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今日は小さな委員会を持ちました。明け方先だって、その委員会をしている夢を見ました。献金をささげている方々のために献金を還元しましょう、そんな内容の不思議な夢でしたが実際の委員会のために役に立ちました。
2012年09月06日
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今日は妻に礼拝説教をお願いした。「できるかしら?」と、ためらいつつも担当してくれた。やはり伝道者だな!1型糖尿病と脳腫瘍手術の後遺症と闘いながらもやりとげる。会衆の一人としてメッセージに耳を傾ける信徒さんて、こんな喜びを毎週味わっているのか!
2012年08月26日
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二つのことをあなたに願います。わたしが死ぬまで、それを拒まないでください。むなしいもの、偽りの言葉をわたしから遠ざけてください。貧しくもせず、金持ちにもせずわたしのために定められたパンでわたしを養ってください。飽き足りれば、裏切り主など何者か、と言うおそれがあります。貧しければ、盗みを働きわたしの神の御名を汚しかねません。 旧約聖書「箴言」30章7~9この言葉を座右の句として愛唱していた信徒さんが昔おられた。今日の礼拝で妻がそのことを回想した。その心の注意深さに、今にして感じ入っている。パスカルも、自分の病気が治ったら有頂天になって神様から離れるかも知れない、と考えた。幸せになりすぎると、神様を忘れてしまうかも知れない。不幸になりすぎても神様から離れるかも知れない。神と共に、ちょうど真ん中を生きる喜びそれが「箴言」の精神か?
2012年07月29日
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キリスト教への入り口は十字架を仰ぐわたしのためにそこに立たれた十字架を仰ぎあがない主を知る私たちは生きる十字架の主と共にそれが聖化の道十字架を仰ぐと共に十字架を生きる道十字架の丘は復活への扉キリストの死を生きてキリストの復活をも生きる
2012年07月28日
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関東夏期聖会に来ています。「地の塩、世の光として生きる」が今年のテーマ。恵みの集いに身を置く幸い。参加人数は140人ほどで昨年並みです。昨年みんなが聖書の御言葉とメッセージに恵まれたとあかししていたことを覚えています。それなのに、今年は昨年より恵まれたというあかしが多い。恵みは新しければ新しいほど良いのでしょう。こういう集いに参加することは大切でまた参加できることは、恵まれているのです。これが終われば、みんな社会のそれぞれの場に出ていきます。必ずしも、クリスチャンが生きやすい場ではないしそれでこそ「地の塩、世の光」として生きることが問われます。がんばれ! と思わずにはおられません。「あなたがたは地の塩である。だが、塩に塩気がなくなれば、その塩は何によって塩味が付けられよう。もはや、何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけである。あなたがたは世の光である。山の上にある町は、隠れることができない。また、ともし火をともして升の下に置く者はいない。燭台の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい。人々が、あなたがたの立派な行いを見て、あなたがたの天の父をあがめるようになるためである。」新共同訳聖書・マタイによる福音書5章13~16 (湯河原にて)
2012年07月25日
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出来ないかも知れない。荷が重かった。うじうじ思っているより勇気を出して早く手を付けなさい。
2012年07月14日
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台所でデボーションをしていた妻が歌い出した。ボクはデボーションを休めて耳を澄ます。 神の秘めたもうところに隠れ み助け受くるはいかに楽しき朝の静けさにしみ通る明るい調べ
2012年07月04日
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旧約聖書の中で詩編の後につながるのが箴言です。若い頃は、処世訓のようなイメージを持っていました。箴言に対する心のランキングは低かった。今、教団の日課では箴言を読みます。箴言のアドヴァイスが身に染みるようになりました。歳のせいか?ボクの中で敬虔が深まったか?箴言の中庸な世界に心ひかれます。そうだな本当だなと合点しています。さて今日の箴言は16章でした。 人間の道は自分の目に清く見えるが 主はその精神を調べられる。(2節 人間の心は自分の道を計画する。 主が一歩一歩を備えてくださる。(9節自分が良いと思ったことでも神様の御旨には叶わないことがあるそこに気づかせられて、受け容れて生きること。
2012年05月28日
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複雑怪奇な心の中をいかにしてシンプルにするか聖書を読み御言葉を愛しこれに従う以外になし
2012年05月22日
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ボクは愛用の聖書に、タブを3箇所、貼り付けています。ボクの人生航路の指針となる3つの聖句です。ヤベツは兄弟たちの中で最も尊敬されていた。母は、「わたしは苦しんで産んだから」と言って、彼の名をヤベツと呼んだ。またヤベツがイスラエルの神に、「どうかわたしを祝福して、わたしの領土を広げ、御手がわたしと共にあって災いからわたしを守り、苦しみを遠ざけてください」と祈ると、神はこの求めを聞き入れられた。 歴代誌上4章9~10これは「ヤベツの祈り」と呼ばれ、多くのクリスチャンが愛唱している聖句です。単純で実践的な祈り。神様も子供のような信頼にお答え下さいます。小さな群れよ、恐れるな。あなたがたの父は喜んで神の国をくださる。 ルカによる福音書12章32節上の聖句には若い時から大いに励まされましたが、小さな家庭集会の中では、特別な力を与えられます。いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。 テサロニケの信徒への手紙1 5章16~18節やはりシンプルなクリスチャン生活信条になる聖句です。喜び、祈り、感謝こそ、クリスチャン生活の推進力であり、目標でありまたすべてでさえあります。 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
2012年05月10日
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パスカル著『パンセ』を読んでいると著者の息づかいが伝わってくる。病者パスカルだからだろう?いや、違うかな?パスカルの息づかいに触れているとそれはまるで麻薬のようにボクの心に浸潤してくる。そのときボクの魂は高まって荒々しくさえなる。「人間は宗教にしか生きる道はない」と言うパスカルは、繰り返し繰り返し読者をそこに誘(いざな)うのだ。「そんなに人間を痛めつけなくていいでしょうに?」とボクはパスカルに問う。「いやイエス・キリストに救いがあるから大丈夫だ」とパスカル。「あなたはパスカルを読んで変わったね」妻に言われたことがある。それはパンセに触れて自分がどこに立っているかどこに立たされているかはっきりとわかったからだ。パスカルの命題は「神なき人間の惨めさ」「神と共にある人間の平安」この2題に尽きると思う。パスカルのことを話し出すと妻は不安そうになる。『病の善用を神に求める祈り』を読ませてあげた。それが心に触れたらしく「もっとパスカルについて、知りたいわ」と言うようになった。でもやはりパスカルより聖書を読めと妻は言う。
2012年05月04日
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『病の善用を神に求める祈り』(抜き書き) ブレーズ・パスカル 主よ、あなたは、何ごとにおいてもこの上なくやさしく、柔和なみ心をあらわしてくださいます。また、あなたは、限りなく憐れみに富まれ、あなたの選ばれた者に来る繁栄も、逆境も、すべては憐れみのゆえにお授けになるのです。 あなたが私に、健康を授けてくださったのは、ただあなたにお仕えするためでしたのに、私はそれを全く俗事に用いてしまいました。どうかあなたの全能の御恵みによって、あなたの懲らしめを私の益とならしめてください。 心の中の苦しみがなければ、あなたがどんなに外側から病をもってこの肉体を鞭打ってくださっても、それがまた、私には新たな罪の機会となるかも知れないのです。どうか、この私に、自分の悲惨さを身に染みて感じさせてください。そして自分に残された生涯を、これまでに犯した罪を清めるための絶えざる悔い改めに過ごさせてください。 私の中には、あなたをお喜ばせできるものは何一つありません。ただ、幾らかあなたの御苦しみに似たこの苦しみのほかは。 あなたが、私たちの罪の贖いのため血を流しておられるというのに、私たちが世の楽しみに溺れて過ごすとは、これ以上恥ずべきことがあるでしょうか。この私自身がこのことを知りながら、この恥ずかしい生き方をして来ました。主よ、あなたが、死の陰に安逸をむさぼってまいりました私の罪深い喜びを、断ち切られたのは当然のことでした。 これからは、健康も、命も、ただあなたのため、あなたと共に、あなたにあって用い尽くすことができますよう、そのためにのみお与えください。私の健康、私の病、私の生、私の死を、すべてあなたが、あなたの栄光のため、私の救いのため、お恵みにより私も一員であらせて頂きたいと願っている、あなたの教会と聖徒たちの益のため、お用いくださいますように。 私は、自分が知っているのはただ一つのことであると知っております。それは、あなたに従うのは正しいことであり、あなたに逆らうのは正しくないということです。 この私が、何者でありましょうとも、あなたの御心に一致するものとならせてください。今こうして病んでいます時には、苦しみの中であなたの栄光を讃えさせてください。 あなたと、あなたの御霊とで、私を満たしてください。私の心と魂の中へ入ってください。そして、私の中で私の苦しみを負い、あなたの御苦難の内なお残っているものを、私の中にあって耐え忍び続けてください。まことに僅かながらあなたの御苦しみにあずからせて頂くことによって、あなたは、この私に、御苦難によって勝ち取られた栄光を満たしてくださいます。この栄光の内に、あなたは、御父と聖霊と共に、代代限りなく生きておられるのです。アーメン。
2012年04月15日
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年度末の礼拝を終えました。「枝の主日(しゅろの主日)」の直前の日曜日今日は園で祈るイエス様のお姿と弟子たち、「ゲッセマネの祈り」を学んだ。ブレーズ・パスカルが『パンセ』B553で「イエスの秘儀」を著している。ここは「ゲッセマネの祈り」への黙想でありパスカルの根本思想が表れていると言われている。パスカルの肉体の痛みと十字架を目前にするイエス様の苦しみが深く強く共振し合っているとさえ思える。
2012年03月25日
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救世軍が出しているブレングル著『聖潔の道』という小冊子を朗読してICレコーダーに録音した。神学院の始業オリエンテーションのテキスト。自分が寝ながら聴くためでもある。ブレングルの書物は良い。お堅い内容をお堅くしない。ヒューマンというかどことなくユーモラスというか。それでいて「聖潔=きよめ」についてやさしく解きほぐされている。
2012年03月24日
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ホーリネス系の教会には聖別会とか聖会とか呼ばれる集いがあります。神様との新しい出会いをそこで経験します。神様の声を実際に耳で聞くわけではありませんが、聖書の言葉を通して神様の呼びかけを心で聴き、意志をもってお答えする時です。だから皆真剣に耳を傾けます。神様への信仰を深めたりする場となります。そこで伝道者になる決意を表す人もいます。何らかの決意が出来た人は、みんなの前に出ます。そこで祈ります。そのように前に進む場所を「恵みの座」と呼んでいます。「恵み座」は期せずして開かれる場合もあり予め開くことを予測して、前を広く開けておくときもあります。昨夜は「恵みの座」が開かれました。大勢の人が出て行きいっぱいになりました。ボクも進み出て、ひざまづいて祈りました。
2012年03月22日
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ボクたちの教団は創立20年目を迎えた。歴史の短い若い教団と言える。教会の数は40ほどで、スタート時より2倍ほどになった。ボクたちは本来、日本キリスト教団内の「ホーリネスの群」に属していた。当時は日本キリスト教団の信仰や教職制度が長い間混乱していた。日本キリスト教団は長い間、教師検定試験を開くことが出来なかった。ようやく教師検定試験が再開した頃、ボクたちは独自の教師検定試験を始めた。それはある人たちからすれば過激な行為であり、してはならないことに映った。ボクたちは止める気はなかったので、総会でボクたちのグループを切り離す決議がなされた。それは僅差(2票ほどの差だったと記憶している)だったが、ボクたちがしたことは道理にかなわないこととされて、ボクたちはホーリネスの群から切り離された。それが今の「ウェスレアン・ホーリネス教団」が設立に至るきっかけである。ボクたちにとっては、教師検定試験を行い、またそれを受験したことは信仰の証しだった。ただそれだけ。それから自分からホーリネスの群やひいては日本キリスト教団から飛び出したのではない、そこにボクたちの「良心のかけら」があったと、今にして思う。あとはもう歴史に委ねるしかない。
2012年02月29日
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礼拝応援頼みます、と金曜日に連絡を受け友が働く教会へ緊急出動した。片道2時間半。礼拝の説教をし、礼拝後の祈り会に出て食事を頂いて帰った。ちょっと薄着で出てしまったので体が温まらず、東京ケズイックに回りたかったが大事を取ってそのまま帰宅した。残念。わが家の礼拝は妻に頼むと、「急には準備ができない」という。経験上、根を詰めると血糖値が急上昇する。「じゃぁ証しをしたらいいね」「それでいいね、でも証しをしていてもきっとメッセージになるわねぇ」船橋の叔父が礼拝に出席なさったという。叔父には説教よりきっと証しの方がいい。神様のご配剤に感謝!
2012年02月26日
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神は失敗なさらない。神には失敗はない。
2012年01月28日
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月曜日は東京新年聖会に出ました。テーマは「祈り」で祈りの大切さが繰り返し語られました。頭の中は祈りでいっぱい。本当に祈らねばならないし祈れば道は開かれると、思わされました。最近は妻と、毎朝のように色々祈っております。
2012年01月11日
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メリークリスマスキリスト様がお生まれになった夜は天使の軍楽隊が歌ったというボクたちも歌おう主のお生まれをたたえる歌を主はボクたちのために生きてくださったボクたちも主のために生きることを願います主は十字架の上でボクたちのために死なれたというボクたちの人生の終わりも主のためでありたいと願います「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」メリークリスマス
2011年12月25日
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弟子の一人がイエスに、「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」と言った。イエスは言われた。「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい。」マタイによる福音書8章22節 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 1987,198父親の葬儀を執り行ういとまを願った弟子に、父親の葬儀は他の家族に委ねなさいと、主は言われた。あなたではなく他の家族にとの内容を、主は「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」と言われる。主の言葉は人を躓かせる恐れがある。躓く者は躓くがよい。あなたが使命の道を進むに際しては、あなたが父親の葬儀を司る必要はもやはない。細々とした心遣いも、親の財産を分配することとか、あなた自身が相続人となることも、不要である。「死んでいる者たち」とは、とりもなおさずキリストの使命の道を歩まない者たちを指している。あなたは「生きている者」だ。キリストの道を喜々として歩む者だ。あなたはただキリストと共に、御国への階段を一歩一歩登ることを心がければよい。キリストの使命をキリストと共に担う人生とはそういうものだ。
2011年12月21日
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お~寒ム~~~季節は決して裏切らない。ボクたちはそれを受容し生きる。そのようにすべての環境を受容したい。耐え忍ぶ心を養います。
2011年12月02日
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母教会に帰り、なつかしい人々と会った。信徒の時代、共に生きた仲間はもう数えるほどしか残っておられない。その代わり、若くてはつらつとした信徒さんたちが若き牧師さんご一家と共に、教会を守っている。安らかな時間だった。家に帰り、まず第一にしたこと。それは頼んでいたわが家庭集会の礼拝の録音を聴くことだった。一人欠けてごめんよ。でも楽しそう。妻のメッセージを聴く。まるで遺言のように聞こえた。
2011年11月27日
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その友人夫妻とは35年のお付き合い。沼津在住でしたが老いて、息子さん夫婦をお頼りになり千葉に引っ越されました。長年住み慣れた土地と人間関係から離れることがどんなに寂しかったことでしょう。そして奇しくもボクたちも千葉に移住しました。水曜日は重篤の病床にお伺いしました。精一杯の笑みでお迎えくださいました。それでもその訪問ではコミュニケーションが十分でないと思い今日再度2人でお訪ねしました。今日は聖書を読みお祈りをしました。お元気な頃、他の宗教に熱心であられたことが気に掛かっていたのです。お祈りの終わりに「アーメン」と和して下さいました。ハレルヤ
2011年11月25日
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西佐津間家庭集会では「聖徒の日」礼拝を守りました。礼拝の中で、それぞれ在天の肉親の思い出を語り合いました。礼拝の説教を短く簡略にしました。それで終わった後、妻から「あの~今日の礼拝のお話 ポイントは何でした?」「うん、むにゃむにゃ・・・」
2011年11月06日
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ボクたちはずっと教会にいてみんなと一緒に歳を取っていく独身だったあなたたちも次々と結婚をして子供も大きくなり孫も生まれてあなたたちとずっと一緒にいてイイそんなふうに考えていた教会ってそう言う所なんだとそれなのに別れて来てしまった心残りというわけではない神様の導きだったと信じるとそれがうれしいのだ
2011年11月03日
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ある時代までには意味があったと思われる。しかし現代この日に胸を張ることはもはやアナクロニズムであろう。現代は、この日は悲しみの日主の愛される尊い教会が分かたれ、引き裂かれた日。虚心になって主の御言葉に耳を傾けよう。そして行動を起こそう。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。 ヨハネによる福音書17章22~23節 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
2011年10月31日
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会堂長に言われた。「恐れることはない。ただ信じなさい。そうすれば、娘は救われる。」ルカ福音書8:50信じて愛する者が救われるのなら信じるだけでお答えくださるなら信じます信じるが勝ち余分な努力も要らない信じなさいと言われた方を信じているだけならそのかたの御言葉をただ信じるだけああうれし信じるだけでイイなんて信じるだけでそれで完結するなんて
2011年10月27日
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3日間の関東聖化大会に、2日間参加。「聖化交友会」という団体の主催。キリスト教の中の「きよめ系」と言われる教会群がグループを作っている。戦時中はキリスト教の大合同があって、その中の6部、9部にあった教会だ。久々に出るこの集まりに新鮮な感動を覚えた。今回の最後を飾る昨晩の聖会団体を形成する教団付の神学校が合同して聖歌を合唱した。「遠き国や海の果て」という関東大震災の廃墟の中で作られたという聖歌。アレンジもすばらしかったが、すばらしい歌唱だった。トレーニングされた合唱団かと勘違いする。1度くらいしか合わせていないのだ。神学生の信仰が力強い合唱になったのだと思われる。誇らかに確信に満ちた歌声で、目頭を熱くした。
2011年10月19日
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キリスト信徒とそうでない人の違いただ神に向かう心があるか、ないかたったそれだけ?そうたったこれだけ
2011年10月15日
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「あなたがたには神の国の秘密を悟ることが許されているが、他の人々にはたとえを用いて話すのだ。それは、『彼らが見ても見えず、 聞いても理解できない』ようになるためである。ルカによる福音書8章10節愛と真実、信仰の眼でなければ、わからないようにされている神の国。ばらまいたり、安売りは出来ないもの。あなたの尊い命のように。 聖書 新共同訳: (c)共同訳聖書実行委員会 Executive Committee of The Common Bible Translation (c)日本聖書協会Japan Bible Society , Tokyo 1987,1988
2011年10月15日
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妻はよれよれの「祈りの手帳」を持っている。前の教会のものだ。今もその手帳を前にして祈っている。ボクのはどこかに行った。「あなたのは、もうないの?」「頭の中にあるよ」
2011年10月05日
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昨日は、妻が説教しなければならなかった。長い説教はいいからみんなで証し仕合うのがいいのだよ、そんなふうに伝えて家を出た。帰ってから頼んでおいた礼拝の録音を聴く。まだまだ回復途中で体力乏しくとてもお話などは出来ないだろうと感じられる。でもそのとき彼女の御使いが天から降りて来て語っていたようだった。
2011年10月03日
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あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。ルカ6:41この聖句による説教がされたとき今は亡きS姉が人目もはばからず悔い改めの祈りをなさったこと思い出されるその時以来自分に厳しく人にも厳しかったその方が自分には変わらず厳しかったが人には寛容への道を歩み始めた
2011年09月26日
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久々の雨の一日は、突然の秋の深まり西佐津間家庭集会の礼拝は、「キリストの生涯」の第9講。原稿を書くのを止めて、み言葉を追って心に浮かんだことを語ってみた。三島時代は完全原稿を手にしていたが、昨今はそんなふうに語ることもある。小さな家に親族が代わる代わる集まってくる。今日は、大人6人小学生1人、3歳児1人はいはいの赤ちゃん1人計9人。昼食後は子供たちを遊ばせ、夕方、入院先へ行き、夕食を食べる妻を2人で見守った。皆さんのお祈りを感謝します。
2011年08月21日
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受け容れることは先方の問題ではなくこちらの課題受け容れられない自分を悲しむこと盗みをはたらいたのだねお前をだまって抱きしめよう地獄に行きたいって?一緒に行こうか?思わずお説教が口から出てしまうとき受け容れていない心があらわになる愛は押しつけない意見しない愛を錯覚しているだけ愛は受容する
2011年08月20日
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担当医師から手術の手順を聴いた手術は来週木曜日で6時間ほどかかるという。火曜日にカテーテルを患部まで挿入して腫瘍に栄養を送っている血管を予めふさぐという。医師はどんな質問にも応え話してくださるのでボクもいっぱしの知識人となる妻は医師の顔をまっすぐ見つめて聴いていたがずっと神様を見上げていたという何をするにもずっと神様を見上げているという
2011年08月19日
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西佐津間家庭集会は今日は4人。母と弟息子、そしてボクみんなリラックスで礼拝の中でも雑談がふんだんに入る。説教の後の歌だけ決めてあとは自由にリクエストして何曲でも歌う。歌の伴奏は弟のギターいざとなれば息子も弾く。気が向けば左右からギターが聞こえる。ぜいたくだ。小さなちゃぶ台が講壇となる。礼拝が終われば食事のお膳となる。祝祷は小振りだが心をこめて行う。礼拝後の食事のあと母と弟は家路につきボクと息子は妻の病院に向かう。妻はボクたちの訪問をそれはそれは心待ちにしている。
2011年08月07日
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他教会のかたで懇意にしている信徒さんがあった。久しぶりに話に来た時、このたび牧師が交代するという。「どうしてですか? 交代してそんなに日がたっていないのに」教会の有力な信徒があって長く務めた前の牧師と新しく赴任した牧師を比較するのだという。新しい牧師はとうとうノイローゼになり教会から退くのだという。「わたしは今の牧師のメッセージが好きだったのですが」でもあなたも古い有力な信徒さんの一人なのでしょう?どうしてその牧師を守れなかったのですか?
2011年08月06日
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花の甲子園が始まろうとしている。投手が捕手めがけて球を投げる様子を見ていて考えた。神様は捕手になってくださり、ボクたちは神様のミットめがけて全力で投球ああこれがボクたちの人生なんだ。バッターは? だって?バッターなど目に入らぬ。
2011年08月03日
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西佐津間家庭集会の週報をアップロードしました。ご覧くださり、どうぞお祈りください。ボクも楽天広場の交わりにある皆さんのためにお祈りしています。 http://nisisatuma.jimdo.com/妻も礼拝に出席したいと言っていました。妻が一緒のつもりで祈りつつ励みます。
2011年07月30日
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11の日に毎月持たれているこの集いに出かけました。今回は、災害で新築会堂を失った、気仙沼第一聖書バプテスト教会の嶺岸師夫妻がお証しをなさいました。東北の地方都市でこつこつと働きをなさっていた牧師さんいったいこんなに全世界から注目を浴びる日を想像なさったでしょうか。いつ、どこで、だれを神様がお立てになるのかだれも予想がつきません。
2011年07月11日
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キリスト教会を「奇跡の教会」と呼ぼう。たとえ貧しくても小さくても神様の奇跡がとどまる。地上の教会は神様が御目の瞳のように守っておられる。神様は教会を慈しんでおられる。キリスト様にも苦難のときがあったように教会にもたしかに苦難のときがある。しかし苦難を突き抜け復活があったように教会の苦難もまた復活への足がかりである。今日は土曜日でわが家庭集会の明日の礼拝のために週報とか、ソングシートとかの準備をした。ああうれしい。明日に備える喜びが残されていたこと。たとえ家族だけの礼拝だったとしても愛する人たちと共に全力で主を讃えていよう。この群れも「奇跡の教会」の端に連なって。
2011年07月02日
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なんだかんだと言ってはいても降りかかってくることはすべて受け止めてしまう人の心のやわらかさ
2011年06月15日
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妻はバイクが好き彼女はバイクに乗ると神経が休まると言います。でも故障のまま、当地に運んできてしまいました。今日は近所にバイク店をみつけ修理を頼みました。「30分ほどお待ち下さい」というので、一緒に話しながら修理を見守りました。手際よく車体をばらし、部品を換えまた組み立てます。すごい腕前と言うことは、見ていてわかります。いかにもこの仕事を誇りにしているふうです。「プロ」というものに感動、脱帽。もう大丈夫彼女は神様に守られなからお祈りしながらこのバイクにまた乗り始めるでしょう。ボクもボクのバイクで彼女のお供をするのです。
2011年05月25日
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午前中は雨模様でしたがボクが昼前に家を出て馬喰町の地下駅から地上に出る頃青空が見えました。ご奉仕を終えて帰る頃また曇りました。一日路分の空模様の移り変わりの中ボクたちは誠実に生きました。
2011年05月24日
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「祈りがあなたの行う最大なこと」 ハレスビー「試練のための備え~祈りのために朝起きること」 W・ロー「祈りの源は弱さである」 藤冨 明
2011年05月16日
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キリスト様の復活の出来事は理屈を超えたことであることが福音書の末尾を読むとわかります。「そんなのあり得ないよな」という理性をキリスト様にお渡しして降参するのです。弟子たちはそうしました。そこからキリスト教が真実にスタートしたのですから復活、復活祭、イースターの喜びはやはりクリスマスと双璧だとボクは思います。これはイースターのメッセージの始まりでありまだまだ続きます。天の御国もイースターから説かれなければセンチメンタルなものとなるでしょう。キリスト様は復活なさいました
2011年05月09日
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の~んびりと第1回礼拝をスタートしました。ボクと妻と一緒に来てくれた末息子東京から母と弟が駆けつけ身内5人の礼拝教会ではなく家庭集会なので礼拝での献金はいたしますが月定献金はありません。のんびりムードが一変したのは妻の一言「お説教の準備が足りなかったわねぇ」
2011年05月01日
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優しい人たちに送られて、新しい地にやってきました。家具はほとんど置いてきて、ノートPCと書籍と二人分の衣類息子がレンタカーを借りてきて往復終わったのが日付が変わりそうな時ボクたちの出発後は信徒さんたちが来て大掃除してくださいました。帰ってみるとぴっかぴかでびっくり畳もリフォームして良い香りこの香りを嗅いだ息子が「おぉ、ここに来た時を思い出すよ」ボクは新しい場所で今、二日目の朝を迎えています。車の多さに閉口していますが昨日は市役所、郵便局に行きました。末子は犬を連れて昨日到着後は、片づけだけです。しばらくはここで暮らすことになります。皆さま改めてどうぞよろしく。
2011年04月29日
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