乱反射させる為に日本海軍が開発しました。(ウツボ)実際に完成したのは超音波吸収塗料だけだったが、この時点で、すでにステルス性能に着目、開発した、日本海軍の技術力と先見性は、見事なものだった。(カモメ)確かにそうですね。特殊攻撃機「晴嵐」三機を格納する甲板上の構造物、格納筒は、直径三・五メートル、長さ三〇・五メートルですね。(ウツボ)晴嵐はフロートをはずし、主翼・尾翼を折りたたんで格納した。急速発進を実現するため、格納筒の中の晴嵐は、すでに爆弾または魚雷を懸吊し滑走台車に載せてあった。(カモメ)前甲板の格納筒の扉の形状は波切りをよくするため三角状の鋭い形になっていました。晴嵐を出す時に開閉する扉は、水密扉で、油圧で開閉し、ロックは手動で行いました。(ウツボ)敵のレーダー波を探知する電波探知機(逆探)のアンテナも設置されていた。また、方向探知機アンテナ、ホーン型アンテナ(対水上用)、八木式アンテナ(対空用)などを装備していた。(カモメ)アンテナの基台にも、各種ゴム、特殊セメント、石綿粉等々を調合したステルス塗料が塗られていましたね。 (ウツボ)たいしたものだね。
2009.05.29
(ウツボ)また、終戦直前の七月二十九日、西太平洋で米巡洋艦インディアナポリスを撃沈した伊五八艦長・橋本以行中佐は、次の様に話している。(カモメ)読んでみます。「パナマ運河攻撃を具体的に主張されたのは有馬正文大佐(当時)が最初だったのではないかと思う。昭和十七年八月、横須賀水交社であった時、有馬大佐は『今すぐ大艇でパナマ運河を爆撃すべきと思う。途中洋上で潜水艦から燃料を補給すれば、行けるではないか。聞くところでは、爆撃機搭載の大型潜水艦を建造するというが、今から計画、建造したのでは三年位かかるのではないか』と、歯がゆがっていた。同大佐はこのとき、大艇使用のパナマ運河攻撃を意見具申したようであった」(ウツボ)ちなみに潜水空母の第一艦・伊四〇〇は昭和十八年一月十八日呉工廠で、第二艦・伊四〇一は昭和十八年四月二十五日佐世保工廠で、第三艦・伊四〇二は昭和十八年十月二日佐世保工廠で、第四艦・伊四〇三は昭和十八年九月二十九日神戸の川崎重工で、第五艦・伊四〇四は昭和十八年十一月十八日呉工廠で、第六艦・伊四〇五は昭和十八年九月二十七日川崎重工で、それぞれ起工している。(カモメ)第七艦の伊四〇六以降の潜水空母は戦況の悪化から建造中止になりましたね。(ウツボ)そうだね。ところで、構造の話になるけど、「潜水艦大作戦」(新人物王来社)によると、潜水艦は水中に潜ることから、水中船体部分である内穀(ないこく)の切断面が円形になるように設計する。(カモメ)そうですね。だから浮上部分は小さい。これは今も昔も変わらないですね。背が低いので遠くまで見えない。また、潜航中の外部との通信手段は皆無に等しいのです。(ウツボ)この問題を解決するために、日本海軍は、大型の巡洋潜水艦に水上偵察機を搭載し、偵察機により捜索範囲を大きく拡げようとした。(カモメ)そのためには、水中に潜っても水の漏らない水上偵察機の格納場所、航空機格納筒とカタパルトが必要になった訳です。(ウツボ)基本的に潜水艦の船体構造は太い葉巻型だ。超大型の葉巻型船体の上に超大型の茶筒を乗せて、その茶筒の中に小型の水上偵察機を折りたたんで格納する方式を考え出した。巡潜甲型、巡潜乙型はこの思想で設計された。(カモメ)「伊号潜水艦」(学習研究社)によると、潜水空母の伊四〇〇型は、潜特型(せんとっけい)とも呼ばれ、昭和十七年二十八隻の建造が計画されていましたが、戦況により五隻になり、最終的に伊四〇〇、伊四〇一、伊四〇二の三隻が完成したのですね。(ウツボ)また、潜水空母の伊一三型は、もともと巡潜甲型である伊九型潜水艦を建造途中で計画を変更、晴嵐二機を搭載できるように改造し、伊四〇〇型と同様な潜水空母にした訳だ。(カモメ)そうですね。伊九型は、伊九、伊一〇、伊一一、伊一二、伊一三、伊一四、伊一五が建造されましたが、そのうち、伊一三、伊一四、伊一五が改造され潜水空母にされました。これが伊一三型ですね。完成したのは伊一三と伊一四で、伊一五、伊一は未完成でした。(ウツボ)ちなみに、伊九型は、零式小型水上偵察機一機を搭載した大型巡洋潜水艦で、巡潜甲型とも呼ばれる。伊九、伊一〇、伊一一、伊一二が建造された。(カモメ)伊九型は、水上常備標準排水量は二九一九トン、水中排水量は四一五〇トン。全長一一三・七m、全幅九・五五m。水上一二四〇〇馬力、水中二四〇〇馬力。速力は水上二三・五ノット、水中八・〇ノット。航続距離は水上一六ノットで一六〇〇〇海里、水中三ノットで九〇海里。乗員一〇四名。安全潜航深度一〇〇メートル。連続行動期間は三ヶ月ですね。(ウツボ)伊九型の武装は四〇口径一四センチ単装砲一門、二五ミリ連装機銃二基四挺。五三センチ魚雷発射管艦首六門、魚雷一八門だね。(カモメ)また、伊一三型は、特殊攻撃機「晴嵐」二機を搭載した潜水空母で、巡潜甲型改二とも呼ばれました。伊一三、伊一四が完成しました。(ウツボ)伊一三型は、水上常備標準排水量は三六〇三トン、水中排水量四七六二トン。全長一一三・七メートル、全幅一一・七メートル。水上四四〇〇馬力(ディーゼルエンジン二基、二二〇〇馬力×二)、水中六〇〇馬力。二軸。速力は水上一六・七ノット、水中五・五ノット。航続距離は水上一六ノットで二一〇〇〇海里、水中三ノットで六〇海里。乗員一〇八名。安全潜航深度一〇〇メートル。連続行動期間は三ヶ月以上だ。(カモメ)伊一三型の武装は四〇口径一四センチ単装砲一門、二五ミリ三連装機銃二基、同単装機銃一基、五三センチ魚雷発射管艦首六門、魚雷一二門を装備していました。(ウツボ)ところで、潜水空母の伊四〇一は昭和十九年末に工廠から海軍に引き渡される予定だったが、完成が少し遅れていたために、関係者は徹夜で作業を続けた。(カモメ)「米機動艦隊を奇襲せよ!」(南部伸清・二見書房)の著者、南部伸清海軍少佐(海兵六一)は、昭和十九年十二月一日付で、伊四〇〇型の潜水空母伊四〇一の艤装委員長に発令されました。(ウツボ)潜水空母、伊四〇〇型は、前代未聞の巨大潜水艦で、建造は「軍機」のもとに進められていた。「軍機」は軍の最高機密ということで、日本帝国海軍の「軍機」扱いは、戦艦大和、人間魚雷回天、それに伊四〇〇型の三例しかない。
2009.05.22
(ウツボ)米国本土、西海岸のみならず、中枢であるニューヨーク、ワシントンを攻撃できれば、米国の国民性から世論は沸騰し、国民の士気を厭戦に導くことも不可能ではない。それが潜水空母誕生の要因だった。(カモメ)「潜水艦史」(防衛研修所)によると、軍令部部員・藤森康男中佐(海兵五六・海大三八)が第二部長・黒島亀人少将(海兵四四・海大二六)から聞いた話として「この艦型(潜水空母)を建造する発想は、山本五十六連合艦隊司令長官(海兵三二・海大一四)であり、同長官は米海岸の作戦を企図していた」と記していますね。(ウツボ)そうだね。山本五十六ということだね。ちなみに、当時の連合艦隊参謀長は宇垣纏少将(海兵四〇・海大二二)、軍令部第一部長は福富繁少将(海兵四〇・海大二四首席)、作戦課長は富岡定俊大佐(海兵四五・海大二七首席)、潜水艦参謀は有泉龍之助中佐(海兵五一・海大三五)だった。巨大潜水艦は設計主任の片山技術少将が中心となり、設計作業が進められた。(カモメ)「幻の潜水空母」(佐藤次男・図書出版社)の中にも、「この潜水空母構想を要求したのは、当時の連合艦隊司令長官・山本五十六大将だった」と記されています。(ウツボ)開戦直後に、山本連合艦隊司令長官は黒島亀人参謀に「米本土に手をかけねばならん。方法はこれしかないじゃないか」と言って、潜水空母を造ることを命じたと言われている。(カモメ)その作戦構想は、数個潜水隊編成の潜水空母部隊を大西洋に進出させ、搭載の攻撃機で米国本土東海岸の大都市、ワシントン、ニューヨークを急襲、爆撃し、米国国民の戦意を喪失させ、厭戦気分を出させようというものでしたね。(ウツボ)そして、二次的、三次的には、西海岸のサンフランシスコ、ロサンゼルス、パナマ運河も攻撃目標に含まれていた。(カモメ)以上のように、山本長官は当初、潜水空母による米国本土東海岸の大都市爆撃作戦を構想していました。だが、昭和十七年後半になって、緒戦の潜水艦作戦に参加した、実戦経験のある潜水隊司令や艦長などから潜水空母反対の声が上がってきたのですね。(ウツボ)それはね、水上偵察機の発進と収容は、潜水艦にとって、自殺行為に等しいというものだった。また、潜水艦は所詮、商船攻撃兵器であって、通商破壊戦に全力を注ぐべきであるというものだった。それらが実戦に従事する艦長らの主張として上がってきた。(カモメ)つまり、伊四〇〇型のような超大型艦は、果たして現在の戦況にどの程度寄与することができるか疑問だという考えが出て来た訳ですね。(ウツボ)当然出てきた。実は当時の潜水艦主務参謀・井浦中佐もその代表的な一人だった。潜水空母建造に反対していたんだ。「直ぐ実戦に使用できれば別だが、完成するまでには二ヵ年を要する。搭載飛行機も試作の段階で実戦使用は相当遅れる」と反対理由を述べている。実戦的でないし、戦略的にも遅いと思ったんだ。(カモメ)そこのところは、井浦中佐は「少数機を持ってする敵要衝の攻撃は、米国民及び米海軍に対する脅威、あるいは神経戦的な効果を狙うには役立つかもしれないが、実質的な戦果は多くを期待されない」と述べていますね。(ウツボ)このようなことから、井浦中佐は、潜水空母建造計画総責任者の片山技術少将に対して建造の全面中止を提案した。(カモメ)これに対して片山技術少将は「伊四〇〇型は、すでに四隻程度原材料を発注し、準備に入っているので、全廃は難しい」と回答しました。(ウツボ)これを受けて、昭和十八年五月、海軍省軍務局、軍令部、艦政本部の三者で検討した結果、伊四〇〇型十八隻の計画は、半分の十隻に縮小されることになった。(カモメ)この時期は、潜水空母提案者の山本五十六連合艦隊司令長官が四月十八日、前線部隊激励のため、一式陸攻でラバウルからブインに向う途中、待ち伏せした米のP三八戦闘機十六機に急襲され、戦死した直後でした。(ウツボ)つまり山本司令長官の戦死により、原案が変更される流れが出てきた訳だ。(カモメ)このように伊四〇〇型潜水艦が、予定の隻数の建造の見込みがなく、戦機もすでに失していたので、替わって、パナマ運河爆撃作戦が浮上してきたのですね。(ウツボ)それはね、昭和十八年八月、当時の軍令部第一課長・山本親雄大佐(海兵四六恩賜・海大三〇首席)と参謀・藤森康男中佐がラバウル基地を視察した時、「米の後方補給路を絶つため、パナマ運河を攻撃すべきである。その兵力としては潜水空母が最適である」と意見が一致したことから動き出した。(カモメ)パナマ運河攻撃の着想自体は、開戦以来各方面で提案されていたので、この時点で事新しいことではなかったですね。(ウツボ)そうだね。それで直ちに藤森参謀が潜水空母づくりとパナマ運河爆砕作戦の研究、準備に入った。軍令部上層部からも「できるだけ早く決行できるようにせよ」と指示が出た。(カモメ)例えば、真珠湾攻撃の直後、軍令部第一課作戦主任の神重徳大佐(海兵四八・海大三一首席)がパナマ運河爆破作戦を提案しています。だが、海軍省兵備局長・保科善四郎少将(海兵四一恩賜・海大二三次席)から「着想は奇抜だが、実現は難しい」と言われて断念していますね。
2009.05.15
(ウツボ)藤田飛曹長が高度二百メートルまで落とすと、伊二五号の艦橋で大きく手を振っているのが見えた。艦尾方向から着水した。母艦の傍に着け、揚収用デリックの下に進めた。エンジン停止、デリックを巻き上げられて、機を艦上に下ろすと、直ちに分解格納されたそうだ。日頃の訓練の賜とはいえ、すばやい限りだった。(カモメ)田上艦長に藤田飛曹長らが報告すると「ご苦労、話は艦内で聞く」と言い、「航海長、あの二隻の商船を撃沈する」と命令を出したのです。「魚雷戦用意!」と。(ウツボ)そのとき、突如、「敵機!」と見張りが大声で叫んだ。艦は急速潜航した。潜った途端、ドドーンと大爆発音が起こった。艦は損害を受けたが軽微だった。その後も敵機は執拗に爆弾を落として行ったが、伊二五は無事にやりすごすことができた。(カモメ)このあと、伊二五は軍令部よりの電報を受信しました。これにより、今回の森林爆撃が相当の効果があったことが分かったのです。その電報は米国サンフランシスコ放送を傍受したもので、その内容は次の通りでした。(ウツボ)読んでみよう。「日本潜水艦より発したと思われる小型飛行機がオレゴン州山林に焼夷弾を投下、数人の死傷者と相当の被害を受く。わが爆撃機は敵潜水艦を攻撃し損害を与えた」(カモメ)伊二五ではもう一度焼夷弾攻撃を実施することに決めたのです。九月二十九日の夜、藤田飛曹長と奥田飛兵曹は再びカタパルトで飛び出したのですね。(ウツボ)そうだね。今度は高度二千メートルで進入、森林に二発の焼夷弾を投下した。同じように火災が発生したのを見届けて帰投した。だが、後で分かったことだが、大火災にはならなかった。(カモメ)今度は母艦にたどり着くまでに、かなり探したのです。藤田飛曹長も奥田飛兵曹も夜中の海面を、探したが、見つかりにくかった。(ウツボ)一般的に、潜水艦を発進した飛行機は、帰投は非常に難しい。広い海上に豆粒のような潜水艦を発見する訳だね。夜間は特に困難だ。(カモメ)したがって、潜水艦は飛行機を発艦する場合は島陰などの波や風の少ない、帰投目標になりやすい地点を選ぶのですね。(ウツボ)一方、潜水艦は飛行機の帰投を容易にするため、信号灯を点けたり、エンジンをわざと不完全燃焼させて煙を出して場所を教えることもしていた。だが、これにより、発見される確率も大きくなる。(カモメ)母艦の伊二五は前の敵機の爆撃で損傷して油を引いていました。それが藤田飛曹長の目についたのです。やっとのことで母艦を見つけた藤田飛曹長は、発行信号をパカパカ送ると、伊二五もただちに応答してきました。ただちに、静かな月光の海面に着水しました。(ウツボ)ちなみに、それほど難しい潜水艦搭載機であるのだが、潜水艦の飛行長は兵曹長や少尉クラスの若い士官だった。戦艦や巡洋艦では、飛行長は中、少佐、大尉クラスだった。(カモメ)そのようですね。潜水艦を軽視していたのでしょうか。その後伊二五は米国の大型タンカー「カムデン」に魚雷二本を命中させました。さらに別の大型タンカーも撃沈したのです。(ウツボ)また、伊二五は引き続き、二隻の潜水艦を発見し、そのうちの一隻を撃沈した。伊二五の乗組員はみな米国の潜水艦だろうと思っていたが、戦後、ソ連の潜水艦(L16)であることが判明した。(カモメ)当時日ソ間には不可侵条約があり、両国は戦争はしていなかったが、このような戦場を通行する二隻の潜水艦の行動について通報を受けていなかったのですね。(ウツボ)それなら、仕方がないという訳だね。その後、伊二五は故国に向け航海を続け、十月二十四日、横須賀に帰港した。大成功だった。(カモメ)ちなみに、こんな話もあります。昭和十八年十月十七日、伊三六(艦長・稲葉通宗中佐)は、ハワイの飛行偵察を命じられました。苦心の末、ハワイの一九〇度一二〇海里という洋中で、夜間に飛行機を発進させたのです。(ウツボ)そうだね。だが、飛行機は予定帰着時間の一時間後偵察報告を打電したまま帰投しなかったんだ。搭乗員は富永、大森両飛行兵曹長だった。このような悲劇もある。(カモメ)ところで、潜水空母の話に戻りますが、昭和十七年一月十三日、当時、海軍艦政本部第四部設計主任・片山有樹海軍技術少将(東大工学部造船学科・後技術中将)は軍令部から「航空魚雷一個または八〇〇キロ爆弾一個を搭載する攻撃機を積んで、四〇〇〇〇海里航行できる潜水艦ができないか」という相談を受けました。(ウツボ)それまでは潜水艦の航続距離は、伊六(一九〇〇トン・水偵一機)の二〇〇〇〇海里が最大であり、伊九型(二四三四トン・水偵一機)や伊一五型(二一九八トン・水偵一機)など主力潜水艦は一四〇〇〇海里だった。(カモメ)この時点で、日本は緒戦で大勝利を得ていましたが、米国との国力の差は歴然で、いつまでも優勢を保つことは難しいと日本海軍は判断していたのです。(ウツボ)だから日本が優勢なうちに、さらに敵の戦意を砕くような作戦が必要だった。このようなことから、米国本土に爆弾の雨を降らすことはできないかと考えた。(カモメ)つまり、航空母艦による空襲など本格的な本土進攻は無理にしても、潜水艦搭載機による奇襲なら可能ではないかと考えたのですね。航続距離四〇〇〇〇海里は地球を一回り半できる距離ですからね。
2009.05.08
(カモメ)藤田信雄飛曹長は、軍令部第三課に出頭することになりましたね。(ウツボ)そうだね。田上艦長は藤田信雄飛曹長に「これから直ぐ行ってくれ。多分部員の井浦祥二郎中佐だろうが、俺もよく知っている。井浦に会えば分かるだろう」と言った。(カモメ)藤田飛曹長は新橋駅で下車し、海軍省の古風でものものしい建物の前に立って、行き来する人を見て一瞬、ためらったと記してあります。(ウツボ)それはね、その行き来する人々は、中佐、大佐、少将と偉い人ばかりで、藤田のような飛曹長など一人もいなかった。それで、なんとなく気おくれして、ためらったが、思い切って、中に入っていき、二階の軍令部第三課に行った。(カモメ)ノックして中に入ると、中央に背広を着た立派な紳士がいたのです。テーブルの上に「部長」と書いた木の札がありました。おそらく少将くらいの人だろうと藤田飛曹長は思ったそうです。(ウツボ)そうだね。右のテーブルに中佐の人がいたので、「伊号二五潜水艦の掌飛行長まいりました!」と報告すると、「おうご苦労、こちらにきてくれ」と隣の部屋に案内された。その中佐は誰かを呼びに部屋を出て行った。(カモメ)しばらくすると、見るからに武人らしい風貌のたくましい中佐が入って来た。「おう、ご苦労、井浦部員だ。田上艦長は元気か」と言いました。(ウツボ)そのあと、駐在武官としてシアトルにいたことのある副官という人がチャートを四、五枚持ってきて、広げた。井浦中佐は「アメリカ爆撃をやってもらう。目標は山林だ。副官はシアトルにいたから、今から詳しい説明をする」と言った。(カモメ)藤田飛曹長はアメリカ爆撃と聞いて、心が躍ったが、山林爆撃と聞いて、「なんと馬鹿馬鹿しい事をやるんだ。大飛行機工場などをあればいいじゃないか」と思ったそうです。(ウツボ)だが、やがて最初の中佐も加わり、さらに参謀肩章を吊った海軍中佐・高松宮殿下も、来られて、説明が始まった。その内容は次の通りだった。(カモメ)読んでみます。「米国西海岸は山林が多く、しかもほとんど原始林で、一番恐れているのは山火事。一度山火事が起こると消火のしようがなく、熱い熱風が付近の町を襲う。すると住民は命からがら避難しなければならない」(ウツボ)次を読むよ。「生命をさらす危険に追われながら逃げることは戦争以上の苦しみだ。しかも消火の手のほどこしようもなく、何週間も燃え続けることもある。とくにシアトルの入り口の三角州は山林で、都市が近くまで迫っている。州政府はこの上空を飛行禁止にしている。もし飛行機事故で火災でも起きたら大変なことになるから」(カモメ)続けて読みます。「だから、この森林地帯を、飛行機から焼夷弾投下によって森林火災を発生させれば、その効果は絶大である。また日本の飛行機がアメリカ本土まで飛んでくるということは、敵国の志気を喪失させる効果もある」(ウツボ)藤田飛曹長はこの説明を聞いて「よ~し、やるぞ」と思ったんだ。これに成功すれば、日本陸海軍、および国民の士気を鼓舞することは間違いないと思った。(カモメ)藤田飛曹長が帰艦した後、伊二五潜水艦は横須賀軍港を出港しました。常備排水量二五八四トンといえばかなり大きい潜水艦ですね。航海中、藤田飛曹長は、田辺航海長、田上艦長、先任将校・福本大尉、星軍医長らと士官室の大きいテーブルを囲んでよくブリッジをしたそうです。(ウツボ)十数日の航海の後、伊二五は北米西岸六百海里に到達した。九月に入った西海岸は荒れ模様で、波が高く、発進の機会はなかなか得られなかった。(カモメ)藤田飛曹長が士官室で拳銃の手入れをしていると、田上艦長に呼ばれました。司令塔にいた田上艦長は潜望鏡を見せてくれたのです。(ウツボ)潜望鏡からは、はるかにアメリカの山々が見えた。ブランコ岬の灯台も高くそびえていた。白い海岸線も見えた。田上艦長に礼を言うと、田上艦長は「体のぐあいはよいか」と気遣ってくれた。「はい、いたって上々です」と答えた藤田飛曹長は、発進が近いのを感じた。(カモメ)今回は決死の飛行ですね。敵に発見されれば、敵戦闘機が出てくる。たとえそれを振り切っても、洋上の豆粒ほどの母艦の潜水艦を見つけるのは難しい。(ウツボ)そうだね。だが、もちろん、会合地点が決められており、それは第一揚収地点、第二揚収地点、第三揚収地点が指定されていた。第一で揚収不可能の場合は第二で、第二で不可能ならば第三でと打ち合わせがされていた。(カモメ)第三地点で母艦が来ない時は、すなわち、母艦がやられたときなのですね。その時は、着水して、まず暗号書を沈め、次に飛行機を海没させるために破壊する。最後は拳銃で奥田兵曹とともに自決することになっていたそうです。(ウツボ)昭和十七年九月九日夜明け前、天候も良くなり、ついに、藤田飛曹長と奥田飛兵曹は零式小型水偵でカタパルト発進をした。高度三千メートル、速度百ノットでオレゴン州のブランコ岬に進入した。(カモメ)森林地帯に入り、焼夷弾を投下しました。下を見るとパッと閃光がはしり、花火のように散った。続いてもう一発も投下した。下の森林が燃え上がった。大成功だったのです。(ウツボ)帰りは逃げるように、機種を下げて、速度百三十ノットまで加速した。下に民家があったので、エンジンの回転を絞って、どんどん機を降下させた。(カモメ)下を一万トンクラスの商船が二隻通っていたのを視認しました。その二隻の間を通過して、やがて会合地点に来た。すると母艦の伊二五が浮いているのが見えた。すぐに発見できたのです。
2009.05.01
(ウツボ)花見は楽しかったね。周防大島町の瀬戸公園は、意外によかった。大島大橋や大畠の瀬戸をはるかに見下ろして、心が晴れやかになりました。桜も満開できれいだったし、瀬戸内の海の景色を眺めながら、花見弁当もお酒も美味だったね。(カモメ)それにしても、今年の花見は昨年と比べて参加者倍増で、すごい陣容でしたね。ウツボ先生とカジカ先生、俺とアカエイ君、渚さんとアオザメさん、ヒラメと友人のクマノミちゃん、それにコノシロ君の奥さんのサヨリさんと、総勢九名が、ワイワイガヤガヤと、賑やかだったですね。(ウツボ)特に盛り上がったのは、カジカ先生とヒラメだった。二人とも意気投合というか、乗りまくって、掛け合い漫才みたいで面白かったね。(カモメ)確かに面白かったけど、ヒラメもよくやりますよ。あれで、女の子のつもりなんですかね。もう少し、しおらしさがないと。(ウツボ)いやいや、見方によっては、ヒラメは、あれで、やまとなでしこそのものなのだよ。それに男も女も、元気で楽しい人が一番だよ。酒飲んだ時は、なにより楽しくやればいいんだ。もうそれだけで、百点満点ですよ。(カモメ)俺なんか、聞き役ばかりでしたよ。(ウツボ)でも、カモメさんも、ずいぶん楽しそうでしたよ。(カモメ)ええっ、そう見えましたか。(ウツボ)そう見えましたどころか、察するに、誰かに恋しているんじゃないか、と思えるほど、目が生き生きとしていましたよ。(カモメ)いえいえ、ウツボ先生、それは、桜と海、その美観のせいですよ。(ウツボ)それを言うのなら、桜と海と、女でしょう。ヒラメもクマノミちゃんも、サヨリさんも、みんな桜をしのぐ、美しさだった。それは凄いものでした。花と女と、代わる代わる愛でながら、盃を干して。俺のこころも久しぶりに満開になりましたよ。(カモメ)ハハハ、ウツボ先生も、お酒ばっかりと思ったら、見るところはちゃんと、見ておられたのですね。(ウツボ)まあね。カモメさんも、誰か気になる人、いるのじゃないか。(カモメ)いえいえ、俺は食いしん坊ですから、そっちばかりでした。それはそうと、今度、サヨリさんも戦史対談に参加されたいと言っておられましたね。(ウツボ)あっ、そうだね。話のなりゆきから、そういうことになったけど、大歓迎だね。(カモメ)彼女は、乃木希典研究だけでなく、太平洋戦争を含めた戦史もかなり勉強しておられますよ。(ウツボ)そうなんだ。花見の時に話したけど、サヨリさんは戦史全般について、かなり詳しく突っ込んだ話し方だったから、嬉しかった。こちらが教えてもらった位だよ。(カモメ)期待できますね。花見の話はこれくらいにして、そろそろ潜水空母にはいりましょうか。(ウツボ)オーケー。桜ときたら海軍だからね。帝国海軍の巨大潜水艦、潜水空母の物語だね。海底空母、潜特型(せんとっけい)とも呼ばれるけどね。(カモメ)「米機動艦隊を奇襲せよ!」(南部伸清・二見書房)によると、潜水艦に飛行機を搭載するという発想は、第一次世界大戦が終わる、一九一八年、イギリス海軍が世界で最初に実行に移しましたね。(ウツボ)そうだね。英国海軍のM級潜水艦(一九五〇トン)の一二インチ砲をはずして、水防の格納庫を設け、その前方の甲板上にカタパルトを設置、ベトという小型水上偵察機を射出できるようにした。(カモメ)水偵は飛行作業が終われば着水し、格納庫の上のクレーンで吊り上げて分解、格納しました。(ウツボ)アメリカでも一九二〇年頃、S級潜水艦の艦橋後方に格納筒を設け、小型複葉水上機を搭載、発進は潜水艦の後尾を沈めて、水上機を浮かせた。イタリアでも飛行機を搭載したことがある。(カモメ)しかし、いずれも実験的なもので、その後の発展は無く、実用的に使用されなかったようですね。(ウツボ)それでも、一九三四年(昭和九年)、フランスが当時世界最強の潜水艦スルクーフ(水上排水量二八八〇トン)を誕生させたが、この艦には飛行機が搭載されていたんだ。(カモメ)当時排水量二八八〇トンといえば、かなり大きい潜水艦ですね。(ウツボ)ああ、当時世界最大の潜水艦だった。ところが、二年後に犠牲者を出したことと、フランス海軍作戦上飛行機搭載の価値が認められず、その後飛行機搭載は無くなった。(カモメ)これら、世界列強のなかで、日本海軍だけが、飛行機搭載潜水艦を積極的に推し進めたのですね。(ウツボ)そうだね。日本帝国海軍だけが研究を続けた。その結果、昭和九年、水上機を搭載した伊五がはじめて艦隊に参加、その後、伊六型、伊七型、伊九型、伊一五型ほか、ぞくぞくと水偵を搭載する潜水艦が建造された。(カモメ)昭和十六年十二月八日、開戦時、ハワイに集中した第六艦隊の潜水艦三〇隻のうち、一〇隻が小型水偵を搭載していました。(ウツボ)十二月十七日早朝、日本海軍の潜水艦搭載機が実戦ではじめて使用された。第二潜水戦隊旗艦の伊七(艦長・小泉麒一中佐)が、島陰を利用して搭載機を発進、真珠湾攻撃の効果を確認した。(カモメ)また、軍令部潜水艦主務参謀・井浦祥二郎中佐(海兵五一・海大三三)が立案した作戦も実行されました。昭和十七年八月十五日、横須賀を出港した伊二五(艦長・田上明次中佐(海兵五一)・二五八四トン)は、九月、アメリカ西海岸のオレゴン州沖に進出、九月九日と二十九日、藤田信雄飛曹長操縦、奥田省三飛行兵曹偵察による零式小型水偵が、七六キロ焼夷弾二個をもって、二回に渡ってオレゴン州ブランコ岬付近の森林地帯を焼夷弾爆撃し、山火事を起こさせました。(ウツボ)「幻の潜水空母」(佐藤次男・図書出版社)によると、藤田飛曹長が落とした七六キロ焼夷弾は、破裂すると五百二十個もの小型焼夷弾となって、百メートル四方に飛散し、千五百度の高温で三十秒間燃えるというものだった。藤田飛曹長は後に、その爆撃の模様を次の様に語っている。(カモメ)読んでみます。「樹木の深いオレゴンの山上で、私は第一弾を投下した。下を見るとピカピカと発火し四方に飛び散り、森林火災が起きた。私はこれで四月十八日のドーリットルの東京空襲に報いることができたと満足感で一杯だった」(ウツボ)続けて読みます。「さらに東に数海里飛んだところで第二弾を投下した。またもや爆発が起き、目がくらむような白い花火が飛び散った。成功だ」(カモメ)次を読みます。「その後、第二回の爆撃は二十日後の二十九日の真夜中、月齢十三の明るい夜だったが、帰投時母艦をなかなか発見できず、苦労の末ようやく見つけて着水、収容された」(ウツボ)この時、米国のこの地方では季節はずれの大雨があった後だったので、大火災を引き起こすまでには至らなかった。だが、米国の軍や国民を大慌てさせたことは確かだった。この爆撃が日本軍航空機による最初で最後の米国本土攻撃だった。(カモメ)「還らざる若き英雄たちの伝説」(光人社刊)には、伊二五飛行長だった藤田信雄飛曹長が、このとき日本軍が行った最初で最後の米国本土攻撃のパイロットとして手記を寄稿しています。(ウツボ)そうだね。この米国本土攻撃の詳細が記されている。それによると、昭和十七年八月上旬、横須賀軍港の岸壁に係留されていた伊二五潜水艦でゆったりくつろいでいた飛行長・藤田信雄飛曹長は、軍令部第三課に出頭命令を受け取った。
2009.04.24
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