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タンタンタンタンタララララ~バッハ「クリスマスオラトリオ」第3曲始まり~なんとなんと楽しげかぁバッハの「クリスマス・オラトリオ」を聴くと心の底から喜びがあふれてくる。「主よ、あなたの思いやり、あなたの憐れみが 私たちを慰め、自由にしてくれます。」 第3曲6番アリア
2019年12月20日
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「音楽の唯一の目的は、神の栄光が現され、人の魂が再生されることでなければならない。」(手紙)JJ (Jesu Juva) 「イエスよわたしをお救いください」INJ (In Nomine Jesu) 「イエスの聖名において」SDG (Soli Deo Gloria) 「神にのみ栄光あれ」 (楽譜に記されたイニシアル)「人の用のためにここに書かれた作品に対しては、ただ神にのみ賛美がなされるように。」(「オルガン小曲集」の冒頭に記された言葉)「イエスの御名において」(「ヴィルヘルム・フリーデマンのためのクラヴィア小曲集」に付けられた献題)「礼拝音楽が鳴り響くところ、神はいつも私たちのそばにおられる。あふれる恵みを携えて。」(聖書注解書の欄外に走り書き)「大地にあろうと、海原にあろうと、 本国にあろうと、外国にあろうと、 私はパイプをくゆらし、神を礼拝する。」
2019年02月18日
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「一人で鍵盤に向かうときには、私の興味はバッハ、モーツアルト、シューベルトの三人の作品にしぼられている。」「カンタータ第78番『イエスよ、汝わが魂を』のなかの二重唱を少年合唱で演奏したもので・・・・このレコードの印象は実に強烈で、なにやら楽しげでとても身近な感じのする前奏に続いて、こんな美しい音楽が世の中にあってよいのだろうかと思うような二重唱が聞けるのだった。」「バッハのスコアを勉強して、その建築物としての構成のすばらしさや、その均整のとり方のさまざまな工夫に感嘆するのはいつものことなのだけれども、どんなカンタータでも、その歌詞をどんなに深くバッハが読み取って音のうえにそれを生かしているかを見るときに、バッハは音楽の父なんかではなく、それまでのすべての 音楽の流れの総合であり終点であるというようなことをいった誰だったかの言葉を信じたくなってしまう・・・・」 「私のバッハへの道程」小林道夫 より
2017年06月02日
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カンタータ164番「あなたがたキリスト者を名乗る人たち」バッハは、ルター派礼拝のために音楽を作った。BWV164は「良いサマリア人」のたとえが題材である。冷え切った心、愛のないクリスチャンを嘆き悲しみ、「どうか私の冷えた心を死なせ、愛によみがえらせてください」と祈りのコラールで閉じられる。テナーの詠唱から始まりバス、アルトと独唱が受け継がれてソプラノ、バスのデュエットとなる。 「閉ざされない手に 天は開かれる。 共に苦しんで涙する目に 救い主は恵みのまなざしを向ける。 愛に励む心に 神はご自身の手を差し出される。」こんなふうな歌詞のようだがデュエットの安らかさに心高まる。デュエットが静かに閉じると突然に合唱の歌声が会堂いっぱいに響き渡るのだ。
2016年05月22日
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バッハのカンタータ全曲CDを持っているので整理を兼ねて、1枚ずつ聴いている。約60枚あり、全部聴き終わるのは春になりそうだ。バッハのカンタータの多様性は目を見張るばかりだ。当時の牧師たちが目を丸くするのは無理もない。カンタータを通じて、バッハはありとあらゆる実験をしているように思える。脳裏にひらめいたことは、遠慮なく楽譜となって表れる。だれが何と言おうとだ。クラシックの全時代の集約を、バッハは持っている。それ以降の音楽家の作品を聴いていても「それ、バッハにあるよ!」と感じてしまう。ジャズさえ、あるときはバッハから響いてくる。いちばん感動すること!それはバッハのカンタータ、それは礼拝音楽であること。おじいさん、おばあさん、赤ちゃんまで教会に行けばだれでもバッハの音楽と共に神様を礼拝する。バッハと一緒にコラールを歌う。何と豊かな時代だったのか!今だったら、何千円もあるいは万単位のお金さえ払って受難曲やカンタータを聴きに行かなければならない。それが当然だ。神様のことはそっちのけで演奏がいいだの、悪いだの何と貧しい現代であろうか!
2016年01月13日
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「クリスマス・カロル」のスクルー爺を思い出した。クリスマスイブの晩、3人の天使に会い過去、現在、未来の自分を見てやさしく生まれ変わるスクルー爺高校時代に読み心をほっこりとさせた記憶そしてボクはキリスト者となった12月に入って「メサイア」を聴いた明るく美しく輝かしいクリスマスに聴くにふさわしい曲バッハの「クリスマスオラトリオ」も聴いた受難の賛美歌「血潮したたる主の御頭」がはじめの方から歌われそしてこの賛美歌で曲を閉じるキリスト様は十字架にかかられるためにこの地上に降りられたことを強く暗示していると思われるバッハの教会音楽牧師としての真骨頂がそこにあると感じる「いずこの家にもめでたき音ずれ」「クリスマス・オラトリオ」のテーマソングと言ってよいこのルターの降誕祝歌は受難のコラール(賛美歌)の後を追うように歌われるボクもバッハに倣って「箱と棒」というメッセージをした。箱は飼葉桶、棒は十字架 ああわたしの心より愛するイエスさま きよらかで、柔らかいベッドをお作りになって わたしの心の宮でお休みください わたしが決してあなたのことを忘れることのないように 降誕のコラール(ルター作) 心の臥しどの 塵をば払いぬ 愛するイエス君 静かにいねませ 讃美歌101 第5節
2015年12月24日
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今月は復活節で、受難曲はやめて「イースター・オラトリオ」を往復の電車の中や寝床で聴いています。バッハの曲です。キリスト様の復活の聖書の場面女性たちや、み弟子たちが空の墓を巡って右往左往する様子が言葉がわからなくても、想像できます。マタイ受難曲のように重々しく、長大でないのがいいです。まるで舞曲のような雰囲気の明るい曲想のところもあり一度聴くときっと好きになるでしょう。やはりバッハはいいなぁ。
2015年04月16日
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電車の行き帰りで、マタイ受難曲(バッハ)を聴いた。歌詞がドイツ語だからわからないけれど、キリスト様の十字架の場面とその前後だからと、聴きながら想像する。「バラバ!」(イエスではなく、バラバを赦せ)その叫び声はわかった。「エリエリレマサバクタニ」(わが神わが神どうして私をお見捨てになったのですか)そこもわかった。あとは、「血潮滴る主の御頭」の讃美歌合唱が何度か調やリズムを変えて繰り返される。そのあたりしか、わからないけれど、音楽は心の奥底まで差し込んでくる。輝かしく、美しく、命にあふれ、憧れに満ちて、天国から合唱が降り注いでくるようで、電車内に居ることをしばし忘れる。いったい、どの場面かしら、と心を走らせる。うちに帰ったらCDを掛けてみようと思った。
2015年03月10日
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今日はエピファニー(公現日)当時のルーテル教会ではバッハの「クリスマス・オラトリオ」の第6曲(最終曲)が演奏されたようです。ボクも電車の中でそれを聴いていました。何度きいても、心があふれてきます。その明るさ、輝かしさ、安らかさ、豊かさ。人間のあらゆる良い感情が込められ歌われます。(全く自由な独断ですが)きっとバッハは「組曲第2番」で「クリスマス・オラトリオ」作曲の練習をしていたのかも?組曲第2番は、管弦楽の上にフルートの独奏が混じり合い快い音楽を奏でているのですが、クリスマス・オラトリオでは、フルートの代わりに、人の声が入れ替わるのです。エピファニーでひとまず、クリスマスのシーズンの終わり。ボクの「クリスマス・オラトリオ」巡礼も一段落としましょう。さぁ、もう受難節(レント)がすぐにやってきます。もちろん、次は「受難曲」の巡礼とするつもりです。
2015年01月06日
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バッハのミサ曲と言えば、「ロ短調」のそれをだれもが思い浮かべる。バッハはその大ミサ曲のほかに、4つの小さなミサ曲を作っている。イ長調のミサ曲(BWV234)を電車の中で聴いた。礼拝の音楽を電車内で楽しむのは不謹慎かしら?その第5曲はクオニアム(Quoniam tu solus)「あなただけが清く あなただけが主 ただあなただけが至高者 イエス・キリストよ」と、アルト・ソロが静かに歌う。こんなに安らかで美しい詠唱は、ほかにない、とボクは思った。
2014年11月14日
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昨日電話で書類作成の助手を頼まれ今日は朝から教団事務所に行きました。雨模様なのでバイクでは無理です。最近ずっとバイクだったので、久々の電車通勤となりました。回数券を買いました。イアホンで音楽を聴きながらつり革に捉まるのも、久しぶり。聴いた曲はバッハのカンタータ第39番「飢えたる者に汝のパンを分かちあたえよ」透き通るような美しい曲でした。帰ってから歌詞を調べると、こんなふうに歌われています。「飢えた者らにあなたのパンを割き与え さまよえる貧しい者たちをあなたの家に招き入れ裸の者を見たならば、彼らに服を着せあなた自身の骨身を彼らから遠ざけないようにそうすればあなたから光が暁のようにあらわれ出ててあなたはすみやかに癒されあなたの行った正義によってあなた自身が導かれその栄光の輝きにあなたは包まれるでしょう。」バイクより遙かに短時間で着くと思うのですが意外にもバイクの方がわずかですが早いです。バイクで走る距離は片道30キロ午後2時に書類を出しに行くというのでしめしめ2時には帰れるぞでも5時になっても終わりませんでした。
2014年08月28日
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バッハの教会カンタータの一覧表を作りました。初めは教会カンタータの解説書を買うつもりでしたが絶版中のためか、ネットで購入するとプレミアが付いて25000円ほど。ちょっと高値過ぎるので、自分で作ることにしたのです。ネットに出ているカンタータを検索し、見つかり次第コピーします。そして順番に並べるという具合です。第1番から200番までやりました!5月から初めて、夢中で取りかかり、昨日終了。CDに付いている解説を読めばいいのですが残念ながらボクの所有CDは、外国語版がほとんどです。
2014年07月20日
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バッハのカンタータの中でフーガが出てくると心が躍りだすのはどうしてだろう。「交わり」だ。「交わり」こそキリスト教の本質である。教会、信仰三位一体すべて「交わり」ではないか?
2014年06月14日
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モーツアルト、ベートーベン、ブラームスなどフーガを書くときには自分の芸術や人生の総決算のように扱う。しかしバッハではそうではない。バッハにとっては、毎日の食事のようである。(昨日の続き)
2014年06月14日
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バッハの教会カンタータは奥が深くて、極めることができない。約200曲~クラシック音楽愛好者の万人が好きというわけではないが一部の人には、熱く語られている。ボクは今、カンタータの解説や感想を求めて、ネットで検索している。わかることは、好きで好きでたまらない人が多いこと。「クリスチャンではありませんが」と断り書きしている人。どうしてそんなこと書くのかな?クリスチャンではないのに、キリスト教の知識は、クリスチャン以上である。それは・・・・とりもなおさず、バッハの教会カンタータを紐解くためである。涙ぐましい。バッハのカンタータが愛される理由はおそらくその多様性にある。また聴いていて最近気づいたことだがバッハのカンタータは「舞曲」がベースになっているか?だから基本的にメロディーが明るくて覚えやすい。つまりメロディーに関して言えば、宗教臭が全くないのだ。歌詞はまた別だが。バッハのカンタータと言えば「フーガ」(幾つかの旋律が追いかけっこをしたり、離れたりくっついたりする)が多くある。もちろん「ソロ・カンタータ」と呼ばれるものもある。フーガと言えば、モーツアルトの「ジュピター交響曲」の終楽章が思い浮かぶ。それはゴシック建築のような堂々とした印象を持っている。でもバッハのフーガはもっと自由で明るく色彩が豊かだ。踊り出したくなるようなフーガなのである。
2014年06月13日
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バッハの教会カンタータを1番から聴き始めいつの間にか187番に至った。心に嵐が吹きすさぶ夜も、聴く。187番は詩編104編27~28節を歌うコラールから始まる。「彼らはすべて、あなたに望みをおき ときに応じて食べ物をくださるのを待っている。 あなたがお与えになるものを彼らは集め 御手を開かれれば彼らは良い物に満ち足りる。」ポリフォニー音楽(複数の旋律が追いかけっこをしたり、合わさったりする)を聴く喜びを心ゆくばかり味合う。天の御国のお花畑に、蝶が自由に舞い遊ぶイメージをボクは持った。そうだよ、ぼくの息子はそんなイメージの所で蝶と一緒に遊んでいるのかも。先に召された彼の赤ちゃんもそこに一緒にいるのかも。
2014年05月14日
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出先近くの駅の階段を下りようとしたとき、雑踏の渦の中、耳元のイアホンが、BWV147『心と口と行いと生活で』のコラールを鳴らした。「主よ、人の望みの喜びよ」と呼ばれるコラール(讃美歌)電車の中からバッハのカンタータをMP3で聴いていた。階段を下りきったボクはその清らかな響きに、全身が耳元から包まれた気がして、思わず立ち止まり、空を見上げた。 なんとわたしは幸いなことか、わたしがイエスを持つことは。 おお、どれほど堅くわたしは彼を保っていることか。 イエスはわたしの心を力づけてくださる わたしが病のときも、悲しみのときも。 イエスをわたしは持っている。 イエスはわたしを愛し、ご自身をわたしに与えてくださった。 ああ、そのゆえに、わたしはイエスを離さない、 わたしの心が破れても。(井田泉訳)この歌詞に心から共感しないでは居られない。
2014年05月08日
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バッハは教会音楽家であり、牧師が毎週礼拝での説教を苦心して準備するように礼拝の音楽作りに生涯をささげた人と言えよう。評伝を読んでいると、バッハが勤めたトマス教会のカントルという仕事がどんなに多忙だったかをうかがい知る。その中での毎週の礼拝のためのカンタータ作曲は過酷を極めたものだっただろう。転用が多いのは、構想が湧いてこないのに、演奏期日が迫っていたためかもしれない。バッハはカンタータを教会暦や記念日に合わせ3年分を準備し、その総数は300に及ぶという。今残っているのは200曲足らず。牧師が毎週の説教をいちいち保存しておかないように(きちんと保存してのちに「説教集」を編集する牧師も中にはある)バッハもそのカンタータを全部きちんと取っておいたわけではない。ましてカンタータを出版するなど考えられない。こんにち200曲の教会カンタータが保存されてきてそれを聴けるというのは奇跡に近いことではないだろうか。ライプチヒ時代の晩年、バッハはカンタータを書かなくなり器楽に心を用いるようになった。「ゴルドベルク変奏曲」や」音楽の捧げ物」などその時時の必要に迫られて作られ、それぞれがバッハを代表する作品となった。カンタータの新作が晩年にないということは、もうそれまでに十分に作ってきたからである。バッハは、愚直に、懸命に、神と自己に忠実にその時代を生きた証人である。当時の役所、学校、そして教会さえもバッハを正当に評価し扱ったとは言えない。それは神から与えられた天分を神のためにささげて妥協せず生きた証となる。
2014年05月01日
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バッハ・カンタータBWV5「われいずこに逃れ行かん」を聴いた。3曲目は、テノールのアリア「わたしの心は慰めの時を感じています。 今こそ、のしかかっていた重荷は地に下ろされ 罪の染みも洗い落とされるのです。」イエス・キリストのあがないの血の力を讃え歌う。ここのテノールの歌唱は心迫るものがある。何度聴いても、涙がこぼれそうになる。思うに、バッハのカンタータには人間がいる。バッハは神の啓示よりも、人の信仰を歌う作曲家のように感じる。信者の苦しみや証し、信仰の喜びなど、人から神に訴える音楽である。だからバッハのカンタータや受難曲がボクたちの心を打ちまた奪うのだ。
2014年04月12日
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これも来生への憧れに満ちている曲。クリスマスの最終ステージ、「シメオンとアンナ」のエピソードが題材である。聖書では、ルカによる福音書2章22~38節全聖書の中でも、最も美しい場面と思う。バッハの音楽にも、力が籠もるのは当然だ。救い主の到来を待ち望みながら神殿詣をする2人の老人が赤ちゃんイエス様を抱っこしてやってきた若夫婦と出会う。老シメオンは歓喜して、赤ちゃんを抱っこさせてもらい「やっとこれで安心してあの世に旅立つことができる。」と讃える場面。このカンタータバスの独唱が延々と老シメオンの心を歌う。ちょっと甘美過ぎるかな?甘すぎず、すっきりと決然と歌って欲しい!
2014年02月11日
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先日も書いたが、この曲が頭から離れず、何度も聴く。何度聴いても、また聴きたくなる。オークションをあさっていて、この曲が見つかると値段にもよるが、手が出てしまう。リヒター盤を買った。早く配達されないかなと、待ちどおしい。バッハの信仰か、当時のルター派の信仰か、天の御国への信仰が篤いと感じる。この曲は来生への憧れが滲みあふれている。信徒がキリストの花嫁となる天国の結婚式を憧れている。
2014年02月10日
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「目覚めよと呼ぶ声がします。見張り人が明るい声で呼んでいます。賢いおとめたち、さぁ花婿がやってきます。起きて、支度をして!婚礼のために、支度を!彼を迎えましょう。花婿が来ます。若い鹿のように、丘を飛び越え、あなたたちとの婚礼の宴のため。救い主はいつ来るのですか?私は油を灯して待っています。広間の扉を開けてください。天の宴に入るように。来てください、イエスよ。来なさい、いとしき魂よ。愛する方が天から壮麗にやってきます。恵によって、力強く。真理によって猛々しく。わたしの元に来なさい。選ばれた花嫁よ。私はあなたを、心とこの腕に印章のように刻み、あなたの悲しげな顔を喜ばせよう。私の左手であなたは安らぎ私の右手があなたにキスをするだろう。私の恋人はあなたのもの。私は神のもの。この愛は切り離されることはない。12の真珠で都は飾られ、あなたの都に私たちは集います。御使いたちも共に。どんな目も見たことがなく、どんな耳も聞いたことがありません。このような喜びは。私たちは喜び叫びます。永遠に、甘い喜びの中で。」 (歌詞・大意)---------最後のコラールは「讃美歌」の「再臨」の項に載せられていて有名になっています。中間に、ソプラノとバスが歌い交わすアリアがありますがまるで、モーツアルトの「フィガロの結婚」の、スザンナとフィガロの愛の交唱を連想させるような甘いアリアです。こんな歌が歌われる礼拝はすごいですね~歌詞は旧約聖書の「雅歌」が土台になっています。神と信者との愛の交わりを歌っています。信者はキリストの花嫁であり、花婿であるキリストを迎える喜びを歌っています。
2014年01月14日
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こんな本があったら、ほしいな、と思っていた。それがあったのだ。即座に注文した。バッハの教会・世俗カンタータモテット、オラトリオ、受難曲バッハのほとんどの合唱曲が網羅されている。しかも歌詞はわかりやすい口語訳で翻訳されている。「天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う。」マタイ13:45-46これはボクの高価な真珠だ。ページを繰りながら、バッハのモテットや教会カンタータを一つ一つ聴いていくのだ。
2014年01月07日
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切りタイマーを付けて、枕元に音楽を聴きながら眠るのがボクの習慣。最近はバッハの教会カンタータを一つずつ聴いている。バッハの教会カンタータは明るくて変化に富んでいる。何でもあるのだ。きっとそこには、すべてのものがあるのだ。もう他の音楽が不要になるように。聴き慣れたベートーヴェンの交響曲でも聴こうかと思うがついつい教会カンタータに向かってしまう。そして感動し、感心してしまう。えぇ?いったいこれが礼拝の中で歌われる音楽なの?こんな曲が流れる礼拝ってすてきだろうな?「バッハよ、もっと普通の礼拝音楽を出してくれ!」「まさか! 私の才能がわからんか、神の栄光のためだ!」こんな教会当局とカントル・ヨハン・セバスチャン・バッハの会話が聞こえてくる気がする。そしてバッハは楽譜の最後に記した~Soli Deo Gloria~「ただ神の栄光のため」
2013年10月01日
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