旅行記 クライストチャーチ '18.09月 0
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どちらかというと、私はずっとそれを母の好みだと思っていた。母方の祖父は生前、俳句に書に絵画にと多趣味な人で、俳句などは自身が会員の俳句雑誌「ホトトギス」でよく賞をもらうほどだった。座敷には、祖父の一句と石ころを磨いて拵えた蛙の置き物が飾ってある。また、酒好きだったという祖父のお気に入りは、七福神が描かれた九谷焼のぐい吞みだったと母から聞いていた。そんな祖父の血を受け継いだ母は、高校卒業後に芦屋の知人宅に下宿をし、なんばにある高島屋でバイトをしながら田中千代服飾学園で洋裁とデザインを学んだ。娘である私から見ても人とは違う独特の個性とセンスに、子供の頃より母には敵わないと思ってきた。ただ、私の中では母のイメージと砥部焼はどこか結びつかず不思議にも思っていた。(砥部焼伝統産業会館)「家にある砥部焼は、全部父さんが買ってきたのよ。」父が亡くなって3年、時折母が語る父は私の知る父とは異なっていた。仕事一筋の父だったが、やきものが好きで単身赴任先の松山から車ですぐの場所にある砥部焼の窯元をよく訪ねていたという。高知に居た時は、大きな皿鉢料理の器を何枚も買って母を呆れさせたそうだ。それは、器など全く興味がない父だと思っていただけに意外だった。いや、思い込んでいただけなのかもしれない。床の間の真ん中にでんと置かれた大きな壺も、父が窯元で選んだ砥部焼だった。(同会館)「今の天皇陛下が皇太子時代に来られた梅山窯を、知り合いの調停委員さんに紹介してもらったそうよ。」(同会館)砥部焼伝統産業会館で地図をもらい、梅山窯を訪ねてみる。売店に所狭しと積み上げられた器はどれもこれも見慣れたものばかり。(同会館)帰宅して、家にある砥部焼の皿を裏返すと全てにある「梅」の文字。知らぬ間に梅山窯の砥部焼に囲まれて育っていたことを、本日窯元で知る。
2018.01.16
時が経ったので、許される範囲のことを少しだけ書いておこうと思う。去年の11月、最高裁より裁判員候補に選ばれたという通知が分厚い封筒に入って送られてきた。裁判員かあ。まさか自分が候補に選ばれることなどあるものかと、この制度が決まった当初はざわめく周囲とは裏腹に全く関心を持っていなかった。だが裁判員制度が始まって8年、当時は無関心だった私も、3年前に父を亡くしたことでできることなら参加してみたいという気持ちに変わっていた。父は長年裁判所に勤めてきた。父のように黒い法服を着ることはないが、同じように法廷に立ち合う機会があれば、父が生涯をかけて貫いた仕事を何らかの形で感じ取ることができるのではないか、今も本棚にずらっと並ぶ法律関係の書籍を眺めながらそんな風に思ったのだった。そして、私は裁判に参加する機会を得た。今回の起訴内容は強盗致傷。最高無期懲役が科せられる罪ゆえに裁判員裁判が執り行われるという。裁判所側は、裁判官3名、裁判員6名、補充裁判員2名の計11名。裁判員が一人でも欠ければその裁判は成立しないことから、補充裁判員も裁判員と同じように最初から最後まで裁判に立ち合うことになる。ただし、裁判員は法廷で質問することができるが補充裁判員は許されず、また審理後の評議(裁判官と裁判員が話し合って有罪か無罪か、有罪の場合はどのような刑に処するのかを決める)の場において多数決を行う際の投票権は補充裁判員にはない。テレビで裁判の場面を目にしたことはあるが、当然ながら父は一切の仕事を家に持ち込まなかったため、法廷に入るまでは実際の裁判とはどんなイメージでどういう流れになるのかわからなかった。裁判員は裁判官と一緒に法壇後ろの扉から入場する。座る場所も裁判官と同じ法壇上。私の席は裁判官の真横、中央に近い法廷を見渡すのにちょうどいい場所だった。初めて法廷に入る時は緊張も高まり、心臓のドキドキ音が耳に届くほどであったが、いざ入場すると冷静に周りを見、話を聞く自然体の自分がフシギだった。また、法廷前に起訴内容を見せてもらい、裁判長が今回の争点はここだよと具体的に言ってくれていたおかげでスムースに話に入っていけたように思う。冒頭手続きから判決までの6日間、かなり真面目に頭を使い、私なりに真剣に考え、時に悩んだりもした。同じ法廷に参加をし、同じ資料を読みながらも11名それぞれ考えは異なる。その異なった考えを十分な話合いから一つの答えへと導いていく。自分の考えに迷いが生じても、裁判官の皆さんがその悩みを受け入れ、認めてくれる。裁判員にならなければ関わることのなかった人たちだが、裁判長が仰っていた通り、私たちは11名で一つのチームになっていた。疑わしきは裁かない姿勢はなにも裁判所側だけでなく、丁寧に話を引き出し物事を見極めようとする検察側の態度にも好感が持てた。いい経験になったし、司法に対する信頼も深まったように思う。また、裁判長のイメージも変わった。これまでは閻魔大王という印象だったが、今はまるでお釈迦様みたいだと思う。閻魔大王は検察側か?笑そして、ああ、これが父の生前であればなあと、勉強になった分余計にそう思った。父ならばどんな捉え方をしただろう。父ならばどんな言葉を被告にかけたことだろう。私は幼い頃から厳格な父が苦手で、だから法曹界はまったくもって興味がなかった。自分から一番遠い仕事だと思っていた。しかし、今は思う。もしも学生時代に、せめて20代でこういう経験ができていたなら、私も法曹界の門を叩きたかったなと。素直になれなかった自分を悔いた。その後悔さえもいい経験になったと感謝している。裁判員裁判の一切が終わった後、裁判員バッチをもらった。今も父の仏前に供えてある。
2017.07.23
私が大学4年の時、あるボランティア活動で高校1年生の男の子と知り合った。当時、私が可愛がっていた女の子の幼馴染みで、ちょっとやんちゃな部分を持った、友人は多いだろうが、どちらかというと一匹オオカミ風の彼だった。そんな彼と仲良くなった経緯は詳しく覚えていないが、彼の家に遊びに行ったこともあるし、私が大学を卒業して地元に戻る時には送別会に手作りのケーキをご馳走してくれた。彼は小さい頃からお菓子を作るのが好きだった。「売ってるケーキや本の通りに作ったケーキは甘すぎるだろ。だから、甘さ控えめのケーキを自分なりに作ってるんだ。」確か、高校生の彼がそう話していたのを覚えている。それからしばらくして、彼が東京の製菓学校へ入学したことを知る。彼が東京にいる間、たった一度だけ電話で話したことがあるけれど、その後は疎遠になっていた。それでも、東京や神戸で修行を積んだのち、広島でロールケーキの専門店を開いたと風の便りで伝わってきた。Facebookとは、こういう時に役立つものだ。仲間を通じて、彼と10年ぶりに連絡を取るようになった。そして、昨年もちょうどこの時期、私は彼にロールケーキを送ってくれるようお願いした。すでに飲み込みが悪くなっていた父も、彼のロールケーキは美味しく食べられると喜んでいたからだ。あれは、1年前の11月3日。朝、デイサービスへ行く準備をしていた父が転倒し、頭を強く打ってしまった。念のため救急車を呼んだのだが、意識があったために病院から少し後に搬送してほしいとお願いされた。それなら朝食もまだだから何か食べとこう、ということになった。「ロールケーキが食べたい。」いつも食べてるパンでも、ご飯と味噌汁でもなく、彼のロールケーキを食べると言うのだった。そして、それがあっけなく逝ってしまった父のわが家で食べた最後の食事となった。葬儀などの一切が終了し、少し落ち着いた頃、私はそのことを彼に伝えた。正直、最後の食事が彼のケーキということが嬉しくもあった。「最後に食べてもらえるのは、食べ物を作る仕事をしている人間からすると、名誉なことだねぇ。なんだか違う喜びを感じました。子供として立派に責任をはたしたね、picchuやん。」じーんとした。先日もまた、父の想い出の品として一周忌法要のお供えも兼ね、お世話になっている方々への贈り物として取り寄せた。「あんな上品な生地は初めてです!」贈ったものが、そうやって喜んでもらえることは贈り主である私も誇らしい。早速彼に報告。「おおー! ありがとう〜!プレゼントする人と、作ってる人が上品だからかな。(笑)」確かに、上品な生地。素朴で素直な味は、彼そのものがよく表れている。喜ぶ彼にまだ伝えていないことだが、彼のロールケーキは一年前よりも一段と美味しくなったと私は思う。毎年、父を偲びながら彼のロールケーキの進歩を楽しむ秋にしたい。
2015.11.09
11月6日の朝、美しいお花を抱えた男性がわが家の前に立っていた。見事なカサブランカにベージュのガーベラ、薄いピンク色したカーネーション、その優しい花達の向こうにある男性の顔は隠れていた。玄関を開けた母は、「こんなお花頼んでない!」と慌てたらしい。(笑)「今日がちょうど一周忌だと聞きまして。」それは、昨年父の葬儀でお世話になった町内の葬儀屋さんだった。早いもので、父がこの世を去って一年が過ぎた。その間も、折に触れ父を偲んでわが家を訪ねてくれる方々はいた。以前、ブログにも書いたデイサービスの青年もその一人。つい先日、「そろそろ一年になると思って、胸がざわざわしたんです」、とお参りにきてくれたばかりだった。だが、葬儀屋さんが一周忌になぜ?「昨日、お宅の院主さんとお会いしまして。」聞けば、前日にわが家の檀那寺の院主さんが、その葬儀屋さんの会館で一年ぶりにおつとめがあったとのこと。どこか心に残る院主さんだったので声を掛けたというのだった。そこで次の日にわが家で一周忌の法要があることを聞き、沢山のお花を抱えてお参りに来てくれたのだった。「ちょうど院主さんとお会いして、今日が一年のまわりめやぁ言うやないですか。ちょっと変な言い方やけど、こんな偶然があるのかと嬉しくなってな、私も手を合わさせてもらおうと思ったんや。」去年の葬儀の時もそうだった。彼はまだ35歳の若さなのだが、そのくだけた言葉にも心遣いにも優しいぬくもりがある。ミスのないマニュアルに沿った形式だけの段取りとは違う、あったかーい気持ちを故人にも遺族にも与えてくれる。親不孝者の私が父にできた最後で最高のプレゼントが、彼との出会いだったと思っている。正直、お葬式で感動するなんて、それこそ変な表現だが、あの時の感動は今も心に残ったままだ。「Hさんのお葬式は、僕も印象に残ってるから。」私が彼との出会いを父にプレゼントした気になっていたが、一年経った今もこうした人とのつながりをもらっているのは私の方だったのだ。父も母も私も、本当に幸せ者だなと、あったかい気持ちが心の中いっぱいに満ちている。
2015.11.08
先週の日曜日、またも母と愛犬2匹を連れて彦根を訪れた。今年の4月に彦根城へ花見に行って以来、威厳ある天守閣にお濠の趣きといい、城下町の雰囲気といい、私も母も彦根をすっかり気に入ってしまったのだった。また、彦根といえば江戸時代、城主の井伊氏は茶の湯にも長けており、なので美味しい菓舗が沢山あるのも嬉しいところ。とりわけ私たちの好みと合ったのが老舗の「いと重」である。その代表銘菓である「埋れ木」は高松三越にも入っているのだが、私が行くときはいつも売り切れで悔しい思いをしていた。今回、その「いと重」での買い物も楽しみの一つにあった。彦根城外濠に面した「たねや」に多くの人が流れる中、少し奥まったところにひっそりとその本店はある。「埋れ木」は一番に頼んだ。「道芝」と「あわの海」はお盆のお供えにと取り寄せし、すでに頂戴していたので別のものをと店内を見回した。目に留まったのは美しい生菓子。銀杏などの秋らしい造形美の生菓子の中で、秋桜のピンク色が可愛いと思った。そして、その愛らしい秋桜を眺めていたら、父が生前よく聞かせてくれた京城(現ソウル市)の想い出が脳裏に浮かんだ。京城生まれで、終戦間近までそこで暮らした父の子供時代、この季節は家の裏の空き地は一面秋桜で埋め尽くされていたそうだ。その美しい情景は侘しさと相俟って、幼かった父の心の奥深くに焼きつけられたのだろう。秋桜を見ると京城を思い出す、毎年秋になるとそう言っていた。この和菓子を父の仏前に供えよう、そう思いついた。「父さん、今年も秋がやって来たよ。」お鈴を2回鳴らし、想像でしかない父の故郷を偲びつつ手を合わせた。
2015.10.09
11月29日は私の42回目の誕生日だった。早いものだ。四十路に入ったばかりと思っていたら、もうその5分の1も終わってしまった。中身の伴わない年の重ね方をしてきたことへの後悔、年々増しているように思う。(苦笑)さて、先月受けたケアマネの発表は後10日足らずであるが、その合否に関わらず、私の思う資格の勉強を今年中にスタートさせるつもりだ。それは社会保険労務士である。もう随分と前から気になる資格であったが、ひと月半ほど前であったか、亡き父が「今回の法改正、試験に出るぞ」と二度三度私に忠告してくれていた。ケアマネを受験する前後であったし、父とはそんな話したこともなかったのに、「何故そんなこと?」と内心思っていた。根っから法律畑の父であったから、父が満足する資格ではないにしろ何かしら法律に関わる資格を取って欲しいと思っていたのだろうか?それとも、私の内に秘めた思いに気づいていたのだろうか?今となっては知る由もないが、どちらにしろ父の最後の思いを無視したくないと思っている。来年8月の試験には間に合わないだろうが、とにかく始めよう。それが42歳の私の決意。*その42歳を迎えた日、私は母を連れて奈良県は桜井市へ長谷寺詣でに出掛けた。牡丹の名所である長谷寺だが、紫陽花の頃も紅葉の時期も素晴らしい景観である。私は大学時代に一度と、そして、ワーホリビザでNZへ旅立つひと月前の2001年6月とすでに二度訪れたことがある。しばし日本を離れる私に両親が計画してくれた旅だった。紫陽花を眺めながら、汗ばむ陽気の中300段あまりの石段を上った。まだ70になったばかりの父と60代だった母は、私よりも勢いよく歩いていたように思う。そんな父を偲ぶ意味も込め、母の思い付きもあって急きょ決めた誕生日の参詣。雨が降ってはいたものの、それが逆に赤や黄色も落ち着いた色合いを見せ、しっとりと古き趣きに甚く感銘を受けたのだった。いいお詣りになったと思う。
2014.12.02
父が他界して20日足らず。院主さんの話にあった「しだいにお寂しゅうございます」の意味を噛みしめる毎日である。母方のおばあちゃんっ子であった私は、父と祖母の確執に次第と父への反発を抱きながら成長した。三姉妹の末っ子という甘えも人一倍あったのだと今ならわかる。だが、そんな我儘いっぱいの私に、父は最期を看取ることを許してくれた。そして入棺の際、足元でいた私に父は信じられないほど柔和で幸せそうな表情を見せてくれた。生前、私には見せたことのない顔だった。妻、子、孫、ひ孫、妹達に抱えられて、もしかしたら父の人生で一番の喜びの瞬間だったのかもしれない。父に対する感謝の気持ちが湧き上がると同時に、だがそれは父を傷つけてきた自分を永遠に許せなくなる瞬間でもあった。「しだいにお寂しく」無性に寂しさと後悔の念だけが続いている。*そんなある日、母が「高山へ行かないか」と言い出した。半年前、「高山にもう一度行ってみたいが、足腰が不自由になった今じゃ無理かな」と父が言っていたというのだ。飛騨高山の冬は四国とはくらべものにならないほど早いだろう。私は雪を懸念して、早々の高山行きを手配した。手配といっても、道中は私の運転する軽自動車なので宿を押さえるだけだったのだが。家族総出ということで2匹の愛犬も同行させた。母が助手席、後部座席に犬が自由に寝転がれる空間を作った。通常なら8時間ほどで着く距離も、疲れも溜まってか仮眠を取ることも多くなり、片道10時間近くかけての遠出によく辛抱してくれたものと思う。その週末は気温がぐっと下がり、雪を避けたはずが積雪の中車を走らすはめとなった。高速では飛騨清見手前はチェーン装着と掲示が続く。チェーンもなくスタットレスタイヤでもなく雪に不慣れな私だが、とにかく行けるところまで行ってみようと前に進んだ。運よく気温が上がると同時に雨が降り、道路上の雪は溶けていった。父に感謝しながら高山市内へと降りた。市内はまだ紅葉が残っており、次第に天気も良くなって初冬というより晩秋の表情で出迎えてくれた。もう大丈夫だろう。安堵しながら宿へと向かう。今晩の夕飯は飛騨牛だ。母と「楽しみだね」と話しながら、呑気にハンドルを持つ。その夜は温泉付きの犬も泊まれる宿ということで、奥飛騨温泉郷に宿をとっていた。奥飛騨といっても高山市、それほど遠くはなかろうと深く思いもしないし調べてもいなかった。だが、そこは飛騨高山。瀬戸内に面したわが町のようにいくはずもない。再び雪を被った山々が現れた。行きながら分かったことだが、どうやら宿のある中尾という場所は奥飛騨の中でも穂高に近い奥のまた奥らしかった。奥飛騨温泉と一括りで呼ぶくらいだから、その中にいくつもの地名があるなどと思いもしなかったのだ。まずい、今度は雪を避けられない。平湯というその辺りで最も標高の高い場所では雪は道路の真ん中まで覆っていた。ハンドルを改めて握り直し、息を呑みながら前を見つめる。この先、雪が増すのか減るのかさえ分からない私は、引き換えす場所の見極めすら難しかった。だが、ここでも父が守ってくれたのか、平湯を過ぎる頃より雪は道路上から姿を消していってくれた。無事、宿に到着。宿のご主人の勧めで、次の日は新穂高ロープウェイにて西穂高口まで登ることもできた。晴天に恵まれ、冬山では珍しく展望台からはこんな絶景が見渡せた。父も共に眺めていたに違いない。「しだいにお寂しく」もしかしたらそれが私が父にできる最後の親孝行かも、そう思えてもきた。
2014.11.24
*今も昔も変わらない「旧ソウル駅」。父にとっては、この場所が一番懐かしいように見えました。現在、その隣りには空港のように立派な新ソウル駅が並んでいます。:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:〈続き〉父は、私が小学校へ入学した頃から教育に厳格であった。将棋に夢中になっていた時などは、駒を庭に放り投げられたこともある。そして、よく怒られたものだ。そのような父であったが、他方では 四季折々に触れて私を各地へ連れて行ってくれた。春の夜桜、夏の仁川(インチョンを当時は日本語読みで"じんせん"と呼んでいた。)での海水浴。また、会社からの一泊慰労会にも同行させてもらった。年末には、会社から渡される大入袋(当時は10銭が普通であった。)を父からもらって喜んだものである。芳山町の次に移り住んだ新堂町は京城郊外にあり、自然の草花が溢れ、澄みきった水の流れのある小高い場所であった。私の家から10分余り登った山頂には、当時兵隊の管理下に置かれていた水源地があった。小学5、6年の私は、そこから東大門国民学校まで電車通学をしていた。上級学校への準備として、放課後は担任の先生の作成した問題集を頑張った。その頃からであろうか、自分の将来を少し考えるようになったのは、、。だか家に帰ると、やはりそこは子供である。桜並木に四季の草花、トンボや蝶が飛び交うその中で、時には水源地まで駆け上がり、昆虫等を取ったりと自由に遊んだものである。妹も4歳となり、50メートルほど下方のお宅へ毎日幾度ともなく行ったり来たりして走り回った。家の中にはオルドルという暖房器具があり、冬季の寒い時期にも気持ちよく過ごすことができた。夜は、遠く市内の灯りを窓から眺めていたものである。* * *老後に至った現在、私の人生を振り返ってみる時、私はわが国の歴史の中で激動の時代を、特に戦後は最低の生活を過ごしたように思う。しかし、その頃の気持ちとして自分の立場を特に不幸と思ったことはない。むしろ、その後の人生を頑張っていこうと心中に期するものがあった。このような私の人間形成ができたのは、あの京城での幼少時代、自然の中において、まさに童謡「故郷」のとおりの暮らしがあったものと思われる。本当に楽しい日々であった。京城における はげ山、南大門、京城(ソウル)駅、漢江(ハンガン・ソウルを流れる大河。現在はそこに人工の島"ヨイド"が浮かび、国会議事堂や放送局、大企業のビルなどが集まった政治経済の中心地となっている。)、そして幼き時代の友達等のことが走馬灯のごとく思い出され、今、感謝の気持ちでいっぱいである。
2008.09.28
*東大門の近くでしょうか、、。日本統治下の時代、この辺りは"芳山町(ほうざんちょう)"と呼ばれていたそうです。当時の面影のない街並みに、少し残念そうな父ですね。【'04.06.13】:*:*:*:*:*:*:*:*:*:*:~うさぎ追いしかの山 小鮒つりしかの川夢はいまもめぐりて 忘れがたき故郷~人はこの世に生を受け、その後は見えざる糸に操られ その生涯を終える。その中にあって、人生の晩秋近くになってくる頃には、自分の幼なかりし頃が無性に恋しいものである。朝な夕な時間も忘れ、時には自分一人で、また近所の友達と無我夢中で過ごしたことが非常になつかしく思われる。例え、その土地が現在 他国となっていようとも、自分の幼少時代に過ごした土地での生活が克明に思い出され、なつかしさを覚えるのである。今、私は77年という年齢に達し、自分の人生を振り返って見ると それは山あり谷ありで、その住まいも年数の違いがあるものの 転々と変わっている。その間、自分の人生に大いな影響を及ぼした時代を考えると、住まいの期間の長短ではなく幼少時代での生活であり、「故郷は?」と聞かれると、即座に幼少時代を過ごした京城(けいじょう・現 韓国ソウル)と答える。その故郷である京城での生活の中、心の中に刻まれていることを記し、故郷を思い浮かべてみたい。* * *私は昭和6年に京城で生まれ、小学6年まで暮らした。6年生の時に父を残してソウルを去り、母と5歳の妹とで母の実家へ身を寄せることになる。日本の激動の昭和の戦前・戦中・戦後のそれぞれの時代を、当時の人々同様に大変な生活であった。特に戦後の生活は、借家住まいで 食糧難のため、山を開墾する等をし、野菜や小麦を作り、一家の柱として働いた。その中にあっても、私の心の中では、幼少時代を過ごした京城での思い出をかみしめて頑張ったことを覚えている。私は京城で2ヵ所の住まいを経験した。一つは京城市街地での芳山町という便利な所で、そこには小学4年まで。他は、市の水源地(東大門より随分と東)があった新堂町(しんどうちょう)という郊外の山の手である。芳山町での生活は、父はアパートを経営し、自身は本町(現 明洞周辺)にあった三中井本店(デパート)に勤めていた。私は両親の8年目の長男で すくすくと成長。小学校は公立東大門尋常小学校(後に国民学校となる)で学んだ。その学校は、グランドは広く、大きなポプラの木が並んで植えられ、校舎は3階建ての立派な建物であった。相撲場やプールもあり、それらをよく利用した。近所の友達との思い出として、2、3年上の友達と時間を忘れて将棋をしたり、体を鍛えるために、数人で数キロ離れている京城神社(ソウルタワーのある南山の中腹。当時この辺りには、この他に乃木神社、東郷神社等もあった。)まで、日曜日の朝はランニングをして汗を流した。冬には、道路上でコマを鞭で打ち 回転させ、友達のコマとぶつかり合わせて争った。芳山湯という浴場からの帰りには、タオルがカチカチに凍り、身震いしながら帰っていた。私はアパートの皆さんに可愛がられ、お正月にはお年玉をもらっていた。日本各地から一緒になった夫婦が多かったようで、お正月にはあちこちで雑煮のお餅で言い争いがあるということを両親から聞かされた。一番の記憶は、1年生の時の秋季大運動会での騎馬戦である。先ず1年から3年までが紅白に分かれ相手の帽子を取り合い、その後で4年生以上も行ったが、その中でもただ一人私は最後まで走り回っていた。その時の母親達の驚きと笑いがなつかしく思い出される。〈続く〉
2008.09.27
*旧ソウル駅前にて、左から 母、父、姉、私。 【'04.06.13】いつの間に用意したものか、400字詰め原稿用紙が机の上に。。。先週末、またも私は両親と韓国料理屋さんへ出掛けました。お馴染み、ウォンさんというソウル出身の奥さんのお店。数ヶ月前から、ウォンさんのお友達がお店を手伝ってくれています。その奥さんは少し内気なウォンさんと違い、"難波のおばちゃん"といった風情の、元気いっぱい まるで太陽のような方。ウォンさんの温かい柔らかさに彼女の明るさが加わって、ますます居心地のいいお店になりました。^^さすが彼女も韓国が大好き☆持ち前のバイタリティーと人懐っこさで、何度も訪れた韓国で様々な体験をされています。その話を、クリクリと大きく目を見開いてお喋りする表情が印象的です。ましてソウル生まれの父にとってはこれ以上にない楽しみに!!このお店に来ると目が爛々と輝き、声までも高らかに、なんだか若返ったようになるのです。(*^_^*)この土曜日も、懐かしいソウルでの子供時代の話を興奮しながら話す父の姿がありました。美味な料理に弾む会話。ニンニクや唐辛子もいい刺激となり、顔の血色まで違ってきます。* * *その帰り道。ソウルを思い出すだけで これほど元気になるのならと、「今のうちに、ソウルでの記憶を文章に残してみては?」と提案してみました。父の知るソウルとは、戦前戦中の日本統治下の時代。韓国人からしてみれば それは最も屈辱的な時代ではあるけれど、当時 父は何も知らない子供だったわけですから、純粋にソウルの街を駆け巡った その視線で書けばいいと思うのです。「昔通った東大門小学校は、、、。僕が子供の頃は、市内を電車が走ってたんですよ。今の明洞を当時は本町といって、、、。etc」そんな他愛ない話を、あの時代のソウルの子供しか知らないことを徒然と書くのも悪くないのではと、、。今、父の机の上には原稿用紙が広がっています。心持ち、なんだか毎日が楽しそうです。^^いつか機会があれば、そんな父の日記をこのブログにも載せてみようと思っています。どうかその時は読んでやって下さいね。o(^-^)o
2008.09.25
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