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今日は曇りの予報だったけど、午前中はよく晴れましたそれでも最高気温は約31℃で、軽い暑さでした。もう8月の後半ですからね。いや、そんなことは関係ないか。昨年の夏は恐ろしい猛暑で、8月のお盆を過ぎてもまだ9月の半ばまで、連日35℃超えの恐ろしい暑さだったのですからそういえばふと思ったこと。夏の定番の番組である 「心霊写真特集」 とか、今年はまだTVで見てないなあ。。もうどこかの番組でやってたのかしら。いえ、怖いけどちょっとだけ見たい、ってやつです。コワーイ霊にとり憑かれるのは嫌だし、肝試しとかで面白がって霊を怒らせるようなことはしたくないですから。しかし、よく考えたら私って・・・史跡めぐりで古戦場や城跡によく行くのですが、行ったときはやっとこの場所に着いた喜びで?、なーんにも考えずに、現地の写真を撮りまくっているのですよね。そう、古戦場や城跡って、その昔は敵味方となった人々が互いに殺しあい、首を取った、首を晒したなんて場所。想像しただけでも、いちばん怖い場所ではないですか!でもまあ幸い、私の場合は霊に対して鈍感だから霊も近寄ってこないし、「見えないものは見えない」 人なので、史跡めぐりのときは気にせずバシバシ撮ることにしますご紹介する写真は、3年前に東三河の友人が案内してくれた 田峰城跡 です。 愛知県東部の山間部で、地名は聞いたことがあっても自分ではなかなか行けない場所だったので、ありがたかったです。そう、ここもかつて、「天正4年(1576)、謀反した一族96人を惨殺し、街道沿いに主だった者たちの首を並べた」 場所です。きゃあ~~。。 ((+_+ ;))コワイ。。 ★田峯城跡(愛知県設楽町)★ 写真をクリックしてご覧くださいね。そうそう、この田峰城跡では、城跡に関するガイドをしてくださる方がみえます。あと田峰の近くには、棚田で有名な 四谷の千枚田 もあります。興味のある方は、どうぞお出かけくださいねチビ子嬢 :「アタシはいつもえみりーさんのお供をしているから、古戦場はよく行くのよ。 次はどこかしら。」 (ここは関が原の笹尾山です)★以前の小さなデジカメで撮っただけの場所に、デジイチ持ってまた 撮りなおしに行きたいです。
August 22, 2011
今日も底冷えする寒い日でした雨は降らないだろうけど、これでは洗濯物は乾きません。なので朝、仕事に出るときに洗った洗濯物を持っていき、仕事の帰りにコインランドリーに寄って乾燥させてきました。機械で気持ちよく乾いてよかったですさて、私はといえば、昨年末からひいた風邪がいっこうに良くならず、特に今日は咳が酷い状態です。身体は元気で食欲もあるのに、咳だけがとまらない。。あー、先日も体力回復のためにスーパー銭湯に行って、自分なりに体調管理に努めているつもりなんだけどなあ。。こんなわけで、この寒空の中、不必要な外出は控えています。でも、いいです♪年末年始に撮った番組でお気に入りのを「また」観たりして、家でやることはいっぱいあるから。で、今年のNHK大河ドラマは 『江~姫たちの戦国』 。この番組の影響で、世間ではまた戦国ブームになるでしょう。そこで、今日ご紹介するのは、昨年12月の初めに行ってきた、『四季桜』 で有名な愛知県豊田市 小原町 にある市場城址です。あのときにUPした日記はコチラです。 ↓ ↓ 2010-12-03 日記 『史跡のちょっと違った楽しみ方~市場城址』 写真の内容はほぼ同じものですが、アルバムのほうでは戦国マニアの方向けの史跡の写真も入れました。では、どうぞご覧くださいませ 市場城址(愛知県豊田市) 写真をクリックしてご覧くださいね。市場城址に関して興味を持たれた方は、『小原村 市場城址』 で検索してみてくださいね。私は説明を書くのを省きましたが、いろいろな方がお調べになってUPしていますので。アタシにはよくわかんないのだけど、えみりーさんはときどき山の中に連れてってくれるのよ。でもね、えみりーさんはユルイ山しか登らないのよ。根性ないから、登るときにゼーゼーハーハー言うような山は、ダメなんだって。
January 15, 2011
今日は全国的に、突風や大雨で大荒れの天気でしたね私が住まうエリアでは、午前5時頃から激しい風雨がありました。ちょうど新聞配達の時間だったから、配達員の方はたまったものじゃなかったでしょうね。夏の台風と違って冷たい雨が横殴りで。嵐の時間帯に外でお仕事だった皆様、本当にお疲れさまでした。さて、昨日行ってきた愛知県豊田市小原町の 市場城址 の写真を今日もご紹介します。歴史、特に戦国史が好きな男性は、この市場城址のように建物がなくて石垣ぐらいしか残っていない城跡に来ると、わくわくと胸が躍るとのことです。興味のない人が見れば、この場所は小高い山の中に石垣が残っているだけの場所。しかし戦国マニアの(特に)男性が見ると、頭の中で妄想・・・失礼、、自身が信ずる歴史の説が頭の中を駆け巡り、ここに空堀があった、○○があった、あの戦いは敵がここから攻めてきた、自分だったらこちらからこう攻める、防御ならこうする、・・・etcこんなことを考えながら現地を実際に歩いてみて、時間の許す限り、納得するまで城跡を見ています。私も以前どこかの史跡で、腕組みして史跡を見つめ、たたずんだままちっとも動かない男性を見かけました。果たしてあの方は、何を考えて、いつまであそこにいたのか。。私は以前こういった史跡を廻っていても、さほど面白みは感じませんでした。しかし3年ほど前から写真の達人の皆様とオフ会でご一緒したり、撮るのが上手な方の写真をいっぱい見るようになってから、ものの見方が変わりました。山城の史跡って、けっこう味わいがあります道中では自然の草木や花や鳥を愛で、天気の良い日なら青空に木漏れ日が美しい。こんな場所に人力でこのような物を作ったのか、と思うだけで感動。くねくね曲がった山の中の細い道は、車で走るのは嫌だけど、気ままに散策で歩くなら楽しい♪歴史愛好家の方からしたら、「あんたの楽しみは、そっちかい!」 ってお叱りを受けそうですが、今回の市場城址もモデルさんを連れて、こんな気分で歩いていました(よろしければ昨日の日記の写真もご覧くださいね)本丸の石垣の前にある二ノ丸跡。石垣の上の本丸跡はこうなっています。石垣から見下ろすと、こんな感じです。石垣の角を上から見たところ。本丸跡からの展望。本丸から、下の 「さんざ畑」 を見下ろしたところ。 四季桜が満開です本丸からぐるっと廻って降りてきて、さんざ畑に入るところです。この道の途中にあったマニアックな史跡は、また別の形でUPする予定です。もう師走なのに、天気がよくて暖かくて、散策には最適でした。お日様のおかげで草花が明るく輝いていました。
December 3, 2010
朝は雲が多いけど昼間は晴れるという今日、午前中は洗濯をやりながらのんびりやって、さて今日はどこに紅葉を見に行こうかと探していました。どこか見晴らしのよい高い場所に行きたい。そんな気分だったので、高速の中央自動車道を走って中津川の 苗木城跡 に行こうかと考えていました。しかし、出る前に高速道路の渋滞状況を確認したとき、あら?珍しく名神高速の一宮 IC周辺が空いている。これを見たときに、ふと 『関ヶ原』 という選択肢が。距離的にも関ヶ原のほうが少し近い。 こんなことを思ったら、気持ちはだんだんと関ヶ原のほうへ。時間的にも時計を見たらもう12時を過ぎていたので、今回は 「高い場所」 をあきらめて、岐阜県不破郡の 関ヶ原の戦い の古戦場に行ってきました。 思い立って出かけたので下調べをする時間もなく、今日は以前行ったことがある 石田三成陣地跡 で散策することにしました。でも、これが意外に正解でした笹尾山に植えてある紅葉が、見事なまでに真っ赤思いがけない場所で紅葉を楽しめました。石田三成陣地跡に到着。 馬防柵の向こうに、真っ赤になった紅葉が見えます。島 左近の陣地側から上ってみたところです。馬防柵はこんな感じになってます。馬防柵から見た景色はこんな感じです。(ワンコ視界?)笹尾山の上に、石田三成の陣地跡があります。展望台(三成陣地跡)より見た、関ヶ原の風景。古戦場から眺める紅葉と景色も、なかなか味わいがあります。といっても、これは平和な現代だからこそ言えること。明日の我が身がどうなるかわからぬ戦国時代では、そんな悠長で風流な気分になれなかったでしょうね。いや、それでも覚悟を持って日々生きている人には、ふとした折に何かの美を感じることがあったでしょうか。
November 28, 2010
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は予定どおり、自分がUPしたい歴史のことを調べてきました。今日はそのことで日記を書くつもりだったのですが、これは丁寧に書きたいことなので、また後日にそこで今日は、先日NHKで放映された 歴史ヒストリア~『真田幸村 ザ・ラスト戦国ヒーロー』 が面白かったので、番組の内容をまとめることにしました。真田幸村が34歳のときの 1600年、関ヶ原の戦い が起こる。父・真田昌幸と幸村は西軍に付き、信州・上田城では徳川軍を撃退する。しかし西軍が関ヶ原で破れたため、昌幸と幸村の親子は和歌山県の九度山へ幽閉される。幸村は30代~40代の働き盛りの時代を、不遇のうちに過ごす。九度山では一族郎党の約50名を養うために苦労の日々。身内に無心し、九度山の人々からも援助を受ける。九度山の人日は幸村に対して好意的であり、幸村も里の人々と絆を深めていく。幽閉から14年めの48歳のとき。大坂から全国の牢人に向けて、「豊臣に力を貸し、徳川と戦って欲しい」 と知らせが入る。幸村は再び戦国武将として生きることを決意。徳川方の厳しい監視の中、九度山の人々の協力のもと、大坂に向けて脱出する。大坂城には、いずれも徳川の世では生き難い男たちが約10万人集まる。1614年、大坂冬の陣 が始まる。徳川方の約20万の軍勢に対し、大坂方の牢人たちは、『世の中を変え、我が名を挙げる絶好の機会』 とばかりに必死に戦う。中でも有名なのは、“戦上手”の幸村が大坂城の最南端に作った 『真田丸』。真田軍は砦から徳川方に罵声をあびせ、それに怒った徳川方が攻めてくると(砦に近づくと)中から鉄砲その他で攻撃。徳川方の死者は数知れず。こういった活躍もあり、大坂冬の陣は和睦で終わる。しかしこの和睦の後、大坂城は内堀まで全ての堀を埋められ、真田丸も取り壊される。これにより大坂方が一気に不利になる。1615年、大坂夏の陣幸村は鎧兜を、高価で手間のかかる 『赤備』 にする。赤は、『勇者、誉れの色』 。バラバラの牢人たちの心を一つにする。徳川家康の本隊を目指し、幸村軍の総攻撃。そして 「あと少しで家康のもとへ」、というところで徳川軍の援軍に敗れる。天王寺区の安居神社まで押し戻され、そして最期の時を。享年49歳。その日の夜に大坂城は落城。戦国武士たちの時代が終わりを告げる。しかし幸村のその戦いぶりは、徳川方の武将たちからも賞賛される真田、日本一の兵(つわもの) 古(いにしえ)よりの物語にもこれなし (島津家の記録より)古今これなき大手柄 (細川家の記録より)不遇の時代を過ごすも、最後の戦国武将の花を咲かせた幸村の勇姿。人は幸村に勝者の伝説を夢見る。さて、番組を見た私の個人的な感想。真田幸村というと、どうしても“華”の部分が印象的ですが、九度山では本当に我慢の日々だったようです。でも人と人との絆を大事にし、人の心を掴む幸村だからこそ、人を魅了するリーダーとなったのでしょうか。大坂夏の陣で、幸村が徳川方の伊達軍と対峙したとき。得意の戦法で伊達軍を後退させ戦場から引き上げるとき、徳川方は恐れをなして追い討ちをかけることができず。その様子を見た幸村は徳川軍に向かい、叫ぶ。『関東軍 百万も候へ(そうらへ)、 男は一人もなく候(そうろう)~~。』 (北側覚書)いやあ~。。カッコイイですね~大将がこんなことを言ってくれたら、家臣の皆は胸がスッとするでしょう♪昔の武士は、罵詈雑言を言われただけでカッとなって敵に向かっていくほど、己の誇りが大事です。(あ、これは感情がシンプルな人限定か?)そして大将というのは、全軍の指揮だけでなく、みんなの気持ちを鼓舞する (=大いに励まし気持ちを奮いたたせる、勢いづける) ことも、大きな仕事なのです。これは現代でも共通ですが。ただ、負ける(=死ぬ)とわかっていても戦いに挑むのは、本人はともかく、それ以外の人にはどうなのか。逆に、その時の権力者に従い、時代の流れに乗って一族郎党の生命と生活を守る。これも大将としての誇りある生き様ではないか。そんなことも、ふと思ったりもしました。真田幸村がまさに命を賭けて守りぬこうとした豊臣秀頼と大坂城。幸村が命を落としたその日の晩に、秀頼は自刃。城も炎上しました。大坂場内のジオラマ。 真田幸村は大坂の陣のヒーローです。Natsu&Kei
September 10, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(昨日の日記の続きです)杉原千畝から命のビザを受け取ったユダヤ人たちは、もうこれで命が保障されたわけではありませんでした。ソ連領内を通過するときはソ連の秘密警察に疑われないように大きな荷物は持たず、ほとんど着の身着のままの脱出。約9000kmを鉄道で移動。 季節はもう秋から冬へ。極寒のシベリアの地を過ごせる格好ではなく、気候までもが彼らを襲う。ありったけの服を着て互いに身を寄せ合い、命がけでソ連領内を通過しました。ソ連を出て船が日本の領海に入ったとき、ユダヤ人たちはようやくひと安心できました。船は福井県の敦賀港に入港。敦賀の人々はユダヤの人々を好意的に出迎え、食事や寝る場所を提供しました。それから彼らは神戸へ。ここの異人館に空き家があったのでしばらくはそこに滞在。そして彼らの多くは、神戸からキュラソーへと出航していきました。一方その頃の千畝は、ヨーロッパの領事館をいくつか転勤となり、終戦となる1945年までルーマニアのブカレストで過ごしました。日本の敗戦により千畝はブカレストの収容所へ。1947年にようやく日本に帰国できました。帰国後の千畝を待っていたのは、外務省からの冷遇とあらぬ世間の誤解。外務省を退官した後は、得意のロシア語を活かして商社で勤務するものの、息子が病気で他界するなど、千畝には辛いことばかり続きました。時は流れ、終戦から23年がたった1968年の夏。イスラエル大使館から千畝に1本の電話が入り、招かれて出向いていくと、応接室には一人のユダヤ人男性が。彼はボロボロのビザを千畝に見せました。それは28年前のあのときに千畝が彼に渡した、そう、『命のビザ』 だったのです。日本を出て行き延びることができたユダヤ人たち。駅のホームで 「あなたに必ず会いに行く!」 と叫んだあの約束を果たすのに、それから28年の歳月が流れました。彼らは終戦後、必死に千畝を探し続けました。しかし千畝はすでに外務省を辞めていたし、ユダヤ人の彼らは千畝の名前を 「ちうね」 ではなく 「センポ」 と覚えていたために、いくら調べても見つけられなかったのでした。涙ながらに再会を互いに心から喜び合う二人。言葉では語れないほどの千畝への深い感謝。杉原千畝記念館には、千畝がイスラエル政府から受けたいくつもの勲章が展示されてます。彼らが千畝に対して、どれほど深い感謝と尊敬の念を持っているのかを実感できるものです。感動しました。『人道の丘』 より少し手前にある 『世界に奏でる平和へのビザ』 の鐘の音を動画でご紹介します。(片手で撮っているので画面が揺れますが、こんな感じの音色です。)※音声が入っています。 音を出せない環境の方はご注意ください ★『愛、勇気、心』 の平和の鐘(岐阜県八百津町)★ 写真をクリックしてご覧くださいね。このモニュメントは、杉原千畝が勇気を出して発行した 『ビザ』 と 『人間愛の心』 を一枚一枚高く積み重ね、『命の重み』 を表現しています。この3つの塔が表すもの、それは、『 愛 ・ 勇気 ・ 心 』世界に響け、平和への祈りよ、人間愛の心よ。杉原千畝記念館のパンフレットと入場券。Natsu&Kei
August 13, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆まもなく終戦記念日(戦没者を追悼し平和を祈念する日)ですね。今日の話は第二次世界大戦に関することです。杉原 千畝(すぎはら ちうね)皆さんはこの方の名前を、あるいは 『六千人の命のビザ』 という話をご存知でしょうか。2005年の秋には反町隆史さん主演のドラマで、『六千人の命のビザ』 が放映されました。20年近く前には加藤剛さん主演で、同タイトルのドラマが放映されました。感動のドラマでした。杉原千畝氏の生まれ故郷である岐阜県八百津町には、氏の栄誉を讃えた記念館があります。先日私は八百津町に行って、杉原千畝記念館を見学してきました。中に展示してある戦争関連の資料や命を救ったビザ等は本当に素晴らしい資料です。以下は、そのときの内容と写真をまとめたものです。1940年。ヨーロッパで第二次世界大戦が勃発。ナチス・ドイツがヨーロッパの各地を制圧し、ナチスはユダヤ人を徹底して迫害し虐殺する。外交官の杉原千畝が赴任するリトアニアでも、ナチスのユダヤ人への迫害が激しくなる。ユダヤ人たちは一刻も早く、安全な第三国であるカリブ海の小島のキュラソーへ逃げなければいけない。しかしヨーロッパ各地はナチスによってすでに封鎖され、大西洋を渡ってキュラソーへは行けない。唯一可能な方法はソ連~日本を通って太平洋を渡ること。そのためには是が非でも日本の通過ビザが欲しい。「私たちにビザをください!」日本大使館の門の前には大勢のユダヤ人たちが毎日毎日押し寄せる。すがりつき祈るように、彼らは執務室の窓を見つめる。千畝は彼らの窮状を知り、日本本国に再三ビザ発給の許可を願い出る。しかし返答は「否」。いったい自分はどうしたらいいのか。軍国主義の時代。国家の命令に背けば我が身がどうなるかわからない。そんな時代に、千畝は人道的見地より独断で、彼らへのビザの発給を決断する。限られた約1ヶ月の期間内に、千畝は一心不乱にビザを発給し続ける。「ビザがもらえる」 という噂がまたたく間に広まり、連日大勢のユダヤ人が大使館に押し寄せる。千畝はまさに不眠不休となった。ペンを持つ千畝の手が腫れ上がる。やがて大使館から退去するよう命令が下る。千畝はわずかでも時間がある限り、滞在中のホテルで、いよいよリトアニアを出る駅のホームで、ひたすらペンを走らせビザを発給し続けた。1枚でも多くビザを!しかしビザが全員に行き渡ることはなく、救うことができなかった命を思い千畝は悲しみに暮れる。動き出した列車。駅での最後の別れのとき、ホームにいたユダヤの人々が千畝に向かって叫ぶ。心からの感謝をこめて。「ミスター・スギハラ、私たちは生き延びて、必ずあなたに会いに行きます!」 と。6月に八百津町に行ったときのアルバムです。よろしければ、どうぞご覧ください。 ★人道の丘公園(岐阜県八百津町)★ 写真をクリックしてご覧くださいね。上の写真に書かれた文字は、杉原千畝氏の座右の銘となった自治三訣です。 人のお世話にならぬよう 人のお世話をするよう そして報いを求めぬよう(明日の日記に続きます。)Natsu&Kei
August 12, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆昨日の夜に念願のデジイチが手に入り、今朝ちゃんとバッテリーの充電もできていました。さあ、これで今日から撮る練習を開始♪・・・のはずでした。しかし天気も良くないし、なにより我が家のモデルさんたちのテンションが低い。。だから今日はほんの数枚しか試し撮りをしてません。というわけで今日は、約4ヶ月前に行った 清洲城 (愛知県清洲市)周辺の風景をご紹介します。(この日はイベントで清洲城が大混雑していたので、城内には入っていません)最近TVの歴史番組で、よく織田信長を見る気がします。私は日本史全般が好きだし、織田信長に関することは今までにTVや本でいっぱい見ています。それでもなぜか、信長の話は見てしまいます。歴史上の人物は、それを描く人によって見方が全然違ってきます。こと信長に関しては、「やり方は荒っぽいけど、これだけのことを成し遂げた」 と評するときと、歴史上の出来事は淡々と述べたうえで、とにかく残虐非道だった面を強調するとき。また信長が第一とする女性が、才女の誉れ高い正室の濃姫か、あるいは嫡子・信忠の母であり最愛の側室と言われる吉乃の方か。私と私の周囲にいる歴史愛好家の方々は信長のファンが多く、従って見方も信長の肯定派。マイナスの要素は承知の上で、信長の戦い方や政治のやり方を興味深く見ています。郷土のヒーローということもあるのでしょうか。そうそう、信長が10年ほど居城とした 岐阜城 が、夏のライトアップと夜間営業を始めるようです。機会があれば一度見てこなければ清洲城に到着。 石垣の見本です。石垣の構造。 コンピューターも重機もない昔の土木技術。人々の知恵は素晴らしいですね。清洲城。 イベントと重なったため、人がいっぱいでした。1560年、桶狭間の戦いの出陣で檄を飛ばす信長の像。(安土駅前の信長の像よりカッコイイらしい)清洲城、実は再建の際に五条川の向こうに移動してしまいました。天守台跡から眺めた庭園。天守台跡は眺めもよく、絶好の休憩所です。(お弁当持参の老夫婦)特に 『鉄』 の方にはたまらないかもJRの在来線と新幹線が、清洲城跡を分断しています。列車の車窓からも、清洲城はよく見えます。Natsu&Kei
July 10, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は、先日 『写真大名』 でご紹介した尾張徳川家の最後の藩主である徳川義勝公と明治維新についてお話しますね。(以下、NHK名古屋 5月15日放送 「金とく」 より抜粋)美濃の高須藩より尾張徳川家の養子となり、1849年に第14代藩主となった徳川義勝。藩主に就任以来、まず尾張藩が抱えていた大借金を返済すべく、財政改革に着手します。そして借金を返済し、尾張藩の力を取り戻します。1853年に黒船が浦賀に来航。その折に、アメリカの要求のまま開国をしようとする幕府に対して、義勝は海軍力をUPし朝廷と協力を、と主張。そのため幕府から蟄居謹慎を命じられます。(このときは義勝の弟・茂徳が尾張藩主になる)そしてこの謹慎中の1861年に、当時外国から入ってまだ間もない写真機をプレゼントされます。“見たままが写る” 写真機。義勝はどんどん夢中になっていきます。1864年、第一次長州征伐。このときに義勝は謹慎を解かれ、長州征伐の幕府軍の総督に就任。陣を敷いた広島城には大掛かりな写真機も持参。滞在中は広島城とその周辺を写真に収めていました。義勝は広島城に1ヶ月半滞在しただけで自身の出陣はなく長州軍は降伏。これは、「長州をたたくと日本の国が弱体化し、より外国に狙われ攻撃されるだろう。それよりも長州と和平交渉をして、長州を温存しておくのがよい。」という義勝の考えによるものでした。しかしこのやり方は幕府から手ぬるいと批判され、義勝の心は幕府から離れていきます。その後、義勝は尾張藩の軍備を増強。そして1868年に戊辰戦争(明治維新)。このとき尾張藩は、東海道と中山道の結節点にあり、62万石を有する大藩。この地で大軍を擁する尾張藩が朝廷軍か幕府軍か、どちらに付くかがが重要なカギとなりました。義勝は、徳川御三家筆頭の尾張藩主として悩みます。そして朝廷を尊重するという自らの信念に基づき、新しい時代を作る(朝廷側)ほうを選択します。義勝は東海道と中山道の各藩に、朝廷側に味方するよう説得。結果、朝廷軍はすんなりと江戸まで進軍。義勝の決断と働きによって、明治維新が一気に加速したのです。しかしこれは同時に、絶対的に幕府に忠誠を誓った弟2人(会津藩主 松平容保と、桑名藩主 松平定敬)との決別でもあったのですが。時代は明治になり、義勝は名古屋城とその周辺の写真を集中的に撮っていました。というのも、明治3年に名古屋城の取り壊しが決定されたので(結果的には、二ノ丸を壊されただけ)天下の名城が取り壊しになる前に、少しでも記録を残したかったのでは、と言われています。明治4年、義勝は財産を没収され、東京の下町へ移住。殿様から一個人の生活へ。この頃から義勝は、庶民の暮らしを撮るようになりました。幕末から明治初めの、激動の時代を記録した義勝の写真コレクション。そこには歴史をつむぎ出した人々の営みが映し出されていました。今回ご紹介した徳川義勝やその弟たちに関することは、こちらをご参照ください。 高須四兄弟 私自身、名古屋で生ま育ちながら、尾張徳川家といえば、初代の義直公と七代の宗治公しか知りませんでした。この番組のおかげで、重要な働きをした殿様をまた一人知ることができて、よかったです 徳川義勝 (コチラにもちゃんと載っていました)岐阜県海津市にある海津市歴史民俗資料館にて。資料館の3階には高須松平藩御館の一部を復元してあります。Natsu&Kei
June 29, 2009
♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠このブログの日記UP件数が、今日で “1867” 件。最近はこの件数の数字がとても気になります。なぜなら私の大好きな歴史の、幕末の時代だから。ちなみに1867年は、和暦では慶応3年。明治の世に変わる直前の、激動の時代でした。身分の上下を問わず誰もが国の行く末を案じ、政治を論じた。己の信ずる新しい時代を作るための戦いに志願し、命を賭けた者もいた。世の不安が 『ええじゃないか』 で現れ、東海・近畿で流行した。15代将軍・徳川慶喜が朝廷に大政奉還し、明治天皇の王政復古の大号令があった。そんな時代でした。さて、先日NHK東海・北陸の地域限定番組である 金とく で、興味深いものがありました。5月15日放送の、『殿様は見た!~ 尾張藩主 徳川慶勝が撮影した幕末~』 です。江戸時代、徳川家の御三家筆頭の尾張徳川家。幕末期の藩主であった徳川義勝公は、この時期に外国から入ってきて間もない写真機に夢中になり、『写真大名』 とまで言われたお方です。今のような手軽なデジカメなどではなく、1枚の写真を撮るためにとても面倒なことをして撮った写真。その義勝公が撮った1000点超の写真は、当時の時代の変遷を知るうえで、「これほどの資料は他にはない」とまで言われるものです。義勝公は 1853年の黒船来航の折に幕府と意見が対立し、そのため蟄居謹慎の身となります。しかし謹慎が解け再び藩主となるまでの間に写真機をプレゼントされ、写真に夢中になり研究に没頭します。自分で薬剤を調合し、帳面を作り、秘伝として記録していきます。番組では、義勝公が撮った数々の素晴らしい写真を紹介しつつ、義勝公が明治維新に大きく貢献した話がありました。ただこの義勝公の政治的役割の話をすると日記が恐ろしく長くなるので、これはまたの機会にしますね。わたしが住む愛知県は、戦国時代のヒーローたちはたくさんいます。でも幕末期は名のある人物の話はほとんどなく、少々寂しい感じでした。しかし番組のおかげで、「ここに素晴らしいお方を発見した」、そんな気分です。『義勝公と明治維新』 の話はまた近いうちにまとめてUPするので、また読んでくださいね私が持ってるちょっと珍しい名古屋城は、これぐらいでしょうか。年に数日しか撮る機会のないアングルです。今のように誰でも手軽に写真が撮れる時代を見たら、義勝公もびっくりされるでしょうね。でも義勝公なら機器類を使いこなして、プロ級の写真を撮られると思います。♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠
June 14, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は先日行ってきた 大阪城 の写真をアルバムでご紹介しますね。この日に大阪に行くことが決まって、さて、どこを観光しようかと、行く前にあれこれ検討しました。 真田信繁 (←真田幸村の本当の名前)関連の史跡も前々からどこか行ってみたかったので、だいたいの場所も確認しました。しかし私が大阪・京都に来るときは、基本的には日帰りの行程。なので家のことをやるために朝早くから起きているし、宿泊じゃないから荷物も持ったままの移動。それに私は、地元じゃないエリアに一人でいるときは、いくら慣れた大阪・京都でも独特の緊張感を感じてます。なので、昼頃には体力的にかなり(地元、もしくは頼れる人が同行だったら、朝早くて荷物を持っても、5~6kmは平気で歩けるのだけどねー)というわけで、今回もまた真田関連の史跡は廻れず写真仲間の方に 大阪周遊パス2009 という便利なのを教えてもらったので、いつかこれを使ってゆっくりと大阪を廻ってみたいものです。となると、1泊しなきゃいけない・・・ですねしばらくは無理かなでは、唯一? 大阪で観光してきた大阪城のアルバムを、どうぞご覧くださいませ ★新緑の大阪城★ 写真をクリックしてご覧くださいね。桜の季節は過ぎてしまったけど、新緑の大阪城公園もいい感じでした。これから暑い季節になってくるから、大阪城公園の緑の中を歩くと、爽やかな風を感じて大都会の森林浴ができそうですね。Natsu&Kei
April 28, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆昨日の水曜日は、ちょっと大阪に行ってました。大阪に行った目的は 姫野さん のコンサートでで、せっかく大阪まで行くのだから、また京都か大阪で観光しなければ。久しぶりに大阪城を見てこようかな。しかし行く前に地図で見て、大阪城の広さにゲッソリ。。疲れるからやっぱやめようかな~。ならばもう成り行きまかせで適当に♪そう思いながら朝9時半頃に席はE列でした。ということは、窓はほぼ北側を見る風景。車窓から眺めるよく晴れた日の景色は、清洲城、関ヶ原、安土・・・あー、やっぱ大阪城に行くべきか。そう思っていたら、京都に着。私が関西方面に来るときはできるだけ京都に寄ってあることをやってくるのですが、この日に限って珍しく、京都で不快になる出来事がありました。あー、もう京都で観光する気が失せた。だから所用の後は休憩してすぐ大阪へ移動。大阪(梅田)には午後1時前に着。午後5時にはまた梅田に戻るため時間があまりなく、結局 大阪城 に行くことにしました。今回はJRの大阪城公園駅から入りました。駅から外堀にたどり着くまででも広い! と思ったけど、外堀に着いたときさらにその広さを実感。この日は結局、梅田に戻るまで大阪城にいました。東外堀。 うわ~。。大きい!!(説明板によると、総延長は約3km、堀の幅は最大90m だそうです)これを江戸時代の大阪の陣の折に、いったいどれぐらい動員して「全ての外堀と内堀」 を 「人力」 で埋めたのか?!と思ってしまいます。青屋門と石垣。 まだ内堀にも到達していません極楽橋と大阪城天守の遠望。あの大きなお城があんなに小さい。。まだまだ先なのですね。1615年、大阪夏の陣のとき、豊臣秀頼と母の淀君はこのあたりで自害したそうです。ベンチの向こうに見えるのが、『自刃の地』 の碑です。やっと大阪城の天守に到着。この日はどこかの小学生たちが社会見学に来ていて、天守の最上階の展望部分から下にいる(見ず知らずの)人々に、叫びまくっていました。子どもの声は高く澄んでいるので、よく聞こえました天守内にあるジオラマ(これは撮影可)大阪の陣の折に活躍した、真田幸村隊の戦闘シーンです。大阪城といえば豊臣秀吉だけど、真田幸村も人気は抜群です。来城記念に、戦国武者になりましょう♪1回300円で陣羽織と兜が試着できます。外国の観光客が多いのか、英語・中国語・韓国語・台湾語で案内がありました。大阪城には休憩しながら4時前までいました。その後は梅田に戻るためにJR森ノ宮駅に出ました。根性がないので、今回は大阪城の東半分を見ただけにとどめましたもし誰かに、「外堀を1周しよう」 と言われたら・・・・・私・・・どこかへ消える・・・かも大阪城公園の風景。 広い敷地内に木々が生い茂っています。夏場とかは気持ちのいい空間になるでしょうね。Natsu&Kei
April 23, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は愛ニャンの小太郎と康太郎の誕生日なので予定では、家にいてまったりと、ふたりのお誕生会をやる予定でした。しかし朝になって急に夫が、「高速道路が今日から安くなったから、どこかへ行きたい。」と言い出しました。あー、そうですか。。じゃあ、そうしましょうか。道路状況を見たら、中央自動車道のほうはそれほど混雑していないみたい。でも今日は夕方までに帰宅しなければいけないので、松本城と諏訪湖だけ行くことに。そしてチビ子嬢を連れて高速道路でのドライブに行ってきました。ただ帰り道、案の定、夫が“電池切れ”になりました私も眠気でウトウトしてたけど、夫が運転不能状態になったので私が走るしかない私が運転したのは90kmくらいだけど、疲労+緊張する長いトンネル(恵那山トンネル)もありました。それでもまあ、土岐ICを過ぎたら家が近くなったので、急に元気になったりもしたのですが。そして夕方7時半に帰宅そんなわけで今日はぐったり疲れました。。なので今日の日記は、写真を貼って簡単に解説したものだけにしますね。 松本城 出典 : フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』中央自動車道を走るのも久しぶりかも。信州の雪山も、本当に久しぶりに見た気がします。あら、チビ子嬢ったら、なんか色っぽい座り方ね♪昼過ぎに松本城に到着。ただ残念ながら時間の関係で、お城の中には入らずでした。外国人観光客もたくさん来ていました。ここに着いたら曇り空から青空になりました。ラッキー♪松本城のお堀の水は、浄化がしっかりしていて澄んでいます。お堀の両側に植えた桜も、ツボミがかなり膨らんでいました。来週の今日はちょうど満開かも。松本ICから再び高速に入り、岡谷ICで下りて諏訪湖へ。チビ子嬢が不思議そうに、大きな湖を見ていました。 片倉館 。ここで温泉に入って休息でした。帰りは高速料金が変わらないから、諏訪ICに回りました。途中、諏訪市役所の目の前にある高島城に立ち寄りました。ここも外からお城を見ただけです。Natsu&Kei
March 28, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は先日行ってきた 岩崎城址 (愛知県日進市)をアルバムでと紹介しますね。この岩崎城は有名じゃない小さなお城だけど、個人的には好きな城です。ではどこで出てくる城か。はい、 1584年の『小牧・長久手の戦い』においてです。参考 :フリー百科事典『ウィキペディア』 小牧・長久手の戦い長久手町教育委員会 編集 : 劇画 『小牧・長久手の戦い』1852年、織田信長が本能寺の変で倒れた後、羽柴秀吉と徳川家康が対立するようになる。そして 1584年、ついに両者は合戦へ。はじめは犬山城から小牧山城にかけての一帯で戦いとなるも、そのうち秀吉と家康がにらみ合ったまま動けない状況になる。この戦況を打開しようと秀吉は、家康の本拠地である岡崎を攻撃することに。秀吉方の武将の 池田恒興(いけだつねおき) や 森長可(もり ながよし) らが、秀吉の甥の三好秀次を総大将として、約2万の大軍で進撃を開始する。秀吉側の三河進撃隊は小牧から現在の春日井市篠木、そして愛知郡長久手町から日進市岩崎を通って、岡崎に向かっていた。秀吉は家康に気づかれぬよう岡崎に行くのを急ぐため、途中の小城にはかまわぬよう三河進撃隊に指示する。しかし岩崎を通ったときに、城の留守を守っていた 16歳の丹羽氏重らは、進軍を少しでもくい止めようと、約300名の城兵で先鋒の池田恒興隊:約7,000名に戦いを挑む。そして岩崎城の兵は全員討ち死にとなる。それでもこの岩崎城での戦いによって池田隊の三河への進撃が遅れ、家康に有利な展開となる。結果、長久手での戦いで家康が秀吉に勝つこととなった。あの時代にこの地で、このようなことがあったのですね。城を守る300名の城兵が 7,000名の敵兵に向かっていくということは、もう最初から生きては帰れないということ。それでも敵に向かっていった。その甲斐あって彼らの命はその後の戦局に大きく影響し、無駄死にとはならなかった。さほど有名じゃない地だけど、歴史に大きく影響を与えた出来事があった場所。私にとって、より感銘を受ける城です。今回もアルバム内で説明板の写真を載せました。画面右上にある【アルバムへ戻る】をクリックすると、このアルバムのサムネイルが出てきます。その中でご覧になりたい写真をクリックするとスクリーンサイズになり、さらに写真をクリックすると元画像になります。元画像なら細かい文字や図もだいたいわかると思います。ではどうぞ、ご覧くださいませ ★岩崎城址(愛知県日進市)★ 写真をクリックしてご覧くださいね。純白の椿の花。ここに眠る城兵たちへの慰霊かもしれませんね。Natsu&Kei
March 13, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は、先月の半ばに三重県の伊賀上野城に行ったときの写真をご紹介しますね。伊賀上野城は内堀にあるとても高い石垣で有名です。名古屋城でも石垣の高さは13メートルくらい。この伊賀上野城の石垣は30メートル。名古屋城をイメージすれば、それだけでもかなり高い石垣ですよね。ちなみに 「石垣 高さ 日本一」 検索でしてみたら、香川県丸亀市ある丸亀城が出てきました。『扇の勾配』 と呼ばれる美しい曲線の石垣は、高さが約60メートル。これは山麓から山頂まで4重ある、総高の60メートル。鳥瞰図で描かれた絵を見たら、なるほどスゴイものです。よくぞここまでいっぱい積み上げたと思うほどに。(私はまだ丸亀城を現地で見たことはないですが)しかし伊賀上野城は、1つの天守台でこの高さ。内堀の石垣が30mというのは日本一らしいです。今から400年以上も前に造られた石垣や天守。今のようにコンピューターで計算することもなく、重機もない時代に、これだけのものを造り上げたのですね。伊賀上野城アルバムの中には、この高い石垣の上から見下ろした写真が何枚か入っています。高所恐怖症の方は、どうぞお覚悟をではどうぞ、ご覧くださいませ ★伊賀上野城(三重県伊賀市)★ 写真をクリックしてご覧くださいね。伊賀上野城内にあったお地蔵様と供養塔。私が行ったとき、ちょうどお婆さんが花を持ってお参りに来ていました。Natsu&Kei
March 6, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は、2月の半ばにぶらりと行ってきた、三重県の亀山城址の写真をご紹介しますね。このときは亀山にちょっと立ち寄ったという感じがあり、昔ここに来たときの記憶だけを頼りに、下調べも何もなくただ城址を見ていました。そして家で写真を整理していて、あら?・・・何かが足りない・・・何だろう・・?? と悩み、検索して他の方々のHPを見てみました。そしてわかりました石垣&多門櫓を下から撮った写真が無い!亀山公園側だけを見ていて、石段から下に降りて、城の周りをぐるりと見て回るのを忘れていましたいかにも私らしいです。。お城めぐりでよく聞く話。戦国史ファンで特に男性の方々は、お城だけでなく、その周辺の現場をとにかく歩いて見て回るようです歴史研究家であり私の写真の師匠でもある 侍大将まこべえ さんが以前このようなコメントで、史跡の楽しみ方を教えてくださいました。「山のふもとから山頂の城跡に行くまでに、途中の史跡を見るだけでなく、進軍ルートや攻防を想像したり、自分だったらこう攻める等を考えながら歩くので、なかなか本丸にたどり着けないです。」 と。自分が納得いくまで現場を歩く、考察する。なるほど~。 だから以前に長篠城址の馬防柵のところで腕組みしながら中年男性が30分ほど立ってたのを見て、大阪城の真田丸の周辺を何度も行き来したとか、「○○城の外堀を△周して10km歩いた。」とかの話を、あちこちで聞くのですね。今回撮りそこねたアングルは、またそのうち亀山に行って撮ってきて、アルバムに追加しようと思っています。亀山の近くにある関宿も、ゆっくり見てきたいし、ね今回は文章での説明を省いた代わりに、アルバム内で説明板の写真を載せました。画面右上にある【アルバムへ戻る】をクリックすると、このアルバムのサムネイルが出てきます。その中でご覧になりたい写真をクリックするとスクリーンサイズになり、さらに写真をクリックすると元画像になります。元画像なら細かい文字や図もだいたいわかると思います。ではどうぞ、ご覧くださいませ ★亀山城址(三重県亀山市)★ 写真をクリックしてご覧くださいね。さあ、皆さん、写真を見て興味を持ったら、現地に行って自分の目で歴史を確かめましょう『百聞は一見にしかず』 ですよね♪Natsu&Kei
March 3, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆先日見たNHKの『その時歴史が動いた』の 『源 義朝(みなもとの よしとも)』は、私にはなかなか印象深いものでした。今日はそれをご紹介しますね。(以下、番組の内容のまとめです。長文です。)その時歴史が動いた 2009年 2月放送リスト義朝が生まれた平安末期。この頃から存在した武士は江戸時代のように身分が高いものではなく、天皇や貴族に仕える使用人の存在。しかも源氏は平氏よりはるかに低く見られている。そこで義朝の父・源為義は若い義朝に、源氏の勢力を伸ばして都での地位を高めるためにも、貴族や平氏の力が及びにくい東国へ行くよう命ずる。関東に移った義朝は、雅な都での生活とは全く違う世界を見る。土地の支配をめぐる武士同士の諍いは日常茶飯事。土地を守るためなら徹底して戦い続ける。この生き方を学びながら義朝は、“時”が来るのを待つ。律令制が崩れ、土地を開拓して実力主義で生きている関東武士たちの中で、義朝は源氏という血筋も含め、関東の武士を束ねるリーダーとして適していた。やがて関東で勢力を拡大した義朝の力が認められ、都に呼び戻される。都で官位を授かり嫡男の頼朝も生まれ、生活は安定する。そして 1156年 (保元の乱)崇徳上皇と後白河天皇が対立し、朝廷を二分する争いが起こる。武士を使って対立する勢力を倒そうとする上皇と天皇は互いに武士団を味方につけ、義朝の父・為朝をはじめ源氏の一族の多くは崇徳上皇側に付く。そして義朝と平清盛は後白河天皇側へ。義朝の夜討ちや火攻めといった奇襲戦法により、後白河天皇側の勝利。しかしその後の義朝には、みじめな結果が待っていた。論功行賞で厚く報われたのは、都で何もせずただ待っていただけの貴族たち。平清盛は豊かな土地を手にいれたが、いちばんの功労者である義朝にはわずかばかりの恩恵のみ。さらに処罰に関しても、上皇側の貴族にはお咎めなし。武士たちは徹底して処刑。義朝の助命嘆願も叶わず、しかも父や兄弟たちを義朝の手で処刑するよう命ぜられる。武士の立場の低さを痛感する出来事となる。その後政権を握ったのは藤原信西をはじめとする後白河天皇の一部の側近たち。義朝は貴族が政治を独占しないよう、信西を倒す計画をする。1159年、平清盛が都に居ないときを狙って信西を襲う。(平治の乱)信西を討った後は上皇と天皇を内裏に軟禁。都を武力で制圧し、武士の力を世に示す。しかしやがて清盛が都に戻る。義朝の味方だった貴族たちが義朝を裏切り、軟禁した上皇と天皇を逃がす。天皇は清盛に、義朝を討つよう命令。天皇の敵となることを恐れたほとんどの貴族と武士が清盛側に寝返る。多勢に無勢の中、義朝は13歳の頼朝を連れて出陣。しかしやはり戦いに敗れ、東国での再起を図るため都を脱出する。数日後、義朝は現在の愛知県知多郡美浜町に潜伏しているとき、入浴中に家臣の手にかかり落命する。その後、戦に勝った清盛は、貴族に代わり政権を握る。頼朝は伊豆に配流となり、関東で力を蓄え20数年後に平氏を滅ぼして政権をとる。義朝は武力で世の中を変え、貴族から武士へ政権が移行する可能性を示した。義朝の死後から四百数十年後。武家政権を磐石にし江戸に幕府を開いた徳川家康は義朝の生き様に共感し、従兄弟の水野一族に美浜町の大御堂寺にある墓所の守を命ずる。『 武士とはどうあるべきか。 武士とは武士臭きをよしとぞ思う。 武士たる者は一本鑓の小身者なりとも、武士の心を 気高く持て。 』 (徳川家康)源義朝といえば、教科書の『保元・平治の乱』でチラッと名前が出てくる程度の人。でもその生き様は後世の人々に大きく影響を与えていた、なかなかの人物でした。番組を通して知ることができて、よかったです。愛知県知多郡美浜町の野間の海。再起をかけ東国に向かう途中の義朝は、どんな思いでこの海を眺めたのでしょうか。大御堂寺にある墓所にあるお札は、落命のときに「刀があれば・・」という義朝の思いをこめて、刀の形をしています。Natsu&Kei
February 20, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は姉の用事も兼ねて、京都に行ってきました朝6時前に起きて7時前に家を出発、列車の時刻を調べておいて時間のロスなく名古屋発8時前の新幹線に乗車、そして8時半頃には京都駅に降り立ちました。(のぞみで37分、やっぱラクです~)京都市内ではいつもバスの1日乗車券を買うのだけど、今回は京都在住の写真仲間の方と一緒に大津まで行くので、京都=大津間の地下鉄1日乗車券を購入。なので今日は所用の地に向かうのに少したくさん歩くけど地下鉄で行き、二条城の横の道を通って行きました。二条城の外堀。京都といえば寺社というイメージだけど、お城もいい味わいです。姉の代理で墓参を済ませた後、お仲間と合流するため再び地下鉄の二条駅へ。途中軽く写真を撮りながら、歩いて行きました。二条駅でお仲間S氏と合流した後は、今回はもうS氏におまかせのプラン。京都市内と大津市(隣県の県庁所在地)が地下鉄でつながっていることに感心しつつ、琵琶湖の大津港に向かいました。今回は琵琶湖を90分周遊する『ビアンカ90』に乗ってきました。大津港を出てすぐに見ることができる噴水と虹。湖から見た比叡山。琵琶湖の西側は行ったことがないので、つい興味深げに比叡山を見てしまいました。さらには比叡山のふもとは坂本の町。うーん。。歴史がいっぱいだわ。。今日は風が強い日で、船のデッキはさらに強風だからデッキで風景写真を撮っているときは、さすがに慎重になりました。だって風で荷物が流されたら悲惨過ぎるからねクルーズから戻って、今度はまた電車で石山方面へ。昼食のため途中 膳所本町 で下車。駅前にある食堂に入りました。ここは安くて大盛りの定食で有名なお店。TVや雑誌の取材もよく入るようです。700円のお好み焼きには、肉系の具の他に卵が2個もついています。こんなお店があったなんて。。(感動!)丼物も定食も、どれをとっても超大盛り。食べ盛りの若い世代には、嬉しいお店です。お店には学生たちからの感謝の色紙がたくさんあります。このお店は、素晴らしい社会貢献ですよね。(座った席の横に偶然、母校の色紙を発見。なんか嬉しかったです)特大のお好み焼きを食べておなかがパンパンになった後、再び電車に乗って今度は 石山寺 へ。石山寺の名前はよく聞くけど来たのは初めて。広ーい敷地内を撮り歩きしました。ここでの写真はまた後日UPしますね。その折にどうぞご覧下さいませ。紫式部の像。 石山寺は紫式部のゆかりの寺です。石山寺を散策した後は、さすがに疲れました。なのでせっかくのところ申し訳ないけど早々に京都駅に戻って帰ってきました。今日はいつもの一人で歩くときは違って、珍しい場所に行けました。興味深い時間が持てて、よかったですS氏、ありがとうございました。Natsu&Kei
February 8, 2009
♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣今日なにげに見ていたネットのニュースで、京都市の東寺で防火訓練があり、国宝の金堂から模擬仏像を搬出する消防士の様子が写真で紹介されていました。うん、まあ、そうでしょう。京都や奈良の古い寺社には、建造物も国宝だけどその中に納められている仏像なども、国宝や重要文化財がいっぱいある。しかも建物は木造で火災には弱い。だから万が一のときには、人命と同様に 「像たちを消防士が」 救出する必要は大有りでしょうねところでこの記事のところに関連ニュースがあり、その中に 「日本各地の城の数々を貴重な写真で」 というリンクがありました。覗いてみたら、うわ~。。 なんと!!トップにあるのが戦前の、空襲で焼失する前の名古屋城の写真ではないですか!しかも写真集のページには、まさにその空襲を受けて劫火に包まれている名古屋城の写真もありました。これらの写真は本で見るか、あるいは現地のお城の中で見るぐらいしかできないと思っていました。それが今、自宅で居ながらにして昔の貴重な写真を見ることができる。感激でした。o(^ー^*)o掲載されている写真は全て昔のモノクロ版。でも昔の姿を知ることができる、素晴らしい資料です。(現在はコンクリートのお城や、再建でかなりアレンジ されたお城も多いからね~。)毎日新聞社提供の 『日本の城』 のページです。歴史やお城が好きな方には必見です。 ↓ ↓『日本の城』さて画像は、先日行ってきた植物園のお花たちです。冬の楽しみ、水仙の花です。 甘~い香りが大好きですこの植物園では、まだまだ3分咲くらいかな。ツボミがたくさんあるので、これからが楽しみです♪ネコヤナギの花も、少しずつつぼみの殻を割って出てきています。ロウバイの花。 こんなにも甘い香りがする花だったのですね陽光に透けるロウバイの花びら。♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣
January 27, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆白川郷のアルバム、その3です。この日は明け方にまさお君に起こされて寝不足気味。そのせいか、やはりどこかボケていたようです。積雪で地面と溝の境が見えなくて、片足が溝にはまりました。(たしか2年前も、講師の先生の真横で似たようなことをやった。私が イキナリ視界から消えたので、先生は慌てた・・・)展望台ではツルツルに凍った坂道で、お仲間の方から「危ない」と言われていたのに、ぼやっとしててツルリと後ろにひっくり返りました (ドサッ!!)雪が降り続いていたおかげで幸い頭はコートのフードをかぶっていて、たいしたことなく済みましたが。展望台では、マイナス4度の気温&吹雪の中の撮影。寒かった。。{{{{(゚▽゚;)}}}} どれだけ雪を払っても、すぐに雪まみれですそして人間よりもカメラが 、寒さで本来の機能がどうかなってしまったようです。低温で電池が働かなくなることを心配したけど、それよりもピントが合わなくなってきました。だからどの写真も全体的にボケた感じになっています。(吹雪による視界不良もあるけど)ライトアップの時期ではなかったけど、集落の灯りでそれなりに夜景が撮れました。さあ、では帰路につきましょうか。展望台から降りてくる下り坂は、吹雪の視界不良と路面の積雪で、運転していなくても実は少々緊張していました。(これで凍結してたら・・・(((゚ー゚;))))コワー) 白川郷から高速道路のひるがの高原を越えるまでずっと、雪が降っていました。自宅から百数十kmの位置なのに、気候も風景も暮らしも全然違います。四季折々の変化、地域による変化。日本という国を実感しました。ではアルバムその3を、どうぞご覧くださいませ ★09 雪国 白川郷(3)★ 写真をクリックしてご覧くださいね。自分ではめったに見ることがない雪国の世界を満喫しました。今回来ることできて、本当によかったです♪Natsu&Kei
January 19, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は写真仲間の皆様と一緒に、世界遺産の白川郷に行ってきました。白川郷に行くのは、2年前に参加した旅行会社の撮影ツアーで行ったきり。あのときは知らない方々とのツアーだったけど、今度はいつものお仲間の方々と車で。気楽さもあったので、とても楽しみにしていました出かける前に白川のお天気をチェック。そしたら今日は朝から夜までずっと雪マークしかも最高気温が-1℃の予報 {{{{(+ω+)}}}} 寒そう。。(予報の表をぱっと見たときに最低気温と勘違いした)だから防寒は念入りにして出かけました。荘川あたりまで雪もなくて、そう寒さを心配しなくてもいいかなと思ったけど、飛騨清見を過ぎたら寒さも本格的に厚着で正解でした昼頃に白川郷に着。そして天気予報どおり本当に、昼も夜もずっと断続的に雪が降っていました。2年前に行ったときは思いっきり気温もかなり上がって雪がどんどん溶けてしまい、『雪の白川郷撮影ツアー』の呼び名がどこかへいってしまうほどでした。でも今日は、ほんの少しの晴れ間であとは雪・雪・雪。移動の間、撮っている間、すぐに雪まみれに。だから自分の全身もパタパタ雪を払ったけど、それ以上にカメラの雪を常に拭き拭きしていました念入りの防寒がまだ足りないほど寒い日でした。しかし、雪の白川郷を存分に満喫♪本当に楽しい時間でした連れてってもらえて、感謝です♪o(*^ー^*)o毎度ながら、アルバムは後日UPします。その折にまたご覧くださいねせせらぎ公園駐車場から荻町の集落へ。荘川を渡る『であい橋』です。一面モノクロの世界でした。記念写真の人気スポットその1 『明善寺』。こんな感じで一日中、雪が降りしきっていました。こんな雪道でも、郵便をちゃんと配達しています。2輪用のスノータイヤとはいえ、凍った坂道とか恐くないのかな。。可愛い雪だるまがあちらこちらにありました。記念写真の人気スポットその2 『和田家』。コーヒータイムで入ったお店。コーヒー代はちょっと高いけど、ガラス張りの窓から景色を眺めながらできます。なかなか洒落た、くつろげるお店でした。夕方、展望台へ移動。 このとき最高気温は-4℃に。おまけに強風で、身体が凍えました {{{{(T◇T)}}}} 寒いっ!!吹雪のため、どの写真も曇った感じになりました。それでも、なかなかできない体験 素晴らしい思い出になりました。Natsu&Kei
January 10, 2009
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は天気予報で言っていたように、朝から寒かったですね {{{(+ω+)}}} 寒いっ。。さすがに今日みたいな日は、暖房が無いと身体の小さな羽族たちが可哀相。だからいつもなら朝7時には切る電気ストーブを9時まで点けていました。昼間は快晴だったので、お日様のエネルギーで部屋がポカポカに。そして夜もいつもなら寝る前にしかストーブを入れないけど今日は特別に夕方の5時からもう点けました。明日は今日以上に寒いそうですね。もしどこかへ出かけても昼間だけにして、お日様が沈む夕方までには帰宅しなければ。可愛いみんなのために、ねさて今日は、先日行ってきた岩村城址(岐阜県恵那市)の写真をご紹介します。 岩村町観光協会 ただこの写真は、11月30日ご紹介した妻木城址と同様、あくまで城跡を題材にしてARTに撮ったものです。なので特に戦国ファンの皆様、「遺構のアレが写っていないじゃなか!」な~んて批判はご遠慮くださいね ヾ(´▽`*;)ゝ"では、どうぞご覧くださいませ ★08 岩村城址(岐阜県恵那市)★ 写真をクリックしてご覧くださいね。今年の秋以降に作ったアルバムを整理していなかったので、フリーページを全体にわたって修正しました。よかったらそちらもご覧くださいね♪Natsu&Kei
December 6, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(昨日の日記の続きです)岩村に着町並みは先週見たので、 『女城主の里』 岩村を散策 先ずは岩村城址へ。資料館前に車を停めて、城址に向かいました 岩村町観光協会 ここには立派な石垣があり、日本三大山城の一つと言われるほどの見ごたえのある史跡。なのにアクセスが不便なせいか、知名度が低いせいか、訪れる人が少なくて少々寂しいものもあります。まあ、人混みや渋滞が苦手な私にはちょうどいい部分もありますが。。ともあれ、今日は気持ちのよい晴天わざわざここまで来たという気合で? (* ̄ー ̄*)本丸を目指して城址に入っていきましたここは山城です。 さあ、頑張って坂道を登っていきましょう!岩村城址は石垣がいっぱい♪戦国気分を味わいたい方には、たまらない場所です城址の入り口にはほとんど人がいなかったのに、本丸のあたりには思ったよりたくさんの人がいました。いかにも戦国マニアっぽい男性数人のグループ。男女のペアの人たち。でも他にも、母娘らしい人たちにも途中何組か出会い、そして歴史ファンというよりカメラのオフ会っぽい男性のグループもいました。岩村城ならではの 『六段壁』。紅葉が真っ盛りで、石垣と紅葉と草の緑が互いに映えていました。兵(つわもの)たちの夢の跡。当時の人たちはこの山の中の城で何を思ったのでしょうか。標高721mの山頂に位置する本丸よりの眺め。日本三大山城の一つと言われるだけありますね。ちょうど紅葉のいちばんいい時期でした。これぞ 『紅葉狩り』 ですね紅葉狩りも、渋滞する名所に行くよりも、こういった場所で静かに自然を愛でるのも、味わいがあっていいかもお城に上る途中の 『下田歌子勉学所』 前より見る 御嶽山。山頂からでは木立のために、遠望が見られません。地元の方が言うには、晴れた日の朝早くなら雲もなく御嶽山が拝め、昼頃からは雲が出てくるそうです。この後、最初の予定ではさっき通ったR363号から、曽木の紅葉のライトアップを見るつもりだったのですが、疲れたので恵那ICから高速で帰りました嗚呼、、、私の予定は、やはり未定だった。。雨上がりの陽光は、自然の風物を最高に美しくしてくれます。Natsu&Kei
November 23, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は朝から気持ちのよい青空せっかくの好天なので、どこかで紅葉を撮ってきたくて場所を検討していました。そうだ!ちょうど先週の土曜日に岩村(岐阜県恵那市)に行ったけど、そのときは曇り空で城址の写真は撮ってこなかったから、岩村に行こう♪そのついでに、紅葉で有名な曽木(岐阜県土岐市)にも寄ってみようか。ちょうどライトアップもやっているしそうプランが決まったので、地図でルートを確認。ふむふむ。。瀬戸市から国道363号線で曽木~岩村に行くことができるわね。地図をメモして朝10時頃に家をでましたが、しかし!!なんということでしょう。。家を出て20数メートルの右折か左折かの場所で、習慣でつい国道19号側に出てしまいました。また戻るのも面倒だったので、19号側から曽木に向かうことにルート変更しました。R19号の岐阜県側って、ほとんど自分で運転していなくて気がつかなかったけど、坂道がすごく多い。。道に慣れていないので、アクセルやブレーキの加減に若干とまどいました。さて、どうせ19号側から363号に抜けるなら、ついでに妻木城址にも寄ってみようと思い、行ってきました。ここは約1ヶ月前に行ったのだけど、そのとき撮ってこなかった場所もあるからね。 史跡探訪~妻木城跡(岐阜県) 『一の曲輪』 に向かう道。『一の曲輪』 にある旗立岩。岩には苔がびっしりと生えていて、時代の流れを感じます。前回来ることができなかった 『三の曲輪』 からの展望。遠くに 御嶽山 が見えました妻木城址の山中で危うく道に迷いそうになりながらもなんとかに戻り、次はR363号方面へ。途中、の曽木公園に下見がてら寄り、(メインは夜のライトアップ)、そのまま大正村のある明智からR363号を岩村に向かいました。その途中の道で、明智から出た明知鉄道の電車が車と並走しました。わー。先週はあれに乗ったのね。できれば車を停めて記念撮影もしたかったけど、今日はあきらめました。ゆっくり走る電車なので、車は制限速度で走っていても、そのうち電車を追い越しましたあれは味わいのある電車なのよね~また乗ってみたいなと思いつつ、岩村に向かいました妻木城址にて。 前日に降った雨が朴の葉に残っていました。水滴が陽光にキラキラと輝いていました。Natsu&Kei
November 22, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆昨日、“ひこにゃん”に会いに彦根城に行ってきました。ひこにゃんにメロメロになりながらも、ここはやはり国宝の城。それにせっかく高速を使って来たのだから、城内もちゃんと散策してきました。 彦根城 ~フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 とはいえ、この日は朝からずっと曇り空外での風景写真は背景(空)が全部真っ白けになってしまうし、思った以上に肌寒い。無理して外にいて風邪とかひいてもいけないので、今回は(ひこにゃん以外は)軽く撮っただけにとどめました。駐車場に車を入れて、いざ、天守へ。名勝 玄宮園。この庭園から彦根城の天守が臨めます。「この道を行くと何があるのだろう。。」と、ふと思ってしまう石段。石段を上ると石垣の上に出ます。お城の外を一望してちょっと武士の気分に。(注意! この位置よりあと1歩で、お堀に落下です。)さて、彦根城といえば井伊家。井伊家の中で最も有名なのはやはり、教科書にもでてくる井伊直弼でしょう。『日本を開国へと導いた大老・井伊直弼』---今、彦根城では 『国宝・彦根城築城400年祭』 が開催されており、同時に『井伊直弼と開国150年祭』も来春までやっています。井伊直弼は『安政の大獄』や『桜田門外の変』で出てくる名前なので、どうしても暗いイメージのほうが先行してしまうのですが、地元の彦根ではやはり、時代を作った英雄。特別展では井伊直弼の功績とその時代背景が、いろいろ紹介されています。いざ、本丸へ!まもなく『ひこにゃん』が出てくる時間だったので、ひこにゃんを見に来た小さい子たちは一生懸命に石段を上っていきました。重要文化財の天秤櫓と廊下橋。時代劇でよく使われる場所ですが、皆様、覚えはあるでしょうか廊下橋から登城する人々を見ると、こんな感じです。天守入り口(標高約130m)より見渡す風景。左の手前にくっきり見える山は佐和山。関が原の合戦で敗れた石田三成の居城があった山です。その向こうに見えるのは伊吹山。Natsu&Kei
November 10, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は蒲郡市(愛知県)で花火サミットがあり、いつもお世話になっている方々が出演されるので、それを見に行く日でした。最初は電車で蒲郡まで行く予定でした。しかしいろいろ悩んだ結果、やはりで行くことに。そして車で行くならば、高速の音羽蒲郡ICまで行くので、ついでに東海道の赤坂宿跡に寄ってみることにしました。(豊田・岡崎市内がすごく渋滞するので、少々遠回りでも 音羽蒲郡ICまで行ったほうがラクだから)以前ネットのどこかで、豊川市にある東海道の宿場町の風景がなかなかよいというのを見ました。宿場町の名前は『御油』と聞いた記憶があったのに、現地に着くと『赤坂』でした。私の記憶違いかなあと思いながら赤坂の界隈を簡単に見学。時間がなかったのですぐ移動しました。帰宅して調べたら、赤坂宿と御油宿は2kmしか離れていないとのこと。だから地名で混乱してしまったようですでも納得でした。このときは御油の松並木は、車で移動しながら見ただけでした。今度は電車で来て、ゆっくり松並木も見てみたいです 『赤坂宿(東海道)』 『御油宿(東海道)』 赤坂紅里の信号のところにある、赤坂宿の案内。駕篭のオブジェがなんかいい感じです。江戸時代の掲示板であった高札。お上からのお達し事項が何種類か掲げられていました。赤坂宿の本陣跡。本陣とは、参勤交代の大名、幕府の役人や公家などが休泊するところ。屋敷の造りは一般の旅籠屋とは格段の違いがありました。昔の時代の名残を残す酒屋の看板。時代がどんどん進んでも、このまま残しておいてほしい一つです。赤坂宿にある関川神社。この楠は推定樹齢800年、高さ25.7m、目の高さでの幹周りが7.29mある、天然記念物です。関川神社にある松尾芭蕉の句碑 『夏の月 御油より出でて 赤坂や』赤坂宿と御油宿は2kmしか離れていないので、こんな句が詠まれました。赤坂町のマンホールの蓋。ここがその昔、東海道の宿場町であったことをイメージするデザインになっています。Natsu&Kei
November 2, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日はバイトが休みになりました。以前から、平日のバイトが休みになったときに桑名市(三重県)に行き、史跡を観光してその帰りに『なばなの里』に寄ってこようと計画していました。今日も快晴だから出かけるのにちょうどいいわねアクセスを調べて電車か車かを検討していました。で、アレコレ考えながら家のことをやっているうちにまたしても時間が・・・朝の10時だからまだ十分に桑名に行けるけど、なんか面倒になってきました。そこで思いっきり行き先を変更地図を広げて検討。あら、岐阜県の妻木町って我が家からそう遠くなさそう。妻木の城跡も久しぶりに見てみたいなあ。3年ほど前に行ったとき城跡近くの道が狭いのが気になったけど、ゆっくり走ればなんとかなるかしら。。そう思えたので、桑名の忠勝公のところで食べようと用意してあった弁当(握り飯2個)を早々に家で平らげ、(ヘンな展開ですね)チビ子嬢を供にR19号を土岐市方面に向かいました。参考:妻木城跡チビ子嬢は連れていくと大変なので、最初は留守番を命じました。でも、どうしても!とたっての願いがあったので、ヘビさん~>゜)~~~~ 等がいたときの先陣として、連れて行くことにしました地図を見ながら、3年前の記憶を辿りながら、なんとか妻木城跡につきました。「先陣はアタシよ。さて、この道を進むと何があるのかしら。」四足のチビ子嬢は、滑りやすい急な山道もラクラク進んでいきます。さすがは動物さんですね上り坂は彼女に引っ張ってもらって、ずいぶんと助けてもらいました。「えみりーさん、足元は大丈夫? ちゃんと登っている?」『一の曲輪』に着きました。お社の後ろにある木は、『物見杉』です。朽ちて折れてしまったのでしょうか。当時の様子が想像できないのが残念です。しかしチビ子嬢は、やはり動物さんでした。自分の思うがまま進むのみ!彼女に先導を任せたら、背丈の高い雑草の中に突入おかげで、彼女の全身はもちろんのこと、私まで腹部から下とバッグが、瞬時に雑草の種だらけになりました。秋という季節柄、数百個の種攻撃を受けたと思われます「草の中は進軍しないほうがいいのね。えへへ。。 ゴメンナサイ!」二の曲輪から見た一の曲輪の城跡の石垣。三の曲輪に行く石段から見た二の曲輪の鳥居。しかしこの先(三の曲輪)はチビ子嬢がなぜか嫌がったので、引き返すことにしました。三の曲輪から眺められる市街地の展望は、また次の機会にします。来た道を引き返し(チビ子嬢は通った道を覚えていました。すごいです!)車まで戻ってきたら、車に乗り込む前に「種取り」ですあー、種がなかなか取れない~。。城跡から出て、川沿いの狭い道はゆっくり走り、帰る前に家臣の屋敷跡を見ていきました。家臣屋敷跡。 妻木城の復元想像図と説明のボードがあります。ここから先ほどの城址まで歩いて登る道もあります(当然ね)体力に自信のある方、城址が大好きな方、さあ、どうぞ!我が家から約30kmのこの場所。せっかくなので、また写真もたくさん撮ってきました。また後日アルバムにするので、ご覧くださいね「えみりーさん、遅いわあ。。どこへ行ったのかなあ。。」車でひとり不安そうに待つチビ子嬢。遠くからズームで撮りました。Natsu&Kei
October 20, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆昨日の土曜日の中日新聞に、春日井市の 密蔵院 で寺宝展が開かれるという記事が。寺宝展というのは、密蔵院が所蔵する鎌倉時代からの仏像や巻物などの貴重な品々を、年に何回か虫干しするときにあわせて一般に公開するというものです。珍しいので、ちょっと行ってきました。以下は密蔵院でいただいた資料からの抜粋ですが、徳川家との関係とか意外だったことも多々ありました。◆密蔵院と徳川将軍家鎌倉末期に開山された密蔵院は徳川の天下になったとき、密蔵院の寺領として約138石が認められました。(織田信長や豊臣秀吉が認めたものよりさらに追認。以後、歴代の徳川将軍家より朱印状が下付された。)密蔵院の庫裏には駕篭が2基あり、この駕篭に乗って将軍と住職の代替わりのたびに住職と供の僧が江戸まで出かけていました。また密蔵院の住職は、名古屋城三の丸にあった東照宮の別当寺である尊寿院の住職も兼務していました。尊寿院の寺領は520石あり、密蔵院の勢力は一層強くなりました。(当時の寺社領は数十石程度が多かった)しかし明治時代になってから、明治政府が出した神仏分離政策により尊寿院は廃寺に。密蔵院の本堂には、7人の徳川歴代将軍の位牌がまつられた葵の紋が描かれた立派な厨子があります。これは明治時代に尊寿院より移されたものです。今日の一般公開では、ふだん入ることができない本堂や庫裏に入り、本当に貴重な品々をたくさん見てきました。参考: 密蔵院 伽藍配置 なお、この日の特別イベントとして?「抹茶を飲んで住職とお話しましょう(1人300円)」 のようなものがありました本堂跡の宝物収納庫より撮った多宝塔。ふだんはこの場所には入れません。 暗いのが残念!本堂跡に残る蔵。 土台が石垣になってます。元三大師堂前にて。 オカリナのコンサートが行なわれていました。密蔵院内には優しい音色が響いていました。Natsu&Kei
October 5, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆奈良旅行のお話です。せっかく奈良まで行くのだから、今回はどこを見てこようかと、あれこれ調べていましたそのときに『ライトアッププロムナード・なら2008』というイベントを発見夜景大好きな私にはたまらないイベント案内を見ると、ちょうど薬師寺も入っている。なので三脚持参で奈良に行きました。私の三脚は安物だけど、それでも結構重たい。しかし!ライトアップされた古都・奈良の文化財を撮ることができるのはこの時期しかない。慣れない地で電車や歩く時間等の計算ができず、結局時間がなくて興福寺が十分撮れなかったのですが、それなりに撮ってくることができたので、やはり大満足でした荘厳で美しい古都・奈良の都のライトアップもしまた行けるなら、行きたいです1泊した翌日は、興福寺~春日大社~東大寺大仏殿~二月堂と周ってきました。2日めも9km近く歩いたのかな?鹿さんたちのおかげで疲れも癒されました。(鹿さんがいなかったら歩けなかったかも)充実した旅で、とっても満足でした東大寺 ★東大寺南大門、二月堂★ 写真をクリックしてご覧くださいね。古都・奈良のライトアップはどれも素敵でした。♪いい思い出ができました。また行きたいです。Natsu&Kei
September 16, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆奈良の旅日記です。私がコンサートに行くとき。地元エリアのときは時間に余裕があっても、開場時間のギリギリに現地に着きます。でもこれが遠方でのコンサートのときは、つい「せっかく○○まで行くのだから」と考えてしまい、現地の観光をできるだけ見てくるようにしています。こう考えるものだから、その日は朝早めに家を出るし(家を出るときもペットの世話等で早起きしている)、事前に調べ地図を用意してあっても現地の勝手がわからないこともあり、けっこうハードな旅となりますお目当てのものを見ているときは楽しいから、まだいいのだけどね。さて、奈良といえば大仏様。私も学生時代以来の奈良だったので、何を見ても新鮮で感動で、すごく楽しかったです。ただ・・・歩き疲れたことを除けば。。ちなみに奈良公園界隈は、地図で見れば比較的わかりやすいエリアです。しかし、、、広い!近鉄奈良駅から東大寺までは1.6km。しかも坂道がけっこうきついです。。奈良に着いた日、朝は新幹線で京都へ、所用の後、近鉄電車で奈良駅へ移動。昼間は鹿と遊びながらまず東大寺へ。中には入らないけど、参道でいったんホテルに入り、少し休憩。それから薬師寺へ薬師寺でのコンサート後はライトアップを撮るために、再び東大寺へ。タクシー使ってホテルに戻ったのは11時前。この日は結局10km近く歩いたようです朝も早かったので、正直疲れました ★東大寺 大仏殿★ 写真をクリックしてご覧くださいね。見たいものを見て気もちは充実したけど、やっぱハードですわ~。。Natsu&Kei
September 15, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日のネタは、先週の奈良の話の再開で。(せっかく撮った写真がお蔵入りというのも 少々寂しいので)奈良で一泊した翌朝、何時にホテルを出てどこへ行こうか、いろいろ考えました。名古屋への帰りの移動手段も、近鉄電車にしようか、あるいはバスにしようか。バスだと奈良駅を出るのが午後3時前。なかなか奈良には来れないから、もっと欲張って夕方まで観光したほうがいいのかな?とも思ったけど、法隆寺は遠いし、平城京跡もやや面倒。結局3時前のバスに乗ることにし、それまでは東大寺界隈をひたすら歩き回ることにしました。たぶん昼食もとらないだろうから、朝9時半までホテルでゆっくり休憩していました。送迎バスが奈良駅へ。まずは帰りのバスを予約。荷物をコインロッカーに預けるのも勿体無いと思ったので、重たかったけど荷物は持って歩きました。結局この日は、鹿さまにせんべいを1,500円分提供、自分の食事は、朝はホテルで(朝食込み)、そして歩き回ってお茶2本と、バスに乗る前におにぎり2個でした。嗚呼、みみっちい私。。興福寺HP春日大社HPでは、アルバムをどうぞご覧下さいませ ★興福寺 春日大社★ 写真をクリックしてご覧くださいね。せんべいをたくさん食べるための心得。 動物が好きそうな人間を見つけ、アピール上手な可愛い鹿になるべし。Natsu&Kei
September 14, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆では、奈良の旅のお話です。今回の薬師寺でのコンサートは、チケットの代金がいつもより少々高かったですというのもチケット代の中には、『音楽で森をつくろう』 という主旨のもと、植樹のための費用が含まれていたから。それでも、私はすぐに申し込みました。自然を守るという主旨に賛同し、私にできる形で地球にやさしくありたいと思ったから。財津さんもトークの中でお話してました。アスファルトやコンクリートの都会では熱がこもって逃げないから暑い、そしてその熱を冷やすためにエアコンを使い、また放熱する。だからずっと暑いのが続く。でも奈良では樹があり、木造の寺院が多くて夕方になるとこうして熱が引く。自然の風が気持ちいい。植樹で緑を増やせば、環境がよくなる。その主旨のコンサートに自分を呼んでもらえて嬉しい、と。そして薬師寺の管主様も最後にご登場になり、財津さんに3つのお土産を渡されました。(管主(かんしゅ):天台座主(ざす)の別名。 のち各宗派の本山や諸大寺の管長の呼称。貫長。)薬師寺の鐘のミニチュア?と、ご自分が執筆した本と、黄色のお守りを本とお守りに関しては、しっかりPRなさっていました。さらにはこんな話も。我々がお経を読むだけでは観光客は来てくれませんでも財津さんが歌うということで、こんなにたくさんの方が来ていただけるなんて と。古都・奈良の貴重な文化財は、あちらこちらで痛々しいほどかなり老朽化。でも修復の費用は簡単には出てこない。1300年の歴史をもつこの奈良であっても、貴重な文化財を守るために、新しい時代に合わせて、これからはこういった催し物で皆さんに来ていただくことを考えていきたい、と。管主という位にある方が、気取らず、柔軟な考えを持って素直に呼びかける。ユーモアを交えてPRする。その姿に頭の下がる思いがしました。薬師寺に関することは、HPをご覧いただくのがいいでしょう。とっても洒落た、わかりやすいHPです ↓ ↓薬師寺HPでは、アルバムをどうぞご覧下さいませ ★08 薬師寺~音楽で森をつくろう★ 写真をクリックしてご覧くださいね。貴重な文化遺産を守るために、伝統ある寺院でも新しい試みが広がりつつあります。柔軟な発想が素晴らしいです!Natsu&Kei
September 9, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆昨日の日曜日ですが、奈良に行ってきました。奈良に行くことになった理由。それは、私の大好きなミュージシャンの財津さんのコンサートがあったから。それも薬師寺で。特別企画で、8月の30・31日と、9月の6・7日に財津さんを含めて4人のミュージシャンがこの薬師寺で、『音楽で森をつくろう』という主旨のもと、コンサートをしました。午後4時頃に、薬師寺に入りました。一般の観光客や修学旅行生がたくさんいました。大講堂の前に、このように特設ステージが作られました。コンサートが開演。いつものホールとは違い、財津さんの後ろにはライトアップされた観音様がいらっしゃる。観音様の穏やかなお顔はライトアップの光で美しく神々しく、財津さんの音楽とともにとても素敵な時間が流れていきました。ライトアップの薬師寺なんてめったに見られるものじゃない。私も帰り際に粘って、しっかり撮ってきましたさて、この薬師寺(界隈)には、私には特別な思い出があります。それは3年前の6月に、この付近で捨てられたであろう、私の愛息子の小太郎・康太郎を、わざわざ迎えに行った場所だから。兄弟ニャンのファースト君はこちらで暮らしています。この子たちの命を捨てた人間はもちろん許せませんしかしその後、何人かの方の温かい心によって彼らの命は守られ、そして様々なご縁で我が家にやってきました。そんな思いがあるので、薬師寺界隈の景色を見ながらずっと、「小太郎・康太郎がこの世に生まれた場所だなあ。。 3年前にはあの場所も観光でちょっと立ち寄ったなあ。。」なんて思いながら時間を過ごしていました。我が家にやってきた茶トラの天使たち。この子たちと巡り合えて、本当によかった。神様に感謝ですこれはこの子たちの、幼い日のアルバムです。よろしければ、どうぞご覧くださいませ※このアルバムには音声が入っています。 音を出せない環境の方はご注意ください ★幼き日の小太郎&康太郎★ 写真をクリックしてご覧くださいね。「えみりーさんが言ってたよ。ボクたちの生まれたところに行ってきたって。」「でもボクたちのおうちは、ここだもんね。ここでずっと一緒に暮らしていこうね。」Natsu&Kei
September 8, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(昨日の日記の続きです)四谷の千枚田をじっくり味わった後、その後は稲目トンネルを抜けて田峰(だみね)に向かいました。田峯といえば田峯城跡。以前、中日新聞に復元した館が紹介されていて、一度見たいと思っていました。はい、これは復元した館。戦国時代を詳しく知っている方々には許せない、ここにこんな建物があるのはおかしい!という館です。ただ私個人としては、こういうのもOKです。あまりに史実に忠実なため熱烈なファン以外は見向きもしない史跡、というよりは、多少の偽りはあっても随所にわかりやすい解説があり、一般の方にも気軽に歴史を感じてもらえるような部分があってもよい、と。さて、その田峯城について少しお話を。(以下、田峯城のパンフレットより抜粋)実力だけがものをいう下克上の戦国時代。田峯城は1470年、菅沼定信によって築かれた。その後、五代目城主の菅沼定忠が1582年に討たれ、田峯宗家菅沼氏が断絶し、廃城になったといわてれる。五代目城主の菅沼定忠の時代。1575年の長篠の合戦に、菅沼定忠は武田方に従い出陣する。しかし武田方が大敗。その報を受けた留守居の将の叔父・定直と家老今泉道善らの謀反にあい、武田勝頼とともに引き揚げてきた定忠は田峯城に入城できず、武節城(愛知県豊田市稲武町近く)を経由して信州に敗走することを余儀なくされる。復讐を誓った定忠は、翌1576年7月、田峯城に夜襲をかけて謀反の一族96人を惨殺。首謀格の今泉道善を、生きながら鋸引きの刑に処した。謀反の主だった者たちの首は、街道に晒した。うう、、、話を聞くだけでもおぞましい。こんな時代に生まれなくてよかった~。。では、アルバムをどうぞご覧下さいませ★田峯城跡(愛知県北設楽郡)★写真をクリックしてご覧くださいね。軽く歴史に興味を持ったら、第二段階では少しだけ深く調べてみてはいかがでしょう。また違った感動があって面白いですよ。Natsu&Kei
July 13, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(昨日の日記の続きです)名古屋から西に向かったこの日は、昨夜中からずっと大雨が降り続いていました。予報では京都も午前中は雨とのこと当初の予定では京都駅に8時頃着、所用を済ませた後はじっくり京都見物・・・のつもりでした。が、大雨では墓参りが難儀と思った私は、朝家でのんびり。結局9時過ぎに京都着。墓参りが済んだのは10時頃で、その後なぜか行き先を迷ってモタモタ。そしてやっと東福寺に着いたら、・・・あまりの素晴らしさに感激の連続でしたわあ~。。。これが他の方の写真で見たあの風景なのね。通天橋から見る景色や庭園を堪能していたら、大阪に行く時間に。3分の1くらいしか見ないまま、東福寺を後にしました。そして帰宅してからPCで写真を見たら、なんと・・・!!曇りだったのでカメラを明るめに調整したら、それが大間違いでした。色がことごとく飛んで、なんともヒドイ画像ああ、カメラの小さいモニターではわからなかったけど、こうなってしまうんだ。せっかくの風景が。。今回はなんとか見られる写真をアルバムにしました。では、どうぞご覧下さいませ ★東福寺 (080525)★ 写真をクリックしてご覧くださいね。ふだん何かと「まあ、いいか」で過ごす私には珍しく、『悔しい』という感情が湧きました。ここは是非とも近いうちにリベンジよ名古屋から「のぞみ」なら京都まで37分。体力ないから交通費は贅沢しますそして今度は、東福寺をゆっくりと見て廻ってきます。京都はもう十分観たかなと思ったけど、まだまだでした。う~ん。。やっぱり京都ね。(できれば奈良も行きたい。。)Natsu&Kei
May 27, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆昨日の日曜日は、日帰りで京都~大阪に行ってきました。TULIPのメンバーである宮城伸一郎さんのソロライブが大阪の難波であったからです。その折に京都にも寄ってきました。私は大阪に行くときにたいてい京都にも寄るのだけど、昨日の場合は姉の用事の代理もあったので、「必ず」というものでした。姉の用事とは、以前お世話になった方のお墓参り。姉のところから私の家に、行く前の日にお墓に供える花を送ってもらい、それを持っての京都行きです。お店で使えないコチョウランをお墓へ。ただコチョウランは枝がユサユサするので、運ぶための準備やでの持ち運びがとっても手間だったのですが。。墓参りを済ませた後は、お寺の周辺を適当にぶらぶらこのあたりは、現在の京都御所から1~1.5kmくらいありますが、その昔に京都御所があった場所なのでしょうか。ところどころに『源氏物語、ゆかりの地』として「○○殿の跡地」という案内板の説明が設置されています。 ★京都で見たもの 080525 ★ 写真をクリックしてご覧くださいね。この後、大阪に行く前に東福寺だけ寄ってきました。ただ今回は、家を出る前にちゃんと地図等を印刷していかなかったため、とても要領の悪い移動となりました。「だいたいわかる」というのは、やはりよくない。今回ロスしてくたびれた分は、次回への反省とします。大阪でのコンサートは、もちろん楽しい時間でした。あー、来てよかった♪今回のライブで買った、宮城さんのCD。カードは宮城さんから、「来場してくれた皆へ」ということで作って全員にくれたお土産です。やさしいなあ~。。Natsu&Kei
May 26, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(昨日の日記の続きです)昨日は、私のPCサイトや携帯のほうに多くの方から、誕生日のお祝いメッセージをいただきましたありがとうございます。祝ってもらえて素直に喜んでますさて今日は、昨日 a-totoro さん(犬太母様)ご夫妻に連れてっていただいた史跡の写真のアルバムをご紹介します。天恩寺と万足平。私の住む場所から岡崎までは県内でも移動にはけっこう時間がかかります。(一般道で空いているときでも約2時間)私には気軽には来られない場所です。しかもここは、岡崎の市街地からはかなり離れた場所。「ここに、こんな素晴らしい史跡があったなんて・・・」私は思わず何度もつぶやいてしまいました。(ご主人、本当にありがとうございました!)岡崎は戦国時代の徳川家康とその家臣団の関連の他にも、奥平氏関連や、室町時代の足利尊氏・義満関連など、古い時代からの由緒正しい史跡がたくさんあるようです。またちょっと調べて、岡崎も廻ってみたくなりました。ただし、近くに民家がない場所は迷子になったら困る(というか恐い)ので、一人のときはやめておきますが・・ではアルバムをどうぞご覧下さいませ天恩寺(岡崎市片寄)写真をクリックしてご覧くださいね。この日は結局、自宅~岡崎の往復で、途中寄り道をしたとはいえ、合計6時間運転していて・・・さすがに疲れましたというわけで今日は、午前中はバイトで、午後からはスーパー銭湯に寄ってきました。でリフレッシュ完了です犬太母様宅にて。犬太兄ちゃん(3歳)と、お孫ちゃまの光橙君。(いずれ身体の大小が逆転する関係ね)犬太王子のふさふさのシッポを撮りたくて、後ろからのアングルを狙っていました。Natsu&Kei
May 6, 2008
♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣先日電化店で1GBのSDメモリーカードを買いました。今までデジカメで使っていたのは512MB。でもこれでは、オフ会などで丸一日写真を撮っているときなど、容量が不足気味。特に動画を撮ってしまうと、あっという間に撮影できる残りの枚数が減ってしまいます。なのでSDカードをもう1枚買い足しました。デジタル一眼レフを持っている写真仲間の方々は4GBのメモリーが半日もすればいっぱいになって、SDカードを交換しています。たぶん最高画質で撮っているのでしょう。私の場合はそこまではしないので、あと1GBあればまあ十分かなと思っています。昨日は夫と掛川花鳥園に行ってきました。(日記リンク仲間の sonias さんのページで鳥とたわむれる光景を見て、これは是非行きたい!と思ったので。約半年ぶりの意見の一致か。)そしてそのときに、1GBのSDカードが役立ちました。花鳥園で写真と動画をいっぱい撮ってもまだ余裕。その後は帰りがてら、掛川城と二俣城址に立ち寄ってきました。掛川城での写真はこちらです。歴史に興味のある方はどうぞごらんください。掛川城天守閣、掛川城御殿さて、掛川花鳥園での思い出。写真を撮り過ぎたので、まとめるのに時間がかかります。とりあえず今日は予告編ということで、動画を1つだけUPしました。どうぞご覧くださいませ。【ご注意】動画には音声が入っています。周囲にナイショでご覧になっている方はご注意ください。掛川花鳥園(黒鳥)0804掛川花鳥園では鳥さんたちと遊ぶのに夢中になってました♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣ ♣
April 20, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(昨日の日記の続きです)雪のおかげで思いがけなく水墨画の世界を堪能できた銀閣寺。それからは当初の予定では「哲学の道」を歩いて、南禅寺に入るつもりでした。でも「哲学の道」をただ歩いていても足元が冷たいだけでなんか盛り上がらない。そしてふと、「そうだ、これから金閣寺に行こう!」と思いつき、目指す方向は南から急遽西へと変更になりました。金閣寺は前日、「天気がだからやめよう」とバス停を通過した場所。しかもこの日は、前日に行った大徳寺前を通過しての金閣寺行き。すごく能率の悪い行動です。しかし、雪景色の金閣寺なんてめったに見られるものではない。しかも先ほどまで降り続いていた雪がやんで青空になっている。バスの中で、「雪よ、溶けないで」なんて勝手な願いをしながら、バスは金閣寺に着きました。さすがは京都観光人気NO.1の金閣寺。前日の雨の日でも同じだったのだけど、満員の市バスがガラガラになるほど乗客が降りていきます。ワクワクしながら鹿苑寺内に入っていくと、そこには想像以上に素晴らしい景色が待っていました。訪れた観光客のあちらこちらから、外国人だけでなく日本人も、思わず感嘆の声が鏡湖池の前は、記念写真を撮る人々、風景写真を撮る人々で黒山の人だかり。観光バスや市バスが次々に来るので、人の波は絶えることがありませんでした。青空の金閣寺。雪はやんだから、もう濡れる心配はない・・・と思った私は甘かったです冬至を過ぎて2ヶ月。太陽高度が上がっているので、陽光が思ったよりも強い。雪はみるみる溶けていき、頭上の樹木から溶けた雪がバサーッ!!と落ちてきます。大事なカメラが水浸しになっては一大事。空は晴れていても、結局を差して歩くことになりました美しさに見惚れながらも、思ったより撮るのが大変だった雪の金閣寺では、どうぞご覧くださいませ ★京都 雪の鹿苑寺金閣★ 写真をクリックしてご覧くださいね。陽光があると金閣がキラキラします。最高に美しいです。ただ、金閣寺はお手洗いがちょっと・・・。早く改修してほしいです。Natsu&Kei
February 16, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(昨日の日記の続きです)大阪の淀屋橋から京都の丸田町に戻ってきたのが午後11時前。時間が遅かったし、外は雪がかなり降っていたので、私には珍しくタクシーでホテルに戻りました。そして夜に降った雪はそのまま翌日も朝から降り続けていました。ホテルをチェックアウトし、雪が降り続く中を出ることになりました。今回この岡崎神社の隣りに宿をとったのも、予定としては銀閣寺~哲学の道~南禅寺~インクラインを見る予定だったから。では、まず宿から近い南禅寺に、歩いて行きましょうか・・・と思っていたら、目の前のバス停に『銀閣寺』行きのバスが来ました。そしてそのまま、何も考えずバスに。この急な予定変更は、一人旅ならではのものですよね銀閣寺のバス停に着いたら、たくさんの人が銀閣寺に向かって歩いていきました。朝早くても、やはり人気の観光地です。想定外の雪で、靴はべちゃべちゃに濡れて中まで水が染みて冷たい。傘をさしても雪は中に降り込んできてに雪が着くので、タオルでまめに拭く。旅行の荷物も持っているから、ほとんど片手での撮影。はっきり言って、とても大変でしたでもそんな難儀を忘れてしまうくらい、雪の中の銀閣寺は、とても素晴らしいものでした。雪国じゃない京都で珍しい景色が撮れました。わーい♪ラッキーでは、ほとんどモノクロの世界の銀閣寺をどうぞご覧くださいませ。 ★京都 雪の慈照寺銀閣★ 写真をクリックしてご覧くださいね。おもいっきり雪で、かえってよかったです。銀閣寺はお手洗いが綺麗。お薦めです。Natsu&Kei
February 15, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(昨日の日記の続きです)大徳寺の龍源院は実際に見て、なかなかよいところでした。雨の日でなければ大徳寺内をもっと散策しながら撮り歩きもできたのですが、やはり雨の中で旅行の荷物持って傘さしてというのはかなり大変。時間はもう1時前。次はどこへ行こうかと考えたけど、この荷物をなんとかしたいと思い、ホテルに電話。すると、チェックイン前でも手荷物は預かってくれるとのことなので、次はホテルにGO!ホテルに着き、荷物だけでもと思ったら、少々時間は早いけど入室してもOKだったので、とりあえず部屋に入って休憩しました。この後は、夕方に大阪の淀屋橋に行くといういちばん大事な目的があったので、時間までもう一つの目的の所用と、あとはブラブラその頃には雨もほとんど降っていなかったので、主に三条大橋界隈をぶらぶらしながら撮り歩きしていました。三条大橋界隈は、下調べなしで歩いたわりには、面白いものをいろいろ発見そこで見たものは、アルバムの中にあります。夕方、三条から京阪電車で淀屋橋へ。では淀屋橋の夜景も含め、アルバムをどうぞご覧くださいませ ★京都・三条大橋と大阪・淀屋橋★ 写真をクリックしてご覧くださいね。京都には本当に、いろいろな時代の歴史がありますね。歴史ファンにはたまらないところです。Natsu&Kei
February 14, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆本編に入る前に・・・2月12日、大阪に行く前に私は京都に立ち寄りました。今回は夏場じゃないからペット族を置いて1泊するくらいなら大丈夫。なので、せっかくだから京都をゆっくり観光しようと思って、京都に宿をとりました。何かでよく聞く言葉の 『予定は未定』そして今回の旅は、これをとっても実感した旅となりました。さて、本編へいつもの京都行きなら、交通費を節約するために高速バスを使う私。でも今回は少々交通費がかかっても、速くてラクな新幹線にしました。名古屋から「のぞみ」で37分で着く京都。あっという間に着いて、ホント、ラクです~京都駅に着き、まず500円の市バス一日乗車券を購入。それからある所用をするために、いつものバス停に並んでいました。バスが来て乗車。平日でも観光客でかなり混雑しています。でも、バスが走る道がいつもと違う。あ、、、隣りのバス停に並んでたのね混雑する車内でなんとかバスの行き先を確認したら、どうやら金閣寺行きのバスに乗ったようでした。でも金閣寺は一昨年行っからまた寄るのもねえ~。。どうしようか悩み、結局、金閣寺の先にある大徳寺に行くことにしました。大徳寺には見事な石庭があるとのことだったので、行きたい場所の一つでした。大徳寺は広大な敷地内に「○○院」と、いくつもの寺院がある場所です。私が行きたいあの石庭の寺は・・・あれ?ナニ院だったっけあるHPでは『小宇宙の庭』と表現されていて、ぴったりのネーミング。でもそれを門番のおっちゃんに言ったところで理解してもらえない。(←あたりまえ)「石庭の有名な寺というのは・・・どれでしょうか?」と訊ねたら、「ようわからんけど、まず龍源院を見るといいよ。」 と言ってもらえました。うん、たしかそんな名だったなということで、まずは大徳寺の龍源院を観光してきました。(当初の予定では、所用⇒銀閣寺だった。。)では、『小宇宙の庭』をどうぞご覧ください ★大徳寺 龍源院★ 写真をクリックしてご覧くださいね。今度は雨じゃない日に、広い大徳寺内をゆっくり廻ってみたいです。ここはお手洗いが綺麗なところなので、お薦めです♪Natsu&Kei
February 13, 2008
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(昨日の日記の続きです)蒲鉾店で、ついあれこれ買ってしまいました。蒲鉾って・・・けっこう重たい。。さらにずっしり重たくなったバッグを持ってとりあえず通りがかりにある史跡の『聖福寺』を見学。12月の半ばで、紅葉が見頃でした。その後、これからどうしようかと悩んでしまい無駄に時間を過ごしました。結局は一旦博多駅に出て、それからふと「冬の海が見たい」と思い、歴史の教科書に出てくる『金印』で有名な志賀島に行くことに。JRを乗り継いで西戸崎まで行き、それからはフェリーで志賀島へ。ああ、これが志賀島かあ。フェリー乗り場にある観光マップを見て、「金印公園」に行ってみようと思いました。片道1.6km。ふだんなら歩ける距離だけど、今日は荷物が重い。できるだけ歩きたくない。そう思っていたところにちょうど島のバスが来たので、飛び乗ってしまいました。そして・・・降りるバス停をちゃんと確認していなくて、2つ過ぎたバス停で降りるハメに。。初めての場所で距離感覚が全くわからない。でも、とにかく歩くしかない。そうあきらめて海岸沿いをとぼとぼと歩いていました。おかげで「冬の海」はいっぱい見て撮ったけど。志賀島(福岡県)(アルバムです。歴史に興味のある方はどうぞご覧下さい)やっと志賀島のフェリー乗り場に着き、帰りは博多までフェリーで出ました。博多埠頭から歩いて博多の繁華街の天神へ。博多埠頭で海を見つめるアシカたち。志賀島でたくさん歩いて疲れていたけど、街の風景と動物さんたち(私の元気のもと)を見て、再び元気がでました。天神の街で無駄にぶらぶら歩き。これで時間と体力をかなり使ってしまいました。夜景を撮るために三脚を持ってきたものの、一人でいるときは荷物の心配などで落ち着いて撮れず、悲しいくらいにブレ画像ばかり。最後に着いたキャナルシティでは、いよいよ時間がなくなってて、慌てて撮りました。ああ、各所で無駄に歩いた時間が勿体無い。。キャナルシティを出てからは、マジで早歩きで空港に向かいました。荷物が重いだの足が痛いだの、そんなこと言っていられません。必死になった甲斐あって、飛行機にはちゃんと乗れました。晴れていたので、夜の上空1万メートルからでも下界の光がよく見えました。画像は博多の中心街キャナルシティの、昼と夜の画像です。どうぞご覧下さいませ。 ★キャナルシティ(福岡市)★ 写真をクリックしてご覧くださいね。 コンサートでは本当に幸せな時間でした。そして今回は とっても疲れた旅でした。。Natsu&Kei
December 18, 2007
♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠実は昨日と今日(12/13,14)の2日間で、ちょっと遠くまで行ってました。中部国際空港(セントレア)の初体験ですホント久々の飛行機に、心がウキウキしましたしかし出発の朝は4時過ぎに起床。動物さんたちの2日分の世話をして、5:15 に家を出て、JR⇒名鉄でセントレアへ。金山で乗り継ぎや空港でのチェックインなどの要領がつかめなくて少々手間取ったものの、なんとか 7:25 のフライトに間に合いました。空港では、バッグに入っていた刃渡り3cmの裁縫用ハサミが検査に引っかかり、機内持ち込み不可で別封筒で荷物室へ。へえ~。。今はこうなっているのね。定刻の 7:25 に飛行機が滑走路へ移動開始。さあ、いよいよ Take Off !・・・と思ったら、あらら・・???飛行機が滑走路に進まない。機長からのアナウンスで、機体に不具合があるため、念のための整備で駐機場へ。結局1時間半、フライトが遅れました。そんなあ~~。。朝早く起きたのにー。。私はたまたま特に予定がなかったからいいけど、そうはいかない何名かの方は、客室乗務員と打ち合わせて別便に乗り換えていきました。さて、そんなトラブルからスタートした今回の旅は、振り返ると体力的にキツイ旅でした。14日の帰りは名古屋行きの最終便で、帰宅は11時半だったし。。写真の整理にもまだ時間がかかるので、今日はまずその予告編みたいな日記になります。また後日、読んでやってくださいね13日の木曜日。久々の飛行機で、ウキウキしていました。地上は雨が激しく降っていたけど、雲の上は別世界です。14日の金曜日の昼前。理由あって、この蒲鉾屋さんにわざわざ行きました。店内は時間帯によっては、かなりの混雑だったようです。「冬の海が見たい・・・」 そう思ってここに行ってみたけど、下調べ無しで行動したために、たくさん歩くはめに・・・。地図を見ても道がよくわからず、重い荷物を抱えてたくさん歩きました。この夜景を見て、あちこち夜景を撮ってて、ふと気がつくと最終便のフライトまでの時間がない!!大慌てで早歩きし、息を切らして空港まで向かいました。♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠ ♠
December 14, 2007
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(昨日の日記の続きです)今回私が岩村に行ってみたいと思ったのは、城址が見たいというより、城下町が見たかったのです。先日とあるサイトで城下町の写真を見て、正直驚きでした。岩村の城下町って、こんなにいろいろ見所があったのかと。(岩村の皆様、こんな言い方してごめんなさい!)というのも、10年ほど前にここに来たときは、たしか店らしきものはどこも開いていなくて、ただの古い町並みだから、まあいいかなとスルー城址に直行したのです。だから岩村駅で降りてきたたくさんの人を見て、皆さんどこに行くのかしら?と思いました。私たちの後にいた老若男女の10人くらいの集団は、てっきり岩村の親戚を訪ねた人々と思っていましたでも皆さん、全部ふつうの観光客でしたパンフレットも何種類かちゃんとできていて見所が紹介されていて、見ていると興味をそそられます。もしかしたらこの数年の間に、町おこしとして何もかも整えたのでしょうか。岩村といえば、五平餅。横着な観光地では、みたらしや五平餅を保温ケースに入れて作りおきして出すだけだけど、ここは違います。ちゃんと焼きたて。だから、すっごく美味しい~~これはお薦めです ★岩村の城下町★ 写真をクリックしてご覧くださいね。岩村の町はなかなか面白い場所でした。穴場の観光スポットかも。Natsu&Kei
November 14, 2007
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆一昨日の話です。(やっとアルバムがまとまりました)少し前の地元紙の新聞で、愛知県小牧市の岩崎という地で、古墳の発掘調査が進んでいるという話が載りました。そして11日に現地説明会があると。古墳が好きな夫が見たいというので、午前10時半からの説明会に出かけ、その後は岐阜県恵那市の岩村に行ってきました小牧市といえば、自分が8年ほど住んだ市。お城がある小牧山は知っているけど、近くに岩崎山ってあったかしら??(標高55mで、ちゃんとありました)あれ??岩崎山ってなんか聞いたことが・・?(1584 小牧・長久手の戦いで、秀吉軍が陣を敷いた場所でした)また資料によると、岩崎山は名古屋城築城の際に、加賀前田藩の御用石切場として大量の石材が持ち出されたそうです。説明会には、歴史ファンというよりも、地域の方々がたくさん集まっていたようでした。自分の住まう地域で、古墳が・・ほお~。。そんな感じで。アルバムは現地説明会の様子です。皆様もどうぞお気楽にご覧くださいませ岩屋古墳 (07-11-11)岩崎山を探訪した後は、国道19号を恵那の岩村方面へ。岩村城址は、私は過去に3回行ってます。しかし、中津川市の苗木城址のときと同様に大きなストレスと闘ってきたあの10年間は、「○○に行った」という記憶はあれど、そこに何があったかという記憶は全然ないのです。だから今回は、初めて岩村城址を記憶に残せました夕暮れ時でもう暗くなりかけていたため、暗くてピントの甘い画像が多いです。でもまあ、歴史愛好家がこういうのを楽しむのだなと思って、こちらもどうぞ気楽にご覧くださいませ。 ★岩村城址★ 写真をクリックしてご覧くださいね。 明日の日記は、岩村の城下町をご覧くださいね。Natsu&Kei
November 13, 2007
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日は夜10時から、NHKの『その時 歴史が動いた』を見ていました。歴史は全般的に好きだけど、その中でも特に興味がある幕末の話。今回の番組は、高杉晋作のほうではなく、奇兵隊そのものにスポットを当てたもので、なかなか面白いものでした。(以下は番組のまとめ+α です)◆『奇兵隊』◆動乱の幕末。諸外国からの攻撃に対して長州藩の武士たちは無力だった。新しい組織の軍事力が必要と感じた藩士の高杉晋作は、『志しと力量があれば』、と庶民から隊士を募集した。郷土防衛の気持ちだけでなく、生活の糧を求める場としても、若者たちは奇兵隊に集まった。1858年の開国以来、物価は高騰し外国からの攻撃で町は荒らされる。でも武士たちは自分たちを守ってくれない。長州藩の各地で郷土防衛の志しを持つ庶民の部隊が次々と生まれる。商人たちで作る「朝市隊」相撲とりたちで作る「角力隊」 (すもうたい;これは 「力士隊」として有名)僧侶たちで作る「僧練隊」 (お坊さんもじっと座って 念仏を唱えるだけではいられなかったのね)弾丸を紙で作る女性たちの「パトロン隊」ところが諸隊と武士たちとの間に対立が深まり、やがて事件が起こり奇兵隊は一時解散となる。しかし 1864年、四国連合艦隊下関砲撃事件が起こる。これを機に、武士たちから侮られて追放されていた奇兵隊が再び呼び戻され、戦場の第一線に立つ。身なりは貧しくとも、士気は大いに盛り上がっている奇兵隊。戦場に出るまでの1年に培ってきた軍事力で外国軍を追い払ってしまう。その後の1865年、今度は幕府が長州征伐のために大軍で押し寄せる。それも諸隊と庶民が力を合わせて、幕府軍を撤退させてしまう。時代は明治に。新しい時代を作る原動力となった奇兵隊は、戊辰戦争でも東北まで遠征し活躍する。しかし、新しい時代のためにあれだけ貢献した奇兵隊であっても、その後に待っていたのは過酷な現実。手厚い処遇どころか、新政府の近代軍創設に伴い隊士の強制的な除隊が始まる。志しだけでなく生活していく糧でもあった隊。これに抗議する隊士約2000人が武装蜂起。やがて新政府によって鎮圧され、100人余りが処刑される。これを命じたのは、かつて長州藩のリーダーとして隊士たちと共に戦い、そのときはもう新政府の高官になった木戸孝允だった。身分が低いゆえに冷遇され、必要がなくなればあっさりと切り捨てられた奇兵隊。でも人々の心には深く刻まれ、今でも供養する人が絶えない。パンの耳をバターで焼いて砂糖とハチミツをまぶしたもの。庶民の味ね♪Natsu&Kei
October 31, 2007
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆今日の日記も、大須の大道町人祭についてご紹介します。(以下、公式ガイドブックを参照)この祭りの呼び物である「おいらん道中」。一般公募で選ばれた女性たちが、艶やかな花魁姿で登場。(花魁の衣装は約20kg!)傘持ちやお供の男衆、かむろや新造を引き連れて、時代行列を繰り広げます。大須大道町人祭 おいらん道中◆花魁(おいらん)とは江戸時代に吉原遊郭の中で位の高い遊女がこう呼ばれました。花魁を揚げる場合は揚屋と引手茶屋を通さなければならず、花魁が呼び出されて遊女屋から茶屋まで向かうことを『花魁道中』といいました。花魁には教養も必要とされて、花魁候補の女性は幼少の頃から徹底的に、古典・書道・茶道・和歌・三味線・囲碁などの教養や芸事を仕込まれました。花魁を揚げるには莫大な資金が必要で、一般庶民には手が出せない「高嶺の花」でした。◆大須と花魁大須は今から約400年前の名古屋城築城の際に、寺町として拓かれました。寺の広大な境内では参拝に訪れる人のために芝居小屋などができ、大いに賑わいました。明治時代になると大須観音の裏側に遊郭が設置され、大正時代に遊郭が移転するまで、一大繁華街として発展しました。参考:東京の両国にある江戸東京博物館の、花魁の展示Natsu&Kei
October 23, 2007
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(昨日の日記の続きです)大和ミュージアムでは、3階のフロアーが船の構造に関する展示室と、未来を想像する展示室になっています。特に未来の展示室では、アニメの『宇宙戦艦ヤマト』に関する資料がたくさんあり、これは『ヤマト』ファンにはたまらない場所でしょう。今回はじっくりと存分に展示物を楽しみました。そして建物を出る前に記念のお土産を買い、ほとんど休憩ナシで過ごした約5時間。ミュージアム周辺の景色を簡単に写真に撮り、それから、今年4月にオープンしたばかりの『てつのくじら館(海上自衛隊呉史料館)』を見学していきました。この史料館には、ふだんなかなか知ることがない海上自衛隊の任務が紹介されています。最も大きなテーマが『掃海』(そうかい)です。戦争が終わったとき、日本を囲む海には、太平洋側にも日本海側にも、機雷が無数に落とされていました。この機雷を除去して、安全な航路を確保する。この機雷を除去しないことには、戦後の日本の発展はありえない。生き残った旧海軍の技術者たちが総力を上げて、この無数の機雷を、まさに再び命掛けで、除去していきました。そしてこの掃海作業は、海上自衛隊が現在でも、よりレベルアップした機雷を相手に、世界各地の海で続けられています。こういった資料も、本当はじっくり見ていきたかった。しかし、てつのくじら館に入る頃にはさすがに疲れて重い荷物を持って歩く気力が出ない。。せっかく自衛隊の方が、「潜水艦も見学していってください」って言ってくれているのに。そうだ、今回は呉市内にある他の史跡は全然見ていないから、また来年あたり呉に来て、そのときにじっくり見よう。午後3時過ぎに遅い昼食をしながら、もう来年は・・なんて考えていましたああ、名古屋へ帰るのに、そろそろ広島市に移動しなくちゃ。広島駅に向かう列車には、大和ミュージアムで買ったお土産を持った人が、かなりたくさん乗っていました。(プラモデルの箱を4つ抱えて、すっごく嬉しそうな中年男性も。かなりのマニアですね・・)やはり『大和』は、時代を超えた今でも、日本人の誇りであり魂なのですね。 ★大和ミュージアム(5)★ 写真をクリックしてご覧くださいね。また呉に行って、じっくり見学してきたい。その気持ちを忘れないように、土産で買った戦艦大和のストラップを携帯に付けました。キティちゃんのは、TULIPコンサートでの土産♪Natsu&Kei
September 22, 2007
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆(昨日の日記の続きです)大和ミュージアムでは、主に戦争関連と船舶に関する資料の展示となっています。展示をみていくうちに技術の進歩に感心して戦争を肯定するようになるのでは?ここを知らない方なら、そんな心配も起こるかもしれません。しかし、呉の歴史コーナーの解説をじっくりと読んでいると、戦争で命を散らした人たちの言葉が、深く心に響きます。自分たちは何故こんなことをしているのか。自分たちは何のために死地に赴くのか。映画 『男たちの大和』 ででてきたあの言葉だけでなく、命と引き換えに遺してくれた数々の言葉を読むと、平和を守ることがいかに大切かを、ただただ思うばかりです。◆解 説(大和ミュージアムの資料を参照)◆『敗れて目覚めよ』進歩のない者は決して勝たない。負けて目覚めることが最上の道だ。日本は進歩ということを軽んじ過ぎた。私的な潔癖や徳義にこだわって、本当の進歩を忘れていた。敗れて目覚める、それ以外にどうして日本が救われるか。今目覚めずしていつ救われるか。俺たちはその先導になれるのだ。日本の新生にさきがけて散る、まさに本望じゃないか。(戦艦大和に搭乗した 臼淵 磐(うすぶち いわお)大尉 の言葉) ★大和ミュージアム(4)★ 写真をクリックしてご覧くださいね。昨日ご紹介した、戦艦『大和』の模型の写真を一部差し替えました。先日UPしたときより、いい写真があったので。よろしければ、再度そちらもご覧下さいね 明日はミュージアムの周辺をご紹介します。Natsu&Kei
September 21, 2007
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