セザンヌ

フォトポール・セザンヌ Paul Cezanne (1839-1906)

後期印象派の代表的画家であり、近代絵画の基軸を築いたセザンヌを紹介します。

セザンヌは1839年1月19日、マルセーユ近郊のエクス・アン・プロバンスで
帽子屋の店員で後に銀行家に転じて成功する、ルイ・オーギュスト・セザンヌの
息子として生まれます。エクスの中学時代親友エミール・ゾラと出会います。

父の希望によりエクス大学で法律を学びはじめるますが、途中で放棄。画塾にも通いますが、
国立美術学校の試験に不合格となり、エクスに戻り、銀行で働きはじめます。
父親の反対をやっと説得して、パリを目指したのは1861年セザンヌ22歳の時でした。
以下経歴を年表にて表示します。

1839 マルセーユ近郊のエクス・アン・プロバンス生まれ


1865 サロンに作品を応募するが落選

1866 パリに出る。ゾラ主催の集まりに参加。審査員のドービニーの支持が   あるもサロンで落選。マネを訪問する。

1868 前年と本年もサロンで落選し、故郷のエクスに一時帰郷

1869 後の妻となるフィケと生活をはじめる。

1870 普仏戦争勃発し、レスタックへ移転。

1871 徴兵拒否者として告発される。

1872 息子ポール誕生。サロンで再び落選が続く。

1873 ピサロとともに制作、印象主義を学ぶ。

1874 第1回印象派展に『首吊りの家』など3点を出品

1876 モネにアルジャントゥイユの家に招待される。

1877 第三回印象派展に16点の作品を出品

1878 経済的な困窮、サロンの落選

1881 友人の音楽家のための慈善売立てにマネ、ドガ、ピサロらとともに作   品を出品

1882 審査員ひとりにつき弟子1人の作品を優先出品できる制度がこの年だ   けでき、ギユメの弟子として『L.A氏の肖像』をサロン出品

1883 印象派の画家たちが次第にセザンヌの作品を購入するようになる。

1890 ブリュッセルの第7回二十人会に3点の作品が展示

1892 ルコントが『アール・モデルヌ』誌に「同時代の美術:二十人会のサ   ロン」の文章でセザンヌを新傾向美術の先駆者としてとりあげる。

1894 デュラン=リュエル画廊が作品を取扱いはじめる。

1895 ヴォーラル画廊で絵画と素描展開催。会期中から画家たちが作品が購入し、その後、
    批評家やコレクターに作品が売れはじめる

1898 ヴォラール画廊で展覧会。翌年にもセザンヌ展

1900 フランス芸術100年展に出品

1901 ヴォラール画廊で展覧会。ブリュッセルの自由美術展に出品。ベジエ   での美術協会サロンで展示。
   テントーンステリンク゛国際展に出品

1903 ベルリンでの分離派展に出品。サロン・ドートンヌに出品

1904 サロン・ドートンヌで作品展示のための1室が与えられる。33点を出   品。画壇での地位が確立する。

1905 サロン・ドートンヌに10点出品

1906 死去

1907 サロン・ドートンヌで56作品による回顧展が開催される。


セザンヌがパリに出かけた当時、時はフランス革命、普仏戦争と激動の時代でした。
その社会の中でフランス美術界もまた、1855年のパリ万国博覧会に展示を拒否されたクールベが対抗展を開いたり、1863年官展不合格の不満が生んだ落選者展など、古典主義やロマン主義に反抗する、写実主義や造形主義の台頭が起こり、新風が吹き始めた過渡期でもありました。

ところがセザンヌと言えば、こんな世の中を尻目にひたすら激情的気質にまかせパレットナイフによる厚塗りで、まるでドラクロアの様な絵画をひたすら描いています。
この時代彼は実はロマン主義の画家でした。(1858~71)


そんなセザンヌも1870年普仏戦争の難を避けてレスタックに移った後、
1871年終戦とともにパリ近郊に戻り、ピサロについて印象主義の技法を学びます。

首吊りの家首吊りの家1872~73
「首吊りの家」は三十代の頃の風景画です。
先輩の画家ピサロに、戸外で制作する事と印象派のタッチを教えられ、
光溢れる風景画を描いていたのです。

しかし、セザンヌは次第に不満を抱くようになります。
印象派の教えでは、色は全て光が生み出したものです。その移ろい易い光と自然の表情だけを追いかけていくことに満足できなくなったのです。
セザンヌは印象派の絵にはしっかりした形が無い”と考えるようになりました。

印象主義の次の時代に「私は印象主義を、美術館の芸術のように何か確固たるものにしたいのだ。」と言って絵画の構造を回復し、絵画に知的な支配を及ぼそうと苦悩します。

もっと存在の本質といった堅固なものを描こうと模索するようになったのです。
画家の意欲は、自然が持つ存在の本質”そのものに向かって行きました。
このテーマを追求する恰好の舞台が「静物画」でした。静物画は、英語ではスティル・ライフと言います。
直訳すれば、静止した命といった意味でしょうか。
かつて静物画の画家達は、卓越した技術で色と形と質感を完璧に再現することに心血を注ぎました。
筆の跡などは残さず、画面の隅々までなめらかなタッチで。ではセザンヌの絵は、従来の静物画とどこが違うのでしょう。

リンゴとオレンジりんごとオレンジ 1895~1900
オルセー美術館[フランス]

その一つが、構図です。「林檎とオレンジ」も不思議な構図を持っています。
山のように盛り上がった背景の布。その手前には、木製のテーブルが置かれているのでしょうか?
しかし、左側のソファとの接点が白い布に覆われ二つのものの関係は全く不明瞭です。
更に急激な傾斜を見せるソファ。しかし、白い布は平然と水平を保っています。この絵と同じように配置してみると・・・。
林檎とオレンジは絵に描かれている物より随分小さく見えます。
皿の上の林檎は、絵のように傾けるとどう頑張っても落ちてしまいます。
コンポートの中の果実もそうです。よほど上から見ないと下に置かれている果物は見えません。
つまり、絵のように配置することは不可能なのです。
しかしキャンバスの中では林檎も皿も壺も背景も平然と収まっています。
セザンヌは、何を考えていたのでしょう。この絵のように実際に配置することは不可能です。
何故ならセザンヌ式の見方で描かれた絵だからです。彼は自分が感じたありのままを描くために、
遠近法を無視してあらゆる方向から対象を見て描いたのです。遠近法はルネサンス依頼の絵画の約束事でした。
視点を定めて物の大きさを決めていく方法です。セザンヌは、この遠近法を無視したのです。
そればかりではありません。静物は、動く事が出来ません。しかし、画家は動くことが出来ます。
そう、セザンヌは動いたのです。視点を変えながら、あらゆる角度から見つめたのです。
コンポートの中の果物は、覗きこむように。白い布の上の果物は、水平に見つめ。背景の布は、見下ろすように。
この絵は、あらゆる角度から描かれているのです。
セザンヌは、見て感じた時の空間の感覚を表現する為に現実をそのまま写すのではなく、あらゆる角度から見つめ、
二次元のキャンバスの中に全く別の新しいリアリティを作り上げようと考えたのです。

毎日幾度となく変え続け、ただ見つめるばかりで一筆も塗ることなく時を過ごすこともしばしばでした。
林檎には、色と形があります。匂いも命もあります。その神秘の正体を、平らなキャンバスの中に実現させる。
それが、不可能とも思えるセザンヌの冒険でした。そして遠近法という規則の退屈さに縛られていた物たちを解き放ったのです。遠くにある林檎も近くにある林檎も同じ存在感で描かれています。そして、全ての物達は主人公となって
自らの命を歌い上げるのです。6年の歳月をかけた一枚のキャンバスの中で。

エクス・アン・プロバンスのセザンヌのアトリエ。窓辺にはいつも奇妙なものが置かれています。
それは、主がいた時からの習慣です。朽ち果てた林檎。セザンヌは絵の制作にかなりの時間をかけたために林檎はいつも腐ってしまいました。しかしそれを捨てずに、窓辺に置いて変わっていく質感や色を正確に捉え、生命の終わりの瞬間まで見つめ続けたのです。

さてフランスでは、静物画のことをこう表現しています。ナチュール・モルテ、死せる自然。捨てられなかった林檎。
そこに、セザンヌのもう一つの謎を解く鍵が隠されています。
セザンヌにとって遠近法も視点も無用のものでした。独自の絵画の空間を生み出せればよかったのです。
そのキャンバスから浮かび上がって来るもの。それは、色です。果実の持っている強烈な色。
暖色の頂点にある赤へと転調を繰り返すセザンヌの色です。緑から黄緑、黄緑から黄色、黄色から赤。
その赤も、次第に深みを帯びていきます。生まれ、育ち、熟し、そして腐りいつかは土へ帰っていく命の色。
やがて迎えるであろう死の色すらも微かに予感させる、セザンヌの林檎。そう、全ての果実の色彩は、生と死の途上の姿なのです。

一見すると見たままの自然を描いているように見えますが、セザンヌは自分の思想と知っていることの全てを表現したのです。これが、20世紀の新しい芸術の幕開けとなりました。彼が近代絵画の父と呼ばれるゆえんは、そこにあるのです。

凡そ百年前、画家がいた部屋です。セザンヌは、晩年このアトリエで暮らしながら孤独な道を歩み続けていました。
「私の年齢と健康は、私が生涯追求し続けて来た芸術の夢を実現することを許さないかもしれません」
「おそらく私は、早すぎたのだ。約束の土地に果たして、着くことが出来るだろうか」
自然を模倣するのではなく、その眼とその色で、林檎の神秘の正体の扉に手をかけた時、
新しい絵画の時代は始まったのです。「林檎をパリで驚かせてやりたい」ポール・セザンヌ珠玉の一枚です。


カード遊びをする・・カード遊びをする二人の男たち 1890~95 
オルセー美術館[フランス]

このテーマの連作は5点が知られており、モデルを単独で描いた習作や水彩、デッサンもあります。
人物は5人のもの、4人のものの他に、2人だけのものが3点あり、人数の多いものから少ないものへと措いていったようです。この絵とロンドン大学コートールド・ギャラリーの作品が最も有名で、ほぼ同じ人物と構図です。テーブルをはさんで二人でカードをする簡潔な場面は、古典的な人物像を感じさせますが、彼の個人的な思い出があるのかも知れません。

この絵は右側の男の「座り」が落ち着きません。すごく幅の狭い長椅子に座っているようにも見えるし、ゆったり座っているようにも見えます。一体、彼の後ろには壁が有るのか無いのか ?? この不安定な構図が、カードという次の一手にハラハラ・イライラするゲームの心理を表現しているようにも見えてきませんか。デフォルメによるシンメトリーの構図が活き生きと迫ってきます。 


サント・ビクトゥワール山hirosige-02
サント・ヴィクトゥワール山1904~1906
オルセー美術館[フランス]

特に晩年の色が塗られていない余白部分が素晴しい表現となっているものもあります。
セザンヌは若い頃パリに出ますが、その後は終生生れ故郷のエクスを制作の本拠地とします。
サント・ヴィクトワール山はプロヴァンス地方の象徴的な山で、若い頃からこの山や石切場をテーマに多くの作品を描きました。

1870年代の終わりから1880年代にかけて、セザンヌの絵画手法は独特のタッチを完成させて行きます。絵の具が固有の密度抵抗感を持ちその表面がエナメルやラッカーの様に固く輝いていました。これは彼がフォルム、特に輪郭を丹念に繰り返し修正した結果と言われています。しかし、1885年頃からその手法はだんだんと変化しだし、タッチはリズミカルに軽く、緩やかに配置され、絵の具の盛り上げは薄くなり、完成した時ですら、白いキャンバス地が其処ここに目立つようになります。
キャンバスが全てを繋ぐ媒体になりバランスよく配置された木々やモチーフはセザンヌが描きたい小道具として、重要な役割を果たしていきます。

これは、広重を始め当時パリに出回った浮世絵”の影響があったとされています。水彩画が持つ薄塗りな表現や暗示性の手法が、セザンヌの厚塗りで頑強な絵画をエアリーで透明、かつ自由な感動の美術へと開花させて行くのです。
そして、その独自性の豊かさはキュービズムや抽象主義へと繋がる新しい近代絵画のドアーを開く結果となって行きました。

PS:隣の広重、富岳三十三景と見比べると、その一端が窺える様な気がしてきませんか?

millstone.Millstone in the park of the Chateu Noir


後期印象派 (art at dorian)とは


後期印象派とは、印象派のすぐ後に続いて出現した様々な絵画に対して付けられたラベルです。(大まかに、1886年-1910年の間をカヴァー)

印象派はそれまでの芸術的な信念を打ち壊した。画家たちは、絵画は「何を見るか」ではなく、

「どう見るか」あるいは、「いつ見るか」によるのであることを理解した。
「客観的な見方」とは、物の見方と、時間の両方がかかわってくる。

私達は、つかの間の、瞬間の、支配できない世界に生きている。
この概念をどう表現していくかに、芸術の栄光がある。と・・・

見たものをビジュアル化し、イメージを永久化することに努めたセザンヌ。

科学的に、色の分析を探求したスーラ。
他に、人間の内面を描写することを選んだ画家たちもいます。
実態よりも、象徴的な色と線の関連を探求していきます。

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