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(カモメ)当時参謀本部員で少佐だった陸軍士官学校同期の今村均(いまむら・ひとし)大将(宮城・陸士一九・陸大二七首席・参謀本部作戦課長・歩兵第五七連隊長・少将・関東軍参謀副長・陸軍省兵務局長・中将・第五師団長・教育総監部本部長・第二三軍司令官・第一六軍司令官・第八方面軍司令官・大将・戦犯としてヌマス島服役)は、当時の塚田攻少佐を次のように評しています。(ウツボ)読んでみよう。「謹厳一点張りの武人だった。女人のはべる料理屋などに行く事は身の汚れとなるし、酒食間の雑談などは不経済の時間浪費に過ぎないと信念していた」。(カモメ)出張先では、絶対に生ものを口にせず、女性の入った風呂には絶対に入らなかったということです。(ウツボ)塚田攻少佐は、大正十四年十二月陸軍大学校教官。昭和二年五月歩兵中佐(四十一歳)、歩兵第六八連隊附。昭和三年参謀本部作戦班長(~昭和六年)。昭和六年三月歩兵大佐(四十五歳)、台湾軍歩兵第二連隊長。(カモメ)昭和七年二月陸軍歩兵学校教官、六月陸軍省兵務課長。昭和八年八月関東軍第一課長。昭和十年八月少将(四十九歳)。昭和十二年十一月中支那方面軍参謀長。(ウツボ)塚田少将は、昭和十三年三月陸軍大学校長、七月中将(五十二歳)、十二月第六師団長。昭和十五年十一月参謀次長。昭和十六年十一月南方軍総参謀長。(カモメ)昭和十六年十二月八日太平洋戦争開戦。この開戦の日、南方軍総参謀長・塚田中将は「天の叢雲(むらくも)の剣は、遂に抜き放たれた」と大声で張り叫んだのですね。(ウツボ)そうだね。この天の叢雲の剣は三種の神器の一つで、天叢雲剣(あめのむらくものつるぎ)のこと。三種の神器は日本神話で天照大神から授けられた鏡・玉・剣で、歴代天皇が継承して来た三種の宝物。(カモメ)天叢雲剣は、草薙の剣(くさなぎのつるぎ)の異名で、熱田神宮の御神体となっていますね。三種の神器の中では、天皇の持つ武力の象徴となっています。(ウツボ)当時の南方軍総司令官は寺内寿一(てらうち・ひさいち)大将(山口・陸士一一・陸大二一・伯爵・少将・朝鮮軍参謀長・中将・第五師団長・第四師団長・台湾軍司令官・大将・教育総監・北支那方面軍司令官・南方総軍司令官・元帥・戦犯としてマレーシアで勾留中に病死・勲一等)だった。(カモメ)第一六軍司令官・今村均中将がサイゴンの南方軍総司令部に到着し、寺内大将と会食した時でも、今村中将と陸士同期である総参謀長・塚田中将は会食に出席しなかったのです。(ウツボ)「相変わらずだな」と今村中将は分っていたので、「塚田中将はどうした?」などとは聞かずに、泰然としていた。当時、塚田中将は公務以外、寺内大将とは一切口をきかなかったと言われている。(カモメ)塚田攻中将は、昭和十七年七月第一一軍司令官。昭和十七年十二月十八日南京から第一一軍司令部のある漢口への帰途、飛行機事故で殉職。没後大将進級。享年五十六歳でした。(ウツボ)塚田攻大将の遺著「原元録」(塚田攻・偕行社)は、塚田中将が昭和十三年陸軍大学校長時代に綴り、昭和十五年にまとめて冊子にしたものを、塚田攻大将の死後、昭和十八年に偕行社から刊行された。(カモメ)その序言に、塚田大将は、書名の「原元録(げんげんろく)」の「原元」について、次の様に記しています。(ウツボ)読んでみよう。「原元とは何ぞや。夫れ『大日本は神国なり』、神国の始めを原(たず)ねて、元を元とし正に反(かえ)る之を原元という」。(カモメ)「まごころ」に生まれ、「まごころ」に活き、「まごころ」に死んで、忠誠を完成するのが、「原元の本義」であると。(ウツボ)さらに「惟(おも)うに神国日本の本国体、大義名分を究め、之を基調として道徳、文武、学業等に関する指導原理を把握し実践するは、之神国日本軍人たる吾人の修養であり、職分であると信じる」とも述べている。(カモメ)本文は「神勅」から説き起こし、「修理固成、八紘一宇、天壌無窮は大日本の使命、理想、天業なり」と記して、藤田東湖、吉田松陰、北畠親房の言葉を引用しています。(ウツボ)「今上陛下を拝することは天照大御神を拝することで、天皇を現人神、現御神と仰ぎまつるのが大和民族の信仰である」とも。(カモメ)さらに「戦争は降魔破邪の手段で皇基恢弘の為にするので正しい事であり、而も誠心を以てやるのであるから負ける事は無い」「此の信念が犠牲的精神、攻撃精神、必勝の信念となり、武勇となりて敵を粉砕し、退くを知らぬ進を知るのみ」と説いていますね。(ウツボ)そうだね。精神主義の乃木希典大将、荒木貞夫大将も顔負けの極度な精神家としての塚田攻大将の内面が浮き出てくる冊子だ。(今回で「陸軍大将異聞」は終わりです。次回からは「海軍大将異聞」が始まります)
2016.07.29
(カモメ)陸軍次官として、木村中将が積極的に開戦を推し進めたというような発言や行動もなかったのです。また、東條と武藤という我の強い人物に挟まれる格好で、陸軍次官の木村中将には、ほとんど発言力も無く、影の薄い存在だったのですね。(ウツボ)そうだね。そもそもアメリカが当初作成していた日本の主要被告五十八人の中に木村兵太郎の名前は入っておらす、マークさえされていなかった。(カモメ)その後、連合国が被告の選定会議を十四回も開いて最終的な被告を絞り込んでいったのですが、木村兵太郎の名前が挙がって来たのはかなり後半の会議だったのですね。(ウツボ)当初、国際検察局としては、陸軍のトップだった、東條英機と、陸軍中枢で権力を握っていた軍政のナンバースリー、軍務局長・武藤章少将を被告(捕虜虐待の罪でも立件)とすることに決めていた。(カモメ)当時の陸軍のナンバーワンとナンバースリーが被告となるのに、ナンバーツーが被告にならないのは不都合であるという理由で、木村兵太郎の立件が決定されたと言われていますね。(ウツボ)東京裁判の法廷では、木村大将は一切の弁明を拒み、終始両目を閉じたまま、被告席に座り続けた。木村大将の性格がよく現われている。(カモメ)木村兵太郎大将が、獄中から長女へ宛てた手紙には、「いつまでもあると思うな親と金。ないと思うな運と災難」と記しています。自分の身に起こった運と災難について、しみじみと回想していたと思われます。(ウツボ)木村兵太郎の長女は、土岐百合子(とき・ゆりこ)だね。百合子の夫は、土岐實光(とき・さねみつ)です。(カモメ)土岐實光は上州沼田藩主・土岐家(三万五千石・現在の群馬県沼田市)の第十八代当主ですね。(ウツボ)そうだが、注目すべきは、土岐實光は日本国有鉄道の設計技師長として、ディーゼル機関車の主任設計技師を務め、ディーゼル機関車の導入・普及に貢献した。平成二十三年四月十三日に死去。享年八十八歳。(カモメ)ちなみに、木村兵太郎の長男は、日本銀行監事の木村太郎(きむら・たろう・東京・東京大学法学部卒・日本銀行入社)ですね。(ウツボ)そうだね。日本銀行の監事は役員で、一般企業でいえば取締役に相当する。 【塚田攻(つかだ・おさむ)大将】(カモメ)塚田攻は、明治十九年七月十四日生まれ。茨城県出身。塚田幸右衛門の五男。成城学校を経て陸軍士官学校入校。明治四十年五月陸軍士官学校(一九期)卒業、十二月歩兵少尉(二十一歳)、歩兵第三連隊附。明治四十三年十一月歩兵中尉(二十四歳)。(ウツボ)明治四十四年十二月陸軍大学校入学。大正三年十一月陸軍大学校(二六期・十五番)卒業。陸軍大学校二六期からは、塚田攻大将を含め大将が六名出ている。塚田攻大将以外の大将は次の通り。(カモメ)朝香宮鳩彦王(あさかのみや・やすひこおう)大将(皇族・久邇宮朝彦親王の第八王子・陸士二〇・陸大二六・歩兵大佐・陸軍大学校教官・少将・歩兵第一旅団長・中将・近衛師団長・上海派遣軍司令官・大将・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章)。(ウツボ)東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこおう)大将(皇族・久邇宮朝彦親王の第九王子・陸士二〇・陸大二六・フランスのサン・シール陸軍士官学校留学・エコール・ポリテクニーク・歩兵大佐・近衛歩兵第三連隊長・少将・歩兵第五旅団長・中将・第二師団長・第四師団長・陸軍航空本部長・第二軍司令官・大将・防衛総司令官・首相兼陸軍大臣・大勲位菊花大綬章・功一級金鵄勲章)。(カモメ)安藤利吉(あんどう・りきち)大将(宮城・陸士一六・陸大二六恩賜・歩兵第一三連隊長・第五師団参謀長。陸軍省軍務局兵務課長・英国大使館附武官・少将・歩兵第一旅団長・陸軍戸山学校長・第五独立守備隊司令官・中将・教育総監部本部長・教育総監・第五師団長・第二一軍司令官・南支那方面軍司令官・予備役・台湾軍司令官・大将・第一〇方面軍司令官・兼台湾総督・自決・正三位・勲一等・功二級)。(ウツボ)藤江恵輔(ふじえ・けいすけ)大将(兵庫・陸士一八・砲工学校高等科・陸大二六・野戦重砲兵第二連隊長・少将・陸軍野戦重砲兵学校幹事・野戦重砲兵第四旅団長・関東憲兵隊司令部総務部長・関東憲兵隊司令官・憲兵司令官・中将・第一六師団長・陸軍大学校長・西部軍司令官・大将・東部軍司令官・第一二方面軍司令官・予備役・第一一方面軍司令官兼豊北軍管区司令官)。(カモメ)山脇正隆(やまわき・まさたか)大将(高知・陸士一八恩賜・陸大二六首席・参謀本部編制動員課長・教育総監部第一課長・ルーマニア公使館附武官・少将・陸軍省整備局長・教育総監部本部長・中将・陸軍次官・第三師団長・駐蒙軍司令官・陸軍大学校校長・予備役・ボルネオ守備軍司令官・第三七軍司令官・大将・従三位・勲一等・功三級)。(ウツボ)塚田攻歩兵中尉は大正六年八月歩兵大尉(三十一歳)、関東軍参謀、参謀本部作戦課員、浦塩派遣軍参謀。大正十一年八月歩兵少佐(三十六歳)。大正十二年参謀本部作戦班長。大正十三年十一月陸軍大学校専攻学生。(カモメ)少佐で参謀本部作戦班長に補されたのは、塚田攻少佐だけです。当時から塚田少佐は高く評価されていたのですね。(ウツボ)そうだね。後に中佐でもう一度、作戦班長に就任するが、その時は三年間もやった。
2016.07.22
(ウツボ)岡部中将は、昭和十八年二月大将(五十六歳)に親任され、十月第三方面軍司令官に親補された。昭和十九年八月北支那方面軍司令官、十一月第六方面軍司令官。昭和二十年八月十五日漢口で終戦を迎える。(カモメ)昭和二十一年五月岡部直三郎大将は、くも膜下出血で倒れ、上海の病院に入院。その後、戦犯容疑者として戦犯拘禁所に収容され、十一月二十八日独房内で意識を失い死去(脳溢血)。享年五十九歳。(ウツボ)著書に「岡部直三郎大将の日記」(岡部直三郎・芙蓉書房・四九六頁・一九八二年三月)がある。【木村兵太郎(きむら・へいたろう)大将】 (カモメ)木村兵太郎は明治二十一年九月二十八日生まれ。東京都出身。本籍は埼玉県。広島一中から広島地方陸軍幼年学校を経て陸軍士官学校入校。明治四十一年五月陸軍士官学校(二〇期)卒業、十二月砲兵少尉(二十歳)、野砲兵第一六連隊附。(ウツボ)明治四十四年十二月歩兵中尉(二十三歳)。大正元年十一月陸軍砲工学校高等科卒業、十二月陸軍野戦砲兵射撃学校教官。大正五年十一月陸軍大学校(二八期)卒業。大正六年九月参謀本部附。大正七年七月砲兵大尉(三十歳)、参謀本部員、八月第三師団参謀。(カモメ)大正十一年一月参謀本部附、五月ドイツ駐在。大正十二年八月砲兵少佐(三十五歳)。大正十四年十月陸軍大学校教官。大正十五年八月砲兵第二四大隊長。昭和三年三月砲兵中佐(四十歳)、砲兵監部員。昭和四年六月陸軍野戦砲兵学校教官、九月軍令部員、十一月ロンドン海軍軍縮会議随員。(ウツボ)昭和六年八月砲兵大佐(四十三歳)。昭和七年八月技術本部員兼陸軍野戦砲兵学校。昭和十年三月陸軍省整備局統制課長。昭和十一年八月少将(四十八歳)、陸軍省兵器局長。昭和十四年三月中将(五十一歳)、第三二師団長。昭和十五年十月関東軍参謀長。昭和十六年四月陸軍次官。(カモメ)ちなみに、木村兵太郎中将は、太平洋戦争開戦前後を東條英機陸軍大臣の陸軍次官を務めました。このことにより、戦後A級戦犯に指定され、極東軍事裁判で死刑の判決を受けることになったのですね。(ウツボ)そうだね。その後、木村兵太郎中将は、昭和十八年三月軍事参議官兼陸軍兵器行政本部長。昭和十九年八月ビルマ方面軍司令官。昭和二十年五月大将(五十七歳)。(カモメ)昭和二十年三月イギリス軍が勢力を増し、ビルマの首都・ラングーンに迫り、ビルマ戦線の日本軍は崩壊寸前となっていました。(ウツボ)ビルマ方面軍司令官・木村兵太郎中将は側近の参謀と協議の後、方面軍司令部とともに陸軍機でラングーンを脱出することにした。(カモメ)この時、ラングーンには、ビルマのバー・モウ首相、チャンドラ・ボース率いるインド国民軍、在留邦人らがまだ留まっていました。そんな中をビルマ方面軍司令部が真っ先に逃げ出そうというのです。(ウツボ)ビルマ方面軍参謀長は田中新一(たなか・しんいち)中将(新潟・陸士二五・陸大三五・兵務局兵務課長・軍務局軍事課長・駐蒙軍参謀長・少将・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・ビルマ方面軍参謀長・飛行機墜落で重傷・第一総軍司令部附)だった。(カモメ)ちなみに、昭和十七年十二月六日、参謀本部第一部長・田中新一少将が、ガダルカナル島増援問題で、東條英機首相(兼陸相)に「大バカヤロー」と怒鳴った時、木村次官も同席していましたね。(ウツボ)そうだね。その田中参謀長が「司令部は忽然とラングーンに踏みとどまって方面軍を統帥すべきだ」と司令部の脱出に反対したが、木村軍司令官は耳を貸さず、結局司令部はモールメンに脱出した。脱出直前、木村軍司令官はブルブル震えてろくに声も出ないありさまだったという。(カモメ)そして脱出の途中、木村中将は大将に進級した。敗戦の将で万骨を枯らしても大将になれたのですね。「負けても大将になれるのか」と悪口を言う者もいたほどです。(ウツボ)だが、木村兵太郎大将は、戦後A級戦犯として逮捕され昭和二十一年五月巣鴨刑務所に入所。極東軍事裁判で死刑判決。(カモメ)木村兵太郎大将は、昭和二十三年十二月二十三日絞首刑。享年五十九歳でした。(ウツボ)木村兵太郎大将の死刑判決理由は第三次近衛内閣及び東條内閣において東條陸軍大臣の次官を務めていただけの理由による。ビルマ方面軍司令官、その他の軍歴においても戦犯追及はされていない。(カモメ)日本の侵略戦争を遂行する共同謀議における重要な協力者・共犯者であったということですね。つまり東條英機大将が積極的に開戦を推し進めた時に、「陸軍次官・木村兵太郎中将と、軍務局長・武藤章少将も大きな権力を行使してそれに協力した」というものです。(ウツボ)だが、実際は、当時、木村中将よりもっと日米開戦を強硬に主張した陸軍高官は多数いた。戦後、彼らは戦犯にならずに、木村大将が級戦犯に指定された。(カモメ)当時、木村中将は東條大将のような、政治的野心は全くなかったのですね。陸軍部内の政治的派閥抗争にもほとんど無縁であり、実直に与えられた仕事をこなす事務屋的な性格だったのですね。(ウツボ)そうだね。この性格を知っていた東條陸軍大臣は、下に置いておけば使いやすい人材であると判断して、東條陸軍大臣は木村中将を陸軍次官に指名したのだね。
2016.07.15
(カモメ)岡部少将は陸軍大学校を去る時、参謀演習旅行について、「学生の前で、校長からあのように言われ、俺の用兵家としての生命は終わったよ」とこぼしていたということです。(ウツボ)技術本部総務部長を半年やり、昭和十二年八月、岡部少将は新編成の北支那方面軍参謀長に就任、十一月中将(五十歳)に昇進した。(カモメ)当時、北支那方面軍司令部の作戦課に辻政信(つじ・まさのぶ)大尉(石川・陸士三六首席・陸大四三・三番・第二五軍参謀・参謀本部作戦班長・陸軍大学校兵学教官・歩兵大佐・支那派遣軍参謀・第三三軍参謀・第三九軍参謀・第一八方面軍参謀・終戦五戦犯容疑・タイ・中国などに潜伏・帰国後衆議院議員・参議院議員・ラオスで消息不明・昭和四十三年七月死亡宣告)がいましたね。(ウツボ)そうだね。辻大尉は、北支那方面軍司令部作戦課では異色の存在で、ある日、「作戦について意見を求められず、知らされもしない。まことに不愉快極まるので勤務できない」と言い出した。(カモメ)これに対して、岡部参謀長は「もちろん、辻大尉の心得違いである。彼の性質は自己中心である。だから、その意見を実行に移すというような環境ではないのだ。それが、彼が満足できないということだ」と述べています。(ウツボ)岡部参謀長が、第一師団長に転出する申告を聞いて、北支那方面軍司令官・寺内寿一(てらうち・ひさいち)大将(山口・陸士一一・陸大二一・在オーストリア大使館附武官補佐官・ドイツ駐在・歩兵大佐・近衛歩兵第三連隊長・近衛師団参謀長・少将・歩兵第一九旅団長・朝鮮軍参謀長・中将・独立守備隊司令官・第五師団長・第四師団長・台湾軍司令官・大将・陸軍大臣・教育総監・北支那方面軍司令官・南方軍総司令官・元帥・勲一等・功一級・伯爵)は、声を詰まらせて落涙した。(カモメ)岡部参謀長もまた、感激して落涙しました。二人は相通ずるところがあり互いに尊敬の念を持ちながら勤務していたのです。(ウツボ)昭和十三年七月岡部中将は第一師団長に就任。昭和十四年九月駐蒙軍司令官。昭和十五年九月参謀本部附、十二月技術本部長。昭和十七年十月陸軍大学校長。(カモメ)昭和十五年三月、陸軍大学校(五二期)を卒業した北白川宮長久王(きたしらかわのみや・ながひさおう)大尉(北白川宮成久王の第一王子・母は明治天皇の第七皇女房子内親王・陸士四三・砲工学校高等科・陸大五二・駐蒙軍参謀・事故死・少佐特別進級・大勲位菊花大綬章)が駐蒙軍司令部に赴任して来ました。(ウツボ)五月二日、南京へ出張した宮川大尉(長久王の秘匿名)の乗った飛行機が着陸時、滑走を誤って立木に衝突した。長久王は無事だったが、これは不吉の前兆だった。(カモメ)そうですね。九月四日午前、防空監視要員の訓練中、協力していた戦闘機が操縦を誤り突っ込んで来て激突した。長久王はこの事故で、前頭部裂傷、右脚を膝下で切断、左足関節脱臼・骨折の重傷を負ったのです。(ウツボ)突っ込んだ戦闘機のパイロットは、優秀な曹長で、「今日は、あっと言わせてやるぞ!」と意気込んで飛び立って行ったそうだ。(カモメ)事故発生の報に、北支那方面軍司令官・多田駿(ただ・はやお)中将(宮城・陸士一五・三十五番・陸大二五・十二番・欧米出張・北京陸軍大学校教官・砲兵大佐・陸軍大学校教官・野砲第四連隊長・第一六師団参謀長・満州国軍政部最高顧問・少将・野重砲第四旅団長・支那駐屯軍司令官・中将・第一一師団長・参謀次長兼陸軍大学校校長・第三軍司令官・北支那方面軍司令官・大将・軍事参議官・功二級・ドイツ鷲勲章大十字章)が見舞いに来ました。(ウツボ)また、支那派遣軍総参謀長・板垣征四郎(いたがき・せいしろう)中将(岩手・陸士一六・陸大二八・歩兵第三三旅団参謀・支那出張・歩兵大佐・歩兵第三三連隊長・関東軍高級参謀・関東軍第二課長・少将・満州国執政顧問・欧州出張・満州国軍政部最高顧問・関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官・関東軍参謀長・中将・第五師団長・陸軍大臣・支那派遣軍参謀長・大将・朝鮮軍司令官・第一七方面軍司令官。第七方面軍司令官・A級戦犯・死刑・従四位・勲一等・功三級)も見舞いに駆け付けた。(カモメ)さらに、第三飛行集団長・木下敏(きのした・はやし)中将(和歌山・陸士二〇・陸大二九恩賜・航空兵大佐・ジュネーヴ軍縮会議随員・飛行第五連隊長・航空本部第二課長・航空本部第一部長・少将・第二飛行団長・所沢陸軍飛行学校長・陸軍士官学校分校長・陸軍航空士官学校長・中将・第三飛行集団長・陸軍航空士官学校長・関東防衛軍司令官・第三航空軍司令官・南馬来軍司令官・戦後第七方面軍司令官代理・南方軍総司令官代理・従三位・勲一等)も駆け付けたのです。(ウツボ)木下中将は、「罪は操縦士にあります」と涙を流して岡部中将に陳謝した。そのうちに長久王の容態が急変し当日午後七時過ぎに息を引きとった。(カモメ)翌日には、支那派遣軍総司令官・西尾寿造(にしお・としぞう)大将(鳥取・陸士一四次席・陸大二二次席・歩兵大佐・教育総監部第一課長・少将・第三九旅団長・参謀本部第四部長・中将・関東軍参謀長兼特務部長・参謀次長・近衛師団長・第二軍司令官・教育総監・大将・支那派遣軍総司令官兼第一三軍司令官・軍事参議官・予備役・東京都長官・A級戦犯容疑で勾留・正三位・勲一等・功一級)も駆け付け、神式で告別式が挙行されました。(ウツボ)昭和十七年十月陸軍大学校長に就任すると、岡部中将は、統帥と技術の調和こそ重要であると、陸軍大学校の教育改革に乗り出し、その改革案をまとめあげた。(カモメ)当時の参謀本部総務部長は、額田坦(ぬかだ・ひろし)少将(岡山・陸士二九・陸大四〇・陸軍省人事局補任課長・独立歩兵第一一連隊長・陸軍士官学校生徒隊長・少将・参謀本部総務部長・参謀本部第三部長・最後の陸軍省人事局長・中将・予備役・戦後第一復員省業務局長・戦犯容疑で巣鴨プリズンに収容・千鳥ヶ淵戦没者墓苑奉仕会理事長)でした。(ウツボ)岡部中将は陸軍大学校改革案を、額田少将に示し、検討を要望した。検討した結果、額田少将が「これには教官の異動を伴うので、実行が難しい」と報告した。(カモメ)すると、岡部中将は「貴官は我輩の意見をみな蹴飛ばすつもりか」と激して言ったのです。だが、太平洋戦争中の陸軍には、とてもそのような改革案を実行に移す余裕はなかったのです。
2016.07.08
(ウツボ)板垣大将は、極東軍事裁判で、A級戦犯として死刑判決。板垣大将は、東條英機大将らと共に、「絞首刑」を宣告された七人のうちの一人となった。昭和二十三年十二月二十三日巣鴨プリズンにて絞首刑。享年六十三歳。(カモメ)枦山徹夫(はぜやま・てつお)元陸将(陸士四七・陸大五八・終戦時陸軍少佐・陸上自衛隊幹部学校副校長・陸上自衛隊航空学校長)は、昭和二十年初頭、第七方面軍参謀でしたね。(ウツボ)そうだね。当時、枦山少佐は、参謀勤務を通じて、第七方面軍司令官・板垣征四郎大将の部下思いの指導に敬服していた。(カモメ)終戦になり、板垣大将はA級戦犯に指定され、裁判を受けることになりました。その時、板垣大将の弁護人から、枦山氏に弁護側の証人になってくれという要求が来たのです。(ウツボ)枦山氏は尊敬する軍司令官のために役に立ちたいという気持ちがいっぱいだったので、上級者も多数おり、元少佐では役者不足の感はあったが、引き受けた。(カモメ)板垣大将に面会して証言内容について打ち合わせをすることになりました。時間はわずか三十分に限られていたのです。枦山氏が、証言内容について述べようとすると、板垣大将は「まあ、待て」と言ったのですね。(ウツボ)そうだね。そして、「部隊の復員状況はどうなっているか」「内地での復員業務、特に戦没者の始末はよくいっているか」などと、部下の状況を尋ねられ、三十分はあっという間に過ぎ去った。(カモメ)もう一回、最後の打ち合わせの時も、板垣大将から、部下全員の復員状況、戦没者の処理などについて質問され、時間は過ぎたのです。(ウツボ)枦山氏が話題を変えて、証言内容の打ち合わせに入ろうとしたら、板垣大将は、「よし、分かった。それは、お前の考えた通り、ありのままを言えばいいんだ。作り事はいけないよ。まかせる」と言った。(カモメ)板垣大将には、何とか証言で無罪になりたいというような気持ちは全くないように思われました。また、裁かれる者の暗さなど少しも感ぜられなかったのです。(ウツボ)枦山氏は「過去、幾多の先輩に仕えたが、板垣大将から受けた教訓は、最も忘れ得ないものだった」と述べている。 【岡部直三郎(おかべ・なおさぶろう)大将】(カモメ)岡部直三郎は、明治二十年九月三十日生まれ。広島県広島市出身。明治三十二年三月崇徳中学校卒業後、広島陸軍地方幼年学校入校。明治三十三年九月広島陸軍地方幼年学校卒業。陸軍中央幼年学校を経て、明治三十八年十一月陸軍士官学校(一八期)卒業。(ウツボ)明治三十九年六月砲兵少尉(十九歳)。明治四十一年十二月砲兵中尉(二十一歳)。明治四十三年十一月陸軍砲工学校高等科卒業。大正元年十二月陸軍大学校入学。大正四年十二月陸軍大学校(二七期・九番)卒業。大正五年五月砲兵大尉(ニ十九歳)。参謀本部から東京外国語学校へ委託学生(ロシア語)。(カモメ)岡部大尉は、大正七年ハバロフスク留学。大正八年浦塩派遣軍司令部附(特務機関)。大正九年陸軍大学校教官。大正十年砲兵少佐(三十四歳)。大正十一年ポーランド公使館附武官。大正十四年砲兵中佐(三十八歳)、野砲兵第四連隊附。大正十五年十二月陸軍大学校専攻学生。(ウツボ)昭和二年十二月陸軍大学校教官。昭和四年八月砲兵大佐(四十二歳)。昭和五年四月野砲兵第一連隊長。昭和六年八月砲兵監部員。昭和七年二月上海派遣軍高級参謀、十二月参謀本部演習課長。昭和九年八月少将(四十七歳)、陸軍大学校研究主事。昭和十年三月陸軍大学校幹事。(カモメ)昭和十年三月小畑敏四郎(おばた・としろう)少将(高知・陸士一六恩賜・陸大二三恩賜・陸軍大学校教官・参謀本部作戦課長・大佐・歩兵第一〇連隊長・陸軍大学校教官・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第三部長・近衛歩兵第一旅団長・陸軍大学校幹事・陸軍大学校長・中将・予備役・留守第一四師団長・国務大臣・正四位・勲一等)が陸軍大学校長に就任しました。(ウツボ)陸軍大学校幹事の岡部直三郎少将(陸士一八・陸大二七)は、勤務も謹厳実直で理に合わないことはしない合理主義者だった。(カモメ)そうですね。一方、陸軍大学校長の小畑敏四郎少将は、皇道派の精神主義で、これまでも、統制派合理主義の永田鉄山少将(陸士一六首席・陸大二三次席・斬殺・中将)と激しく対立して来たのです。(ウツボ)陸軍大学校においても、精神主義の小畑校長と合理主義の岡部幹事は相容れなかった。根本思想、性格の差異から、両雄並び立たずという程ではないが、二人は合わないところが目立った。(カモメ)そうですね。例えば、参謀演習旅行に出かけた時でも、岡部幹事が講評を行った後、小畑校長が、岡部幹事の言ったことと違う事を話して、岡部幹事の面目は丸つぶれになったこともありました。(ウツボ)岡部少将は陸軍大学校の幹事を二年務めて、昭和十二年三月技術本部総務部長に転出した。この時、小畑少将も中将に昇進していたが、二・二六事件の粛軍人事で予備役に入っていた。
2016.07.01
(カモメ)昭和六年九月十八日午後十時二十分奉天北方、柳条湖付近で満鉄(南満州鉄道)の線路が爆破されました。柳条湖事件ですね。(ウツボ)そうだね。当時関東軍高級参謀だった板垣征四郎大佐は、直ちに奉天駐屯の関東軍部隊に北大営の国民革命軍への攻撃命令を発令、午後十時三十分戦闘が始まった。(カモメ)満州事変の勃発ですね。この命令は板垣大佐の独断専行でした。(ウツボ)当時の関東軍司令官は本庄繁(ほんじょう・しげる)中将(兵庫・陸士九・陸大一九・参謀本部支那課長・歩兵大佐・歩兵第一一連隊長・参謀本部付・張作霖顧問・少将・歩兵第四旅団長・在支那公使館附武官・中将・第一〇師団長・関東軍司令官・侍従武官長・大将・男爵・功一級・予備役・軍事保護院総裁・枢密顧問官・終戦・戦犯指名・自決・正三位・勲一等)だった。(カモメ)板垣大佐は、戦闘開始から三十分後の午後十一時に、旅順の官舎で入浴中の本庄繁中将に緊急電話をし、「奉天で支那軍と戦闘が始まり、緊急時であるから、自分の独断で関東軍の独立守備隊を動かしました」と報告しました。本庄中将は驚き、すぐに軍服に着替えて軍用列車で奉天に向かったのですね。(ウツボ)そうだね。この満鉄の線路爆破は、中国軍の犯行であると発表されたが、事実は、関東軍参謀が計画、高級参謀・板垣征四郎大佐が主導して行った。(カモメ)けれども、主に計画を立案したのは、作戦主任参謀・石原莞爾中佐(山形・陸士二一・六番・陸大三〇次席・関東軍作戦主任・関東軍作戦課長・歩兵大佐・ジュネーヴ軍縮会議随員・歩兵第四連隊長・参謀本部作戦課長・参謀本部戦争指導課長・少将・参謀本部第一部長・関東軍参謀副長兼在満州国大使館附武官・舞鶴要塞司令官・中将・第一六師団長・予備役・立命館大学講師・立命館大学国防学研究所所長・従四位・勲三等・功三級)でした。(ウツボ)とにかく、この二人と数人の参謀が中心になって計画し、爆破を実行したのは関東軍独立守備隊第二大隊第三中隊の河本末守中尉ら数名の日本軍人だった。(カモメ)九月十九日午後、東京の参謀総長・金谷範三大将(大分・陸士五・陸大一五恩賜・在オーストリア大使館附武官・歩兵大佐・歩兵第五七連隊長・参謀本部作戦課長・少将・支那駐屯軍司令官・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・参謀次長兼陸軍大学校校長・朝鮮軍司令官・大将・参謀総長・勲三等)から事件不拡大の命令が発せられました。(ウツボ)本庄軍司令官は陸軍中央の不拡大方針の命令に従う決意をした。これに対して、関東軍参謀たちは、本庄軍司令官に対し、必死になって作戦続行の意見具申を行なった。だが、本庄軍司令官は、頑として進攻中止の方針を変えなかった。(カモメ)さすがの、石原莞爾中佐も匙を投げて、事変はこれで終わるかに見えました。けれども、板垣大佐は本庄軍司令官に得意の粘り強さで、二十日夜から三時間にわたって説得を続けたのですね。(ウツボ)そうだね。板垣大佐の説得により、二十一日未明、遂に本庄軍司令官は、吉林出兵の決断をするに至った。これ以後、関東軍は、満州攻略の作戦と軍事行動を進展させ、昭和七年三月一日、遂に満州国が建国された。(カモメ)満州国建国は大成功で、日本国にとっては大躍進となりました。そうなると、本庄繁中将、板垣征四郎大佐、石原莞爾中佐らは、多大の功績があったとして評価され、後に、本庄繁中将は侍従武官長、板垣征四郎大佐は陸軍大臣、石原莞爾中佐は参謀本部作戦部長に補されています。(ウツボ)板垣大佐は、満州国建国に当たって、執政に就任する溥儀に、ある文章に花押しさせた。その文章は、関東軍司令官宛の書簡となっており、「満州国を完全に日本の支配下に置く」ことを溥儀自らが承認するという内容だった。(カモメ)ところで、板垣征四郎は、後に石原莞爾との関係について、次の様に述べていますね。(ウツボ)読んでみよう。「満州事変の作戦は石原君の平素の研究に基づく点が多い。世の中のことは、頭の良い人に案を立てさせておいて、時が来たら、それを皆で実現していくところに発展性がある。小我を張るのは禁物だよ」。(カモメ)一方、石原莞爾は、板垣征四郎を評して、「板垣さんの足に、もし、ブスッと、針を突き刺したとしたら、板垣さんは、一時間ばかりたってから、はじめてアッ痛いと気がつく人だよ」と述べています。(ウツボ)板垣大佐は、昭和七年八月少将(四十七歳)に進級した。同時に関東軍司令部附となり、満州国執政顧問に就任した。昭和八年二月ヨーロッパ出張。昭和九年八月関東軍司令部附(満州国軍政部最高顧問)、十二月関東軍参謀副長兼駐満大使館附武官。(カモメ)昭和十一年三月関東軍参謀長、四月中将(五十一歳)。昭和十二年三月第五師団長、五月勲一等瑞宝章。昭和十三年六月第四十六代陸軍大臣兼対満事務局総裁。昭和十四年一月第四十七代陸軍大臣、九月支那派遣軍総参謀長。(ウツボ)板垣中将は陸軍大臣としては評価が低かった。五相会議でも自分の意見が定まらず、後で、発言を取り消したりもした。また、昭和天皇からは「お前は何をやっているのか」とよく叱られていた。(カモメ)日独伊三国同盟問題でも、昭和天皇が「撤回せよ」と言ったら、板垣大臣は「それでは辞表を出します」と返答して、ぶつかっています。(ウツボ)板垣中将は、昭和十六年七月大将(五十六歳)、朝鮮軍司令官。昭和二十年二月第一七方面軍司令官(兼任)、四月第七方面軍司令官(司令部・シンガポール)。(カモメ)終戦となり、板垣大将はシンガポールでイギリス軍に拘束されましたが、昭和二十一年五月三日極東軍事法廷が開廷し、戦犯容疑に指定されたため、飛行機で東京に移送されました。
2016.06.24
(ウツボ)板垣陸軍大臣は、ますます苦慮した。当時東條中将は、すでに頭角を現していたので、無視するわけにもいかなかった。(カモメ)色々方策を考えた結果、ついに喧嘩両成敗という形をとり、東條中将は初代陸軍航空総監に、多田中将は第三軍司令官に転出させました。(ウツボ)多田中将は、昭和十三年十二月第三軍司令官。昭和十四年九月北支那方面軍司令官。昭和十五年一月ドイツ鷲勲章大十字章、四月功二級金鵄勲章。(カモメ)北支那方面軍司令官・多田中将のことを、北京に住んでいた川島芳子は、「お父さん」と呼んでいました。多田中将と川島芳子は、昭和七年多田中将が満州国軍政部最高顧問だった頃から男と女の関係だったという噂もありました。(ウツボ)川島芳子は清王朝の皇族で、第十代粛親王である愛新覚羅善耆(あいしんかくら・ぜんき)の第十四王女。男装の麗人と称され、大陸で日本軍の下で工作活動に従事した。戦後まもなく中華民国政府により国賊として銃殺刑になった。享年四十歳。(カモメ)昭和十六年七月多田中将は五十九歳で大将に昇進しましたが、同時に板垣中将も大将に昇進しました。板垣中将は朝鮮軍司令官に補されましたが、多田大将は軍事参議官に補され、九月予備役に編入されたのですね。(ウツボ)そうだね。多田大将を予備役にしたのは、仲の悪かった東條英機中将だった。当時東條中将は陸軍大臣で、その年の十月には首相になり、大将に昇進した。(カモメ)多田大将は予備役編入以後、千葉の館山で良寛の文献を読むなどして営農生活に従事しました。昭和二十年十二月A級戦犯容疑で逮捕されましたが、健康上の理由で入所延期となり、自宅療養が認められました。(ウツボ)多田大将は、昭和二十三年十二月十六日胃ガンで死去。享年六十六歳。多田大将が収集した明・清時代の一二五三冊という膨大な兵法書が早稲田大学図書館に収められている。【板垣征四郎(いたがき・せいしろう)大将】 (カモメ)板垣征四郎は、明治十八年一月二十一日生まれ。岩手県岩手郡岩手町出身。祖父は盛岡藩士族で藩校の教授、藩主の侍講(じこう=君主に学問を講じること)、勘定奉行を務める藩の中心人物でした。父・板垣政徳は気仙郡郡長、女学校校長を歴任した人物です。(ウツボ)板垣征四郎の弟は、板垣盛(いたがき・さかん)海軍少将(海兵三九・防護巡洋艦「筑摩」水雷長・駆逐艦「響」艦長・駆逐艦「梅」艦長・少佐・駆逐艦「葵」艦長・駆逐艦「早苗」艦長・駆逐艦「磯風」艦長・駆逐艦「曙」艦長・中佐・第二八駆逐隊司令・第八駆逐隊司令・大佐・第一〇駆逐隊司令・第四一駆逐隊司令・呉防備隊司令・重巡洋艦「妙高」艦長・呉港務部長・佐世保第二海兵団長・少将・鎮海防備戦隊司令官・第一特別根拠地隊司令官・呉警備隊司令官兼呉海兵団長)だ。(カモメ)板垣征四郎の次男は、政治家の板垣正(いたがき・ただし・陸軍航空士官学校五八・陸軍中尉・シベリア抑留・戦後日本共産党入党・転向・中央大学法学部卒・日本遺族会企画部長・日本遺族会事務局長・自由民主党参議院議員・参議院内閣委員長・沖縄開発政務次官・「興亜観音を守る会」第二代会長)です。(ウツボ)板垣征四郎は、森岡中学校から仙台陸軍地方幼年学校卒業(四番)。明治三十七年十月陸軍士官学校(一六期)卒業、十一月陸軍歩兵少尉(十九歳)、歩兵第四連隊附、十二月日露戦争に従軍(明治三十九年一月まで)。(カモメ)明治四十年十二月歩兵中尉(二十二歳)。大正二年八月歩兵大尉(二十八歳)、十二月陸軍大学校入校(三回目で合格)。大正五年十一月陸軍大学校(二八期)卒業、歩兵第四連隊中隊長。(ウツボ)陸軍大学校二八期からは、七人の大将が出ている。卒業生五十六人中、卒業成績が首席の下村定(北支那方面軍司令官・交通事故死)、三番の田中静壱(第一二方面軍司令官・自決)、四番の吉本貞一(第一一方面軍司令官・自決)、六番の山下奉文(第一四方面軍司令官・銃殺刑)、九番の木村兵太郎(ビルマ方面軍司令官・絞首刑)、二十六番の板垣征四郎(陸相・第七方面軍司令官・絞首刑)、五十一番の牛島満(第三二軍司令官・自決)。(カモメ)大戦を生き残った、首席の下村定大将は、戦後、昭和四十三年三月二十四日、東京都文京区で、バスに轢かれて、交通事故死していますね。(ウツボ)そうだね。そのほかの大将は、自決か、刑死で、全滅している。このクラスの大将は全員が不運だね。(カモメ)板垣征四郎大尉は、大正六年八月参謀本部附(昆明駐在)。大正八年七月中支派遣隊参謀。大正九年四月歩兵少佐(三十五歳)。大正十年四月歩兵第四七連隊大隊長。大正十一年四月参謀本部部員(支那課)。(ウツボ)大正十二年八月歩兵中佐(三十八歳)。大正十三年六月支那公使館附武官補佐官(北京駐在)。昭和二年五月歩兵第三三旅団参謀、七月第一〇師団司令部附、九月支那出張。昭和三年三月歩兵大佐(四十三歳)、歩兵第三三連隊長。昭和四年五月関東軍高級参謀。昭和六年十月関東軍第二課長。
2016.06.17
(ウツボ)良寛は、四十八歳の時、越後国、国上村(燕市)の国上山・国上寺の五合庵で書を学んだ。六十一歳で乙子神社境内に居を構えた。七十歳で島崎村の木村元右衛門邸内に居住。享年七十二歳。長岡市の隆泉寺に眠る。「散る桜 残る桜も 散る桜」は、辞世の句だね。(カモメ)多田駿は、良寛が自分の庵を「迷悟庵」と名付けているのにちなみ、自分自身を「迷悟洞」と称していた。その理由を、「あれだけ立派な上人でも、なお迷うという謙遜な気持ちを持っておられるのだから」と述べていますね。(ウツボ)そうだね。自分を過信することの戒めとしたのだろうね。(カモメ)多田駿大尉は、大正八年十二月砲兵少佐(三十七歳)、陸軍大学校教官。大正十二年八月砲兵中佐(四十一歳)。大正十三年七月欧米出張(~大正十四年二月)。大正十四年五月野重第二連隊附。大正十五年三月中華民国政府応召(北京陸軍大学教官)。(ウツボ)昭和二年七月砲兵大佐(四十五歳)、陸軍大学校教官。昭和三年三月野砲兵第四連隊長。昭和五年三月第一六師団(京都)参謀長。昭和六年三月中華民国政府応召(北京陸軍大学教官)。昭和七年四月満州国建国に伴い満州国軍政部最高顧問に就任、八月少将(五十歳)。(カモメ)満州国建国は、日・朝・満・漢・蒙の五族が協和する「世界一家」の出発点でした。最高顧問である多田少将は、この建国理念に大いに同調し、満州国建国に力を入れたのですね。(ウツボ)そうだね。だが、時が経つと、かなりの日本人が他民族に対して誤った優越感を持ち始めたので、五族協和の建国理念は、実情とかけ離れた様相となった。(カモメ)そうですね。これについて、多田少将は後に次のように述べていますね。(ウツボ)読んでみよう。「建国ノ理想ニ悖リ、他民族ノ期待ヲ裏切リ、益々支那ノ排日運動ヲ煽リ支那事変ヲ起ス因トナリ」。(カモメ)昭和九年八月、多田駿少将は、野重第六旅団長を経て、昭和十年八月支那駐屯軍司令官に補されて、また大陸に戻りました。(ウツボ)多田少将は、在留日本人の自粛自省を求める「対支基礎的概念」というパンフレットを作り、配布した。その中で、次の様に述べている(要旨抜粋)。(カモメ)読んでみます。「タトエ邦人ト雖モ不正不義ハ厳ニ取締ラザル可ラズ」。「帝国威力ノ背景ヲ逆用シテ白昼公々然ト支那官憲ヲ無視シテ悪事ヲ敢行スルガ如キハ実ニ言語道断ト言ハザルベカラズ」。(ウツボ)「マズ、中国ノ民衆ニ資本ヲ与ヘ、技術ヲ与ヘ、官民ニ業ヲ与ヘ、生活ノ余裕ヲ与ヘ、購買力ヲ与フルヲ要スル」。(カモメ)このパンフレットの内容は、明らかに良寛の影響を受けていますね。(ウツボ)そうだね。多田駿少将は、昭和十一年四月中将(五十四歳)、五月第一一(香川)師団長。昭和十二年八月参謀本部次長、兼陸軍大学校長。(カモメ)昭和十二年七月盧溝橋事件が勃発、支那事変に発展しましたが、八月に参謀次長に就任した多田駿中将は、事変に対しては不拡大であり、蒋介石との和平交渉継続を主張していたのです。(ウツボ)多田中将を参謀次長に推薦したのは、当時の参謀本部第一部長(作戦)・石原莞爾(いしわら・かんじ)少将(山形・陸士二一期・六番・陸大三〇期・次席・関東軍作戦課長・歩兵大佐・歩兵第四連隊長・参謀本部作戦課長・少将・参謀本部第一部長・関東軍参謀副長・舞鶴要塞司令官・中将・第一六師団長・待命・立命館大学講師・軍法会議に召喚・戦後東京帝大病院入院・山形県に転居・公職追放・膀胱ガンで死去)だった。(カモメ)石原第一部長も事変不拡大の方針であり、多田参謀次長と協調していたのです。だが、多田中将が参謀次長に就任した直後、石原第一部長は、関東軍参謀副長に転出しました。(ウツボ)多田中将が参謀次長在籍中は、参謀本部は事変不拡大の方針をとった。(カモメ)昭和十三年六月板垣征四郎中将(岩手・陸士一六・陸大二八)が陸軍大臣に就任し、東條英機中将(東京・陸士一七・陸大二七)が陸軍次官に就任しました。(ウツボ)多田中将と板垣中将は、共に東北出身で、多田中将が、陸軍士官学校では一期先輩になる。それで、陸軍省と参謀本部の打ち合わせの時は、多田中将が、陸軍省の大臣室に出向き、「おい、板垣」で話をした。(カモメ)このことが、東條中将の気に障ったのですね。通常は参謀次長と陸軍次官が最初に会って話をすり合わせ、そのあと、陸軍次官が陸軍大臣に決裁をお願いするというのが本筋です。東條中将は怒りで冷静でいられないほどだったと言われています。また、二人は人事でも対立をしました。(ウツボ)板垣大臣は、この二人の対決に苦慮した結果、東條中将を転出させることにした。何しろ、多田中将は、板垣中将より陸士一期上、東條中将より二期上なので、多田中将を飛ばす訳には行かなかったのだ。(カモメ)十一月末、板垣陸軍大臣は、次官室に行き、東條に転出のことを告げました。すると、東條中将は「多田次長が転出しない限り、退職願は出しません」と言って反発したのです。
2016.06.10
(ウツボ)山田中将は、昭和十三年十二月中支那派遣軍司令官。昭和十四年二月勲一等瑞宝章、十月教育総監兼軍事参議官。昭和十五年四月勲一等旭日大綬章、功二級金鵄勲章、八月大将(五十九歳)。昭和十六年七月兼防衛総司令官。昭和十八年五月正三位。(カモメ)山田中将は教育総監を長く務めていますね。昭和十四年十月から昭和十九年七月まで五年近く在任しており、在任中に大将に昇進しています。中将でクビになるところを、植田大将の進言で大将まで昇進できたのですね。(ウツボ)そうだね。山田大将は、昭和十九年七月関東軍総司令官兼在満州国特命全権大使。昭和二十年八月十五日終戦、シベリア抑留。昭和三十一年六月シベリア抑留より復員。昭和四十年七月十八日死去。享年八十三歳。(カモメ)昭和二十年八月九日未明、約一六〇万のソ連軍が満州に攻め込んで来ました。関東軍総司令官・山田乙三大将は、ソ連が攻めて来た時、大連にいたのです。(ウツボ)急遽、山田大将は空路で新京に戻り、各部隊に「楠公精神に徹して断固聖戦を戦い抜くべし」と訓示を発した。その後、山田大将は飛行機で朝鮮に近い通化に移動した。(カモメ)関東軍は最終的に通化、臨江を中心とする山岳地帯に軍の主力、在留邦人の大部分を収容して大持久戦を行うという基本方針を決めていたのです。(ウツボ)昭和二十年八月十四日、翌日正午に重大放送があることを知った山田大将は新京に戻った。十五日正午、終戦の「玉音放送」が行われた。(カモメ)八月十六日、大本営から「関東軍司令官は即時戦闘行動を停止すべし」との命令電報が届きました。山田大将は「承詔必謹、挙軍一致、万策を尽くして停戦を期する」という趣旨の停戦命令を隷下部隊に発しました。山田大将は、最後の関東軍司令官としてソ連軍に降伏したのですね。(ウツボ)そうだね。昭和二十年九月五日夕方、ソ連軍は山田大将と幕僚を新京からハルピン経由でハバロフスクに移送した。昭和二十四年十二月、山田大将はハバロフスク法廷で重労働二十五年の判決を受けた。(カモメ)昭和三十一年六月山田大将は釈放されて、シベリアから日本に帰国しました。揮毫を頼まれると、山田大将は「流水不争先」と書いたといわれています。(ウツボ)「流水不争先」は「りゅうすいさきをあらそわず」と読む。「流れる水というものは、争って先を行こうとはしない」という意味だね。「茶席の禅語大辞典」(有馬頼底監修・淡交社)に出ている禅語だ。(カモメ)山田大将は、大将まで昇進しましたが、人をかき分け、押しのけて、前に出ようとするのではなく、水の流れにまかせるように、その流れに乗って進むことが大切であると、常日頃から心がけていたのでしょうね。(ウツボ)う~ん、それは分らないが、そういう境地に達したのだろうね。「秘録宇垣一成」(芙蓉書房)、「陸軍省人事局長の回想」(芙蓉書房)等の著者、額田担(ぬかた・ひろし)陸軍中将(岡山・陸士二九・陸大四〇・陸軍省人事局補任課長・歩兵大佐・独立歩兵第一一連隊長・陸軍士官学校生徒隊長・少将・参謀本部第三部長兼運輸通信長官・兼航空通信保安長官・陸軍省人事局長・中将)が、山田大将を次のように評している。(カモメ)読んでみます。「純潔、恬淡(てんたん)、明朗にして高雅な徳の雄将であった」。(ウツボ)また、軍事評論家・軍事史家である、松下芳男(まつした・よしお)法学博士(新潟・陸士二五・歩兵少尉・歩兵第五二連隊附・歩兵中尉・東京日日新聞に「社会主義に共鳴した将校」と報じられ停職・日本大学卒業・近代日本軍事史研究・日本大学講師・教育総監部嘱託・戦後工学院大学教授・著書多数)も、著書「近代日本軍人伝」(柏書房)で、山田大将を次のように評している。(カモメ)読んでみます。「その人格、包容力、統帥力、識見、特に温かい人間味は、仰ぐに値する将軍であった」。(ウツボ)これらの評価からも、山田乙三大将の「流水不争先」の生き方が、察せられるね。【多田駿(ただ・はやお)大将】(カモメ)多田駿は、明治十五年二月二十四日生まれ。宮城県仙台市出身。仙台陸軍地方幼年学校(一期)卒業。明治三十六年十一月陸軍士官学校(一五期・三十五番)卒業。明治三十七年三月砲兵少尉(二十二歳)、野砲兵第一八連隊附、七月日露戦争従軍、旅順攻囲戦に参加。(ウツボ)明治三十八年六月砲兵中尉(二十三歳)。明治四十二年十一月陸軍砲工学校高等科卒業。大正二年八月砲兵大尉(三十一歳)、十一月陸軍大学校(二五期・十二番)卒業。大正四年六月参謀本部員。大正六年三月中華民国政府応召(北京陸軍大学教官)。(カモメ)多田駿は、生涯、良寛(りょうかん)に帰依していましたね。(ウツボ)そうだね。良寛は、宝暦八年十月二日(一七五八年十一月二日)生まれ。新潟県三島郡出雲崎町出身。名主である山本左門泰雄の長男。十八歳で出家・曹洞宗光照寺で修業。二十二歳で玉島(岡山県倉敷市)の円通寺の国仙和尚を生涯の師として師事、修業を始める。(カモメ)修業は厳しく、修業四年目で母の訃報に接したが、帰郷は許されませんでした。十二年の修業の後、三十四歳の時、「好きなように旅をするが良い」との国仙和尚の遺言により、良寛は諸国を巡り始めます。父の訃報を受けても帰郷しなかったのです。
2016.06.03
(カモメ)この事件は、台北を爆撃したアメリカ海軍第三艦隊所属の爆撃機が日本軍に撃墜され、捕獲されたアメリカ軍パイロットなど十四名が、無差別爆撃の罪で日本軍の軍事裁判にかけられ、死刑の判決を受け、昭和二十年五月二十日処刑されたという事件ですね。(ウツボ)そうだね。だが、安藤大将は、自分が戦犯に問われるとは思ってもいなかった。昭和二十一年四月十五日、安藤大将ら日本人戦犯は、台北から上海に送致され、監獄に収容された。(カモメ)アメリカ軍特設法廷は四月十七日に開廷し、非公開で、審理は一審のみで、控訴は認められないという非民主的なものでした。(ウツボ)法廷で、検察官のジュネーヴ協定違反という追及に、安藤大将は「日本の戦争法規では軍事目標以外の施設への爆撃、破壊、非戦闘員への無差別攻撃を禁止し、それを犯した者は厳罰に処すとある。この軍律により処断した」と陳述した。(カモメ)そして、最後に安藤大将は「台湾で起こったことは、軍司令官の私が全て責任を負う」と締めくくりました。四月十八日午後八時過ぎ、安藤大将は独房で「全責任は軍司令官たる自分にある。参謀長以下には責任がない」という趣旨の遺書を記したのです。(ウツボ)その翌日の四月十九日、安藤大将は衣服に隠し持っていた青酸カリを口に含み、息絶えた。部下に類が及ばないようにとの軍司令官としての配慮だった。(カモメ)中華民国を率いる蒋介石は安藤大将の自決を聞いて「なぜ、死んだのか」と絶句した。そして、その死を惜しんだと言われています。蒋介石は台湾の戦後復興に安藤大将の力を借りたいと考えていたのですね。(ウツボ)それはね、敗戦直後、台湾の進歩的知識人と日本軍人有志が台湾独立を企てたのを、安藤大将が押さえて、中止させたことに、蒋介石は感謝していた。(カモメ)蒋介石は、安藤大将の力量と人格を評価していましたね。(ウツボ)安藤大将は、識見のある軍人だったが、不運だった。【山田乙三(やまだ・おとぞう)大将】 (カモメ)山田乙三は、明治十四年十一月六日生まれ。長野県出身。成城学校を経て明治三十四年五月陸軍中央幼年学校卒業(成績六十五番)。明治三十五年十一月陸軍士官学校(一四期)卒業(成績百二十五番)。(ウツボ)明治三十六年六月騎兵少尉(二十二歳)、騎兵第三連隊附、日露戦争出征、チフスに罹り後送。明治三十八年二月騎兵中尉(二十四歳)、陸軍士官学校馬術教官。明治三十九年四月功五級金鵄勲章。(カモメ)明治四十二年十二月陸軍大学校入校、騎兵第三連隊附。大正元年九月騎兵大尉(三十一歳)、騎兵第三連隊中隊長、十一月陸軍大学校(二四期)卒業(成績五十四名中、二十五番)。大正二年八月参謀本部員。(ウツボ)大正三年十一月兼陸軍騎兵実施学校教官。大正五年十二月免兼陸軍騎兵実施学校教官。大正七年一月兼陸軍大学校兵学教官、六月騎兵少佐(三十七歳)、陸軍騎兵学校教官。大正十一年八月騎兵中佐(四十一歳)、騎兵監部員。大正十三年二月騎兵第二六連隊長。(カモメ)大正十四年八月騎兵大佐(四十四歳)。大正十五年三月朝鮮軍参謀。昭和二年七月参謀本部通信課長、十月兼陸軍通信学校研究部員。昭和三年一月兼陸軍大学校兵学教官。昭和五年八月少将(四十九歳)、陸軍騎兵学校教育部長。昭和六年八月騎兵第四旅団長。(ウツボ)昭和七年八月陸軍通信学校長。昭和八年八月参謀本部第三部長。昭和九年二月勲二等瑞宝章、四月勲二等旭日重光章、八月中将(五十三歳)、参謀本部総務部長。昭和十年八月兼参謀本部第三部長、十月陸軍士官学校長。昭和十二年三月第一二師団長、四月正四位。(カモメ)昭和十二年十二月満州牡丹江の第一二師団長・山田乙三中将の元へ、「参謀本部附仰付」の内示が届きました。これは予備役編入の配置だったのです。(ウツボ)山田中将は「なんと人事局のヤツは無情な事をするのか。二ケ月後には瑞一(勲一等瑞宝章)がくるはずなのに」と嘆いたと言われている。(カモメ)それが上司で同じ騎兵出身の関東軍司令官・植田謙吉(うえだ・けんきち)大将(大阪・陸士一〇・陸大二一・騎兵第一連隊長・少将・騎兵第三旅団長・軍馬補充部本部長・中将・支那駐屯軍司令官・第九師団長・参謀次長・朝鮮軍司令官・大将・関東軍司令官)の耳に届いたのですね。(ウツボ)そうだね。植田大将は陸軍大臣・杉山元(すぎやま・げん)大将(福岡・陸士一二・陸大二二・陸軍省軍務局航空課長・陸軍省軍務局軍事課長・少将・陸軍省軍務局長・中将・陸軍次官・第一二師団長・陸軍航空本部長・参謀次長兼陸軍大学校長・教育総監・大将・陸軍大臣・北支那方面軍司令官・参謀総長・教育総監・第一総軍司令官・自決)宛てに、「指揮官不足のおりから、山田中将を現役にとどめるよう」要請する電報を発した。(カモメ)山田中将は、昭和十三年一月に関東軍の下に新設された、第三軍司令官に任命されました。山田中将は新京で司令部を編成すると、そのあと、牡丹江に戻り、第一二師団長官邸を格上げして軍司令官官邸として使用しました。
2016.05.27
【安藤利吉(あんどう・りきち)大将】 (ウツボ)安藤利吉は明治十七年四月三日生まれ。宮城県仙台市出身。安藤房太郎の長男。明治三十四年三月宮城県第二中学校卒業。明治三十五年十二月士官候補生。明治三十七年十月陸軍士官学校(一六期)卒業、十一月歩兵少尉(二十歳)、歩兵第四連隊附。(カモメ)明治四十年十二月歩兵中尉(二十三歳)。明治四十三年七月歩兵第五〇連隊大隊副官。明治四十四年十二月陸軍大学校入校、歩兵第五〇連隊附。大正二年十一月歩兵大尉(二十九歳)、歩兵第五〇連隊中隊長。大正三年十一月陸軍大学校(二六期・恩賜六番)卒業。(ウツボ)大正五年二月陸軍技術審査部附(軍事調査委員)。大正八年一月イギリス駐在(軍事研究)。大正九年八月歩兵少佐(三十六歳)、平和条約実施委員(欧州駐在)。大正十年九月歩兵第五〇連隊附(欧州出張)。(カモメ)安藤利吉少佐は、大正十二年四月参謀本部員。大正十三年七月兼陸軍大学校兵学教官、八月歩兵中佐(四十歳)。大正十四年八月インド駐箚武官。昭和二年四月参謀本部員。昭和三年三月歩兵大佐(四十四歳)、歩兵第一三連隊長。昭和四年九月勲三等旭日中綬章。昭和五年三月第五師団参謀長。(ウツボ)昭和六年三月陸軍省軍務局兵務課長、四月兼陸軍通信学校研究部員、九月兼陸軍自動車学校研究部員。昭和七年五月イギリス大使館附武官兼陸軍技術本部英国駐在官兼陸軍航空本部英国駐在官、八月少将(四十八歳)。(カモメ)昭和九年四月勲二等旭日重光章、五月参謀本部附、十二月歩兵第一旅団長。昭和十年八月陸軍戸山学校長。昭和十一年四月第五独立守備隊司令官、中将(五十二歳)。昭和十二年七月勲一等瑞宝章、八月教育総監部本部長。(ウツボ)安藤利吉中将は、昭和十三年二月教育総監事務取扱、五月第五師団長、六月正四位、十一月第二一軍司令官。昭和十四年十月勲一等旭日大綬章。昭和十五年二月南支那方面軍司令官、四月功二級金鵄勲章、十月参謀本部附、十二月待命。昭和十六年一月予備役、二月従三位、十一月召集・台湾軍司令官。(カモメ)昭和十五年六月十二日、南支那方面軍は、「仏印(仏領インドシナ)当局の援蒋行為(蒋介石軍に協力)は断じて看過できない」との強硬声明を発表したのですね。(ウツボ)そうだね。中央から、参謀本部作戦部長・富永恭次(とみなが・きょうじ)少将(長崎・陸士二五・陸大三五・ソ連駐在・参謀本部庶務課長代理・歩兵大佐・参謀本部作戦課長・関東軍第二課長・歩兵第二連隊長・少将・参謀本部第四部長・参謀本部第一部長・公主嶺戦車学校長・陸軍省人事局長・中将・陸軍次官・第四航空軍司令官・予備役・第一三九師団長)が現地に出張して作戦指導に当たった。(カモメ)富永恭次少将は参謀総長の命令であると偽って、九月六日、第二二軍・第五師団の一部をもって仏印に武力進駐を行なわせました。その結果、数百人の死傷者を出したのです。(ウツボ)九月二十二日日仏協定がようやく成立したが、インドシナ派遣軍は戦闘態勢で上陸を開始、陸軍機がハイフォンを爆撃した。(カモメ)結局、南支那方面軍は独断で北部仏領インドシナへ軍を武力進駐させたという不祥事で、南支那方面軍司令官・安藤利吉中将は責任を問われ、十月五日参謀本部附に左遷され、待命、予備役になったのです。(ウツボ)安藤利吉中将は、昭和十九年一月大将(六十一歳)に昇進し、九月第一〇方面軍司令官、十二月正三位、兼第十九代台湾総督(最後の台湾総督)。(カモメ)安藤利吉中将は、陸士同期の板垣征四郎から二年半も遅れて大将に昇進したのです。今村均大将は、安藤大将について、「細事にこだわらず、ことに形式的なことの嫌いな人だ」と評していますね。(ウツボ)昭和二十年二月安藤大将は、第一〇方面軍司令官兼台湾軍管区司令官に就任した。だが終戦後、中華民国政府により上海監獄に収容された。昭和二十一年四月十九日上海監獄で服毒自決。享年六十二歳。(カモメ)昭和二十年八月十五日、「玉音放送」を聞いた安藤利吉大将は、台湾にいる日本人に軽挙妄動を厳しく戒めたのです。平穏無事に敗戦処理を行うのが台湾における最高責任者としての使命感だったのですね。(ウツボ)中国側で台湾の最高責任者に就任したのは、台湾省行政長官兼警備司令官・陳儀大将だった。十月二十五日、台北での投降式に安藤大将は丸腰で出席、日本軍の基地、艦船、武器等を引き渡した。(カモメ)安藤大将は日僑管理委員会の部長に任命されたのです。日本人の引き揚げ業務の責任者でした。安藤大将の冷静・沈着な判断で、日本人の引き上げはスムーズに行われ、昭和二十一年四月には完了しました。(ウツボ)だが、安藤大将は、四月十三日、突然、中国の官憲に逮捕された。逮捕容疑は「アメリカ兵十四名に死刑判決を下し、銃殺刑に処したこと。及び捕虜への残虐行為(拷問)」で、第一〇方面軍司令官としての罪科だった。
2016.05.20
(カモメ)クレマンソーと、陸軍最高顧問・ペタン元帥の二人と会談した際、二人は東久邇宮稔彦王・大佐に「アメリカは日本を攻撃する準備をしている(オレンジ計画)」と忠告されたのですね。(ウツボ)そうだね。帰国後、東久邇宮稔彦王・大佐は、「アメリカとの戦争は避けるべきである」と主張して、各方面に語りかけたが、西園寺公望公以外は誰も相手にしなかった。(カモメ)フランス留学中に、東久邇宮稔彦王・大佐は愛人をつくり、彼女との恋愛に夢中になりました。それが内地に報告され、帰国命令が出されました。けれども、東久邇宮稔彦王・大佐は、度々の帰国命令を拒否して、パリに留まり続けたのです。(ウツボ)後に大正天皇の病状が悪化したが、それでも東久邇宮稔彦王・大佐は帰国しなかった。(カモメ)このことで、兄の久邇宮邦彦王(くにのみや・くによしおう)陸軍大将(久邇宮朝彦親王の第三皇子・昭和天皇の皇后の父・陸士七・陸大一六恩賜・歩兵第三八連隊長・少将・歩兵第一旅団長・中将・第一五師団長・近衛師団長・軍事参議官・大将・病死・元帥・大勲位菊花章頸飾・功四級)が激怒したのですね。(ウツボ)そうだね。それで、久邇宮邦彦王・大将は、「直ちに帰朝の途に就くべし」と電報を打ち、東久邇宮稔彦王の聡子妃からも「一刻も速に御地御立ちの御知らせを頂ける様、呉々も御願い申上ぐる外ありませぬ」と言って来た。(カモメ)だが、東久邇宮稔彦王・大佐は、動かなかったのです。大正十五年になり、大正天皇が崩御したので、ロンドン留学中の小松輝久侯爵がパリに乗り込んで、説得したのです。(ウツボ)それで、東久邇宮稔彦王・大佐は、大正十五年末にようやく帰国した。当時この事から、東久邇宮稔彦王・大佐は自由主義者として、世間に知られることとなった。(カモメ)東久邇宮稔彦王・大佐は、当初三年の留学期間の予定でしたが、結局七年近くフランスにいました。愛人のこともあったが、大正天皇を避けたい気持ちもあったと言われています。(ウツボ)また、フランス留学中に、東久邇宮稔彦王・大佐は、老女の占い師に観てもらった時、「私は画家である」と言った。すると占い師は「貴方は日本の首相になる」と言った。(カモメ)驚いた久邇宮稔彦王・大佐が「実は、私は日本の軍人で皇族である。日本では皇族は政治家になることを禁じられているので、首相になることはない」と答えたのですね。(ウツボ)そうだね。するとその年老いた女占い師は頑固に、「いや、そんな事は無い。日本にやがて大革命か大動乱が起きる。その時に、貴方はきっと首相にきっとなる」と主張を曲げなかった。(カモメ)後に終戦処理内閣として首相に就任した東久邇宮稔彦王・大将は、当時の女占い師のことを思い出し、「老婆の予言が当たったので、薄気味悪く感じた。私は迷信が大嫌いだったが、占いもバカにならぬと思った」と日記に記しているのです。(ウツボ)東久邇宮稔彦王・大佐は、昭和三年一月第一師団司令部附、八月近衛歩兵第三連隊長。昭和四年十二月少将(四十二歳)、参謀本部附。昭和五年八月歩兵第五旅団長。昭和七年十二月参謀本部附。(カモメ)昭和八年八月中将(四十六歳)、第二師団長(仙台)。昭和九年八月第四師団長。昭和十年十二月軍事参議官。昭和十二年八月兼陸軍航空本部長。昭和十三年四月第二軍司令官。昭和十四年一月軍事参議官、八月大将(五十一歳)。(ウツボ)東久邇宮稔彦王・大将は、昭和十六年十二月兼防衛総司令官。昭和十七年四月功一級金鵄勲章、興亜工業大学創設に尽力。昭和二十年四月軍事参議官、八月首相兼陸軍大臣、九月予備役、十月内閣総辞職。(カモメ)東久邇宮稔彦王・首相が占領軍司令官・ダグラス・マッカーサー元帥に面会した時、「アメリカは封建的遺風の打倒を叫ぶが、私はその封建的遺物の皇族だ。もし元帥が不適当と見るなら、私は明日にでも首相を辞任する」と言ったのですね。(ウツボ)するとマッカーサー元帥は「皇族は封建的遺物ではあるが、米国人が封建的遺物とか非民主主義と言うのは、その人の生れた家柄を言うので、あなたの思想・皇道は非民主主義とは思わない」と答えた。(カモメ)東久邇宮稔彦王は、昭和二十二年十月臣籍降下、以後、東久邇稔彦と名乗りました。公職追放を受け、その後の生涯は波乱に満ちていましたね。(ウツボ)そうだね。東久邇宮稔彦王は、新宿西口に闇市の食料品店を開店したが、売り上げが伸びなくて閉店。喫茶店の経営も破たんした。遂には宮家所蔵の骨董品販売を行ったがこれも失敗した。(カモメ)昭和二十三年尾崎行雄(政治家)、湯川秀樹(物理学者・ノーベル賞受賞)らと共に東久邇稔彦は世界連邦建設同盟(現世界連邦運動協会)を創設しました。(ウツボ)昭和二十五年四月禅宗系の新宗教団体「ひがしくに教」を開教したが、宗教法人として認可されなかったため、六月に解散した。その後も色々な事業に失敗し、昭和三十二年六月フリーメイソン(友愛結社)に入会した。(カモメ)東久邇宮稔彦王は、昭和四十六年日本文化振興会初代総裁。平成二年一月二十日死去。享年百二歳。従二位、大勲位菊花大綬章、功一級。豊島岡墓地に葬られました。
2016.05.13
(ウツボ)小磯國昭大将は、昭和二十三年十一月極東軍事裁判で終身刑判決。昭和二十五年十一月三日巣鴨拘置所内で食道がんにより死去。享年七十歳。(カモメ)昭和二十三年十一月、A級戦犯として終身禁固刑の判決を受けた五日後、小磯大将は巣鴨拘置所の中で「思い出づるまま書いてみよう」と、『葛山鴻爪』と題した回顧録を書き始めたのですね。(ウツボ)そうだね。この自叙伝、『葛山鴻爪』(小磯國昭・小磯國昭自叙伝刊行会・九三一頁・一九六三年)は、普通の人の記憶力ではとても書けないような、微に入り細に渡った、九〇〇ページの大著となった。(カモメ)士官学校や候補生時代、陸軍大学校で成績が悪かったことをもとに、小磯の、この自叙伝の中に、「どうせ末席者だからかまわんだろう」「今日以上に襤褸(ぼろ)を重ねることもなかろうし、また襤褸が出たからとて元々である」というような言葉が重要な会議や局面で出てきますね。(ウツボ)このような開き直った度胸の据わった生き方が、かえって、出世につながっていったともいえるが、いずれにしても、一風変わった軍人だった。【東久邇宮稔彦王(ひがしくにのみや・なるひこおう)・大将】(カモメ)東久邇宮稔彦王は明治二十年十二月三日生まれ。皇族。久邇宮朝彦親王の第九王子。朝香宮鳩彦王は兄。北白川宮成久王は義兄。学習院を経て、明治三十九年陸軍士官学校入校、十一月東久邇宮を創設。(ウツボ)明治四十一年四月勲一等旭日大綬章、五月陸軍士官学校卒業(二〇期)卒業、十二月歩兵少尉(二十一歳)、近衛歩兵第三連隊附。(カモメ)陸軍士官学校で、稔彦王がトルストイの「復活」を読んだことが、騒ぎになり、明治天皇の知ることとなり、一時は臣籍降下(皇籍離脱)まで検討されたのですね。(ウツボ)そうだね。なお、陸軍士官学校四〇期の同期生に、次の二人の皇族がいる。(カモメ)朝香宮鳩彦王(あさかのみや・やすひこおう・久邇宮朝彦親王の第八王子・東久邇宮稔彦王は弟・陸士二〇・陸大二六・勲一等旭日桐花大綬章・明治天皇の第八皇女富美宮允子内親王と結婚・大勲位菊花大綬章・欧州留学・歩兵大佐・陸軍大学校兵学教官・少将・歩兵第一旅団長・中将・近衛師団長・上海派遣軍司令官・大将・功一級金鵄勲章・戦後臣籍降下)。(ウツボ)北白川宮成久王(きたしらかわのみや・なるひさおう・北白川宮能久親王の第三王子・東久邇宮稔彦王は義弟・明治天皇の第七皇女周宮房子内親王と結婚・陸士二〇・陸大二七・大勲位菊花大綬章・フランス留学・野戦砲兵第四連隊大隊長・砲兵大佐・フランスで自動車事故死)。(カモメ)東久邇宮稔彦王は明治四十三年十二月歩兵中尉(二十三歳)。明治四十四年十二月陸軍大学校入校。大正二年八月歩兵大尉(二十六歳)、近衛歩兵第三連隊中隊長。大正三年十一月陸軍大学校(二六期)卒業、十二月歩兵第二九連隊中隊長。(ウツボ)陸軍大学校学生であった東久邇宮稔彦王・大尉は、ある日、明治天皇の陪食を命じられた。だが、下痢を理由に、これを断った。これを知った後の大正天皇である、皇太子の嘉仁親王は、稔彦王・大尉をひどく叱責した。(カモメ)それで、稔彦王・大尉は、明治天皇に臣籍降下を願い出ました。明治天皇は「年寄りを困らせるものではないぞ」と言って、取り合わず、そのまま何の沙汰も無かったのです。(ウツボ)稔彦王・大尉は、大正四年明治天皇の第九皇女泰宮聡子内親王と結婚、十二月歩兵第三連隊附。大正五年十一月参謀本部附(作戦課)。大正六年十月大勲位菊花大綬章。大正七年七月歩兵少佐(三十一歳)、歩兵第七連隊大隊長。大正八年十一月陸軍士官学校附。(カモメ)大正九年フランスに留学、フォンテンブローの砲兵学校、サン・シール陸軍士官学校卒業。大正十一年七月フランス陸軍大学校卒業、レジョン・ド・ヌール最高勲章を授与される、八月歩兵中佐(三十五歳)。エコール・ポリテクニークで政治外交を学ぶ。大正十四年八月歩兵大佐(三十八歳)。大正十五年末に帰国。(ウツボ)フランス陸軍大学校在学中に、東久邇宮稔彦王・少佐は、視察に来たアレクサンドル・ミルラン大統領と会話し、官邸に招かれた。また、第一次世界大戦の英雄、フォッシュ元帥、ジョッフル元帥、ペタン元帥とも会った。(カモメ)大正十一年初頭、参謀本部附きの金谷範三(かなや・はんぞう)少将(大分・陸士五・陸大一五恩賜・陸軍大学校兵学教官・オーストリア大使館附武官・歩兵大佐・歩兵第五七連隊長・参謀本部作戦課長・少将・支那駐屯軍司令官・参謀本部附・中将・第一八師団長・参謀次長・兼陸軍大学校長・朝鮮軍司令官・大将・参謀総長)がフランスに来たのですね。(ウツボ)そうだね。その時、東久邇宮稔彦王・少佐が「軍縮はいずれ欧州の議会で問題になるので、先手を打って、陸上部隊を半減し、空軍に向けてはどうだろうか」と力説したので、「赤の危険思想」と決めつけられた。(カモメ)また、「騎兵も機械化して、戦車部隊にするべきだ」と東久邇宮稔彦王・少佐が主張すると、金谷少将は「日本の軍隊は機械化したらかえって弱くなる。そんなことは欧州人にやらせておけばいい」と相手にされなかったのです。(ウツボ)東久邇宮稔彦王は、フランス留学中に、画家のクロード・モネに師事して、絵画を描いた。モネの友人、「虎」と称されたフランスの前首相・クレマンソーを紹介され親交を深めた。
2016.05.06
(カモメ)小磯國昭少佐は、大正三年八月に、内モンゴル、中国に出張を命じられ、「葛山」という偽名を使って一年余り調査活動を行ったのですね。(ウツボ)そうだね。帰国すると、小磯少佐は「帝国国防資源」を書いた。その文章の中に、日本と朝鮮を結ぶ『海底トンネル』を作ることを提案している。これが、面白いことを考える奴だ、と注目されることになった。(カモメ)ですが、小磯少佐は、この発案は菊池門也(きくち・もんや)砲兵大尉(岐阜・陸士一八・砲工高一六・陸大二七・陸軍大学校兵学教官・独立山砲兵第三連隊長・砲兵大佐・野戦重砲兵第一連隊長・支那駐屯軍参謀長・少将・舞鶴要塞司令官・野戦重砲兵第三旅団長・中将)であると述べていますね。(ウツボ)大正七年七月歩兵中佐(三十六歳)、八月第一二師団参謀、九月免兼陸軍大学校兵学教官。大正八年四月参謀本部作戦課兵站班長、九月兼陸軍大学校兵学教官。大正九年九月免兼陸軍大学校兵学教官、十一月勲三等旭日中綬章、功三級金鵄勲章。(カモメ)小磯中佐は、大正十年七月陸軍航空部員(欧州出張)。大正十一年二月歩兵大佐(四十歳)、十一月ヨーロッパ出張。大正十二年三月陸軍大学校兵学教官、八月歩兵第五一連隊長。(ウツボ)大正十四年五月参謀本部編制動員課長、六月兼陸軍歩兵学校研究部員、七月兼陸軍通信学校研究部員、八月兼陸軍大学校兵学教官。大正十五年十二月少将(四十四歳)、陸軍大学校兵学教官。(カモメ)小磯少将は、昭和二年七月陸軍航空本部総務部長。昭和四年八月陸軍省整備局長。昭和五年八月陸軍省軍務局長兼軍事参議院幹事長、十一月勲二等瑞宝章。昭和六年八月中将(四十九歳)。昭和七年二月陸軍次官、八月関東軍参謀長兼特務部長。(ウツボ)この当時から、小磯少将は典型的な政治軍人として頭角を現してきた。だが、小磯國昭の評判は、あまりよくないものも多かった。(カモメ)そうですね。戦後、佐藤栄作首相のブレインだった鈴木貞一(すずき・ていいち)元陸軍中将(千葉・陸士二二・陸大29・陸軍省新聞班長・歩兵大佐・陸軍大学校教官・内閣調査局調査官・歩兵第一四連隊長・少将・第三軍参謀長・興亜院政務部長・中将・興亜院総務長官心得・予備役・国務大臣兼企画院総裁・貴族院議員・内閣顧問・戦後A級戦犯で終身禁錮刑・赦免・佐藤栄作ブレイン)は小磯國昭について次のように語っています。(ウツボ)読んでみよう。「小磯は性格がハッタリであったから、用心して話を聞かねばならなかった。世渡りの上手な人だった」。(カモメ)小磯中将は、昭和九年三月第五師団長、正四位、四月勲一等瑞宝章、勲一等旭日大綬章、功二級金鵄勲章。昭和十年十二月朝鮮軍司令官。昭和十二年四月従三位、十一月大将(五十五歳)。昭和十三年七月予備役、八月正三位。(ウツボ)小磯大将は、昭和十四年四月第十五代拓務大臣。昭和十五年一月第十七代拓務大臣。昭和十七年三月満州国勲一位竜光大綬章、五月朝鮮総督。昭和十九年七月第四十一代内閣総理大臣、八月従二位。昭和二十年四月内閣総辞職、終戦後、十二月A級戦犯容疑で逮捕。(カモメ)昭和十九年七月十八日、サイパン陥落の責任を取り、東條英機内閣は総辞職しました。重臣会議の結果、小磯國昭大将が首相に指名され、七月二十二日小磯内閣が発足したのですね。(ウツボ)そうだね。だが、小磯大将は予備役のまま首相に就任したため、元首相の米内光政海軍大将を海軍大臣として入閣させ、副首相とし、「小磯・米内連立内閣」として発足させた。(カモメ)昭和天皇は、「小磯・米内連立内閣」について、次の様に話していますね。(ウツボ)読んでみよう。「私は、小磯は三月事件にも関係があったと言われているし、また、神がかりの傾向もあり、且経済のことも知らないから、稍稍不安もあったけれど、米内平沢の二人が勧めるので、不本意乍ら、小磯に大命を下すことにした」(カモメ)「初めは小磯単独の積りだったが、急に近衛が来て、米内と連立にした方が良いと言うので、再び重臣の意見を聞き、二人に大命を下した」。(ウツボ)小磯國昭大将が総理大臣に就任した時、「なんだ、海軍はこんなに負けていたのか」「陸軍もそういえば負けているなあ」などと言ったという。小磯大将は予備役だったので、戦況の実態を把握していなかった。(カモメ)小磯國昭大将は、陸軍大学校の卒業成績は五十五人中三十三番でした。この位の成績で大将、総理大臣にまで出世した軍人はいませんね。(ウツボ)いないね。出世の理由としては、まず、宇垣一成(うがき・かずしげ)大将(岡山・陸士一・十一番・陸大一四・三席・軍務局軍事課長・少将・歩兵学校校長・参謀本部第一部長・参謀本部総務部長・陸軍大学校校長・中将・第一〇師団長・教育総監部本部長・陸軍次官・陸軍大臣・大将・軍事参議官・陸軍大臣・予備役・朝鮮総督・内閣参議・外務大臣・拓務大臣・拓殖大学代学長・戦後参議院議員・正二位・旭日大綬章・レジオンドヌール勲章)の側近であったこと。(カモメ)そうですね。小磯國昭は少将に進級後、宇垣大将の後押しで陸軍省軍務局長に就任し、評判はあまり良くなかったが、その後、陸軍次官にまで上りつめ部内の注目を浴びましたね。(ウツボ)さらに、社交的で人から好かれる性格、かつ自分の士官学校、陸大での成績の悪さをもとに開き直った度胸のある態度、意外とも思える幅広い知識、構成が巧みで表現力の豊かさで、人を引きつける演説などで、次第に頭角を現していった。(カモメ)しかしながら、このように、「朝鮮の虎」として期待されて首相に就任した小磯國昭大将は、思われたほど力振わず、辞職する時は「木炭自動車」と称されたのですね。(ウツボ)そうだね。当時、木炭自動車はガソリン欠乏の時世の代用燃料車で、ノロノロと走り、いざという時に間に合わず、いつエンストするか分らないものだった。(カモメ)結局、「小磯・米内連立内閣」は八か月半の短命内閣に終りましたね。
2016.04.29
(カモメ)この川島陸軍大臣が本庄繁大将と荒木貞夫大将を男爵にするという案件に対して、次の二人が反対したのですね。(ウツボ)一人目は、湯浅倉平(ゆあさ・くらへい)宮内大臣(山口・東京帝国大学法科大学政治学科卒・静岡県知事・内務省警保局長・貴族院議員・警視総監・内務次官・会計検査院長・宮内大臣・内大臣)。(カモメ)もう一人は、岡田啓介(おかだ・けいすけ)首相(福井・海兵一五・海大二・戦艦「鹿島」艦長・少将・海軍省人事局長・中将・海軍次官・大将・連合艦隊司令長官・海軍大臣・首相)。(ウツボ)だが、川島陸軍大臣は強引に主張を繰り返し、断られると、最後には「それでは自分は辞職せざるを得ない」とまで言い出した。(カモメ)そこで、岡田首相と湯浅内大臣は、元老の西園寺公望(さいおんじ・きんもち)公爵(京都・侍従・右近衛権少将・右近衛権中将・官軍参与・権中納言・新潟府知事・ソルボンヌ大学留学・正三位・侯爵・駐オーストリア・ハンガリー帝国公使・駐ドイツ帝国公使・貴族院副議長・従二位・枢密顧問官・文部大臣・外務大臣・正二位・枢密院議長・首相・大勲位菊花大綬章・公爵・大勲位菊花章頸飾・死後従一位)に諮ったのですね。(ウツボ)そうだね。すると西園寺公は「そんなに欲しいのならくれてやるさ。政局安定に比べれば、男爵の十や二十は、どうでもいいじゃないか」と吐き出すように言った。それで二人の男爵が決まった。(カモメ)二・二六事件決行の前、一月二十三日、首謀者の磯部浅一(いそべ・あさいち)元一等主計(山口・陸士三八・歩兵少尉・歩兵第八連隊附・歩兵中尉・陸軍経理学校卒・陸軍二等主計・近衛歩兵第四連隊附・陸軍一等主計・野砲兵第一連隊附・皇道派青年将校を主導・陸軍士官学校事件で免官・二・二六事件首謀者・銃殺刑)が川島陸軍大臣を訪問しました。(ウツボ)磯部元一等主計が、渡辺教育総監に対して青年将校の不満が高まっており、「このままでは、必ず事が起こります」と言うと、川島陸軍大臣は特別何も言わなかった。(カモメ)磯部元一等主計が帰ろうとすると、川島陸軍大臣は、ニコニコしながら、一升瓶を取り出して来て、「二本しかないから、一本やろう」と言って手渡し、「この酒は名前が良い。雄叫(おたけび)というのだ」と言ったのです。(ウツボ)磯部元一等主計は、このことから、川島陸軍大臣は、我々青年将校に好意的であり、蹶起しても理解を示してくれるだろうと判断した。(カモメ)磯部元一等主計は、この他にも、古荘幹郎陸軍次官、山下奉文軍事調査部長、真崎甚三郎軍事参議官を訪問しており、好感触を得ていたのですね。(ウツボ)だが、二・二六事件が起きると、川島陸軍大臣はその対応に苦慮することになった。真崎甚三郎大将が陸相官邸を訪れると、川島陸軍大臣が椅子に座っているのを見て、「君は何をしているのだ、早く天皇に拝謁するのだ」と怒鳴った。(カモメ)川島陸軍大臣は、昭和天皇の前に出て、「蹶起将校たちの要求はこういうものであります」と言って、「蹶起趣意書」を読み上げると、昭和天皇から「そんなもの、読まなくてよろしい」と言われ、「どうするつもりなのか」と問われて、答えに窮してしまったのです。(ウツボ)その結果、軍事参議官を集めて協議することになった。そこでは、荒木大将と真崎大将が主導し、「蹶起ノ趣旨ニ就イテハ、天聴ニ達セラレアリ」で始まる、蹶起将校に対する「陸軍大臣告示」が作成された。(カモメ)この大臣告示は、荒木大将が口述して、山下軍事調査部長が筆記、植田謙吉大将が手を入れて作り上げたもので、当人である川島陸軍大臣は全く蚊帳の外だったのですね。(ウツボ)そうだね。二・二六事件の時、一番主導権を発揮しなければならなかった川島陸軍大臣は、その円満、八方美人的な性格が裏目に出た。そして、自らの決断をなさないまま、混乱を招いてしまった。(カモメ)二・二六事件の処理が不適切であるとの責任で、昭和十一年三月九日、川島義之大将は待命になり、予備役に編入されました。(ウツボ)川島義之大将は昭和十五年、朝鮮国民精神作興連盟総裁に就任した。昭和二十年九月八日死去。享年六十七歳だった。【小磯國昭(こいそ・くにあき)大将】 (カモメ)小磯國昭は明治十三年三月二十二日生まれ。山形県出身。山形県士族で警察官(警部)、小磯進の長男。山形県中学を経て、陸軍士官学校入学(補欠入学)。明治三十三年十一月陸軍士官学校(一二期)卒業。(ウツボ)明治三十四年六月歩兵少尉(二十一歳)、歩兵第三〇連隊附。明治三十六年十一月歩兵中尉(二十三歳)。明治三十七年三月日露戦争出征。明治三十八年六月歩兵大尉(二十五歳)。(カモメ)小磯大尉は、明治三十九年二月歩兵第三〇連隊中隊長、四月功四級金鵄勲章、七月歩兵第三〇連隊副官。明治四十年十二月陸軍大学校入校、歩兵第三〇連隊中隊長。明治四十一年十二月歩兵第一六連隊附。(ウツボ)明治四十三年十月歩兵第一六連隊中隊長、十一月陸軍大学校(二二期・三十三番)卒業、十二月陸軍士官学校教官。大正元年九月関東都督府陸軍参謀。大正三年八月歩兵少佐(三十二歳)、歩兵第二連隊大隊長。大正四年六月参謀本部員、八月内モンゴル派遣。大正六年一月兼陸軍大学校兵学教官。
2016.04.22
【川島義之(かわしま・よしゆき)大将】(ウツボ)明治十一年五月二十五日生まれ。愛媛県松山市出身。松山藩士・川島右一の長男。愛媛県松山尋常中学校を経て、明治三十一年十一月陸軍士官学校(一〇期)卒業。卒業成績は百十番。明治三十二年六月騎兵少尉(二十一歳)、歩兵第二二連隊附、十二月台湾守備歩兵第一一大隊附。(カモメ)明治三十四年七月歩兵第二二連隊附、十一月歩兵中尉(二十三歳)。明治三十六年八月陸軍大学校入校。明治三十七年二月陸軍大学校中退、四月歩兵第一二連隊補充大隊副官として日露戦争出征、負傷、八月歩兵大尉(二十六歳)。(ウツボ)川島義之大尉は、明治三十八年七月留守第一師団副官。明治三十九年三月歩兵第二二連隊附、四月功五級金鵄勲章。明治四十一年四月歩兵第二二連隊中隊長、十一月陸軍大学校(二〇期・恩賜六席)卒業、十二月教育総監部課員。明治四十二年十二月陸軍戸山学校教官。明治四十三年一月歩兵少佐(三十二歳)、十月ドイツ駐在(軍事研究)。(カモメ)大正二年四月ドイツ大使館附武官補佐官。大正三年三月教育総監部課員、十二月兼陸軍技術審査部議員。大正四年十一月歩兵中佐(三十七歳)、歩兵第六五連隊附。大正五年十一月教育総監部課員。大正六年一月陸軍大学校兵学教官。大正七年七月歩兵大佐(四十歳)、歩兵第七連隊長。(ウツボ)川島義之大佐は、大正八年七月参謀本部外国戦史課長。大正九年八月教育総監部第二課長、十一月勲三等旭日中綬章。大正十年六月教育総監部第一課長。(カモメ)大正十二年八月少将(四十五歳)、陸軍兵器本廠附(作戦資材整備会議幹事長)。大正十四年五月歩兵第一旅団長。大正十五年三月陸軍省人事局長。(ウツボ)川島義之少将は人事局長を三年余り務めたが、それまで主流だった長州閥の人事を正して、公正円満な態度で職務に励んだので、部内では評判が良かった。(カモメ)そうですね。川島義之少将は、昭和二年十二月中将(四十九歳)。昭和三年一月勲二等瑞宝章。昭和四年八月第一九師団長。昭和五年一月正四位、十一月第三師団長。(ウツボ)当時の陸軍大臣・南次郎大将(大分・陸士六・陸大一七)が師団長会議で「国内の無秩序、不統一」を述べ、「将校の奮起を望む」と訓示した。(カモメ)第三師団に戻った川島師団長は団隊長会議を開き陸軍大臣訓示を伝達したのですが、聞いている将校達はよく趣旨が分らなかったのですね。(ウツボ)そうだね。そこで一人の将校が「この訓示を伺うと、我々は街頭に立って、国防宣伝をやれというように聞こえますが」と質問すると、川島師団長は「それは君の任務らしいようだが」と答え、益々要領を得なかった。(カモメ)後の二・二六事件の時、このような川島の性格が陸軍大臣としての采配に影響が出たのですね。(ウツボ)その通りだね。事件の収拾ができなかった。(カモメ)川島義之中将は、昭和七年一月教育総監部本部長、五月朝鮮軍司令官。昭和八年二月従三位。昭和九年二月勲一等瑞宝章、三月大将(五十六歳)、四月勲一等旭日大綬章、八月軍事参議官。(ウツボ)陸軍大学校二〇期生の中で、大将に昇進したのは、川島義之大将と林仙之(はやし・なりゆき)大将(熊本・陸士九・陸大二〇・山口連隊区司令官・歩兵大佐・歩兵第三連隊長・少将・歩兵第三〇旅団長・朝鮮軍参謀長・陸軍士官学校長・中将・教育総監部本部長・第一師団長・東京警備司令官・大将・予備役・高等軍法会議判士)の二人だった。(カモメ)陸軍大学校二〇期の同期生三十八名のうち、川島義之大将の卒業成績は六番の恩賜、林仙之大将は十二番でした。(ウツボ)昭和十年九月、川島義之大将は陸軍大臣に就任した。正三位。相沢事件で辞職した林銑十郎陸軍大臣の後任だった。(カモメ)すると、荒木貞夫大将と真崎甚三郎大将は、「自分たちが川島を大臣にしたのだ」と言って、川島陸軍大臣のところによく顔をのぞかせ話し込むようになったのですね。(ウツボ)だから、大臣秘書官が気を使って、渡辺錠太郎教育総監のところへ「荒木大将がいろいろ話に来るので、渡辺大将も官邸にお出で下さい」と言いに行った。(カモメ)川島陸軍大臣は、あちらこちらに気を使って、身動きが取れないほどでした。部内では「暗君」と呼ばれ、決断力にも乏しく、閣議に出席しても、「陸軍省に戻って検討します」と賛否を口にしなかったと言われています。(ウツボ)その様な優柔不断な川島陸軍大臣が、本庄繁大将(兵庫・陸士九・陸大一九・関東軍司令官)と荒木貞夫大将(東京・陸士九・陸大一九首席・内閣参議)に男爵を授与するよう、強く主張したのだね。
2016.04.15
(ウツボ)松井石根中佐は、大正七年七月歩兵大佐(四十歳)。大正八年二月歩兵第三九連隊長。大正十年五月浦塩派遣軍情報参謀。大正十一年十一月勲三等旭日中綬章、関東軍司令部附(ハルピン特務機関長)。大正十二年三月少将(四十五歳)。大正十三年二月歩兵第三五旅団長。(カモメ)当時の松井大佐は「松井の支那か、支那の松井か」と言われる程、「支那通」で知られていました。松井大佐はハルピン特務機関長として現地で情報収集に当たり、帰国して参謀本部第二部長(少将)として中央で情報分析を行いました。(ウツボ)松井少将は、大正十四年五月参謀本部第二部長。昭和二年五月勲二等瑞宝章、七月中将(四十九歳)。昭和三年十二月参謀本部附(欧米出張)。昭和四年八月第一一師団長、十月正四位。昭和六年十二月ジュネーブ軍縮会議全権委員。(カモメ)昭和八年三月軍事参議官、四月従三位、八月台湾軍司令官、十月大将(五十五歳)、十一月勲一等瑞宝章。昭和九年四月勲一等旭日大綬章、八月軍事参議官。昭和十年八月予備役、九月正三位。(ウツボ)松井大将は、四十年余りの軍歴の中で、中国在住の勤務は十二年になった。松井大将は日本と中国の親善、提携を軸としてアジアの復興に尽力した。予備役になると、松井大将は早速、大亜細亜協会を創立し会長に就任した。(カモメ)だが、昭和十二年七月盧溝橋事件を発端に支那事変が勃発すると、八月松井大将は召集され、上海派遣軍司令官、十月に中支那方面軍司令官兼上海派遣軍司令官に就任したのですね。(ウツボ)そうだね。当初、中支那方面軍は上海西方の蘇州、嘉興を結ぶ線以東を追撃の限界としていた。十一月十五日、第一〇軍がそれを越えて独断追撃に移った。(カモメ)松井大将は配下の第一〇軍を押さえる立場でしたが、中央に意見具申し、二十五日には、全軍で中華民国の首都・南京へと侵攻しました。十一月二十八日には参謀本部も南京攻略を追認したのです。(ウツボ)昭和十二年十二月九日、松井大将が署名した「投稿勧告文」を飛行機で南京城の内外に撒き、翌日正午までの回答を待った。だが、その時は、蒋介石夫妻は専用機で漢口に脱出していたので、何らの回答も行われなかった。(カモメ)十二月十日午後、中支那方面軍司令官・松井大将は南京城の攻撃を下令したのです。十三日には日本軍は南京城を陥落させ、入城しました。十二月十七日には日本の陸海軍による南京城への入城式が挙行されました。(ウツボ)これ以後日本軍が、中国軍の敗残兵、捕虜、一般市民等を殺したとされる「南京事件」の中国人の犠牲者は、極東国際軍事裁判における判決では二十万人以上、松井石根軍司令官に対する判決文では十万人以上、南京戦犯裁判軍事法廷(蒋介石率いる中国国民党による戦犯裁判)では三十万人以上としている。(カモメ)日本側の研究では二十万人を上限として、四万人、二万人など、諸説があります。日本政府は、南京入城後に、非戦闘員の殺害や略奪行為などがあったことは否定できないが、被害者数は認定することが困難であるとの立場をとっています。(ウツボ)松井大将は、昭和十三年七月内閣参議。昭和十七年四月功一級金鵄勲章。終戦後東京裁判で「南京事件」の罪でA級戦犯として死刑判決。昭和二十三年十二月二十三日巣鴨プリズンで絞首刑、法務死。享年七十歳。(カモメ)松井大将は、昭和二十三年十二月九日巣鴨拘置所で、教誨師・花山信勝に次の様な言葉を残しています(要旨抜粋)。(ウツボ)読んでみよう。「南京事件はお恥ずかしい限りです。師団長をはじめ、あんなことをしたのだ。私は日露戦争に従軍したが、当時の師団長と比べてみると今の師団長は、問題にならんほど悪いですね。武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変わっておった」(カモメ)「慰霊祭の直後、私は軍司令官として泣いて怒った。せっかく皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって、一挙にそれも落としてしまいました。ところが、この訓戒に、皆が笑った。ある師団長ごときは『当たり前ですよ』とさえ言った」(ウツボ)「したがって、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変嬉しい。せっかくこうなったのだから、このまま往生したい、と思っている」。(カモメ)蒋介石は昭和四十一年九月「南京には大虐殺などありはしない。何応欽将軍も軍事報告の中で、ちゃんとその事を記録しているはずだ。私も当時大虐殺という報告を耳にした事は無い。松井閣下は冤罪で処刑された」と語っています。
2016.04.08
(ウツボ)阿部信行中将は、昭和三年八月陸軍次官。昭和五年六月陸軍大臣代理、七月従三位、十一月勲一等瑞宝章、十二月参謀本部附、第四師団長。昭和七年一月台湾軍司令官。昭和八年六月大将(五十五歳)、七月正三位、八月軍事参議官。(カモメ)昭和九年四月勲一等旭日大綬章。昭和十一年二・二六事件後粛軍の結果、三月予備役。昭和十四年八月三十日内閣総理大臣兼外務大臣就任。(ウツボ)平沼内閣の突然の崩壊で、首相後継者がなかなか決まらなかった。そんな時、陸軍が阿部信行大将を推してきたので、元老たちは皆、飛びついた。(カモメ)阿部大将の内閣成立には、当時の陸軍省軍務局軍務課長・有末精三航空兵大佐(北海道・陸士二九恩賜・陸大三六恩賜・イタリア大使館附武官・航空兵大佐・陸軍省軍務局軍務課長・北支那方面軍参謀副長・少将・参謀本部第二部長・中将・終戦後対連合軍陸軍連絡委員長・日本郷友連盟艦長)が尽力したのですね。(ウツボ)そうだね。当時、阿部大将は日露戦争、シベリア出兵で出征はしたものの、実戦経験がなく、金鵄勲章を持っていない唯一の大将で「戦わぬ将軍」と呼ばれていた。(カモメ)だが、阿部大将は、軍務局長、陸軍次官の職を無難にやってのけて、事務屋としての能力を発揮しました。また、統制派、皇道派のどちらにも属さず、このことが首相指名に幸いしたのですね。(ウツボ)阿部大将は昭和天皇に軍事学を進講したこともあり、昭和天皇は阿部大将の緻密な頭脳と円満な人柄を好み、評価しており、阿部なら陸軍の派閥争いを収め、海軍ともうまくやっていけるとの思いがあった。(カモメ)阿部大将は、天皇側近の木戸孝一(きど・こういち・東京・木戸孝允は伯父・京都帝国大学卒・農商務省産業合理局部長・侯爵・貴族院議員・内大臣府秘書官長・文部大臣・厚生大臣・内務大臣・内大臣・戦犯で終身禁錮)と親戚関係だでした(阿部大将の長男・信男の妻が木戸孝一の長女・由喜子)。(ウツボ)また、海軍省軍務局長・井上成美(いのうえ・しげよし)少将(東京・海兵三七次席・海大二二・海軍省軍務局第一課長・練習戦艦「比叡」艦長・少将・横須賀鎮守府参謀長・海軍省軍務局長・支那方面艦隊参謀長・中将・海軍航空本部長・第四艦隊司令長官・海軍兵学校長・海軍次官・大将・軍事参議官)は義弟だった(阿部信行の妻・光子の妹・喜久代が井上成美の妻)。(カモメ)阿部内閣は多くの同郷出身者で構成されているので、「阿部一族」、「石川内閣」などと呼ばれていました。(ウツボ)阿部大将が総理大臣就任から二日後、ドイツ軍がポーランドに侵攻して第二次世界大戦が勃発した。だが、阿部内閣はドイツとの軍事同盟締結は米英との対立激化を招くとして、大戦への不介入方針を決定した。(カモメ)同時に石油・地代家賃・小作料などを統制し、米穀強制買い上げを実施しました。これが裏目に出て物価が上がり、国民は不平を言い始めたのですね。(ウツボ)そうだね。このような状況になってくると、陸軍も、武藤章軍務局長が阿部内閣を見限る発言をするようになり、昭和十五年一月十五日、阿部大将は、首相を辞任、内閣総辞職となった。(カモメ四カ月余りの短命内閣でしたね。(ウツボ)そうだね。ドイツがらみの不穏な世界情勢の影響を受けたことと思い切って断行した政策が裏目に出た。(カモメ)阿部大将は、昭和十五年一月従二位、四月中華民国駐箚特命全権大使。昭和十七年五月貴族院議員、翼賛政治会総裁。(ウツボ)阿部大将は、昭和十九年七月第十代朝鮮総督。終戦後、昭和二十年九月戦犯第一次指名(A級戦犯)、後に不起訴。昭和二十八年九月七日死去。正二位。【松井石根(まつい・いわね)大将】(カモメ)松井石根は明治十一年七月二十七日生まれ。愛知県名古屋市牧野村出身。尾張藩士・松井武国の六男。母は、ひさ。明治二十六年五月成城学校卒業。明治二十九年五月陸軍中央幼年学校卒業。(ウツボ)明治三十年十一月陸軍士官学校(九期・次席)卒業。明治三十一年六月歩兵少尉(二十歳)、歩兵第六連隊附。(カモメ)明治三十三年十一月歩兵中尉(二十二歳)、歩兵第六連隊大隊副官。明治三十四年十月陸軍大学校入学、十二月歩兵第六連隊附。明治三十七年二月陸軍大学校中退、歩兵第六連隊中隊長として日露戦争出征、八月歩兵大尉(二十六歳)。(ウツボ)松井大尉は、明治三十八年七月第二軍副官、十二月第二軍兵站監部参謀。明治三十九年三月歩兵第六連隊附、陸軍大学校復校、四月功四級金鵄勲章、十一月陸軍大学校(一八期・恩賜)卒業。明治四十年一月から四年余り清国(北京・上海)に派遣。(カモメ)明治四十一年十二月参謀本部員。明治四十二年十一月歩兵少佐(三十一歳)。大正二年四月仏領インドシナ出張。大正三年五月フランス出張。大正四年八月歩兵中佐(三十七歳)、歩兵第二二連隊附、十二月参謀本部附(上海駐在)。
2016.04.01
(カモメ)昭和十一年二月二十六日、二・二六事件が起きました。この時、本庄大将は昭和天皇の軍事面の相談役である侍従武官長でしたね。(ウツボ)そうだね。昭和天皇は蹶起した青年将校を反乱軍とみなした。従って侍従武官長である本庄大将としては、反乱軍を鎮圧する立場であった。だが、娘婿の山口太一郎大尉が反乱軍の顧問的な位置にいた。(カモメ)山口大尉は義父の本庄大将を通じて昭和天皇に蹶起した青年将校たちの思いを伝えようとしていたのですね。だから本庄大将の心は昭和天皇と蹶起将校らの間で揺らいでいたのですね。(ウツボ)青年将校らに同情的であった本庄大将は、その旨を「天皇の軍隊を勝手に動かしたのは許せないが、その精神は君国を思ってのことであって、咎めるべきではない」などと昭和天皇に進言した。(カモメ)だが、昭和天皇は、「朕が最も信頼する老臣をことごとく倒すとは、真綿で朕の首を絞めるに等しき。直ちに鎮定すべく厳達せよ」と本庄大将を叱責したのです。(ウツボ)二・二六事件後、身内である、娘婿の山口大尉が無期禁錮の刑を受けたので、三月二十三日、本庄大将は侍従武官長を辞職した。そして四月に予備役に編入された。(カモメ)本庄大将は、昭和十三年四月傷兵保護院総裁。昭和十四年七月軍事保護院総裁。昭和十九年七月従二位。昭和二十年五月枢密顧問官、九月補導会理事長。(ウツボ)昭和二十年十一月十九日本庄大将は戦犯指名(第二次指名)を受けた。容疑は「関東軍司令官の時、満州事変を計画し、実行した」というものだった。(カモメ)だが、本庄大将は、八月十五日の終戦後、軍事保護院を訪ね、医務課長らに「人間は切腹して間違いなく死ねるか」「どこを切ったら一番死ねるか」などと詳しく切腹の仕方を聞いていました。すでに覚悟はしていたのですね。(ウツボ)そうだね。十一月二十日、本庄大将は、陸軍大学校内にある補導会理事長室で割腹自決をした。短刀で腹を三回切り、心臓を三回刺し、最後に頸動脈を切って、絶命した。(カモメ)テーブルには数通の遺書と、梅子夫人や長男に宛てたメモが残されていました。享年六十九歳。遺書の中には「満州事変は関東軍司令官たる自分の責任」とありました。(ウツボ)本庄大将は、著書に「本庄日記」(本庄繁・原書房)がある。「本庄日記」はある意味、不忠の記録ともいえる。本庄大将が天皇の言う事を無視したり、逆らったり、口答えしたことなどを全て記している。(カモメ)本庄大将がこの日記を処分せずに残したという事は、自分が昭和天皇に進言したことは間違っていなかったという主張が感じ取れるのですね。(ウツボ)そういうことだろうね。【阿部信行(あべ・のぶゆき大将】(カモメ)阿部信行は、明治八年十一月二十四日生まれ。石川県金沢市出身。金沢藩士・安倍信満の子。両親は信行を、「目上の者には逆らってはいけない、従順であるように」と服従の精神を厳しくしつけました。信行は親孝行の子共だったと言われています。(ウツボ)東京府尋常中学校(後の東京府立中学)を経て第四高等学校(現・金沢大学)在学時に日清戦争があり、四高を中退し陸軍士官学校入校。明治三十年十一月陸軍士官学校(九期)卒業。(カモメ)明治三十一年六月砲兵少尉(二十三歳)、佐世保要塞砲兵連隊第一大隊附。明治三十三年一月陸軍砲工学校入校、十一月砲兵中尉(二十五歳)。明治三十四年十二月陸軍砲工学校(九期)卒業。(ウツボ)明治三十五年八月陸軍大学校入校。明治三十六年十一月砲兵大尉(二十八歳)、佐世保要塞砲兵連隊中隊長。(カモメ)阿部大尉は、明治三十七年二月日露戦争のため陸軍大学校中退、長崎要塞副官。明治三十九年三月佐世保要塞司令部・砲兵大隊附、陸軍大学校復校。明治四十年十月佐世保重砲兵大隊附、十一月陸軍大学校(一九期恩賜)卒業、陸軍重砲兵射撃学校教官。(ウツボ)明治四十一年十二月砲兵少佐(三十三歳)、参謀本部員。明治四十二年九月兼陸軍大学校兵学教官。明治四十三年十一月ドイツ駐在(軍事研究)。大正二年二月オーストリア大使館附武官補佐官。大正三年一月重砲兵第一連隊附、陸軍大学校兵学教官。(カモメ)阿部少佐は、大正四年一月兼元帥副官(元帥陸軍大将伏見宮貞愛親王附属)、二月砲兵中佐(四十歳)、八月免兼元帥副官、兼陸軍大学校教官。大正五年三月兼参謀本部員。(ウツボ)大正七年七月砲兵大佐(四十三歳)、野砲兵第三連隊長。大正九年八月参謀本部編制動員課長、九月兼陸軍大学校兵学教官、十一月勲三等旭日中綬章。(カモメ)大正十年六月陸軍大学校兵学教官兼幹事。大正十一年八月少将(四十五歳)。大正十二年八月参謀本部総務部長、九月兼関東戒厳参謀長。大正十五年七月宇垣陸相に認められ陸軍省軍務局長兼軍事参議院幹事長。昭和二年一月勲二等瑞宝章、三月中将(四十九歳)。
2016.03.25
【本庄繁(ほんじょう・しげる)大将】 (カモメ)本庄繁は明治九年五月十日生まれ。兵庫県出身。寒村で農業を営む本庄常右衛門の長男。兵庫の鳳鳴義塾中学から、明治二十七年九月陸軍幼年学校入学。明治二十九年五月陸軍中央幼年学校を卒業し、陸軍士官学校入校。明治三十年十一月陸軍士官学校(九期)卒業。(ウツボ)明治三十一年六月歩兵少尉(二十二歳)、歩兵第二〇連隊附。明治三十三年十一月歩兵中尉(二十四歳)、陸軍士官学校生徒隊附。明治三十五年八月陸軍大学校入校、十一月歩兵第二〇連隊附。明治三七年二月陸軍大学校中退、四月歩兵第二〇連隊中隊長として日露戦争出征、六月歩兵大尉(二十八歳)。日露戦雄では下腹部に貫通銃創を負ったが奇跡的に助かった。(カモメ)本庄繁大尉は、天皇への忠誠心が強く、その識見、高貴な人格、端正な風貌から、「古武士の風格」と評され、早くも将来の将軍として人望も高かったのです。(ウツボ)明治三十八年一月陸軍大臣官房附。明治三十九年二月近衛歩兵第二連隊附、三月陸軍大学校復校、四月功四級金鵄勲章。明治四十年十一月陸軍大学校(一九期)卒業。明治四十一年四月参謀本部部員、九月清国出張、十二月北京・上海駐在。(カモメ)明治四十二年五月歩兵少佐(三十三歳)。明治四十五年六月陸軍大学校兵学教官。大正二年一月参謀本部支那課支那班長、六月兼陸軍大学校兵学教官。大正四年六月歩兵中佐(三十九歳)。大正六年八月参謀本部支那課長代理。(ウツボ)本庄中佐は、大正七年六月歩兵大佐(四十二歳)、参謀本部支那課長。大正八年四月歩兵第一一連隊長としてシベリア出兵に従軍。大正九年十一月勲三等旭日中綬章・功三級金鵄勲章。大正十年五月参謀本部附(張作霖軍事顧問)。大正十一年八月少将(四十六歳)。大正十三年八月歩兵第四旅団長。(カモメ)本庄少将は、大正十四年五月支那公使館附武官。大正十五年九月勲二等瑞宝章。昭和二年三月中将(五十二歳)。昭和三年二月第一〇師団長。昭和四年五月正四位。昭和六年八月関東軍司令官。(ウツボ)当初、関東軍司令官は真崎甚三郎中将が予定されていたが、急遽、真崎中将は台湾軍司令官に親補され、本庄中将に栄達がまわって来た。当時の陸士九期の序列は、真崎中将が一位で、本庄中将が二位だった。(カモメ)この人事は、真崎嫌いの参謀総長・金谷範三(かなや・はんぞう)大将(大分・陸士五・陸大一五恩賜・オーストリア大使館附武官・歩兵大佐・歩兵第五七連隊長・参謀本部作戦課長・少将・支那駐屯軍司令官・参謀本部第一部長・中将・第一八師団長・参謀次長・兼陸軍大学校長・朝鮮軍司令官・大将・参謀総長・軍事参議官)の采配で逆転したのですね。(ウツボ)そうだね。だが、本庄中将が関東軍司令官に就任した翌月の昭和六年九月十八日、柳条湖事件が起き、満州事変が勃発した。(カモメ)この事件は、関東軍高級参謀・板垣征四郎大佐と作戦参謀・石原莞爾中佐らの謀略ですが、軍司令官になりたての本庄中将は、彼ら幕僚にうまく操縦され、了解を与えるしかなく、事後処理も言いなりだった、と一般的に言われています。(ウツボ)だが、当時関東軍参謀(大尉)だった片倉衷元陸軍少将は、戦後、「本庄が関東軍司令官として着任した時、板垣大佐と二人で『満州で事が起きた場合、中央に請訓して解決を計るのか、それとも与えられた権限を発揮して独断で処理するのか?』と尋ねると、本庄軍司令官は『自分としては慎重に取り扱いたいが、自分の権限内であれば責任を以って独断を以ってしても遂行する』と答えた」と回顧している。(カモメ)つまり、板垣大佐らの計画に暗黙の了解を与えていたのですね。(ウツボ)そうだね。しかも満州事変が勃発すると、奉天の関東軍の援護を得るために、朝鮮軍に増援を依頼し、朝鮮軍は中央の命令を待つことなく独断で越境した。このため当時の朝鮮軍司令官・林銑十郎中将は無断で兵を動かした「越境将軍」と呼ばれることになった。(カモメ)本庄中将はわずか一年で関東軍司令官を武藤信義大将と交替しましたが、帰国したら、本庄中将は「満州の父」と讃えられたのです。(ウツボ)昭和七年九月本庄中将が宮中に参内した時、昭和天皇は本庄中将に「関東軍の謀略だと聞くがどうか」問い質した。これに対し、本庄中将は「一部でそのような動きがあったと、後で聞きましたが、本職と関東軍は関係していません」と白を切っている。(カモメ)本庄中将は、後に、この満州事変の論功行賞で男爵を賜りました。(ウツボ)本庄中将は、昭和七年五月従三位、八月軍事参議官。昭和八年三月勲一等瑞宝章、四月侍従武官長、六月大将(五十八歳)。昭和九年四月勲一等旭日大綬章・功一級金鵄勲章、満州国から大勲位蘭花大綬章。昭和十年六月正三位、十二月男爵。
2016.03.18
(カモメ)南次郎少尉は、明治三十年十月騎兵中尉(二十三歳)、騎兵第六連隊附。明治三十一年二月陸軍教導団騎兵生徒隊附。明治三十二年十一月騎兵第一三連隊第一中隊附、十二月陸軍士官学校生徒隊附兼同校馬術教官。(ウツボ)明治三十三年十一月騎兵大尉(二十五歳)、十二月陸軍大学校入学。明治三十四年十一月騎兵第一連隊附。明治三十六年十一月陸軍大学校(一七期)卒業、騎兵第一連隊中隊長。明治三十七年十二月大本営陸軍参謀。明治三十八年三月騎兵少佐(三十歳)、第一三師団参謀、十二月陸軍大学校兵学教官。(カモメ)明治三十九年四月功四級金鵄勲章、九月関東都督府陸軍参謀。明治四十年五月陸軍大学校付、十月陸軍大学校兵学教官。明治四十三年二月騎兵中佐(三十五歳)、四月兼陸軍騎兵実施学校教官。明治四十四年十月兼海軍大学校教官。(ウツボ)南次郎中佐は、大正三年一月騎兵第一三連隊長。大正四年八月騎兵大佐(四十歳)。大正六年八月陸軍省軍務局騎兵課長、兼陸軍技術審査部議員。大正八年七月少将(四十四歳)、支那駐屯軍司令官。大正九年十一月勲三等旭日中綬章。(カモメ)大正十年一月騎兵第三旅団長。大正十一年一月勲二等瑞宝章、二月陸軍騎兵学校長。大正十二年十月陸軍士官学校長。大正十三年二月中将(四十九歳)、八月騎兵監。大正十五年三月第一六師団長、四月正四位。(ウツボ)昭和二年三月参謀次長。昭和四年八月朝鮮軍司令官、九月従三位。昭和五年一月勲一等瑞宝章、三月大将(五十五歳)、十二月軍事参議官。昭和六年四月陸軍大臣、九月正三位、十二月軍事参議官。(カモメ)南次郎大将は昭和九年二月勲一等旭日大綬章、議定官、十二月関東軍司令官兼満州国駐箚特命全権大使。昭和十年十二月勲一等旭日桐花大綬章。(ウツボ)昭和十一年三月参謀本部附、四月待命、予備役、八月第八代朝鮮総督。昭和十二年三月従二位。昭和十七年五月枢密顧問官。昭和十九年三月正二位。昭和二十年三月大日本政治会総裁、貴族院議員、十二月辞職。(カモメ)満州事変の責任で、南次郎大将はA級戦犯に指名され、終身禁錮刑となった。昭和二十九年仮出獄。昭和三十年十二月五日死去。享年八十一歳。(ウツボ)昭和六年九月南次郎大将が第二次若槻内閣の陸軍大臣の時、満州事変が勃発した。満州事変が勃発する前に、関東軍がその計画を推進している時、昭和天皇は、南次郎陸軍大臣を宮中に呼び、軍の規律を厳しくするよう注意を促していた。また、元老・西園寺公望も南陸軍大臣を叱責した。(カモメ)それにも拘らず昭和六年九月十八日、関東軍の策謀により、柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破され、満州事変が勃発しました。南次郎陸軍大臣、金谷範三参謀総長ら陸軍首脳は事態不拡大の方針でしたが、結局関東軍の策謀と、陸軍省の中堅幕僚らに引きずられ、事変は拡大していったのですね。(ウツボ)そうだね。具体的に言い換えれば、満州事変は、石原莞爾作戦参謀、板垣征四郎高級参謀ら関東軍幕僚と、永田鉄山軍事課長、岡村寧次補任課長、東條英機編制動員課長ら陸軍中央の一夕会系の幕僚が連携して計画して引き起こした。(カモメ)けれども、昭和六年十一月、関東軍が北満のチチハルへの侵攻を計画した時、南次郎陸軍大臣、金谷範三参謀総長ら陸軍首脳は、これを阻止するために臨時参謀総長委任命令(臨参委命)を発動したのですね。(ウツボ)そうだね。そもそも、配置されている軍司令官の命令系統は天皇直属で、参謀総長でも関東軍司令官に直接命令することはできなかった。だが、臨参委命は、「参謀総長が軍司令官に直接命令できる権限を天皇から委任された」もので、これにより、関東軍に対して参謀総長は指揮権を行使できることになった。(カモメ)北満は、旧ロシアの勢力圏で、中東鉄道などソ連の権益が存続していました。若槻内閣は国際的な考慮から関東軍の北満への侵攻を中止するよう南次郎陸軍大臣、金谷範三参謀総長ら陸軍首脳に強く求めていたのですね。(ウツボ)ところで、昭和十一年八月、朝鮮総督になった南次郎大将は、意欲は並々ならぬものがあり、積極的な朝鮮政策をとり、「内鮮一体」を推進した。(カモメ)「内鮮一体」とは、内地(日本本土)と朝鮮を差別待遇せずに一体にすることで、朝鮮の産業経済、交通、文化を拡充して朝鮮人の民度を内地人と同等まで引き上げることですね。(ウツボ)そうだね。これは、日本帝国が企図する大陸政策の前衛である兵站基地として、朝鮮を位置付けるものであり、大東亜共栄圏の達成にも必要なものだった。(カモメ)南次郎大将は、朝鮮総督として在任中の六年間に、具体的な朝鮮政策として、民族語の復活、朝鮮語教育の推進、創氏改名(日本式姓名への改名)の三つの政策を推進しました。(ウツボ)また、昭和十二年十月、「皇国臣民の誓詞」三条を作成し、朝鮮人民に斉唱させた。昭和十三年二月、「陸軍特別志願兵令」を施行、朝鮮青年を志願という形で日本軍に入隊させた。また、同年五月、「国家総動員法」も朝鮮に施行した。昭和十四年十月には「国民徴用令」を施行。(カモメ)南次郎大将は「南のあるところ、春風あり」と言われたほど、人情に厚い人物でした。また、明るく、前向きな性格は、誰からも慕われました。(ウツボ)そうだね。A級戦犯で巣鴨プリズンに収容されたが、その獄中生活も楽しく過ごしていたと言われている。
2016.03.11
(ウツボ)だが、磯村大将は戦後、「あれは随分綿密に調査したが、真崎には一点の疑う余地がなかった」と証言している。(カモメ)磯村年大将は、昭和十三年四月後備役。昭和三十六年九月十二日死去。享年八十八歳。(ウツボ)磯村年大将の長男は、磯村武亮(いそむら・たけすけ)陸軍中将(東京・陸軍中央幼年学校・陸士三〇・陸大三九首席・トルコ駐在武官・砲兵大佐・参謀本部ロシア課長・野砲兵第二四連隊長・第一五軍政総監部総務部長・少将・ビルマ方面軍参謀副長・兼ビルマ駐在武官・第七方面軍参謀副長・中部軍管区参謀副長・墜死・中将進級)。(カモメ)磯村武亮中将の長男は元NHKニュースキャスター・磯村尚徳(いそむら・ひさのり・東京・学習院大学政経学部卒業・NHK入局・パリ特派員・アメリカワシントン支局長・ニュースセンター9時初代キャスター・ヨーロッパ総局長・報道局長・専務理事待遇特別主幹・東京都知事選落選・外交評論家・パリ日本文化会館館長・旭日中綬章・日本記者クラブ賞)。(ウツボ)磯村尚徳の従兄弟は、元NHKアナウンサーの松平定知(まつだいら・さだとも・東京・早稲田大学商学部卒業・NHK入局・「昼のプレゼント」担当・ニュースキャスター・「モーニングワイド」キャスター時代タクシー運転手に暴行し降板・「NHKニュース11」で復帰・NHK退職後「有限責任事業組合ことばの杜」で社会貢献活動)。【吉田豊彦(よしだ・とよひこ)大将】(カモメ)吉田豊彦は明治六年十一月一日生まれ。鹿児島県出身。薩摩藩士・大阪蔵屋敷詰・吉田信之助の長男。第三高等学校(京都大学)に入学するが中退。(ウツボ)明治二十四年十二月士官候補生。明治二十五年十一月陸軍士官学校入校。明治二十七年七月陸軍士官学校(五期・恩賜)卒業、九月砲兵少尉(二十一歳)、要塞砲兵第一連隊附。(カモメ)明治二十八年二月臨時東京湾守備隊附、十一月要塞砲兵第二連隊第一大隊副官心得。明治三十年一月陸軍砲工学校入校、十月砲兵中尉(二十四歳)、由良要塞砲兵連隊附。明治三十一年十二月由良要塞砲兵連隊中隊長心得、陸軍砲工学校高等科卒業(六期恩賜)。(ウツボ)吉田豊彦中尉は、明治三十二年二月陸軍要塞砲兵射撃学校入校、六月由良要塞砲兵連隊附、八月ドイツ駐在(軍事研究)。明治三十三年十一月砲兵大尉(二十七歳)。明治三十五年十一月陸軍要塞砲兵射撃学校教官。明治三十七年二月要塞砲兵監部員、五月攻城砲兵司令部員。(カモメ)明治三十八年一月独立重砲兵旅団司令部員、三月砲兵少佐(三十二歳)、陸軍省副官兼陸軍大臣秘書官。明治三十九年三月陸軍要塞砲兵射撃学校教官、四月功四級金鵄勲章、七月兼海軍砲術練習所教官。(ウツボ)吉田豊彦少佐は、明治四十年十月陸軍重砲兵射撃学校教導大隊長。明治四十一年十二月陸軍省副官兼陸軍大臣秘書官。明治四十二年六月砲兵中佐(三十六歳)、英国出張。明治四十三年五月英国ナイトコンパニオンオブゼオーダーオブゼバッス勲章、六月兼陸軍省兵器局課員。明治四十四年一月兼陸軍省軍務局課員、三月陸軍兵器本廠附兼陸軍省兵器局課員兼陸軍省軍務局課員。(カモメ)明治四十五年一月兼陸軍技術審査部議員。大正四年八月砲兵大佐(四十二歳)、陸軍省兵器局銃砲課長、九月兼陸軍技術審査部課員、十一月勲三等旭日中綬章。大正七年六月陸軍省兵器局工政課長。大正八年一月陸軍重砲兵射撃学校長、七月少将(四十六歳)。(ウツボ)吉田豊彦少将は、大正十年五月陸軍省兵器局長。大正十三年二月中将(五十一歳)、陸軍造兵廠長官、三月勲二等瑞宝章。昭和三年三月陸軍技術本部長。昭和四年四月正四位。昭和五年三月大将(五十七歳)、四月勲一等瑞宝章。(カモメ)吉田豊彦大将は、昭和六年五月従三位、八月待命、予備役、九月正三位。昭和九年二月日本製鉄取締役、四月勲一等旭日大綬章。昭和十四年四月後備役、満州電業社長。昭和十五年機械化国防協会長を歴任。昭和二十六年一月十日死去。享年七十八歳。(ウツボ)退役した吉田豊彦大将は機械化国防協会の会長に就任した。六十代後半だった。吉田大将は、要塞砲兵射撃学校出身で、ドイツ留学時代はクルップ社の技術陣と親交を深めた才人だった。(カモメ)そうですね。吉田大将は、日本製鉄取締役や満州電業社長を歴任するなど日本の経済界とも繋がりがありましたね。(ウツボ)機械化国防協会は、昭和十五年に科学技術と国防教育を推進するために、国と軍需産業からの供託を受けて設立された。その前身は陸軍省の外郭団体として設立された機械化兵器協会だね。(カモメ)機械化国防協会は日比谷通りでの戦車行進閲兵式、自治体に兵装を展示しての浄財集め、広報宣伝の小冊子配布、国防科学雑誌「機械化」の発行などを行ないました。【南次郎(みなみ・じろう)大将】(ウツボ)南次郎は、明治七年八月十日生まれ。大分県国東郡高田町出身。生年月日がアメリカ合衆国第三十一代大統領・ハーバート・フーヴァーと同じ。フーヴァーが大統領の時、南次郎は陸軍大臣であった。(カモメ)上京後、明治二十一年四月東京府尋常中学(現都立日比谷高校)入校。明治二十二年九月素行不良と数学の成績不振により、停学処分を受けたので、成城学校へ転校。(ウツボ)南次郎は、明治二十三年四月陸軍中央幼年学校入校。明治二十五年四月陸軍士官学校入校。明治二十八年一月陸軍士官学校(六期)卒業、五月騎兵少尉(二十一歳)、騎兵第六大隊附。明治二十九年九月台湾守備騎兵第三中隊附。
2016.03.04
(カモメ)「これに対して、私は、私の朱鞘のほうが優っていると言って、兄と組打ちしたのであるが、結局私が激しく叱られたことを記憶している」(ウツボ)「これとても兄と私は、年齢に三歳の差しかないため、時々、私の負けず嫌いの暴発であって、平素兄に対して、すこぶる柔順であったのである」(カモメ)「兄は鈴木貫太郎自伝にて自白せる通り、強健で大なる体格にも似ず、泣き虫であった。しかもその泣き声たるや、すこぶる大であった。私は兄とは反対に強情で、腕白で、暴れ者であった。兄の泣き声を聞けば、兄を保護せんがため、直ちにその声の方向に飛び出すのであった」(ウツボ)「ついてみれば、兄は数人の学校友達に囲まれて、揶揄されているのか、ただ声を上げて泣きつつあるのである。私はまだ学齢には達しておらぬが、私を見ると、この子供らは、囲みをといて逃げ去るのであった」(カモメ)「私は兄を苛めた上級生があって、その子供は、毎朝私の家の前を通過するのがわかっていたため、翌朝未明から起きてその生徒の来るのを待ち、これに闘争を挑まんとしたが、その生徒は、これを避けて、他の路より登校したようなこともあった」。(ウツボ)以上が鈴木孝雄の、兄、鈴木貫太郎との子供の頃の思い出である。最後に、鈴木武氏は、父、鈴木孝雄陸軍大将について、次のように述べている。(カモメ)読んでみます。「九十三歳の高齢まで、父は、いわゆる老人の域に達しておりながら、喜ばしいことに少しもボケることもなく、ひたすら自己の仕事に没頭、砲兵史を書くかたわら多くの書物を座右に置き、読書力は若い人にも負けぬ旺盛なもので、新聞も毎日欠かさず端から端まで読破し、世界情勢に決して遅れを取らないよう勉強していた」(ウツボ)「夜は、暇があればテレビの必要な番組は必ず見落とすことのない生活ぶりであったことは、世の老人には決して真似のできないところであったと思う」(カモメ)「亡くなる前日、父はこんなことも申しました。『俺は二万冊の本を読んだが、なかなかいい本がある。こうと知ったらまだまだ読んでおかなきゃならん本が随分あった』」。【磯村年(いそむら・とし)大将】(ウツボ)磯村年は、明治五年九月三十日(一八七二年十一月一日)生まれ。滋賀県出身。滋賀県士族・平田繁の次男。後に陸軍中佐・磯村惟亮の養嫡子となる。東京府尋常中学、陸軍幼年学校を経て、明治二十六年七月陸軍士官学校卒業。明治二十七年三月砲兵少尉(二十二歳)、野戦砲第三連隊附。(カモメ)明治二十八年五月砲兵中尉(二十三歳)。明治二十九年十一月陸軍砲工学校(五期)卒業。明治三十年一月野戦砲第三連隊大隊副官、十月砲兵大尉(二十五歳)、野戦砲第三連隊中隊長、十二月陸軍大学校入学。(ウツボ)明治三十三年十二月陸軍大学校(一四期・恩賜)卒業、野砲兵第九連隊中隊長。明治三十四年五月陸軍士官学校教官。明治三十五年五月参謀本部員。明治三十七年二月大本営陸軍参謀、三月砲兵少佐(三十二歳)、野砲兵第一〇連隊大隊長、五月第三軍参謀。(カモメ)明治三十八年三月対馬警備隊参謀、十二月由良要塞参謀。明治三十九年三月関東都督府陸軍参謀、四月功四級金鵄勲章、九月参謀本部員、十月兼陸軍大学校兵学教官。明治四十一年三月砲兵中佐(三十六歳)。(ウツボ)磯村年中佐は、明治四十二年九月欧州差遣、十月免兼陸軍大学校教官。明治四十三年十一月野砲兵第一二連隊長。大正二年一月野砲兵第一六連隊長、七月砲兵大佐(四十一歳)、八月第一八師団参謀長。大正三年八月独立第一八師団高級参謀(青島攻略)。大正四年十一月勲三等旭日中綬章、功三級金鵄勲章。(カモメ)大正五年四月参謀本部編制動員課長、五月兼陸軍技術審査部議員。大正七年一月少将(四十六歳)、広島湾要塞司令官、七月野戦砲兵第三旅団長。大正八年四月陸軍野戦砲兵射撃学校長。大正十年三月ウラジオ派遣軍参謀長、六月勲二等瑞宝章。(ウツボ)大正十一年八月中将(五十歳)、陸軍砲工学校長、十一月勲二等旭日重光章。大正十二年八月第一二師団長。大正十三年十二月正四位。大正十五年七月東京警備司令官。昭和二年六月勲一等瑞宝章、十二月従三位。昭和三年八月大将(五十六歳)、待命、予備役、九月正三位。(カモメ)磯村年大将は、昭和十二年二月召集され、参謀本部附。二・二六事件における、東京陸軍軍法会議・真崎甚三郎大将の裁判で判士長に就任。(ウツボ)二・二六事件の時、陸軍大臣・寺内寿一(てらうち・ひさいち)大将は、「この事件の黒幕は真崎甚三郎大将です」と昭和天皇に上奏した。(カモメ)それで、なんとか、真崎大将を有罪にしなければ、天皇を騙したことになるのだった。昭和十二年八月、寺内大将は北支那方面軍司令官として中国に赴任する前に、磯村年大将を真崎裁判の判士長にした。そして、寺内大将は「何でも構わないから、真崎を有罪にしろ」と言った。
2016.02.26
(ウツボ)鈴木孝雄中尉は、明治三十年四月第七師団副官、十月砲兵大尉(二十八歳)、陸軍野戦砲兵射撃学校教官。明治三十一年八月兼陸軍野戦砲兵射撃学校副官。明治三十二年六月陸軍野戦砲兵射撃学校教官兼同校教導大隊中隊長。(カモメ)明治三十三年二月陸軍砲工学校教官。明治三十五年十二月兼陸軍大学校兵学教官。明治三十六年八月砲兵少佐(三十四歳)。明治三十七年六月野砲兵第八連隊補充大隊長、十一月関東総督府砲兵部員・明治三十九年三月野戦砲兵監部附、四月功三級金鵄勲章。(ウツボ)明治四十年十一月砲兵中佐(三十八歳)、近衛野砲兵連隊附。明治四十一年十二月野戦砲兵監部員。明治四十二年四月兼陸軍省軍務局課員。明治四十四年十一月野砲兵第一八連隊附。明治四十五年五月野砲兵第二一連隊長、七月砲兵大佐(四十三歳)。(カモメ)鈴木孝雄大佐は、大正三年五月陸軍省軍務局砲兵課長、兼陸軍技術審査部議員。大正四年十一月勲三等旭日中綬章。大正六年八月少将(四十八歳)、野砲兵第一旅団長。大正八年二月野戦重砲第一旅団長。大正十年三月陸軍士官学校長、七月中将(五十二歳)。(ウツボ)大正十一年七月勲二等瑞宝章、八月砲兵監。大正十三年二月第一四師団長、三月正四位、八月陸軍技術本部長。大正十五年七月軍事参議官兼陸軍技術本部長。昭和二年四月従三位、七月大将(五十八歳)、九月勲一等瑞宝章。(カモメ)昭和三年三月軍事参議官。昭和五年五月正三位。昭和八年三月待命、予備役。昭和十年四月後備役。昭和十三年四月靖国神社宮司(~昭和二十一年一月)。昭和十四年四月退役。(ウツボ)戦後、鈴木孝雄大将は、靖国神社宮司を辞退。昭和二十九年四月偕行社会長(~昭和三十三年七月)。昭和三十九年一月二十九日死去。享年九十四歳。勲一等、功三級。(カモメ)鈴木孝雄大将の次男は、鈴木英(すずき・すぐる)海軍中佐(千葉・海兵五五・四席恩賜・海大三八・飛行学生二一首席・第四艦隊参謀・第三艦隊参謀・第八五一航空隊飛行長・第二八航空戦隊参謀・航空本部員・軍令部作戦課員・中佐)ですね。(ウツボ)そうだね。鈴木英海軍中佐は、戦後、海上自衛隊入隊に入隊。第一警戒隊群司令(海将補)、練習隊群司令、第一術科学校長を歴任し、自衛艦隊司令官(海将)になっている。その後、海上自衛隊幹部学校長で退官した。(カモメ)鈴木英海軍中佐の父は鈴木孝雄陸軍大将、伯父は鈴木貫太郎海軍大将と、まさに軍人の家系ですね。(ウツボ)そうだね。「別冊1億人の昭和史・江田島」(牧野喜久男編集長・毎日新聞社)によると、鈴木英の海軍兵学校卒業式に、当時の軍令部長鈴木貫太郎海軍大将と、軍事参議官・鈴木孝雄陸軍大将が参列したことなど、五ページに渡り、鈴木英氏が海軍時代と自分の家系の事などを寄稿している。(カモメ)千葉県山武郡横芝光町には、鈴木孝雄元陸軍大将の揮毫による「忠魂碑」が建立されていますね。昭和二十九年一月、当時の大総村により建立されたのですね。(ウツボ)そうだね。「忠魂碑」という揮毫の文字と、「元陸軍大将鈴木孝雄書」という文字が花押と共に石碑に刻まれている。(カモメ)昭和四十四年八月に発行された「怒涛の中の太陽」(鈴木武・鈴木貫太郎首相秘録編纂委員会)は、鈴木孝雄陸軍大将の長男、鈴木武氏が中心になり鈴木貫太郎海軍大将と鈴木孝雄陸軍大将の兄弟について編纂された本ですね。(ウツボ)そうだね。この本には当時の佐藤栄作首相、友納武人千葉県知事、迫水久常参議院議員が序文を寄せている。編著者の鈴木武氏は、「刊行に当たって」の中で、次のように述べている。(カモメ)読んでみます。「『怒涛の中の太陽』は、私が京大を出て四年目、昭和九年に岡田内閣が誕生して、はからずも岡田啓介首相の秘書となってから、昭和二十年八月十五日の終戦の日に至るまで、約十ヵ年間に起こった出来事を主題として書き綴った裏話であります」。(ウツボ)「怒涛の中の太陽」には、鈴木孝雄陸軍大将が「先兄を憶う」と題して、二十四ページに渡って、兄・鈴木貫太郎海軍大将について、また自分たち兄弟のことや、家庭について次の様に述べている(一部抜粋)。(カモメ)鈴木孝雄が陸軍省軍務局砲兵課長時代、電車の中で、鈴木貫太郎と昵懇の井上雅二氏と同車した時、井上氏が「君の兄の人格についていかに思うか」と問いを発した。(ウツボ)即座に鈴木孝雄は「私の今日あるは、兄の力のあずかりて大なるものあることを、衷心感謝しているが、別に特異の点有とは考え及ばぬ」と答えた。(カモメ)だが、井上氏は、兄の業績を物語り、その上に、兄をして他日の大をなさしむるには、この上とも自愛して、兄弟相寄り、相助くることが肝要であると、鈴木孝雄に勧奨した。(ウツボ)他日、鈴木孝雄が、兄、鈴木貫太郎に、この事を告げると、鈴木貫太郎は笑って「予は決して名利を求めず、事に臨んでただ誠心誠意これを処理するあるのみ。世の批判のごときは、予の周知するところにあらず」と意中を開陳した。(カモメ)また、鈴木孝雄は、兄、鈴木貫太郎との子供の頃の思い出について次のように述べている。(ウツボ)読んでみよう。「廃刀令の発布せられたのは、明治九年三月であるが、私ども兄弟は、いつかは知らぬが、両親より守り刀として短刀を受けたのである。ある時、兄と二人にて、その守り刀を手にして遊んでいた時、兄が自己の短刀を自慢した」
2016.02.19
(ウツボ)白川義則少佐は、明治三十八年三月第一三師団兵站参謀、十月陸軍省人事局課員。明治三十九年四月功三級金鵄勲章。明治四十年三月歩兵中佐(四十歳)。明治四十二年十二月歩兵大佐(四十二歳)。明治四十四年六月第一一師団参謀長。大正二年九月中支那派遣隊司令官。(カモメ)大正四年八月少将(四十八歳)、歩兵第九旅団長。大正五年八月陸軍省人事局長兼俘虜情報局長官。大正八年一月中将(五十二歳)、陸軍士官学校長。大正九年一月勲二等瑞宝章、十一月勲二等旭日大綬章。大正十年三月第一一師団長、正四位。(ウツボ)白川中将は、大正十一年八月第一師団長、十月陸軍次官、勲一等旭日大綬章、十一月兼航空局長官。大正十二年三月兼陸軍航空本部長、十月関東軍司令官。大正十三年五月従三位。大正十四年三月大将(五十八歳)。大正十五年七月軍事参議官。(カモメ)郷里の先輩、秋山好古陸軍大将は、白川大将を非常に可愛がり、白川大将が陸軍大将になった後でも、「白川、勉強しているか」と、いつも声をかけていたそうです。(ウツボ)昭和二年四月白川大将は田中義一内閣の陸軍大臣、六月正二位。昭和四年七月軍事参議官。昭和五年八月議定官。(カモメ)昭和五年十一月、東京の青山で秋山好古大将の葬儀が行われた際には、白川大将が葬儀委員長になり、盛大に挙行されました。(ウツボ)昭和七年一月第一次上海事変勃発、二月白川義則大将は上海派遣軍司令官に任命される。二月二十五日の親補式で、昭和天皇から「上海から十九路軍を撃退したら決して長追いせずに、三月三日の国際連盟総会までに停戦してほしい。私はこれまでいくたびか裏切られたが、お前なら守ってくれるであろうと思っている」と白川大将にお言葉が下がった。(カモメ)これを聞いた白川大将は、はらはらと涙を流しました。白川大将は十九路軍を一掃すると、参謀本部からの追撃の指令を受けても、司令官の権限で停戦を断行したのですね。(ウツボ)そうだね。ジュネーブで行われた国際連盟総会では、この白川大将の行動を評価し、日本を危険視する国際社会の嫌悪な空気は好転した。(カモメ)陸軍は白川大将に激昂したのですが、昭和天皇は「白川は本当によくやった」と喜んだということです。その後、軍参謀や、一線指揮官の南京進撃論を退け、白川大将は五月五日、停戦の正式調印を行う事を決定しました。(ウツボ)昭和七年四月二十九日、上海の虹口公園で行われた天長節祝賀会で、朝鮮人テロリストが放った弁当箱爆弾により、白川大将は重傷を負った(上海天長節爆弾事件)。白川大将は、全身に一〇八か所の傷を負いながら、その場の指揮をとった。(カモメ)重症の白川大将は病院で手術を受けましたが、五月二十三日、容態が急変し、危篤となったのです。日本では五・一五事件の騒ぎの中、昭和天皇は白川大将に慰労の勅語を与えました。(ウツボ)白川大将は、その三日後の、昭和七年五月二十六日死去した。享年六十五歳。第一次上海事変の功により、勲一等旭日桐花大綬章、功二級金鵄勲章。男爵が追贈された。従二位。(カモメ)また、昭和天皇より遺族に御製が下賜されました。「をとめらの雛まつる日に戦をばとゞめしいさを思ひてにけり」。(ウツボ)白川大将の三男、白川元春は陸軍航空士官学校(五一期)卒。陸軍少佐で終戦。戦後、航空自衛隊に入隊、空将に昇進した。西部航空方面隊司令官、統合幕僚学校長、航空幕僚副長、第十一代航空幕僚長、第八代統合幕僚会議議長を歴任した。【鈴木孝雄(すずき・たかお)大将】(カモメ)鈴木孝雄は明治二年十月二十九日(一八六九年十二月二日)生まれ。旧関宿藩家老・鈴木由哲の次男。(ウツボ)鈴木孝雄の兄は、鈴木貫太郎(すずき・かんたろう)海軍大将(大阪・海兵一四・海大一・ドイツ駐在・中佐・駆逐隊司令・大佐・海軍水雷学校長・少将・第二艦隊司令官・海軍省人事局長・海軍次官・中将・練習艦隊司令官・海軍兵学校長・第二艦隊司令長官・呉鎮守府司令長官・大将・連合艦隊司令長官・海軍軍令部長・予備役・侍従長・枢密顧問官・二二六事件で重傷・枢密院議長・首相・枢密院議長・従一位・勲一等・功三級・男爵)。(カモメ)鈴木孝雄は、明治二十四年七月陸軍士官学校卒業(二期)。明治二十五年三月砲兵少尉(二十三歳)、野砲第一連隊附。明治二十六年十二月陸軍砲工学校入校。明治二十七年十月砲兵中尉(二十五歳)。明治二十九年十一月独立野戦砲兵大隊附、陸軍砲工学校卒業。
2016.02.12
(ウツボ)山梨半造中尉は、明治二十七年七月歩兵第四旅団副官として日清戦争に出征。明治二十八年二月歩兵大尉(三十一歳)、歩兵第五連隊中隊長、三月第二軍副官、七月占領地総督部副官。明治二十九年二月参謀本部第一局員、五月参謀本部第四部員。(カモメ)明治三十年十二月兼陸軍大学校兵学教官。明治三十一年八月ドイツ駐在。明治三十三年十月歩兵少佐(三十六歳)。明治三十五年十月陸軍大学校兵学教官。明治三十七年三月第二軍参謀(作戦主任)、九月歩兵中佐(四十歳)。(ウツボ)明治三十八年一月日露戦争に第二軍参謀副長として出征、七月第三師団参謀長、十二月オーストリア公使館附武官。明治三十九年四月勲三等旭日中綬章、功三級金鵄勲章。明治四十年一月ドイツ大使館附武官、十一月歩兵大佐(四十三歳)。(カモメ)山梨大佐は、明治四十一年十一月陸軍大学校兵学教官兼幹事。明治四十二年四月兼海軍大学校教官。明治四十三年十一月歩兵第五一連隊長。明治四十四年九月少将(四十七歳)、歩兵第三〇旅団長。明治四十五年三月歩兵第一旅団長、四月参謀本部総務部長。(ウツボ)大正三年八月第一次世界大戦に独立第一八師団参謀長として青島攻略の作戦をおこなった。大正四年二月勲二等瑞宝章、十一月勲二等旭日重光章、功二級金鵄勲章。(カモメ)山梨少将は、大正五年一月教育総監部本部長、五月中将(五十二歳)。大正七年十月陸軍次官兼臨時軍用気球研究会長。大正九年八月兼航空局長官、十一月勲一等旭日大綬章。大正十年六月陸軍大臣、十二月大将(五十七歳)。(ウツボ)山梨大将は、加藤友三郎内閣の陸軍大臣として、大正十一年八月(第一次軍備整備)と大正十二年四月(第二次軍備整備)の二度に渡り、陸軍史上初の軍縮、「山梨軍縮」を実施した。(カモメ)これは第一次世界大戦以後、世界的に軍縮が大勢となり、主要国の海軍軍縮がワシントン海軍軍縮条約(大正十一年~)で進められ、日本海軍も大規模な軍縮に着手しており、陸軍としても議会の軍縮要求に応じざるを得ない情勢となったのですね。(ウツボ)そうだね。この「山梨軍縮」により、部隊の廃止、改編等により、多数の軍人が現役を離れることになった。将兵六万人、軍馬一万頭以上が削減された。山梨軍縮は、関東大震災で、とん挫したが、次の宇垣軍縮に引き継がれた。(カモメ)山梨大将は、大正十二年六月従三位、九月軍事参議官、十一月東京警備司令官。大正十三年八月軍事参議官。大正十四年五月待命、予備役、六月正三位。(ウツボ)昭和二年十二月山梨大将は第四代朝鮮総督に任ぜられる。昭和四年八月山梨総督の側近の贈賄事件(朝鮮総督府疑惑)で辞職。昭和五年四月後備役。昭和九年四月退役。昭和十九年七月二日神奈川県鎌倉市の自宅で死去。享年八十一歳。(カモメ)ちなみに、「作戦の鬼 小畑敏四郎」(須山幸雄・芙蓉書房)の中で、小畑敏四郎陸軍中将(陸士一六恩賜・陸大二三恩賜)は、山梨半造大将について次のように述べています。(ウツボ)読んでみよう。「山梨は神奈川県の出身であったが、陸大出の秀才で、明治陸軍の逸材田村怡与造に見込まれてその女婿となり、田中(義一)の縁でいわば準長閥となって出世した男である」(カモメ)「知能はきわめて明敏であったが、性質はすこぶる陰険で執念深く明利の念に強かったから、従来とかくの評判の絶えない人物であった」。【白川義則(しらかわ・よしのり)大将】(ウツボ)白川義則は明治元年十二月十二日(一八六九年一月二十四日)生まれ。愛媛県松山市出身。松山藩士・白川親応の三男。松山中学校を中退し、代用教員となり、明治十七年一月陸軍教導団に入隊。明治十九年一月陸軍教導団を卒業、工兵二等軍曹(十九歳)、近衛工兵中隊配属。(カモメ)明治二十年十二月士官候補生、歩兵に転科、歩兵第二一連隊附。明治二十三年七月陸軍士官学校(一期)卒業、歩兵少尉(二十三歳)、歩兵第二一連隊附。(ウツボ)白川義則少尉は、明治二十六年十一月陸軍大学校入学。明治二十七年七月日清戦争で陸軍大学校中退、八月歩兵中尉(二十七歳)。明治二十九年三月陸軍大学校復校。明治三十一年二月歩兵大尉(三十一歳)、歩兵第二一連隊中隊長、十二月陸軍大学校(一二期)卒業。(カモメ)陸軍大学校在学中、白川中尉は同郷の秋山好古(あきやま・よしふる)大佐(愛媛・陸士旧三・陸大一・陸軍乗馬学校長・騎兵大佐・陸軍騎兵実施学校長・兼陸軍獣医学校長・第五師団兵站監・清国駐屯軍参謀長・清国駐屯軍司令官・少将・日露戦争で騎兵第一旅団長・騎兵監・功二級・中将・第一三師団長・近衛師団長・朝鮮駐箚軍司令官・大将・軍事参議官・馬政委員会委員長・教育総監・予備役・従二位・私立北予中学校校長・勲一等)の家に同居させてもらっていた。(ウツボ)秋山大佐は白川中尉を同郷の後輩というだけでなく、親身になって世話をした。(カモメ)白川大尉は、明治三十二年十二月陸軍士官学校教官。明治三十四年三月兼皇族附武官(梨本宮守正王附属)。明治三十五年二月近衛師団参謀。明治三十六年六月歩兵少佐(三十六歳)、歩兵第二一連隊附、十二月歩兵第二一連隊大隊長。
2016.02.05
【福田雅太郎(ふくだ・まさたろう)大将】(カモメ)福田雅太郎は慶応二年五月二十五日(一八六六年七月七日)生まれ。長崎県大村市出身。大村藩士・福田市兵衛の次男。大村中学校、有斐学舎を経て、明治二十年七月陸軍士官学校(旧九期)卒業、歩兵少尉(二十一歳)、歩兵第三連隊小隊長。(ウツボ)明治二十三年十一月陸軍大学校入校。明治二十四年七月歩兵中尉(二十五歳)。明治二十五年六月修学、野砲兵第一連隊附。明治二十六年六月修学、近衛工兵大隊第一中隊附、十一月陸軍大学校(九期)卒業、歩兵第三連隊附。(カモメ)明治二十八年一月歩兵大尉(二十九歳)、六月第一師団副官、七月参謀本部出仕、十月功五級金鵄勲章。明治二十九年五月参謀本部第二部員。明治三十年七月ドイツ駐在(軍事研究)。明治三十三年十月歩兵少佐(三十四歳)、参謀本部編制動員班長。(ウツボ)明治三十四年四月兼陸軍大学校兵学教官、六月兼元帥副官(元帥陸軍大将大山巌附属)。明治三十六年十二月オーストリア公使館附武官。明治三十七年二月第一軍参謀(作戦主任)、八月歩兵中佐(三十八歳)、第一軍参謀副長。明治三十八年十二月第三師団参謀長。明治三十九年四月勲三等旭日中綬章、功三級金鵄勲章。(カモメ)明治四十年一月オーストリア公使館附武官、二月オーストリア大使館附武官、十一月歩兵大佐(四十一歳)。明治四十二年十月参謀本部情報課長、十一月歩兵第三八連隊長。明治四十三年十一月歩兵第五三連隊長。(ウツボ)明治四十四年九月少将(四十五歳)、歩兵第二四旅団長。大正元年十二月関東都督府陸軍参謀長。大正三年五月参謀本部第二部長。大正四年二月勲二等瑞宝章、十一月勲二等旭日重光章。大正五年五月中将(五十歳)、参謀本部附(欧州出張)。大正六年八月第五師団長。(カモメ)大正七年六月正四位、十月参謀次長。大正九年十一月勲一等旭日大綬章。大正十年五月台湾軍司令官、七月従三位、十二月大将(五十五歳)。大正十二年八月軍事参議官、九月兼関東戒厳司令官、軍事参議官。(ウツボ)大正十二年九月一日午前十一時五十八分、マグニチュード7.9の大正関東地震が発生した。十万五千人余りが死亡あるいは行方不明になった関東大震災だ。(カモメ)当時の関東戒厳司令官・福田雅太郎大将でした。福田大将は、陸軍部隊を指揮して、戒厳地域内の警備にあたりました。この時、「社会主義者、朝鮮人を徹底的に取り締まれ」との通達が出されたのですね。(ウツボ)そうだね。この時、甘粕事件が起こった。甘粕正彦憲兵大尉(陸士二四)とその部下により、アナキスト・大杉栄と内縁の妻・伊藤野枝、大杉の甥・橘宗一の三名が殺害された事件だね。(カモメ)この事件により、関東戒厳司令官・福田雅太郎大将はその警備が不手際であったという理由で、関東戒厳司令官を更迭されてしまったのですね。(ウツボ)そうだね。また、甘粕憲兵大尉らは軍法会議にかけられ処罰されたが、後に複数の陰謀説が出てきて、その一つに、関東戒厳司令官・福田雅太郎大将が甘粕事件を主導し、大杉栄らを殺害したというものが出て来た。(カモメ)それで、大正十三年、福田雅太郎大将は、フランス料理店で、狙撃されたのです。これは大杉栄殺害の恨みによる狙撃事件でした。この時、福田大将は無事でした。(ウツボ)また、大正十四年五月にも福岡市中洲の料亭で、立花小一郎陸軍大将の福岡市長任命祝賀会で、福田大将は、再び狙撃されたが、これも無傷だった。(カモメ)福田雅太郎大将は、大正十三年九月正三位。大正十四年九月待命、予備役。昭和二年一月大日本相撲協会長。昭和五年四月枢密顧問官。昭和七年四月後備役、六月一日死去。享年六十五歳。従二位。【山梨半造(やまなし・はんぞう)大将】(カモメ)山梨半造は元治元年三月一日(一八六四年四月六日)生まれ。神奈川県平塚市出身。山梨安兵衛の次男。(ウツボ)山梨半造の義弟は本間雅晴(ほんま・まさはる)陸軍中将(新潟県佐渡市・陸士一九・陸大二七恩賜・イギリス大使館附武官・歩兵大佐・陸軍省新聞班長・歩兵第一連隊長・少将・参謀本部第二部長・中将・第二七師団長・台湾軍司令官・第一四軍司令官・予備役・戦後マニラ軍事裁判で刑死)だね。(カモメ)明治十九年六月陸軍士官学校(旧八期)卒業、歩兵少尉(二十二歳)、歩兵第五連隊小隊長。明治二十二年十二月陸軍大学校入学。明治二十四年十二月歩兵中尉(二十七歳)。明治二十五年十二月陸軍大学校(八期)卒業。
2016.01.29
(カモメ)田中義一大尉は、ロシア留学時代は、キリスト教の正教に入信、ロシア人を誘って教会に礼拝に行き徹底的にロシアを研究しました。また、地元の連隊に入隊、内部からロシア軍を調査しました。このため、日露戦争前は、陸軍屈指のロシア通と自負していたのですね。(ウツボ)そうだね。この時期、同じくロシアに留学していた広瀬武夫海軍大尉と一緒に酒を飲んで、開戦論を叫ぶなど、田中大尉は一本木で短気な性格だった。だが、長州閥の後ろ盾があったとはいえ、軍人としては極めて有能だった。(カモメ)田中大尉は、明治三十三年六月参謀本部附、十月歩兵少佐(三十六歳)。明治三十五年七月参謀本部員、十一月兼皇族附武官(閑院宮載仁親王附属)。明治三十六年五月兼陸軍大学校兵学教官。明治三十七年一月兼海軍軍令部参謀、二月大本営陸軍参謀、六月満州軍参謀(作戦主任)、八月歩兵中佐(四十歳)。明治三十九年四月勲三等旭日中綬章、功三級金鵄勲章。(ウツボ)明治三十九年に提出した「随感雑録」が枢密院議長・山縣有朋元帥に評価され、当時田中は陸軍中佐ながら、帝国国防方針の草案を作成した。また、田中中佐は、明治四十三年には、在郷軍人会を設立、組織化した。(カモメ)明治四十年五月歩兵第三連隊長、十一月歩兵大佐(四十三歳)。明治四十二年一月陸軍省軍務局軍事課長。明治四十三年十一月少将(四十六歳)、歩兵第二旅団長。(ウツボ)明治四十四年九月陸軍省軍務局長兼軍事参議院幹事長。大正元年十二月歩兵第二旅団長。大正三年八月参謀本部附。大正四年十月中将(五十一歳)、参謀次長、十一月勲二等瑞宝章。大正七年九月陸軍大臣、勲一等瑞宝章、十月正四位。(カモメ)田中義一中将は、陸軍大臣在職中、マスコミの論調を陸軍に有利にするため、陸軍省内に新聞班を創設しました。(ウツボ)大正九年九月男爵、勲一等旭日大綬章、十月従三位。大正十年狭心症で倒れ、六月に陸軍大臣を辞任、大将(五十七歳)、待命、八月軍事参議官。大正十二年九月陸軍大臣。大正十三年一月待命、二月正三位。(カモメ)田中大将は、大正十四年四月予備役、高橋是清の後を受けて立憲政友会総裁、五月従二位。大正十五年一月貴族院議員。昭和二年四月内閣総理大臣兼外務大臣。昭和三年五月兼内務大臣。(ウツボ)昭和三年六月四日、関東軍により、奉天軍閥の指導者・張作霖が乗る特別列車が奉天近郊で爆破され、張作霖が暗殺された。(カモメ)この「張作霖列車爆破事件」について、十二月、当時の田中義一首相は、昭和天皇に「関東軍参謀・河本大作大佐が単独の発意で、その下に少数の人員を使用して行いしもの」とした上で、関係者の処分を行う旨の上奏を行なったのです。(ウツボ)だが、その後、田中首相は、陸軍や閣僚、重臣らの強い反対にあった。白川義則陸軍大臣は三回に渡って、天皇に「関東軍に大きな問題はない」という旨の上奏を行い、軍法会議を回避して、行政処分で済ませる為、河高級参謀本大作大佐を内地へ異動させた。(カモメ)このため、田中首相は、河本大佐ら関係者の処分を断念せざるを得ず、天皇に対して「陸相が奏上いたしましたように、関東軍は爆殺には無関係と判明いたしましたが、警備上の手落ちにより責任者を処分いたします」と上奏したのです。(ウツボ)これに対して、天皇は「それでは前と話が違うではないか」と田中首相を叱責した。田中首相が恐懼(きょうく)して弁解しようとしたが、天皇は奥に入って行き、鈴木貫太郎侍従長に「田中総理のいう事はちっとも判らぬ。再び聞くことは、自分は厭だ」と話した。(カモメ)鈴木侍従長から天皇の言葉を聞かされた田中首相は、引責辞任の腹を決め、村岡長太郎関東軍司令官を予備役、河本大作大佐を停職、斎藤恒前関東軍参謀長を譴責(けんせき)、水町竹三満州独立守備隊司令官を譴責とする行政処分を発表し、昭和四年七月二日に田中内閣は総辞職しました。(ウツボ)この天皇の叱責が堪えて、辞職後の田中義一は、あまり人前に出なくなり、塞ぎがちだった。昭和四年九月二十九日急性の狭心症で死去した。享年六十五歳。正二位、勲一等旭日桐花大綬章。(カモメ)吉田茂と田中義一のエピソードがありますね。田中義一が首相の時、外務次官のポストを得ようとしていた吉田茂は、田中内閣に拒否され、スウェーデン大使に出されることになりました。(ウツボ)吉田茂は首相官邸に乗り込み、田中首相に長時間に渡り、次官の自己推薦の弁舌を行なった。ところが、田中首相は、吉田茂の話を始終、つまらなそうに聞いていた。(カモメ)とことん話し終えた吉田茂はこれで外務次官もダメになったと、せいせいして、帰宅してスウェーデンに出発する準備に取り掛かりました。(ウツボ)その数日後、田中首相から吉田に電話があり、「ところで吉田君、事務次官になってもらうよ。異論はないね」ととぼけた感じで言われた。吉田は、驚いたが、次官就任を受けた。それ以後、吉田は田中義一のことを尊敬するようになった。
2016.01.22
【河合操(かわい・みさお)大将】(カモメ)河合操は、元治元年九月二十六日(一八六四年十月二十六日)生まれ。大分県杵築市出身。杵築藩士・河合盛益の次男。明治十二年十一月陸軍教導団入隊。工兵軍曹。明治十九年六月陸軍士官学校(旧八期)卒業、歩兵少尉(二十二歳)、歩兵第四連隊小隊長。(ウツボ)明治二十年十月陸軍教導団歩兵大隊附。明治二十一年三月陸軍教導団歩兵大隊小隊長。明治二十二年十二月陸軍大学校入校、歩兵中尉(二十五歳)。明治二十三年三月歩兵第五連隊附。明治二十五年十二月陸軍大学校(八期)卒業。(カモメ)明治二十六年十二月陸軍士官学校大尉教官心得。明治二十七年十一月歩兵大尉(三十歳)、陸軍士官学校教官。明治二十八年二月監軍部副官事務取扱、八月台湾総督府参謀。明治二十九年四月台湾総督府軍務局陸軍部課員、功五級金鵄勲章。(ウツボ)河合操大尉は、明治三十年一月監軍部参謀。明治三十一年一月陸軍士官学校教官、四月陸軍大学校兵学教官兼陸軍軍医学校教官。明治三十三年十月歩兵少佐(三十六歳)、陸軍大学校兵学教官。明治三十五年十月ドイツ駐在(軍事研究)。(カモメ)明治三十七年四月参謀本部附、五月大本営陸軍幕僚附、六月満州軍参謀、七月歩兵中佐(四十歳)、十一月第四軍参謀。明治三十八年一月第三軍参謀副長。明治三十九年一月陸軍大学校兵学教官、二月陸軍省軍務局附(ドイツ駐在)、四月勲三等旭日中綬章、功三級金鵄勲章。(ウツボ)河合操中佐は、明治四十年二月陸軍大学校兵学教官、十一月歩兵大佐(四十三歳)。明治四十一年九月兼陸軍大学校監事、十一月陸軍省軍務局歩兵課長。明治四十三年十一月少将(四十六歳)、歩兵第七旅団長。(カモメ)明治四十五年四月陸軍省人事局長。大正三年九月兼俘虜情報局長官。大正四年一月陸軍大学校校長、八月中将(五十一歳)、勲二等瑞宝章、十一月勲二等旭日重光章。大正六年八月第一師団長、十月正四位、従三位、十一月勲一等瑞宝章。(ウツボ)河合操中将は、大正十年一月関東軍司令官、四月大将(五十七歳)。大正十一年五月軍事参議官。大正十二年三月参謀総長、十二月正三位。(カモメ)大正十二年九月一日、関東大震災が起きた時、陸軍参謀総長は河合操大将でした。この大震災で陸軍の作戦計画は改定を余儀なくされました。大正十一年、十二年に山梨軍縮を行なった陸軍は、さらに大正十四年四月、四個師団を廃止するという宇垣軍縮を行う事になったのですね。(ウツボ)そうだね。河合操大将は、大正十三年十二月勲一等旭日大綬章。大正十五年三月待命、予備役。昭和二年五月枢密顧問官。(カモメ)昭和五年一月に開催されたロンドン軍縮会議で希望量を達成できずに調印、批准した浜口内閣を、「天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス」という大日本帝国憲法第十一条を持ち出し、枢密顧問官たちは「統帥権干犯問題」を提起しました。当時枢密顧問官だった河合操大将も浜口民政党内閣を激しく非難したのです。(ウツボ)河合操大将は、昭和五年三月従二位、四月後備役。昭和九年四月退役。昭和十一年五月議定官。昭和十二年四月正二位。昭和十六年十月十一日死去。享年七十六歳。従一位、勲一等旭日桐花大綬章。大分県杵築市の杵築城に銅像が立っている。【田中義一(たなか・ぎいち)大将】(カモメ)田中義一は元治元年六月二十二日(一八六四年七月二十五日)生まれ。山口県萩市出身。萩藩士・田中信祐の三男。田中信祐は藩主の駕籠かきを務める下級武士でしたが、武術には優れていました。(ウツボ)村役場の職員や小学校の教員を務めた田中義一は、二十歳で陸軍教導団に入隊した。その後、陸軍士官学校に入校し、明治十九年六月陸軍士官学校(旧八期)卒業、歩兵少尉(二十二歳)、歩兵第一連隊小隊長。(カモメ)明治二十二年十二月陸軍大学校入学、歩兵中尉(二十五歳)。明治二十五年十二月陸軍大学校(八期)卒業。明治二十六年十二月第一師団副官。明治二十七年十月歩兵第二旅団副官、十二月歩兵大尉(三十歳)。(ウツボ)田中義一大尉は、明治二十八年二月第一師団参謀、十月功五級金鵄勲章。明治二十九年十月参謀本部第二部員。明治三十年十二月兼陸軍大学校兵学教官。明治三十一年五月参謀本部編纂部員(ロシア留学)。明治三十二年一月参謀本部出仕。
2016.01.15
(カモメ)大正十三年四月秋山好古大将は、私立北予中学校(現在の愛媛県立松山北高校)の校長に就任しました。陸軍大将で教育総監まで務めた高級軍人が中学校の校長就任とは異例のことでしたが、本人の強い希望だったのですね。(ウツボ)そうだね。中学校長時代、生徒や父兄から、「日露戦争のことを話してほしい」などと頼まれても、秋山好古は、一切断り、自分の武勲や功績を話す事は無く、自慢もしなかった。(カモメ)秋山校長は、「学生は兵士ではない」として、中学校での軍事教練を極力減らしました。また、生徒の見聞を広めるために、修学旅行先は日本の統治下にある朝鮮にしました。(ウツボ)昭和五年四月秋山好古大将は、校長辞任した。十一月四日糖尿病による心筋梗塞により東京の陸軍軍医学校で死去。享年七十一歳。従二位、勲一等、功二級。(カモメ)栄典は、勲一等旭日桐花大綬章、勲一等旭日大綬章、功二級金鵄勲章、勲一等瑞宝章、聖マウリッツィオ・ラゾロ勲章コンメンダトーレ(イタリア)、二等赤鷲勲章(ドイツ)、一等文虎勲章(中華民国)、レジオンドヌール勲章グラントフィシエ(フランス)、二等スタニスラウス勲章(ロシア)、二等聖アンナ勲章(ロシア)などがあります。【宇都宮太郎(うつのみや・たろう)大将】(ウツボ)宇都宮太郎は、文久元年三月十八日(一八六一年四月二十七日)生まれ。佐賀県出身。佐賀鍋島藩士・亀川貞一の四男。その後、宇都宮十兵衛泰源の養子となる。宇都宮太郎の長男、宇都宮徳馬は衆議院議員、後に参議院議員。(カモメ)明治十二年四月宇都宮太郎は、陸軍幼年学校入校。明治十八年六月陸軍士官学校(旧七期・首席)卒業、歩兵少尉(二十四歳)、歩兵第五連隊附。明治十九年四月近衛歩兵第四連隊附。(ウツボ)明治二十一年十一月歩兵中尉(二十七歳)、陸軍大学校入校。明治二十三年十二月陸軍大学校(六期・恩賜)卒業。明治二十五年四月参謀本部出仕。明治二十六年十一月歩兵大尉(三十二歳)、十二月印度出張。(カモメ)明治二十七年十一月日清戦争で大本営参謀。明治二十八年七月参謀本部第二局員、十月功五級金鵄勲章。明治二十九年五月参謀本部第三部員、十月参謀本部編纂部員。(ウツボ)明治三十一年十月宇都宮大尉は、歩兵少佐(三十七歳)に進級。明治三十二年一月参謀本部員。明治三十四年一月イギリス公使館附武官。明治三十六年一月歩兵中佐(四十二歳)。(カモメ)明治三十八年三月歩兵大佐(四十四歳)、九月参謀本部附。明治三十九年四月勲三等旭日中綬章、功三級金鵄勲章、陸軍大学校兵学教官兼幹事。(ウツボ)明治四十年五月歩兵第一連隊長。明治四十一年十二月参謀本部第一部長。明治四十二年一月少将(四十八歳)、十二月参謀本部第二部長。(カモメ)明治四十四年に中国で起きた辛亥革命では、宇都宮少将は、清朝保護の立場をとった政府の方針に反して、三菱財閥の三菱合資会社社長・岩崎久弥から資金援助十万円を提供させて、密かに革命派の活動の支援を行っています。(ウツボ)大正元年十一月第二次西園寺内閣の陸軍大臣・上原勇作中将は、陸軍提出の二個師団増設案が緊縮財政を理由に拒否されると、上原中将は単独で天皇に辞表を提出し、陸軍大臣を辞任した。(カモメ)この時、参謀本部第二部長だった宇都宮太郎少将は、上原大臣に面会し、暴挙を思いとどまるように進言しています。(ウツボ)そうだね。だが、結局上原大臣は辞任した。辞任後、陸軍は後任の陸軍大臣候補を出さず、軍部大臣現役武官制を利用して西園寺内閣を総辞職させた。(カモメ)宇都宮少将は、大正三年五月中将(五十三歳)に進級、第七師団長、勲二等瑞宝章。大正五年五月正四位、八月第四師団長。大正七年七月朝鮮軍司令官。大正八年三月「3・1朝鮮独立運動」を鎮圧、六月従三位、十一月大将(五十八歳)。(ウツボ)大正八年三月一日に勃発した朝鮮独立運動では、一万人以上の朝鮮人が独立の宣言書を撒き散らし、街中を「独立万歳」と叫びながら行進した。朝鮮軍司令官・宇都宮太郎中将はこれらのデモ隊を鎮圧した。(カモメ)だが、「宇都宮太郎日記」には、この独立運動が起きた原因を、「日本が無理に韓国併合を強行した」とし、さらには、「併合後の朝鮮人に対する差別に起因する」と記していますね。(ウツボ)そうだね。事実、宇都宮中将は、朝鮮人の民族運動家や宗教者らと会って、意見交換をし、情報収集などを行っている。(カモメ)宇都宮太郎大将は、大正九年一月勲一等瑞宝章、八月軍事参議官、十一月勲一等旭日大綬章。軍事参議官在職中の、大正十一年二月十五日胃ガンのため死去。享年六十歳。正三位、勲一等。功三級。(ウツボ)著書に、「日本陸軍とアジア政策1―陸軍大将宇都宮太郎日記」(宇都宮太郎関係資料研究会・岩波書店)、「日本陸軍とアジア政策2―陸軍大将宇都宮太郎日記」(宇都宮太郎関係資料研究会・岩波書店)、「日本陸軍とアジア政策3―陸軍大将宇都宮太郎日記」(宇都宮太郎関係資料研究会・岩波書店)がある。
2016.01.08
(カモメ)秋山好古中尉は、明治十九年四月東京鎮台参謀、六月騎兵大尉(二十七歳)。明治二十年フランスのサン・シール陸軍士官学校に留学中の久松定謨(ひさまつ・さだこと)伯爵(松山藩主である久松家の当主・後の陸軍中将)の補導役としてフランスへ出張し、騎兵戦術を習得しました。(ウツボ)フランスに滞在中、秋山好古大尉は、腸チフスになったが、医者にはかからず、自分で治した。そのため、頭髪が全て抜けてしまった。だが、その後、秋山好古大尉は自力で頭髪を生やした。(カモメ)また、明治二十一年暮れ、陸軍の大物、山縣有朋中将がヨーロッパ視察に来て、フランスに滞在しました。この時、秋山好古大尉は、山縣中将からフランス軍の高級軍人への使いを頼まれたのですね。(ウツボ)そうだね。だが、使いの途中、秋山好古大尉は電車内で酒を飲み過ぎ、居眠りしたあげくに、置き引きにあった。(カモメ)明治二十四年十二月騎兵第一大隊中隊長。明治二十五年四月陸軍士官学校馬術教官、十一月期兵少佐(三十三歳)。明治二十六年四月佐久間多美と結婚、五月騎兵第一大隊長。(ウツボ)明治二十七年七月日清戦争に出征。明治二十八年五月騎兵中佐(三十六歳)。明治二十九年八月陸軍乗馬学校長。明治三十年十月騎兵大佐(三十八歳)。(カモメ)非常に酒好きだった秋山好古は、戦場でも水筒に酒を入れて携帯していたそうですね。(ウツボ)そうだね。だが、それだけでは足りなかったので、従兵が自分の水筒にも酒を入れて持ち歩いていた。秋山好古少佐(当時)は、騎乗で身を乗り出して、その従兵の水筒の酒を飲むという曲芸まがいのことをして、部下たちを驚かせた。(カモメ)けれども、酔って、自分を失ったり、判断を誤るようなことは一切なかったのですね。ところが、晩年は、この酒のせいで、重度の糖尿病になり、命を失ったのですね。(ウツボ)そうだね。秋山好古大佐は、明治三十一年十月陸軍騎兵実施学校長。明治三十二年十月陸軍獣医学校長兼任。明治三十三年七月第五師団兵站監。(カモメ)明治三十四年五月清国駐屯軍参謀長、七月清国駐屯軍守備司令官。明治三十五年六月陸軍少将(四十三歳)。明治三十六年四月騎兵第一旅団。(ウツボ)明治三十七年二月日露戦争で騎兵第一旅団長として出征、騎兵戦術を駆使してロシア軍と戦った。その後、秋山好古は「日本騎兵の父」と呼ばれた。(カモメ)奉天会戦後のある日、騎兵第一旅団長・秋山好古少将は、第三軍司令部を訪れることになりました。第三軍司令官・乃木希典大将は、「秋山少将は久しく入浴していないだろうから、風呂の用意をしておくように。それから酒の準備もしておけ」と部下に命じたのです。(ウツボ)だが、秋山少将は、夕方になっても司令部に来なかった。とうとう夜になってやっと現れたが、酒気を帯びていた。(カモメ)驚いた参謀・津野田是重大尉が、遅刻を注意しましたが、秋山少将はこれを無視しました。さらに、風呂にも入らず、乃木大将との会談も数分で帰ってしまったのですね。(ウツボ)秋山好古少将は、大変な風呂嫌いで、日露戦争中、入浴したのは二回だけだった。軍服も洗濯を一切しなかったので、シラミが湧き、異様な悪臭を放っていた。(カモメ)部下や同僚が風呂に入って、体をきれいにするよう何度も勧めたが、秋山好古少将は「軍人たる者、戦場においては、いつでも敵に対応出来るようでなければならない。風呂に入るために戦場に来たのではない」と言って、進言を退けていたそうです。(ウツボ)無欲の人として知られていた秋山好古少将は、凱旋した時でも、給料や品物の多くを部下に与えていたため、かばんには目録や明細書ばかり入っていた。(カモメ)明治三十九年二月騎兵監、四月功二級金鵄勲章。明治四十二年八月中将(五十歳)。大正二年一月第一三師団長。大正四年二月近衛師団長。(ウツボ)大正五年八月朝鮮駐箚軍司令官、十一月大将(五十七歳)。大正六年八月軍事参議官。大正九年十二月教育総監。大正十二年三月予備役。(カモメ)秋山好古大将は、大将昇進後、帰郷し、先祖の菩提寺の墓参りをしました。その時、寺の住職にお金を紙に包んで、渡しました。住職は、それを開いて見て、「これは頂き過ぎなので、お返しします」と、遠慮して包みを返したのですね。(ウツボ)そうだね。すると、秋山大将は、「ああそうかい」と言って、その包みを軍服のポケットに突っ込み、そのまま帰ってしまった。秋山好古大将は、次のような言葉を残している。(カモメ)読んでみます。「いかにすれば勝つかということを、考えてゆく。その一点だけを考えるのが、おれの人生だ。それ以外のことは余事であり、余事というものを考えたりやったりすれば、思慮がそのぶんだけ曇り、乱れる」(ウツボ)「向いていなければ、さっさとやめる。人間は、自分の器量がともかく発揮できる場所を選ばねばならない」。
2016.01.01
(カモメ)作戦は、松樹山のアームストロング砲の砲塁を奪って、一気に旅順市街に突入するというものでした。しかも、砲塁内に入るまでは、決して弾丸を発射せず、途中で敵に遭遇しても銃剣だけで戦うことに決まったのですね。(ウツボ)そうだね。無謀ともいえるこの作戦を前に、中村少将は部下に「大勢の兵士が死んだ。そろそろ上(将官級)の者が死なないと申し訳が立たない」と述べた。(カモメ)明治三十七年十一月二十六日、第三回の旅順要塞総攻撃がむなしく失敗に終わりました。その日の午後六時、白襷隊に出撃命令が出されました。(ウツボ)出撃の前に、中村少将は、「もし我倒れたら、指揮は渡辺大佐に代われ、渡辺が倒れたら、大久保中佐が指揮をとれ。各部隊とも順次変わる者を決めておけ。ゆえなく後方に留まったり、隊伍を離れる者があれば、斬れ!」という壮絶な訓示を行なった。(カモメ)中村少将を先頭に、白襷隊は、闇夜の中を松樹山に向かったのです。ところが、斜面の中腹で地雷に引っ掛かり、ロシア軍に発見されてしまいました。(ウツボ)白襷隊は探照灯で照らされ、集中砲火を浴びた。白襷隊は突進を続けたが、バタバタと倒れていった。白い襷が、闇夜で目立って、かえって標的にされたのだ。(カモメ)ロシア軍の砲台に飛び乗って壮絶な白兵戦を行なった者もいましたが、多くは戦死し、白襷隊は一時間ほどで約一五〇〇名の死傷者を出し、壊滅してしまったのです。かろうじて生き残った者は夜明けまでに引き揚げました。(ウツボ)翌朝、ロシア軍の砲台の周囲は、白襷隊の死体で覆われていた。やむなく、日本軍は一時的に休戦を申し込んで、死体を収容した。(カモメ)中村少将も負傷して、内地に送還されましたが、後に特にこの白襷隊攻撃失敗の責任を取らされたということはなかったのですね。(ウツボ)そうだね。中村少将は、白襷隊の指揮官ということから連想される猛将ではなく、官吏タイプの軍人だったといわれている。功績もないのに、近江国、彦根藩出身者として、異例の昇進をとげたのは、会話が巧みで、長州閥に取り入ったためという話もある。(カモメ)後に中村少将は、ついに大将まで昇進するのですが、その栄達は、「白襷隊の壮挙を出世の道具とした」「白襷隊の兵士の屍の上の出世」などとささやかれたのです。だが、一方、軍人の鑑として、評価する者もいました。(ウツボ)中村覚少将は明治三十八年七月中将(五十一歳)に進級した。その後、明治三十九年二月教育総監部参謀長。明治四十年一月第一五師団長、九月戦功により男爵。大正三年九月関東都督。(カモメ)そして、中村中将は、大正四年一月大将(六十一歳)に進級しました。大正六年七月軍事参議官。大正八年二月後備役。大正十四年一月二十九日死去。享年七十歳。従二位。勲一等旭日桐花大綬章。功二級。【秋山好古(あきやま・よしふる)大将】(ウツボ)秋山好古は、安政六年一月七日(一八五九年二月九日)生まれ。愛媛県松山市出身。松山藩士・秋山久敬の三男。日本海海戦でバルチック艦隊を壊滅させた作戦参謀(当時中佐)の秋山真之海軍中将は実弟(五男)。(カモメ)秋山好古の名前は、論語の一節「述而不作 信而好古」から命名された。この読みは、「延べて作らず、信じて古(いにしえ)を好む」ですね。(ウツボ)孔子は、「私は古来の礼法を述べているだけです。新たに創作したのではないのです。私はそれらの古く良きものを信じて、好んでいるだけなのです」と言っている。(カモメ)この論語の一節に象徴されるように、秋山好古の性格は、生涯、飾らず謙虚で、欲がなく、泰然自若とした古武士のようであったと言われていますね。(ウツボ)そうだね。秋山好古は、明治九年七月大阪師範学校卒業。名古屋師範学校附属小学校勤務。明治十年五月陸軍士官学校入学。明治十二年十二月陸軍士官学校(旧制三期)卒業、騎兵少尉(二十歳)、東京鎮台配属。(カモメ)明治十三年七月東京鎮台騎兵第一大隊小隊長。明治十六年二月中尉(二十四歳)、三月陸軍士官学校騎兵科教官、四月陸軍大学校入学。明治十八年十二月陸軍大学校(一期)卒業、参謀本部勤務。(ウツボ)秋山好古は、鼻が高く、西洋人的な顔なので、陸軍大学校の学生時代、教官のメッケルから、ヨーロッパ人と間違えられた。(カモメ)また、弟の秋山真之が東京帝国大学進学を目指して明治十六年上京し、共立学校や大学予備門で学んでいた時、実家は経済的に困窮していたので、好古が学費を出してやっていたのですね。(ウツボ)そうだね。当時、秋山好古中尉は非常に質素な生活を送り、食事の時のおかずは、沢庵のみという有様だった。弟の真之が一時同居していた時も、食器は一つで使い回したという。
2015.12.25
(カモメ)各地で士族の反乱が続出すると、その指揮能力を買われ、立見尚文は、請われて明治陸軍に入隊しました。明治十年西南戦争では、立見尚文は陸軍少佐(三十二歳)として新撰旅団一個大隊を指揮しました。(ウツボ)立見尚文少佐は、明治十二年二月大阪鎮台参謀。明治十七年二月中佐(三十九歳)、歩兵第一連隊長。明治十九年八月小松宮欧州出張の随員。明治二十年十一月大佐(四十二歳)。(カモメ)明治二十二年三月第三師団参謀長。明治二十四年十二月近衛師団参謀長(初代)。明治二十七年六月少将(四十九歳)、歩兵第一〇旅団長。明治二十八年八月男爵。(ウツボ)明治二十九年一月陸軍大学校事務取扱。明治三十年十一月台湾総督府陸軍部参謀長。明治三十一年十月中将(五十三歳)、第八師団長(初代)。(カモメ)当時日本陸軍は、対ロシア戦を想定、準備していました。明治三十五年一月、第八師団の歩兵第五連隊二百十名が青森から、歩兵第三一連隊三十七名が弘前から八甲田山に向かう雪中行軍訓練が行われました。(ウツボ)だが、第五連隊は遭難し、一九九名が凍死という「八甲田山雪中行軍遭難事件」が起きたのだね。映画にもなったが、これは世界中でも最大級の山岳遭難事故となった。この時の第八師団長が立見尚文中将だった。(カモメ)日露戦争では明治三十八年一月、黒溝台会戦で日本軍左翼がロシア軍十万人の大攻勢で苦戦していましたが、立見尚文中将は第八師団を率いて救援に向かい、大激戦の後、自分の師団にも大損害を出しましたが、ロシア軍を撃退したのですね。(ウツボ)そうだね。これらの戦功で、立見尚文中将は陸軍大将に昇進したが、薩長出身の将軍たちは、戊辰戦争時の苦い経験から立見尚文中将の前では頭が上がらなかったという。当時、薩長閥の中で、佐幕(幕府支持)派出身の立見中将が、陸軍大将に昇進したのは、誰もが認める偉大な勇将だったからだ。(カモメ)日露戦争中のある日、薩長出身の高級将校たちが、幕末の話をして盛り上がっていると、それを聞いた立見中将が、その中の一人に向かって、「お前は、あの時、俺の目の前で、逃げ去ったではないか」と言って、その場がしらけて、みんな沈黙してしまったという話がありますね。(ウツボ)そうだね。特に山縣有朋(参謀総長)は、北越戦争のとき、何度も煮え湯を飲まされているので、生涯、立見尚文中将を避けていた。(カモメ)立見尚文中将は幕末から明治期にかけて、「最高の指揮官」と言われ、第四軍司令官・野津道貫大将は、立見尚文中将を「東洋一の用兵家」と高く評価していました。(ウツボ)立見尚文中将は、明治三十九年五月大将(六十一歳)に進級したが、七月休職。明治四十年三月六日死去した。享年六十二歳。功三級。勲三等旭日中綬章。【中村覚(なかむら・さとる)大将】(カモメ)中村覚は安政元年二月二十日(一八五四年三月十八日)生まれ。滋賀県彦根市出身。彦根藩士・中村千太夫の次男。明治五年七月明治陸軍教導団入団。明治六年十一月教導団卒、陸軍伍長(十九歳)。(ウツボ)明治七年二月陸軍兵学寮に入る、十月陸軍少尉試補。明治八年一月歩兵少尉(二十一歳)。明治十年三月西南戦争出征、五月中尉(二十三歳)。明治十二年三月参謀本部管西局員。明治十四年四月大尉(二十七歳)。明治十九年五月歩兵少佐(三十二歳)、歩兵第一〇連隊大隊長。(カモメ)明治二十年四月参謀本部第二局員。明治二十一年五月第一師団参謀。明治二十二年十二月陸軍大学校教官。明治二十四年十二月皇太子・嘉仁親王(後の大正天皇)の東宮武官。明治二十五年九月歩兵中佐(三十八歳)。明治二十七年八月大本営侍従武官、十二月歩兵大佐(四十歳)。(ウツボ)明治三十年四月歩兵第四六連隊長。明治三十一年十月東部都督部参謀長。明治三十二年九月少将(四十五歳)。明治三十三年四月台湾総督府陸軍幕僚参謀長。明治三十五年三月歩兵第二旅団長。明治三十七年三月日露戦争出征。(カモメ)日露戦争では、中村覚少将率いる歩兵第二旅団は、乃木希典大将率いる第三軍に編入されました。南山で戦ったのち、旅順攻撃に参加しました。(ウツボ)乃木大将が指揮する第三軍の旅順攻撃は、すでに正攻法による二回の総攻撃を行なったが、多大の戦死者を出したにもかかわらず陥落せず、次の第三次総攻撃に大きな期待がかかっていた。(カモメ)この時、中村少将は、「奇襲で敵の防御を破れば、旅順要塞を陥落できる」と第三軍司令部に訴えたが、あまりの無謀さに、中村少将の意見は却下されました。(ウツボ)だが、中村少将は、乃木大将が巡視に来た時、「軍がおやりになるならば、私が指揮官になります」と直訴した。(カモメ)第三軍司令部では、止めようとしたのですが、バルチック艦隊が台湾海峡に迫っているという切迫した情勢の中、旅順要塞の陥落が急務だったので、最後の手段として特別予備隊を結成することに決定したのですね。(ウツボ)そうだね。各師団から三六〇〇名が選抜され、闇の中でも敵味方が識別できるようにと、全員が白い襷(たすき)をかけた。このため、この特別予備隊は「白襷隊」と呼ばれた。中村覚少将が指揮官に任命された。
2015.12.18
(ウツボ)児玉源太郎中将は、明治三十二年十二月勲一等瑞宝章。明治三十三年十二月陸軍大臣。明治三十四年四月正三位。明治三十五年二月勲一等旭日大綬章。明治三十六年七月内務大臣、文部大臣兼任、十月参謀本部次長兼任。(カモメ)対ロシア戦計画のため、大山巌参謀総長は、特に児玉中将に参謀次長就任を要請したのです。陸軍大臣を歴任し内務大臣であった児玉中将にとっては、明らかに降格人事でしたが、迫りくる日露戦争のため、内務大臣を辞して、大山参謀総長の要請に応じたのですね。(ウツボ)そうだね。日本陸軍創設以来、解体される昭和二十年まで、降格人事を了承した軍人は、児玉大将ただ一人だけだった。その後、日露戦争のために編成された満州軍の総参謀長も引き続き務めた。(カモメ)明治三十七年六月大将(五十二歳)、日露戦争で満州軍総参謀長に就任、総司令官・大山巌元帥を補佐して、勝利を収めました。(ウツボ)児玉大将は、日露戦争を勝利に導くため、軍だけでなく、多方面で対策を講じた。兵器、弾薬等の国内生産力を高める為、製鉄、軍需工場などの重工業を発展させた。(カモメ)また、情報戦を重要視し、通信用の海底ケーブルを日本近海に敷設したり、情報のプロ、明石元二郎大佐にロシア軍事情報収集やロシア国内攪乱を命じたりしたのです。さらに、陸軍の予算を海軍に回し、対ロシア戦に備えて、軍艦二隻を購入させたのですね。(ウツボ)そうだね。児玉大将は周囲の者から好かれることが多く、大山巌元帥の妻、捨松が「大山が一番好きなのは、私ではなく、児玉さんですわ」と言ったという話が残っている位だ。(カモメ)同僚の軍人や上司にも敵の多かった、変人で有名な乃木希典も、共に西南戦争を戦った同郷の戦友、児玉源太郎だけは、親友として長い付き合いを重ねたと言われていますね。(ウツボ)そのような児玉大将だからこそ、あの頑固な第三軍司令官・乃木希典大将を説得して戦法を変えさせ、日露戦争最大の難関、旅順要塞、二〇三高地の攻略に成功した。(カモメ)児玉大将は、明治三十九年四月功一級金鵄勲章、勲一等旭日桐花大綬章、台湾総督、参謀総長、子爵、従二位、七月南満州鉄道創立委員長、七月二十三日自宅で就寝中に脳溢血のため急死。正二位。享年五十五歳でした。(ウツボ)児玉大将を祭神とする児玉神社が、出身地の山口県周南市と、神奈川県藤沢市江ノ島にある。(カモメ)惜しくも若くして他界した児玉大将は人間が大きく、大局的見地から戦略を立てる偉大な軍人でしたが、生きていれば、さらに政治家としても大成しただろうと言われています。(ウツボ)児玉源太郎の死後、長男の児玉秀雄が父源太郎の勲功により、伯爵に陞爵(しょうしゃく)。児玉秀雄は東京帝国大学法学部卒、大蔵省入省。その後、貴族院議員、内閣書記官長、関東長官、拓務大臣、内務大臣、文部大臣等を歴任した。昭和二十二年四月死去。享年七十歳。(カモメ)児玉秀雄の一人娘、貞子は広幡忠康と結婚。広幡忠康は婿養子になり児玉忠康となりました。忠康と貞子の子共が、映画監督の児玉進ですね。(ウツボ)そうだね。児玉源太郎の曾孫だね。児玉進は慶應義塾大学を卒業、昭和二十八年、東宝に入社、映画監督となる。後にテレビドラマの世界で活躍し、ドラマ三〇〇本以上を監督した。昭和六十二年一月に急性肺炎で死去。享年六十歳。(カモメ)児玉進が監督したテレビドラマの代表作は、「青春とはなんだ」「これが青春だ」「太陽にほえろ!」「傷だらけの天使」「大空港」「新ハングマン」などがありますね。【立見尚文(たつみ・なおふみ)大将】(ウツボ)立見尚文は弘化二年七月十九日(一八四五年八月二十一日)生まれ。三重県出身。桑名藩士・町田伝太夫の三男。のち同藩士・立見作十郎尚志の養子となる。(カモメ)立見尚文は、松平定敬が藩主になった時の桑名藩の小姓になりました。少年の頃から風伝流の槍術、柳生新陰流の剣術の使い手として知られていました。藩校・立教館、昌平坂学問所に学びましたね。(ウツボ)そうだね。その頃、一頭の狂った牛が大暴れし、人々が逃げ回っていたところ、立見が一刀でその猛牛を切り伏せたという。(カモメ)藩主・松平定敬の京都所司代就任に伴い、立見尚文は京都で藩の斡旋役を任されました。その後、幕府の陸軍に出向、歩兵第三連隊でフランス式用兵術を学んだのですね。(ウツボ)そうだね。フランス式用兵術のフランス人の教官は、「立見は天性の軍人だ。ナポレオン時代フランスに生まれていたら、立見はおそらく三十歳になる前に将軍になっていただろう」と最大の評価を下した。(カモメ)立見尚文は鳥羽・伏見の戦い大敗した桑名藩の軍制を立て直しました。慶応四年、土方歳三と連繋して宇都宮城を落城させました。桑名藩の雷神隊の隊長(二十三歳)に就任し、鯨波戦争、北越戦争では、官軍を苦しめたのです。(ウツボ)長岡では立見尚文は山縣有朋率いる奇兵隊を打ち破り、奇兵隊参謀・時山直八を討ち取った。山縣有朋は命からがら、逃げ帰って来て、官軍幹部から激しい非難を受けた。(カモメ)その後、立見尚文は会津若松城の戦いで敗走、長岡山で抵抗するが、奥羽列藩同盟の中で最後まで抵抗していた庄内藩が降伏した後に、明治元年明治政府軍に降伏したのですね。(ウツボ)その後謹慎生活を送っていたが、明治三年一月立見尚文は赦免され、明治四年七月桑名県少参事(二十六歳)。明治六年四月司法省十等出仕(二十八歳)。明治七年五月三級判事補(二十九歳)。明治八年八月二級判事補(三十歳)。そして、明治九年十月には、一級判事補(三十一歳)に任命された。
2015.12.11
(ウツボ)山口素臣大佐は、明治二十三年二月少将(四十四歳)、歩兵第一〇旅団長。明治二十七年日清戦争には歩兵第三旅団長として出征。威海衛の戦いに参加。この功により、明治二十八年八月男爵。(カモメ)日清戦争で、旅順に上陸した兵士の間で、吐瀉病が流行った。山口素臣少将は野戦病院を訪れると、兵士の手を握り、背中をなでて、「国家のために捨てる命を、病魔に取られてどうする気か」と大声で励ました。(ウツボ)明治二十九年十月中将(五十歳)、第五師団長。明治三十三年北清事変に出征し、その戦功により、明治三十四年五月勲一等瑞宝章、七月勲一等旭日大綬章、功二級金鵄勲章を受章。(カモメ)明治三十七年三月大将(五十八歳)、軍事参議官、八月七日死去。子爵を追贈される。享年五十八歳。従二位。(ウツボ)山口大将は、とにかく、多数の戦役にことごとく出征・従軍したことから、「戦将中の戦将」と評された。(カモメ)外国勲章も多数受章していますね。レオポルド一世勲章(ベルギー)、オラニエ=ナッサウ勲章(オランダ)、レジオンドヌール勲章グラントフィシエ(フランス)、一等聖アンナ勲章(ロシア)、二等鉄冠勲章(オーストリア)、第一等第三品御賜双龍宝星(中国清王朝)。【児玉源太郎(こだま・げんたろう)大将】(ウツボ)児玉源太郎は嘉永五年二月二十五日(一八五二年四月十四日)生まれ。山口県周南市出身。徳山藩の中級武士(百石)、児玉半九郎の長男。(カモメ)明治元年下士官(十六歳)として函館戦争に出征した後に陸軍に入隊。明治三年十二月陸軍権曹長。明治四年八月陸軍少尉、九月中尉(十九歳)。明治五年七月には、なんと二十歳で陸軍大尉に昇進したのですね。(ウツボ)そうだね。こんなに若くして大尉に進級したのは、あまり聞いたことがないね。明治七年二月佐賀の乱に従軍戦傷を受ける、八月熊本鎮台准参謀、十月少佐(二十二歳)。(カモメ)明治九年十月神風連の乱を鎮圧。明治十年二月熊本鎮台参謀副長として西南戦争の熊本城籠城戦に参加、鎮台司令官・谷干城少将を補佐して、熊本城を守りきったのですね。(ウツボ)明治十一年二月近衛局勤務。明治十三年四月中佐(二十八歳)、東京鎮台歩兵第二連隊長兼佐倉営所司令官。明治十六年二月大佐(三十一歳)。(カモメ)児玉は当時から、性格は明るく、愛嬌があって、上下軍人や同僚からも好かれていましたね。また、遊び好きで、同僚や部下を引き連れて、芸者遊びをよくしました。そのせいで、大借金をした(現在の三〇〇万円くらい)という話も残っています。それにしても軍人としては、スピード出世ですね。(ウツボ)そうだね。二十歳で大尉、二十二歳で少佐、二十八歳で中佐、三十一歳で大佐に昇進している。児玉源太郎は士官学校を出ていないが、非常に頭が良く、独学で軍事学を学び、また、現場の体験を通して、軍人としての資質を養い、また、その功績から、上司から大いに認められるようになった。(カモメ)それにしても三十一歳で大佐とは早い進級ですね。でも皇族は進級が飛びぬけて早いですね。(ウツボ)大正天皇は、十歳で陸軍歩兵少尉、十九歳で陸海軍少佐、その後次々に進級し、三十歳で陸海軍中将だね。 (カモメ)昭和天皇は、皇太子時代、十一歳で陸海軍少尉、十三歳で陸海軍中尉、十五歳で陸海軍大尉、十八歳で陸海軍少佐、二十二歳で陸海軍中佐、二十四歳で陸海軍大佐。その後大正天皇崩御により、昭和天皇に即位、二十五歳で陸海軍大将、陸海軍の最高指揮官たる大元帥となっていますね。 (ウツボ)有栖川宮熾仁親王は三十二歳で陸軍大将だ。有栖川宮威仁親王は二十八歳で海軍大佐。小松宮彰仁親王は二十八歳で陸軍少将。伏見宮貞愛親王は二十九歳で陸軍大佐。 (カモメ)皇族以外では、西郷従道は二十八歳で陸軍少将、三十一歳で陸軍中将。樺山資紀は三十一歳で陸軍大佐、三十四歳で陸軍少将。川村純義は三十八歳で海軍中将。鮫島員規は三十一歳で海軍大佐など、いますね。彼らは陸海軍の草創期の軍人で、いきなり上級士官に任命されるのですね。 (ウツボ)そうだね。外国にもいるよ。アメリカの南北戦争で、北軍のカスター将軍は、二十三歳で陸軍少将に任命された。戦後は中佐の階級に戻ったけどね。第二次世界大戦ではドイツ軍のオットー・エルンスト・レーマーは三十二歳で陸軍少将になった。またドイツ軍のエースパイロットのハンス・ウルリッヒ・ルーデルは二十八歳で空軍大佐になっている。そのほかにもドイツ空軍エースパイロットには二十代で大佐はいる。(カモメ)なるほど。ところで、児玉源太郎大佐は、明治十八年四月勲三等旭日中綬章、五月参謀本部管東局長、七月参謀本部第一局長。明治十九年陸軍大学校監事兼任。(ウツボ)明治二十年六月監事部参謀長、十月陸軍大学校校長を兼任。明治二十二年八月少将(三十七歳)。明治二十五年八月陸軍次官兼陸軍省軍務局長。(カモメ)児玉源太郎少将は、明治二十六年四月陸軍省法務官部長。明治二十七年十二月勲二等瑞宝章。明治二十八年三月大本営陸軍参謀、八月男爵。明治二十九年十月中将(四十四歳)。明治三十一年一月第三師団長、二月台湾総督、三月従三位。(ウツボ)児玉中将は、台湾総督時代、後藤新平を台湾総督府民政局長に任命し、二人で統治への抵抗運動をほぼ完全に抑え、日本は台湾を完全に掌握することに成功した。(カモメ)児玉中将は、身長は一五三センチ位の小男だったが、早くから軍略、政略に優れ、知将としての名声が高く、台湾統治にも大いに貢献しました。
2015.12.04
(カモメ)黒木為もと大将は、明治三十七年二月第一軍司令官、三月日露戦争出征。日露戦争開戦前、黒木大将は同郷の山本権兵衛海軍大臣を訪ねたのですね。(ウツボ)そうだね。会談後、黒木大将が退室しようとすると、山本大臣が「黒木、しっかりやってくれ」と声をかけた。すると、黒木大将は「どうにかなろうぜ」とだけ言って立ち去ったという。(カモメ)強敵を前に戦うとき、「心配するな、敵を存分にやっつけてやる!」と気負って言うよりも、ちょっと出かけるように、「どうにかなるだろう」と言った黒木大将の冷静な態度であったからこそ、勝利したのですね。(ウツボ)そうだね。事実、日露戦争では、第一軍を率いて、鴨緑江から奉天会戦まで連勝し、日本軍を勝利に導き、」ロシア軍からは「クロンスキー」と恐れられた。(カモメ)日露戦争では長年の経験と勘を活かした優れた采配を見せ、快進撃を行ないました。だが、総司令部の意志に反した猪突猛進ぶりで奉天会戦では満州総司令部より再三「進撃中止」命令が出されたのです。(ウツボ)戦後、日露戦争の他の軍司令官は大半が元帥になったが、黒木だけは大将で軍歴を終えている。(カモメ)黒木大将は、元帥府に列せられる二度目の選考にも漏れたことの報告を受けた時、ただ一言「そうか」と言ったきりだったと言われています。(ウツボ)黒木大将ほどの戦功もない大将が次々に元帥になっていったが、明らかに不公平な人事だった。当然元帥に任命されるはずだったが、黒木大将本人がお飾りだけの名誉職としての元帥を嫌ったということもあるが、その強直で荒々しい性格が軍中央で好まれなかったとも言われている。(カモメ)だが、黒木大将は荒々しい性格の反面、高潔な精神を有する軍人でもあったのです。日露戦争でのロシア満州軍総司令官・クロパキトン大将は日本軍に奉天会戦で敗れ、敗北しました。(ウツボ)奉天会戦の前、明治三十七年五月一日に鴨緑江会戦があり、五月六日鳳凰城が日本軍により占領された。(カモメ)その鳳凰城には、クロパキトン大将への贈答品である、素晴らしい花瓶が置き忘れられていたのです。黒木大将は、この花瓶を、クロパキトン大将の司令部へ書面と共に送り届けさせました。(ウツボ)その書面には「願わくは友情の花、この花瓶の中に咲いて爛漫たらんことを」という一文が書き送られていた。(カモメ)数日後、この花瓶を受け取ったクロパキトン大将から、黒木大将あてに礼状が届きました。そこには次のように書かれていたのです。(ウツボ)読んでみよう。「日本人は平時、余が漫遊せし時も、友誼の至らぬことなきを示せしが、今、戦時となるも、敵として頗る美しき精神を有せる者なることを示す。余は、かかる敵と戦い、たとえ敗北しても、決して恥辱に非ずと信ず」。(カモメ)明治四十年四月から六月まで、黒木為もと大将は軍事参議官としてアメリカに出張、九月軍功により伯爵。日露戦争で、鴨緑江会戦でロシア軍を破った黒木大将の人気は、海外では乃木希典大将以上だったのですね。(ウツボ)そうだね。アメリカに出張した黒木大将が、タフト陸軍大臣主催の大宴会に出席した時も、諸外国の皇族、公使がキラ星の如く参列している中、「日本の英雄、即ち鴨緑江の英雄をここに迎えることは未だかつてない。将軍を迎え、我々は大いに歓迎する」とタフト陸軍大臣は挨拶し、黒木大将は主賓扱いだった。(カモメ)黒木為もと大将は明治四十二年三月後備役。大正三年四月退役。大正六年から大正十二年二月まで枢密院顧問。大正十二年二月三日午後十時、肺炎のため東京市青山の自宅で死去。享年八十歳。功一級、伯爵。【山口素臣(やまぐち・もとおみ)大将】(ウツボ)山口素臣は弘化三年五月十五日(一八四六年六月八日)生まれ。山口県萩市出身。長州藩士・山本芳の息子として生まれるが、後に長州藩士・山口義惟の養子となる。(カモメ)奇兵隊に入り戊辰戦争に出征。明治維新後の明治三年九月大阪陸軍教導団に入り、明治四年四月陸軍軍曹、八月少尉、九月中尉、十月大尉(二十五歳)と一年間に三階級も昇進するというスピード出世をしたのです。(ウツボ)明治六年十月少佐(二十七歳)。明治七年一月近衛歩兵第一連隊第一大隊長、佐賀の乱に参戦。明治十年西南戦争に出征。明治十年十一月歩兵第九連隊長。明治十一年十一月中佐(三十二歳)。明治十三年四月歩兵第七連隊長。(カモメ)明治十五年二月大佐(三十六歳)、三月熊本鎮台参謀長。明治十八年五月東京鎮台参謀長。明治十九年五月近衛参謀長。明治二十年九月から明治二十一年六月まで欧米視察。
2015.11.27
(ウツボ)桂太郎は明治二十三年六月中将(四十三歳)、従三位。日清戦争(明治二十七年~明治二十八年)には名古屋の第三師団長として出征したが、海城で苦戦した。(カモメ)明治二十八年八月子爵、功三級金鵄勲章、勲一等瑞宝章。明治二十九年六月台湾総督、十月東京防禦総督、正三位。(カモメ)第三次伊藤博文内閣(明治三十一年一月~)で、桂太郎は陸軍大臣となり、陸軍大将(五十歳)に昇進しました。(ウツボ)桂太郎大将は、第一次大隈重信内閣(明治三十一年六月~)、第二次山縣有朋内閣(明治三十一年十一月~)、第四次伊藤博文内閣(明治三十三年十月)の途中まで、四つの内閣をまたぐ形で陸軍大臣を務めた。(カモメ)桂太郎中将を陸軍大臣にしたのは、山縣有朋であり、桂太郎中将は山縣有朋の後継者と自他ともに認める存在となったのです。以後、桂太郎大将は、軍政家から政治家としての道を歩み始めたのですね。(ウツボ)そうだね。明治三十四年六月二日、明治天皇は桂太郎に組閣を命じ、桂太郎は首相に就任した。第一次桂内閣(明治三十四年六月二日~明治三十九年一月七日)だ。日露戦争時の総理大臣だね。(カモメ)明治三十五年二月伯爵(日英同盟の功)。明治三十九年四月大勲位菊花大綬章。明治四十年九月侯爵(日露戦争の功)。(ウツボ)その後、第二次桂内閣(明治四十一年七月十四日~明治四十四年八月三十日)、第三次桂内閣(大正元年十二月二十一日~大正二年二月二十日)と総理大臣を務めた。(カモメ)これは、西園寺公望と交代で首相を務めたので、「桂園時代」と呼ばれました。この「桂園時代」に、日英同盟締結(明治三十五年一月)、日露戦争(明治三十七年二月~明治三十八年九月)、日韓併合(明治四十三年七月)などを主導しました。(ウツボ)桂太郎は、山縣有朋をバックに、政党と妥協しながら、政治的影響力を浸透させていくやり方で政権維持をはかった。(カモメ)この巧みな温顔による懐柔政策は、「ニコポン主義」と評されました。ニコリと笑って、相手の肩をポンとたたいて相手と融和をはかる桂太郎の常とう手段を称したものですね。(ウツボ)そうだね。桂太郎は、韓国併合の功で明治四十四年四月公爵を授爵された。大正元年八月韓国併合記念章、大正二年十月大勲位菊花頸飾も受章した。(カモメ)韓国併合の功で先輩をしのいで公爵となった桂太郎は、山縣有朋と同じ公爵までのぼりつめました。後には、山縣有朋とも対立するようになったのです。その政権への執着と昇進ヘの慢心ぶりを、明治天皇は、「桂の大天狗」と評したと言われています。(ウツボ)歴代総理大臣の中で、総理大臣在任期間の通算の最長は桂太郎で、二八八六日となった。ちなみに、連続の最長は佐藤栄作の二七九八日だ。どちらも山口県出身だね。(カモメ)首相を退陣した、桂太郎は、ガンが悪化し、大正二年十月十日午後四時に死去しました。享年六十七歳でした。死因は腹部に広がっていたガンと頭部動脈血栓でした。葬儀は十月十九日に増上寺で営まれ、会葬者は数千人にのぼりました。従一位、大勲位、功三級、公爵。【黒木為もと(くろき・ためもと)大将】(ウツボ)黒木為もとは天保十五年三月十六日(一八四四年五月三日)生まれ。鹿児島県下加治屋町出身。薩摩藩士で中級武士であった帖佐為右衛門の三男。のち黒木万左衛門為善の養子となり黒木姓を名乗る。(カモメ)戊辰戦争に四番隊半隊長として出征。鳥羽・伏見の戦いでは薩摩藩の小銃隊を指揮して奮戦、勝利の契機をつくりました。(ウツボ)明治二年二月一番隊小隊長。明治四年四月上京し、七月陸軍大尉任官(二十七歳)、御親兵一番大隊配属。明治五年八月少佐(二十八歳)、近衛歩兵第一大隊長。(カモメ)明治八年二月中佐(三十一歳)、広島鎮台歩兵第一二連隊長。明治十一年十一月大佐(三十四歳)。明治十二年一月近衛歩兵第二連隊長。(ウツボ)その後、黒木大佐は、中部方面監軍部参謀、参謀本部管東局長を歴任。明治十八年五月少将(四十一歳)、歩兵第五旅団長、近衛歩兵第二旅団長を歴任。(カモメ)明治二十六年十一月中将(四十九歳)、第六師団長。明治二十八年一月日清戦争に出征、威海衛の攻撃に参加、八月男爵。明治二十九年近衛師団長。その後西部都督を経て、明治三十六年十一月大将(五十九歳)。(ウツボ)軍人としての黒木為もとは、薩摩武士らしい豪傑肌で、論理よりも経験を重んじる猪突猛進型の軍人だった。面白半分に相撲の相手を挑んで来た明治天皇を容赦なく投げ飛ばし叩き付けたという話も残っている。
2015.11.20
(ウツボ)六月十二日、佐久間大将は高砂族の銃弾や弓矢が飛び交うなか、岩崩のため足を踏み滑らし、約三十メートル下に転落した。(カモメ)討伐中に最高司令官が負傷するのは珍しい事だったのです。だが、心配された傷は順調に回復し、討伐も順調に終了し帰還しました。(ウツボ)この作戦で内外両タロコ部族はほとんど降伏帰順した。八月十二日には内務大臣から祝電が届いた。九月五日には討伐の達成を祝って台北で祝賀会が開かれた。討伐中の犠牲者は警察隊が戦死傷者四二名。軍隊は戦死者六一名、戦傷者一二五名だった。(カモメ)大正四年五月佐久間大将は台湾総督辞任、退役しました。八月五日死去。享年七十二歳でした。(ウツボ)ちなみに、台湾では、佐久間大将が去り、安東貞美大将が第六代台湾総督に就任すると、原住民の武力抵抗運動が再燃し、武装蜂起、「西来庵事件」(タバニー事件)が大正四年に起こり、台湾全域まで発展、日本人九十五人が殺された。(カモメ)この事件はやがて鎮圧され、武力で抵抗した原住民八百六十六人が死刑を宣告されました。だが、大正天皇即位の恩赦があり、日本人の被害者九十五人と同数の、九十五人だけが処刑されたのです。【桂太郎(かつら・たろう)大将】(ウツボ)桂太郎は弘化四年十一月二十八日(一八四八年一月四日)生まれ。山口県萩市出身。長州藩士馬廻役・桂與一右衛門(一二五石)の長男。桂家は毛利元就と同族だね。(カモメ)桂太郎は、名は清澄、号は海城、幼名を寿熊、左中と称し、後に太郎と改めたのですね。(ウツボ)そうだね。家柄の良い桂太郎は当初は正規軍である選鋒隊に編入されたが、元治元年(一八六四年)七月毛利元徳の小姓役になる。第二次長州征伐では志願して石洲方面で戦った。(カモメ)戊辰戦争(一八六八年~一八六九年)では参謀添役や第二大隊司令として奥州各地を転戦しました。だが、庄内藩や仙台藩に敗北し、桂太郎隊長の部下は約二〇〇名いたが、戦死者四一名、負傷者五三名を出したのです。(ウツボ)部下は多数の戦死傷者を出したが、隊長である桂は傷ひとつ負わなかった。その上、戦後、軍功が評価されて、桂には賞典禄(明治維新に功労のあった士族らに給付)二五〇石を与えられた。(カモメ)明治三年八月桂太郎はドイツに留学、木戸孝允(桂小五郎)を訪ね、親交を結びました。ドイツ留学中に、桂はドイツ軍制を学んだのですね。(ウツボ)そうだね。明治六年十月帰国。木戸孝允は陸軍卿・山縣有朋に依頼し、桂太郎を陸軍に入れて、陸軍大尉(二十五歳)に任命した。(カモメ)賞典禄二五〇石を受けた軍歴からすれば、佐官クラスに任命されるのだが、山縣は「陸軍の秩序から、初任の場合はいきなり佐官にしないことになった。しばらく辛抱してくれ」と言ったのです。(ウツボ)すると、桂太郎は「秩序と規律は軍の根幹であります。大尉ではなく、少尉の方が陸軍にとっては良かったと思います」と答え、山縣はご機嫌だった。(カモメ)さらに、山縣の下問に対して「徴兵制が実現したことは欣快に存じます。あとは兵士をどう訓練するかにかかっています」と答えました。山縣は大変喜んだと言われています。(ウツボ)大村益次郎が発案した徴兵制度を推進した山縣は、士族出身者から白眼視されていたのだ。桂太郎は、この時点から、山縣の派閥に組み入れられたという。(カモメ)この様な成り行きから、桂の木戸に対する気配りは大変なものでした。明治七年六月少佐(二十六歳)になり、明治八年三月、桂がドイツに駐在武官として赴任すると、ドイツから月に一度は手紙を出し、珍しいものを木戸夫人に送りました。(ウツボ)また、桂から木戸宛ての手紙の宛名には「木戸尊大人様閣下」となっていた。この仰々しい宛名に、木戸は驚いたが、桂はこういうことを、平然とやってのけた。(カモメ)この様なやり方は、後に堅物の乃木希典が「茶坊主」と言って嫌った、桂の処世術だったのです。(ウツボ)なお、桂太郎は、在ドイツ公使館附武官在任中、ドイツの軍政を詳細に調査・研究した。明治十一年七月帰国すると、山縣有朋陸軍卿に参謀本部独立を建言した。十一月中佐(三十歳)に昇進。(カモメ)参謀本部が設置されると、桂太郎は明治十五年二月大佐(三十四歳)に進級し、参謀本部管西局長になり、プロイセン軍制を範として軍制改革を推進したのです。(ウツボ)そうだね。以後は、桂太郎は、才能もあったが、山縣有朋の引立てで、順調に昇進を重ねていった。明治十八年五月、三十七歳で少将に昇進し、陸軍省総務局長に就任した。(カモメ)さらに明治十九年三月には、三十八歳で陸軍次官に就任しています。しかも、明治二十四年まで五年間も次官として陸軍省を取り仕切ったのです。
2015.11.13
(ウツボ)その後北白川宮能久親王は、陸軍に入り、明治十一年十二月近衛砲兵連隊附きを命ぜられた。明治十二年一月陸軍中佐(三十二歳)。明治十四年十一月大佐(三十四歳)。明治十六年四月戸山学校次長、九月教頭。(カモメ)明治十七年十一月少将(三十七歳)、東京鎮台司令官。明治十八年五月歩兵第一旅団長。明治十九年十二月大勲位菊花大綬章。明治二十五年十二月中将(四十五歳)、第六師団長。明治二十六年十一月第四師団長。(ウツボ)明治二十八年一月近衛師団長、日清戦争に出征したが、日清戦争は終結。その後、近衛師団に台湾鎮定の命が下された。(カモメ)北白川宮能久親王は、台湾征討軍の指揮官となりました。ところが、台湾でマラリアになり、明治二十八年十月二十八日台湾全土平定直前に台南で戦病死しました。享年四十九歳。(ウツボ)薨去は秘匿されたまま、日本に運ばれ、明治二十八年十一月四日陸軍大将に昇進が発表された後に、翌日薨去が発表され、十一月十一日国葬にされた。(カモメ)若き日に僧として静かな生涯を送ることを夢見た、北白川宮能久親王は、明治天皇の命令で、軍人としての道を踏み出し、波瀾万丈な一生を終えたのですね。(ウツボ)そうだね。だが、北白川宮能久親王は、陸軍軍人として、台湾平定の英雄とされ、大勲位菊花章頸飾、功三級金鵄勲章を賜った。(カモメ)北白川宮能久親王は、皇族としては、初めての外地における殉職者となったため、豊島岡墓地に葬られました。(ウツボ)また、台北の剣潭山の中腹にある台湾神社に北白川宮能久親王が祀られ、終焉の地に台南神社が創建されました。さらに、台湾各地に創建された神社のほとんどで、北白川宮能久親王は、主祭神とされたのです。(ウツボ)だが、昭和二十年八月十五日の終戦と同時に、これらの、北白川宮能久親王を祀った、台湾の六十余りの神社は全て取り壊され、現在は靖国神社に祀られている。【佐久間左馬太(さくま・さまた)大将】(カモメ)佐久間左馬太は天保十五年十月十日(一八四四年十一月十九日)生まれ。山口県萩市出身。長州藩士・岡村孫七の次男。佐久間竹之丞の養子となりました。(ウツボ)長州藩諸隊の一つである奇兵隊に入隊、大村益次郎の元で西洋兵学を学んだ。慶応二年の第二次長州征伐の時には、亀山隊大隊長として安芸口に従軍した。(カモメ)戊辰戦争では、日本松、会津を転戦。明治維新後は陸軍軍人となり、明治五年二月、佐久間左馬太は陸軍大尉(二十七歳)として、西海鎮台附に任命されました。同年十一月少佐(二十八歳)。(ウツボ)明治七年二月佐賀の乱平定後、四月佐久間少佐は中佐(二十九歳)に昇進し熊本鎮台参謀長に就任、台湾出兵に従軍。明治八年四月佐久間中佐は歩兵第六連隊長として西南戦争に出征。(カモメ)明治十一年十一月大佐(三十四歳)。明治十四年二月少将(三十七歳)、仙台鎮台司令官。明治十八年五月歩兵第一〇旅団長。(ウツボ)明治十九年中将(四十二歳)。明治二十年男爵。明治二十七年佐久間中将は日清戦争では第二師団長として威海衛の攻略を行なった。戦後の明治二十八年五月占領地総督に就任、勲一等旭日大綬章、八月子爵、十二月正三位。(カモメ)明治二十九年五月近衛師団長。明治三十一年大将(五十三歳)。一時休職後、明治三十七年東京衛戍総督。(ウツボ)明治三十九年四月佐久間大将は、第四代総督・児玉源太郎大将のあとを継いで、第五代台湾総督に就任、頻発する台湾先住民の武力抵抗運動を鎮圧した。その後、台湾の市街地のインフラ、縦貫鉄道の全通、博物館の建設、阿里山森林の伐採などに尽力した。(カモメ)佐久間大将は、台湾政策を積極的に推進し、その陣頭に立って、山に入ったり、現地で指揮を執ったりしました。陸軍大将でありながら、現地で陣頭指揮に当たるのは異例だったのです。(ウツボ)また、原住民である高砂族を日本観光旅行に連れていったりもして、住民融和政策も行なった。これらの功績により、勲一等旭日桐花大綬章を受章。明治四十年叙正二位、伯爵。(カモメ)大正三年五月、佐久間大将は、最大の懸案であった、「内タロコ大討伐」を開始しました。山岳地域の原住民「タロコ族」(高砂族)を平定するためでした。(ウツボ)討伐出動人員は、警察隊三一二七人、軍隊三一〇八人の合計六二三五人で、これに人夫六八〇〇人も参加し、一個師団なみの大部隊となった。(カモメ)佐久間大将は討伐に先立ち、次の様な訓示を行なったのです(要旨)。(ウツボ)読んでみよう。「彼らに対しては、今や勇敢なる日本の大軍と闘うことは無意味であり、まず帰順することを促し、帰順の暁には、狩猟のための銃器弾薬も貸与することを知らせ、その場合巧言令色を以ってして御すべきものではない。誠心誠意をもって説得するよう」。(カモメ)総督・佐久間大将は、自ら討伐部隊の司令官になり陣頭指揮をとって、前線に進出したのです。
2015.11.06
(ウツボ)今日は、空は青く澄み渡り、素晴らしい秋晴れだねぇ~。海を目指して歩きたい位だ。(カモメ)……ヘッド・ハンティング、断られたのですね。ウツボ先生は、怖いものなんてないのですね。(ウツボ)カモメさん、いきなり、どうしたの。(カモメ)再考される余地はないのですか?(ウツボ)カモメさん、マジになっちゃって。……最初からいきなり、その話ですか。(カモメ)気になっていたのです。余計なお世話ですか?(ウツボ)いやいや、……それなら少し話しましょうか。前々から話は頂いていたのだが、先日、社長が「会社の方に来てくれ」と言うから、行ったら、会社と工場を案内してくれてね。見学後、「うちの会社に来ないか」と誘われたのですよ。(カモメ)あの会社は中小企業ですが、しっかりしていますよ。ヒラメが勤めている一部上場の大手化学会社の、関連会社ですから。(ウツボ)そうだね。社長が「エンプラ」と言っておられたが、エンジニアリング・プラスティックですか?…高機能樹脂関連の製品を作っているのですね。(カモメ)そうですね。(ウツボ)俺のポストは、そこの総務系の課長補佐心得ということで、給料も今より大幅にアップするらしいが、俺は丁重にお断りしました。ところで、この話、誰から聞いたの?(カモメ)ヒラメです。先日、「飲もうよ」とヒラメが誘うから、クマノミと一緒にその店に行くと、世界が終わったような顔をして、ポツンと一人で飲んでいて……。この話は社長である、自分の父親から聞き出したのでしょう。(ウツボ)そうですか。社長は、「ウツボ先生、誤解しないでよ。私は、同情や感情で君をヘッド・ハンティングするようなことは“決して”しない。うちの会社はそれほど甘くない。適材適所と見込んだからこそ、こうして頼むんだ」と言っておられたけどね……。(カモメ)……気が乗らないのですか?(ウツボ)ハハハ……確かに今の、俺の国語講師というポジションは、凡庸な下積みの仕事に見えるのだろうね。だが、それでも、ひとかけらの「何か」はあるのです。その大切な「何か」を壊したくない。その中に煌めく星を探して、俺は一人で歩いて行くつもりです。(カモメ)…一人で歩いて行く……そんなこと言われると、俺もクマノミも、……そしてヒラメも、寂しいです。ウツボ先生は、ご自分の気持ちだけを優先されていると思います。(ウツボ)いやいや、そう思わないでよ。……俺の信条はね、「世間」という悪魔に惑わされたくないのですよ……ハハハ。「一人で歩いて行く」というのは、確かに自分だけが決めた「答」です。だが、カモメさん、クマノミさん、ヒラメさん、そして、コノシロくん、サヨリさん、俺たち、みんな、もう一人じゃないのです。(カモメ)“一人で歩いて行くけど、一人じゃない”ということですか?(ウツボ)それはね、俺だけでなく、みんな一人一人で歩いて行くのです。たとえ夫婦でも、それぞれ一人で歩く。だが、助け合いながら一緒に歩く……それは「結婚・家庭」という一局面でね。それで、俺たちも、一緒に海を目指して歩いているじゃありませんか。「戦史という海を目指す」という一局面で。人はそれぞれ複数の局面で生きているのだから、寂しくなんかないのです。(カモメ)ウツボ先生は、失礼ですが、“言葉の遊び”に酔っておられます。現実の“深刻な問題”から乖離しています!……本気でそう思っておられるのですか?(ウツボ)言葉の遊び?……深刻な問題?……カモメさんは、そう捉えるのだね……この件については、また後で話し合いましょう。ここらで、本題に移りましょう、……かなり脱線しているので。(カモメ)そうですね。……分りました。(ウツボ)さて、今回から、「陸軍大将異聞」だけど、歴代の陸軍大将の中から選んで、その特異な軍歴、変わった事案、事件などについて、述べていく訳だね。(カモメ)そうですね。大日本帝国の陸軍中将への進級者は一二〇〇名ですが、陸軍大将に任官したのは僅か一三四名ですね。(ウツボ)その一三四名の中からピックアップして見ていく訳だね。最初は北白川宮能久親王だね。【北白川宮能久親王(きたしらかわのみや・よしひさしんのう)大将】(カモメ)北白川宮能久親王は、弘化四年二月十六日(一八四七年四月一日)生まれ。皇族。伏見宮邦家親王の第九王子。安政五年仁孝天皇の猶子として十一歳で親王宣下された。宣下とは皇族の子女に親王及び内親王の地位を与えることですね。(ウツボ)そうだね。安政六年輪王寺宮慈性入道親王の附弟になり、得度し、法名を公現(こうげん)と称し、公現入道親王と名乗った。慶応三年上野の寛永寺に入り慈性入道親王の隠退に伴って、寛永寺貫主・日光輪王寺門跡を継承した。(カモメ)慶応四年公現入道親王は、戊辰戦争では、幕府側につき、幕府の依頼により、東征大総督・有栖川宮熾仁親王を駿府に訪ね、新政府に、前将軍・徳川慶喜の助命と東征中止の嘆願を行なったのです。(ウツボ)その後、公現入道親王は、寛永寺に立て籠もった彰義隊に擁立されて上野戦争に巻き込まれ、敗北し、東北に逃避した。仙台藩に身を寄せ、奥羽越列藩同盟の盟主に擁立された。東武天皇として即位したとの説もある。(カモメ)明治元年仙台藩は新政府軍に降伏し、公現入道親王は、京都で蟄居を命じられました。明治二年処分を解かれ、明治三年伏見宮に復帰しました。明治天皇の命により還俗し、幼名の伏見満宮(ふしみ・みつのみや)と呼ばれたのですね。(ウツボ)そうだね。明治三年十月勅命によりプロシア国留学を命じられ、軍人の道を歩むことになる。日本を離れドイツに留学、プロシア国の歩兵、砲兵連隊、参謀学校などで兵学を学んだ。(カモメ)留学中の明治五年三月、弟北白川宮智成親王の遺言により、北白川宮家を相続し、本名を「能久」と賜りました。明治七年九月陸軍少佐(二十七歳)に任じられました。明治八年十月プロイセン陸軍大学校入校、十二月勲一等旭日大綬章。(ウツボ)明治九年ドイツ貴族の未亡人ベルタと婚約した。北白川宮能久親王は明治政府に結婚の許可を申し出たが、明治政府は難色を示し、帰国を命じた。帰国の直前、北白川宮能久親王は自らの婚約をドイツの新聞等に発表したため、問題となった。(カモメ)だが、結局明治十年に帰国し、華族会館館長・岩倉具視(いわくら・ともみ・京都・公卿堀河康親の次男・維新十傑の一人・明治新政府参与・外務卿・岩倉使節団・右大臣・太政大臣代理として征韓論を排す・華族会館館長・第十五国立銀行創立・太政大臣・正一位・大勲位)らの説得で婚約を破棄、京都で再び謹慎させられたのです。
2015.10.30
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