キリスト信徒やまひでの心の窓

キリスト信徒やまひでの心の窓

★良いサマリヤ人


「あなたの隣人とはだれか」

 イエスさまを亡き者にしようとねらっていた学者が現われて、質問した。
 「何をしたら永遠の生命が受けられましょうか」
 知ってることをわざわざ訊いたんだ。
 イエス様、逆に質問をされた。
「ご専門の旧約聖書には何とかいてあるんだね」
 学者は得意になって答えた。
「神を愛せよ、そして隣人をも」
イエスさまは「答えは正しい、その通り行いなさい」と太鼓判を押された。
 この学者は負けてないぞ。また質問してイエスさまに絡んだ。
「では私の隣人とはだれのことですかぁ」
イエス様はこの問に答えようと、話し始めた。それが有名な「良いサマリヤ人」のたとえ話だ。

 この物語は、ある人が旅の途中で強盗に合い、襲われ、瀕死の重傷を負わされて倒れているところから始まっている。
 二人の人が通りかかる。始めは祭司と呼ばれる人で、次はレビ人。祭司は神殿の儀式をする人、レビ人は儀式のため祭司の助けをする。彼らは特別な服装をしていたのだろうな。
 二人とも瀕死の重傷を負って倒れている旅人を見て、向う側を通って行ってしまったと。
 倒れている人がもし自分の妻なら、自分の子供なら身内なら、また仲間なら、近所に住んでいる人ならきっと助けたんだろうに。
 それからサマリヤ人が通りかかった。
 サマリヤ人はユダヤ人からの嫌われ者だった。そのサマリヤ人が、傷ついた旅人に近寄り、介抱した。そして自分の家畜に乗せて旅館に連れて行き、傷がいえるまで面倒を見るように告げて行った。
 彼には憐れみの心があふれていた。身分も、人種も、性別も、身の危険も問題ではなかった。

 イエス様はこう話されて、くだんの学者に最後の質問をした。
「だれが、強盗に襲われた人の隣人になったか?」
 学者はもう質問をあきらめていった。「親切にした人です」

 イエス様の慈愛の声が聞こえた。
「あなたも行って同じようにしなさい」

 さて、ボクたちはサマリヤ人のように生きられるだろうか?
 こんな無償の愛を持ち、無償の愛を注げるだろうか?
 見ず知らずの旅人を、ボクたちの隣人ととしてお世話できるだろうか?

 倒れている旅人を、よく見つめてみよう。傷つき、血を流しているこの旅人は、真実の愛の形は知っていても、その愛にほど遠いボクたち罪人の姿なんだ!
 ボクたちは自分自身の罪に傷ついて、血を流して倒れている旅人なんだ。

 イエス様は言われた。
「すべて重荷を負うて苦労している者は、私のもとに来なさい。あなたがたを休ませてあげよう。」
 イエス様は、あなたのその罪のために私は十字架にかかったのだ、あなたの罪の重荷を私のもとで下ろしなさい、と言われる。
 自分が傷ついている者であることを認めて、良いサマリヤ人であるイエス様のもとに行く時、イエス様は、ご自身の十字架の血潮でボクたちを癒して下さる。


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