海洋冒険小説の家

海洋冒険小説の家

(7)広く美しい南蛮風の・・・

     (7)

 広く美しい南蛮風の部屋に案内された。壁は白く塗られており、天井から蝋燭の付いた燭台の一杯ついたものがぶら下がっていた。壁にはフィレンツェの絵師が描いた婦人像や、港の風景の絵がかかっていて、美しい机には皿や箸が置かれている。四人はそれぞれ囲むように椅子に座った。先ほど玄関に出てきて、案内してくれた弥兵衛じいさんの料理である。なんでも足利家包丁人の何やらいう人に、調理法を教えてもらったそうだ。これから食べる料理は、以前、エウロペはフィレンツェのレオナルド・ダ・ヴィンチの手稿の写しを手に入れた時、その中に偶然入っていた料理法だという。公秀殿は、ダ・ヴィンチが、人を乗せて空を飛ぶ装置を考察したと、なにかの本で紹介されていたのを読んで、助左衛門を通じて手に入れたのだった。レオナルド・ダ・ヴィンチは南蛮暦の1519年に六十七歳で亡くなっていて、手稿は遺言で愛弟子に渡された。公秀殿はダ・ヴィンチを深く尊敬していて、絵師としても、学者としても天才だったといつも言っていた。

 助左衛門は高くついた買物だったと今も印象に残っている。例のイスパニアの商人が、どのような方法で手に入れたかは分からないが、とにかく、法外な値段、百貫文(約1000万円)ほどを吹っかけたのだ。勿論、そんな値段では引き取れず、五十貫文に値切った。それでもなんとなく高い感じがした。「その中に料理のことが書いてあったって?」助左衛門はつぶやいた。

 弥兵衛殿が皿を運んできた。真っ黒い料理が載っている。
 「これは、かの国ではパスタと呼ばれていて、麦の粉でつくる。わが国のうどんとよくにておる。しかしうどんと違って腰がある。一度ゆでたあと、鉄の平鍋で油、ごま油ではないぞ、鶏か豚でもよい。その油をひいてかるく炒める。これを皿にとる。菜はフィレンツェの物が手に入らなかったので、これからは弥兵衛の考えたものだ。せり、茄子などの菜を刻んだものに、南瓜も薄く切り、水で戻したスルメを輪切りにしたものを合わせて油で炒め、塩、胡椒、イカスミを加えてかき混ぜる。これを皿のパスタの上にかけ、熱いうちに食べる。どおや?」
 三人とも、ふーふーっといって、うまそうに食べていた。
 「ただ、汁のない真っ黒けのうどんというだけやないか」
 助左衛門たちの顔にはそのように書いてあった。
 「これは本来、箸を使うのではなく、漁具の三つ又のヤスを小さくしたような道具(フォークのこと)で、パスタをくるくるっと巻いて食べるのであるが、京の職人に作らせたものがある。弥兵衛、皆に配ってくれ」
 ひとりずつそれを渡した。
 「それ、このようにして、皿の上でくるくるっと回してパスタを巻きつけ口に入れる」

 三人は思わぬ展開にドギマギしながら、この慣れない道具と格闘し、口のそばまでパスタを運びながら、ついパスタを取り落としては、また挑戦を繰り返した。その姿を横目で見ながら公秀殿は、笑いを噛み殺しつつ、満足そうにパスタを要領よく口に運んだ。
 「このパスタ料理はダ・ヴィンチ殿が考えられたものなんですか?」
 助左衛門がやっとの思いでパスタと格闘し終わった後で聞いた。
 「さあ、それは分からない。なにしろ手稿の写しだからな。しかし、彼の地でパスタといえば、暑くて平べったいものを言うそうだから、さあ、考えたのかも知れず、考えなかったのかも知れず、ただ、料理が巧みだったという噂もあるし」
 そう言いながらニヤリと笑った。助左衛門は「なーんや嘘くさいな」と思ったが、なにしろ博学の公秀殿が言うのだから、嘘とは決め付けられない。

 この公秀殿との付き合いは十五年ほどになる。この師と仰ぐ人からポルトガル製の海図の見方や太陽と星の観測機器の扱い方、船の位置の計算の方法など、多くのことを学んだ。公秀殿は落ちぶれた公家の家など再興するつもりは毛頭なく、自由に学問をする道を選んだ。本来ならば、橘の大納言公秀などと呼ばれる身分なのだ。人は陰陽師というので、そういわせている。陰陽師であれば、誰でもなれるわけであるし、それに、おんみょうじ、という言葉に、人を不思議な気持ちにさせる響きがある。なにか摩訶不思議なことをする仙人を感じさせる。
 「これからの世にもう公家などの出番はない。これはもう、京の公家衆のほとんどの者はわかっておる。」
                  (続く)




© Rakuten Group, Inc.
X
Design a Mobile Website
スマートフォン版を閲覧 | PC版を閲覧
Share by: