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(ウツボ)「三島由紀夫と自衛隊」は、東部方面総監部に乱入し自決した三島由紀夫と自衛隊の若い幹部の交流を、祐介・剛介が取材した記録と自身の心情を述べた本だ。(カモメ)その中に、杉原祐介氏が海上自衛隊幹部学校指揮幕僚過程の学生のときの記述があるのですね。(ウツボ)そうだね。杉原祐介氏は、「市ヶ谷の幹部学校の中の一本の木に季節の変化を読み取ることができた」と記している。杉原祐介氏の幹部学校の教室は三階にあり、内庭に面した窓際には、プラタナスの梢を見ることができた。(カモメ)杉原祐介氏は、講義の中休みや、何度か聞いたことのある陳腐な講義があるときにも、ときどき、その梢のほうに目をやることがあったのですね。(ウツボ)杉原祐介氏は、「部隊勤務から解放されて一箇年間、かなり自由な時間を与えられる幹部学校の学生生活は、有難いというほかはなかった」と記している。(カモメ)戦略、戦術、後方、指揮統率といった幹部必須の要件が、講義形式で、個人または共同でする自由研究、これに基づく討議、論文、図演等の様々な方法でうまい具合にプログラミングされていたのですね。(ウツボ)また、幹部学校では部内外の講師陣によって、世界情勢や外交、政治、経済、技術といった広い分野の教育が施された。「退屈な陳腐なものもないではなかったが、学校教育のほとんどは、部隊勤務の身で個人的にする勉学では得られないほどの量と質があった」と記している。(カモメ)学生は入校するとすぐ、戦術や統率などの課題が、自らの選択するテーマに従って課せられるのですね。杉原祐介氏も一年間を通じて個人的に研究してまとめる課題のテーマを定め、資料を探したり、文献を調べたりしました。(ウツボ)これらの研究に関し、二、三年前の先輩の残した論文を調べてみたことがあった。しかし、そこには杉原祐介氏の欲するようなものは見当たらなかった。(カモメ)これについて「概念規定から始まり、現状分析、問題点、解決策といった、いわゆる論文形式の論述の中に、創意も説得力のある信念も、参考とすべき論理も汲み取れなかった。なにゆえ、かくも千篇一律なのか、不可解というほかはなかった」と記しています。(ウツボ)杉原祐介氏は、いわゆる論文という形式の概念規定において規定すること自体、あるいは規定のあり方に問題があるのではないかと思ってみた。(カモメ)また、杉原祐介氏は、ひょっとすると、自分の読み方に問題があるのではないか、と疑ってみました。だが、結局、そんなことで悩んでいても、課題の提出期限は待ってはくれないことに気をとられるようになってしまう。秋風が吹き始めて、もうかなりの日数が過ぎていたのですね。(ウツボ)過去の自分の論文に目を通したとき、「自分の限界を超えるものとして天皇というものを戴く以外に統率の道はない」と言う趣旨の文章から、自分が三島由紀夫についても、単なる好奇心や文学的趣味で関心を持っていたのではないと自覚した。(カモメ)こうして、杉原祐介氏は、幹部学校の卒業論文に相当する研究課題「統率について」の答申に、附録として「菊は咲くか」を書き上げたのですね。(ウツボ)そうだね。「菊は咲くか」は、三島由紀夫を研究して、人はいかに生き、いかに死に行くか問いつめて小説風に書き上げた論文ということだ。(カモメ)この幹部学校の卒業論文の附録として書かれた「菊は咲くか」を基調にして、杉原祐介氏の死後、杉原剛介氏がドキュメントとして仕上げて、出版した本が、「三島由紀夫と自衛隊」(杉原祐介・剛介・並木書房)ですね。(ウツボ)そうだね。次は、「潜水艦を探せ」(岡崎拓生・かや書房)について見てみよう。この本によると、著者の岡崎拓生氏は海上自衛隊航空学生(第三期)出身。P2V-7、P-3C等の操縦士。第四航空隊司令、第201航空隊司令等を歴任。一等海佐で平成八年退官。(カモメ)昭和五十三年一月、岡崎拓生三佐は市ヶ谷(現在は目黒)の海上自衛隊幹部学校指揮幕僚課程(通称CS課程)に入校しました。(ウツボ)期間は一年ちょうど。一クラス二十五名で、皆、高倍率の関門を通り抜けてきた俊秀だった。学生の階級は一尉または三佐(修業までに二佐に昇任する者もいる)だった。(カモメ)ここでは指揮官、幕僚になるための術科素養、戦略、戦術、指揮統率、国際法などを履修すます。(ウツボ)教育は幅広い見地から自由に学び自由に考えるというやり方で、A足すBはCである、というような考え方は少なく、問題提起あるいは素材の提供という形で示され、教官を含めての討論となるようなことも少なくない。(カモメ)「話が上級司令部の方針の批判に及んでも、クーデターを起こそうか、というような方に進んでも、咎められることはない。アカデミック・フリーダムである」と記しています。(ウツボ)「知名人による講話もある。共鳴するものばかりではないが、やはり一流と言われる人の考え方生き方には、啓発されることが多かった」とも。(カモメ)地方研修も多く、北は北海道から、南は沖縄まで、各地の部隊の実情、風土、歴史、人情その他見聞を広めるべく計画されているのですね。(ウツボ)時間的にもゆとりがあって、岡崎三佐は、艦艇、経理補給、整備、潜水艦など、これまで知る機会の少なかった職域の人と交遊を深めることができた。(カモメ)「この学校の良いところは、成績を発表しないことで、優等生も劣等性も等しく機嫌よく修業できた」と記しています。(ウツボ)幹部学校修了者は、既に勤務経験のある者を除いて海幕勤務にするという方針が実行されてきた。(カモメ)クラスの半数近くが該当者で、岡崎三佐も防衛部運用課運用班オペレーション室勤務になったのですね。(ウツボ)そうだね。さて、今回は帝国海軍と海上自衛隊を一面的というか、斜めから見てきた形になってしまったのだが、枠組みの制限もあるので、ここらで、お開きとしましょう。(カモメ)一面的ではなく、もっと両者を詳細に比較して列挙する方法もとりたかったですね。(ウツボ)そうだね。だけどそれは、二十回位では無理だったね。いつかやりましょう。(今回で「帝国海軍と海上自衛隊」は終わりです。次回からは「戦争と文学・陸軍」が始まります)
2012.09.28
(カモメ)中村氏の言いたいことは理解できますが、それにしても、優秀な人で、昇進の道が開かれているのに、幹部になりたくないという人もいるのですね。(ウツボ)そうだね。規模からいえば、民間で例えると、巨大企業以上の組織だからね。いろんな考え方をする人が混在していても不思議ではない。(カモメ)中村秀樹氏はCS(幹部学校指揮幕僚課程)を終了した優秀な潜水艦長ですが、「旧帝国海軍に関心を払わないのは、自衛隊全体の共通した傾向だ」と記していますね。(ウツボ)そうだね。海上自衛隊発足当時は旧海軍の伝統を引き継ぐという状況だったが、時が経って近代化兵器システムを扱う現在では、それも薄れてきているのだろう。中村氏の現役時代を振り返ってみても、「海上自衛官で日本帝国海軍の主要海戦の名を二つ三つ知っていれば上等な方だった」ということだ。「主要海戦についての基礎知識を有し、自分なりの分析や評価ができる人物はきわめて稀だった」とも述べている。(カモメ)「軍事組織というものは、過去の戦歴や部隊の歴史を大事にする。これは、日本以外の諸外国では至極当然のことだ」とも。(ウツボ)「どういう訳か、旧軍に関心のない自衛隊でも、外国に行くとこの例に倣う。たとえば、海上自衛隊がハワイの真珠湾に出入りする際、記念艦アリゾナに敬礼する」と記している。(カモメ)入港後はアリゾナ記念館まで出かけていって慰霊の行事までするのですね。潜水艦の場合は、これに加えて潜水艦基地内の慰霊碑にも慰霊に赴くのですね。(ウツボ)「だが、一方で日本海軍に対しては冷淡だ。毎年十月に東郷神社で日本海軍の潜水艦慰霊祭がるが、海上自衛隊はほぼ無視である」と。(カモメ)潜水艦隊司令官(海将=中将相当)の代理として、その二段階下位にある潜水隊司令(一佐=大佐)が出席する程度なのですね。(ウツボ)「本来ならば、海上自衛隊が主催すべき行事だ。過去に心あるごく少数の潜水艦隊司令官が積極的に関与しようとして、部内の反発を買った」と記している。(カモメ)「旧敵国の海軍に対する篤い礼に比較すると、自国の戦没者に対して、あまりに冷淡な態度だ」とも。(ウツボ)「海上自衛隊の規律も緩んでいる。下士官の曹や古参士長が幹部に反抗的であることは珍しくない。下級幹部が部下に敬語を使うなどは日常的だ」と記している。(カモメ)「十年以上前の話だが、艦長の業務命令に従わなかった不心得者の一尉が、艦長に叱責されたことを逆恨みして、虚偽の告発をした」。(ウツボ)「一尉は罰せられることなく、艦長は処分された。調査の結果、事実無根と分かったにもかかわらず、艦長は、あえて別件で処分された」。(カモメ)「命令違反を正当化させる前例を作った。海事刑法では抗命罪だが、海上自衛隊では許されるらしい。こんなことでは有事に命令違反が頻発するだろう」。(ウツボ)「兵士に聞け」(杉山隆男・新潮社)によると、護衛艦「はたかぜ」(基準排水量四六〇〇トン)は、冬の吹雪の中、出港した。著者の杉山隆男氏はこの艦に同乗して取材した。(カモメ)出港時、隊員の一部は甲板上に整列していました。護衛艦が岸壁を離れ港外に出るまで、威儀を正して甲板に整列していなければならない。軍艦としての出港時の儀式ですね。(ウツボ)雪の横から吹き付ける中、隊員たちは、凍りついた手足を小刻みに震わせながら立っていた。普通なら、せいぜい二十分くらい我慢していれば「別レ」の号令がかかるのだが、この日は荒天で大幅に出港が遅れ、三十分を過ぎても「はたかぜ」は港内に留まっていた。(カモメ)寒さをまぎらわすように上官への悪口を言い合っていた隊員たちは、それでも列を崩さずに吹雪の中に整列していました。時間は過ぎていくが、「別レ」の号令はかからず、隊員たちは苛ついていました。(ウツボ)そのうち、上の艦橋から死角になっている列の一人の下士官が「寒ッ」と叫ぶなり、痺れを切らしたように、艦内の入口に駆け込んだ。(カモメ)すると他の隊員たちも我先に列をはずれ、入口部分のほんのわずかなスペースに殺到したのです。年配の上級下士官たちも列を離れだしました。(ウツボ)いつの間にか艦橋下の甲板に辛抱強く立っているのは若い甲板士官と、艦橋との連絡に使う無電池電話のヘッドセットをかけた伝令の隊員だけになってしまった。(カモメ)もちろん、艦橋から丸見えの艦首で整列している隊員たちには逃げ場はなく、彼らは相変わらず寒さに震えながらその場で足踏みを繰り返していました。「別レ」の号令がかかったのは、整列を始めて一時間後でした。(ウツボ)最後に、「自衛隊が世界一弱い38の理由~元エース潜水艦長の告発」(中村秀樹・文芸春秋)の中の一説を紹介してこの項を終わろう。この本によると、フランス語に「ノーブレスオブリージュ」という言葉がある。高い地位にある者は、相応の社会的責任を果たすということだ。(カモメ)高貴なる者の義務、などと訳されることも多い。自衛官や軍人は、国家防衛のために、一番大事な命を懸ける職業ですね。それ相応の扱いをすべきだろう、と記しています。(ウツボ)「逆に言えば、社会的地位の低い自衛官に、いざというとき死ねと要求するのは、虫がよすぎるというものだ。優秀な人材を得て、高度の教育をし、その職務に報いる体制を整えることが、国家としての責任だ」と述べている。(カモメ)「彼らの士気を高めることは、報いを受ける軍人(自衛官)のみの利益ではなく、国民の利益、国家の利益でもあるのだ」とも述べています。これが、中村氏が心から言いたいことだったのでしょうね。【海上自衛隊幹部学校】(ウツボ)そうだろうね。さて、最後に、旧帝国海軍の海軍大学校(甲種学生)に相当する海上自衛隊幹部学校(指揮幕僚課程)について、少しだがふれてみよう。(カモメ)はい。「三島由紀夫と自衛隊」(杉原祐介・剛介・並木書房)によると、著者の杉原祐介氏と杉原剛介氏は、双子で、共に防衛大四期生ですね。(ウツボ)杉原祐介氏は、防衛大卒業後海上自衛隊入隊。CS(海上自衛隊幹部学校指揮幕僚過程)卒。航空機整備部門、第一術科学校(教官)等勤務。昭和六十三年、一等海佐のとき、癌で死去。(カモメ)杉原剛介氏は、防衛大卒業後陸上自衛隊入隊。二等陸尉で退職。九州大学大学院修了。理学博士。福岡大学理学部教授。同大学名誉教授。平成二十三年二月死去。
2012.09.21
(カモメ)潜水艦が本気でやれば、対潜部隊は探知できないから、訓練ができないのですね。だから、訓練規定というものがあります。潜水艦に、「見つかりやすいように行動しろ」というハンディを与えるのですね。(ウツボ)そうだね。例えば、航空機(P3C)相手では、一定の時間スノーケルをすることが多い。スノーケルをしない電池潜水艦は、探知できないからだ。(カモメ)中村氏は「それでもなかなか見つけてくれないから、訓練中は往々にして過剰にスノーケルをすることになるので、電池が一杯になってエンジンは空運転に近い。危険な水素も発生する」と述べています。(ウツボ)さらに、「充電の必要がなく、数ノットの速力だけのためにエンジンを回すのだから、負荷は少なく雑音はさらに下がる。もともと見つけ難い潜水艦がいよいよ探知できなくなるという悪循環になる。燃料も無駄だし、低負荷運転というのはディーゼルエンジンによくない」と記している。(カモメ)「飛行機の連中の知らない負担が結構ある。そのくせ、航空部隊というのは横着で、訓練の記録はいい加減なものを送ってくる」とも。(ウツボ)訓練中の英語での通話について、中村氏は「訓練の現場では一尉あたりの青二才機長が、二佐の艦長相手に横柄な通話をしてくることもある。英会話のできない人間に限って、妙な英語を使いたがるのはどこでも同じである」と記している。(カモメ)また、「海上自衛隊の正規の交話要領を無視して、アメリカ海軍のパイロットのまねをするのだ。無礼だ。lこういう手合いに限って、本物の英語は絶対に話せない」と指摘しています。(ウツボ)だが、「海上自衛隊の対潜哨戒機の能力はおそらく世界一だ。彼らが、訓練で相手にしている潜水艦は、世界一の電池潜水艦である海上自衛隊の潜水艦であるし、たまに訓練相手となる原子力潜水艦は、やはり世界一のアメリカ原子力潜水艦だ。レベルの高い相手と訓練すれば、当然能力は高くなる」とも記している。(カモメ)中村氏は米軍パイロットの評価もしています。「アメリカ海軍で優秀な人材は潜水艦とパイロットに偏在する。そして最優秀のパイロットは空母艦載機の戦闘機パイロットだ。次に空母艦載機のパイロットだ」。(ウツボ)続いて「旅客機と変わらない対潜哨戒機のパイロットや戦術航空士には大した人材は配置されない。だからアメリカ海軍の対潜哨戒機のレベルはだいぶ落ちる」と記している。(カモメ)海上自衛隊のパイロットについては、「海上自衛隊は対潜哨戒機しかないから、航空部隊では最優秀の人材がここに来る。だからアメリカ海軍の対潜哨戒機乗組員よりは優っている。だが、その世界一の対潜哨戒機にも、わが潜水艦は探知されないレベルにあるということだ」と述べていますね。(ウツボ)そうだね。「訓練での一番の負担は記録だ。対潜実目標たる潜水艦の行動の詳細は、対潜部隊が後で反省や研究のため必要だ」とも。(カモメ)「そのため、潜水艦では当直中にみんなで沢山の記録をつける。これが潜水艦を動かすことよりずっと労力を要する。これもサービスの一環であると甘受している」。(ウツボ)以上のように中村氏は訓練についての問題点を指摘している。当時、潜水艦長だった中村二佐は、「だが、たちの悪いのは航空部隊だ」と記している。「潜水艦側は記録を改めて書き直して、見やすくするのだが、対潜哨戒機(P3C)あたりは、機械が記録したものをそのまま送ってくる」と。(カモメ)中村艦長は「実に不誠実で無礼な態度だ」と述べています。記録による訓練の再構成は、戦術の評価や向上に不可欠の手続きです。そのため、自分の記録と相手の記録をつき合わせて、客観的事実を把握するのですね。(ウツボ)そうだね。潜水艦側は訓練規定に従って、相手が利用しやすいように、文字の記録も図も清書して提出する。「ところがP3Cから送ってくるものは、機械がタイプした記号の羅列や、縮尺の合わない航跡図などだから、これを潜水艦側で解読したり、作り直す手間がかかる」と問題点を記している。(カモメ)中村艦長は、司令部を通じて、この不届きな態度を抗議しましたが、「熱意と能力不足の司令部の幕僚たちは、自分の仕事を増やすのがいやで、握りつぶしていた」と述べています。(ウツボ)海上自衛隊では、大学卒をA幹部、海曹からの試験選抜者をB幹部、曹長、准尉からの累進者をC幹部という。C幹部が特務士官に相当する。(カモメ)業務が自分の特技だけに限定される海曹の勤務より、幹部の勤務がはるかに厳しいので、「B幹部やC幹部に本気でなろうという海曹は少ない」と述べています。(ウツボ)「幹部としての名誉や待遇は、あまりにもささやか過ぎて、激務の代償にはならないからである」とも。中村艦長は、生徒出身の海曹と、「幹部と海曹とではどちらが楽か」と議論したことがあった。(カモメ)彼が幹部のほうが楽だというから、では、B幹部のへの試験を受けろ」と言ったら、彼は前言を撤回したのですね。中村氏は「それが、海曹の本音だ」と記しています。(ウツボ)「彼の能力なら、簡単に合格したはずだが、幹部への昇任試験を回避する彼の態度が、現実を雄弁に語っている」とも。
2012.09.14
(カモメ)この本によると、すでに使い古されているのですが、それぞれの自衛隊の性格を現す言葉がありますね。昔の防衛庁記者クラブの作というものだが、と記されています。(ウツボ)陸上自衛隊は「用意周到、動脈硬化」。海上自衛隊は「伝統墨守、唯我独尊」。航空自衛隊は「勇猛果敢、支離滅裂」というものだね。(カモメ)さらに、内局は「優柔不断、本末転倒」。記者クラブは「浅学非才、馬鹿丸出し」と記されています。(ウツボ)「これが潜水艦だ」(中村秀樹・光人社)によると、帝国海軍では、潜水艦は、敵艦隊と決戦する味方艦隊に協力する任務が優先された。(カモメ)一方、海上自衛隊の潜水艦作戦は個艦(一隻づつの単独行動)が基本ですね。潜水艦の捜索能力が向上したことと、相変わらず敵味方の識別が困難なためですね。(ウツボ)そうだね。同じ海域に味方潜水艦を複数配置すると、潜水艦を探知した場合、それが敵か味方か分からず、攻撃が躊躇される事態を回避するためだ。(カモメ)また、任務が帝国海軍時代の味方艦隊への協力から、独自の潜水艦作戦が優先されることになったのですね。これはアメリカ海軍の強い影響によるものですね。(ウツボ)だが、海上自衛隊の水上部隊や航空部隊に、潜水艦への理解と認識が欠けているのは、帝国海軍以来の旧弊で、改善はみられない。(カモメ)中村氏は「帝国海軍は、主敵のアメリカ戦艦について深い関心を払っていたが、海上自衛隊は敵対国潜水艦について、どの程度関心を持っているだろうか」と記しています。(ウツボ)海上自衛隊では、低練度の潜水艦を群司令の責任で訓練し、潜水艦隊司令官の使用に耐える高練度艦にすることになっている。(カモメ)これについて中村氏は「この練度管理はあまり現実的ではない。なぜなら、潜水艦の練度は、艦長以下全乗組員の総合力で決まるのに、人事異動は考慮していないからだ」と述べています。(ウツボ)影響の少ない新参の若い隊員ならいざ知らず、幹部や古参海曹など主要メンバーを、定期、不定期の人事異動で入れ替えることが珍しくない実情だという。(カモメ)形式的な訓練検閲をして低練度艦から高練度艦にしたとたん、艦長が交代する、などということは珍しくないのですね。(ウツボ)潜水隊群には司令部と潜水艦基地隊、潜水艦救難艦のほかに、二~三個の潜水隊がある。中村氏は「潜水隊司令は、作戦指揮はしない。部隊運用上不要な隊司令は、本来は無用だ」とも述べている。(カモメ)昭和六十三年の「なだしお」事件のとき、隊司令は乗艦していたが、法的な責任を問われることはなかったということです。(ウツボ)「隊司令の仕事とされる教育任務は、群司令が担当すればよく、隊司令や隊勤務の定員を群に移したほうが、よほど効率的だ」と中村氏は主張している。(カモメ)潜水艦作戦は、潜水艦隊司令官が直接指揮を執ります。群司令や隊司令を飛ばして、艦長に直接司令官が命令を出すのですね。(ウツボ)だが、陸上で指揮を執るから当然、現場の潜水艦の状況把握は困難だ。潜水艦からの報告も、攻撃して成果を得ても、安全にならないと報告の電報は発信できない。場合によっては基地の近くに帰るまで報告できないこともある。(カモメ)だから作戦指揮を執るといっても、実際には現場の艦長次第、というのが現実なのですね。中村氏は「司令官のできることは、作戦中の潜水艦に情報を流すこと、情勢が大きく変化したら、任務や哨戒区域を変更することくらいだ」と記しています。(ウツボ)筆者の中村氏は、現役時代、対潜部隊に対潜戦の講習をしたことがあった。中村氏が強調したのは、潜水艦からの攻撃を防ぐことはできないが、この潜望鏡発見に努めるよう助言し、具体的な位置を、襲撃の集計結果として教えたことがあった。(カモメ)むやみに無目的な潜水艦捜索をするより、そこを重点的に探すように助言したのですね。若い哨戒長やヘリのパイロットたちは興味を示したのですが、老境に入ってしまって思考力の低下した艦長以上は、関心を示さなかったのです。(ウツボ)中村氏は「兵力の使用に決定権を持っている連中がこのありさまだから、対潜能力は向上しない。相手の動きを抑えて実態に即した作戦ではなく、自分たちの都合や自己満足で兵力を動かすからだ。帝国海軍以来の悪弊だ」とも述べている。
2012.09.07
(ウツボ)また、瀬間氏は「私事にわたって恐縮だが、海軍主計科士官であったので、一言言わせていただきたい」と、次のような体験を述べている。(カモメ)読んでみます。「私が一年目の中尉で揚子江警備の二等駆逐艦の主計長をしていた時のこと。体格が悪いため経理学校に入った私は兵科士官になりたくてたまらないでいたが、満州国に江防艦隊のできるのを知った」(ウツボ)「そこで満州国海軍に知人が多いと聞いていた海軍省軍需局三課の部員(私が生徒のときの海軍経理学校主計長)に『海軍を辞めて満州国海軍の兵科士官になりたいので宜しくお願いします』という意味の手紙を出した。だが結局、心得違いを非常に叱られて、思い直したことがある」(カモメ)「海上勤務を希望して防衛大に入った以上、誰でも砲を撃ち、魚雷を発射するような配置(最も現在の新型護衛艦では、ボタンを押せばコンピューターの指示によりひとりでに弾丸が飛び出し、ひとりでに魚雷が飛び出てホーミングするので、勇ましさもロマンもないらしいが)に就き、艦長、司令になることを希望するのが当然だろう」(ウツボ)最後に、瀬間氏は、「しかし、遠洋航海に行く前から経理補給に興味を持つとはどういうことであろうか」と、しめくくっている。だが、これは、あくまで当時の話で、現在の状況は、分からない。(カモメ)瀬間氏は、シビリアンコントロールの問題についても述べています。内局との関係も、制服組は批判が多いと。「シビリアンコントロールとは政治の軍事に対する優先であって、内局職員(背広組)の自衛官(制服組)に対する優先ではない」とも。(ウツボ)そうだね。このことについては、次のような話も暴露している。もっとも、これも現在ではなく、当時の話だが。現在は、論文問題を引き起こした、田母神航空幕僚長の著書を読んでみると、航空幕僚長として、防衛事務次官にさえ、ズバズバ遠慮なくものを言っている。(カモメ)瀬間氏の話を読んでみます。「先ごろ海上自衛隊を定年退職した幹部自衛官によると、その人が在職中、内局の役人が地方総監部にやってくると下へも置かぬもてなしをし、その相手より不相応に高いランクの者が出る」(ウツボ)「例えば一尉相当の部員が来ても一佐の部長が相手をし、課長当たりが来ると総監が相手をして一席設けるのが風習になっていた」(カモメ)「また、内局部員(三十歳代)が幕僚監部の一佐を呼びつけて、文句を言うことも多く、用事のある場合に呼びつけるのは普通のことであったという。いや、それどころか、昨年まで海幕にいた人の話では、部員は一佐のみならず、将補をすら呼びつけることがあったそうである」(ウツボ)「あるとき、部下にやかましいことで有名なある幕僚長が内局に行き、誰かと打ち合わせを終わって部屋からヒョイと出てきた」(カモメ)「そのとき、たまたまその日、私服を着ていたある一尉と、その幕僚長が廊下でバッタリ顔を合わせたら、幕僚長が思わずペコリと頭を下げたという話を聞いたことがある」(ウツボ)「背広を着ていたので、内局の部員と間違えたらしいというのである。これは作り話ではないかと思うが、こんな環境に近いことは否めないのではなかろうか」。(カモメ)瀬間氏は、こんな情けない状況になったのは、保身のためもあるかも知れないが、もし内局の役人のご機嫌を損じたら、国家の大事である国防諸施策を推進することすらできなくなるからであると述べていますね。(ウツボ)それは、内局に決裁をもらわなくてはならないからね。また、別の話もある。瀬間氏が大阪基地隊(阪神基地隊の前身)に勤務しているとき、司令である瀬間氏にいきなり電話をかけてきて「内局の何々課長の紹介で貴方のところに行って買ってもらえと言われたから買ってくれ」と言って、法外に高い何とか年鑑を売りつけにきた男がいた。(カモメ)内局の課長の紹介者を断るとためにならぬぞという脅し文句だったのですね。そのように悪用されるほど内局は制服に対し強い立場に置かれていたのですね。(ウツボ)瀬間氏は、それが仮に事実であったとしても必要のないものに国費を使ってまで権力に組するつもりはないので、そのつど断っていた。(カモメ)またあるときは、どこか海上自衛隊の航空部隊の近くの土地に所用があるので、海上自衛隊の飛行機に便乗できるよう頼んでくれ、と言って来る地方有力者もいました。(ウツボ)断ると、「それならよい。○○先生(今は故人となった自民党の大物)を通して頼むから」という返事が返ってくる。「誤ったシビリアン。コントロールはどこにでも頭を出してくる」とも述べている。(カモメ)ところで、「自衛隊が世界一弱い38の理由~元エース潜水艦長の告発」(中村秀樹・文芸春秋)によると、著者の中村秀樹氏は防衛大一八期卒。海上自衛隊入隊。幹部学校指揮幕僚課程卒。潜水艦長、護衛艦隊幕僚、幹部学校教官、防衛研究所等に勤務。平成十七年に海上自衛隊を退職しています。(ウツボ)経歴から見ると、これはそれほど昔の話ではない。中村氏は高級幹部だが、これもある種の暴露本といえるね。中村秀樹氏は、「旧軍(とくに陸軍)暴走の要因の一つに幕僚統帥があった」と指摘している。要するに、責任や権限のない参謀が勝手に作戦を立て、指揮官や上級司令部が追認することで日本の歴史が変わった。ノモンハンや、満州事変がその好例だと記している。(カモメ)さらに、「今日の内局の干渉は、本質においてそれに匹敵する問題である。むしろ軍事知識のない背広官僚が用兵に口を出すのでさらに深刻である」と中村氏は主張しています。(ウツボ)中村氏自身、入庁後間もない二十代の若い内局の部員(初級の尉官相当)が、三十代の古参三佐をつかまえて「下っ端の自衛官」と暴言を吐くのを直接耳にしている。(カモメ)また、部員と自衛官が混在する情報本部や防衛研究所では、部員が上級者や上司である自衛官を軽視するのは日常的な光景であるとも。(ウツボ)課長に過ぎない某部員は、自分の上司たる部長(自衛官)を差し置いて、他の部から調整に出向いた中村氏に次のように言った。(カモメ)「自分の意見が部の意見だ。部長は私が指導する」。(ウツボ)中村氏はあいた口がふさがらなかった。要するに、上司である部長は自衛官だから、その意見はどうでもいいということだった。(カモメ)こういう言い方をされると、やりきれませんね。民間の会社でも、このような状況はあり得ないですね。(ウツボ)そうだね。
2012.08.31
(カモメ)高間直道氏は早稲田大学哲学科卒業後、昭和十六年学徒出陣で入営。満州、北支など中国大陸を転戦し、昭和二十一年夏、中支から復員した元陸軍大尉ですね。(ウツボ)戦後は東京医科大学教授。「哲学入門」(大和書房)、「人生哲学入門」(大和書房)、「顔の辞典」(東洋書館)、「人間診断学」(青春出版社)、「哲学用語の基礎知識」(青春出版社)などの著書がある。(カモメ)「泣き笑い学徒兵出陣」の手記では、防空に当たる機関砲中隊の指揮小隊長である著者、高間中尉の中国大陸前線での命をかけた戦闘が哲学者らしくユーモアに述べられていますね。(ウツボ)一分間三〇〇発の二〇ミリ機関砲六門を備えた敵機の銃撃を、繰り返し、繰り返し受けたときの恐怖。部下は機関砲を撃っているので怖くないらしいが、指揮官の小隊長は軍刀ひとつで指揮、号令をかけているので怖い。(カモメ)ところが、第三小隊長、S少尉は軍刀を防弾楯のようにかまえて、それに身を潜めるようにして獅子奮闘していました。それこそ、「ト伝と武蔵の鍋蓋試合」の絵そっくりだったのです。(ウツボ)ちなみに、これは、宮本武蔵が木刀で打ち込むと塚原ト伝が鍋の蓋で受けとめたという話だが、その前にト伝が菜箸を立てて構えたら武蔵にはト伝の姿が見えなくなったという話もある。(カモメ)あとで高間中尉が、軍刀を防弾楯のようにかまえて、それに身を潜めるようにして獅子奮闘していたそのことを、S少尉に訊くと次のように答えたのです。(ウツボ)「だが、高間中尉殿、ああでもしなければ恐ろしくてどうにもならないんですよ。こちらは、隠れて号令もかけられず、拳銃もぶっ放すわけにもいかず。いや、あれで軍刀も、けっこうタマよけになりますよ」。(カモメ)将校だからといっても、もちろん命は惜しいのですね。このユーモアに語られているS少尉のト伝流の指揮振りは、裏を返せば、死への恐怖に対する切羽詰った切実なる演技だったのですね。(ウツボ)そうだね。S少尉は生き延びていたら、戦後、このことを振り返り、どのように捉えるのか。高間氏は過去と現在の関係について、次のように述べている。(カモメ)「私は過去を心から愛する者の一人である。これに対し、伝統主義者たちは過去を愛するのではない。彼らは過去を過ぎ去ったままにしようとせず、過去を現在たらしめようとする」。(ウツボ)例えば、俺が自分の過去を美化し現在に移住させ、順風満帆に過ごしているとする。だが、いつの日か、今までにない大嵐に遭遇する。すると、「いかに生きるべきか」と深刻に葛藤するようになる。(カモメ)「いかに生きるべきか」。深く考えもしなかった自分の生きる目的を真剣に探すのですね。(ウツボ)そうだよ。だが、やがて疲れ果てて、迫り来る目前の大きなうねり(障壁)に背を向けて、俺はひとり黒い空を見上げて嘆息する。「一体、美化する必要があったのか」と。(カモメ)なぜ、自分の過去(今までの人生)を、ありのままに見つめて受け止めなかったのかと。(ウツボ)悪いことをせずに正直に生きていれば、それだけでも愛すべき価値のある過去なのだから。「いじめ問題」でも、いじめられることは、悪いことをしたのではないから、絶望して自殺することはないと思うけどね。それも愛すべき過去なのだから。カモメさんはどう思います?(カモメ)そうですね……。でも、自分の未来に絶望する場合もあるわけですね……。(ウツボ)そうか、未来か……。……だが、未来なんて、一秒先も分かりゃしない。だから少なくとも、俺は未来に絶望なんて、したくありませんね。(カモメ)けれども、これは、過去と現在と未来を、どう捉えるかという問題になりますから、もっと、いろんな見方が出てきますよね。(ウツボ)話が膨らむね。それに、かなり横道にそれたので、ここらで本題に戻ろうよ。次は、ノーマルな海上自衛隊を述べても、毒にも薬にもならないので、断片的ではあるが、少し斜めからアブノーマルなエピソードを垣間見てみよう。【海上自衛隊の憂鬱】(カモメ)分かりました。「自衛隊を裸にする」(瀬間喬・ことば社)によると、著者の瀬間喬氏は海軍経理学校卒の元海軍中佐ですね。戦後陸上自衛隊に入隊、その後海上自衛隊に転官し海将補で退官した人ですね。(ウツボ)そうだね。この本によると、海軍ではどこの国でも躾として物にもたれることを厳禁している。瀬間氏が陸上自衛隊から海上自衛隊に転官した翌年(昭和三十四年)、佐世保勤務中、副司令官夫妻の乗っている英国東洋艦隊の旗艦が入港し、その艦上パーティに招待されたので瀬間氏は奥さんと長女を連れて行った。(カモメ)帰りにわが海上自衛隊の三佐(少佐)が、酔っ払って陸上と艦にかけられたタラップの途中で、ハンドレールに、後手をまわして寄りかかり、ヘラヘラ笑っているのを見て、瀬間氏は泣きたくなるような恥ずかしい思いをしたのです。(ウツボ)聞けば陸軍の幹部候補生出身だというので無理もないと思ったが、このような場合ハンドレールに寄りかかるのも勿論であるが、酔態を見せるなど、とんでもないことであると瀬間氏は思った。(カモメ)瀬間氏自身は自衛隊を愛し、自衛官の地位向上や自衛隊を精強にすることに蔭ながら一生微力を捧げたいと思っていたのですね。(ウツボ)だが、「しかし、正直なところ家人には、『私が死んだら海軍のときの軍服(中佐)を棺の中に入れてくれ』と言ってある」と述べている。海将補の制服を入れてくれという気持ちが起きぬところに瀬間氏の悲しみと自衛隊の悲しみがある。(カモメ)また、次の様なこともあったのです。その数年前、現職の海幕経理補給部長が防衛大卒業の優秀な者で経理補給系統を希望する者が多いと言って喜んでいるのを瀬間氏は見たのです。(ウツボ)というのは、現実にそういう希望者が多いし、また、遠洋航海出発前、東京における実習員(新三尉)歓送パーティのさい、実習員がたくさん、経理部長のところへ寄ってきて、経理補給の仕事の内容を聞くそうだ。これはあくまで瀬間氏の述べている当時のことで、現在の話ではないのだが。(カモメ)「これは経理補給から見れば嬉しいことかもしれない。しかし、海上自衛隊として、このような現象が喜ばしいことといえるのだろうか」と瀬間氏は述べていますね。(ウツボ)ハードな艦艇乗り組みやパイロット希望者は減少し、ソフトなデスクワークの職域への希望が多くなったと。しかも優秀な者がそうだと。
2012.08.24
(ウツボ)「防衛大学校の真実」(中森鎭雄・経済界)の著者、防衛大一期生の中森鎭雄氏(工学博士)は次のように述べている。(カモメ)読んでみます。「とりわけ私がずっと感じてきたのは、ある種の欠落感である。防大生は何かが欠けているのではという漠然とした不安―」(ウツボ)「私は自衛隊に十三年間勤務して三佐で退官し、三菱総研に入社した。自衛官時代は、あまり意識しなかったが、民間企業に転職した後に、時折、言いようもない欠落感に襲われた。青春時代にやるべき何かをやり残したような」(カモメ)「どこか一般社会に馴染めない。これは私だけの感覚ではないはずである。防大、自衛隊と純粋培養された仲間でも、定年退官を迎えて一般社会に入ると気づく。俺はどこかみんなと違うのではないかと」(ウツボ)「恐らく、この欠落感は自衛官特有なものではないような気がする。なぜなら、一般大学出身の自衛官は制服を脱いだ途端、一般社会に溶け込んでいるからだ」(カモメ)「なぜか防大出身者だけが、退官して後も自衛官を続ける。防大出身者はすぐにわかる。どこを切っても自衛官、防大……一生、ついて回る感があるからだ」(ウツボ)「実際、防大OBは仲間内で固まる傾向がある。あえて新しい世界で親交を深め、新たな友人、知人をつくろうという意思があまりない。自衛隊と関係なくなっても、当時の仲間、先輩、後輩との交流は深めても、新しい社会の輪に加わろうとはしない現象が多々見られるのだ」(カモメ)「防大OBにはもう一つ大きな特徴がある。時には過剰とも思えるほどの母校への愛着。愛校心という表現とは少し違う。言ってみれば防大への異常なほどの愛情で、体の芯に宿っているというか」(ウツボ)「いい例が私である。私は防大卒業後、自衛官時代に大阪大学の大学院に五年間学んだが、阪大には何の感情もなく、阪大の話題が出ても無関心だ。ところが、防大のこととなると血が騒ぐ」。(カモメ)「私の場合、俺は一生防大生なんだとある時点で悟り、もう防大や自衛隊は否定すまい、俺は三菱の人間ではないんだ、と割り切り、何かが吹っ切れ、心の平穏が戻ってきた。かくも、防大アイデンティティは防大出身者に深く刻み込まれる」。(ウツボ)中森氏は、「防大OBは仲間内で固まる傾向がある」、「新しい社会の輪に加わろうとはしない現象が多々見られる」、母校の防衛大に「(愛校心を超えて)愛着心、異常なほどの愛情を持っている」などと述べている。(カモメ)さらに中森氏はこれらを「自分だけの主観ではなく防衛大OBの特徴」とまで主張していますね。(ウツボ)だけど、主観ではないといっても、中森氏は防衛大一期生という特殊な立場から見ている。同じ防衛大OBでも、最近の十五期から二十期位になると意識も違うのではないか。防衛大OBの本や、ホームページなどを見ると、多士済々で十人十色だ。退職後日本社会にどっぷり溶け込んで、指導的立場で活躍している人が多い。(カモメ)そうですね。(ウツボ)俺はこの中森氏の「一連の欠落感」の記述を読んで、最初は、これは部外者という環境から生じる現実を越えた防衛大への極端な思い入れ・美化の感情移入ではないかと思った。(カモメ)なるほど、中森氏は、三等陸佐のとき自衛隊から天下の三菱総研に転職しましたからね。途中で自衛隊を去った著者はもう部外者ですからね。(ウツボ)そうだね。(カモメ)その部外者のノスタルジックな思い入れから生じた強烈な自衛隊、防衛大への愛着ですか。(ウツボ)そう思った。だが、少し単調的過ぎる。今や、世界や災害等で活躍・貢献する国際的自衛隊は日本国内、一般社会にかなり融和、浸透している。だが、中森氏の歩んできた一期生の時代は、太平洋戦争の後遺症を引きずる軍隊アレルギーの日本国民に、自衛隊はまだまだ理解を得ていなかった。(カモメ)中森氏はそのような逆境的な環境の中で、軍隊という特殊空間である自衛隊を経験した。(ウツボ)そう、さらに、他の一期生と違って、その逆境的な環境のまま途中で制服を脱いだ。そのような状況から、中森氏は自分自身の中で「新しい社会の輪に加わろうとはしない精神構造」を自ら創り上げ、そういう視点を一般論として容認せざるを得なかったのではないか。(カモメ)あくまで、この本の著者としての中森氏の場合ですね。(ウツボ)もちろんそうだ。それと、中森氏は防衛大の学生寮で同期や先輩と共に寝起きして共に学問と訓練に励むという体験、いわば「同じ釜の飯を食う」という、四年間の密接な家族的な生活から生まれた強い絆。そこから生じた強い同族意識を少なくともこの本の発行当時まで持ち続けてきた。(カモメ)防衛大は第二の故郷だと。(ウツボ)さらに三菱総研に入社していながらも、「俺は三菱の人間ではないんだ」と言い切っている。この箇所のタイトルが「防大民族の憂鬱」というところからすると、それを全て肯定してはいないようだが……。(カモメ)ふつうは、その会社に入社したら、その会社の人間になりきろうとしますからね。(ウツボ)だから、この防衛大のところで長くなってしまったけれど、シンクタンクの管理職であった、分析のエキスパート、頭脳明晰な中森氏の「愛着心、異常なほどの愛情」「俺は三菱の人間ではないんだ」などという極端な情緒的・感情的表現に、驚き、感動してしまった。(カモメ)俺なんかは素朴・単純な捉え方で、社会に出て働くための大学であり、その学生生活は、青春時代の一コマですが、中森氏の説明する「強い愛着心」というほどのものは感じられないですね。(ウツボ)俺も凡庸な学生生活を送った……。しかし、中森氏の「愛着心」とまではいかなくても「愛校心」位はもっている。自分の出身である、小学校、中学校、高校、大学には。早稲田出身の者は、集まれば、「都の西北、早稲田の森に……」と歌う。(カモメ)確かに自分の出た大学や高校を悪く言う人はいないでしょうね。校歌くらいは覚えている。さらに、学生時代に大恋愛でもすれば、その大学は人生の特別な背景として胸に焼き付けられることになりますね。(ウツボ)ハハハ、大恋愛の末、結婚でもすれば、それこそ第二の故郷だ。逆の話もある。俺は以前知人がいたので、広島県の呉にある海上保安大学校を訪ねたことがある。そのとき、教室の窓ガラスに落書きがしてあった。「怪情不安大」とね。それを書いた学生の心情。(カモメ)ウツボ先生、そういう学生はいますよ。どの大学にも。大学生活に絶望して自殺する学生もいるくらいですから。(ウツボ)そうすると、この問題には、「自分の過去の生き方を、現在の自分がどうとらえるか」という、哲学的側面が浮かび上がってくる。昭和三十一年に発行された「特集人物往来~日本戦史の告白」(人物往来社)に、哲学者・高間直道氏(故人)の「泣き笑い学徒兵出陣」と題した手記が掲載されている。
2012.08.17
(カモメ)海上が、海上自衛隊幹部学校長・佐久間一海将(前職=海幕防衛部長・後職=佐世保地方総監)、舞鶴地方総監・後藤理海将(前職=海幕総務部長・後職=海幕副長)。(ウツボ)航空が、北部航空方面隊司令官・鈴木昭雄空将(前職=空幕防衛部長・後職=空幕副長)、南西航空混成団司令・阿部博男空将(前職=第四航空団司令・後職=西部方面航空隊司令官)。(カモメ)なお、保安官制気象団司令・田村秀昭空将(前職=空幕装備部長・後職=航空自衛隊幹部学校長)は、七人に少し遅れて空将に昇任していますね。(ウツボ)次に、この田村秀昭を加えた八人の、その後の経歴を見てみる。自衛隊退官後の経歴は不明なところが多いので、あくまで分かったものだけの概略です。(カモメ)志摩篤陸将は、防衛大幹事から北部方面総監、平成二年三月十六日第二十一代陸上幕僚長、平成四年三月退官。平成十六年一月社団法人隊友会会長代理、平成十八年十一月三日瑞宝重光章。偕行社理事長。(ウツボ)中尾時久陸将は、陸幕副長から中部方面総監。平成三年三月退官。平成十九年瑞宝中授賞。(カモメ)源川幸夫陸将は、東北方面総監から、東部方面総監。平成二年七月退官。「檄文統幕議長に告ぐ」(文藝春秋11月号)の論説を発表。平成三年七月「国際的自衛隊論」(双葉社)出版。「最高指揮官海部俊樹氏への直訴状」(文藝春秋6月号)、平成四年「こんなPKOに自衛隊を出せるか」(文藝春秋6月号)、平成五年「自衛官クーデター論文を叱る」(文藝春秋1月号)等の論説を発表。平成七年~十五年社団法人全日本銃剣道連盟会長。(ウツボ)佐久間一海将は佐世保地方総監から平成元年八月第十八代海上幕僚長。平成三年七月第十九代統合幕僚会議議長。平成五年六月退官。平成六年防衛庁顧問。NTT東日本特別参与。平成十四年防衛大学校五十周年・同窓会記念行事委員長。平成十六年財団法人水交会会長。平成十九年瑞宝重光章。(カモメ)後藤理海将は海幕副長から横須賀地方総監。平成三年三月退官。(ウツボ)鈴木昭雄空将は、空幕副長から航空総隊司令官、平成二年七月第二十代航空幕僚長。平成四年六月退官。全日本空輸顧問、川崎重工業危機管理コンサルタント。平成十七年瑞宝中授章。(カモメ)阿部博男空将は、西部方面航空隊司令官から、事項教育集団司令官。平成三年三月退官。DRC(財団法人ヂィフェンスリサーチセンター)評議員兼研究参事。(ウツボ)田村秀昭空将は、航空自衛隊幹部学校長。昭和六十三年一月退官。昭和六十四年参議院議員。平成五年細川内閣沖縄開発政務次官。平成六年羽田内閣参議院外務委員長。平成十九年政界引退。平成二十年一月四日胃癌のため自衛隊中央病院で死去。七十五歳。(カモメ)以上防衛大一期のトップクラスの軌跡を見てきました。(ウツボ)その中で、元東部方面総監・源川幸夫氏は、著書「国際的自衛隊論」(双葉社)の中で自衛官人生を振り返って、次のように述べている。(カモメ)読んでみます。「防大一期生の自衛官人生は、逆境の中でフロンティアとしての戦いの連続であった。憲法違反と言われ、税金泥棒と罵声を浴びながら、逆境に負けてたまるかという気負いとつっぱりと、ある種の開き直りの人生だったと言えよう」。(ウツボ)「防衛大学校の真実」(中森鎭雄・経済界)によると、参議院議員・田村秀昭氏は次のように述べている。(カモメ)「半世紀たっても防大出身者が校長(防大の)になれない。そんなバカなことがあるか」。(ウツボ)元空幕長・鈴木昭雄氏は次のように述べている。(カモメ)「軍人に対し差別があるのは戦争の後遺症。日本は戦争をまだ引きずっている。自衛隊は間もなく新国軍になるということで、我々は防衛大学校に入った。でも、未だに軍人にはなれず、自衛官は特別職国家公務員。やっていることは軍人の仕事そのものなのに。そのこと自体が戦後を引きずっている証拠です。世の中がもっと成熟してくれないと困る」。(ウツボ)戦後日本はアメリカの巧妙な占領政策によって骨抜きにされたと言われている。このことに対し、元統幕議長・佐久間一氏は次のように述べている。(カモメ)「戦後すでに六十年近くが経過している。占領軍の政策がいかに巧妙だったとしても、もうアメリカのせいにはできない」。
2012.08.10
(ウツボ)航空自衛隊の空幕長候補は、空幕防衛部長・鈴木昭雄将補、第四航空団司令・阿部博男将補。また、空幕人事教育部長・高橋恒清将補、西部航空方面隊幕僚長・法性弘将補、空幕装備部長・田村秀昭将補らの名前もあがっていた。(カモメ)ちなみに、防衛大一期生の防衛大卒業式典(昭和三十二年三月二十六日)における服務宣誓者(卒業成績首席)は、陸上は志摩篤、海上は西成昭美、航空は阿部博男でしたね。(ウツボ)このうち海上の西成昭美は、伝説的と言っていいほど、できる男だった。だが、江田島の海上自衛隊幹部候補生学校在学中から「やめる」と言い始めた。(カモメ)やめるとわかっている男を首席にはできないと、幹部候補生学校の卒業成績は二番になったのですね。(ウツボ)当時下宿が同じだった同期生の平間洋一(護衛艦ちとせ艦長・第三一護衛隊司令・呉地方総監部防衛部長・防衛研究所戦史部研究員・海将補・防衛大学校教授・歴史学者・法学博士・瑞宝小綬章)によると、「勉強していると西成の方から、“もう寝ようよ”と言ってくる。“やっても同じことよ”なんて言いながら成績はトップでした」。(カモメ)西成は卒業後、退職してブラジルに渡ったのです。会社から派遣されてマサチューセッツ工科大学に留学。ここで学んだことを論文にまとめてブラジルで出版し、国の科学文化賞を受賞しました。(ウツボ)三等海尉で辞めたので、ブラジルでは、士官学校(防衛大)出身の海軍少尉ということで、「ドン・セニョール・コマンダンテ」と、「ドン」の称号がつき、尊敬の念で接してくれるという。(カモメ)昭和六十年の時点で西成はブラジルに一万平方メートルの広大な敷地に三階建ての豪邸に住んでいました。トイレが五つもついていました。日本人の妻との間にできた三人の子供はいずれも医者の道を歩んでいました。(ウツボ)次に当時の、防衛大一期生のトップたちの考え方を少し聞いてみよう。昭和六十一年一月二十三日、東京都内で防衛大一期生四名が集まり、四方洋毎日新聞編集委員の司会で「後輩へのメッセージ」というタイトルで座談会が行われた。防衛大一期の出席者は次の通り。(カモメ)陸幕教育訓練部長・志摩篤陸将補、海幕防衛部長・佐久間一海将補、空幕防衛部長・鈴木昭雄空将補、統幕第三室長・源川幸夫陸将補ですね。(ウツボ)座談会の最後に志摩陸将補が次のように提案した。(カモメ)「僕らが定年退職したあとのことを防大生は注目していると思う。まだ出ていないからわからないが、あと十年もすると、どこへ再就職しているかが分かってくる。それで判断するのではないか。僕らがちゃんとしていないと受ける人がいなくなってしまうのではないだろうか」。(ウツボ)志摩陸将補は、防衛大一期生として退職後の再就職の社会的地位が高くないと、防衛大を優秀な人が受験しないのではないかと危惧している。(カモメ)これに対して、源川陸将補は「やめたあとのことまで責任はもてないよ。やめたあとの姿をみて後輩に選択させるのは酷ではないか」と意義を唱えていますね。(ウツボ)鈴木空将補は「我々はやっぱり最後まで見られますよ」と志摩陸将補に賛同した。(カモメ)続けて志摩陸将補は「やめたあと右往左往しているようでは、受ける人もいなくなりますよ」と念を押しています。(ウツボ)すると、源川陸将補は、「やっぱり制服着ている時の姿で判断するのではないか」と反論している。(カモメ)これに対し、鈴木空将補は「制服の時、姿になっている人は、やめてからもそうなっていますよ」と再反論しています。(ウツボ)最後に佐久間海将補が「制服は辞めたら現役が一番やりやすいように見守っていくべきだ。求められれば必要な助言はするが、むやみに口を出すことはやるべきではないと思います」と言って、座談会は終了した。(カモメ)「戦争を知らない将軍たち」(田口いづみ・こう書房)によると、防衛大一期生がはじめて将に昇任したのは、東京で行われたこの座談会から五ヵ月後の昭和六十一年六月十七日です。このとき昇任した一選抜の七人は次の通りです。(ウツボ)陸上が、第九師団長・志摩篤陸将(前職=陸幕装備部長・後職=防衛大幹事)、第六師団長・中尾時久陸将(前職=陸幕装備部長・後職=陸幕副長)、第七師団長・源川幸夫陸将(前職=統合幕僚会議事務局第三幕僚室長・後職=東北方面総監)。
2012.08.03
(カモメ)以上の辻議員の質問に対して、説明員・槇校長は次のように答えています(要旨)。(ウツボ)読んでみよう。「従来から交際について考えていた。大切なことは、いい相手を選んでもらわなければならない。立派な相手を選ぶということにつきましても横須賀地方で婦人会等の援助を受けていた」(カモメ)「しかし、東京の学生も多いので、年に一回ぐらいはよかろう。私自身はダンスはしませんが、立派にやらしてやろうと思っていた。全体の訓練に対しても悪い影響は与えていない。立派に訓練をやり、体育の訓練も立派にやっておる。卒業の暁には立派な自衛隊員になり得るところの資格を備え出て行っております」。(ウツボ)次に辻議員は津島国務大臣に次のように質問をした。(カモメ)「昨年の春トルコの士官学校を見学した。トルコの士官学校では、士官学校の卒業生の将官で成績が一番よくて戦闘に最も勇敢であった者、ずば抜けた者を呼んで校長に充てている。その士官学校長は寝台を持ち込んで学生と一緒に寝起きをしている」(ウツボ)「その訓練は防大の比ではない。私どもの過去の経験から見ても日本の士官学校の比でもない。私はその校長にこんなにひどくやらぬでもいいじゃないかと質問すると、校長は胸を張って、我々の敵はソ連だ。トルコの十倍の兵力を持っている。だからトルコの将校は一人でソ連の将校十人に当たらなければならない、国が小さいから」(カモメ)「その十人の将校に当たらすためにはロシヤの士官学校の十倍の訓練をして当然である、こう答えた。私はこのダンス・パーティと思い合わせて、今までの防衛大学の教育がいいと思われるのか、その幹部の心がまえで、信頼する自衛隊の幹部ができると考えているのか」。(ウツボ)これに対して津島国務大臣(防衛庁長官)は次のように答えている(要旨)。(カモメ)「防衛大学の訓練については、時代の変化も考慮に入れなければならない。科学教育の部門も相当専心してやらせている。体育訓練も猛烈にやらせている。ダンス・パーティは、ダンスそのものが悪いことはない。ただ東京のああいった場所でそういった程度にやらなくても目的は達するのではないかと思っている。そのやり方の問題についてはいろいろ実効を挙げていく方法があると考えている」。(ウツボ)以上が国会での辻政信議員の質問のやりとりだが、当時の首相は岸信介であり、辻政信は当時、岸信介と仲が悪く、何かと当時の政権の攻撃を行っていた。(カモメ)次に、当時の事件として、大江健三郎発言問題がありましたね。防衛大一期生が卒業した翌年の昭和三十三年、当時二十三歳の芥川賞作家・大江健三郎は六月二十五日の毎日新聞で、「ぼくは、防衛大学生をぼくらの世代の若い日本人の弱み、一つの恥辱だと思っている」と述べました。(ウツボ)この極めて主観的な政治的暴言により大江は各方面から批判を受けた。平成六年にノーベル文学賞を受賞したが、それでもなお、彼の政治的発言に対する学者や評論家からの批判はあった。(カモメ)文学者としては評価されても、大江健三郎の政治的センスは、評価されないのですね。(ウツボ)そうだね。自己の左翼的思想・心情には忠実だが、政治的発言の根拠がもろく一貫性がない。例えば、文化勲章を「価値観を認めない」と受賞を拒否したり、北朝鮮核問題発言など、社会的、政治的思想は疑問視されている。(カモメ)東日本大震災では、自衛隊が救助、復興作業に大きな貢献をしていますが、大江健三郎はどのように受け止めているのでしょう。(ウツボ)どうだろうね。頑固な人だから「防衛大学生発言」の訂正はしないだろう。反原発運動には積極的に動いているようだけどね。さて、ここらで、防衛大一期生の具体的な軌跡を見てみよう。(カモメ)そうですね。「素顔の自衛隊」(菊池征男・KKワールドフォトプレス)によると、昭和五十二年一月一日に一選抜で、防衛大一期生が初めて一佐に昇進しました。(ウツボ)この時点で、防衛大一期生(四十二~四十四歳前後)のうち、陸上二〇七名が一五六名、海上八〇名が六二名、航空五〇名が四五名となって、陸海空自衛隊の中堅幹部になっている。(カモメ)この中から、陸上一四名、海上九名、航空六名の計二九名の一佐が誕生したのですね。この時点で、三佐が陸上に七名、海上に三名いました。あとは全員二佐でした。(ウツボ)それから八年後、「青春の小原台~防大一期の三十年」(四方洋・飯島一孝・毎日新聞社)によると、昭和六十年十月の時点で、防衛大一期生(五十~五十二歳前後)の状況は次の通りだった。(カモメ)陸上自衛隊の防衛大一期生で、陸将補は二十九名。このうち先頭を走る一選抜組は十一名で、この中から将来の幕僚長が出る訳です。この時点で本命とみられているのは次の六名でした。(ウツボ)陸幕教育訓練部長・志摩篤将補、統合幕僚会議第三室長・幕源川幸夫将補、陸幕防衛部長・森野安弘将補、陸幕装備部長・中尾時久将補、陸幕調査部長・久我幹生将補、富士学校機甲科部長・深山明敏将補。(カモメ)海上自衛隊の防衛大一期生八〇名のうち、この時点で勤務しているのは五九名。内訳は、将補一二名、一佐二七名、二佐一八名、三佐二名。将来海幕長候補である、将補の一選抜組は次の五名。(ウツボ)海幕防衛部長・佐久間一将補、海幕総務部長・後藤理将補、練習艦隊司令官・小西岑生将補、統幕第五室長・松本克彦将補、海幕経理補給部長・升永貞幸将補。(カモメ)海の防衛大一期生同士では、海幕長候補はこの時点では、艦艇畑なら佐久間将補、パイロットなら松本将補との了解がついているようでした。
2012.07.27
(ウツボ)さらに中森氏は次のように続けている。「私の場合も、高校生の頃はアンチ軍隊のふりをしていたが、祖父も父も海軍士官という海軍一家の環境もあって心の底には軍人に対する憧れがあり、受験してみようという気になった」(カモメ)続けて読みます。「本来の第一志望は東大だったが、保安大学校の試験は十一月。早々と合格通知を受け取り、東大を受験する意欲は失せてしまった」(ウツボ)「私たちの少し上の世代には、やむなく一般大学や一足早くできた海上保安庁の幹部養成を目的とする海上保安大学校に進学しながらも、未だ軍人の夢を捨てきれない者も少なからずいた。こうした連中も殺到し、一期生の競争倍率は三〇倍という高い数字を記録した」。(ウツボ)「今こそ知りたい江田島海軍兵学校」(新人物往来社)によると、前にも登場した左近允尚敏氏(海兵七二・海将)は、戦後海上自衛隊に入り、昭和二十八年に防衛大学校に入校した一期生の指導を行った。(カモメ)上級生のいない一期生だから、左近允氏は海軍兵学校の一号(最上級生)の代わりとなって、カッター訓練など一期生を大いに鍛えました。(ウツボ)その左近允氏は旧海軍と海の防大生の関係を、「一期生(幹候八期)以降、若い期の防大生は、『我々は戦争に負けた海軍とは違う新しい海軍を作るんだ』と意気込んでいたが、それから半世紀が過ぎた幹候二十期代、三十期代の誰もが、海上自衛隊は海軍の後継であり、自分たちは海軍兵学校出身者の後輩だという気持ちのようである」と述べている。(カモメ)防衛大一期生が卒業したのは昭和三十二年三月です。その年の十二月には、東京のステーションホテルで行われた防衛大生のダンス・パーティ会場に辻政信衆議院議員が乗り込むという「防衛大ダンスパーティ事件」が起きましたね。(ウツボ)そうだね。有名な事件だね。辻政信はそのパーティ会場で、「士官候補生たる防衛大学校の学生が裸同然の女を抱いて踊るとはけしからん」と怒鳴ったという。(カモメ)当時衆議院議員の辻政信は元陸軍大佐で陸士三六期首席、陸大四三期恩賜、作戦参謀を歴任し、第十八方面軍作戦課長で終戦。戦後衆・参議院議員に選出された政治家ですね。(ウツボ)昭和三十六年、辻政信はラオスに潜入し失踪した。共産勢力に殺害された等の憶測が流れているが、現在まで真相は不明だ。昭和四十三年に死亡宣告が公布されている。(カモメ)この「防衛大生ダンス・パーティ事件」について、辻政信衆議院議員は、昭和三十三年三月七日の第二十八回国会内閣委員会でこの問題を取り上げています。(ウツボ)辻政信議員は同委員会で、当時の津島壽一防衛庁長官(東京帝大法学部・大蔵省次官・日銀副総裁・大蔵大臣・防衛庁長官・日本体育協会会長・日本交通安全協会会長・勲一等旭日大綬章・正三位)と、説明員として出席した槇智雄防衛大校長(慶應義塾大学卒・オックスフォード大学卒・慶應義塾大学教授・防衛大学校校長・勲二等瑞宝章・従三位)を相手にこの問題でやりとりをし、応酬した。(カモメ)最初に辻議員は津島国務大臣に国防白書について質問をした後、小幡久男政府委員(後の防衛施設庁長官・防衛事務次官)に防衛大学校の一年の維持費について質問をしたら、「約三十万円弱」と返答しました。(ウツボ)その後、辻議員は説明員・槇智雄防衛大校長に「防衛大学校の中にアカシヤ会というのがあって、ダンス部があるが」とその意味を質問した。(カモメ)槇校長は「婦人との交際も教育のうちの大事な部分」と答えたのです。(ウツボ)すると辻議員は「昨年十二月十四日、私が東京駅に行くと、防大の制服を着た学生がたくさんおり、人を待ち合わせ、若い女性を連れて腕を組んで食堂に入っていった。その数があまりに多いので、現場に行ってみると、ステーションホテルの二階で、約二百名の防大の学生が制服を着て、腕から肩を露出した若い女性を抱いて、薄暗いホールで踊っておる。その踊り方がまことに上手であります(笑い)」と述べた。(カモメ)また、「神宮外苑で長官がやられた観閲式の防大学生の行進をみたが、本当の訓練は練馬部隊の一般兵のほうが充実している感じだ。教練は下手だが、ダンスが上手で防衛大学の目的を達成しておると思うのか。あまりのことに、あきれて調べてみると、学生は、これは校長の許可を受けておると言う」と発言しました。(ウツボ)さらに、「そこで竹下(正彦)防大幹事(陸士四二・陸大五一恩賜・中佐・陸軍省軍務局軍務課内政班長・戦後、陸上自衛隊入隊・陸将・第四師団長・幹部学校長)を呼び、君、あまりひどいじゃないか、こう言うと、ダンスをやって何が悪いか、と言って私に食ってかかった」と述べた。(カモメ)続けて辻議員は、「私はダンスのよしあしを議論しようというのではない。女性に対する交際を教えるのも防衛大学において必要だとおっしゃっておるが、問題は十二月十四日、一般大学の、あなたの前におられた慶応、早稲田、明治、東大の学生の諸君はどうしておられたのか。親から仕送りされる学費が足りなくて、あの寒い年の瀬を、アルバイトをやってデパートの歳暮配りをやっておる」と言った。(ウツボ)さらに続けて、「一般の学生はアルバイトをやって夜遅くまで働いておるのに、三十万円の税金をもらって特殊の目的に訓練をされておる防衛大学の学生は、校長、幹事以下四十人の職員が参加して、人の目もはばからずに、あの東京の表玄関を借り切って、七万円の金をかけてダンス・パーティをやるということが的はずれでないとお考えになるのか。どうです」と言い切った。
2012.07.20
(ウツボ)加藤家の二代目は加藤寛治(海兵一八首席・連合艦隊司令長官・大将・軍令部長)で艦隊派の巨頭だった。(カモメ)三代目は加藤実(海兵五八・海兵教官・連合艦隊参謀・第一航空艦隊参謀・少佐)ですが、昭和十九年八月二日テニヤンで戦死しましたね。(ウツボ)そうだね、戦死した。その息子、四代目が加藤武彦氏だ。父の加藤実は武彦の進路について「武彦は本人に特別の希望なければ海軍士官たるべし」と遺書を残していた。(カモメ)武彦は二等海佐のとき、取材に答えて、「小さい頃から軍艦が好きで、防大に進学しました。父のこの遺書は防大入校後知ったのですが、受験前に見せられていたら、ヘソ曲がりだからどうしたか分からない」と述べています。(ウツボ)武彦氏は昭和四十年、児玉源太郎(山口県・陸軍大将・日露戦争満州軍総参謀長・台湾総督・参謀総長・功一級・勲一等旭日桐花大綬章・子爵)の曾孫である美奈子夫人と結婚した。武彦氏は次のようにも語っている。(カモメ)読んでみます。「四代目ということについては自ら選んだ道だから重荷とは感じていない。よく父や祖父もことを言われるが、僕らの世界ではむしろ誇らしいことですよ」。【防衛大一期生の軌跡】(ウツボ)今まで、旧帝国海軍にふれてきたが、いまから海上自衛隊について述べていく。そのために、まず、防衛大一期生の軌跡を基点として見ていこう。(カモメ)海上だけでは、アンバランスにしか捉えられないので、陸上、航空も合わせて、防衛大学校一期生に焦点をあてる訳ですね。(ウツボ)そうだね。現在、防衛大一期生の人たちは、七十六歳~七十八歳位のはずだが、背骨をシャキとして生きてきた人たちだから、まだまだ元気な人が多いだろうね。(カモメ)「青春の小原台~防大一期の三十年」(四方洋・飯島一孝・毎日新聞社)によると、昭和二十七年八月一日に保安大学校が設置されました。八月十九日に槇智雄氏が校長に発令されました。(ウツボ)十一月二十八日・二十九日に第一期学生採用一次試験がおこなわれた。十二月十日・十一日同第二次試験。(カモメ)昭和二十八年二月二十七日久里浜校舎完成。三月二十日合格者発表。四月一日保安大学校開校。四月八日第一期生入校任命式(四〇〇人)。(ウツボ)昭和二十九年七月一日防衛庁が発足し、防衛大学校と改称された。昭和三十年三月二十三日久里浜から小原台新校舎に移転。(カモメ)昭和三十二年三月二十六日、第一期生が卒業しましたが、卒業生は三三七人でした。(ウツボ)防衛大第一期生の採用試験に対する応募者数は一一六一九人で採用者数は四〇〇人だった。倍率は二十九倍だから、難関だった。(カモメ)四〇〇人が入校したが、卒業者は三三七人で、六三人が中途退学や落第をしたことになります。卒業生三三七人のうち、陸上が二〇七人、海上が八〇人、航空が五〇人です。(ウツボ)卒業式典時における服務宣誓者(卒業成績首席)は陸上が志摩篤、海上が西成昭美、航空が阿部博男だ。(カモメ)当時保安大学校を受験する若者の意識はどうだったのでしょうか。(ウツボ)そうだね、戦後七年目の当時は、まだ戦争を引きずっている微妙な時期だった。「防衛大学校の真実」(中森鎭雄・経済界)によると、著者の中森鎭雄氏は防衛大一期生で、昭和三十二年防衛大卒業後、陸上自衛隊に入隊した人だ。(カモメ)その後、中森氏は昭和四十二年大阪大学大学院博士課程を終了、工学博士になっています。陸上幕僚監部等勤務を経て昭和四十五年、三等陸佐のとき退官、三菱総合研究所入所しました。(ウツボ)同研究所では研究開発・情報サービス部門の部長職を歴任している。(カモメ)大学講師も務め、「ビジネス時事刻々」(日刊工業新聞社)、「クラウゼピッツ強い企業の戦法」(経済界)などの著書がありますね。(ウツボ)その中森氏は防衛大学校(当時は保安大学校)受験の動機について、次のように述べている。(カモメ)読んでみます。「我々は軍国教育を受けた最後の世代(中森氏は昭和十年生まれ)で多少なりとも軍国少年ではあったが、愛国心うんぬんと言うほど凝り固まってはいなかった」(ウツボ)「ただ、少年時代、将来は旧軍の陸軍士官学校(陸士)、海軍兵学校(海兵)に進みたいという淡い希望を一度は抱いたことがあり、どこかに軍人へのそこはかとない憧れがあった」(カモメ)「ところが、日本が敗戦し、陸士も海兵もなくなり、将来への夢は断念せざるを得なかった。そこに飛び込んできたのが、保安大学校(現・防衛大学校)創設の報である。昔の陸士・海兵に相当する将校を養成する学校ができた。ならば、行こうである」。
2012.07.13
(カモメ)鈴木英氏の伯父は、鈴木貫太郎海軍大将(海兵一四・海大甲種一期・連合艦隊司令長官・軍令部長・侍従長・勲一等旭日桐花大綬章・男爵・枢密院議長・首相・従一位)ですね。(ウツボ)そうだね。その鈴木貫太郎の弟、鈴木孝雄陸軍大将(陸士二・第一四師団長・陸軍技術本部長・軍事参議官・大将・靖国神社宮司・戦後偕行社会長)が鈴木英氏の父になる。(カモメ)鈴木英氏が海軍兵学校に入校した年、大正十三年五月、たまたま、第一艦隊が呉に在泊しており、兵学校の生徒は旗艦長門の見学を行いました。(ウツボ)当時、伯父の鈴木貫太郎大将が連合艦隊司令長官で長門に乗艦していた。見学が終わり、休憩中に鈴木英生徒は、特に司令長官室に呼ばれ、鈴木司令長官から直接兵学校入校のお祝いの言葉を受け、今後の心掛けと決意について懇々と教示された。(カモメ)また、鈴木英氏の海軍兵学校卒業式には、天皇陛下の御名代として伏見宮博恭王が出席、財部彪海軍大臣、鈴木貫太郎軍令部長が列席しました。父の鈴木孝雄軍事参議官も父兄として出席しました。(ウツボ)昭和八年、伯父の鈴木貫太郎大将のすすめで、岡田啓介海軍大将の三女と婚約し、翌年の昭和九年、岡田大将が定年で現役を退き、海軍大臣を辞任するのを待って、五月結婚した。(カモメ)次は、左近允尚敏(さこんじょう・なおとし)氏ですね。大正十四年鹿児島県生まれ。海軍兵学校七二期で、駆逐艦初桜(一五三〇トン)の航海長として終戦を迎えました。海軍大尉。(ウツボ)戦後、昭和二十七年に海上自衛隊入隊。インドネシア防衛駐在官、第四護衛隊群司令、練習艦隊司令官、防衛大学校訓練部長、統合幕僚会議事務局長、統合幕僚学校長を歴任し、海将で昭和五十四年に退官した。(カモメ)退官後は、産経新聞客員論説委員、(財)平和・安全保障研究所評議員などを歴任していますね。(ウツボ)そうだね。退官後は文筆関係で活躍した。著書は「敗戦―一九四五年春と夏」(光人社)、「捷号作戦はなぜ失敗したのか―レイテ沖海戦の教訓」(中央公論新社)、「海上防衛論(防衛選書1)」(麹町書房)、「ミッドウェー海戦『運命の5分』の真実」(新人物往来社)などがある。(カモメ)左近允尚敏の父は、左近允尚正(さこんじょう・なおまさ)海軍中将(海兵四〇・舞鶴鎮守府参謀長・タイ王国駐在武官・少将・第十六戦隊司令官・中将・支那方面艦隊参謀長)ですね。(ウツボ)そうだね。左近允尚正中将は、ビハール号事件の戦犯として軍事法廷で絞首刑の判決を受け、昭和二十三年一月二十一日香港のスタンレー刑務所で刑務死した。(カモメ)ビハール号事件は、昭和十九年三月九日、インド洋上の通商破壊作戦に従事した第十六戦隊配属の重巡利根(艦長・黛治夫大差)が英国商船ビハール号を撃沈、捕虜八十名のうち六十五名を虐殺したというものです。当時、第十六戦隊の司令官は左近允尚敏少将でした。(ウツボ)「海は語らない~ビハール号事件と戦犯裁判」(青山淳平・光人社)によると、左近允尚敏元中将は死刑のとき、絞首台に向かう前に次のような時世の歌を詠んだ。(カモメ)読んでみます。「絞首台何のその 敵を見て立つ艦橋ぞ」。(ウツボ)昭和四十年十月、左近允尚敏二等海佐は、インドネシアのジャカルタに防衛駐在官として赴任する途中、香港に立ち寄った。(カモメ)そのとき、案内してくれたのは在香港日本国総領事館の佐々淳行領事(東大法学部・警察庁刑事局参事官・防衛庁官房長・防衛施設庁長官・内閣安全保障室長・評論家)でした。(ウツボ)左近允尚敏二等海佐は、佐々淳行領事と共にスタンレー刑務所を訪れた。(カモメ)そこは、尚敏二等海佐の父の最期の場所だったのですね。スタンレー刑務所では、左近允尚敏二佐に対し、同刑務所のナイト所長が、次のように言ったのです。(ウツボ)読んでみよう。「戦争は国家の犯罪です。戦争を憎むが個人を憎むものではありません。左近允中将は日本のよきサムライでした」(カモメ)「私たちイギリス人は左近允提督を通して日本や日本人の素晴らしさを知りました。その提督のご子息がスタンレー刑務所を訪ねてくれて、こんなに嬉しいことはありません」。(ウツボ)ナイト所長は感激に目をうるませ、赤らんだ頬につたわる涙をぶあつい甲でぬぐうと、手を差し出した。左近允尚敏二佐は、その手にしがみつくように、握り返した。(カモメ)次は加藤武彦(かとう・たけひこ)氏ですね。加藤武彦氏は、東京の栄光学園から防衛大学校(六期生)に入校し、昭和三十八年江田島の海上自衛隊幹部候補生学校を卒業しました。(ウツボ)海上自衛隊での経歴は、いわせ艦長、横須賀基地プログラム業務隊勤務(二佐)、海上幕僚監部防衛部教育第一課長(一佐)、昭和六十三年七月第四護衛隊群司令(海将補)、平成元年十二月練習艦隊司令官、海上幕僚監部装備部長、平成五年三月幹部学校長(海将)、平成六年十二月呉地方総監。平成八年七月に退官した。(カモメ)加藤家は海軍四代の系譜ですね。初代の加藤直方は越前福井藩士で、藩の航海学修業生として築地海軍操練所で勝海舟に学び、海軍中尉に任官。その後海軍大尉として東海水兵本営に勤務中、明治四十五年、五十二歳で病没しました。
2012.07.06
【海上自衛隊の黎明】(カモメ)「海上自衛隊はこうして生まれた」(NHK報道局「自衛隊」取材班・日本放送出版協会)によると、平成十四年四月二十六日、海上自衛隊創設五十周年記念式典が、神奈川県横須賀市の海上自衛隊第二術科学校で行われましたね。(ウツボ)そうだね。その記念式典で第二十五代海上幕僚長・石川亨海将(防大一一期・第二十五代統合幕僚会議議長・日本電信電話参与)が式辞の初めに、終戦直後のある「伝説」のことを、次のように述べた。(カモメ)読んでみます。「昭和二十年十一月三十日、帝国海軍は七十七年の歴史を閉じました。幕引きを務めましたのは最後の海軍大臣である米内光政大将であります。帝国海軍が終焉を迎える日、海軍省の中庭において、米内海軍大臣はじめ海軍省職員が見守る中、海軍軍楽隊による演奏会が行われました。その時、最後を飾った曲は、栄光の海軍を象徴する『行進曲軍艦』でありました。聴く者も、演奏する者も涙を禁じえず、万感胸に迫るものがあったと伝えられております。この演奏会に参加した人々の胸に去来したものは、海軍への識別の念と、いつの日か新たな海軍を再建したいという熱い思いでありました」。(ウツボ)石川海幕長が式辞で披瀝した「伝説」とは、帝国海軍最後の日に起きた出来事だ。この日、今の東京・霞ヶ関の厚生労働省と農林水産省の敷地にあった海軍省の中庭に生き残りの海軍省職員が集まり、海軍軍楽隊による演奏が行われた。(カモメ)曲目の終わりに「行進曲軍艦」、いわゆる「軍艦マーチ」が奏でられたというのですね。当時「軍艦マーチ」は軍国主義の復活につながるとして、演奏は自粛されていたのですね。(ウツボ)そうだね。だが、海軍がなくなるにあたり、米内海軍大臣は「海軍の再建」を部下の海軍省職員に委嘱した、というのが「伝説」の中身だった。(カモメ)石川海幕長は、列席している各国駐在武官、マスコミのいる、公式の場で、この「伝説」を披露し、「海軍を再建したいという熱い思い」を明言したのですね。(ウツボ)昭和二十五年、朝鮮戦争が勃発すると、GHQ(連合国軍最高司令官総司令部)では日本に海軍を設置する必要を検討し、米極東海軍のアーレイ・バーク少将が日本海軍再建に動き出した。(カモメ)「凌ぐ波濤~海上自衛隊をつくった男たち」(手塚正己・太田出版)によると、昭和二十六年、日本側では、旧海軍軍人と海上保安庁から人選し内閣直属の「Y委員会」が設置されました。(ウツボ)委員長は山本善雄元海軍少将(山形・海兵四七・海大二九次席・英国駐在武官府補佐官・大佐・海軍省軍務局第一課長・少将・終戦・海軍省軍務局長・復員省総務局長・復員庁資料整理部長・海上保安庁長官・住友商事顧問)だった。(カモメ)Y委員会は、討議を重ね、貸与船艇の使用法やY機構(新海軍の母体)の組織と編成、要員の教育方針や機関の設置などを次々と決定していきました。(ウツボ)そして、昭和二十七年、海上警備隊が設置され、昭和二十九年防衛庁の発足とともに海上自衛隊が誕生した。(カモメ)「海上自衛隊はこうして生まれた」(NHK報道局「自衛隊」取材班・日本放送出版協会)によると、防衛大一期生で、防衛大出身で初の海上幕僚長に就任した佐久間一氏(元統合幕僚会議議長)を、平成十三年十月二日、NHK取材班は取材しています。(ウツボ)佐久間氏は当時、海上自衛隊を退職して、NTT東日本の特別参与の肩書きを持っていた。NHK取材班に対して、佐久間氏の口から出た言葉は次のようなものだった。(カモメ)読んでみます。「旧日本海軍の健軍の思想が今の海上自衛隊には息づいているのです。海上自衛隊が今あるのは、アメリカ海軍と旧日本海軍のおかげなのです」。(ウツボ)つまり、陸上自衛隊は帝国陸軍の伝統を拒否しアメリカ軍の制度を取り入れたが、海上自衛隊は帝国海軍の伝統を受け継いでいた。(カモメ)その流れから、次に海上自衛隊に在籍する帝国海軍の将星の子孫たちを見ていくのですね。【帝国海軍から海上自衛隊へ・将星の系譜】(ウツボ)そうだね。最初に鈴木英(すずき・すぐる)氏を見ていこう。鈴木英氏は、明治四十一年千葉県生まれ。昭和二年三月海軍兵学校五五期を恩賜で卒業。海軍大学校甲種三八期で入学するも半年で中断、第六戦隊参謀に転じた。(カモメ)その後、鈴木氏は太平洋戦争開戦後、再度海軍大学校に入学し卒業。第八五一航空隊飛行長、航空本部員、軍令部作戦課員を歴任し海軍中佐で終戦を迎えました。(ウツボ)戦後、昭和二十八年に海上警備隊に入隊。昭和二十九年海上幕僚監部防衛部長。昭和三十二年練習隊群司令(海将補)。昭和三十三年四月第一術科学校長。昭和三十六年一月海将、八月自衛艦隊司令官、昭和三十七年七月幹部学校長、昭和三十九年十二月、海上自衛隊を退官。
2012.06.29
(ウツボ)帝国海軍は陸軍との共同作戦能力も、後方補給能力も、情報能力も持ち合わせていなかった。出てきた以上、陸軍のことは陸軍自身でやれ、という理屈だった。(カモメ)では、帝国海軍は、太平洋で戦わなかったのか。一応は戦った。それは、戦わないほうがよかった戦闘、すなわち航空消耗戦だったのですね。(ウツボ)戦闘能力、生産能力も勝つ見込みのない航空消耗戦を、搭乗員の養成補充も考えずに行った。絶対不利な戦場までノコノコ出かけていって、海軍航空が実質的戦力を消耗し尽くすまで行った。(カモメ)「日本海軍はなぜ滅び、海上自衛隊はなぜ蘇ったのか」(是本信義・幻冬社)によると、著者の是本信義氏は防衛大学校卒。護衛艦艦長、護衛隊司令、艦隊司令部作戦幕僚、総監部防衛部長等を歴任。著書に「西洋英傑伝」(学習研究社)、「不敗の兵法」(ダイヤモンド社)など多数あります。(ウツボ)この本によると、第二次世界大戦が始まるまで、列国海軍の用兵思想は大なり小なり「大艦巨砲」主義だった。その中で「航空主兵」に先鞭をつけたのは日本帝国海軍だった。(カモメ)まず、太平洋戦争海戦時、アメリカ海軍七隻の航空母艦に対して、日本帝国海軍は十隻を保有していました。その空母を統一運用するため、空母機動部隊である「第一航空艦隊」を編成したのですね。(ウツボ)そうだね。また、中型の陸上攻撃機を開発した。このタイプの航空機は列国の海軍はまったく発想しなかった。さらに開戦時、二〇〇〇機の以上の海軍機を保有していた。(カモメ)このように航空機重視の実績を有していながら、帝国海軍はなお「大艦巨砲」主義の考えに捉われていたのです。(ウツボ)福留繁元海軍中将(鳥取県・海兵四〇・海大二四首席・戦艦長門艦長・少将・軍令部第一部長・中将・連合艦隊参謀長第一南遣艦隊司令長官)は、戦後次のように述懐している。(カモメ)読んでみます。「多年、戦艦中心の艦隊訓練に没頭してきた私の頭は転換できず、連合艦隊の機動部隊が真珠湾攻撃に偉功を奏した後もなお、機動部隊は補助作戦に任ずべきもので、決戦兵力は依然、大艦巨砲を中心とすべきものと考えた」。(ウツボ)実は、米国海軍も太平洋戦争開戦までは、同様に大艦巨砲による艦隊決戦を考えていた。だが、日本軍の真珠湾攻撃の際の航空機の威力を目の当たりにして、何の迷いもなく、米国海軍は一気に空母中心の「航空主兵」体制に切り替えたのだね。(カモメ)帝国海軍は、基準排水量六九〇〇〇トンの世界最大の戦艦、大和、武蔵を開戦後、投入しました。だが、すでに海戦の主役は戦艦から空母の機動部隊に移っており、その出番はなかったというのが実情でしたね。(ウツボ)だから、戦艦大和は就役後、連合艦隊の旗艦として、トラック島の泊地に留まったまま、ほとんど動かず、「大和ホテル」などと陰口を叩かれたのだね。(カモメ)その誇る戦艦大和の四六センチの主砲が火を噴いた実績を述べましょう。その戦歴と発射弾数は次の通りです。(ウツボ)公試・訓練で五四発、マリアナ沖海戦で二七発(対空)、比島沖海戦(レイテ沖海戦)で七九発(対空)・一二四発(対水上)、沖縄海上特攻で二七発(対空)。以上で主砲の威力を発揮できないまま、戦艦大和は生涯を閉じた。戦艦武蔵も同様だった。(カモメ)帝国海軍の最期を飾るのは、昭和二十年四月七日に行われた戦艦大和の沖縄海上特攻でした。戦艦大和を中心とする海上特攻部隊は、燃料を片道分しか搭載せずに出撃し、悲惨な最期を遂げたという噂が戦後流れていましたね。事実は、山口県の徳山港で、燃料をかなり補給しており、片道分ということはなかったのですね。(ウツボ)そうだね。満タンではなかったが、かなり入れた。「日本海軍の驕り症候群」(千早正隆・プレジデント社)によると、海上特攻の二日前、四月五日に行われた連合艦隊司令部の作戦会議に、著者の千早正隆中佐(海兵五八・海大三九)は連合艦隊作戦乙参謀(砲術)として出席していたのだね。(カモメ)その作戦会議は戦艦大和の部隊の沖縄海上特攻を決めた歴史的な会議でした。会議は、連合艦隊先任参謀・神重徳大佐(海兵四八・海大三一首席)の全く突然の戦艦大和を中心とする残存部隊を沖縄に突入させる提案で始まったのです。(ウツボ)航空部隊がすべて特攻となって善戦しているとき、水上部隊も特攻となってこれに呼応すべきではないか。そうすることにより、戦艦大和以下の残った戦力を戦局に寄与させることができるというものだった。(カモメ)その作戦が成功するかしないかは、すでに討議の外であり、その目的は悲壮極まりないものだったのですね。(ウツボ)その作戦会議の席上で、神重徳大佐の海上特攻の提案を受けて、千早中佐は「補給参謀、手持ちの燃料は?」と少し声を大きくして訊いた。(カモメ)補給参謀は言下に「三〇〇〇何トン」と答えた。千早中佐は燃料残量がそれ位しかないことは知っていました。だからこそ、連合艦隊司令部として戦艦大和らの部隊を作戦使用する計画を立案できなかったのです。(ウツボ)だが、沖縄海上特攻作戦は発令され、実行された。その結果、予想通りというか、連合艦隊は機能的に消滅した。(カモメ)帝国海軍は昭和二十年九月十三日に陸海軍の統帥権のすべてを掌握していた大本営が廃止、十月十五日には海軍軍令部が廃止、十一月三十日海軍省も廃止されて、七十七年の歴史に幕を下ろしました。(ウツボ)次は、終戦時の帝国海軍、戦後の海上自衛隊の話に移ろう。
2012.06.22
(ウツボ)このような西田博士の警告にもかかわらず、日本帝国海軍は滅亡への序曲、真珠湾攻撃、太平洋戦争へと突き進んでいった。とはいっても、西田博士も戦争協力者としての一面もあり、批判もあることはあるのだがね。(カモメ)西田博士は昭和二十年六月七日に尿毒症で死去しましたが、その一、二ヶ月前に「一億玉砕などはもってのほかだ」と語っていたそうです。(ウツボ)ところで、「わが父西田幾多郎」(西田静子・上田弥生・アテネ文庫)によると、西田博士の晩年、西田博士はどうしても三女の西田静子氏のことが心配になるようだった。(カモメ)それで、静子氏も「私も一緒に遠い処へ行く」と言うと、「来なくてもいい」と言ったきり、死ぬまでそんなことは言わなかったそうですね。(ウツボ)そうだね。だが、西田博士は死ぬ半年前に鎌倉から西田静子氏に手紙を寄こし、死ぬことの恐ろしくないことを教えてくれた。(カモメ)そして、そこには、「死は月よりも美しい」とも書かれていたのですね。(ウツボ)そうだね。西田博士は、日本の敗戦が近づいているのを予期して、その時の処置を、それとなく静子氏に教えたものと思われる。当時、連合軍が占領したら、日本国民は悲惨な運命に晒されると一部いわれていた。(カモメ)だが、西田博士は、日本の終戦、戦後を見ることなく、終戦の直前になくなったのですね。さぞかし、心残りだったでしょうね。(ウツボ)本当にそうだね。さて、次に帝国海軍の敗因をえぐりだしたともいうべき、ひとつの論説を見てこう。「帝国海軍が日本を破滅させた・下」(佐藤晃・光文社)によると、著者の佐藤晃氏は陸軍士官学校六一期生で、戦後、大分経済専門学校卒。三井鉱山(株)、三井石油化学工業(株)に勤務した。(カモメ)戦史研究家で、著書に「帝国海軍の誤算と欺瞞」(星雲社)、「帝国海軍〔失敗〕の研究」(芙蓉書房)などがありますね。(ウツボ)この本によると、日露戦争が終わって、わが国は近隣に巨大な敵を失った。当然、連合艦隊は無用の長物視され、縮減の声も出始めた。(カモメ)米国敵視政策は、それを防ぐために帝国海軍が講じた策謀だった、と記してあります。(ウツボ)「連合艦隊が顕在すれば、太平洋を越えてくる米国艦隊など、バルチック艦隊同然に太平洋の藻屑にする」と海軍は豪語した。(カモメ)その愚かな策謀に対する政治家たちの批判力すら喪失せしめたのが、日本海海戦の燦然と輝く大勝利だったと。(ウツボ)軍事に疎い政治家たちは、あの戦国動乱の世にも等しい時代への対応能力を失っていた。特に「平時の国防」と言われる外交面での無力は、弁解の余地もない政治の失態だった。(カモメ)政治家たちは外交面における何の主体性もなく、対米和平を模索することすら忘れていたのですね。(ウツボ)彼らは海軍の言うまま米国敵視政策を推進して、ついには軍縮条約をも破棄して海軍力の増強に躍起になった。(カモメ)日本海海戦の大勝利の「負の後遺症」は、帝国海軍においては常軌を逸する凄まじいものとなったのですね。(ウツボ)米国を仮想敵国とした帝国海軍は、日米戦争はただ一回の主力艦同士の艦隊決戦で決まると、自分勝手に決めてしまった。(カモメ)当然、作戦研究は、戦艦の大口径主砲を中心とする艦隊決戦に限られてしまいました。その結果、次のような海軍が出来上がってしまったのです。(ウツボ)まず、国家総力戦を忘れてしまった。国力などどうであれ、戦艦を揃えておればよいということである。戦略研究も忘れた。対馬海峡のような一局地、短時間で終わる艦隊決戦に戦略は不要であるからだ。(カモメ)情報も忘れた。戦艦を連ねてやって来る米国艦隊など、どこからでも見える。情報など不要だ。後方兵站や通商破壊戦も忘れた。戦闘に必要なものは港で積み込んでいくからその必要はない。(ウツボ)陸海軍共同作戦も忘れた。米国など海軍だけで撃滅できると思い込み、海軍の主担任である太平洋方面の作戦正面から陸軍を排除した。(カモメ)こうして日本帝国海軍は、米国海軍長官フランク・ノックスの言う「近代戦を知らぬか、近代戦を戦う資格のない軍隊」になってしまったのですね。(ウツボ)さらに真珠湾攻撃の成功に対する過大評価は、帝国海軍を、後方兵站を知らぬままに、占領地域の拡大方針に転換させてしまった。(カモメ)主力艦隊を温存する「艦隊保全主義」の尾も引きずったままだったのです。日本海海戦以来の近海迎撃の艦隊決戦主義の作戦方針は、さらに悪化の度を加えたと言えますね。(ウツボ)帝国海軍の想定外の戦法で攻めてくる米軍に対し、太平洋の彼方で迎撃戦法を試みる帝国海軍が対処できなかったのは当然だ。(カモメ)手に余った帝国海軍は、陸軍部隊の派兵を要請しました。だが、今まで海軍の縄張りとして締め出されていた陸軍が、急遽太平洋方面に駆り出されてきても、まともな戦闘ができるはずはなかったのですね。(ウツボ)そうだね。陸軍には「準備はおろか予想もしなかった戦場」での、海軍の愚かな作戦構想の枠にはめられた戦闘が待ち構えていた訳だ。(カモメ)それに対して、帝国海軍は、当然実施すべき協力戦闘や補給も一切しませんでしたね。まともな情報も寄越さなかったのです。
2012.06.15
(カモメ)明治三十一年十一月、山本権兵衛中将は、西郷従道の推薦により四十七歳で第二次山県有朋内閣の海軍大臣に就任しました。(ウツボ)だが、日露の風雲急を告げる中、山本海軍大臣の必死のやりくりにもかかわらず、帝国海軍は予算が尽きて戦艦三笠の注文をイギリスに発することができなかった。(カモメ)万策尽きた山本海軍大臣は、当時内務大臣だった西郷従道に相談を持ち込んだのです。すると西郷は次のように答えたというのです。(ウツボ)読んでみよう。「お国の大事ではないか。すぐ注文しなさい。とりあえず予算を流用するんです。もし違憲を追及されたら、みんなして二重橋の前で腹を切ろうじゃないか。それで議会も許してくれるだろうよ。二人が死んでも三笠ができれば結構なことじゃないかね」。(カモメ)この一言が山本海軍大臣の心を決めさせ、戦艦三笠は日露戦争に間に合ったのです。西郷は決して無能ではなく、日本のずっと先のほうを見ていたのですね。(ウツボ)そうだね。このようにして日本帝国海軍は日清戦争、日露戦争で大勝利の栄光を勝ち取り、揺ぎ無い地盤を固め、世界最強の海軍となった。それでは、次に、日本帝国海軍の滅亡について見ていこう。(カモメ)帝国海軍の誕生を話し合ってきたのに、今度はいきなり、その終焉の話に移るのですか?(ウツボ)だって、その間の海軍については、この対談シリーズですでに、かなり論じてきたではありませんか。今後もそれは続くので、今回は、始まりと終わりの概略だけを見ておきましょう。(カモメ)分かりました。【帝国海軍の終焉】(ウツボ)「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・光人社)所収「連合艦隊始末記」によると、昭和十六年、日米関係は嵐の前の緊張を加えていた。(カモメ)近衛文麿第三次内閣までつくって、最期の望みをかけた、近衛・ルーズベルト会談もついにお流れとなって、日米交渉の妥協は絶望ということになり、近衛内閣はつぶれました。(ウツボ)そして昭和十六年十月十八日、東條英機が登場して組閣し東條内閣が誕生、戦争の気構えは急ピッチで濃くなっていった。(カモメ)そのような状況のとき、海軍省官房調査課長・高木惣吉大佐(海兵四三・海大25首席・少将・教育局長・東久邇宮内閣・内閣副書記官長・戦後軍事評論家)は、鎌倉姥ヶ谷に、哲学者の西田幾多郎博士(東京帝国大学哲学科専科・京都帝国大学教授・名誉教授・文化勲章)を訪ねました。(ウツボ)西田博士は政治家でも軍人でも手ひどく批評した。昭和の日本には、よい政治家も軍人もおらないというのが、その深い嘆きだった。西田博士は高木大佐に次のように言った。(カモメ)読んでみます。「近衛という男はネ、自分では会いにこない。私に小言をいわれるのがうるさいらしい。そのくせ荒木(荒木貞夫大将)に手紙なんか持たせてよこすのだヨ」。(ウツボ)さらに西田博士は「近衛も弱くてだめだ、まあ三条實美(さんじょう・さねとみ・公卿・公爵・内務大臣・暫定の内閣総理大臣)というぐらいのところかネ」とやゆした。(カモメ)近衛第二次内閣が日独同盟を結んだときなどは、大変ご機嫌斜めで、その不満は非常なもので次のように高木大佐に述べ、軍部や政府の処置を憤っていました。(ウツボ)読んでみよう。「私はドイツ語の教師をつとめ、ドイツ哲学のお世話になって今日になっている。だから学問的にもドイツにひいきしたい意識がはたらく」(カモメ)「しかし。ナチスという野蛮人どもは文化に対する良識がない。ナチスになってから、ドイツの哲学はじめ学問はみなこわされた。こんな政治の国と手をにぎるなんてとんでもない」。(ウツボ)また、西田博士は次のようにも警告している。(カモメ)読んでみます。「君たちは、世紀のスロープがあるのをよく心得ておかねばならぬ。十八世紀後半からは三号革命がスロープであった。世界の各国は遅かれ早かれ、そのスロープに落ち込んでいった」(ウツボ)「現代は一九一七年から社会革命がスロープになっている。今度の戦争(第二次欧州大戦)では、各国とも何が自分たちを戦争に動かしているか分からないようだが、勝ったほうも負けた方もいまに意外な結果にビックリするだろう」。(カモメ)高木大佐は、時局がここまで切迫してしまっては。もはや開戦するほかはないと、政府および軍部の情勢を、打ち明けました。すると西田博士は目の色を変えて、声を強くして次のように言ったのです。(ウツボ)読んでみよう。「君たちは国の運命をどうするつもりか! いまでさえ国民をどんな目にあわせたと思う。日本の、日本のこの文化の程度で、戦いでもできると考えているのか!」。(カモメ)高木大佐は、西田博士のあの度の強いきつい眼鏡ごしに睨みすえられたとき、息がつまりました。つむじまがりの士官として人一倍上官には叱られてきた高木大佐だったが、いまだ一度も腹から恐れ入ったことがなかったが、このときばかりは、しみじみとこたえました。
2012.06.08
(カモメ)陸軍側は「参謀総長は陸軍の参謀総長にあらず、帝国の国防用兵に関して全責任を持つ唯一のものである」と強硬に突っぱねたのですね。(ウツボ)ところが、山本大佐は屈しなかった。各方面に働きかけた。だが、時代は日清両国の関係が緊迫を加え始めていた。(カモメ)明治二十六年五月、勅令第三六号海軍省官制改訂により、ついに、悲願の海軍軍令部が設置されました。だが、陸軍参謀本部と対等なのは平時だけでした。(ウツボ)戦時になり大本営が設置されると、陸軍の参謀総長のみが、天皇に対して、陸海軍の作戦、用兵の責任を負う体制となった。(カモメ)だが、明治三十六年十二月、日露戦争直前に、勅令第二九三号戦時大本営条例改訂により、戦時においても、海軍軍令部は陸軍参謀本部と対等の機関となったのです。(ウツボ)山本大佐の奮闘は陸軍に対してだけでなく、海軍にも取り組まなければいけなかった。海軍内部には創業の混沌がいたるところにあり、ふくれあがった組織は未整理だった。(カモメ)海軍創建の功績で上級士官や将官になった者が多くいましたが、階級や年功では、日進月歩の軍艦や兵器を巧みに操ることはできなかったのです。(ウツボ)明治二十四年七月、清国海軍の「定遠」、「鎮遠」という最新鋭戦艦の来日は、帝国海軍に一大ショックを与えた。(カモメ)三〇・五サンチ(cm)鋼装の砲塔を目の前にして、半可通の政治家たちは、「定遠に勝てるかね」と嘲笑半分に尋ねられた。そのとき、帝国海軍軍人として「勝てる」と肩をそびやかす者は誰一人としていなかったのです。(ウツボ)当時の帝国海軍の整備の急務は、人的組織の見直しだけでなく、軍艦そのものにもあった。こうした背景の中で、山本大佐は猛勇を奮い起こして立ち向かった。(カモメ)明治二十六年五月、山本大佐は創建期のドサクサ的軍人をすべて整理し、兵学校出身の若手を第一線に配備しました。(ウツボ)さすがに、西郷従道もこの整理名簿を見て驚き、「本当に大丈夫なのかね。これほど一度に整理してしまって」と言ったという。(カモメ)山本大佐は将官八名のほか、九十七名に及ぶ人員整理を行いました。維新の功労者も薩摩の先輩もなかった。海洋国家を目指す山本大佐の強烈な意思の結果でした。(ウツボ)その反面、山本大佐は多数の人材を登用した。狭い枠にとらわれず、能力主義一点張りでいった。大砲を撃つのは個人個人の能力以外の何ものでもないのだった。(カモメ)山本大佐は、同郷の伊集院五郎、財部彪、竹下勇などの秀才に目をかけました。(ウツボ)さらに薩摩以外の、瓜生外吉、斉藤実、島村速雄、加藤友三郎、岡田啓介などの逸材もどしどし採用しました。(ウツボ)その結果、薩摩の海軍が大きく日本の帝国海軍に飛躍する基礎がつくられた。こうして明治二十七年夏、日清戦争を迎えた訳だ。(カモメ)清国への宣戦布告を直前に控えた明治二十七年七月十九日、帝国海軍に連合艦隊が初めて組織されましたね。(ウツボ)そうだね。軍艦三十一隻、水雷艇二十四隻。数の上では相当なものだったが、維新以来の老朽艦が多く、戦力として誇れるのはその三分の一程度だった。(カモメ)初代連合艦隊司令長官は伊東祐亨中将。当時の軍令部長は樺山資紀中将でした。(ウツボ)日本が海軍を創建してから二十年間、藩閥政府やことごとく反対する議会を相手にし、横暴を極めた陸軍との戦いもあった。それに貧しい国力、産業革命を終わっていない国内工業という状況だった。(カモメ)そのような苦難の時代にあって、帝国海軍が連合艦隊と呼ぶに足る軍艦を揃えたということは、驚嘆すべき事実でした。(ウツボ)帝国海軍はこうして、日清戦争(明治二十七年七月~二十八年三月)で大勝利をおさめたのだね。(カモメ)だが、明治二十八年の三国干渉があり、下関条約(日清講和条約)で日本が割譲を受けた遼東半島は清国に返還されました。(ウツボ)その後、ロシアは露清密約を結び、明治三十一年、旅順、大連を租借、旅順に太平洋艦隊の基地をつくった。日本国民は激怒し、「ロシアとの戦争を」との声が上がったが、当時の日本は、戦争をする国力がなかった。
2012.06.01
(ウツボ)明治四年暮れ、明治政府が幕府と諸藩から接収した艦船は、「龍驤」「筑波」「日進」「東」以下十七隻、合計一三八〇〇トン余だった。(カモメ)明治五年一月八日、「海陸軍」はこの日から「陸海軍」に改められました。「兵部省を廃して、海軍と陸軍の両省を置きたい」という太政官への建議書により、分離独立したのですね。(ウツボ)そうだね。このとき「陸海軍」となった訳だ。依然として、西欧帝国主義の脅威はあったが、明治新政府は、もっと大きな国内問題に攻め立てられていたのだね。(カモメ)新政府に不満を持つ、旧士族による反政府運動が起こり、また農民による反抗も続いていたのですね。佐賀の乱、萩の乱、神風連の乱などが新政府の前途を脅かしたのです。(ウツボ)陸軍の創設は、中央集権として明治政府の基礎を固めるため、国内統一、内地作戦が健軍の本旨となった。(カモメ)そのような状況から、当時の明治五年の予算は、陸軍は八百万円、海軍は五十万円だったのです。その後、海軍の予算がやっと、陸軍の半分近くになるのが明治八年です。(ウツボ)明治初期は陸軍重点主義の時代が続いた。とくに西南戦争での薩摩の没落、その結果、陸軍の長州閥が天下を握り、国内政治と密接な関係をもったことが作用した。(カモメ)明治十一年、陸軍の参謀本部が独立しました。さらに明治十九年、参謀本部長が帝国全軍の参謀総長となり、戦時の大本営では「帝国陸海軍ノ大作戦ヲ計画スルハ参謀総長ノ任トス」と決定されました。(ウツボ)つまり、当時の陸軍の参謀総長が、陸海軍の作戦立案を行い統帥するということで、海軍は陸軍の風下に立つことになった。(カモメ)明治十五年、川村純義中将(薩摩藩・長崎海軍伝習所・枢密院顧問官・死後海軍大将)が海軍卿のとき、勅諭のおかげで、ようやく、八年計画、二千四百万円の建艦案三十二隻が認められました。(ウツボ)台湾征伐、西南の役を経ても、なおこの体であったのは、当時、紙幣乱発による財政経済の悪化につづいて、紙幣消却の強行による混乱から、商業資本の倒産、小農層のおちぶれなど、国内情勢の窮乏が大きな原因だった。(カモメ)その後、朝鮮問題から極東の風雲は日に日に嫌悪となっていったので、明治十九年、八年計画を改め、五十四隻六三三〇〇トン建造案に修正したのです。(ウツボ)アメリカのセオドア・ルーズベルト、ドイツのフォン・テルピッツと並んで世界三大海軍建設の父と呼ばれる、山本権兵衛(やまもと・ごんべえ・海兵二・海軍大将・海軍大臣・首相・外相・伯爵)が歴史の表面に登場したのは明治二十年だった。(カモメ)明治二十年当時、山本権兵衛海軍少佐は海軍大臣伝令使でした。海軍大臣は陸軍中将の肩書きを持ったまま就任した西郷従道(さいごう・じゅうどう・陸軍卿・海軍大臣・侯爵・元帥)でした。(ウツボ)西郷従道は西郷隆盛の弟だね。当時、西郷従道海軍大臣は、山本権兵衛少佐に、海軍の概況調査書の提出を命じた。ところが、山本少佐が苦心して書き上げた調査書を西郷大臣は一週間ほどで返してきた。(カモメ)山本少佐は「お分かりになりましたか」と西郷大臣に聞きました。西郷大臣は「よく分かったよ」と答えました。瞬間、山本少佐の満面は朱を注ぎ、次のように言ったのです。(ウツボ)読んでみよう。「失礼ながら閣下は海軍に来たばかりの方です。私は海軍に生まれ、海軍に育ったものであります。その私が七ヶ月もかかって調べたことを、一週間やそこらで分かったとは何事でありますか」。(カモメ)若い部下の怒りに、西郷大臣は泰然として「もっともだ」と応じました。「そいじゃ、もう一度貸してもらおうか」と、調査書をまた手元に引き寄せました。(ウツボ)十日後、山本少佐に調査書を返しながら、西郷大臣は「やっぱり読まなかったよ」と快活に笑った。剛腹の山本少佐もさすがに、このときは驚いた。だが、平然として次のように言った。(カモメ)読んでみます。「読んでも分からんから、万事を任すという意味でしょうか。そんなら話がよく分かります」。(ウツボ)すると、西郷大臣はニコニコしながら答えた。「そのとおり、そのとおりである」。(カモメ)当時山本少佐は三十五歳、西郷大臣は四十四歳でした。後に海軍建設の名コンビと言われた二人のこのエピソードはそれぞれの人格を顕著に表していますね。(ウツボ)そうだね。若い山本権兵衛少佐の自信、笑って包容した西郷従道海軍大臣。帝国海軍建設は山本権兵衛の果敢な闘いによって成されたが、その背後に、とてつもなく大きな政治家、西郷従道のバックアップがあった。(カモメ)明治二十四年六月、山本権兵衛大佐は、海軍官房主事になりました。山本大佐の海軍の独立への思いは強く、西郷従道のバックアップを受けて、長州陸軍への戦いを開始したのです。(ウツボ)明治二十六年一月の閣議に、山本大佐の立案による「海軍軍令部の独立に関する案」が提出されたとき、陸軍は激怒した。(カモメ)当時は依然、陸軍の参謀総長が陸海軍の作戦計画の立案、用兵を行っており、天皇の統帥を輔弼していました。従って、帝国海軍の上に帝国陸軍参謀本部が君臨していたのです。(ウツボ)それを、海軍軍令部を新たに設けて、海軍独自の作戦立案を行い、陸軍の支配から脱し、明治天皇の統帥下において、陸軍と対等になることを主張した。(カモメ)当時の陸軍の陣営は、明治二十四年五月まで総理大臣であった山県有朋大将(山口県出身・枢密院議長・陸軍大臣・総理大臣・元帥・参謀総長・従一位大勲位功一級・公爵)、参謀次長・川上操六中将(鹿児島県出身・子爵・参謀総長・大将・従二位勲一等功二級)、陸軍大臣・大山巌大将(鹿児島県出身・満州総軍司令官・元帥・参謀総長・公爵・従一位大勲位功一級)、陸軍次官・兼軍務局長・児玉源太郎少将(山口県出身・陸軍大臣・大将・満州総軍参謀長・参謀総長・伯爵・正二位勲一等功一級)という鉄壁の布陣だった。(ウツボ)ちなみに参謀総長は明治天皇の信任の厚い皇族の有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみや・たるひとしんのう・陸軍大将・大勲位菊花章頸飾・功二級)だった。
2012.05.25
(カモメ)ウツボ先生、今日は、また、にこやかな、お顔ですね。(ウツボ)いや、実は、これは訓練なんです。ある人から教えられてね。(カモメ)訓練ですか?(ウツボ)ハハハ、この笑顔をつくるのが訓練です。人がいてもいなくても、無理してつくった笑顔でもいいから、いつも笑顔で毎日、一か月間、過ごすというものです。(カモメ)一か月間ですか。(ウツボ)なんとかやってみようと。その人が言うことには「笑う門には福来る」という諺(ことわざ)にもあるように、この訓練を実践すると、プラス思考になり、よいことが次々に起こり、人生が良い方向に転換するのだと。(カモメ)本当ですか、それって。(ウツボ)いやいや、それはね、実際の信憑性はともかくだよ、あくまでそういう想定でやってみるということなんです。カモメさんも一緒に実践しませんか?(カモメ)いえ、いえ、俺は続きそうにないから…。始めて何日位ですか?(ウツボ)いやぁ、今日でもう十日目だよ。ところで、ヒラメとクマノミさんは?(カモメ)それが、今日はちょっと、連れて来ませんでした。(ウツボ)ええっ、なんだよ、今日は一緒に参加するって言っていたのに。……(笑顔が消えて、顔が硬直する)。(カモメ)あっ、ウツボ先生、笑顔、笑顔。(ウツボ)あっ、そうか、……コホン(作り笑い)。(カモメ)すみません。今日、彼女たちは、ボランティアで老人ホームの慰問に行っています。(ウツボ)……そうですか。それなら、仕方ないね、ボランティアの慰問だったら。また今度にしようかね。さて、前回は帝国陸軍と陸上自衛隊について、話し合ったので、流れとしては、今回は、帝国海軍と海上自衛隊だね。(カモメ)そうですね。【帝国海軍の黎明】(ウツボ)「日本海軍の興亡」(半藤一利・PHP文庫)によると、日本の海軍は長崎から始まった。この地に幕府の長崎海軍伝習所が開かれたのは安政二年(一八五五年)十月だね。(カモメ)長崎海軍伝習所は、江戸幕府が海軍士官養成を目的に、洋式海軍技術、操練術を伝習生に教授するため開設した江戸幕府海軍の学校で、明治帝国海軍の海軍兵学校の前身ともいえますね。(ウツボ)そうだね。当時の厳しい鎖国体制の中で、長崎は外国に開かれた唯一の窓だった。海軍伝習所の所長は永井尚志(後の外国奉行)で、教官はオランダ海軍の軍人だった。(カモメ)伝習生は下級幕臣と諸藩から選ばれた藩士が派遣され、約一六〇人が入校しました。(ウツボ)勝海舟もこの海軍伝習所に入所したが、オランダ語がよくできたため舎監(学生長)として、学生の世話もした。(カモメ)勝海舟は、江戸幕府の海軍奉行、明治政府の海軍卿(海軍大臣)に就任し、「日本海軍の生みの親」とも呼ばれています。(ウツボ)長崎海軍伝習所の伝習生たちは日課を定めて学科の授業と、練習船を使って訓練を行った。蘭学も学んだ。練習船は観光丸、咸臨丸、朝陽丸、鵬翔丸が使われた。(カモメ)安政四年(一八五七年)に江戸の築地に軍艦操練所ができると、長崎海軍伝習所は安政六年(一八五九年)に閉鎖されました。(ウツボ)軍艦操練所では、長崎海軍伝習所の卒業生である勝海舟らが、教官となって海軍士官養成の教育がおこなわれた。(カモメ)万延元年(一八六〇年)、幕府は日米修好通商条約の批准書交換のため、使節を米国海軍のポーハタン号に乗せ米国に派遣しました。(ウツボ)このとき、護衛として、咸臨丸(かんりんまる・六二〇トン・三本マスト・一〇〇馬力の蒸気機関・速力六ノット・砲十二門)も米国へ渡航した。(カモメ)咸臨丸には軍艦奉行・木村摂津守、教授方取り扱い・勝海舟、ジョン万次郎、福沢諭吉らが乗り込んでいました。米国海軍士官も同乗したのですね。(ウツボ)そうだね。彼らアメリカ側は、木村摂津守をアドミラル(提督)、勝海舟をキャプテン(艦長)と呼んでいたそうだ。(カモメ)官制としての海軍が始まったのは、慶応四年(一八六四年)一月十七日。「海陸軍総督」として、岩倉具視、嘉彰親王、島津忠義らが就任しています。(ウツボ)「山本五十六と米内光政」(高木惣吉・光人社)所収「連合艦隊始末記」によると、明治二年三月に大阪天保山沖で、日本帝国海軍最初の観艦式がおこなわれた。(カモメ)ところが、この日本帝国海軍最初の観艦式参加艦船は、次のわずか六隻だったのです。「電流丸」(肥前藩)、「万里丸」(肥後藩)、「千歳丸」(久留米藩)、「華陽丸」(長州藩)、「万年丸」(芸州藩)、「三邦丸」(薩州藩)。(ウツボ)排水量の合計は六隻あわせて二四五二トンで、現代の駆逐艦一隻分にも過ぎないものだったが、それが統一国家の表徴としての、海上兵力だった。(カモメ)明治新政府が第一に頭を悩ましたのは「攘夷」だったのですね。ヨーロッパ列強の進出に対して、日本帝国を防衛することですね。外圧に備え、強力な海軍を持たねばならなかったのですね。(ウツボ)そう。だから、明治二年(一八六九年)九月十九日、明治天皇は兵制に関して次のように政府に下問した。(カモメ)読んでみます。「海陸二軍は国家の重事、古今の急務なり。然るに兵制未だ立たず、規律未だ定まらず、軍艦銃器未だ充実に至らず、内外の守備ともに闕く……二軍の興張の策如何」。(ウツボ)「闕く」は現代用語の「欠く」と同じ意味だね。ところで、明治政府の黎明期の国防構想は「陸海軍」ではなく「海陸軍」だった。当時の建議書や公文書に使われている公用語は、すべて「海陸軍」だった。(カモメ)列強の侵攻に備える海軍こそが主であり、陸軍は従だった訳ですね。明治政府は海に囲まれていることの防衛上の意義を認識していたのです。それは海洋国家への脱皮でした。
2012.05.18
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