京都の珈琲職人

京都の珈琲職人

■小川珈琲創世記


「一人ひとりがコーヒーのプロになれ」がモットー

1952年(昭和27年)、小川珈琲は京都で産声をあげました。創業者は小川秀次(先代社長)。太平洋戦争で出征した戦地ラバウルでコーヒーと出会ったのがきっかけで、戦後、コーヒーの卸売り事業を始めたのです。

創業当時の社員は秀次社長も含めてわずか3人でしたが、「一粒の豆を大切に、一人ひとりがコーヒーのプロになれ」をモットーに、おいしいコーヒーを京都の町に地道に広めていきました。

おりしも1950年代後半からは日本全国でジャズ喫茶、歌声喫茶などが流行し、1960年代後半から70年代にかけては経済の高度成長とともに純喫茶ブームが起こります。店主白らコーヒーを淹れるこだわりの店も増えていきました。

こうした時代の流れのなかで、小川珈琲の卸売り事業は着実に成長を遂げ、社員数も1966年(昭和41年)の時点では十数名になっていました。
 いざなぎ景気が始まり、ザ・ビートルズが来日し、日本の人口が一億人を突破した年のことでした。

■本物の味とコミュニケーションを大切にする【営業姿勢】

当時の営業スタイルは、現在のように自動車ではなく、バイクを使ったものでした。
 先代社長がバイク好きだったということもあり、営業バイクはスポーツタイプ。
一度にたくさんコーヒーを積むことができないため、木箱で荷台をつくって後部に設置し、さらに座席の前後にも荷物を積んで配達して回りました。

 それでも注文に配達が追いつかず、会社と喫茶店(お客様)を一日に何度も往復する毎日。ついにはコーヒーの焙煎が追いつかず、喫茶店には焙煎したての熱々のコーヒーを紙袋に入れて配達するほどでした。

小川珈琲の場合、営業といっても単にコーヒーを売るだけが仕事ではありません。お店のメニュー作りから、定休日をいつにするかまで、営業マンはお客様とともに考え、親身になって多くのお店づくりを支えていきました。

 たとえば定年退職後、ずっと夢だった喫茶店を始めたマスターから、オープン前に「いま隣で工事をしているが、音も騒がしいし、ホコリも飛んでくる。こんな状態でうちは店を開けるべきだろうか?」と梱談の電話がかかってきたこともありました。

 営業マンも人間。たくさんの喫茶店を回るうちに、白分をとくに必要としてくれるお客様には思い入れも生まれてきます。コミュニケーションを大切に、コーヒーに入れ込むマスターとは売上を抜きにして絆を深めていきました。

こうした営業マン一人ひとりの日々の活動によって次第に小川珈琲のファンが増え、1日3-4件の新規のお客様から電話がかかってくるようになりました。
 大豆やオクラを煎ったものをコーヒーに混ぜて売ることが当たり前のように行われていた時代に、味に誇りをもって「おいしい本物のコーヒーをお客様にお届けする」という、小川珈琲の心意気と妥協のない一貫した姿勢があったからこその結果といえるでしょう。

 気がつけば、当初350軒ほどで始まった喫茶店のお客様はやがて1000軒を超える程になっていました。

■小川珈琲の【独自ブレンド】が次々誕生

…当初、コーヒーはお客様の要望に合わせて一軒一軒ブレンドしていました。しかし、次第に「小川珈琲のコーヒーはおいしい」というお客様の評価が定着してきた結果、小川珈琲としての味を提案できるまでになっていきました。
 そこで、社員全員が集まってそれぞれ自慢のブレンドを出し合い、小川珈琲のブレンドの味を決めようということになりました。
 どの社員のブレンドか分からないよう目隠しをして試飲した結果、全員一致で選ばれたのが、先代社長の考案したブレンドです。

後にそのブレンドは小川珈琲の「マイルドブレンド」となり、もう少し強みのある味として「ストロング」が、さらに強みのある味として「ハイストロング」が、逆に、もう少し柔らかい味をということで「ソフトブレンド」が生まれました。
 こうして小川珈琲の定番ともいえる独白ブレンド商品がラインナップされていったのです。

小川珈琲の味づくりの根本にあるのは「正直」です。
本物の味に対する徹底したこだわり。その真っ直ぐな思いは、「私たちは珈琲職人として本物の価値ある商品を創り、真心をもってお客様にお届けする」という企業理念のなかに、いまもしっかりと受け継がれています。


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