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(ウツボ)二十五軍の参謀と近衛師団参謀長・今井亀次郎大佐の対立の中で、円満な二十五軍参謀、杉田中佐、藤原少佐の二人が、両者の間に入って、事態の改善に努力した。(カモメ)二十五軍参謀長・鈴木宗作少将は事務能力の優れた好人物でしたね。近衛師団がバクリで苦戦している時、鈴木少将が戦況視察に近衛師団を訪れたことがありました。(ウツボ)そうだね。第五連隊の本部にやってきたとき、岩畔連隊長に鈴木少将は「今井参謀長については香しくない評判が多いが、自分はそれほどまでではないと思っていた。けれども、今日ここに来る途中、ムアル河渡河点で師団参謀長は眠っていた。いやしくも師団長、参謀長たる者が、師団司令部よりも後方の渡河点で休んでいるような行為は許されない」と激しい口調で語ったというんだね。(カモメ)近衛師団司令部は、実は隷下諸部隊からも評判がよくなかったと記されています。(ウツボ)それは、西村師団長と、今井参謀長の仲が犬猿も只ならずという関係だった。このため師団参謀連中の執務は円滑を欠き、また隷下の部隊長が当惑するような事態に遭遇した事も一度や二度ではなかった。(カモメ)次のようにも述べられています。師団長と参謀長が話しているところを見た隷下部隊長は一人もいなかった。師団参謀が愚痴をもらしたところによると、参謀長が師団長に直接計画案などを説明する事もなかったといわれています。(ウツボ)さらに、師団司令部がバンコックの工業学校校舎に置かれたとき、100メートルもある長い建物の両端に師団長室と参謀長室が設置されたという。通常師団長の隣に参謀長室は設置されるものだが。(カモメ)開戦以来二ヶ月あまり、お互いに話もしなかった師団長も師団長なら、参謀長も参謀長であると。(ウツボ)ところで、「大本営発表・シンガポールは陥落せり」(青木書店)によると、シンガポールが陥落した後、シンガポールで多数の華僑が日本軍により虐殺されたとの記述がある。(カモメ)具体的には、昭和22年9月3日、東京裁判の法廷で、杉田一次元陸軍大佐は、検察官の「華僑五千人を死刑に処したことを、それが、二月二十三日までに実施されたことを、知っておるわけですね」という質問に「それは全部で五千人殺された事は、21日頃から全期間を通じてのことであります」と答えている。(ウツボ)杉田はシンガポール陥落当時中佐で、山下中将の第25軍の情報部主任参謀だった。(カモメ)以前にもありましたが、山下、パーシバルの降伏会見にも出席して、通訳もしています。戦後は自衛隊に入り陸上幕僚長になっている人です。(ウツボ)ところで、パーシバル中将は五百人の捕虜とともに昭和17年8月にシンガポール港から日本陸軍の徴用船で台湾の高雄港に運ばれた。(カモメ)その徴用船の一等航海士だった瀬野喜四郎という人が「昭和戦争文学9武器なき戦い」(集英社)に「パーシバルとともに」と題して寄稿していますね。(ウツボ)そうだね。瀬野氏は当時26歳の一等航海士で、捕虜であるパーシバル中将の世話を申し出て、航海中、自室にパーシバル中将を招き入れ、居住を共にした人だ。(カモメ)彼の話によると、パーシバル中将はロンドンの近く、WAREという町に住んでいて、奥さんと娘と息子がいるとのことでした。(ウツボ)中将は夜は瀬野一等航海士の部屋で寝るが、昼は、英軍捕虜のたまり場に降りて行き、捕虜と共に過ごした。(カモメ)瀬野氏は午後3時になると、中将を入浴時間なので迎えに行く。すると英軍の捕虜達が、瀬野氏の商船士官の制服を見て「あいつは海軍大尉かな?」「短剣吊っちゃいねえ。この船のキャプテンだよ」「でも金筋三本だぜ。それにまだ若いや」などと捕虜達がまくし立てていたということですね。(ウツボ)商船士官の金筋三本は一等航海士(チーフメイト)の階級章だね。二本線が二等航海士、一本が三等航海士だからね。(カモメ)瀬野氏はよく船内新聞を英訳して中将に話して聞かせたということです。ある日「ケント公の飛行機が山にあたって墜落した」という記事があった。(ウツボ)当時の商船仕官は外国航路なら英語も堪能だった。(カモメ)そうですね。瀬野氏がケント公の記事を英訳すると、中将は「英国では濃霧がしばしばかかるので」とつぶやき「ケント公は英国皇帝ジョージ六世の弟君だ。ケント公にはギリシア人の美しい内妃がある」と言った。(ウツボ)ケント公は、当時の日本で言えば、海軍大佐の高松宮宣仁親王殿下に当たる人ではないだろうかね。大正天皇の第三皇子で昭和天皇の弟君ということでね。詳しくは分からないけど。(カモメ)そうですよね。それからパーシバル中将は捕虜達の所に行き、「諸君、謹聴されよ」と言って話し始めたら、一瞬、捕虜達は水を打ったように静かになった。それから、英国の白人達の顔に悲しいかげがはしるのを見たと瀬野氏は記しています。(ウツボ)英国も日本と同じ皇室を大切にする国ですね。戦後、昭和33年、船長となった瀬野氏は英国に航海した時、十六年ぶりに、赤十字社に勤務するパーシバル氏と再会している。(カモメ)シンガポール攻略戦での「イエスかノーかの降伏会見」の勝者、山下奉文中将は戦後、マニラの軍事裁判で戦犯として処刑。敗軍の将、パーシバル中将は、生き延びて赤十字社に勤務。(ウツボ)今は、お二人とも天国で仲良く回顧談にふけっているかも知れないね。(「シンガポール陥落」は今回で終わりです。次回からは「珊瑚海海戦」が始まります)。
2007.10.05
(ウツボ)この「シンガポール総攻撃」(光人社NF文庫)の本によると、マレー作戦終了後第二十五軍の山下軍司令官から隷下師団に感状が授与された。だが、五師団と十八師団には授与されたが、近衛師団には授与されなかった。(カモメ)その理由の一つとして考えられるのが、近衛師団がマレー作戦の最終段階、昭和17年2月10日夜、シンガポール島攻撃のためジョホール水道渡河作戦を実施していた時発生した事件ですね。(ウツボ)師団司令部は、想像もつかないような恐慌に襲われた。さらに完全に指揮能力を失ってしまったと記されている。(カモメ)師団の先頭大隊が舟艇により渡河しシンガポール島に上陸しました。ところが輸送の舟艇部隊を指揮していた独立工兵隊の某小隊長が「(イギリス軍の)砲撃猛烈にして渡河きわめて困難、上陸部隊の大部分が死傷した」と報告したのですね。(ウツボ)そうだね。そしてそれは、上陸点付近の怪火に悩まされて泳ぎかえった下士官からもたらされた「友軍全滅」という報告によって決定的なものになった。(カモメ)この二つの報告は師団長、参謀長以下の司令部職員を悲観のどん底に突き落としたということですね。(ウツボ)そうだね。その結果、西村師団長は参謀長をつれて第二十五軍司令部に出頭し、師団の先頭上陸部隊は全滅した旨を述べ、上陸点を変更すべきであるという意見を提出した。(カモメ)ところが、2月11日の朝になって、前線の状況は順調であり、上陸した戦闘部隊の損害は第二大隊副官杉浦中尉以下数名だった事が判明したのです。(ウツボ)そもそも軍司令官山下奉文中将と近衛師団長西村琢磨中将との間柄はうまくいっていなかった。(カモメ)昭和11年2月26日に勃発した2.26事件当時、陸軍省調査部長・山下少将は反乱軍の青年将校に同情的でした。その時、陸軍省兵務課長の職にあったのは西村大佐でした。(ウツボ)西村兵務課長は軍紀を取り締まり、憲兵を指導していたが、憲兵を使い、山下少将の身辺を監視させていたんだね。(カモメ)そうですね。この時以来、山下中将と、西村中将のしこりは残っていたと言われています。(ウツボ)マレー作戦開始とともに第二十五軍に所属する西村中将率いる近衛師団は、まず、タイ国に進駐し、約四週間、バンコックに滞在している。(カモメ)昭和16年12月中旬、ビルマ作戦を行う第十五軍司令部がバンコックに進出してきました。第十五軍司令官・飯田祥二郎中将と西村中将は親交のある間柄でした。(ウツボ)この時、なんと、西村中将は山下中将の第二十五軍の隷下に入る事をやめて、第十五軍隷下に転属させてもらうよう飯田中将に意見具申したというんだね。その話が近衛師団参謀長・今井亀次郎大佐の口から漏れたんだ。(カモメ)当時「シンガポール総攻撃」(光人社NF文庫)の著者の岩畔近衛歩兵第五連隊長ら師団幹部は、ビルマ作戦より、マレー作戦に参加するほうを希望していたので、この話を聞いたとき、反感を持ったと記されています。(ウツボ)さらに、二十五軍参謀と、近衛師団参謀長・今井大佐との関係も極めて嫌悪な状況にあったんだね。今井大佐は積極有為の人物だったが、極端な負けず嫌いで自身が強く、激情家だった。(カモメ)一方、二十五軍参謀も、より抜きの秀才揃いで、辻政信中佐、朝枝少佐、林少佐など部内に名の聞こえた荒武者が集まっていた。(ウツボ)このような優れた軍参謀たちに対しても、今井大佐の態度はまるで子供扱いであったと述べられている。「経験の浅い若造に何が分かるか」それが今井大佐の本音であったと。
2007.09.28
(カモメ)まず真珠湾攻撃で、米国の太平洋艦隊の主要軍艦を沈めて日本はこれで勝ったと思った国民が大多数だった。(ウツボ)国民どころか、「昭和日本史4・太平洋戦争・前期」(暁教育図書)によると、真珠湾攻撃成功で海軍自体がのぼせた。有名な海軍報道部長・平出英夫大佐が「アメリカ太平洋艦隊は全滅せり」という大本営発表をすると同時に、ラジオ放送で講演をしたんだ。その講演で「ロンドンで観艦式、ワシントンで提灯行列をやる」と言った。(カモメ)平出大佐は「ソロモン海上決戦」という本も昭和18年に出版しています。読みましたが、いわば国民に対する大本営発表の集大成の本ですね。威勢のいいことばかり書いてある。戦史の真実が明らかになっている現在、この本を読めば、反って面白いです。(ウツボ)それは言える。先ほど「ロンドンで観艦式、ワシントンで提灯行列をやる」と講演した翌日、評論家の新名丈夫、当時は毎日新聞の政治部記者だったが、彼が平出報道部長の部屋に行ってみると、軍令部のある海軍少佐が平出大佐の前にあぐらをかいて、くってかかっていたというんだ。「この戦争をなんと思っているんだ、漫才は寄席でやれ」とね。(カモメ)平出大佐は海軍部内でもほらを吹くし、評判はあまりよくない人だった。(ウツボ)とにかくこんな調子で国内が戦勝気分で盛り上がっていたからこそ、ミッドウェイ海戦の敗退は国民に隠され、嘘の大本営発表が行われたという訳だ。(カモメ)だから戦後出た、いろはカルタに「聞いて極楽、見て地獄」というのが出ました。平出大佐の顔写真とともに。(ウツボ)「大本営発表・シンガポールは陥落せり」(青木書店)によると、昭和17年4月8日の朝日新聞に「豪壮壮絶マレー血戦記」(マレー作戦報告~マレー軍主任参謀談)と題して一面、三面の全紙面を使って長文が掲載された。(カモメ)このマレー軍主任参謀というのは実は辻政信中佐で、辻政信が書いた報告書を、陸軍が朝日新聞に掲載し、マレー作戦の全貌を国民に知らせたという訳です。(ウツボ)全部読んだが、とにかく長文だ。この文章は客観的な軍事作戦の解説ではなく、辻中佐の主観的文章で、戦争体験談風なドキュメンタリーだ。(カモメ)俺も読みましたが、ノンフィクションだけに、リアルな戦場の様子が語られており、興味深いですね。(ウツボ)辻政信は戦後も本を出版しており、「潜行三千里」「ノモンハン」「ガダルカナル」など読んだが、どれも主観的な体験記だ。(カモメ)そうですね。辻大佐の記事は戦争を客観的に分析した記述ではなく、どれも主観的な体験記ですね。ノンフィクションなので戦争文学ではないが、文学的要素のある文体ですね。文才のある人ですね。(ウツボ)もっとも辻政信嫌いの元軍人たちからみれば独りよがりの見解で、批判の対象になったらしいがね。(カモメ)ところで、この辻中佐の「マレー作戦報告」の長文を読んで、当時の著名人が感想文を発表していますね。それを紹介してみましょうか。(ウツボ)そうだね。日比野士郎(小説家)「あんな報告は今次大戦を通じて二度と現れない種類のものかもしれない」(カモメ)河盛好蔵(立教大学教授・仏文学者)「不謹慎のお咎めを受けるかもしれませんが、正義の戦いというものは実に面白いものだ、素晴らしいものだというのが正直な最初の感想でありました」(ウツボ)藤森成吉(小説、戯曲)「ふかい感動をもってよみました。特に「督戦などというケチな気持ちではない」という牟田口隊長の件など、戯曲に描いて気持ちにさえなりました」(カモメ)立野信之(小説家)「あの朝、私はいつものように寝床の中で新聞をひろげ、参謀談を読み出したのであるが、途中で涙を催し、これはいかぬと思い、座り直して読んだ。読みながら二度大笑いし、三度涙を流した」(ウツボ)今村太平(映画評論家)「これを読んでつくづく思うことは、今の映画も文学も、この偉大な現実のほんの一旦さえ反映していないということです。そうなると芸術について大いに反省させられます」(カモメ)津村秀夫(映画評論家)「マレー軍作戦主任参謀談は一度読んだ位では勿体ないものである。私はじっくりと二時間かかって読んだが、叉今夜も読み返した」(ウツボ)このように辻の文章を、ほとんどが絶賛している。当時戦争の実態を当事者がこれほど詳細に国民に報告したのは珍しい。(カモメ)とにかく栄光に満ちたマレー作戦は太平洋戦争の緒戦を飾った訳です。だが栄光マレー作戦の陰とも言うべき、実態を暴露した本がありますね。(ウツボ)「シンガポール総攻撃」(光人社NF文庫)ですね。著者は岩畔豪雄氏で陸士、陸大卒。関東軍参謀、軍務局軍事課長を歴任。昭和16年3月から8月まで野村大使とともに日米交渉にあたった人だ。マレー作戦には近衛歩兵第五連隊長として参加した人だ。
2007.09.21
(ウツボ)「シンガポールは陥落せり」(青木書店)によると、シンガポールが陥落した時、日本国内は大本営発表で国民の狂喜は沸騰したんだ。ラジオは終日勇ましい行進曲が流れた。(カモメ)戦時下のラジオ放送は「国内放送非常態勢要綱」(昭和16年12月5日通牒)によって全国放送番組1本になっていますね。(ウツボ)シンガポールの降伏会見が昭和17年2月15日午後7時だったから、翌日の2月16日と17日のラジオはシンガポールの特別番組になった。(カモメ)そして著名人たちの戦争賛美が行われたということですね。そのラジオ番組の中で高村光太郎が「シンガポール陥落」という詩をつくり朗読されています。(ウツボ)そうだね、小説家・谷崎潤一郎も「シンガポール陥落に際して」という題で長文をさ賛美の文を寄せており、それがアナウンサーにより朗読された。(カモメ)志賀直哉も「シンガポール陥落」という題で所感を述べておりラジオで発表されました。(ウツボ)どれもシンガポール陥落を讃える文章で、陸軍をよくやったと絶賛している訳だ。(カモメ)俺もこの戦争賛美の寄稿文は全部読みましたが、文学で高名な作家たちが、どういう思いで戦争を見ていたかがわかる訳ですね。だがすべからく戦争賛美とは意外な気もしましたね。(ウツボ)いや、やはり緒戦で日本軍が勝ったとたんに、戦争批判もできはしない。軍の検閲があるから。また、そんなことしたら、当時は軍部だけでなく、隣近所から袋叩きにあうのじゃないかね。(カモメ)例えば高村光太郎はその詩で「シンガポールが落ちた ついに日本が大東亜をとりかへした」「あまりに大きな感激は むしろ人を無口にさせる」などとすごい賛美の詩を発表しています。(ウツボ)そんな中で、太宰治はすこしニュアンスの違った文を書いている。シンガポールではなく、真珠湾攻撃のときだが、「昭和戦争文学全集4太平洋開戦」(集英社)の中で、「十二月八日」と題して、家庭の主婦の気持ちとして当時、長文を発表しているのだが。その中で次のように記している。『食事のとき主人に対して「日本は、本当に大丈夫でしょうか」と私が思わず言ったら、「大丈夫だから、やったんじゃないか。かならず勝ちます」と、よそいきの言葉でお答えになった。主人の言うことは、いつも嘘ばかりで、ちっともあてにならないけれど、でも此のあらたまった言葉一つは、固く信じようと思った』と。(カモメ)太宰治は戦争末期にかなりの軍部批判をしていますね。(ウツボ)そうだね。ところで、シンガポールに戻るけど、文豪・谷崎潤一郎もすごい長文を寄せている。出だしは「私は、今や無敵皇軍がシンガポールを陥れたと云う快報を耳にして先ず何よりも心にしみじみと感じるのは、我が日本帝国の成長と云うことである。」(カモメ)谷崎潤一郎は恋愛至上主義と自らを公表して、作風も日常生活もそれを貫いた人ですが、そのような人の、この文章は意外な気がしますね。(ウツボ)そうだね。続いて谷崎の文を読んでみます。「思うに二千六百年の長きを誇る皇国の歴史には、過去に於いても輝かしい栄光に満ちた時代が幾度かあった。が、最近の五十年間、詳しく云えば明治廿七八年の日清戦争、卅七八年の日露戦争を経て、今次の大東亜戦争に至る前後五十年間の如き偉大なる期間は、決して今迄になかったと云えるであろう」と述べているんだね。(カモメ)志賀直哉は次のように書いています。「日米会談で遠い所を飛行機で急行した来栖大使の到着を待たず、大統領が七面鳥を喰いに田舎に出かけると言う記事を読み、その無礼に業を煮やしたのはつい此間の事だ。日米戦わば一時間以内に宣戦を布告するだろうというチャーチルの威嚇的宣言に腹を立てたのもつい此間の事だった。それが僅かの間に今日の有様になった。世界で一人でも此の通りを予言した者があっただろうか。人智を超えた歴史の此の急転回は実に古今未曾有の事である。」と。(ウツボ)米英に対して今までに溜まっていた、うっぷんを晴らしたという書き方だね。当時の日本人の国民感情を表している。(カモメ)三好達治も寄稿しています。「ジョンブル家老差配チャーチル氏への私信」と題して茶化した詩的な文を寄せています。その出だしを紹介してみます。「この度はシンガポール失陥 さぞかし御落胆 御心痛のことと お気の毒に存候 先日のレパルス ウェルズ二艦も 存外の沈没にて また香港などもあのようなる御始末 これらを時世とも申すものにや」と。(ウツボ)当時の英国首相チャーチルに対して皮肉な言葉を列挙して、突きつける思いで発表したように思えるね。(カモメ)あの「友情」の武者小路実篤も「日本はなぜ強いか」と題して短文を発表していますよ。「日本は外国に比較して一致団結の力が強いことが第一に挙げられると思う。これは日本の国体の御かげである。天皇陛下の国民全部は臣民として、こころから奉仕する事で、我等は心を一つにしている。」と。(ウツボ)ようするに当時の文学者や知名人、有識者はほとんど、予想以上の戦果、皇軍の強さに、驚いた。(カモメ)戦争末期の皇軍の敗退など夢にも思っていない。当時は日本国民のだれも敗戦など予期していなかった。(ウツボ)しかし、その半年後には日本軍の敗色濃いい状況が生まれてきた訳だから、戦勝気分はもうなくなってしまうんだね。(カモメ)そうですね。シンガポール陥落が昭和17年2月15日で、その年の6月5日~7日にはミッドウェイ海戦、8月7日が、ガダルカナルへの米軍上陸だから。そうなると、知らない国民はともかく軍部の戦勝気分は終わりましたね。
2007.09.15
(カモメ)昭和20年3月、フィリピンのバギオで山下大将が元同盟通信の岩本支局長に語った「イエスかノーかの降伏会見」の話が記されています。(ウツボ)バギオはルソン島の中央にある高原の町だね。山下大将は昭和19年9月、フィリピン方面の第14方面軍司令官に任命されている。(カモメ)岩本支局長に語った内容を要約すると、山下大将は「あのイエスかノーかのことを、世間ではいろいろ伝えているが、あの時わが三コ師団に対して英軍はまだ10万を越す兵力を持っていたのです」と語った。(ウツボ)実は兵力は英軍のほうが圧倒的に多かった。(カモメ)そうですね。山下大将の話を続けます。「あのフォード工場での会見の時、見方の劣勢を気付かれては困ると気が気ではなかったのです。わたしはその場でどうしても無条件降伏をさせなければならないと思ったのです」(ウツボ)山下大将は味方の劣勢を敵に悟られないようあせっていたということだね。(カモメ)そうですね。山下大将の話を続けます。「ところが(通訳を介して話すと)英軍側は無条件降伏というが、これには逐一条件がついていると言う始末です。これは報道班員の中に先輩の息子がいて、英語が出来るので、その人の名誉にと通訳に使ったのです。が、軍隊用語を知らないので、うまくいかない原因だったのです」(ウツボ)英軍のパーシバル中将は無条件を日本側が無条件と誤解したのだね。確かに英語が出来ても軍隊の専門用語が適格に通訳できなかったから誤解が起きた訳だ。(カモメ)だから山下大将はますますあせったのですね。山下将軍は次の様に言っています。「私は早く結論にもっていく為に、通訳に他のことはなにも聞かなくてよい、イエスかノーか、それだけ聞けば良いと言ったのです。ともかくそのことを英軍側に伝え、英軍側もようやく無条件降伏を認めたのです」(ウツボ)その後は、情報参謀の杉田一次中佐(後の第4代陸上幕僚長)が通訳を代わったのだね。(カモメ)そうです。通訳が変わりました。その後はスムーズにいきました。ところで、勝利後のシンガポール入城式も山下将軍は中止しましたね。(ウツボ)そうだね。「戦いはこれからである。緒戦の勝利に酔っているときではない。軍は一切の慶祝を行わず。今日の勝利を明日からの新たなる作戦の首途とする」と隷下部隊長に言明したというんだ。(カモメ)ともあれ、東洋のジブラルタルといわれたシンガポールは遂に陥落しました。(ウツボ)東洋のジブラルタルというのは、こういうことなんだ。ジブラルタルは、イベリア半島南端近くのジブラルタル海峡に向かって突き出した岬にある英国の海外領土で、当時英国の難攻不落の要塞があったんだ。(カモメ)地形的にもシンガポールと同様な位置で、第二次大戦中はイギリス海軍の重要な拠点でしたからね。(ウツボ)そう。ジブラルタル海峡というのは地中海と大西洋の境の海峡だからね。重要な拠点だった。それでシンガポールは東洋のジブラルタルと称されていた。当時はね。(カモメ)現在はスペインがジブラルタルを自国の領土だと主張し領土問題にもなっていますね。現在ジブラルタルの人口は約28000人で主要産業は軍事関係が70パーセント以上を占めていますね。(ウツボ)ジブラルタル空港はスペインとの国境に沿ってあるんだ。イギリス系の住民は13パーセントで、スペイン系の住民が67パーセントだ。(カモメ)またジブラルタルは亡くなったダイアナ妃とチャールズ皇太子の新婚旅行の第一目的地となったのですね。(ウツボ)そうだね。まだお二人が熱々の新婚のころの話だね。(カモメ)またジョン・レノンとオノ・ヨーコもここで結婚式を挙げましたね。日本人も結構観光旅行で沢山行っています。スペインからバスでイギリス領のジブラルタルに入れますから。(ウツボ)シンガポールと同様にジブラルタルは魅力的な観光スポットだね。(カモメ)本当に。行ってみたくなりましたよ。
2007.09.07
(ウツボ)昭和17年1月7日にはスリム川付近で歩兵二個旅団の英・印軍を殲滅した。(カモメ)精強大隊で知られたインドのグルカ大隊のグルカ兵も日本軍にけ散らされ、捕えられましたね。(ウツボ)グルカ兵といえば当時、勇敢で知られる兵士が集まった最強部隊だった。(カモメ)それが日本兵にはかなわなかった。(ウツボ)勢いということもある。1月19日には中部マレーの要衝、クアラルンプールが陥落した。連勝につぐ連勝だった。(カモメ)そして1月31日、山下将軍の第二十五軍はシンガポール島を対岸に見る、待望のジョホールバルに到達しました。(ウツボ)そうだね。マレー半島北部に上陸以来、ここまでの日本陸軍の行軍距離は約千キロ、ちょうど東京ー下関間の距離だ。(カモメ)それを55日間で突破してきた事になりますね。1日平均の進撃速度約20キロ。その間の戦闘回数96回。橋の修復工事は250回に及んでいると記されています。(ウツボ)次はシンガポール島要塞の攻略だ。2月8日、ジョホール水道を挟んだ前方のシンガポール島に対し、日本軍の約440門の大砲が砲撃を開始した。(カモメ)また飛行集団も猛爆撃を行いました。11日夜、シンガポール島に上陸した日本軍はブキテマ高地を占領しました。(ウツボ)15日、第十八、第五の両師団がシンガポール市近くに接近した。近衛師団もシンガポール市の東部に接近した。(カモメ)まるで映画で見るような進撃ですね。破竹の勢いですね。(ウツボ)なにしろ太平洋戦争中、日本陸軍が連合国軍に勝利した数少ない戦いの一つだからね。それこそ映画にしたらいいと思うよ。日本軍が連合軍を蹴散らし、蹴散らし、進撃し、グルカ兵や英軍などを敗退させ、シンガポールを占領するストーリーで。(カモメ)海軍の真珠湾攻撃は何度も映画になっているのですから。是非作ってもらいたいものですね。日本帝国陸軍の数少ない大勝利の映画を。レパルスの撃沈も含めて。(ウツボ)そうだよ。「シンガポールの落日~ヒノデハヤマガタ」などというタイトルにして。(カモメ)ハハハ。それに「イエス、ノー」会見を30分位のクライマックスシーンにすればいいのでは。キャスティングは山下将軍役に横綱の「朝青龍」を起用します。(ウツボ)ええっ、深刻な病状でモンゴルに帰国したじゃないですか。だが、なんとなくはまり役かも知れませんね。(カモメ)ま、これはジョークですが。ところで、ついに昭和17年2月15日午後1時、英軍の軍使が来て停戦交渉をしたいと申し出ました。(ウツボ)それを受けて、15日午後7時、ブキテマ北方約1キロのフォード工場で、山下軍司令官と英軍司令官パーシバル中将の降伏会見が行われたんだね。(カモメ)英軍からは、英軍司令官パーシバル中将、参謀トランス少将、ニュービギン少将、ワイルド少佐、通訳が出席しました。(ウツボ)日本軍からは山下奉文軍司令官、鈴木宗作参謀長、馬奈木敬信参謀副長、杉田一次情報主任参謀ら第25軍の首脳と通訳の菱刈軍報道部員が出席した。(カモメ)パーシバル中将は日本側の要求事項を充分に話し合った後、条件をつけて降伏文書に署名するつもりだったのですね。(ウツボ)だから山下中将が日本側の要求事項を了解したかどうか質したのに対して、パーシバル中将は、市内の秩序維持のため千名の武装兵を残す事を認めてもらいたいと述べた。(カモメ)山下中将はこれを拒絶しましたが、パーシバル中将がいつまでも要求を続けたので、次のような問答が行われたと記されています。(ウツボ)呼んでみよう。山下「英軍は降伏するつもりなのかどうか」。パーシバル「停戦することにしたい」。山下「夜襲の時間も迫っている。英軍は降伏するかどうかを、イエスかノーで返事せよ」。パーシバル「イエス。千名の武装兵は認めてもらいたい」。山下「それはよろしい」。(カモメ)山下中将は細かい話合いは後回しだ、まず降伏するかどうかを決めよという態度だったので、パーシバルとの考えに行き違いがあった訳ですね。(ウツボ)そういうことだね。この「イエスかノーか」は、当時の新聞記者がその言葉だけを誇張して記事に書いたんだね。それで有名になった。後でそのことを山下将軍はものすごく気にしていたんだ。「そうではない」と。(カモメ)そうですね。「丸」別冊「将軍と提督」(潮書房)によると、後に、昭和18年4月初旬、ハルピンの第三連隊の軍旗祭に山下中将が招かれた時の話が載っています。(ウツボ)山下将軍は大佐当時、第三連隊長を拝命しているからね。(カモメ)それで招かれたのですね。シンガポール攻略の山下将軍が臨席されるというので、軍旗祭が終わったあと、かっての部下が出し物を用意して、シンガポール攻略戦でパーシバル中将との「イエスかノーか」の降伏会見の芝居をやって見せたんですね。ところが山下中将はそれを見なかった。(ウツボ)山下中将は昭和18年2月に陸軍大将に昇進しているから、そのときには大将だね。せっかく部下が将軍の晴れの舞台の出し物をやって見せたのに、普通だったら上官として観てやるのだが、山下大将は、それをしなかった。(カモメ)芝居が始ると、山下大将は腹具合が悪いといって、トイレに入って、そして出て、トイレの壁に背をもたれて、そのまま芝居が終わるまでひなたぼっこをしていたと。その芝居は一切観なかったそうです。(ウツボ)この時のことについて後に、山下将軍は西村高級参謀に「あの時は仮病だったのだ」と打ち明けたと言われているんだ。(カモメ)それほど、世紀の「イエス、ノー」会見の芝居を見たくなかったのですね。(ウツボ)それが山下将軍の人柄を表しているよね。
2007.08.31
(ウツボ)真珠湾攻撃は日本時間昭和16年8日午前3時19分、第一次攻撃隊183機が攻撃を開始、暗号「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)を発信した。(カモメ)イギリス軍のシンガポール島要塞攻略のためのマレー作戦は第18師団歩兵第56連隊を基幹とする歩兵第23旅団の支隊が8日午前2時15分頃第一回目のマレー半島コタバルへの強行上陸を行いました。(ウツボ)これは真珠湾攻撃に先立つこと約1時間まえのことだった。(カモメ)このことから太平洋戦争の幕開けは、海軍の真珠湾攻撃ではなく、陸軍のコタバル上陸作戦だったと言えますね。(ウツボ)そうだね。もっとも、この上陸作戦は英軍機の反復攻撃を受けて輸送船の被害が大きかったので、揚陸を中止した。(カモメ)しかし翌9日朝再上陸を行い、夕方には上陸を完了しています。(ウツボ)5師団はシンゴラに8日午前4時10分、バタニーに午前4時30分、無抵抗のうちに上陸した。(カモメ)近衛師団は最初にタイ国に進駐し、陸路を南下したのですね。そして18師団主力は22日にシンゴラに上陸、南下しました。(ウツボ)12月10日のマレー沖海戦で日本海軍航空隊の一式陸攻などが魚雷攻撃により、英国の最新式戦艦プリンス・オブ・ウェールズと巡洋戦艦レパルスを短時間で撃沈して、英国東洋艦隊主力を全滅させた。(カモメ)両艦ともそれぞれ魚雷を5発づつくらって沈没しましたね。(ウツボ)そうだね。あれは、当時世界中が衝撃を受けたからね。真珠湾攻撃とともに世界中が驚いた大事件だね。航空機により浮沈戦艦と言われた大英帝国の軍艦が短時間で撃沈された。(カモメ)大艦巨砲時代の神話は崩壊した訳ですね。(ウツボ)確かに真珠湾でも航空機攻撃で戦艦が沈んだが、あれは奇襲で停泊中だったからね。二隻の戦艦を失って、チャーチルも言ったそうだ「あらゆる戦争で、私はこれほど直接のショックを受けた事は無かった」と。(カモメ)「the fall of Singapore」(サンケイ新聞社出版局)によると、そのときの英国東洋艦隊はZ部隊と呼ばれてプリンス・オブ・ウェールズとレパルスのほかに四隻の駆逐艦から編成されていたのですね。(ウツボ)だから、両戦艦が撃沈されたあと両艦の乗組員は配下の駆逐艦に救助されているんだね。それぞれ乗組員の三分の二位は救助されている。(カモメ)Z部隊はマレー半島に日本軍が上陸した情報を知り、シンガポールを出港して、上陸を阻止する為に北上していたのですね。(ウツボ)そうだね、しかし、その目的は果たせなかった。(カモメ)とにかくマレー半島に上陸した日本軍は急進撃でイギリス軍やオーストラリア軍、インド軍などをけ散らしながら南下しました。(ウツボ)最初の英軍防衛線ジットララインは、英国が少なくとも三ヶ月は日本軍を阻止できると豪語した数線の堅個な陣地だった。だが日本軍は二晩の夜襲でこれを突破した。(カモメ)日本軍は12月17日には航空基地スンゲイパタニーを、19日にはペナン島を占領しました。(ウツボ)有名な自転車部隊「銀輪部隊」も活躍した。自転車に乗って進撃したんだね。(カモメ)実際、この自転車が新兵器として大きな威力を発揮しました。もっとも自転車の多数は現地調達でしたが。(ウツボ)自転車には、小銃、軽機関銃、弾薬、そして重さ27キログラムまでの装備を取り付けていたんだ。その状態で一日30キロメートル以上走ることが出来た。(カモメ)川にさしかかると兵隊は自転車を背負って渡ったそうです。この様な方法で信じられないほどの速さで前進を続けえる事ができた訳ですね。(ウツボ)道路は結構整備されていたからね。ただ川が多く橋は英軍が退却する時に爆破しては逃げたから、日本軍の工兵が修理しては進撃した。(カモメ)ところで寺内寿一南方総軍司令官と山下将軍はうまくいっていなかったと言われています。(ウツボ)元々、反りは合わなかった。昭和16年12月8日に第一回目のマレー半島コタバルへの強行上陸を行った第23旅団の支隊に対して、山下将軍に事前の相談も無く、寺内総軍司令官は感状を授与した。(カモメ)通常はその部隊の上級司令部を通して授与の通知を行いますからね。(ウツボ)だから山下将軍はこれに立腹した。山下将軍は日誌に次の要旨を書き残している。(カモメ)その日誌を読んでみましょう。「支隊が直接総軍から感状を受けることは、指揮を受けるのは25軍ではなく、総軍からということになる。けしからぬ寺内。彼は気持ちよき寝台に臥し、美食し、碁に興じつつ、サイゴンで贅沢な生活をなしおれり」と。(ウツボ)よほど気に障ったと思われる。(カモメ)とにかく日本軍はマレー半島をすごい勢いで南下した。退却する英軍と進撃する日本軍が平行になって南下したこともあるそうだから、すごい話ですね。(ウツボ)日本軍の指揮官は逃げて回りに散らばった英軍を「そんな敵は放っておいて前進せよ」と命令したほどだ。
2007.08.17
(ウツボ)「人間の記録・マレー戦」(徳間書店)によると、マレー作戦は日本帝国陸軍の遠大な計画だった。(カモメ)作戦の特徴は、極東での英国の根拠地、難攻不落のシンガポール島要塞を正面から攻撃しない作戦をたてたことですね。(ウツボ)そうだね。タイ国のシンゴラ、バタニ、タベー、英領マレーのコタバルにそれぞれ兵を上陸しさせ、マレー半島を南下させる計画を立てたのだね。(カモメ)マレー半島を1000キロ南下する計画ですね。そしてジョホール水道を越え、シンガポール島要塞を背後から占領する。(ウツボ)大変スケールの大きなものであった訳だ。(カモメ)昭和16年12月8日、大東亜戦争に日本が踏み切るに際して、陸軍はシンガポールとマニラ(フィリピン)を、海軍は真珠湾を全力をあげて攻略する作戦を計画しました。(ウツボ)いわゆる「三方作戦」を立案した。(カモメ)マニラは極東における米国の戦略基地でシンガポール島要塞と同様に日本に対してにらみをきかしていましたからね。(ウツボ)マレー作戦に派遣されたのは、第二十五軍で軍司令官は山下奉文中将だね。(カモメ)配下の主力部隊は近衛師団(西村琢磨中将・18400人)、五師団(松井太久郎中将・25200人)、一八師団(牟田口廉也中将・17300人)ですね。(ウツボ)注目すべきは五師団で、上陸作戦の得意な車両化も充実した部隊だった。(カモメ)そうですね。歩兵四個連隊で編成され、捜索、野砲兵、工兵、輜重の各連隊があり、人員は二万五千二百人と当時では、群を抜いた最精強師団だった訳です。(ウツボ)その最強師団を帝国陸軍はシンガポール攻略に投入したんだね。五師団は昭和12年、広島管区で動員を完結している。(カモメ)歩兵部隊は広島11連隊、福山41連隊、浜田21連隊、山口42連隊であり、いずれも強力な連隊でした。(ウツボ)参謀本部で当初からマレー作戦計画の立案を担当した国武少佐の証言によると、最初にマレー作戦の計画立案を命じられたのは昭和15年8月だというんだ。(カモメ)その時点で陸軍はもうシンガポール攻略を計画していたのですね。(ウツボ)歩兵42連隊の連隊長、安藤忠雄大佐の回想記によると、昭和15年12月7日「対英米戦争の準備をするように」という極秘命令を大本営から受けたと記されている。(カモメ)「人間の記録・マレー戦」(徳間書店)の中の「第五師団戦闘詳報」によると、昭和16年11月25日、師団を乗せた輸送船団は海南島三亜港に投錨した。(ウツボ)この時、松井師団長は幕僚を伴い第二十五軍司令部に出頭し軍命令を受領したんだ。(カモメ)その命令書は十四項目あり、最後に第二十五軍司令官、山下奉文と署名がありますね。(ウツボ)山下中将は11月25日、サイゴンから空路三亜に着任したばかりだった。それまでは関東防衛軍司令官として満州の新京にいた。(カモメ)山下中将の着任までの経過を述べてみます。関東防衛軍司令官だった山下中将は11月6日上京の電報を受け、8日上京、9日に第二十五軍司令官に親補されました。16日サイゴンに着いて前任者の飯田中将から業務を引き継いだ訳です。(ウツボ)先ほどの二十五軍からの第五師団に対する命令書の第一に「軍の任務は迅速にシンガポールを攻略し、英国極東侵略の根拠を覆滅するにあり」とある。(カモメ)これが日本軍の作戦の意図だった訳ですね。(ウツボ)そうだね。第二に「軍は海軍と協同し、X日未明、南部タイおよび北部英領マレー方面に急襲上陸し、主力をもって一挙ペラク河左岸の線に突進し、渡河点および飛行場を占領確保して爾後の作戦を準備せんとす。X日は別命せらる」とある。(カモメ)このX日は開戦日のことですね。(ウツボ)そうだね。開戦日だ。昭和16年11月30日、第五師団司令部のある輸送船香椎丸に師団の各部隊長が集合した。午後1時半、山下軍司令官出席のもと、松井師団長が隷下指揮官にマレー作戦の歴史的命令を下達したんだ。(カモメ)この時点では、一般将兵にはマレー作戦は知らされなかったのですね。(ウツボ)肝心のX日が決定していなかったからだ。(カモメ)実際にX日が入電したのは十二月二日で、内容は「ヒノデ、ハ、ヤマガタ、トス」でした。(ウツボ)これは暗号で「十二月八日」を意味しているんだね。(カモメ)そうですね。暗号つまり隠語は十一月十七日に決められていました。それは次のようなものでした。X=ヒノデ、一=ヒロシマ、二=フクオカ、三=ミヤザキ、四=ヨコハマ、五=コクラ、六=ムロラン、七=ナゴヤ、八=ヤマガタ、九=クルメ、十=トウキョウ。(ウツボ)従って「ヒノデ、ハ、ヤマガタ、トス」は「X日は八日ですよ」という解読になる訳だ。これに従い第五師団の三亜港出港は十二月四日と決まった。
2007.08.10
(カモメ)シンガポールの名前はサンスクリット語のシンガ・プーラ(ライオンの村)が語源ですね。(ウツボ)サンスクリット語はインドの古典言語で、古代、中世は東南アジアでも話されていた。現在もインドの公用語でもあるが、話す人は非常に少ないということだ。(カモメ)英国が植民地化した国では英語が普及しましたからね。(ウツボ)そう。英語が公用語になっている。(カモメ)現在は、マレーシア連邦から脱退して、シンガポール共和国という独立国ですね。国際都市国家なので日本からの観光客も多いですね。(ウツボ)新婚旅行なんかもよく行きますね。(カモメ)俺の近所の人も行きましたね。とても良かったと言っていました。とにかく現在のシンガポールは魅力的な都市ですね。人口は430万人。人口密度は世界第二位。(ウツボ)ちなみに第一位はモナコ公国だね。(カモメ)ええ。シンガポールはガーデンシティと呼ばれる美しい国土で、ラッフルズホテルなど、有名な高級ホテルも多数有り、観光都市として、リゾート都市として、整備された繁栄した国ですね。カジノ、世界最大の水族館、世界最大の観覧車もできるそうです。(ウツボ)それは、すごいね。俺も行ってみたくなったよ。ところでシンガポール人はほとんど外食で、家で食事をしないらしいね。(カモメ)国民は働き者の華僑が75パーセント以上なので、夫婦共働きが殆どです。だから、そういうことになっているらしいですね。(ウツボ)毎日外食とは、面白いね。さて、ここらで、繁栄を続ける輝かしい現在のシンガポールから過去の歴史に戻ろうか。(カモメ)そうですね。昭和16年当時のシンガポールにタイムスリップですね。(ウツボ)そこで、もう少し山下中将にふれておこうよ。(カモメ)山下将軍ですね。山下将軍は1985年(明治18年)高知県生まれですね。(ウツボ)山下将軍は、「マレーのトラ」やパーシバル中将の降伏会見で「イエスかノーか」など勇猛な将軍として知られていますが、実は感情細やかな、人道的なやさしい人だったんだね。(カモメ)そうですね。「丸」別冊「将軍と提督」(潮書房)によると、山下大将は先ほども出ましたが、高知県の大杉村に生まれ、父は医者でしたよね。(ウツボ)山下は軍人になってからもよく「もう少し俺の頭が良かったら、きっと医者になっていただろうな」と言っていたという。(カモメ)小学校の教師から医師の検定をとった父、十八歳で同じく医師の検定をとり、後に海軍軍医学校に入り、軍医少将となった兄、奉表(ともよし)を尊敬していたということです。(ウツボ)もともと好戦的な人ではなかった。昭和15年9月、日本軍が北部仏印に進駐したとき、山下将軍は沢田参謀次長に「おい、あまり手をひろげるな」ときびしく忠告した。(カモメ)戦争直前の昭和16年にも旅順で「日独伊三国同盟を拡大解釈して、米英に対して宣戦すべしなどと、かりそめにも言ってはならぬ」と部下に訓示していますね。(ウツボ)2.26事件のとき山下将軍は皇道派で事件を起した青年将校に同情的だったんだね。これが天皇陛下の心証を害した。一方東條英機は統制派の流れを汲んでいたので、最期まで山下と和合する事は無かった。(カモメ)それで、事件以後山下将軍は、人事で不利な待遇を受け続けてきましたね。(ウツボ)昭和16年7月16日、第二次近衛内閣が総辞職すると、陸軍大臣は東條に代わって山下将軍が就任するという空気が強かった。東條はそれを恐れて、満州に関東防衛司令部の設置を急ぎ、17日に山下将軍を関東防衛司令官に任命した。(カモメ)シンガポールを陥落させた時も上京して天皇陛下に拝謁することも許されずに昭和17年7月、満州国にある第一方面軍司令官に左遷されましたね。(ウツボ)そうだね。そして戦況が悪化すると昭和19年9月、第14方面軍司令官に任命された。これはフィリピンだ。(カモメ)内地に帰ることなく、いつも外地の司令官ばかりやらされた訳ですね。(ウツボ)結果的にそうなっているね。最後はフィリピンのルソン島バギオで連合軍に降伏した。そしてマニラの軍事裁判で戦犯として死刑の判決を受け、昭和21年2月23日、絞首刑に処せられた。(カモメ)軍人の運命は人事に左右されますね。このようなことから山下大将は「悲劇の将軍」と呼ばれる訳ですね。
2007.08.03
(ウツボ)今回から探索していくシンガポール攻略作戦の主役は何といっても、イギリス軍のパーシバル中将と、日本の山下奉文(ともゆき)中将だね。(カモメ)山下奉文中将はシンガポール攻略では当時「マレーのトラ」などと呼ばれ恐れられ、世界中で有名になりましたね。(ウツボ)そして最期はフイリピンで、悲劇の将軍として終わったね。(カモメ)そうですね。山下中将は特に東南アジアでは知られていますね。現在のフィリピンでも、若い人でも「ジェネラル・ヤマシタ」として知っている人が多いとか。(ウツボ)いや~、カモメさんもよく知っているね。本当にそうなんだよ。現在でも、フィリピンから出稼ぎに日本に来ている若い女の子なんかでも「ジェネラル・ヤマシタ」の名前は、ほとんど知っているという話を聞いたことがあるんだよ。(カモメ)ウツボ先生、今、「話を聞いたことがあるんだよ」と、噂話で聞いたようにおっしゃいましたよね。(ウツボ)そうそう。(カモメ)そうそう、じゃないでしょう。先生がフィリピンの女の子にじかに聞かれたんじゃないんですか。(ウツボ)いやいや。(カモメ)ごまかしてもだめです。このあいだ潮風リサイクルに行ったとき、店主のアオザメさんから話は聞いておりますから。(ウツボ)ちょっと、カモメさん。話が横道にそれてるんじゃないか。(カモメ)今までいつも、俺が横道にそらされて、さんざんな目にあっているので、たまには先生も横道に入って下さいよ。(ウツボ)ちょっと待ってよ。俺、横道は嫌いなんだ。大道がいい。(カモメ)いえ、いえ、今日はズバリいきます。アオザメさんが言ってました。ご一緒したお店でウツボ先生がフィリピンの女の子と英語の練習をしてたと。そのときアオザメさんは確かに聞いたと、「ドゥ ュー ノウ ジェネラル・ヤマシタ?」。先生が今までに見たこともないニヤニヤ顔で女の子の肩に手をまわして、聞いたこともないカタコト英語で話しかけるのを。「あれぐらいの英語はワシにも聞き取れたよ」とアオザメさん言ってました。(ウツボ)全く、あのおじいさん、年を取っているくせに、本当におしゃべりなんだから。でもアオザメさんは商売柄、誇張して話される傾向があるから。時には、ないことも話されるようだよ。(カモメ)ええ、そうなんですか?(ウツボ)以前俺に、アオザメさんから、「オーストリアの「ハクスブルク」帝国の軍刀があるから見に来い」という電話があったんだ。(カモメ)「ハクスブルク」帝国ではなく「ハプスブルク」帝国じゃないんですか。(ウツボ)そう。その時点で、俺はあやしいと思ったんだ。それでも、とにかく行って見てみると、渚さんがすでに来ていて、その「ハクスブルク」帝国の軍刀を手にとって、すっかり気に入っている様子だった。(カモメ)渚さん買ったんでしょうね。(ウツボ)それから渚さん得意の値切りのパフォーマンスが始って、そして最終的にアオザメさんが負けた。(カモメ)負けて、勝った。(ウツボ)ところが、残念ながら、違うんだ。あとで渚さんに俺は言ったんだ。その「ハクスブルク」帝国の軍刀は実はフランス軍の銃剣のような気がすると。すると渚さんは言った。「だから値切ったんだ」と。(カモメ)ほう。あまり面白くない話ですね。ところで、元の話にもどりましょうよ。「ドゥ ュー ノウ ジェネラル・ヤマシタ?」の話に。(ウツボ)いや、カモメさん。もうやめようぜ、マジで。早く本論に入らないと。(カモメ)どうも煙に巻かれたようですが、まあいいでしょう。今回はこのぐらいで許してあげましょうか。では、イギリス軍の難攻不落と言われたシンガポール島要塞の陥落について対談を重ねていくのですね。(ウツボ)そうだよ。タイトルがそうなっているじゃないか。(カモメ)まあまあ、おだやかにおねがいしますよ。(ウツボ)アハハ!では、やりますか。カモメさんはシンガポールについてどのような印象を持っていましたか。(カモメ)実は俺はシンガポールはあまり知りませんでした。行ったこともないし。それで、今回調べたのですが。現在のシンガポールは大変魅力的な都市だと思いました。(ウツボ)最初に、現在のシンガポールを調べたのですね。(カモメ)いや、さわりだけですよ。まず現在のシンガポールを少しでも知っておけば、過去の歴史がより浮き出ると思うのです。(ウツボ)なるほど。
2007.07.27
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