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ガストで、どのくらいいたのだろう・・・。
とにかく、兄は親なんて関係ないよ!みたいなことを言って励ましてくれていたように思う。
私は、泣かない様に必死で、よく覚えていない。
私と兄は、あまり似ていない。兄はラクダに似ていて私は犬に似ている。
思春期は、恋人みたいに誤解されて冷やかされるのが嫌で一緒に出歩かなかった。
兄弟に見えないのだから、こんな所でさめざめと泣いたら、兄が悪者だ。
家に帰ったのだろうか・・・さすがに記憶が薄れているが、次の日も休みだったので、兄は 「長野へ行こう!」
と、車を持たない私を長野に連れて行ってくれた。勿論、殿に会うために・・・・。
殿には、全く話し合いにならなった事、起こった出来事をすべて話した。
何度か話し合いを重ねて説得しようと試みたにもかかわらず、全く無駄で私への嫌がらせがどんどん傷の上塗りになるだけだと判断。
「もう、いいんじゃないか・・。やるだけやったし。親が必要か?」
殿は、相当苛付いていたはずだ。でも、私が悪いわけではない。ここは、二人の結束が大事。
そしてなにより、殿の実家は私との結婚を 大喜び してくれていた。自分の実家より嫁ぎ先に可愛がられたほうがいいのよ・・と先輩が励ましてくれたっけ・・・。
災い転じて・・・とはこの事で、普通に結婚話が進んでいたら、親同士がぶつかったかもしれない。私は、親に見捨てられても嫁いでくれる可愛そうな子・・・として、大事にしてもらった。
それに、殿は一人っ子。荒っぽい男の子一人で、働き出してしっかりしてきた息子と酒にだらしない義父は、ぶつかると修羅場だった。
当然、殿の方が正論でやり込めるわけで、義理の父母にしても女の子は扱いやすく、逆らわないので新鮮で可愛かったのだろう。
進もうとしている道は、大歓迎。
退路は絶たれている。
もう、仕方がない。二人できちんと生きていこう。どうせ、親は先に死ぬのだ。
こうして、私達は自分達の貯金で小さな高原の教会で結婚式を挙げることにした。
1995年5月27日・・・。予約をとった。
一応、父には電話で連絡した。
最後までこちらはきちんと筋を通し、招待しよう・・・出ないと言われたら仕方がない・・・というスタンスだった。
父は、強行突破に驚いたようだったが、結婚式まで有に10ヶ月くらいは日取りがあったしそんなに乱暴な日取り設定はしていない。結局、結婚式まで出るのが、最後の親の務め・・・・として、金輪際絶縁することとなった。
母は、こう言った。
「 もう、あなたは家の子じゃないんだから、せいぜいあちらのお宅に可愛がってもらえばいいわ。」
結婚式が、絶縁式。
そんな結婚式だったが、親戚一同に一通一通手紙を書いて事情を伝え、細心の注意をはらった。
費用も自分達の貯金でやり、一切親には世話にならない。とは言うものの、席順とか大人の常識が足りないので、そういうことは一度新潟に帰り、父と殿と私の3人で打ち合わせをすることとなった。
場所は、小さな寿司屋だったか・・父が予約してあった。
殿と、父。 初めての対面である。
父は学校の先生丸出しで、ホッチキスにとめられた書類を配る。
親戚の相関図・住所録・結婚式の席順・過去のお祝いのやり取りの記録。
色々と段取りを聞かれる。ドレスは、一着のみ。着替える予定はなかった。父は、一度位着替えないとおかしいと言い、色ドレス代を出すから着替えてくれと・・そこだけは譲らなかった。実際、後になって考えるとお姫様ドレスを着れて良かった。
数時間打ち合わせというか、確認作業が終わり多少「この子は、小さい頃から体力がなくて寝る子だけどいいの?」とか雑談をして食事した。味なんかしなかった。
そして、私の小さい頃のアルバム・作文・絵画・書道・へそのう・・・私を育てた記憶すべて渡される。私も、ネックレス・イヤリング等返却した。
結婚式が、絶縁式。
まさに、そんな壮絶結婚だった。
休憩を挟んで。その後・・・で締めたいと思います。