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先週でしたか、NHKテレビで見ました。北海道の湿原に生える「ヤチシンコ」と呼ばれる木。やせた土壌のために、一生花を咲かせることが出来ない。それでも、広大な湿原に静かに生き続ける。一生花を咲かせられなくても、生き続ける。そうだ、ボクたちも、たとえ人生にきれいな花を咲かせられなくても、生き続けることこそ、大切なんだ。「生きること」って、それほど大切なんだ。
2003年07月29日
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季節の中で生きている。春は春の喜び、夏は夏の喜びの中を。同じように、信徒は聖書を読む。毎日、多くても、少なくても、聖書を読み続ける人だ。読み終われば、また最初から読み始める。「春夏秋冬の聖書通読」と呼ぼう。信徒はそのような生涯を送る人だ。ボクもそのようにして、今朝はイザヤ書40~41章を読んだ。もっとたくさん読みたかったけれど、どうしてもたくさんは読めない。聖書の言葉を通して、これはどんな意味かと考え込み、そこでとどまってしまう。あるいは自分の心が映し出されて、それ以上進まなくなってしまう。
2003年07月28日
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夜の礼拝にはだれも来なかった。時間が少し遅れて、妻と2人で賛美を歌う。お祈りをする。それから2人で交互に聖書を読み合った。またお祈りをして「主の祈り」をして、終わり。いつもは1時間の集会だが、30分で終わってしまった。終わってから妻が、「あらまだこんな時間?」とうれしそうに言った。9時からNHKで放映する南極の特集番組を見ようっと。ではさようなら!
2003年07月27日
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仕事でブラジルを行き来される方が、時々、コーヒーを買ってきてくださる。濃いブラウンほとんど黒色に近く粒子がわからないほど細かく挽いてある。スプーンで粉をサーバーに取り、湯を注いでも玉になり、しばらく沈んで行かないのである。それでも湯が沈み始めるとすぐに下から黒っぽいコーヒーが出てくる。口に含むと苦みがきつい。それでもブラックで飲む。適量を誤って、苦過ぎてしまうと、湯で薄めねばならない。その方が言うには、これがブラジル人が飲むコーヒーだそうだ。日本への輸出用はマイルドなのを別に作っていると。このコーヒーを飲みにいらっしゃい。
2003年07月26日
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泊まり込みの集会に行ってきました。仲間の牧師たちが入れ替わり立ち替わり、聖書のお話(説教)を聴かせてくださいます。その前後に賛美歌を歌う時間や、お祈りがあります。数えてみたら15人の牧師さんが、お話しされました。自分の経験談を織り交ぜながら、とつとつと、あるいは流れるように話す人、さまざまで楽しかった。「今日まで、神様を信じてきて良かったんだ。 生きていて良かったんだ。」と聞き手を励ませるメッセージを語りたいです。
2003年07月25日
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愛することにおいて 過つことのないように赦すことにおいて 過つことのないように従うことにおいて 過つことのないように
2003年07月24日
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一太郎(ワープロソフト)一筋なんです。「一太郎」の前身と言われている(名前思い出せない)ものから。それは、NECのPCー100と言われていたマシンに添付されていました。98(キュウハチ)が出始めた頃です。5インチ2Dの大きなフロッピ2枚で運用できました。当時は画期的な熟語変換で、ユーザー辞書がいくらでも作れることに、感動しました。DOS版V4、V5、ダッシュ、ウインドウズになってV5、V6、Lite、Lite2、V8、V9、V10と使っています。V7は不評だったので使いませんでした。今は、LiteとV10を使い分けています。V4の頃と、ほとんど変わっていないと言うのが印象です。(汗)一太郎は、Dos版のV5あたりが一番かっこよかったかな。
2003年07月19日
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朝の祈りでこんな聖句に出合った。「飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」 ガラテヤ6:9「飽きずに励む」と「時が来て実を刈り取る」の2つの言葉が、ボクの心にぴったり納まった。それから、ボクの心に納まっていたもう一つの聖句が思い出された。それは「ときが巡り来れば実を結ぶ」という詩編の一句。だから今日も一生懸命に励もう。
2003年07月18日
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夏の風サラサラ・・・・ああ快い梅雨の終わりをためらうように日射しはおだやか草木のそばにたたずんで光に、一緒に包まれていよう季節は夏
2003年07月17日
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おーい、わが子たちよ。お前たちが真剣で、適当に遊んだり、悩んだり、親に心配かけたりしているのを、そばで見ていると、うれしくて胸が熱くなるよ。
2003年07月09日
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いつもラフでだらしない格好しているので、「もう少し、ちゃんとしたら~?」と言われたことがある。ブレザーにネクタイしている所を見られ、「あら、珍しいかっこ?」とも「あれじゃーね」と言われたこともある。何の意味だか、わからなかった。お向かいさんに、鈴なりのキンカンを見ていたら「自由に取ってくださいね」きれいな木の花を、垣根越しにほめたら「ボキッ」と手折って、「ほら、先生!」(信者さんのお母さん)「牧師さん、毎日何をしてる?」「はい、毎日、神様をほめたたえて暮らしています」(微笑)
2003年07月08日
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「わたしは快楽をたたえる。 太陽の下、人間にとって 飲み食いし、楽しむ以上の幸福はない。 それは、太陽の下、神が彼に与える人生の 日々の労苦に添えられたものなのだ。」 新共同訳聖書・コヘレトの言葉8:15(伝道の書)中国には「中庸」思想があるが、コヘレトの言葉(旧約聖書)が似ている。ボクは現代のキリスト信者にコヘレトの言葉をもっと味合うようにとお勧めしたい。「あまり熱心にならなくても良いんだよ。程々にね」と言っているんだよ。 「人の言うことをいちいち気にするな。 そうすれば、僕があなたを呪っても 聞き流していられる。」7:21
2003年07月07日
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昨夕(礼拝の前日)、信者さんが紫陽花を切って、段ボールいっぱいにして持ってきてくださった。忙しいのに、ありがとう!「紫陽花、最後の、ですね」「ええ、そうですよ」ボクが、大きな花瓶、2つに さした。妻が来た。「わぁ~、お花買いに行こうと思っていたの」今日もアジサイ教会になった。
2003年07月06日
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キリスト様はイチジクの木を例えに使っている。だれかがイスラエルに旅行したときイチジクの枝を折ってきて、自分の庭に植えたんだ。それが伸びて木になった。挿し木をし、いろいろな人にあげた。ボクの所にも。ボクの所でも、木になった。イチジクが食べられそうになって、楽しみにしていたら、突然枯れてしまった。なあんだ、と思っていたら、友達が、「キミのところで、イチジクを剪定したとき、枝を持ち帰って、植えておいたよ」と、また小枝を持ってきてくれた。それが、今年はボクの背を遙かに越えて大きくなり、イチジクの実をたくさん付けている。
2003年07月05日
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「わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」コリントの信徒への手紙2 4:1「わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの「外なる人」は衰えていくとしても、わたしたちの「内なる人」は日々新たにされていきます。」4:16 今朝の祈り会でいただいた聖句。
2003年07月03日
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思いがけない病の発作で2日間、寝てしまった。小さい頃から「病持ち」だったことを忘れていた。車の運転も控えた方がよい、と医者から言われてきた。詳しい検査はこれからである。
2003年07月02日
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