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主イエス・キリストの御復活に感謝いたします。主イエスは復活なさって、ボクの心の王座にお住まいくださいます。今日もその主と共に生きます。
2023年04月09日
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雪の中の外出を心配したが、みぞれ交じりの冷たい雨だった。教会での祈祷会は、前牧師夫妻と、2人の信徒、そしてボク5人全員70歳超え。年齢なんぞ、どこ吹く風。頼もしいし、かっこいい。しかしなぁ、若い人にも出かけて来ていただきたい!!
2022年02月10日
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「義を見てせざるは勇なきなり」今の自分を言い表している俗諺だ。今から教会にお勤めすることは心の予定表にはなかった教会の働きから退いてちょうど10年細々と家族の礼拝を守ってきただけ期間限定で行って助けてくださいと要請されたのが何と母教会ああ母教会ボクを送り出したところ今は亡き恩師夫妻のお顔そこに行くのですか?こんなボクで良いのですか?行ってみると加齢と病のため働きが困難になってきている牧師を一握りの教会員が一生懸命に支えていたこうしていま牧師を支える人たちと一緒に神様から力をいただいてその力をここに注ぐことが与えられた責任なのだと思う。
2021年08月10日
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新型流行性感冒(コロナウィルス)がしぶとくて1年半を過ぎても収まる兆しが見えません。キリスト教界も感染を恐れて礼拝そのものを休んでいる教会もあります。インターネットで配信しているのです。ボクがお勤め始めた教会では礼拝はほぼ普段通り。冷房を点けながら、窓は対角線に少し開けるできるだけ均等にバラバラに座る賛美を歌うときは声は張り上げないようにと皆さんにお願いしましたが当の本人がつい夢中になって歌ってしまいます説教時間は短めが良いのですがボクはもともと短いので(20分から長くて30分)大丈夫なのですマスクを付けてお話しするのは慣れてしまいました。礼拝の臨場感は何よりも大切と痛感しています。必ず用意していた昼食は暫くストップ。これは意外と残念感が強いです。やはり教会と愛餐はセットなのですね~無事に来られたのは当たり前ではないけれど注意はしますが怖がらないように。信仰者として大切な点です。神様の御守りを信じつつ歩みます。
2021年07月25日
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聖書協会共同訳で新約聖書を読み終えた。新鮮な感じがした。新共同訳聖書より良いのではないかな。 さて次の通読は何にしようと思案。 口語訳聖書にしよう。 読み始めると、すっ、すっと目の中にそして心に飛び込んでくる。 これだ❗ ボクは口語訳聖書世代だったのだな。
2019年08月22日
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ホーリネス系のグループには夏期聖会がある。夏期聖会は文句なく好きだ。「ホーリネスの群」の夏期聖会に行きたかった。事情が許さず残念。なんと、CGNキリスト教放送で「日本ホーリネス教団」の夏期聖会を放映している。先日は聖会1、今日は聖会2、わが家の台所から参加した。どちらも平易で味わい深い説教で、終わったあとしばし天を仰ぐ。妻も感激している。やはり内容も実力もある教団なんだな~もっともっと、いろいろな聖会に行きたい!
2019年08月21日
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お便りをいただくたびに、祈られていることを感じる。それは、キリスト信徒である喜び。離れていても祈りを交わす。祈りの声は人工衛星に届く電波のように、きっとこちら側に跳ね返ってくるのだ。たとえ地球の裏側からでさえ。感謝さえ、ささげられているのだと思う。祈りは神様に届き、神様がご嘉納くださっているのから神様ありがとうと、いつも結ばれる。祈りが神様に届いているので、ボクたちは弱さの中で倒れそうでもなお立ち続けている。支えられている。
2019年01月10日
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アウレリウス「自省録」2つの訳を読んだ。はじめは、神谷美恵子訳(岩波文庫)次に読んだのは、鈴木照雄訳(講談社学術文庫)アウレリウス、後期ストア派の哲学者であり,皇帝「哲人皇帝」と呼ばれる。「起きてきた出来事は、何であっても力強く受容する」この哲人は、自力でそれに達する。自分への厳しさには、鉄の強さが必要だ。そうだ、「鉄人」でなければできないこと。ボクたちは、神への信仰と共に、起こり来る出来事を受け入れる。神はそばにおられて、受容を助けてくださる。真冬のような厳しい出来事も、神と共に受け入れつつ励むならば春の暖かささえ、感じることができる。キリスト教信仰は、暖かいものだ。
2018年11月21日
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「あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は、あなたがたを子として取り扱っておられます。いったい、父から鍛えられない子があるでしょうか。」ヘブライ書12章7節繰り返される災害を、キリスト教徒として、信仰ある身として、どう思えば良いのかな、と思案していると、この聖書の言葉が心に浮かんできた。神からの、耐え忍ぶべき鍛錬なのかな。こんなふうに神はボクたちを訓練されるのかな。良いことも、つらいことも、何かが起きるたびに、神に心を寄せる。それが信者へのテストなのだ。不信仰者なら、何が起こっても、それを神を拒む理由とするだろう。神に心を寄せる。病気になっても、病気が治っても。子供が生まれても、生まれなくても、子供が死んだとしても親・兄弟を亡くしても、神に心を寄せる。そうだ、神に心を寄せよう。
2018年10月02日
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「多くの人が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。」と叫び続けた。マルコ10章48節 周囲に叱りつけられても、黙らなかったのは、盲人バルテマイ。このかたに最後の望みをかけていた。それは「賭け」だ。信仰は、賭けだ。 この聖書の記録を読んで、ボクも思う。生きる限り、最後の一歩までボクも賭け続ける。このかたに望みを置き続ける。 キリスト様に全身全霊を傾ける。
2018年09月21日
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午前中は妻と家庭礼拝をするのが日課です。賛美を歌い、新約聖書を1章、交互に声を出して読み。心にとまった聖句をそれぞれ挙げます。それから2回ずつ、お祈りします。家族、親族、仲間の教会や牧師たち、神学生のため40分ほどかかります。そうして一日をスタートします。それはそれで恵まれた時間なのですがそれでも、一人で聖書を読み、黙想することとは違います。家庭礼拝をしているからと一人黙想の時間を省略すると霊性が枯れてきます。暑さのせいもあるかも知れません。夜、「ヨハネの手紙」を読みふけったところです。それから讃美歌を歌いました。「恵み豊けき主をほめたたえまつれ」夜ひとり静かに歌うのに、ぴったりです。大好きな讃美歌の一つ!心満たされます。
2018年08月14日
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友人の教会を訪ねた在来線特急に乗るのは何十年ぶりだろう記憶にない980円の特急料金を払うだけで、こんなに快適取り残されたような地方の町に立派な教会が建つ。誇りを感じた礼拝が始まれば神の国がそこに降りてきたようにきらきら きらきら明るく輝いている
2018年06月18日
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「イエスは十二人を呼び集め、あらゆる悪霊に打ち勝ち、病気をいやす力と権能をお授けになった。」 ルカによる福音書9章1節「十二人は出かけて行き、村から村へと巡り歩きながら、至るところで福音を告げ知らせ、病気をいやした。」同6節イエスが使徒にお与えになった力は、まだ残っているだろうか?使徒への使命を受け継ぐ教会に、その力は息づいているのだろうか?若い頃、ボクよりさらに若かった神父とそのことで語り合ったことがあった。結論は、「ありますよ」ということ。祈りによる癒しは、しばしばあると言うことだった。(当たり前だよね)若い頃ばかりの話で恐縮だが信徒さんの危篤を聞きそこに駆けつけただただ夢中で癒しを祈っていたら隣のベッドにおられた病者のかたが、わっと泣き出したことがあった。その信徒さんは持ち直された。肝心なのは、「今」だ。ボクにはもうそのように祈る力は残っていない。
2018年04月20日
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夜になると妻の祈りの声が上から聞こえてくる。内容まではわからない。いままで台所を祈りの場としていた妻息子が旅立ち、2階の部屋があいたのでそこが妻の祈るための密室となった。
2017年10月10日
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先年、召天なさった妻の友人の言葉をまとめた小冊子を、読み直した。深く感じ入り、礼拝の際、引用お話した。69歳を待たずして天に帰った人はその痛みの激しさを詩や散文に綴っている。それでもその文章は不思議に明るくて深刻な病状なのに深刻さがあまり伝わってこない。病と付き合う姿に教えられた。「がん様」とか、「がん殿」と与えられた病を呼び心の中に病を迎えている。毎日の生活態度が、病に対する態度をも決めるのだろう。さてボクは大丈夫かな?
2017年09月12日
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「五島へ五島へと皆行きたがる。五島はやさしや土地までも。」「五島へ五島へと皆行きたがる。五島は極楽来てみて地獄。五島は極楽行てみりゃ地獄。二度と行くまい五島のしま。」(五島キリシタン唄)江戸幕府と同様、キリスト教を禁止した明治政府が、五榜の掲示により切支丹宗門禁制を布告。浦上のキリシタンへの弾圧(浦上四番崩れ)が始まった。五島列島でも明治元年(1867年)から、各地で迫害が行なわれた。明治元年9月29日(1868年11月12日)に久賀島ではキリシタン約200人が松ヶ浦の大開の牢屋に入れられ、石抱や水責めなどの拷問を受けた。キリシタンたちが収監されたのは、わずか6坪ほどの狭い牢で、死亡者42名(うち、出牢後の死亡者は3名)を出した。窮屈な牢屋の中は、土間のままで厚い板で中央を区切り男牢と女牢とに区分けされた。押し込められた200人は立錐の余地もなく、せり上がって足が床に着かず、身動きできないまま死んでいき、放置された死体は腐乱してウジが湧いた。与えられた食べ物は朝夕にサツマイモを一切れずつで、ひもじさに泣き狂う子供に顔をかきむしられて血まみれになった母親もいた。体力の無い老人や子供から死んでいき、最初に死んだのは79歳の助市だった。5歳の政五郎は水を求めて「アップ(水)、アップ」と言いながら渇き死にした。「十歳のマリアたきは熱病に冒されて髪の毛は落ち、それでも『パライゾ、パライゾ、わたしはパライゾ(天国)に行きます』といって息を引き取った」「その妹マリアさもは七歳の幼女であったが、『イエズス様の五つのおん傷に祈ります』と言い残して亡くなった」弾圧の後明治政府のキリシタンへの弾圧を知った長崎の外国領事たちから、当時の長崎府知事澤宣嘉への問い合わせに始まり、各国公使から政府当局宛のキリシタンたちに寛大な処置をするよう要望書が提出された。度重なる外国公使団からの抗議と、明治2年11月のイギリス公使ハリー・パークスの久賀島実情調査が行なわれたことで、拷問は中止。明治6年(1873年)にキリスト教禁教を定めた五榜の掲示の高札が撤去され、キリシタンへの弾圧は終わった。 (ウイキペディアより抜粋)
2017年08月25日
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「苦労は、歯を食いしばって耐えることだけがすべてではない。喜んで耐えたいものだ。」加賀山隼人 ~「恵みの風に帆をはって」(ドン・ボスコ社)より
2017年08月16日
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天使は言った。「恐れるな。わたしは、民全体に与えられる大きな喜びを告げる。今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになった。この方こそ主メシアである。あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである。」すると、突然、この天使に天の大軍が加わり、神を賛美して言った。「いと高きところには栄光、神にあれ、 地には平和、御心に適う人にあれ。」 ルカによる福音書2章10~14(新共同訳聖書)どうか、すべての人々に宣べ伝えられますように。ご奉仕をしている働き手に特別なお守りを!
2016年12月25日
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一日1説教を読むことを目標にしている。または2日で1説教を読みたいと思っている。最低でも、3日で1説教。そうやってウェスレーの標準説教53を読み終えたので次に「ホーリネス牧師15人のメッセージ」を手にした。ホーリネス系の各群の代表的説教者が、説教を寄せている。まだ半分ほど読み進めただけで、早計かも知れないが、ボクは感激している。わかりやすいきよめの説教が多い。ボクたちの国に、こんなに素晴らしい説教をとりつぐ人々がおられたなんて。ずっと翻訳された説教に取り組んできていたところ日本人のこなれたわかりやすい日本語に感激!
2016年11月24日
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自分の欲望や弱さに負けたことに気づく時そこで神を見上げ赦しを請えば良い。何度でも何度でも、それを繰り返すのだ。1000回でも繰り返すのだ。損得を考えてはいけない。きっと良くなるはずだ。きっと神の御手がしっかりと伸ばされるはずだ。
2016年05月17日
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「主は霊である。主の霊のあるところに自由がある。」2コリント3:17口語訳聖書若い頃からのボクの特愛の聖句の一つだ。聖句の持つ力が圧倒的に迫ってくる。弟子たちに息を吹きかけて仰せになった。「聖霊を受けなさい。」ヨハネ福音20:22この聖句もボクたちの生活を革新させるものだ。「はい、お受けします。さあ、どうぞ。 おいでください。聖霊よ」お弟子たちが一丸となって祈っている所に、聖霊がくだった。その日を記念する今日は、「聖霊降臨祭」
2016年05月15日
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喜びも悲しみもいくつも通ってきたこの道この1年もあと1時間半で終えようとしている。2016年よ、来い、さあ来い。2016年よ、あなたがボクたちに何を準備していようとあなたにやさしくほほえみかけよう。
2015年12月31日
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6月まで妻はてんかん薬を服用していたが思うところあったらしくやめてしまった。それならと、ボクはいっそう妻のてんかん発作が癒されるように祈っていた。しかしボクがケアホームで仕事をしていた昨夕も一人でいる時、小さな発作を起こしたらしいという。さいわい大事には至らなかった。ボクは、ボクと妻宛の一通の封書を手渡した。命の戦いを続けているひとりの男の子のニュースレターボクたちの友人たちが援助の手をさしのべている。2つの大病を抱えている自分は早く天に召された方が家族のためになると、ずっと思っていたフシがある。しかしその封書を開き考え巡らしもちろん祈って新しいことが彼女の心の中に起きた。それはてんかん発作を抑えるために再び薬を手にするという決意。一緒に病院に付き添ってくれるかと問う妻もちろんさ!
2015年11月21日
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新約聖書の通読が終わり次の通読にかかる。カトリックの聖書で通読した。フランシスコ会の新約聖書。以前、分冊で順番に発行していた時から購入。説教を作る際に役立った、愛読の聖書。この分冊は、欄外註が充実していて見開きの左の頁が、まるまる註になっていたこともある。新約聖書合本になって、註の分量は減ったがそれでも充実している。ボクはこの聖書を、註を読みながら読んできた。この聖書が好きだ。またこの聖書で読むことにしよう。
2015年08月20日
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今、ボクたちの群れの聖会中この度の聖会では、モーセの生涯が語られる。お説教を聞いていて、気づいたこと。モーセという人は、神様から命じられたお仕事を徹底的に断っていると言うこと。固辞している。お受けしたと書いてあるところは、見つからない。それでもイスラエルの群れを奴隷の国から約束の土地に率いて連れ出したのだから結果的にはお受けしているのだ。そこにモーセの人間性が見られる。やりたくなかったこと、自信がなかったこと、それを生涯かけてやり遂げた人だ。明日もモーセの生涯が語られる。楽しみだぞ!
2015年07月21日
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キリスト教テレビ局の番組を見ていた。カナダのある女性牧師が、自分は無神論者であることを告白したという。偽りの説教や祈りをすることに耐えられなくなったのだろう。日本でもある神学校の校長が、死ぬ前に「自分は神を信じられない」と告白したという話を若い頃聞いたことがある。神を信じるということは、理屈の世界ではない。心の世界だ。恵みの世界だ。ボクの心に伝道への思いが湧く。「わたしは神を信じたかったのに、だれも神のことを話してくれなかった」もしそんな人がボクの身近にいたとしたら、ボクの責任だ。伝道をやめて、神を信じる一握りの人々と楽しく暮らしても天国には行けるだろうが「良い忠実な僕だ、よくやった」とのお言葉は頂けまい。神を求める人を捜す、そして伝える、これこそボクに与えられた使命だったのだ。神を捨てる人あり。神を求める人あり。
2015年07月12日
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人を崇めるな神を崇めよ強く影響を受ける人に出会ってもたちまちに別れがやってくるだから神を見上げよその人を遣わしたのは神だからその人と出合ったのは神のわざだから神を崇めよ神に向かって走れ人生のゴールには神があなたを待っているただそれだけ
2015年07月04日
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「ハイデルベルク信仰問答」から礼拝説教を始めました。今日は2回目。20年以上前、前任教会でこれの連続説教をしたことがあります。あらためて読んで、この問答書の簡潔さ、的確さに感動しています。「改革派教会」が持つ信仰問答書ですが、ウェスレアンのボクにとっても違和感はありません。書棚を探しましたが見当たらず、全文を訳してくださっているサイトを見つけ、それをお借りしました。ありがたいことです。家族のためにやさしく語りたいと思います。
2015年06月28日
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「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのですから、落胆しません。」コリントの信徒への手紙2・4章1節ケアホームでの仕事は朝9時までとの規定だ。仕事をすべて終えて、鍵をかけて帰っても良いのだけれど8時55分、9時までにはまだ5分残っていた。その5分で聖書を手にする。思い通りにことを運べず、ちょっと気落ちしていたところ、上の聖句が目に飛び込んできた。聖句に心が押し上げられ、ボクは背中を伸ばした。
2015年04月20日
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リベカを呼んで、「お前はこの人と一緒に行きますか」と尋ねた。「はい、参ります」と彼女は答えた。彼らは妹であるリベカとその乳母、アブラハムの僕とその従者たちを一緒に出立させることにし、リベカを祝福して言った。「わたしたちの妹よ あなたが幾千万の民となるように。 あなたの子孫が敵の門を勝ち取るように。」 創世記24章58~60まだ見ぬイサクの元に嫁ぎ行く妹を祝福する兄ラバン神様の導きなら従いますとはこれに関わるすべての人が決断して、ことが進み行く。ラバンが妹に贈る祝福の言葉に胸を打たれる。これは祝福の祈りである。ああボクも異国の人に嫁ぎ行き異国で子育てに励むわが娘にこの祝福の言葉を贈ることに躊躇しない。
2015年04月11日
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ウチの礼拝では司会者の祈りの後礼拝参加者めいめいもそれぞれに祈るようにしている。その時間にボクはこう祈った、「今年12月27日の礼拝まで この5人全員が守られますように」今から12月27日の礼拝をあこがれる。脳裏に焼き付ける。ぜったいにぜったいに、と。ああ主よ「ぜったいに」なんて祈ってごめんなさい。
2015年02月08日
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「春になったら」とボクたち家族3人での行動予定を立てようとした。妻が、「もっと早くしましょう?」そして「間に合わないかも知れない」と真顔で言う。自分の動けなくなる日を予感しているようだ。ボクはコリント人への手紙にある聖句を思い出した。「死にかけているようであるが 見よ、生きている。」そう、あなたは大丈夫だよ。春に延ばしても夏に延ばしても秋に延ばしてもその次の冬に延ばしても。
2015年01月21日
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今日は妻の診察日糖尿病専門外来です。妻は1型糖尿病です。最近血糖値が高くHbA1cも高い。血液検査の結果を見て妻は「今日は最高に高いわね」と言います。そのせいか、診察が優先されました。その上、ボクたちが主治医にいろいろ尋ねるものですからますます後で待っている人が気の毒になりました。妻の血糖値はすぐ上がりますがすぐ下がります。エレベーターに乗っているようです。またインスリンが変わりました。1日4回打ちになりました。主治医も一生懸命に考えてくださいますが妻も大変です。最後に、「信仰があるから大丈夫」という妻それが結論かな。
2014年07月14日
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象先生のブログ更新が数日滞っている。これはただ事ではない。神様どうぞ象先生をお守りください。お元気にご用のために立ち上がれますように。奥様もお守りください。
2014年07月08日
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ボクの友人は癌にかかったが、治療をせず天寿を全うした。彼はクリスチャンの両親を持ったが、さまざまな理由でキリスト者となることを拒み続けた。「キリスト教は大嫌いだ」口癖のように言った。しかし年に二度、復活祭とクリスマスには奥さんを連れてはるばるやってきた。名古屋近郊に住んでいた。イースター祝会のページェントで、ボクは彼をキリスト役に指名した。彼はイヤと言わなかった。癌にかかったことがわかったとき、彼はボクがお勤めしていた教会の近くに越してこようとした。アパートを契約し、引っ越すばかりになってからボクの妻が重い糖尿病で治療の身であることが彼に知られた。彼は引越をやめて、名古屋近郊にとどまる。それから名古屋近郊の教会に通い始めた。彼の葬儀は、その教会で執り行われた。癌にかかって治療をせず。それは一つの生き方なのだろう。ボクもそういう一種の「自然的死」を願う者の一人だ。石ころからでも、アブラハムの子を起こす神。だから後のことは心配がない。神に許されるならば早々に御国に旅立つことも好ましいこと。
2014年06月28日
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「受容する」とは、不平不満を心に抱かないこと。「神に委ねる」とは、結果を神に決めていただくこと。「信仰生活」とは、神に心を傾けて生きること。
2014年06月23日
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昨日は「聖霊降臨祭」の家庭集会礼拝をいつもの5人で守りました。この地で3年前にスタートした5人が一人も欠けないでこの日まで来たことそれはかけがえのない喜びです。死んだ長男は、この地への引越を引き受けてくれました。住まいがある静岡市からレンタカーを借りてきて三島→千葉まで荷物を運びました。礼拝に出ていた母は、あの日以来長男には会っていないと、こぼすのです。一度くらいは仕事の休みを取って礼拝に来てほしかったわと言います。それを聞きながら、ボクは思いました。そうだ今日、彼は来ているのではないか!ボクは彼が霊の姿でここに来ていて一緒に礼拝にいる彼の息づかいを感じました。「わたしを信じる者はいつまでも死なない」とキリスト様は言われたからこのように毎週のように彼の息づかいを感じることができる可能性はある。神は死んだ者の神ではなく生きている者の神だから。
2014年06月09日
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旧約聖書の「出エジプト記」を読み終わった。荒れ野をさすらうイスラエルが持ち運ぶ幕屋の作り方や、儀式を行うアロンの服装などの細かい規定で、この書は終わっている。「イスラエルの人々は主がモーセに命じられたとおりに、すべての作業を行った。」と、何度も繰り返して書かれている。神様に従う畏れの心で、忠実に作業をしたことが強調されているのだ。言われたとおりに行うこと、振る舞うことはやさしいのだ。しかしボクたちの信仰は、ただ命令を守るだけの信仰ではない。大切なのは「愛」だと思う。言いつけを守ることと、愛することとは違う。雲泥の差がある。神様をも、隣人をも愛することを求めているのがイエス様だ。
2014年01月29日
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家を出るときはそんなでもなかったが、電車に乗り1時間あまり、だんだん雨が募ってきた。教会に着く頃には風も出ている。そんな中、信徒さんたちは普段の顔で礼拝の準備をなさっていた。礼拝が終わる頃、風雨はさらに募る。一日中、降っていた。信徒さんたちに祝福がありますように。
2013年10月21日
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妻が「どこかの教会の祈りの集まりに行きたい」というのです。そういえば祈りの集いはやっていない。妻と2人の毎朝の家庭礼拝ではだめかな。「じゃぁ、行こうか?」と、水曜日午前中にあることをホームページで確かめて友だちの教会を目指しました。車で1時間15分小さいけれども、熱心に祈る群に加わりました。ボクたちもお祈りしました。「証し」もしました。あぁ~やっぱり祈りの集いはいいなぁ~
2013年05月08日
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固い小さな玉を見つめる玉を追い、玉に命がけボクたちにとっての玉は神だ見える玉ではなく見えない神を目に見るように見つめる玉を追うように神を追い求め生涯をかける
2013年05月04日
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「わたしはあなたの行いを知っている。あなたは、冷たくもなく熱くもない。むしろ、冷たいか熱いか、どちらかであってほしい。」ヨハネの黙示録3章15節(新共同訳聖書)むろん冷たくはなく、熱くあってほしいと願われている。イエスはボクたちに熱く生きてほしいのだ。幾つになっても熱く生きてほしいのだ。失敗しても、へたくそでも、滑稽でも、熱く生きてほしいのだ。
2013年04月24日
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手放したもの失ったものどちらも同じとは神様が教えてくださった悲しみと喜びもきっとそうだ
2013年03月22日
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最近の2回分の礼拝説教をアップロードしました。1月27日礼拝「テモテとの出会い」使徒16章1~51月20日礼拝「和解の努め」2コリント5章17~21第2コリントの説教は妻が語りました。プライベートな部分は編集カットしています。このメッセージはシンプルで恵みにあふれていました。クリスチャンの皆さんに聴いていただきたいです。どうぞ恵みを分かち合ってください。ボクの方は聴かなくても大丈夫です。「西佐津間家庭集会」で検索すれば出てきます。トップページからリンクをたどってくださいませ。
2013年01月29日
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「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。」キリストの言葉~ヨハネによる福音書14章1節この人の言葉なら、何でも耳を傾けたいと思う。そしていつもまっすぐに心にお語りくださり、決して裏切らない。言うとおりにして誤ったことは一度もない。ボクの不思議なスーパーバイザーだ。今朝もいつものようにお語り下さったお言葉。はい主よ、お言葉通り、心を騒がせません。祈りはしますが、心を騒がせません。時には必死で祈りますが、心配はしません。あなたが心配してくださるなら、ボクはあなたの采配におまかせします。
2012年12月15日
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生きることは、死に向かって生きる生きることは、死ぬことでもある死ぬことは、次の命を信じる人にとっては生きることでもある生きることも、死ぬことも同じどちらも神に任せて今日の生き死にに向かう
2012年11月29日
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ボクが聴いたロダール師のメッセージ関東聖化大会最後のメッセージです。取り上げられた中心聖句は「兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。」(ローマの信徒への手紙12章1節)神は無理強い、コントロールをなさらない。むしろ私たちに願われ、勧めをなさる。神の勧めは、私たちの体を神にささげること。私たち一人一人のたくさんの体を、一つの生きたささげものとしてささげる。一つの生きたささげものとは、私たちの体を一つのキリストの体としての教会として。体をささげる~手、足、頭、顔、行動、歩み~毎日のなま身の生活のすべてを神の意志に沿わせること。
2012年10月18日
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妻は1型糖尿病で、いつからか自分でインスリンを作れなくなりました。1日4回、インスリン輸液を自分で注射します。それでも血糖値管理は難しく、注意していなければなりません。そのため自分への義務として午前と夜に散歩に出ます。夜はボクも一緒に出ることが多いです。妻はすれ違う人にだれでも会釈します。声もかけます。運良く会話が始まると、「自分はクリスチャンなんです」と言います。もう一年半、そういう生活ですが、まだクリスチャンに出会ったことはないそうです。友だちや親戚がクリスチャンと言う人は、いたそうです。「あなた、うちに遊びに来てもいいわよ。でも宗教のお話はだめよ」と先日言われて、さっそく訪ねていきました。驚くことに、そこのご主人も糖尿病で、病気のために足指を無くしていたのです。ボクと散歩していた午前、杖をついていた男性に声をかけました。にこにこしながら、例によって、「わたしクリスチャンなんです」というと向こうはビックリしていました。妻の伝道精神は衰えず、一人の回心者を得たいと願い続けています。それに引き替えボクは、そう願ってはいるのですが「ボク、クリスチャンなんです」と初対面の人に言えない意気地なしです。
2012年10月13日
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上記の本を読んでいます。読み始めて、途中別の本に取りかかりまたこの本を手に取りました。あわてたのは、今月14日(日)から3日間「関東聖化大会」が開催され、講師にロダール先生がお立ちになるとわかったからです。第3部「罪の教理」まで、約三分の一を読みました。この本は『神の物語』という柔らかい題ですが「組織神学」の本です。「組織神学」? わぁ~いやだしかしこの本は今まで読んだことがない新鮮な視点で書かれています。神様の主権の中から、分け与えるようにして人に自由意志を与え、人が自由に決断するように求められたこと。それはどうしてか。そのことがわかりやすくていねいに書かれています。愛のナイーブさ。愛する神様、愛される私たち。愛する私たち、愛される神様。その愛の真実の交流を繰り返しながら、神様と私たちの歴史が作られていく・・・・そんなふうに、論じられているのです。どうです?早くロダール先生に会いたい!それにまでには、どうしても読んでおかなければ恰好がつかない!
2012年10月02日
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王様は預言者に罪を指摘された。稲妻に打たれたように正義感の塊のような王様の心が崩れ落ちる。王様の矜恃は崩れ去って子どものように泣き崩れた。王冠は転げ落ちた。こんなにも汚れていたのか。こんなにも破れ果てていたのか~わが心王様の心が煮えたぎった。熱い心の底から吹き出てきたもの、それは「神よ、わたしを憐れんでください。 深い御憐れみをもって、背きの罪をぬぐってください。 わたしの咎をことごとく洗い 罪から清めてください。 ヒソプの枝でわたしの罪を払ってください わたしが清くなるように。 わたしを洗ってください 雪よりも白くなるように。 わたしの罪に御顔を向けず 咎をことごとくぬぐってください。 神よ、わたしの内に清い心を創造し 新しく確かな霊を授けてください。 御前からわたしを退けず あなたの聖なる霊を取り上げないでください。 御救いの喜びを再びわたしに味わわせ 自由の霊によって支えてください。 詩編51(新共同訳聖書から自由な引用)
2012年09月18日
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