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<オークション依存症との関わり>たいして必要のない商品に入札していた。パスワードを打ち込む時の快感を、無意識に求めていたんだと気づく。危険を察知したボクは、その日のウチに自分のIDを削除した。負けるものか。きっと勝つんだ。
2004年10月20日
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「十二人の中の一人で、イスカリオテと呼ばれるユダの中に、サタンが入った。」ルカ22:3------------------------超教派の「祈りの集まり」に、熱心に来られていた信者さんが、突然なくなったことがある。彼は、聖書に記されているサタンの記事に心を捕らわれた。そしてサタンのことを調べて朝になってしまった。それから心臓発作を起こしてなくなった。ユダとサタンの関係について、信者さんたちと話し合ったことがある。「じゃこの辺でこの話は終わりにしましょう」サタンが神様の救済の歴史にどうかかわったか、ボクは詳しく知ろうは思わない。ただイエスが御手をもってお選びになった12人の中にさえ、サタンと手を結んだ一人がいたと言うことだけは、心に留めていたい。
2004年10月18日
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キリストがベテスダの池の側に横たわっている人を見られた。この池の水が動いた時に、真っ先に入る人は、病がいやされるという。この人は体が動かないので、いつも後れをとっていた。キリストが声をかける「良くなりたいのですか?」ここを読む度に考えてきた。この「問いかけ」にどんな意味があるのだろう。「良くなりたいのは当たり前なのに どうしてお訊きになるのですか?」今朝もここに来て、また考え込んだ。
2004年10月11日
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Boys,be ambitious! 「少年よ、大志を抱け」ウィリアム・スミス・クラークが札幌農学校を去るとき(1976)に残した言葉。在任わずか8ヶ月で多くの人に感化を及ぼし、内村鑑三や新渡戸稲造などにも間接的に感化を与えたそうです。 ambitious という言葉は、「野心」や「野望」という意味もあります。 人のために生きる「大志」を抱くのですよ。自己実現を願う「野望」ではありませんよ。 あるキリスト教教育者は、この言葉のあとに、for Christ (キリストのために)という言葉が隠れているのではないかと考えてました。
2004年10月05日
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異端といわれている方から見たら、そちらが正統で、「正統主義の標榜者」の方が異端だろう。キリスト教で一般的に「正統主義」と言うのは?キリストは神か人か?(神人性)それは真実の神でありつつ、真実の人であられる。聖霊は人格を持つか?(聖霊の神性)聖霊も真実の神として告白される。このように答は決まっている。しかし「もはや当たり前、議論の余地なし」になる前、聖書からこの教理を紡ぎ出すために、何十年いや何百年、費やされた時代があった。ある時は血みどろの戦いがあり、政治がからみつつ進んだ。その結論とされたところを、現代の「正統主義」キリスト教会が持っているというわけだ。正統主義の目玉は、聖書の結集成立をもって「啓示の打ち切り」が宣言されたこと。もう神様は新しい啓示をなさらない。わからないことがあったら、聖書を調べたまえ、ここに書いてあること以外に、神の啓示があったと語る者は、疑われるのだ。(プロテスタントの教理)更に大切なことがある。ナザレ村から出た大工のせがれイエスを、キリストと告白すること。このキリスト告白は、地上の王様ではなくて、霊的な王だ。霊的な王とは、天の神様と同等の方として、このかたを「尊びます」という告白だ。そういう基礎的な信仰の告白が、「使徒信条」や「ニケヤ信条」などの三大信経に込められている。これらの信条は、キリストの教会の囲いであり、この囲いの中でならば、まず何を言ってもよい。この枠から出れば異端とされる。そういう道筋をたどらず、自分の考えに反抗した人に「即、異端」というレッテルを貼る、こういうのがカルトと呼ばれる。
2004年10月01日
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近隣の教会から「カルト救出セミナー」の案内が届いた。連綿と受け継がれてきた教理と、違うことを説くグループがある。教理的なバランスなど気にせず、霊的ひらめきが、物言う世界かも。熱狂を好む人々は、いつの世にも存在する。宗教にも、政治にも。そういう人は「天国はここに実現している」と錯覚する。一年中、お祭り気分でいられる所があるなんて、魅力なんだろう。宗教的特権意識で胸を張れる。配偶者も子供も目に入らなくなり・・・・指導者との支配関係が樹立され、「献身」「奇跡」「現世否定」とかが強調される。「悔い改め」とか「仕えること」「忍耐」などはあまり重視されない。
2004年09月30日
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それは2000年前に生きた一人の人今でも、そのかたを、見ているように聞いたことがない声を、聞いているように話したことがない人と、対話しているように夢を見ているのではなく幻でもなくさりとて現実でもなく一冊の「聖書」という本を読みながら十字架が立っている屋根の下にとどまりそこを第2の家庭のようにして生きている人々と祈り歌い語り合いそのかたを心に感じている前に後ろにかたわらに心の中に一緒におられる気がする
2004年09月29日
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今日は第4日曜日で、伝道師である妻がメッセージをしました。いつものように、一番前の席にすわっていました。お話(説教)が3分の2ほどに達した所、彼女が取り上げた聖書の言葉がボクの心に広がってきました。それまで湿っていたボクの心が晴れ渡り、虹が架かったようになりました。
2004年09月26日
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「祈りとは、自分の力でなし得ることはことごとくやり遂げるという意志と関係を持つ限りにおける約束なのであります。」 ~エミール・ブルンナーこんな祈りをしたい。そして神と共に最後までやり遂げたい。
2004年09月25日
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主人が家来たちに資本を預け、これを元に、商いをしていなさいと命じられる。主人は旅に出かける。主人はやがて帰ってきて、決算報告を求める。一人一人預かったものは違っていて、それぞれに元手を増やした人たちは、お褒めの言葉を頂く。一番小さな額を預かった人は主人がこわくて、埋めておいた。それをそのまま返すと、叱られて放り出される。けっさくなのは、主人の言葉「働くのがイヤなら、銀行に預けておけば、私は利子だけでももらえたのだ」マタイ25章14ー30に載っているイエスのたとえ話です。ボクたちの人生は、神から預かったものを活用していく道筋。主人(神)を信頼して、実を結ばせなさい、と言うのだ。神の資本を預かって生まれてきているなんて、カッコイイと思う。しんどいけれど、主人を信頼していれば、はらはら、どきどきの楽しい人生を送れるはずだ。
2004年09月17日
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癒されることを信じたい。医師がどんな宣告を下そうとも最後まで希望を捨てない。緩和ケア病棟に移られたそこは本当に良くできている面会時間の制限もなく病室に電話もつながる奥さん、娘さんも昨日から泊まり込みになり臨戦態勢が敷かれているボクは神様に癒しを求めているキリストは死んで4日たち、死臭たちこめるラザロをもよみがえらせたと書いてあるキリストは今もここに立っておられることを思うとき癒しを祈り続けて良いと思う。昨日、彼の枕元に行き祈った神様の最善の御手があるように激しい闘病にも、安らぎがあるようにそしてあなたは病を癒すことがおできになることを信じます、とボクは祈った主よ,愛する方いつも側にいてくださる方よ祈りにお答え下さい聖書に書いてあることを行ってください
2004年09月11日
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きのう早朝覚醒して、3時まで起きていた。眠れないボクがネットに入っていた頃、教会のメンバーのお父様が死に赴いていたことがわかった。彼がボクを起こしたの?そんなにも、さびしかった?悲しみが、天と地を覆っていた?今晩、彼の葬儀(前夜式)をとり行った。ボクは司式をしたが、いい知れない悲しみとやり場のない怒りの思いがこみ上げてきた。でも明日も諸式をしなければならない。悲しみは心の箱に収めて。
2004年09月08日
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好きな人です。イスラエルの初代の王様。紀元前1000年ごろ即位。マイナーな、あまり知られていない人ですが、共感するところが多いのです。すぐれた才能そして容貌。人間的にいいところもある。しかし気が小さく、嫉妬深すぎて、家臣ダビデと確執。ダビデは何のやましい所がない人で、あっけらかんとしているのに、サウルは一人で心配し、怒り、ダビデをとことん憎み始める。偏執症です。やきもちの恐ろしさに身震いします。ボクはそんな彼の弱いところに惹かれるのです。神様はどうしてそんな人間を、イスラエルの初代王様として選ばれたのだろう。神様の気が知れない。(だってお前を選んだんだよ!)
2004年09月02日
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かつて、負けそうになってもいつも勝つ力士の相撲を見ながら「あの人は勝つことに決めているのね」と妻が言った。(面白いことを言う)とボクは感心。最近の礼拝で、体調をこわしていた信者さんが、半分失神しかけている状態で、家族に送られて来た。回りがビックリ。この人は「礼拝出席することに決めている」人だな、とくだんの妻の言葉を思いだした。「決めておく力」は、すごいもんだ。「生きることに決めておく」そうすれば生きる道は開かれていく。「ゆるすことに、きめておく」そうすれば、きっと寛恕のたまものが与えられる。「愛することに決めておく」こうすれば、こわいものがなくなる。「健康になることを決めておく」「幸せになることを決めておく」思いは広がっていくが・・・・。ボクなら「イエス様を愛しまつることに決めた!」
2004年09月01日
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「雅歌」その中でささやかれ、また歌われる愛はキリストと教会の間の相愛と解釈されている。主と私たちはいまだ熱愛中なのです。注がれる愛は、あまりに強く愛を受け止め、身を委ねることこれがその愛に応えうる最大のこと----------------「恋人よ、あなたは美しい。 あなたは美しく、その目は鳩のよう。 おとめたちの中にいるわたしの恋人は 茨の中に咲きいでたゆりの花。「若者たちの中にいるわたしの恋しい人は 森の中に立つりんごの木。 わたしはその木陰を慕って座り 甘い実を口にふくみました。」「恋人よ、美しいひとよ さあ、立って出ておいで。 ごらん、冬は去り、雨の季節は終った。 花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。 この里にも山鳩の声が聞こえる。 いちじくの実は熟し、ぶどうの花は香る。 恋人よ、美しいひとよ さあ、立って出ておいで。 岩の裂け目、崖の穴にひそむわたしの鳩よ 姿を見せ、声を聞かせておくれ。 お前の声は快く、お前の姿は愛らしい。」 (新共同訳聖書より)
2004年08月26日
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ずっと黙っていたキミボクたちの話が一巡したあとキミも堰を切ったように話し出したキミ自身の歩みをそうやって過去を昇華させようキミのその過去はキリストが引き受けてくださるからどんなに重くても彼なら大丈夫だ前に進むために重荷をおろそう
2004年08月15日
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親に育ててもらえなかった人並みの幸せがなかったそれはほんとうにつらかったろうねでもそれを不幸と呼ばなくてもいいあのかたを、父と呼べばいいあのかたが、言っておられる「 あなたがたはこう祈りなさい 『天にいます私たちの父よ』 」
2004年08月13日
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やさしい牧師さんと言われてきましたが自分がやさしくされたい裏返しの行動でしたキリストの愛からあふれたやさしさではありませんでしたボクは罪人です
2004年08月01日
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並でない決意を持っていることは周囲には分からないものしかし時が来て、ぱっと輝いて周囲を驚かすものだ
2004年07月31日
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神父の所に行ったら「これ見て下さい」とマリヤ像を持ってきて見せてくれた「ほら、涙を流すんです」くっきりと涙の跡があり、しかも血のように色が付いているこの教会だけではなく、ほかでもよくあるというこの教会では、よく奇跡が起こるというただ売り物になると困るのでおおっぴらにはしないと言っていた聖書に書いてあることと同じことが現代の教会でも起こることがある
2004年07月27日
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日曜の朝電話が入った。「家の人が出払っているので迎えに来て下さい」と。全身が弱り、特に足が腫れていて自力では立てなくなっている。礼拝の時は母子礼拝室で横になりながら、礼拝に出ていた。礼拝が終わって、皆さんの介護を受けて、昼食を取った。ボクは彼女のために、いやしを祈った。彼女はそれからしばらくそこで眠った。午後の集いを終える頃、母子室から声が聞こえた。「痛みがなくなったから、帰ります」と。帰り道、送迎への感謝の言葉を何度も口にした。ボクも礼拝に来て下さった感謝を彼女に返した。礼拝出席のひたむきさその強い決意はだれにも止められない。
2004年07月25日
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「お父さんのやったことは、マインドコントロールだよ。わたしはとてもイヤな気がしたよ」団らんの時、娘が言った。夜の集会には、まだ信仰を告白していない若者が来ていた。何とか信仰を持ってもらおうと、祈りの指導の中で、祈りの言葉を同じ言葉で2回繰り返し言わせてしまった。それがそばで一緒に祈りを合わせていた娘の心を傷つけたらしい。側にいた妻が言葉を添えた、「そうね、その人が信仰を持っているか、お祈りしたいと思っているか確かめてから、お祈りをさせるべきだったね」確かに性急だった。
2004年07月20日
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神を信じなければ、色々なことが起こる度に、きっと心が乱れるだろう。神が取り仕切っておられる、見ておられると思うと安らかな気持ちになる。神は太陽陽の光をあびながら、「太陽なんか、ないよ」という人がいたらおかしいように神を信じることが一番自然だとボクは思う。
2004年07月16日
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「本当にきよらかなキリスト者を知っていますか?」「牧師では、知りません。信徒なら、まれに出会うことがあります」
2004年07月15日
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あるしもべがキリストを呼びに来た、主人の病気の娘をいやして下さいという。行く途中、知らせが来た、もう亡くなったから、ご足労には及びません。キリストは遮って言う、「恐れることはない、ただ信じなさい」そしてまっすぐに、その家に向かわれる。泣き悲しんでいる家に入って、その娘の手を取って、「娘よ、起きなさい」 娘はすぐに命を取り戻した。(ルカ8:49ー)死というピリオドを取り去って、もとに戻される。 絶望さえ遮って、新しい望みを作り出す。ボクはこれを「神秘」と呼びたい。「信仰」というのは、不可能に挑戦していくもの。果たしてボクたちはそういう生き方をしているだろうか?
2004年07月14日
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地元の映画館。夜の部は、ボクたち夫婦と仕事帰りらしい男性が2人だけ。妻は3度目。夫婦だけで行く鑑賞に、期待を持っているらしかった。見るたびに、感動の角度が変わると言っていた。導入からしばらくは、「完成度の高いジーザス映画だぞ」と思った。キリストの捕縛までは、目を吸い付けられた。カメラワークに非凡なものがある。しかし延々と続くむち打ちシーン、血まみれのキリスト、ローマの兵隊の執拗ないたぶり、実際にこんなにひどかったのだろうかと疑問を持った。その凄惨シーンが長大で、挿入される過去の回想、マリヤの思いの深さが凌駕されてしまっている。あんなに血まみれでは、「キリストの衣服をくじで分け合った」という聖書の記述と整合しないだろう。十字架刑では、真ん中のキリストに比べて、同時に処刑される両脇の犯罪者の描き込みが貧弱。差が大きすぎるとリアル感が薄まる。キリストの代わりに放免されたバラバ、キリストに死刑の判決を下したピラトは、印象的だった。キリストの埋葬のあと、女性たちに現れるキリスト、弟子たちの驚き、迷いそして喜び、そこを聖書で読む時、ボクの心は躍ってくる。そんな場面は一つもなく、復活は付け足しのようだった。けさ、聖書を開いて、キリストの言葉を読んだ。キリスト様を、すぐ近くに感じた。やはりキリスト様とお会いするには、聖書を読むに限る。
2004年07月09日
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その日曜日のお話は、妻がする番だった(月に一度)ボクは例によって一番前で聞いていた。一生懸命に話しているなぁ。聖書のお話だなぁ。突然妻がボクの心に語りかけ始めた。
2004年07月02日
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仲良し兄弟の中高生が、昨日、揃って洗礼を受けました。神様の器たちは、立派に信仰を言い表しました。父・御子・聖霊の御名前によって注がれた水が、頭から肩に、そして床の上に流れ落ちました。 2毎週金曜日に、洗礼準備のためにお宅に出向いていました。なぜか雨の日が多かった。歩いて約40分、小さな町を西から東に横断します。 3洗礼式の礼拝のあと、ささやかな歓迎会を持ちました。みなさんが暖かい祝福の言葉を下さいました。カレーライス、パウンドケーキ、デザート 4お父さま、お母さま、おめでとう!あなたがたの愛が、こうして実を結びましたよ。 5一人で生きるのは、1輪車で走るようなもの神様とご一緒に生きるのは、2輪車で走るようなものボクは最後にこんなお話しをして、会を結びました。 6式のあと、床に落ちた水が残っていました。その小さな水たまりが、きよらかに見えました。ボクはかがんで、その水をそっと拭き取りました。
2004年06月28日
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「人は目に映ることを見るが、 主は心によって見る」サムエル上16:7---------------外見で、人を判断しがちなボクたち人はその人が結んだ実に目を見張る神は、ご自分に対してどんな心を持っていたかそこをごらんになるだろう
2004年06月27日
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昭和17年6月26日早朝、教会に、前触れもなく、警察が踏み込んだ。牧師が連れて行かれた。そして警察署に留置。「天皇は現人神(あらひとがみ)であられる。あなたがた牧師たちは、天皇も罪人である限り、信じなければ救われないと、説いているようだが。」と、当時の特別高等警察に尋問される。罪名は、国体に反する教説と天皇への不敬による「治安維持法違反」。ウチの牧師は静岡刑務所に昭和18年8月20日の仮釈放まで、とどめ置かれた。それから公判、懲役2年、執行猶予3年という判決が下った。反天皇を叫んではいない。反戦運動をしてもいない。ただ、キリスト様を礼拝し、伝道し、国のために祈っていた。当時の礼拝のプログラムをみると、戦勝祈願や宮城遙拝さえやっていた。牧師はなぜ検束されたか、わからなかったという。これはホーリネス系のキリスト教会に対する全国一斉検挙だった。6月26日に42名の牧師が警察に連れて行かれ、その後の拘束を含めて、59名の牧師が捕まった。獄死した牧師もあった。信仰をやめた牧師は一人もいなかった。ボクたちは6月26日を「教会の復興記念日」と命名した。次の日曜日には特別の礼拝を守るのだ。神様への感謝を込めて。
2004年06月26日
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「わたしの力と寄り頼む神よ あなたにほめ歌をうたいます」(詩59:18)誘惑に負けやすいのが人間それは人の心の中に、闇を愛する思いがあるからだろうか。自分の力でうち勝つことは出来ない。羊がライオンにたち向かうようなものだ。神への依存と、教会の交わりが必要と思う。
2004年06月24日
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晩年パーキンソン病で身体が動きにくくなった作家・三浦綾子さん、「わたしにはまだ死ぬという使命が残っている」と言われたそうです。心に迫るものがあります。信者さんが老人病院や特養ホームにおられるので、定期的に訪問しています。そこでは生きることそれ自体が使命だと感じられます。そこでは、生きることが「証し」なのです。神に従っているという証しなのです。
2004年06月18日
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