キリスト信徒やまひでの心の窓

キリスト信徒やまひでの心の窓

☆歎異鈔を読む



 浄土真宗の開祖、親鸞(しんらん)上人の言葉を集めたものです。
「他力本願」。救済への道筋は、キリスト教とよく似ています。

 ではご一緒に歎異鈔をひもどきましょう。合わせて聖書の言葉を比較してみます。

 「弥陀の本願には老少善悪の人を選ばれず、ただ信心を要とすと知るべし(中略)
 しかれば、本願を信ぜんには、他の善も要にあらず、念仏にまさるべき善なきゆえに。
 悪をもおそるべからず、弥陀の本願をさまたぐるほどの悪なき故にと」 歎異鈔第1条

 (大意)
 「ただ阿弥陀様のお心におすがりして、仏名を唱えれば、だれにでも極楽浄土が約束されます。善行をする必要もありません。悪業をしていたとしても阿弥陀様の御心を痛めるほどのものはないのです。」

 これと意味がよく似ている聖書の言葉をご紹介します。
「イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません」ローマ3章22節

 「弥陀の本願」(阿弥陀様の御心)は、聖書の神様の御心とよく似ているのです。
 「神は、すべての人が救われて真理を知るようになることを望んでおられます。」テモテ1,2章4節

 「神の本願」を実現するため、神は御子イエス・キリストをこの世に送られました。キリスト様が十字架にかかって、ただ信じるだけで、お頼りするだけで救われる赦しの道を開いて下さいました。「ただ信心を要とすと知るべし」

 自ら病者であり、ハンセン病者への伝道に一生をささげた大日向繁牧師は、若い頃、勧められて、聖書を読みました。しかしイエス様がなさった奇跡を信じられず、途中で読むのをやめてしまったそうです。
 同病の奥さまと何回か心中を試みたが失敗し、自殺をあきらめ、再び聖書を読み始めて、一つの言葉に出合いました。
 「父よ、彼らをおゆるし下さい。自分が何をしているのか、知らないのです。」(ルカ23章34節:十字架上のキリストの言葉)
 大日向繁さんは、ここで「神の本願」に出合いました。自分を十字架に付けた者たちのために赦しを祈るなんて、人間ができることではない、と思ったそうです。
 そこまでして人間のゆるし(救い)を願われるのが「神の本願」だとわかって、キリスト教徒になりました。 

 「悪人正機」について
 「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」 歎異鈔第3条

 「阿弥陀様の本願」とは、悪人をこそ救うこと。善人でさえ、浄土に行くことが出来るのなら、悪人は、なおさらだと語っています。善人は、自分の行いのために、阿弥陀様にお頼りする機会は少ないのに、悪人は自分の内に良いものがないことをつくづく知っているので、阿弥陀様にお頼りする機会は、善人よりも多いからです。
 キリスト様の御言葉と比較しましょう。
 「心の貧しい人々は幸いです。天国は彼らのものだからです。」マタイ5章3節
 「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である(中略)わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」マタイ9章12節
イエス様も「悪人正機」ですね。


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